2009年7月10日 (金)

普通郵便より遅い速達

月曜の朝、9時過ぎ、市内のかつては集配局だった郵便局から、県内宛に簡易書留速達の郵便物を出した。車で移動すれば約2時間の距離で、通常郵便で出せば大抵翌日には届いているところである。昨日の木曜日に、その送り先を訪問したのだが、まだ届いていないという。呆れた話である。

何のための速達なのか、ということで、今日の夕方、投函した郵便局に電話をした。配達記録から、今日の夕方届いたことが分かったのだが、月曜日の5時頃のあて先の市内の集配局に届き、その夜2回訪問したが2回とも不在だったので、木曜日まで預かっていたのだ、という。宛先には、事業所名も入れてある。一般の家庭なら、夜居る確率は高いだろうが、事業所を午後5時以降に何度訪れても留守だろう、と考えるのは常識だろう。速達である以上、夜訪問して不在だったとしても、事業所である以上、翌日の日中に訪れるのが当然の配慮であり、サービスでもあると思うのだが。

こんなことは、民営化以前の、集配局が市内に5箇所はあった頃の郵便事情では考えられない。地方の郵便局/郵便屋さんはとても親切で、番地や宛名が間違っていてもちゃんと届いたし、番地がなくても父親や母親の名前で子どもの葉書が届いていた。なかなか郵便局までいけない老人が、配達に来た人に貯金を預けたりするようなこともあったと聞く。「サービス向上」を謳い文句に進められてきた「民営化」以後、すべて失われてしまった「サービス」である。

小泉改革の「目玉」であった郵政改革。だが、かんぽの宿の売却に関わっての疑惑は解明されたとは言えず、法律に基づいて強行にそれにNoをつきつけた前総務大臣は、逆に辞職に追い込まれ、疑惑を晴らさないままの社長は居座っている。加えて、このサービスの低下の例を見ても、郵政「改革」がペテンであったことは良く分かる。

郵政改革ばかりではない。医療制度改革によって、多くの公立病院も危機に瀕している。市内の県立病院も、医師不足のために、改革以前にはほぼ受け入れていた救急医療が困難になり、隣の市に救急車が走る例が激増している。国立大学の独立行政法人化も、一部の有名大学を除いて収支が悪化し、半世紀前の古い設備を使って授業をしなくならないような悲惨な現実がある。

確かに、【改革】は必要だっただろう。けれども、小泉「改革」以降の一連の流れは、弱い立場の人々に過度な負担を押し付け、社会の土台を支える部分を破壊し、荒廃させた。疲弊する地方、崩壊する労働環境、悪化する家計……。こうした結果を見れば小泉「改革」の失敗は明らかである。

間違いを改むるに憚る事無かれ、という諺がある。小泉以降の自公政権が推し進めた改革は、国会論議の中で問題点が浮き彫りになっていたものも少なからずあった。けれども、歴代政権は強行採決や再議決によって矛盾に目をつぶり、問題点を改めずに人々の生活を荒廃させてしまった。改めるべき間違いを改められなかったのである。それは、政権担当能力の無さを示している。居座りは、国民生活に対するテロに等しい。

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2009年7月 1日 (水)

No More 《未来》の浪費

麻生首相と自公政権の迷走と混乱にはもはやコメントする値打ちすらないが、小泉〔改革〕以降の《未来》に対する浪費のツケはもはや隠蔽すら不可能な事態に陥ってしまっている。確かに、行政改革と財政改革は必要であり、改革は行わなければならなかった。けれども、あまりにも教育と福祉の予算を安易に削りすぎた。これは、自民党/自公政権と官僚による日本の《未来》に対する浪費であり、国会議員や上級官僚の退職金や給与、軍事費など、削るべき予算の順位を間違えている。

