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2006年7月31日 (月)

社会保障と労働者の受け入れ

国民健康保険の負担増で支払いができなくなった家庭や個人が公的機関によって悪質なサラ金・闇金のような取立てを受けたり、本当に体調が悪くなっても病院に行けなくなったりする、といった記事や報道が目に付くようになった。小泉「改革」による国民生活破壊がいよいよ生々しい現実のものとなってきた感がある。

さて、国保の負担増などの社会保障制度の再構築の問題と関わって、大きなネックとなっているのが、少子高齢化社会の進行による労働力不足の問題がある。子どもや若い世代が減少するから、福祉に対する負担増は仕方がない……政府・与党の発言や現在のマスコミの主な論調ではそのような形になるが、そこに実は大きな嘘・欺瞞がある。

日本人の少子高齢化の進行は確かに正しい。けれども、必ずしもそれが労働力不足につながる訳ではない。別の選択肢が存在するのである。その選択肢とは何か。外国人労働者の受け入れである。

私は、ボランティア活動で在日外国人の日本語教育と関わっているために様々な国籍を持つ人々から話を聞く機会がけっこうあるが、その中でよく聞かされるのが日本の入管・労働鎖国政策による特にアジアの人々に対する人権侵害の疑いの強い対応である。

外国人犯罪のニュースが新聞やテレビを賑わす回数は確かに増えてきているようだが、それがその人数に比較しての件数ということになると分母の増加が著しい中では、必ずしも割合的に大幅な増加とは言い切れないところもある。しかも、資格のあるなしに関わらず、まじめに働いているだけの外国籍の人々は身の周りにはたくさんいる。いや、私が日常的に直接知っている外国人は皆まじめに働いていると言えるだろう。

ビザの話が出ることもあるが、大抵は日本人の配偶者か語学教師で、本人は就労する資格は持っている。ただ、それの取得の難しさを指摘するアジア系の人たちは多い。そして、就労を認めてくれるならば、別にオーバー・ステイなどはせずに、きちんと皆入管に行くだろうという話も出る。

という事は、バブル期を経験した日本人の感覚からすれば景気は悪いようでも、他の国々と比較すればまだまだ上の方にある日本の今の経済を考えれば、外国人に対する労働鎖国政策を改めて、外国人労働者をきちんと受け入れるようにすれば良い……ということになる。正式に受け入れれば、きちんと税金や社会保障の負担も要求できる。そうすれば集まってくる金額も増加するので、福祉・セーフティーネットに関する個々の負担状況は改善できる可能性が大きくなるのである。

けれども、労働鎖国政策は続いており、入管による人権侵害や不法行為もいろいろと耳に入ってくる。なぜだろう。労働鎖国政策によって甘い汁を吸っている一部の人々の存在があるからではないか、という疑いが頭をもたげてくる。

例えば、野田峯雄というジャーナリストが『闇にうごめく日本大使館』という本を2002年に大村書店から出版している。それによれば、労働鎖国政策でビザの取得が難しいことを悪用して地元のマフィアとつるみ不正ビザを大使館の職員が発行している疑いが非常に強い……という記述が、何度も現地に足を運び、確認した結果の結論として書かれてある。

国際結婚に際して煩雑な手続きに閉口することも少なくないが、その理由の1つにある偽装結婚の問題にしても就労ビザがそれなりに取得できるようになれば偽装結婚そのものが不要になり、消滅してしまう。けれども、普通に申請してもビザが容易には取れないために、マフィアや暴力団がそれを利用して様々な形で資金を得る一方で、ただ働きたいだけの人々が不当に搾取され人権侵害を受けているのである。

そうしたことも含めて考えたとき、外国人労働者の受け入れ問題に目をつぶって、少子高齢化の不安を煽り、国民の負担を強めて憲法で保障されている生存権すらも踏みにじろうとしている今の政策や報道姿勢は正しいと言えるだろうか。もっと大きな観点から問題を捉え、未来の日本を構築していくビジョンを示す責務が、今の政府・与党にはあるし、マスコミにもそれを厳しく検証する責任がある。私は、一国民として、自分の知っていることや気付いたことをこうして発信し続けていきたいと思っている。

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2006年7月30日 (日)

非常勤講師の労働条件

今日、中学や高校の講師を長く経験した人と話をしていた。講師といっても、常勤か非常勤かでも社会保障などの扱いは全然違うし、また非常勤講師もさらにいくつかに分かれているようである。

例えば、条件が悪いものになると、週8~9時間で授業がなければ何も出ないものがある。当然、労災や厚生年金などの社会保障はその仕事としては付いていない。その場合は、1つの学校の講師を引き受けただけでは月にしても10万円を切ってしまうので、それ単独では生活できない。したがって、それだけをあてにして生活をする人には頼めないということになる。

また先生という仕事はその時間だけ授業をすれば良い訳ではなく、当然、教材研究やテストの作成・採点・成績関係の事務なども生じてくるわけだが、憲法や労働関係の法規からまともに考えれば、その時間しか給与が出ないのであれば、教材研究やテストの作成・採点・成績関係の事務はやらなくても良くなってしまう。けれども、それではまともな教育は出来ないので、周りの非常勤講師の話を聞くと、それらは学校に残ったり家に持ち帰ったりしてやっているようである。明らかに「サービス残業」だが、非常勤講師の好意に頼っているこのおかしな状況で、本当に教育の質が保てるのだろうか。ちなみに、これは公立の中学・高校の話であり、講師の雇い主は、「サービス残業」などと呼ばれる賃金未払い労働を無くすように一般の企業に指導しなければならない筈の地方公共団体である。

さらに恐ろしい話を聞いた。特に県の南部の高校で、講師や非常勤講師の割合が増加している。ある高校などは半分近くが講師や非常勤講師で、三分の一ほどが非常勤講師であった。このような体制で、本当に未来の国民を育てる教育が可能なのか。大いに疑問である。

以前にも書いたが、「教育基本法の改正」などを話題にしたり、「愛国心」どうこうを議論する前に国や地方公共団体は「条件整備」の義務を果たす必要がある。少なくとも、教育基本法は現在も廃止されていないのだから、法律を守り、その実現に努力をする責務があるはずなのである。日本の将来を考えるのであれば、ぜひとも教育の体制を(お金をせこくケチったりせずに)早急に整備する必要があるだろう。

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2006年7月29日 (土)

マスコミはだいじょうぶ?

自民党総裁選に向けて、候補者や派閥の実力者の言動が活発化している。けれども、最近目にしている報道からは、様々な問題に対する表面的な対処療法ばかり目に付き、日本の将来のビジョンが見えてこない。

これは、郵政民営化が参議院否決された時の衆議院の解散・総選挙の際にも同じだった。参議院の独立性などの問題とも関わって法的にも大いに疑問のある解散であったが、それに対してのつっこんだ報道はなされず、将来のビジョンも出てこない。問題は山積であるにもかかわらず郵政民営化のみを中心とした報道がなされ、後でまったく民意を問われていなかったことが勝手に政府・与党によって進められた。それによってマスコミの規制にも関わる法案が出され、マスコミそのものもかなりオタオタした経緯があり、見ていて歯がゆく、また、情けなかった。

今回の自民党総裁選に向けての報道も、それと同じ轍を踏むのではないかという危惧を感じている。確かに、今の日本には経済・外交・社会保障など問題は前以上に山積の状態である。けれども、どの候補者も個々の問題に対する「対処療法」はそれなりに口にするが、ビジョンそのものが明確に見えてこない。ビジョンがはっきりすれば、そのステップである対処療法やその優先順位もすべて異なってくる。国民としては、それを総合的に判断すれば良いのだが、個々の対処療法に議論を矮小化してしまうと、その判断がぶれ、選択に悪影響を及ぼす危険が生じてくる。

