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2006年6月30日 (金)

二つの怒り

最近は、本気で怒ることは本当に少なくなったが、それでも時には怒りを感じることがある。ただ、それを分析してみると、虐げられたことに対する怒りと、期待を裏切られたことに対する怒りに大別できるように思われる。

虐げられたことに対する怒りは、他者の悪意や暴力、いじめなどが背景にあり、それに対する反抗・抵抗・プロテストである。虐げられた事実があれば、それは当然の結果であり、誰に恥じることもない。そのことが周囲の理解に支えられるような状況になれば、力関係を組み換えることにもつながっていく。言わば、客観的に見ても正当な怒りだろう。

期待を裏切られたことに対する怒りは、その背景には相手への思いや想いがある。相手を大切な存在だと感じているからこそ期待するのであり、その期待に応えてもらえなかったと感じると、その思いが怒りへと変わるのである。ある意味では、こちらの怒りは哀しい。お互いの思いのすれ違いがあるからだ。そうしたことが重なっていくと、次第に、相手に期待しなくなり、やがては怒ることもなくなってしまう。その相手が大切な存在ではなくなるからである。

それは、関係の変化・関係の消滅を意味する。人は、一生の間に様々な人と出会い、また別れ、関係を結んでは壊していく。それは、それぞれの人生ではあるが、できるならば良い出会いに恵まれ、豊かな関係に包まれた人生を送りたいものである。

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心の弱さ・心の強さ

いじめの相談を受けることがある。とても深刻な状況である場合も少なくないが、構造的には、いじめる側の心の弱さの問題に目を向けることが少なくない。ある意味では、本当に強い心を持った人はいじめをする必要も必然性もない。本当に強い人は、実は優しいのである。

が、弱い人間は、実は、その弱さを隠蔽するために、自分より弱い人間に圧力をかけ、いじめようとする。それによってその瞬間だけは憂さが晴れ、自分が強いと錯覚できるからである。けれども、そんなことを繰り返しても本当に強くはなれないし、返って周囲の信頼をなくし、本当に大切な人から嫌われてしまうことにもなりかねない。

だからこそ、自分のためにも、弱い立場の人をいじめるのではなく支える選択をできるようになることが大切なのだと思う。

しかし、日本の現実を見ていると、そうした視点からすれば、心が弱い(そのくせにそれをごまかし虚勢を張っている)人間が増えているように感じられる。例えば、私はボランティア活動を通じて多くの外国人と関わりを持ってきたが、意外と公務員(それもそれなりの立場にある公務員)のいじめや差別を目にしたり耳にしたりする機会が多い。入国管理局や地方検察庁での事例などは、呆れてコメントすら出てこないほどである。

もちろん、自分自身の心を見つめてみると、弱い部分はたくさんある。しかし、弱者をいじめて虚勢を張らなければならないほど落ちぶれてはいない。ただ、なかなか常に声に出していける程には強くなっていない部分があるかも知れない。けれども、強さなども自分自身で意識して育てていくものだろう。

日本には、アジア諸国には虚勢を張るくせに、アメリカに対してはどれ程非論理的で非科学的で理不尽な要求であっても、ほとんど丸呑みするような形で受け入れ続けている弱い政治指導者がけっこういる。アメリカに対して強く出られないからこそアジアや他の国々に虚勢をはってバランスをとろうとしているのかも知れないが、見ていて見苦しいし、情けない。国を愛する心を本当に持っている人間であれば、怒りさえ覚えるだろう。

100%強い人間は多分いないし、同時に100%弱い人間もいないに違いない。けれども、自分が意識して変えようとすることで、少しずつ自分を強くしていくことは出来る。弱者をいじめる形で虚構の強さを求めるのではなく、弱者に手を差し伸べられる優しさイコール本当の強さを持った人間に少しでも近づいていければ……と思う。

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2006年6月28日 (水)

ココロとカラダ

若い頃は、恋愛は心の方が大切だと思っていた。だけど、今では必ずしもそうではないことを知っている。心を通わせ、身体を合わせることで想いが深まることも少なくない。人間の心身の構造を考えれば、心だけの恋愛では深みにはまることが出来ないのである。

もちろん、深みにはまることが必ずしも幸福につながるわけではない。しかし、深みにはまることで見えてくるものは確かにある。それは自分自身だったり、人間のサガやゴウだったり、まあいろいろだが、少なくとも波風のほとんど立たない平凡な生活から自分を解放してくれることだけは確かなようである。