なぜ、教育と福祉予算の削減が《未来》に対する浪費なのか。小泉元首相が口にした「米百俵」の故事は、それを教育の振興に回すことで現在の結果としての未来を大切にしようとしたのである。けれども、教育予算の削減は、現在の利害のために未来の可能性を犠牲にし続けている。例えば、益川さんや小林さん、小柴さんなどのノーベル賞を受賞した研究は、直接産業に寄与するものではなく、理論研究・基礎研究の分野だが、大学の独立行政法人化によって産業と直接結びつく研究以外は軽視され、半世紀も前の設備をいまだに使わざるを得ない国立大学まで出てきている現実がある。つまり、未来のノーベル賞の芽を教育予算の削減が摘んでしまっているのである。

福祉予算の削減も、セーフティー・ネットの破壊につながり、未来を考えれば安心してお金を使えない状況に国民を追い込んで、内需拡大の足を引っ張っている。同じように雇用の流動性を志向しても、その闇の部分にも目を向けて、様々な形でセーフティー・ネットを整備したドイツやオランダと比較すれば、日本は短期的な利潤の追求に走る財界の要求にのみ耳を傾け、消費者でもある労働者にのみ負担を押し付けた結果、格差の拡大とネット難民、派遣村などを生み出してしまった。労働者の賃金を抑えれば、家計の収入も減少して所得税の税収が伸び悩み、家計が逼迫して逆に生活保護などの社会保障支出の増大をもたらすと共に、内需の足を引っ張ってしまう。それが、現在の経済情勢である。

結局、教育と福祉の財政支出の安易な抑制は、《未来》の浪費につながっていくのである。確かに、未来のための制度改革は必要である。けれども、それは安易な支出の抑制にしてはいけないのである。

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2009年6月26日 (金)

決断力と自信

麻生内閣の迷走・暴走が続いている。麻生首相率いる自公政権は、完全に政権担当能力を失っているが、麻生首相と自民党には決断力を失ってしまっているのだろう。なぜ、決断できないかと言えば、自信がないからであり、自信がないのはきちんと自分の前にある課題に向き合い、努力を積み重ねていないからである。それは、人生の道のりの中で自分自身に向き合い、課題に立ち向かい、越えてきた努力の積み重ね…というものが無かったからだろう。

そうした意味において、個人的には哀れだと思うが、それによって大いなる迷惑を被っている国民の立場からすれば怒りを覚える。歴史的には、日中・太平洋戦争を主導した東條首相も、人間的にはどうであれ、非常時の首相としての決断力に欠けていたように思われる。非常時に決断力の無い政治指導者に率いられる国民の不幸を思うと悲しくなる。

「若いときの苦労は買ってでもやれ」とか「波風体験は必要だ」という言葉を、見たり聞いたりすることがある。それは、ある面では正しい。シンドイ思いをするのは、自分の人生の中でのいくつかある壁の1つにぶち当たっているからだと考えられるが、その壁を越えられてこそ、苦労や波風体験が意味を持つ。それによって新たな力を得たり、人間的な成長や成熟につながったりするからである。だが、すべての人が自分の前に立ちはだかる人生の壁をうまく越えられるわけではない。逆に、越えられずに傷を負う場合も出てくる。問題は、その時の心の姿勢である。

人生の壁と、自分自身の能力不足にきちんと向き合っていったん諦める場合は良い。壁=自分自身の現在の課題を自覚することになり、それを克服するための努力を積み重ねられるからである。そのため、時を置いて同じ壁(課題)が現れたとき、それまでの努力の積み重ねによって、以前より越えられる可能性は高まっている。そして、壁を越えることができれば、人間としてさらなる成長・成熟することにつながっていくのである。

それに対して、自分の課題に向き合わずに、ごまかしたり、逃げたりする場合は悲惨である。不思議なことに、時を隔てて必ずといって良いくらい、同じ壁/問題に突き当たってしまうのである。そして、その場はごまかしたり逃げたりすることができても、人生において解決しなければならない課題は、少し時を隔てて、また自分の身に降りかかる。逃げたりごまかしたりし続ければ、どんどん自信を失い、決断できなくなっていく。麻生首相の行動はその典型であり、どれほど虚勢を張って自分や周囲をごまかそうとしても、結局は自分の身に返ってきて、より悲惨な状況に陥ってしまうのである。