そうした意味において、今マスコミがどのようにニュースを掘り下げ、焦点を明確にしていくかが非常に大切になってくる。にもかかわらず……である。現在の報道を見ていると、そうした部分がほとんど見えてこない。こんなことでは少し情報戦略や情報感覚に長けた者が出現すれば簡単にメディア・コントロールをされてしまう危険がある。

日本のマスコミは、だいじょうぶだろうか。日本を新たな「戦前」に導き、再び「大本営発表」の悪夢を繰り返さないように、しっかりとした報道をしていってほしい。

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2006年7月28日 (金)

スプリングバンク賛歌

スコットランドのキンタイア半島にキャンベルタウンという街がある。ノース海峡の向こうにはアイルランドがあり、アラン島の浮かぶクライド湾の向こうはサザン高地である。世界的には、あまり知る人のないこの街で作られるシングル・モルトのスコッチ・ウイスキー……。それがスプリングバンクである。

日本ではバランタインやシーバス・リーガル、ジョニー・ウォーカーほどには知られていないウイスキーだが、実はこのスコッチはなかなかの逸品である。色は少し薄めだが、封を切り、ショットグラスに注ぐと、何ともいえない甘い香りが立ち昇る。そう、ショットグラスというのは、水割りどころかロックでももったいないので、いつもストレートで楽しむからこんな書き方をしている。ただ、香りの甘さと飲み安さに騙されてはいけない。実は、このスプリングバンク、他のウイスキーと比べるとアルコール度数が高く46%もある。美味しいが、なかなか強い酒でもある。

けれども、残念なことにあまり輸出量は多くないようで、わざわざ車で一時間もかけて買いに行ってもいつもあるとは限らない。「在庫はありません。今度の入荷予定もはっきりしません」と言われたことも何度かある。それでも、日本には若干入ってくる(アメリカなどには入っていないという話も耳にしたことがある)ようで、いつもとは言えないにしろ、たまに飲み味わえる機会があることが、せめてもの幸せかもしれない。

特にうれしいことがあったとき、とても感動したとき、しっかり何かをやり遂げて充実感に浸っているとき、あるいは気心の知れた特に仲の良い連中と楽しい時間を過ごすとき……。そんなときに味わいたいシングルモルト・ウイスキーの逸品。それがスプリングバンクである。

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2006年7月27日 (木)

美味い酒と音楽と

こう毎日暑い日が続くと、身体もバテ気味になる。そんな夜は、美味しいウイスキーを少量飲んで、音楽でも楽しみたい。グレンフィデック、スプリングバンク、ウシュクベにロックランザ、そうそうグレンスコシアもある。

音楽は、コルトレーンか、少し上品にキース・ジャレットなどでも良いだろうか。

本当ならば、ライブのあるところでその音楽に合わせてウイスキーを選び、その両方のハーモニーを楽しみたいところだが、そこまでの時間はない。(金も……かな)せめて、CDでも聴きながら、ショットグラスにウイスキーを入れ、ささやかな時間を楽しもう。

今日のチョイスは……味や匂いを伝えることは出来ないので、秘密。歳を重ねた中年男のちょっと贅沢な(本当かな?)孤独を楽しむ時間である。

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2006年7月26日 (水)

ウイスキーで二日酔い

昨夜、知人と久しぶりに飲みに出かけた。一時、よくスナックや喫茶店で顔をあわせたことがあり、本を貸したりしていたこともあったが、最初から彼と二人で飲みにいったのはもしかしたら初めてかもしれない。

最初はシーバス・リーガルを飲んだが、それが空いてしまったので別の日本のウイスキーを飲んだ。最近はスコッチのシングル・モルトばかりで、あまり日本のウイスキーは飲んでいない。それは初めての銘柄だったが、ウイスキーということで気楽に飲み始めた。ブレンデッド・モルトだったので意外と飲みやすかったが、何しろ度数が50度、通常のウイスキーは40度だから、アルコール濃度が10%も高い。昨夜は楽しめたが、今日起きる時にどっとツケがきた。胃が、今ひとつ調子悪い。久しぶりの二日酔いである。

いつもウイスキーを飲むので、どんなビールや日本酒などほかのどんな飲み物よりもペースはわかっている。だから、ウイスキーだけを飲んで二日酔いになることはめったにない。が、さすがに今日は一日中胃が重かった。とりあえず、仕事に穴をあけてはいないが、もうそれほど若くもないので、身体にも気をつけてウイスキーを楽しんでいきたい。

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2006年7月25日 (火)

自由貿易と関税

WTOの交渉がうまくいかず暗礁にのりあげている。アメリカ、ヨーロッパ、ブラジルなどそれぞれがお互いの主張を譲らず、調整の目途がたっていないらしい。

けれども、ある意味では当然なことであろう。高すぎる関税は、確かに貿易の活性化を阻害するが、安すぎる関税は、逆に自国の産業に打撃を与え、結果として国の経済や国民の生活を圧迫する。それを考えれば、貿易の自由化と関税の撤廃には、国民の生活に責任を持とうとする政府ならば、当然、慎重にならざるを得ない。

加えて、輸入品は、自国の基準とは多少なりとも異なる基準によって生産されている場合が少なくない以上、安全面での配慮も必要となる。その意味では、今の時点で貿易の自由化を無理に推し進めることは、世界中の民衆にとって必ずしもプラスになるかどうかわからない可能性がある。

貿易の自由化が進んで自国の産業がつぶれ、人々が故郷で働き場所を失って流動化する事態は、文化面、安全面からも必ずしもプラスだとはいえない。その意味で、交渉は慎重であった方が良い。あわてず、あせらず、より多くの人々にとってプラスになるような形で決着してもらいたいと思う。

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不透明な横綱昇進

白鵬が千秋楽で横綱・朝青龍を破って13勝をあげたにも関わらず、横綱昇進が見送られた。横綱の全勝優勝を阻止し、勝ち星の差は1つの準優勝にも関わらず…である。

「独走を許したから」というのがその理由にあげられたが、それは決して白鵬ひとりの責任ではない。逆に、他の大関が誰一人として土をつけられなかった横綱に唯一勝ったのだから、その安定性も含めて考えれば十分ではないかという気がする。

これがもし、他の日本人大関だったとしたらどうだろうか。逆に、独走を許したことを問題にせずに、「全勝優勝を阻止」し、「勝ち星の差が1つの準優勝」だということを理由に、横綱昇進が実現したのではないか。

高見山が切り開き、小錦や曙が苦労して積み重ねてきた日本人以外の力士の大相撲での活躍……。今は、日本人の大関や三役の影が薄いのは少しさびしい気がしないでもないが、実力でぶつかり合う格闘技の世界である以上、それはそれで仕方がないとも思う。それよりも、異郷の地で、言葉や生活習慣の違いなど様々な苦労を乗り越えて活躍を続ける他国から来た力士の努力と根性には頭が下がるし、心地よさも感じる。

それを考えれば、白鵬の横綱昇進は、実現してしかるべきではなかったか。安易な精神論や差別感を感じるようなあらさがしではなく、冷静かつ公平に成績を見て考えれば、白鵬を横綱へ昇進させるべきだったと思う。

一人横綱よりも東西に横綱が並び立つ方が見ていて面白いし、また大関の数からしても、白鵬が横綱に昇進した方がすっきりする。それが出来なかったことが、後になって尾をひかないように願うばかりである。特に白鵬は、来場所、ぜひ夢を実現できるようにがんばってほしい。

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2006年7月23日 (日)

国民のための教育行政を !