が、逆にカラダだけの関係というのも、どうもいけない。古いヤツだからかも知れないが、アウトルックを開いていてウンザリするのが出会い系の迷惑メールだ。山のようなこの情報には多くのサクラや欺瞞が存在するのだが、それでも何パーセントかは確実にカラダだけの出会いがあり、それを楽しむ人間もいるのだろう。確かに、時として性欲が高まってしまうことは、例えバツイチ中年のオジサンにだってある。けれども、愛(相手の想い)を感じられるmake loveを経験していると、刺激だけの関係はむなしいし、わびしいし、空虚である。だからこそ、より一層の刺激を求め、エスカレートしても心の空白は埋めることができず、心を壊してしまうのだろう。

心を通わせるのは確かに大変だし、つらい部分もある。けれどもそれだけでは考え過ぎてそれはまたそれで別の闇にはまり込んでしまう。それから救ってくれるのは相手の感触であり、物理的ないたわりである。心と身体の両方を深く関わらせることで、人生にとって意味深い恋愛を味わうことができるだろうし、それによって「結果」がどのような形になっても、最終的には納得できる恋愛になるのではないだろうか。

少なくとも、このバツイチ中年オジサンはそう思う。

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2006年6月27日 (火)

わかってほしい?

恋愛では(別に恋愛に限らないけれど、自分にとって大切な人には)自分のことをすべてわかって欲しい、と思うことがままある。バツイチの不良中年も、実は、若い頃はそう考えていた。そして、いつかきっと自分のことをわかってくれる運命の相手にめぐり合えるかも知れないと、夢想していたものである。…まだまだずっと若い頃の話だが。

だが、わかると、結構、辛いこともある。そろそろ「若い」を卒業しそうな年齢の頃にした恋愛では、本当に相手のことが良く分かった。それこそ、手に取るようにわかった。彼女が仕事の関係で上司に呼ばれた時に、「こんなことを言われたんと違う?」と尋ねたらその通りであったこともある。自分がいない場でのことまでわかるくらいだから、いっしょの空間にいれば、本当に相手の思っていることや感じていること、思考の流れなどが良く分かったものである。

けれども、わかったからといって、それがプラスになるとは限らない。相手が「こうして欲しい」と思っていることがわかったからと言って、自分がその希望に応じられるとは限らないからである。そして、決定的な瞬間に(もちろん、相手が何を望んでいるかはよくわかっていた。ただ、どうしてもそれができなかった)何も出来なかったことでお互いに気まずくなり、やがてLove Is Overとなってしまった。

その後、このように考えた。俺のような変わったキャラクターのすべてを理解してもらおうと願うのは、どだい無理だ。せめて、二割か三割理解してもらえば、それで十分である……と。加えて、人間の心の中をのぞいてみれば、良い面ばかりでなく嫌な面もたくさんある。それまで伝わってしまうのは、けっこうツライものだ。だから、「わからない」と思うくらいでちょうど良いのだ……と。

その後の恋愛は、なぜか(当然と言うべきか)外国人になり、結婚したのも日本にいたアジア人だった。が、けっきょくイロイロあって入籍から三年ほどで離婚してしまった。お互いに「わからない」部分はあっても、それをうめようとする努力を続けなければダメなようである。ただ、その努力が楽しい……という部分もある。そんな訳で、今の彼女も日本人ではない。……仲の良いツレからは「離婚して3ヶ月で、もうかよ? 意外と…」と突っ込まれてしまった。

あなたは、わかってほしい?

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2006年6月26日 (月)

改革と言うよりも

小泉「改革」の総決算……そんな言葉がチラホラとニュースで聞かれるようになった。だが、現実は口先ばかりで、弱者を食い物にした悪政であったと感じている。

確かに物価は下がった。(デフレだから当然か……)しかし、生活は苦しくなり、税金は高くなり、行政サービスはどんどん低下していった。そして、経済格差の拡大……。民衆の立場からすれば、必要なことには手を着けず、実績の伴わない数字の操作と偽情報や詭弁によって事態を悪化させただけではないか、という気がする。