だからこそ、真摯に自分自身に向き合い、壁を越えようとする努力が必要になる。当然、長い時間を必要とする場合も出てくるが、諦めずに努力を積み重ねることによって何とかなっていくものである。すぐに、うまくいかなくても、失敗が続いても、可能な努力の積み重ねが道を開いていく。無理な目標を設定して、短期間で壁を越えようとしても失敗してしまうことが多い。可能な努力を、自分の現実に応じて時には修正しながらも、続けていくことが「自信」につながり、それが決断力にもつながっていくのである。

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2009年6月16日 (火)

優駿/ORASION…決断と祈り

先日、久しぶりに20年ほど前の映画のVTRを見た。緒方拳と緒方直人の親子が競演している映画で、宮本輝の同名小説が原作の「優駿/ORASION」(1988年・日本/フジテレビ開局30周年記念作品)。仲代達矢や田中邦衛、石坂浩二などの名優や吉岡秀隆なども出演し、それぞれの持ち味を生かして好演している。

出演者の中で違和感を覚えるのは、和具工業の社長令嬢を演じる斉藤由貴だ。映画によっては持ち味を出しているのだが、この作品に関しては、ところどころで好演は見せるものの、全体のイメージとしては原作の物語と比較して少し泥臭さを感じさせる。私なら、同年代の渡辺典子か原田知世辺りをキャスティングしたかった。もう少し都会的に洗練された感じと意思の強さを併せ持つ味わいを出せれば、より一層面白い映画になったと思う。

ただ、物語としてはしっかりしている。風の強い日に北海道の小さな牧場・渡海ファームで生まれた一頭の仔馬。それは、牧場の息子・渡海博正(緒方直人)が初めて責任を持って世話をした仔馬である。和具工業の社長・和具平八郎(仲代)がこれを買い、オラシオン(スペイン語で《祈り》の意味)と名付けられる。だが、家族の中での様々な事情によって、その所有権は娘の久美子(斉藤)に、そしてさらには久美子の母親の違う弟であり腎臓に障害を抱えて病院から外に出ることすら出来ない田野誠(吉岡)へと移る。

運搬中の交通事故で前足に故障の危機という「爆弾」を抱えたオラシオン。けれども、渡海親子(拳・直人)や、久美子や誠、砂田調教師(田中)たちの思いを乗せてオラシオンは走り続ける。その背後で様々な運命が渦巻く。誠の死、平八郎の社長解任、渡海千造(緒方拳)の癌……。1800までは抜群の速さを誇るが2000以上では勝てなかった母親の戦績と前足の爆弾。それを思ってダービー出走を躊躇する博正や砂田。だが、久美子の決断と説得で、人々は日本ダービーへオラシオンを送り込む。ダービーの日を前に千造は亡くなるが、千造の、そして久美子や博正、砂田たちの想いを乗せてオラシオンは疾走する。そして……。

原作では、騎手の想いも丁寧に描かれているが、映画という枠の中では十分に寝られた作品であり、緒方親子をはじめとする俳優たちの熱演も光っている。政治の世界では「世襲」が問題になっているが、実力と才能があれば不満は出ないだろう。給付金の問題でも郵政の問題でも、麻生首相に久美子のような決断力があれば、また異なった結果となっただろう。能力のない人間が「世襲」しているから、「決断」が先送りされて状況が改善されずに悪化していくのである。映画を楽しむ心の隅で、そんな考えが頭を過った。

疾走するサラブレッド、そして北海道の美しい風景。2時間8分という時間を長いと感じさせない映画である。

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2009年6月11日 (木)