今日の新聞をパラパラと見ていたら、愛国心の評価が小学校の通知表に入っていたという記事が目に付いた。一部の地域のことだが、その中で学校によっては子どもたちの学習に馴染まないということで削除したところもあるらしい。当然のことである。

そう言えば、昨日の新聞には教員免許を10年ごとに更新する制度を導入する方向であるとの記事が載っていた。いわゆる「不適格教員」の問題と関わってのことらしいが、それで、教員の質の向上にどれだけ寄与するかは疑わしい。逆に、その制度自体を、その時点の政府や与党に必ずしも賛成し協力的でない教員のパージに悪用する危険性がある。

「愛国心」についてもそうだが、本当の意味で10年先、100年先のことを考えた上での教育行政ではなく、一部の人間(主にその時点での政府・与党・権力者)にとって都合がいいだけの「教育行政」になってしまっている。それによって、子どもたちにどれだけの力をつけることが出来たのか。矛盾を日教組に押し付けて(もちろん、日教組がすべて正しいという気はないが……)自らの政策の矛盾をきちんと分析、方向転換をしないまま放置し、それがさらなる矛盾や問題を生み出している。結局、現行の教育基本法にある「教育への不当な支配」を推し進めた結果としての教育の荒廃だったのではないかと思われる。

そして、その矛盾をごまかし、さらに「不当な支配」を強化するために、現行の教育基本法を変えようとしている。それで、子どもたちの能力が本当に開花するのか。大いに疑わしい。逆に、本当に子どもたちのことを考えたとき、愛知県犬山市の教育行政に心を惹かれるものがある。

教育行政(だけでなく政治全般についても)に必要なことは、本当に未来の国民としての子どもたちの能力をいかにして開花させていくか、それが子どもたち一人ひとりの幸福や国民全体の幸福にどのようにつながっていくかという視点であろう。愛国心など、国が国民や子どもを本当に大切にしていれば、自然に育まれる。それを声高に叫ばなければならないのは、変えようとする側が、一人ひとりの国民や子どもたちを本当の意味で大切にしていないからだろう。

屁理屈はいらない。20人学級を全国で実現するだけで、教育環境はかなり劇的に変化するはずである。少なくとも、そうした努力を見せ、それなりの成果をあげてから、教育基本法の問題に手をつければならないのではないか。そして、あくまでも大切にしなければならないのは、子どもたち一人ひとりの能力の開花と幸福である。それを守り、支えるための教育行政が実現されることを心から願っている。

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2006年7月22日 (土)

ジェラシーの向こう側

嫉妬/ジェラシーは恋愛の過程ではつきものだが、その内実を考えてみると、けっこう奥深いものがある。

まず、ジェラシーの感情がおこるということは、口では「キライ」などと言っていたりしても、普通以上に好きだからこそジェラシーを感じるのだということを指摘できる。だから、ジェラシーを感じてもらえないとしたら、それは、それほど激しい感情は持たれていないということになる。身も蓋もない表現をすれば、どうでもいい相手に対してはジェラシーを感じないのである。

が、その一方で、自分自身がジェラシーを感じるのは、自分の心の中に相手を信頼しきれていない部分もしくは相手に愛されていると自信を持てない部分がある、という場合が考えられる。とすれば、ジェラシーは、ある意味では哀しい。自分の愛する人がジェラシーに苦しんでいるのであれば、その心の深い部分までも強く抱きしめてあげたいと思う。あなたは、存在するだけで私にとって意味がある。あなたは、確かに愛されているのだ、そのことをきちんと伝えてあげたい。

けれども、普通の人間はテレパシー能力を持っているわけではないので、想いを100%伝える、あるいは100%理解することは不可能である。それに、ある意味ではジェラシーは、本人の心の中の問題なので、どれ程愛し合っていても、パートナーが相手の心から完全に嫉妬の感情を消すことは不可能である。けっきょく本人が自分の心ときちんと向き合いながら、自分の中の嫉妬心とも付き合っていくしかないのだ。

そういった意味では、真実の恋愛は哀しい。そして哀しいがゆえに深い。人間の心が不完全である以上、ジェラシーに苦しまなければならない…というのは自然であり、当然ともいえる。しかし、その苦しさやつらさと向き合ってこそ、深い喜びも得られる。そして、お互いの関係も、心の交流も深まっていくのである。

ジェラシーを暴走させて簡単に関係を壊してしまうのは、ある意味では、とても楽である。けれども、それでは深い実感や体験が経験できないままに終わってしまう。ジェラシーの苦しさや辛さから逃げずに、深い恋愛を味わいたいものである。

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2006年7月21日 (金)

雨の時間

ここ数日、雨が降り続いている。幸いにしてこの辺りは大きな災害になるまでにはいたっていないが、何となくエネルギーが弱まっている感じがする。

それはそれで良いのかもしれない。あまりはりきりすぎると、後でどっとその反動があるから……。特に私のような不良中年はそうである。気持ちが沈んで、何もやる気がおきなくなったり、身体のあちこちが疲れや無理のために悲鳴を上げる前に、適当に休む……。今日は、そんな日なのかも知れない。

そのように考えて窓の外を見ると、庭の木や菜園の作物が雨にぬれている。激しい雨の中では痛々しいが、普通の雨くらいなら、それなりに風情を感じる。葉の上に舞い落ち流れていく水の軌跡……。外灯を受けてきらめく水滴……。少し角度や高さを変えるだけでも、まったく違う表情を見せてくれる。

今日は雨。動きのない時間をぼんやりと外を眺めながら過ごす。そんなひとときも、たまには良いかもしれない。

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2006年7月20日 (木)

まともな教育改革を

この地域では、明日から学校が夏休みに入るようである。が、学校現場では問題が山積みだ。実際問題、「愛国心」どうこうと遊んでいる暇はない。確かに、現行の教育基本法にも不十分な点はあるかもしれないが、それをきちんと実現する努力がなされた上での改正……ということでならば話はわかるが、現行の教育基本法の理念の実現をおろそかにしたり、骨抜きにしたりしながら、それに対する反省をせずに教育の荒廃を現行の教育基本法に押し付ける。おかしな話である。

例えば、現行の教育基本法の10条には、国や地方公共団体の教育条件の整備の義務が書かれてあるが、先進国で20人学級を実現していないのは日本くらいである。この事実だけでも、政府・文部科学省が現行の教育基本法の理念の実現から逃げていることが良く分かる。そして、20人学級を実現するだけで、様々な教育問題はかなり改善される。そうした分析が、ほとんど表に出てこないのはなぜか。政府や文部科学省に都合が悪いからだろう。

また、教育現場で、講師の数は増加傾向にある。ところが、その条件は妙に細かく差別化されていて、中には授業時間のみ…という条件のものもある。けれども、テストや採点、ノートなどの提出がなしでも良いのだろうか。そんな事はない。結局、時間のみの講師の【サービス残業】によって教育が維持されているのである。【サービス残業】と言えば聞こえは良いが、もちろん、賃金未払い労働である。公共機関がそんなものに頼ること自体が不当であり、不法であると言えるだろう。法的な観点から言えば、授業時間のみしか払ってもらえないのであれば、それ以外の仕事は拒否できることになるが、それは決してよい授業にはつながらない。これも、公的機関による条件整備の問題である。