確かに、以前の生活が必ずしもベストだった訳ではない。しかし、高い物価の中には多くの雇用が隠されていた。だから、普通に働けばそれ程豊かではなくてもある程度の生活は出来たように記憶している。ところは今はどうか。「国際競争力」を口実に人件費を削り続けて、確かに価格は維持もしくは低下させることは出来たかもしれない。けれども、それによって雇用を破壊し、一般の人々の購買力の低下を招いたのではないだろうか。その結果、内需を圧迫し、景気の回復を弱いものにして不況を長引かせたところはないだろうか。労働力や雇用と、消費の視点から経済の動きを振り返ってみると、例えばこのような分析も可能となる。しかし、特にここ5年ほどの流れを振り返ってみると、「グローバル化」を国際競争力の問題と結びつけるばかりで、労働や雇用の安定と国内消費の問題から経済の動きを考えようとする主張がなかなか表に出てこないように感じられた。

こうした問題は、国内だけではない。日本国内でも「地産地消」という言葉が少しずつ広がりを見せ始めているが、外国人労働者や移民の問題についても、「グローバル化」が世界レベルで地域の「地産地消」を破壊し、人々の雇用を奪った結果ではないのか……という思いがある。

今日のニュースを目にしながら、こんなことを考えたが、一つ一つの問題をもう少し整理したいと思うので、一旦はここでパソコンを閉じたいと思う。なるべく早く、もう少しまとめた文章であらためてこれらの問題に光を当ててみたい。

See you !

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2006年6月25日 (日)

亡国の「愛国心」論議

最近、「愛国心」がらみの話題が新聞・雑誌の記事やテレビのニュースを賑わすことが多い。が、その議論の根本の部分に大いなる違和感を覚えてしまう。
ごく単純なことなのだが、人は普通、自分を大切に扱い、愛情を持って接してくれる相手、信頼してくれる相手を愛するものである。したがって、国や政府が国民を大切に扱い、信頼してくれて、愛情をもって接してくれていれば、自然に「愛国心」は芽生え、育まれていくと考えられる。
と言うことであれば、政治家や国が「愛国心」を声高に叫ばなければならない状況であるという判断の前提には、「愛国心」が芽生え、育まれていないという現実があるということになる。そしてそれは、裏を返せば、政治家や国・政府が、国民を信頼せず、大切に扱わず、国民に愛情を持って接していないということになってしまう。

なかなか寒気のする分析だが、現実の事象を拾い上げてみると、残念ながらこの寒気のする分析を裏付けるニュースがゴロゴロ出てくるのが分かる。
例えば、アメリカ産牛肉の輸入問題。国民の食の安全や消費者の不安を考えれば、最低限、現状の現地検査体制を改めて構築しなおし、さらに日本の手によるチェック体制を強化することが、日本国民を大切に扱っていると人々が感じられるやり方だろう。しかし、先に「再開」の結論ありきで議論を進め、アメリカ政府や一部アメリカ議員の圧力に屈してアメリカの言う「科学的」なやり方をたいした抵抗もせずに受け入れる経過を目にしてしまえば、日本政府は、国民よりもアメリカ政府の意向の方が大切であり、国民を大切にしていないことが実感できてしまう。
社会保障制度についてもそうである。国民年金や介護保険、高齢者医療などの負担は上がり続けているが、そのサービスは目に見えて低下しつつある。我々日本国民は、以前ほど安心して老いることも、病気や怪我をすることも出来なくなりつつあるのだ。その理由の大きな部分に少子高齢化の問題が上げられるが、若い労働力の確保を妨げている「労働鎖国政策」への視点が完全に抜け落ちている。私は、自分の職業以外の活動の中で、カナダ人、イギリス人、韓国人、タイ人、フィリピン人、アメリカ人などと関わりを持っているが、ビザが取れなかったと言うだけで真面目に働いていたのに、捕まって強制送還されてしまった人がいる、というような話を何度か聞いている。
日本は、「労働鎖国政策」によって単純労働者の入国を日系人を除いて制限し続けているが、ビザのない無資格労働者であっても、まじめに働いている人は少なくないし、そうした人たちは、ビザさえきちんと発行してもらえれば、多くが資格をもらうためにきちんと入管に出頭して手続きをしようとするだろう。が、そのビザをもらうためのハードルが高すぎるからオーバー・ステイの道を選択してしまうのである。だが、きちんと資格を認めてやれば、納税や保険負担の新たな対象者としての外国人労働者は確実に増加するので、議論の前提は大きく変化してくる。けれども、そうした発想や議論は、まったく表に出てこない。真の意味でのグローバル化を問題にするのであれば、そうした外国人労働者の問題なども含めてきちんとした議論を重ね、未来への方向性を探っていかなければならない筈なのである。けれども、現実はどうか。議員年金や天下りによる二重・三重の退職金の問題に対する取り組みは遅々として進まず、国民への負担だけが増加する法案が次々と提出されて国会で可決されていく。これでは、国民が大切にされていると感じるのはほとんど不可能に近く、怒り、荒み、諦め、無気力になることは出来ても、愛国心を育むことなど出来はしないに違いない。