負担増のためには格差の是正が必要

国民の選択を受けていない自公政権の、現実認識能力に欠ける首相が、CO2削減目標として15%なる数字を発表した。だが、実は一般国民の家計への負担が一番重い。加えて、行財政の無駄遣いを放置した上で増税までぶち上げている。国民の懐は打ち出の小槌だと勘違いしているらしい。

だが、「小泉改革」以来、多くの国民は十分に苦難に耐えた。多くの国民が貯蓄を失い、仕事を失い、住居を失って路頭に迷う。頼るべきセーフティー・ネットは「財政再建」の名の下に縮小され当てにはならず、生活保護を打ち切られて餓死する人まで出る始末である。この上、さらなる負担に耐える余力があると、首相や政府与党が考えるのは勝手だが、負担に耐えられる余力があると考えるのはチョコレートの砂糖漬けよりも甘い「現実認識」ではないだろうか。

一般国民の家計を考えれば、それだけの負担増に耐えるためには、十分な家計収入が必要である。大企業が潤えば徐々に中小企業や一般家計にもその効果が現れるという「神話」は既に90年代以降崩壊し、その欺瞞は暴かれてしまっている。従って、国民に負担増を求めるからには、国民の家計の増収が必要なのである。

そのためには、格差の是正とセーフティー・ネットの再構築が急務である。首相と自公政権に、政権を担当する責任政党としての自覚と能力があれば、そうした現実を理解することはそれほど難しくないだろう。当然、今までの政策の失敗を認めて方向を招請する必要も出てくる。ところが、それが出来ないから国民生活の破壊と困窮がある。無責任な首相と無能政権はいつまで居座り続けるのだろうか。

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2009年6月 9日 (火)

戦争は知らない…フォークルの歌

ザ・フォーク・クルセダーズの歌の中に「戦争は知らない」という歌がある。個人的には、「はしだのりひことクライマックス」が歌っていたものが印象深いが、シューベルツも歌っている。作詞は寺山修司、作曲は加藤ヒロシ、青木望の編曲である。フォークル、シューベルツ、クライマックスとなるといずれもはしだのりひこが共通するが、その中でもフォークルは一番古く、この歌も半世紀ほど前の歌ということになるだろう。

 

野に咲く花の 名前は知らない だけども野に咲く花が好き 帽子にいっぱい 摘みゆけば なぜか涙が 涙が出るの

戦争の日を 何も知らない だけど 私に父はいない 父を想えば ああ荒野に 赤い夕陽が 夕陽が沈む

戦さで死んだ 悲しい父さん 私はあなたの 娘です 20年後の この故郷で 明日お嫁に お嫁に行くの

見ていて下さい 遥かな父さん いわし雲とぶ 空の下 戦さ知らずに 20歳(はたち)になって 嫁いで母に 母になるの

 

メロディーは明るい感じで覚えやすく、伴奏のギター・コード進行も簡単で、大学時代は歌声サークルなどでも歌っていた歌だが、明るく歌いやすい中にもしんみりとした情感があり、けっこう好きな歌である。

太平洋戦争の敗戦から20年後…というと1965年。その当時、日本の軍隊が戦場で直接他国の人々を傷つけたり殺したりすることはないと信じられ、国民は、昨日より少し豊かな今日、今日よりさらに豊かな明日を信じていたし、多くの人々が未来への希望を胸に抱きながら毎日を生きていた。この歌にも、それは表現されている。「嫁いで、母になる」ことは「幸せな未来」と同義語だとこの歌を聞いた人は感じたし、作り歌っている側もそう信じていた。

だが今は、明るい未来を単純に信じられる人はそれほど多くはないだろうし、結婚や子どもを産むことと幸せがそのまま無条件でイコールだと感じる人も少ないだろう。それどころか、社会には明日への不安や戦争へ至るかも知れない不穏な空気が渦巻いている。だからこそ、いっそう、この歌を噛み締めたい。戦争の体験は知らないまま一生を終えたい。だが、そのためには、努力が必要である。無理をすれば続かないが、自分のやれそうなことを探して、少しでも努力を積み重ねたい。