二つほど、ほんの些細なことを挙げたが、これを改善するだけで、教育現場での問題はかなり劇的に改善される。それを疎かにしたままでの不真面目な教育改革論議にはまったく賛同できない。まずは、現行法の枠内で、しなければならないことをきちんと実行してから、あらためて「まともな教育改革」の論議を始めるべきだろう。

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心に良いことは…

数日間続いた真夏日の後、雨が降り続いている。暑さにはあまり強くないので、それほど気温が上がらないこの二、三日はいくらか過ごしやすく、少しは文章が書きやすい。たまには早く寝れば良いのだが、文章が書きやすいことがパソコンを開かせてしまう。体調の維持を考えれば、困った性格である。

ただ、個人的な経験からすれば、大抵の場合、身体に良いことは心には必ずしも良いとは限らず、逆に身体に悪いことが心には良いという場合がままある。例えば、タバコは身体に悪いということだが、タバコの好きな人が無理をしてタバコを短期間で止めようとしても、結局、そのストレスでイライラがつのったりする。ダイエットなども、そうした部分があったりするので、無理は禁物である。

さて、自分としてはどうだろうか。身体に悪いから…といってウィスキーをずっと飲まないとかえってストレスがたまる。だから、個人的には「身体」よりも心を大切に考えている感じがあり、結局、身体的に負担がかかっている場合が少なくない。ただ、それはそれである程度仕方が無い事かも知れない。

だが、とりあえず朝早くの仕事はとりあえず休みになっているので、しばらくはゆっくり寝て、この数ヶ月ほどの身体の疲れを多少なりとも回復したいと思う。

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2006年7月18日 (火)

感性の教育

教育の現場から、どんどんゆとりと豊かさが奪われ、失われている。いくつかの教育現場に関わっていて、最近特にそれを感じる。その中でも、特に危機感をおぼえるのは教育における感性の部分である。

お互いの思いや感情を共感し、分かり合えているか……。それを考えながら現場の様子を見ていると、どうも、その辺りがうまく機能しているようには感じられない。コミュニケーション能力の問題もあるのかも知れないが、お互いの共感や理解が弱いように思えてならないのである。

それを、どうすれば良いのか。もちろん、即効性のある特効薬などは存在しない。けれども、キーワードの一つは表現だろう。

例えば、美術の時間を考えてみよう。子どもたちの中に「写真のようにそっくり」であることが上手い、という思い込みはないだろうか。私は、それがけっこう多いのではないかと思っている。そして、それが「自分は写真のように【上手】には描けないから下手だ、下手な絵は恥ずかしい、だから絵はキライだ」などという思いになり、美術表現の可能性を閉ざしてしまっている。そんな風に見える場面が少なからず見受けられるのである。

けれども、写真のような絵が【上手】なら、ムンクもシャガールもミロも下手だと言うことになる。とんでもない話である。

これは、美術の表現技術以上に深刻な問題にも関わってくる。下手だから描かない、またそれを認めるのがいやだから真剣に取り組まない、ということになると、自分自身の手で表現の可能性を一つ閉ざしてしまうことにもつながっていく。

言葉での表現が苦手であっても、他の表現手段があれば、それによって自分の思いが伝わる可能性がある。それどころか、きちんと受け止めてくれる人がいれば、自分の思いにすらなっていない心の中の混沌としたものをも含めて理解してもらえる場合がある。そして、表現を理解してくれる人の存在を実感できることで表現は洗練され、伝達能力を高めていく。

それが、他の人々からの共感をも引き出すと同時に、自分自身の心の安定や成長にもつながっていくのである。そのためにも、【感じる】こと、【感じ取る】ことは、とても重要である。けれども、そのためには、創作や鑑賞の過程に十分な時間をかける必要がある。ところが、学校をはじめとする多くの教育現場において、それが効率の名の下におろそかにされているように思われる。

日の丸や君が代、愛国心などで遊んでいる余裕は、今の日本の教育現場にはない。それよりも、感性の教育を充実させることが、多くの問題を少しでも改善するための土台として必要だと思う。

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2006年7月17日 (月)

暴力と憎悪のスパイラル

東アジアでも、西アジアでもきな臭い動きが加速してきている。いずれにしても問題なのは力(軍事力・暴力)で自らの利権の拡張や要求の実現を図ろうとする姿勢である。それが、組織として動き、武器を手に行われるために、一般の弱い人々の犠牲を出す。結果としてそれは新たな憎悪を積み上げていき、次の暴力を生み出す土壌となる。暴力が憎悪を生み、それが新たな暴力を生じさせ、さらなる犠牲を増やし、次の暴力の原因となって暴力と犠牲をどんどん拡大していく。暴力と憎悪のスパイラルである。

確かに、家族や友人や仲間を傷つけられたり、その命を理不尽に奪われたりしたとき、私たちはその加害者を憎悪し、復習を願わずにはいられない。それは、人間として当然の思いであり、感情である。けれども、それが「正しい」道なのかと言えば、必ずしもそうではない。キリスト教では「左の頬を打たれたら右の頬をさしだせ」というようなことも聖書には書いてあったと記憶しているし、仏教やイスラム教でも争いを肯定している訳ではない。だから、いかなる神の名においても、現在のような暴力と憎悪の応酬は、本来、許されないことではないだろうか。

けれども、自らの欲望に心を支配され、心の弱さを見つめようとする強さを失った人間は、言葉や行動によって粘り強くことを進めるのではなく、暴力によってすべてに決着をつけようとする。暴力こそは、怯え・恐れ・自信のなさの表れであり、当事者たちが勘違いをしているような「強さ」の表れではないのである。

だから、軍事力を前面に出して動いている現在のアメリカは、一時期のような自信を失っている。その原因には内政の貧しさがあるのだろう。経済格差を広げ、貧困家庭の若者を軍隊に入れて対外的な強さを誇示しても、普通に働いて生きていける地域社会を再生できなければ、生活の豊かさ・心の豊かさは取り戻せず、矛盾を拡大していくだけだろう。それは、日本も同様である。なぜ、右傾化・軍事化を煽らなければならないのか。経済政策に失敗を重ね、普通に働いて生きていける地域社会を破壊してしまったからであろう。その矛盾を隠すために外からの脅威を喧伝し、不安を煽って軍事化を推し進めようとする。構造は、共通しているのである。

私は、少なくとも、そのような流れを肯定する気はないし、またそれに乗りたいとも思わない。日本が、本当に自立した強い国になるためには、今の方向性や方法論(もしかしたら、そんなものはなく、ただ流れに合わせているだけなのかも知れない。その方が、実は怖い)は間違っている。すくなくとも、その事だけは伝え続けていきたいと思う。

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2006年7月16日 (日)

労働は苦行か

先週まで2週間ほど、とても忙しかった。仕事にもよるが、私の場合は7月の初めは年間を通じて割りと忙しい時期の一つである。そんな時には、時として、働くことが厭になることもないとは言わないが、根本的に自分の仕事が嫌なわけではない。もう少しお金になれば……とか、もう少し自由な時間が欲しい……とか、多少なりとも不満はあるにしろ、仕事の中で充実感を覚える瞬間、というのがそれなりにあるからである。

様々な問題点はあるにしろ、今までのそれなりに長い経験を振り返ってみれば、仕事は楽しいと言えそうだし、とりあえず贅沢さえしなければ食べていける状況なので仕事そのものを否定的にとらえる感覚はない。ある意味では幸せなことである。