愛国心の議論との関わりで、靖国神社の「公式参拝」も問題になっているが、これも実は大いなる矛盾を多く含んでいる。まず、人権としての内心の自由・思想良心の自由だが、そもそも人権は社会的弱者にも国や政府が広く認める義務を負う概念であって、法令制定時の国会での答弁に反して日の丸や君が代を事実として強制したり、あるいは日の丸や君が代を強制している自治体を放置したりしている社会的に強い立場の人々が、人々の信教の自由を損なう可能性のある自らの行動の利用として挙げること自体がおかしい。また、公式参拝を「公約」に掲げて、自ら政治問題としながら、批判を受けると内心の自由や信教の自由を口実に言い逃れる姿は見苦しいし、みっともない。私が過激な愛国者であれば、それ自体がとても恥ずかしい国辱的行為と考えるだろうし、日本の国益を損なう「非国民」などと感じるかも知れない。また、日本独特の、死者はすべて「ホトケ」となり、生前のことは水に流して罪は声高に問わないようにする心情や文化を、意識的に周辺のアジアや他の地域の国々に説明し、理解を求めるような活動を首相をはじめとする政府や外務省が積極的に行っていると言う事実を私は寡聞にして知らない。もし、私が知らないだけでなく、実際にきちんと行っていないのであれば、職務怠慢というレベルではなく、明らかな友好破壊行為であり、国民に対する外交責任・政治責任を取ってきていないことになる。そうでないことを、私は心から願っているのだが……。

ここで、日本近代史・現代史を紐解いてみれば、「愛国心」などという言葉や概念は、江戸時代以前には日本の民衆の意識にはなかったと考えられる。欧米との関係の中で、近代「国家」をつくる必要に迫られた政府や様々な活動家、集団の中でそういう言葉や概念が生まれていったのであろう。だが、やがて「愛国心」を国家が声高に叫び、マスコミもそれを煽って、国民の自由ばかりか生存までもないがしろにされる時代が訪れる。太平洋戦争である。
私たちが、そうした日本の歴史から学べることは、国家や政府が「愛国心」を声高に叫び、それを押し付けようと画策する場合は、国民に対する国や政府としての責任を放棄して逆に国民を抑圧して国そのものを滅びに導こうとしている危険性があるということである。
現在、教育基本法の中に「愛国心」を盛り込もうとする動きが強まってきている。
冒頭でも書いたように、国や政府が国民・民衆を大切にしていれば、愛国心は自然に育まれるものであると考えられる。現在の国や政府は、その責任を果たした上で「愛国心」に言及しているのか。それともそうした責任をごまかすために「愛国心」という言葉を使って、さらに国民や民衆を抑圧し、意識しないまま亡国の道を再び歩もうとしているのか。日本を愛するひとりの国民として、きちんと見極めていきたいと思っている。

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2006年6月24日 (土)