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2009年6月 7日 (日)

自我の確立と成熟

不登校やひきこもりの問題と関わっていると、心の問題としての自我の確立と関わらざるを得ない。自我の確立は青年期の課題だが、近代的自我の確立については大人となった日本人を見ていても、「弱さ」を感じる時がある。ましてや、思春期や青年期の子どもや若者を見ているとそうした例はいっそう増える。だが、本来の日本社会の精神的な伝統を考えればそれもまた当然かもしれない。「出る杭は打たれる」という諺があるが、「出る杭」こそ自我の確立の結果であるにも関わらず、現代日本においても、けっこう「打たれる」=周囲から攻撃される場合が少なからずあるからだ。

その意味では、不登校やひきこもりの例の中には自我の確立の課題に取り組んでいる場合が見受けられるのである。もちろん、本人が必ずそれを意識しているとは限らない。いや、意識していない場合の方が多いかもしれない。それでも、不登校やひきこもりという「壁」を乗り越えることで、自我は強くなる。その場合、不登校やひきこもりを経験しない子や若者よりも強い自我を獲得することもある。だから、周囲の大人の立場からすれば、不登校やひきこもりの経験も、そうした自我の確立の試練として乗り越えられるようにサポートできれば良い……と考えれば良いということになる。

ところが、「大人としてのサポート」には、それなりに自我の強さや深まりが必要となる。実は、大人の方が子どもに依存している例があったり、無意識のレベルで子どもの成長と巣立ちを受け入れられずにいたりする場合があるのだ。その意味では、子どもにとっての自我の確立は、周囲の大人に取っては自我の成熟の課題となる。これがまた、思いの外難しかったりもする。自我の問題は、人間の一生の課題とも言えるのである。

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2009年6月 3日 (水)

ウルトラマンでようやく700…

昨日の「ウルトラマン印象記…侵略者を撃て」で、このブログの記事の数が700となった。何だかんだと言っても、アクセスしていただく数は、1日平均で30は降らない。アクセスして読んで頂く方々の存在に支えられて続いている。ありがたいことである。

さて、このブログだが、当初は、1日に1回ということで書き続けたが、1年以上たってある程度自分なりに納得がいったのでその制限を外した。当初のペースを守っていればもっと早く700に達しただろうが、書くことが目的化してしまっては内容の低下が気になる。そう思って制限を外したのだが、果たして、一定以上の内容の質を伴っているかは難しいところである。ただ、自分なりの努力だけは続けたいと思う。

実は、700番目の記事を何にするかは数日迷った。政治や経済や国際社会の問題を取り上げるにしても、考えてみるとうれしいことや喜ばしいことはほとんどなく、腹立たしかったり気分が沈みそうになったりするニュースばかりが目白押しである。だが、せっかくの区切りの回であることだし、書いていて暗くなるようなことは避けたい。その結果が、あろうことかウルトラマンと相成ってしまった。でもまあ、それはそれで自分らしいのかも知れない。次は1000を目標に、無理をしない程度に続けていきたいと考えている。

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2009年6月 2日 (火)

ウルトラマン印象記…侵略者を撃て

ウルトラマンのシリーズでもっとも有名かつ人気のある宇宙人をあげるとすれば、多分、バルタン星人だろう。バルタン星人は「ウルトラマン」以外にも、「帰ってきたウルトラマン」や「ウルトラマン・パワード」等のシリーズにも登場するが、最初に登場するのがこの「ウルトラマン」の第2話である。

バルタン星人は、マッド・サイエンティストの核実験によって母星を破壊され宇宙を放浪している。地球の近くで宇宙船が故障して、その修理のために必要なダイオードを求めて地球に立ち寄るが、地球の環境が彼らにとって住みやすいということで地球を侵略しようとする。