けれども、ニュースや様々な記事を目にしていると、仕事の楽しさや充実感を感じられない人々が増えているような印象を受ける。「楽をして金を稼ぐ」ことが目的になり、深くものごとや人に関わらなくなる場合、あるいは忙しさや過度のストレスのために余裕を失い、仕事そのものが苦痛になってしまう場合などがその例である。

前者は、「グローバル化」の進展の中で、情報をゲームのようにやりとりするような「仕事」の中で見られるようだ。しかし、思惑通りにたくさんのお金を手に入れられたとしても、ゲームに買ったり高得点を得たときのような達成感はあっても、深くものごとや人に関わることを通して得られるような充足感は感じにくいように思われる。結局、それなりにシンドイ目をし、さらにそれを乗り越えていく過程の中に充足感が得られる部分があり、それを体験できない場合は、ある意味では不幸なのではないだろうか。

後者は、リストラと「構造改革」の嵐の中で一般の労働者の時間が「効率化」されて個々のゆとりが奪われ、さらに賃金を抑えられることで日常の経済生活のゆとりも失われて生じるものだろう。

けれども、こうした状況が蔓延することは決して好ましいとは思わない。シンドイ部分はそれなりにあるにしろ、それゆえに感じられる「仕事の楽しさ」「仕事のおもしろさ」というものがある。そうしたものを改めて大切にしていこうとすることが今の日本の経済や社会にとっても重要だと思う。

確かに「働く」ことは、その仕事と深く関わるほど大変な部分が見えてくる。けれどもそれがあるからこそ、楽しさや充実感も感じられるのだろう。労働は苦しいだけの「苦行」ではない。深く関わり続ける中で見えてくるものを大切にしていければ……と思う。

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2006年7月15日 (土)

男たちのノスタルジー

昨夜一週間ぶりにいつものスナックに飲みに行ったときに、カウンターにいた常連さんたちと、昔のTVヒーローの話でもりあがってしまった。仮面ライダー、超人バロム1、仮面の忍者赤影、ウルトラセブン……。カラオケにもそれらの歌があり、いくつかは当時の映像もそのまま流れるので、それらの映像についてもああでもない、こうでもないと話をはじめたり、サビのところで一緒に声をはりあげたり、なかなか楽しいひとときであった。ただ、女の子たちには多少呆れられていたようだが……。

しかし、意外と、男どもはこういう話で盛り上がる。仮面ライダーV3のバイクの名前、青影のキメポーズ、バカバカしい話だがやっていて意外と楽しい。コンビニなどで、ディスプレイモデルのついた菓子が結構並べられているが、時間をかけて選ぶ男がいたり、中には一つではなく一箱ゴッソリ買っていく大人もいるとか……。さすがに私はそこまではしていないが、その種の一つである高さ10㎝ほどの仮面ライダー2号が車のハンドルの傍に飾ってあったりする。

最近のおまけディスプレイモデルはけっこう精巧に作られているので、それを見たり手にしたりするだけで、当時の映像やイメージがよみがえる。それが、何とも言えず楽しい。が、どうも周囲の女性を観察していると、そうしたいい年をした男どもの感覚は理解不能のようである。黙認して放置しておいてくれるのは優しい方の反応で、中にはゴミとして処分する機会をうかがっているような場合もある。こういうところに、男と女の違いがあらわれる。それはそれで楽しいことなのだが、それでもいい年をした男どもは、たとえ理解してもらえなくても、時として子どもにかえりたくなる。そんな時には、心の中で呆れて見ていてもいいので、黙認してもらいたいと思う。

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2006年7月14日 (金)

《花がたみ》の狂気

もっとも好きな洋画を問われれば、躊躇することなくモローの《オイディプスとスフィンクス》をあげるが、同じようにもっとも好きな日本画を問われたとき、これまた躊躇なくあげるのは上村松園の《花がたみ》である。

《花がたみ》は、初めて実物を見るまでは、その作者の名はもちろん、作品の存在すらもしらなかった。それに私は、その当時は洋画が好きだったので、上村松園の名前も知らずに、ただ、美術館で展覧会をしているから……という理由で入っただけだった。

そして、この作品に出会った。美しき狂気…あえて一言で表現すれば、私の乏しい語彙ではそれ以外の言葉は見つからない。けれども、その全存在をかけて恋に狂った女の美しさ・はかなさ・怖さ・哀しさ、そういったものすべてが気品のある華やかな衣装の胸元の乱れと、うつろで一途な表情に描ききられている。

男として、これほどまでに愛されたい。でも、かなり怖いが……。しかし、これほど美しい女となら一緒に落ちていくのも本望かも知れない。半端ではない想いの強さが狂気をはらむ。それが、美しく、また愛おしい。そんな思いを感じる一方で、本気で創作活動に関わる者であれば、これほどまでに存在を描ききった作品を創造したいとも思った。

ただ、幸か不幸か、今のところ私にはそのような体験はない。おかげで、多少退屈で不満の渦巻く日常生活を、日々、繰り返していけるのである。けれども、それに疲れたとき、戻っていきたい瞬間がある。例えば、この《花がたみ》との出会いもその一つである。

幸い、この《花がたみ》は日本にある。松柏美術館はメトロポリタン美術館ほどには遠くない。どうしても、実物に接したくなったときには、いつでも出かけていけるだろう。

私に、日本画の魅力と表現力を教えてくれた作品……。《花がたみ》は、運命の女のような【絵】なのかも知れない。

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言葉にすること

女はどうかわからないが、特に中年以上の日本の男どもは、本当に心底好きな愛する相手に対して「愛してる」とか「好きだ」とかは面と向かっては言いにくい。口にしようとするとどうしても照れてしまい、言えなくなってしまうのである。

だが、好意は持っているにしても、それほど深く愛してるとまでは言えない相手に対しては意外と軽く口に出てきたりする。軽く言ってしまうから「愛してる」とか「好き」という言葉の重みもなく、当然、軽くいなされることになる。

けれども、よく観察してみると、軽く言われてるとわかっていても、言われた方はけっこうまんざらでもなさそうな表情をする。「嘘ばっかり」とか「冗談でしょ?」などと言いつつも、目が笑っている。本気でない、と思っていてもうれしいのだろう。

ということから考えれば、日本の男も、大切な相手に対しては「愛している」とか「好きだ」という言葉をきちんと口にするべきなのである。「言わなくてもわかるだろう」などと言うのは、結局、男の甘えに過ぎない。ある意味では「言わなくてもわかる」までの状況にするためには、きちんと相手との時間を大切にし、少しでも一緒にいる努力を続けていなければならない。その実績があってこそ「言わなくてもわかる」ということになる。が、それがないから、「言わないから怒る」になってしまうのだろう。

当たり前のことかも知れないが、意外と気付かない男は多い。私も、外国人と付き合った経験からそう感じるようになったのである。日本人が相手だと「多分、わかってもらえる」という甘えが出るが、相手が日本人でなければ、育ってきた文化や生活環境が違うので、言葉にしなければ理解できない。というよりも言葉にしたからといってきちんと伝わるとは限らないのである。だから、詳しく伝えること、繰り返し伝えることが大事になる。黙っていては絶対に伝わらないので、まず言葉にすることが大前提なのである。

だが、言葉にすると言っても「日本語」である必要はない。相手が理解できれば、中国語でもタイ語でもドイツ語でもかまわないのである。そして、おもしろい発見だったのだが、日本語で「愛している」と言うのは照れてしまって言いにくくても英語で「I love you」と言ったりタイ語で「PM RAK KUN」と言ったりする方が照れは少なくてすむ。日本人にとっては母語である日本語よりも、他の言語で言った方が言いやすいのである。