グローバリズムという経済破綻

新聞やテレビのニュースでは「景気」の動向が上向いてきているという話が以前よりも増えてきている。にも拘らず、片田舎の地方都市に住む我々に、その実感は薄い。車は以前と違ってローンで買わなければならなくなったし、仕事の機材なども買い取りではなくリースが大流行。生活は相変わらず苦しく、税金だけが上がり続けている。
日本全体の動向を見ても、景気の良い話は一部だけで、経済的格差は拡がり続け、貯金すらできない家庭は以前よりも増加しているという。いや、日本だけではない。世界全体を見渡せば、毎日の食事にも事欠くような人々はたくさんいるし、「先進国」と呼ばれる国々の若者の中でも働きたくても仕事のない人がゴロゴロいる。
これが「グローバリズム」の「成果」である。それによって利益を得ているごく一部の人々の色眼鏡による解釈はその辺の棚にでもうっちゃって、純粋に世界の人々の生存や生活バランスを考えれば、世界経済はバランスを崩して破綻してしまった、と言ってしまっても良いかも知れない。
英米式「グローバリズム」によれば、市場を「神の見えざる手」に委ねることが経済発展のキーワードらしいが、ニーチェの言うように「神は死んだ」以上、その「見えざる手」も自然な形で市場をコントロールする能力を喪失している。その結果、欲望の暴走によって「経済発展」を加速しようとする人間の皮を被った悪魔たちが、関係破壊・自然破壊・生命破壊を推し進めているように見える。
確かに、人間が生きていく上において、欲望は、大切なエネルギーの一つである。けれども、その暴走は多くのものを破壊し、死に至らしめる。だからこそ、偉大な宗教家たちは欲望の暴走を抑えるべく彼らに従うものたちを指導していたのである。キリスト、ブッダ、フランチェスコ、空也…。多くの聖人の姿は、華美な装飾や贅沢を放棄し、質素であるからこそ胸を打つ。そして、自分よりも弱い立場にいる人々に目を向けることが出来れば、自然に「我唯足るを知る」という智慧が理解でき、欲望の暴走を抑えられるのではないかと思う。
逆に、弱者に目を向ける想像力を失ってしまうと、欲望がさらに暴走し、「勝つか、負けるか」だけの世界になってしまう。それはやがて「手段を選ばずに勝つ」になる。そうした世界観を持ってしまえば、「自分がそうだから周りもそうに違いない」ということになり、心を許せる関係を失って孤立してしまう。さらに、「誰かに手段を選ばずに攻撃される」恐怖感を持ち続けなければならなくなってしまい、そうした状況が極端に進めば、「周りはすべて敵」になってしまうだろう。それによって、「勝ち組」になりたくさんのお金を得られるかも知れないが、それで幸福は買えるだろうか。少なくとも私自身の幸福は豊かな関係性の中にあるので、お金では決して買えない(もちろんお金はないよりも、生きていく上に最低限必要な分はあった方が良いし、その程度であれば可能な限り確保しておきたいが……)と思っている。
加えて、「勝ち組」の問題は、コスト削減のために「安全」「安心」「環境」への費用負担を削ろうとすることであろう。その結果、社会や自然のバランスは崩れ、治安の悪化や自然災害の多発となって還ってくる。治安維持のコストや災害復旧などのコストをも含めて現在の「グローバル経済」を再検討したとき、果たして経済効率は以前よりも良くなっているだろうか。もちろん私は経済学者ではないので、詳細な計算をする能力はないし、またそれをしようという強い意志もない。したがって、現在の実感だけでの判断になるが、英米(特にアメリカ)型「グローバル経済」は世界経済のバランスを崩壊させて治安悪化と環境破壊を招き、世界経済に打撃を与え続けているように感じられる。そしてそれは、ヨーロッパでの環境保護運動の主張や、マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロバイン」や「華氏九一一」などのドキュメンタリー映画の告発などから見ても、決して私一人の実感ではないと思われるのである。
イラク侵略戦争や核拡散の現状も、そうした視点から見れば、あっけないほどに明白になる。サダム・フセインを擁護するつもりはさらさらないが、偽情報の積み重ねで開戦した後、イラクの石油施設がどこの国の会社に払い下げられたかを知れば、どうした人々の欲望の暴走によってことが進められたかは推察できる。さらに、他の民事的に重要な施設よりもイラクの人々の日常生活とは関係が薄い石油施設が優先的に警備されている現実からすれば、その推察が正しいか否かを判断するのは、色眼鏡をメディア・コントロールによってかけさせられていないまともな人ならば簡単だろう。
アメリカ兵による捕虜の虐待・人権侵害事件も、マイケル・ムーアの映画が教えてくれるように、地元での就職が出来ずに軍隊に入るしかない若者たちが派遣されている以上、起きるべくして起こったと言えよう。経済的に痛めつけられて精神的に荒んだ人間が無意識的に弱者を痛めつけることで精神のバランスを保とうとする。そして、その結果、根本原因としての為政者の悪政は隠蔽されるという構造は、江戸幕府の差別政策の効果を知っている者から見れば、共通のものであることが分かる。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、捕虜の虐待・人権侵害を消滅させるためには、大企業優先ではなく、一般の人々が普通に働いて普通に生活できる国を作るしかないのだろう。(私などはこれこそが「普通の国」だと思うが…)アメリカ政府は外交的には「人権」を言いながら、自国内においては経済的弱者を放置することでその国際的な義務を怠っている。そしてその問題を直視せずに戦争を続けることで内外の視線をそこから逸らそうとしているのである。
核拡散の流れも、実際には核を持っていなかったイラクが侵略され、核を持っている可能性がそれなりに高い北朝鮮が今なお攻撃されずにいる現実からすれば、多くの国が「自国防衛」のために核武装に踏み切らざるを得ない。その動きを止めるためには、核保有国が自ら、核兵器の削減に取り組まない限り説得力は持ち得ない。経済制裁では事は解決しないのである。
こうした流れを止めるために出来ることは何か。個人としては、まず知る事であり、意見を(特にNO!を)発信していく事だろう。もちろん、個人レベルでは大した事は出来ない。けれども、つながれば大きな流れを作る事も不可能ではない。良い意味でのグローバルな技術の発展は、その気になれば他国の人々ともつながれる道を開いてくれている。それに向かって、諦めずに一歩一歩進んでいくことが、十年後、百年後につながると信じて、自分に恥じない行動していきたいと思う。