この設定は、「宇宙船艦ヤマト」のガミラスとも似ている。ガミラスも、母星ガミラスが惑星としての寿命がつきかけていて海が強酸化して生存環境が悪化しているため移住の地を求めて侵略の手を他の星に伸ばしていた。その意味では、ガミラス人にとってデスラー総統は偉大な指導者であり、英雄であった。

もし、地球人がバルタン星人やガミラスと同じ立場に立たされたらどうだろう。多分、他の星を侵略をしてでも生き延びようとする選択に異を唱えない人の方が多数を占めるのではないだろうか。なぜなら、我々の地球は、もっと些細な理由で戦争を繰り返しているからである。

さて、バルタン星人の登場に際し、科学特捜隊のムラマツ隊長の慎重論に対して新兵器ハゲタカ(核ミサイル!?)の威力に絶大の自信を持ち攻撃を主張する声が上がる。そして侵略宣言とバルタン星人の巨大化に対しハゲタカを発射するが、バルタン星人には何のダメージも与えることは出来なかった。戦後21年目の昭和41年の夏から放映されているウルトラマンでのこうした《核》の扱いはなかなか感慨深い。核兵器は惑星をも簡単に滅ぼす一方で、侵略者に対して必ずしも絶対的な抑止効果は持たない……というメッセージあるいは製作者たちの思いがわずかなエピソードの中から見えてくるようである。

この回では、バルタン星人はウルトラマンのスペシウム光線によって倒され、バルタンの宇宙船もウルトラマンによって宇宙に運ばれ爆発する。そのセミをモチーフにしたインパクトの強い形状や分身・静止光線など多彩な武器で人気の高いバルタン星人だが、「核実験」のニュースが世界を駆け巡る今日において、いろいろと考えさせてくれるエピソードである。

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2009年5月31日 (日)

小西湖の天津飯

津からの帰り、夕飯時になってしまったので、久しぶりに伊勢市内の小西湖という中華料理屋によった。小西湖は神宮徴古館の下の方にある伊勢消防署の近くにある。基本的に中華料理は好きなので、新しい店を見つけると入ってみたりもする。辛口の四川料理も好きだが、天津飯も大好きで天津飯をたのむことも多い。ところが、何回か行っていたにも関わらず、日替わりランチを頼んだりすることが多く、小西湖で天津飯を頼んだことはなかった。

今日は、そう言えばここで天津飯を食べたことはなかった…と思い、天津飯をオーダーした。出てきた天津飯を見て驚いた。四角い皿に四角い天津飯が盛り付けられ卵焼きとタレの上には中華系の香味野菜と身の付いたカニのはさみがのせられていた。カニの赤と卵焼きの黄色、そして香味野菜の緑が鮮やかで、見た目からしてとても美味しそうなのだ。一口食べてみると、タレと香味野菜の味のバランスも絶妙で、見た目に違わず美味しい天津飯だった。

普通、天津飯と言えば丸い器に丸く盛り付けられ、ご飯の上にカニの入った卵焼きを載せ、とろりとしたタレをかけてある。ただ、もともとの中華料理には天津麺はあっても天津飯はないということを聞いている。この料理は和製中華料理なのだ。その意味では、中華のコックさんの創意工夫によって、日本の中華料理の定番の一つと言える。そして、定番の形で美味しい店もたくさん知っているが、こうした工夫のあとが偲ばれる料理もおもしろいと思うし、それが美味しければ素晴らしいと思う。

店を出る前に、「驚いた。こんな変わった天津飯は初めてで、とても美味しかった」と伝えると、天津飯というとあまり変化がないのだけれど、いろいろと工夫して現在の形にした、ということを話してくれた。たかが夕食ではあるが、されど夕食。美味しい食事はとても幸福な気分になる。そして、夕食が美味しければ、何となく1日が幸せだった用に思われてくる。片道2時間をかけて津まで往復したが、いい1日だった。

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