とすれば、日本語でなくても、相手に伝わる言葉でしっかり言う方が良い。「I love you」などは結構使い勝手が良いかもしれない。たとえ長年連れ添った相手でも、甘えたり照れたりせずに、きちんと愛の言葉を口にすることが大切だろう。

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2006年7月12日 (水)

労働者の国際移動

英米式「グローバリズム」の暴走が続き、日本の無能指導者が目先の利益に目がくらんで、日本をアメリカに売り渡そうとしている。アメリカ産牛肉の輸入再開の流れなどは、まさしくその典型と言えるだろう。

けれども、そうした周辺地域を食い物にする英米式「グローバリズム」資本主義が、故郷の地での普通の経済生活を破壊し、多くの人々を国境を越えた出稼ぎへと向かわせる。国際的な労働者の移動である。

したがって、バランスを崩して富を強奪した国々が責任を果たすには、そうした国際的に移動する労働者や移民を受け入れる義務が生じることになる。それが厭ならば、富を再分配して、それぞれの国で普通に働けば普通に暮らせるような国際社会・国際経済システムを作る必要があると言えるだろう。

そのような視点に立てば、不法移民の問題や、外国人労働者の問題は、また異なった面が見えてくる。日本も含めた先進国は、積極的に外国人労働者や移民を受け入れて彼らにきちんと賃金を支払っていく形で富の再分配を図るか、発展途上国や最貧国に対する資金および技術・インフラの支援にもっとお金をかけ、国際経済システムの変革という方向からの富の再配分を考えるか、あるいは、その双方をバランスをとりながら進めていくか、といった選択肢が主なものとして考えられる。

けれども、それに手を着けずに、自らの利益だけを追い求め、暴力を背景にして自らの都合だけを押し付けようとすれば、当然、さまざまな形での反発は生じてくる。「テロ」なども、そうした反発の一つの現われと言えるだろう。

世界は、軋み始めている。何とかしなければならない。私たちは、もっと考える必要があるし、責任を果たす必要がある。自分が今、生活できるならば、それを利己的に守るのではなく、少しでも多くの人々が安心して暮らす道を探っていく必要がある。それが、けっきょくはテロや暴力の脅威を減らし、長い目で見れば、私たち自身の生活の安定にもつながっていく。

そういう視点から、日本に住む外国人労働者も見てみよう。先日の新聞で、一人の外国人がオーバーステイで逮捕されたことを知った。外国人ショップで働いていた顔を知っている男性だった。彼は、強盗や暴力行為をしていたのではなく、ただ、普通に働いていただけである。私自身は、まじめに働いているのであればその滞在と労働を認めてやり、逆にきちんと税金をとってやれば良いと思うのだが、どうも「日本政府」はそうではないらしい。経済格差があるからこそ移住労働の圧力は高まるので、その辺りを無視した身勝手な「グローバル化」の議論は不公平で不公正である。私たちは、日本国民の誇りと名誉にかけても、そうした点をもっと真剣に考えていかなければならないと思う。

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2006年7月11日 (火)

ワープロが…。

ワープロがとうとう壊れてしまった。住所録と数学関係はパソコンよりも慣れていた分使い勝手が良かったのだが、既に修理不能なので如何ともしがたい。残念だが、おとなしく冥福を祈りたい。

とは言うものの、問題は、数学関係と住所録のデーターである。できればワードでも使えるようにしたかったのだが、2HDのフロッピーがどうしても読み込めない。多少悪戦苦闘もしたのだが、あきらめて改めて作り直す決心をした次第である。

それにしても、意外とパソコンは使い勝手が悪いところがある。(もちろん、慣れないせいもあるのだが……)できればもう少し修理して使っていたかったのだが。最近、「もったいない」という言葉がひそかにブームなっているようだが、ワープロが使えないというのももったいない話である。同様のことは、レコードやレーザーディスクなども言える。我が家にはLPレコードが200枚ほどあるし、レーザーディスクも40枚ほどある。今の時点では両方ともプレーヤーを持っているので見たり聞いたりして楽しむことはできるが、いつまで持つか。両方とも壊れてしまえば、どうにもならなくなる。もったいない話である。

ということになれば、別のものに保存しなおさなければならないが、レーザーディスクの場合は、ブルーレイかHDVDかの判断が難しい。技術の進歩は必ずしも悪いことではないが、新しいものを追い続けることが必ずしも幸せにはつながらない。古いものと、どう長く付き合い続けられるか。その体制を再構築することが、「もったいない」とつながるのではないかと思うし、そこに新しい経済活動の可能性も見つけられるような気がする。

あくまでも、進歩についていけない中年オジサンのつぶやきに過ぎないが……。

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2006年7月10日 (月)

懐かしい声

久しぶりに友のところに電話をかける。飛び込んでくる懐かしい声は、あの頃と変わらない。…いいや、もちろん変わっているのだろうが、電話の向こうの彼らは、あの頃のままのように思われる。

今宵電話で話したのは三人だが、メールとは異なり、声の中に昔と変わらぬ味わいがあり、当時の思い出が脳裏によみがえる。やはり、友は好い。

中には、四、五年は顔を合わしていないヤツもいたが、そこはそれ、時を隔てても信じられるから友だし、すぐに利害を超えてあの頃に戻れるから友なのだろう。

けれども、周りを見渡してみると、友がいることの幸せを味わえていない人たちがいる。信じて相手を待てない、時と空間を隔ててしまえは壊れてしまうような関係があちこちで見られるのである。

ケイタイにインターネット…。確かに便利な世の中にはなった。けれども、メールでのやり取りと声のやり取りではまったく感触が違う。直接鼓膜を震わすからこそよみがえる思いが存在するのである。

お互いの忙しさのために、遠方の友と直接顔を合わして話をするのは難しい年齢になってしまった自分がいる。確かに、メールのやり取りは便利である。が、たまには、少し不便な電話で、お互いの関係を楽しみたい。そんな思いを感じた夜だった。

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2006年7月 9日 (日)

運命の女/モローのスフィンクス

19世紀末のフランスの画家、モローの作品の一つに【オイディプスとスフィンクス】という絵がある。ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている作品だが、大学生の頃、三重県立美術館が「モローと象徴主義の画家たち」というテーマの展覧会を開催したとき、初めてこの作品を見た。今から20年ほど前のことである。

一目でこの作品に魅せられ、以来、モローが好きになり、美術が好きになった。

もちろん、この題材はギリシャ神話からとっているが、ドラクロワなどの同じテーマの作品とは異なり、オイディプスの胸に爪を立て彼を見つめるスフィンクスの目が印象深い。もし、二人の顔の部分だけをトリミングしてしまえば、宿命の恋人たちの出会いではないか、というような印象も受ける。二人の視線の間にある緊張感と、神話では勝者であるはずのオイディプスの瞳が妙に弱々しく、反対に敗者であるはずのスフィンクスの視線が力強く相手を見すえている。

近ごろ、「勝ち組」「負け組」といった言葉が横行し、妙に社会が荒んできているが、人と人との関係には、勝ち負けよりももっと大切なもの、意味深いものがあるし、それは人生にとってもそうである。だが、それは簡単に答えの出るものではなく、精一杯生きていく中で味わい、深めていくものであろう。この絵を思い出すたびにそんなことを考える。一生を変える運命の女、ではないが、この一枚の絵との出会いは、私に大きなものを残してくれたと言えるだろう。

