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2006年6月25日 (日)

亡国の「愛国心」論議

最近、「愛国心」がらみの話題が新聞・雑誌の記事やテレビのニュースを賑わすことが多い。が、その議論の根本の部分に大いなる違和感を覚えてしまう。
ごく単純なことなのだが、人は普通、自分を大切に扱い、愛情を持って接してくれる相手、信頼してくれる相手を愛するものである。したがって、国や政府が国民を大切に扱い、信頼してくれて、愛情をもって接してくれていれば、自然に「愛国心」は芽生え、育まれていくと考えられる。
と言うことであれば、政治家や国が「愛国心」を声高に叫ばなければならない状況であるという判断の前提には、「愛国心」が芽生え、育まれていないという現実があるということになる。そしてそれは、裏を返せば、政治家や国・政府が、国民を信頼せず、大切に扱わず、国民に愛情を持って接していないということになってしまう。

なかなか寒気のする分析だが、現実の事象を拾い上げてみると、残念ながらこの寒気のする分析を裏付けるニュースがゴロゴロ出てくるのが分かる。
例えば、アメリカ産牛肉の輸入問題。国民の食の安全や消費者の不安を考えれば、最低限、現状の現地検査体制を改めて構築しなおし、さらに日本の手によるチェック体制を強化することが、日本国民を大切に扱っていると人々が感じられるやり方だろう。しかし、先に「再開」の結論ありきで議論を進め、アメリカ政府や一部アメリカ議員の圧力に屈してアメリカの言う「科学的」なやり方をたいした抵抗もせずに受け入れる経過を目にしてしまえば、日本政府は、国民よりもアメリカ政府の意向の方が大切であり、国民を大切にしていないことが実感できてしまう。
社会保障制度についてもそうである。国民年金や介護保険、高齢者医療などの負担は上がり続けているが、そのサービスは目に見えて低下しつつある。我々日本国民は、以前ほど安心して老いることも、病気や怪我をすることも出来なくなりつつあるのだ。その理由の大きな部分に少子高齢化の問題が上げられるが、若い労働力の確保を妨げている「労働鎖国政策」への視点が完全に抜け落ちている。私は、自分の職業以外の活動の中で、カナダ人、イギリス人、韓国人、タイ人、フィリピン人、アメリカ人などと関わりを持っているが、ビザが取れなかったと言うだけで真面目に働いていたのに、捕まって強制送還されてしまった人がいる、というような話を何度か聞いている。
日本は、「労働鎖国政策」によって単純労働者の入国を日系人を除いて制限し続けているが、ビザのない無資格労働者であっても、まじめに働いている人は少なくないし、そうした人たちは、ビザさえきちんと発行してもらえれば、多くが資格をもらうためにきちんと入管に出頭して手続きをしようとするだろう。が、そのビザをもらうためのハードルが高すぎるからオーバー・ステイの道を選択してしまうのである。だが、きちんと資格を認めてやれば、納税や保険負担の新たな対象者としての外国人労働者は確実に増加するので、議論の前提は大きく変化してくる。けれども、そうした発想や議論は、まったく表に出てこない。真の意味でのグローバル化を問題にするのであれば、そうした外国人労働者の問題なども含めてきちんとした議論を重ね、未来への方向性を探っていかなければならない筈なのである。けれども、現実はどうか。議員年金や天下りによる二重・三重の退職金の問題に対する取り組みは遅々として進まず、国民への負担だけが増加する法案が次々と提出されて国会で可決されていく。これでは、国民が大切にされていると感じるのはほとんど不可能に近く、怒り、荒み、諦め、無気力になることは出来ても、愛国心を育むことなど出来はしないに違いない。

愛国心の議論との関わりで、靖国神社の「公式参拝」も問題になっているが、これも実は大いなる矛盾を多く含んでいる。まず、人権としての内心の自由・思想良心の自由だが、そもそも人権は社会的弱者にも国や政府が広く認める義務を負う概念であって、法令制定時の国会での答弁に反して日の丸や君が代を事実として強制したり、あるいは日の丸や君が代を強制している自治体を放置したりしている社会的に強い立場の人々が、人々の信教の自由を損なう可能性のある自らの行動の利用として挙げること自体がおかしい。また、公式参拝を「公約」に掲げて、自ら政治問題としながら、批判を受けると内心の自由や信教の自由を口実に言い逃れる姿は見苦しいし、みっともない。私が過激な愛国者であれば、それ自体がとても恥ずかしい国辱的行為と考えるだろうし、日本の国益を損なう「非国民」などと感じるかも知れない。また、日本独特の、死者はすべて「ホトケ」となり、生前のことは水に流して罪は声高に問わないようにする心情や文化を、意識的に周辺のアジアや他の地域の国々に説明し、理解を求めるような活動を首相をはじめとする政府や外務省が積極的に行っていると言う事実を私は寡聞にして知らない。もし、私が知らないだけでなく、実際にきちんと行っていないのであれば、職務怠慢というレベルではなく、明らかな友好破壊行為であり、国民に対する外交責任・政治責任を取ってきていないことになる。そうでないことを、私は心から願っているのだが……。

ここで、日本近代史・現代史を紐解いてみれば、「愛国心」などという言葉や概念は、江戸時代以前には日本の民衆の意識にはなかったと考えられる。欧米との関係の中で、近代「国家」をつくる必要に迫られた政府や様々な活動家、集団の中でそういう言葉や概念が生まれていったのであろう。だが、やがて「愛国心」を国家が声高に叫び、マスコミもそれを煽って、国民の自由ばかりか生存までもないがしろにされる時代が訪れる。太平洋戦争である。
私たちが、そうした日本の歴史から学べることは、国家や政府が「愛国心」を声高に叫び、それを押し付けようと画策する場合は、国民に対する国や政府としての責任を放棄して逆に国民を抑圧して国そのものを滅びに導こうとしている危険性があるということである。
現在、教育基本法の中に「愛国心」を盛り込もうとする動きが強まってきている。
冒頭でも書いたように、国や政府が国民・民衆を大切にしていれば、愛国心は自然に育まれるものであると考えられる。現在の国や政府は、その責任を果たした上で「愛国心」に言及しているのか。それともそうした責任をごまかすために「愛国心」という言葉を使って、さらに国民や民衆を抑圧し、意識しないまま亡国の道を再び歩もうとしているのか。日本を愛するひとりの国民として、きちんと見極めていきたいと思っている。

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