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2006年6月23日 (金)

疲れた…

ようやく、忙しかった一週間も終わり、この数日は極端に少なかった睡眠時間も確保できそうです。ただ、疲れていても、うれしいことがあれば、がんばれるんですね。

例えば、日本vsブラジルで、日本が勝っていればそれだけでがんばれたかも…。でも、試合を見ていて思ったのは、シュート数が少ない。もっと、シュート打てよ、そこはパスやなくシュートやろ ! などと、見ていて何度も突っ込みを入れたくなりました。攻撃は最大の防御、などという言葉もあります。やっぱりFWは、もっとシュートを打って欲しかった。それもあって、少し不完全燃焼気味…。これでは疲れます。

ということで、別の楽しみを味わうことで新しい活力を得ようと思います。中年となっても生き方としてはある程度積極性を維持していなければ楽しめるものも楽しめませんから。

ということで、今夜は美味しいスコッチでも味わいながら幕を閉じたいと思います。グレンフィディックかな? それとも……。

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2006年6月21日 (水)

I LOVE グレンフィディック

 スコッチの中でも、もっとも多くの回数愛飲しているのは、スペイサイドのシングルモルト、グレンフィデックだろう。緑色の三角柱の形をしたビンに、少し薄めの琥珀色の液体が詰まっている。…もちろん、飲んでしまえばやがてはなくなってしまうが。

グレンフィデックは、そのいささか淡い色合いにもかかわらず、ストレートやロックで飲むと、ややきつめの癖がある。もちろん、シングルモルトだから、癖はあるのは当然だが、飲み慣れてくると、その癖がたまらなく愛おしい。少しグラスを回して氷と馴染ませてやると、微妙な甘味が出てくる。知る人ぞ知る…という名酒で、行きつけの店で時々会う画家や、美術館で長い間学芸員をされていた恩師も、グレンフィデックの美味さを知っていた。先日も、画家の先生と、我がグレンフィディックを楽しんだ。

我が家にも、もちろん、6本ほど封を切らずに置いてある。うち2本は、すでにスコットランドでも樽が尽きたというクラッシックである。それを未だに開けられずに残してあるところは、多少、スコッチ飲みとしては覚悟不足かもしれない。

まあ、何かいい事があったときに開けて楽しむことにしよう。

 

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I LOVE スコッチ

 行きつけの店には、いつもグレンフィディックが置いてあります。同い年のママが気を利かせて、なくなる前に補充しておいてくれるからです。だから、週に一度は顔を出す。さすがに、結婚していた一時期は回数が減ったけれど、フリーになった今は、いつの間にか週一ペースに…。値段的にも手ごろだし、味も満足なので、緑の三角・鹿のラベルのグレンフィディックを愛飲してますが、本当はスプリングバンクも好き。でも、片田舎では手に入りにくいんだよね。こないだは、飲み仲間のSちゃんにグレンモーレンジを持っていってあげましたが、一週間と持たなかったみたい。彼はいつも焼酎を飲んでたはずなのですが…。結局、美味しいスコッチだからでしょうね。

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