80年以上も前に書かれた作品が、一瞬の出会いで深い謎と味わいを提供してくれる。あれ以来、再び実物を見る機会は訪れていないが、この絵と出合えたことは本当に幸福だったと思う。

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2006年7月 8日 (土)

信じることと愛すること

愛している人とケンカをする。どんな恋愛にも、よくあること……というよりも、愛しているし、信じている相手だからケンカができる、とも言える。

もし、こちらが恋しているだけで相手が自分をどう思っているかわからない時や、相手に愛されている自信がない時には、関係が壊れてしまうのが怖くて、とてもケンカなんかできない。もし、誤解や理不尽な理由で相手がケンカを売ってきても、愛されている自信がないから、ほとんどの場合、自分の方に非がなくても、相手の言い分や要求を受け入れてしまうのではないかと思う。

けれども、小さなケンカぐらいで壊れる関係ではない、相手に愛されているという実感があれば、安心してケンカができる。お互いが信頼しあっているならば、それはお互いの理解を深めるためにも大切な(けれどもあまりうれしくはない)ことである。…ただし、自分が相手を特に大切に思っていない場合でも、相手に愛されていると判断できる場合は、その弱みに付け込んで、相手を利用するためにケンカをふっかけたり、無理なことを要求したりする場合(こういったやり方は私の趣味ではない)もあるが。

やっかいなのは、ジェラシーである。愛されていなければ、ヤキモチは焼かれない。でも、ジェラシーというのは、本当に相手を信じているのだろうか。相手を信じ、自分が相手に愛されていると信じられ実感できるならば、多分ジェラシーは感じない、と思う。けれども、愛してはいても相手や自分が信じられなければ、ジェラシーの炎に身を焦がすことになってしまう。

もちろん、完璧な人間はいないので、恋愛をしているときにまったくジェラシーを感じたことのない人間はまずいないだろう。だからこそ、時にはジェラシーは恋愛を味わい深くするスパイスとなってお互いの関係を深める形で作用する。けれども、過度のジェラシーは、逆に関係を壊し、自分や相手を滅ぼしてしまうほどの怖さも持ち合わせている。映画やドラマ、文学などで飽きることなく取り上げられ続ける所以である。

このように、愛し合い信じあうことは難しい。けれども、難しいからおもしろいという部分もある。多少の苦しみはあっても、良い恋愛がしたい。

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お酒の飲めないスナック

友人が「一度、行ってみたい」と言ったので、彼を連れて馴染みのスナックに出かけた。が、運転手がいる場合はともかく、車で行く場合は、当然のことながら酒は飲まない。店の女の子たちも心得ていて、そういう時は何も言わなくてもウーロン茶を持ってくる。が、その日は友人がいたので、「彼にはビール」とわざわざ注文をした。

ところが、そこに別の店にいた女の子が……。前の店は閉めたらしく、「ここは、今日が初めて」ということだった。が、やっぱり初めての店なので他の客には気後れがするらしく、こちらのテーブルに専属のような形でひっついている。他の店でもそうだが、わりと安心できるキャラクターのようだ。それでも、友人の携帯電話の番号はちゃっかり聞いていた。(けっこういい男だし……)彼女は、私が飲めることをよく知っているので、みごとにウーロン茶だけしか飲まない姿を見て驚いていたようである。

その後、別の友人に会い、最初の友人が仕事の都合で帰った後も二時間ほど彼に付き合って、最後は送っていった。飲めるのに、飲まずに四時間……。ウイスキーを愛する男にとっては、なかなか微妙な時間だった。

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2006年7月 6日 (木)

美味しいお酒を飲みたい

バタバタと忙しい毎日が続いているので、ここ数日はいとしのウイスキーとの付き合いが滞っている。寝る時間が遅くなり、さらに朝早くから仕事の予定がはいっていると、どうしてもブレーキがかかり、ついつい飲む時機を逸してしまうのだ。

だが、さすがに今日は仕事も一段落した。幸い、明日は一時間ほどゆっくり出来そうな予定でもある。久しぶりにウイスキーを楽しむにはもってこいの条件が整いつつある。

飲むならば、グレンフィディックかグレンモーレンジ、あるいはキャンベルタウン・モルトのグレンスコシアかスプリングバンクでも良いかもしれない。グラスに氷を入れて、愛おしい琥珀色の液体をそそぐ。トクン・トクン・トクン…という心地良い音とシングルモルトの芳香が感性をくすぐる。

一人でも良いが、仲の良い、シングルモルトの味の分かる仲間が傍にいれば最高だ。BGMには、ジャズかシャンソン、ついでにいい女がいれば完璧、というところだろうか。

もちろん、今夜はそこまでは望まない。が、ウイスキーを味わうささやかな楽しみだけは体験できそうである。

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身体の距離・心の距離

またまた遠距離恋愛をしている。すぐに行って会える距離ではないので、もっぱら、メールと電話のやりとりが関係を支えている。

恋愛関係の基本は、お互いを感じあうこととお互いを信じあうことだと思う。お互いが近くにいれば、感じあうことはけっこう楽だと思うかもしれない。けれども、単純にはそうとは言い切れないところがある。近くにいるということで安心してしまい、きちんと相手を見ようとしないで時間を過ごしてしまうことが少なからずあるのではないだろうか。

高校生や大学生のメールのやりとりを見ていると、メールが来るとすぐに返さなければならないと思い込んでるように感じられることがある。けれども、それはお互いを信頼し切れていないことの裏返しである。信頼しあっている関係ならば、少しくらい時間を置いても、すぐに共感し合えるからである。……もっとも、その信頼を逆手にとって裏切るような人間もそれなりに存在しているが。

話を戻そう。遠距離恋愛が可能なのは、相手に対する信頼がある場合のみに限られる。ただ、信頼するということは、いつまでも放置しておけばよいと言うことでもない。何もメッセージを伝えずに放置しているのは、信頼ではなく甘えであろう。信頼を維持するためには、それなりの努力も必要である。何らかの形で、メッセージを送り続けること。そうした努力の前提があってこそ、信頼関係は維持でき、深まっていくのだと思う。

相手を信頼していれば、きちんと待つことが出来る。どんなに距離を隔てても、また時間を隔てても、待ち続けられるのは、それだけの関係があるからだろう。けれども、待つだけでは関係は続かない。距離を縮める努力、時間を重ねる努力もまた必要であろう。

自分がして欲しいこと、そして相手にしてあげたいこと……。今すぐでなくても、待つ努力と実現する努力が関係を支え、深めていく。お互いの努力が実感できれば、身体は離れていても、心はすぐ身近に感じられるだろう。けれども、人間は弱いものである。長い間離れていると、不安になったり不満になったりする。だからこそ、そばにいる時間も大切にしたい。ただ、それを浪費して、心の距離を遠ざけてしまわないようにしたいものである。

お互いが相手を信じられるかぎり、心は近くにある。それを維持し続けられる限り、恋愛は続けられるだろう。維持できなければ……。コメントはひかえておこう。

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2006年7月 4日 (火)

表現することの意味

自分の思いを表現することが大切だ、という話をときどきすることがある。

昔、仕事に行き詰まって転職を決意したとき、周囲に迷惑をかけないように辞めるまで心のバランスを保っていられたのは、小説を書き続けていたからだった。その時の小説は、まだ完結していない。原稿用紙に換算すれば軽く500枚を超える量になっているが、五年ほど前に中断したまま、いまだに再開していないのである。

けれども趣味で他の小説や童話は書いているし、プロの歌手である友達のために作詞をするようなこともある。自分の作品が、全国区のレベルだとは思わないが、書き続ける中で自分の心を細かく見つめ、整理することができるようになった。それが何よりの財産である。

その経験から、ときどき、さまざまな人から相談を受けてアドバイスをすることがある。深刻なものも少なくないが、本人が文章や詩、あるいは絵画や造形、音楽やダンスなどの表現手段(必ずしも上手い必要はない)を持っている場合は、立ち直るための支援やアドバイスはわりとしやすい。言葉でなくても、表現に自分のさまざまな思いを乗せることが出来るからである。

そうした表現の結果として生まれてきた「作品」は、最初は、荒々しかったり、まとまりを欠いていたりする場合も少なくない。けれども表現し続けることによって「作品」が落ち着き始め、やがてその心も安定し、成長していくステップを踏む場合が少なからず見受けられる。特に、その表現を理解し、受け止めてくれる人の存在が、その傾向を助けてくれる。

そうした意味において、表現することの意味は大きい。けれども、最近の深刻な相談の中には、当事者が、そうした表現手段すらも持っていないことがある。そうした場合の支援は本当に大変だが、気長にさまざまな表現にチャレンジしてもらい、自分にあった表現を見つけるしかない。

絶望しなければ、それなりに人生は長い。今の苦しみも、心の持ち方によって、乗り越えられることも少なくない。そして、苦しみを超えていく過程で、人は力をつけ、成長・成熟していく。そのちからは、ぜひ他の苦しんでいる弱い人々のために使いたいものである。それが、自分自身の心にゆとりを与えてくれるから……。

意外と、「自分ひとり」ではなく、みんなで幸せになる道は、たくさんあるのかもしれない。

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テロとの戦い以前に…

世界のあちこちで戦いや争いが続いている。その戦いの口実に「テロに屈しない」とか「テロとの戦い」という言葉が聞かれて久しいが、その背景となる問題点や矛盾を解決していかない限り、「テロ」は続くに違いない。

「テロ」を育てるいくつかの土壌のひとつに拡大する一方の経済格差とそれに伴う生存そのものすらも脅かす貧困の問題がある。なぜ、移民や労働を目的とした人々の移動が増加しているのか。それは、故郷では暮らせなくなっているという悲惨な現実があるからだろう。もし、自分の故郷で普通に職に就けて、その収入で普通に暮らしていけるのであれば、これほど多くの人が国境までも越えて移動しないだろう。

暮らせないから故郷を離れ、祖国までも離れる。では、暮らせなくしたものは何か。富の不均衡を拡大し、より多くの人々を今まで通りには暮らせなくさせてしまった「グローバル経済」のシステムであろう。けれども、移動した地においても、必ずしも職や生活が保障されるわけではない。確かに、故郷よりも高い賃金をもらえるかも知れないが、新しい土地において「普通」のレベルの生活が営めることは少なく、多くの不満を抱え込むことになる。けれども、本当の意味で民衆の声が政治に反映されることを実感できる、真の意味での【民主的なシステム】が完備されていれば、暴力やテロに訴える必要はない。声を上げても無視され、平和的に行動しても声は届かず、生活が苦しくなっていくのであれば、人は絶望するしかない。

実存主義哲学の先駆者キルケゴールは「絶望は死に至る病である」という言葉を残したが、生に希望が持てなければ、誰が命を大切にするだろう。命を大切にしようという思いや実感が失われているからこそ、テロがはびこるのであろう。

とすれば、必要なことは、力で押さえつけることではない。安心して生活できる経済環境を作ること、そしてそれを実現するために、普通の民衆の声がきちんと政治に反映される真の民主的システムを作ることである。民主国家を自称する国はたくさんある。けれども、本当に民衆の声が政治に反映されていると実感できるところはどれだけあるだろうか。日本は残念ながら失格だろうし、アメリカも同様である。暴力の応酬よりも先に、やらなければならないことはある。

私の声は小さいが、まず、声を上げることから始めなければならない。そして、見知らぬ人々の多くの声を集めて、ニセ民主主義や経済格差を拡大して多くの人々を苦しめる破綻した経済システムの虚構を暴いていかなければ……と思う。確かに、道は遠いだろう。けれども、絶望するのはまだ早いと思う。なぜなら、私は生きているのだから。

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2006年7月 2日 (日)

忙しさに埋もれないように

せっかくの土・日だったが、相変わらず一日ゆっくり休む……というような時間は取れなかった。多少なりとも休日めいた感覚は、今日、仕事が一段落した三時から二時間ほど昼寝が出来たことだろうか。

今年は特に時間が細切れで、ゆっくりと小説や詩に集中できる時間が取れない。けれども、それなりの充足感はある。ただ、ボランティアなど様々な活動をしているので、収入と言う面では、今ひとつだが…それでも食うに困っていないし、週に一度くらいは飲み歩けるのだから、それほどの不安や不満はない。吾・唯・足るを知るという感じである。

いろいろと相談を受けることがあるが、その時のアドバイスの一つとして、「ほかの困っている人を助けて上げられるような余裕を持てると良いですね」という言葉を口にすることがある。自分が大変だ、と思うあまり、そればかりを考え続けているとどんどん視野が狭くなり、広い視野で見れば簡単に見つかる解決策などもまったく見えなくなってしまうことが結構多いからである。そこで、いったん自分のことを考えるのを止めて、他者に目を向けてみる。そうすれば、自分と同じくらいに大変な人や、多分自分よりも大変であろう人の存在が浮かび上がってくる。その過程で自分自身の思考のどうどう巡りから心が救われる。「情けはひとのためならず」(「情けをかけるとその人のためにならない」という間違った意味ではなく「情けをかけたつもりが、けっきょく巡り巡って自分が助けられる」という本来の意味)、まさしく自分の心を救ってくれるのである。

忙しいという漢字は、【心】を【亡くす】と書く。他者を気遣う余裕を持てている間は、多分大丈夫なのだ。他者を支えさせてもらっている余裕に感謝しながら、忙しい毎日に負けないで、心のゆとりを失わずにやっていきたいと思う。

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2006年7月 1日 (土)

悪質な入管

先日、ちょっとした相談を受けて話を聞くことになった。知人のいとこがアジア人と結婚したのだが、そのアジア人がトラブルで警察に拘束された際に、警察から入管に問い合わせたところ、ビザの申請も受理していない」という回答があったために、そのアジア人は警察に拘束されたままで、入管難民法違反も含めて裁判をうけなければならなくなっているという。

ところが実は、結婚の際に入管に相談をして三月の下旬の時点で申請書類を出しており、シリアル番号も出ている。ところが、その際に担当者は自分の名前も告げず、書類にも本名をきちんと書いていない。そうした事実があった上で、さらに警察に対する虚偽の報告である。まさに公務員(それも上級の)による人権侵害大国・日本の現実を象徴するような悪質な事件の一つだろう。

相談者してきた人は、非常に怒っているし、また裁判においてもその点はきちんと主張したいと言っている。こちらとしても、出来ることは可能な限り協力しようと思う。

それにしても……である。以前に入管と関わったときにも、法律違反と考えられる対応がけっこうあったし、特にアジア人に対する差別意識を時々感じさせる言動がある。グローバル化を言うのであれば、まずこうした部分での国際的なレベルの人権意識はきちんと持ってもらわなければ、日本の評判を落とし、国益を害する。いっそ、国益を害したり国民に損害を与えるような組織は、一度つぶしてしまった方が良いかもしれない。

外国人に対する人権侵害については、また機会をあらためて詳しく書いてみたいと思う。

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