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2006年8月31日 (木)

聞くということ

話をちゃんと聞こうとするとき、それは話の内容を理解しようとしているのだろうか、それとも相手を理解しようとしているのだろうか。

別に恋愛関係だけに限らないのだが、これってけっこう興味深い問題である。恋愛関係において、男が良くやるミスは、恋人や妻の話の内容を理解しようとして、途中で問題点を整理し、相手の話をさえぎって解決策を提示してしまう事であろう。

すると男の考えに反して相手は怒り出したりすることがある。この対応の悪いところは、相手の話を最後までキチンと聞かず、途中でさえぎってしまうことに尽きるだろう。女の立場からすれば、解決策よりも何よりも、まずちゃんと聞いて欲しいし、感情に共感して欲しいのだ。けれども、男の思考回路からすれば、すぐに「結果」すなわち問題の解決策を探ろうとしてしまう。1つひとつの場面では小さなすれ違いに過ぎないが、度重なると大きな溝になってしまうこともある。気を付けたいものである。

そう言えば、最近、人の話をちゃんと聞くことの出来る人が少なくなっているような感じがしないでもない。話をちゃんと聞こうとすることは、相手を尊重し相手を深く理解しようとすることにつながっている。

仕事の「効率化」が進む中、忙しさに追い立てられ心の余裕を失ってしまいがちだが、せめて大切な相手との時間では、きちんと話を聞いてあげられる余裕と優しさを失いたくないものである。

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2006年8月30日 (水)

「自己チュー」雑考

最近、以前ほどには「自己チュー」という言葉は聞かれなくなった。にも関わらず、ニュースや雑誌・本などで取り上げられる事件を見聞きしていると「自己チュー」は以前にも増して増殖しているように感じられる。そこで、あらためて「自己チュー」について考えてみようと思う。

自分では基本的には穏やかな性格だと思っているので、あまり他の人と喧嘩をする事はない。それでも、天使や仏ではない人間の身である以上、まったく……という事はない。やはり、何人かとは喧嘩をしてしまった経験はある。本来、「来る者は拒まず、去る者は追わず」のポリシーなので誰とでも割と軽いノリで仲良くなるが、こちらから喧嘩別れのような形で精算するような関係は今までほとんど記憶にない。が、それでも幾人かの例外はある。

そうした事例における原因のほとんどは、あまりにも「自己チュー」で他人の言葉に耳を傾けず、自分勝手に解釈・行動して、関係者のみならずその周囲の人間にまで多大な迷惑を及ぼし続ける人間に対してホトホト愛想が尽きるという状況に陥った事による。が、こうした体験をエッセイのネタにしようとしているこちらも、ある意味では結構「自己チュー」である。皆さん、文芸創作者との付き合いには気をつけましょう。

 

さて56年前から、巷でよく聞かれるようになった「自己チュー」だが、自分勝手で自己中心的な人間をそう呼んでいる。その姿や背景について少し素描してみよう。

 

彼ら「自己チュー」は、他者からみて自分勝手でワガママと写る訳だから、彼もしくは彼女のことを「自己チュー」だと考えている人間が周囲に多いという事になる。つまり彼らのほとんどが人間関係に問題を抱えている人物であると言えるだろう。

 

人間関係の問題、平たく言えば他人とのつきあいだが、人間が11人オリジナルであり感じ方や考え方が異なっている以上、それは結構難しい。自分の都合や意見を主張し過ぎれば「自己チュー」と言われて関係が壊れるし、相手の都合や意見に合わせ続けていれば自分に無理が生じて精神的にストレスが溜まり、おかしくなってしまう事もある。

 

だから、「自己チュー」がすべて「悪」であると言える訳ではないが、結局、適当な頻度でコントロールできるかどうかにかかってくると言っても過言ではない。しかし、実際問題としてそのコントロールが難しいために有史以前から人類が長きに亘って悩み続けているのである。

 

おっと、大風呂敷を広げ過ぎたので、少し話を小さくしよう。

 

人間はお互いが掛け替えのない大切な存在であるとしても、実は、ある人にとって他の人達との心の距離は1人ひとりがすべて異なるものである。恋人・家族・配偶者・親友・友人・知人……。ある人には話せるが、別の人には話せないことがある。ある人に対しては損得を越えて協力することでも、他の人に対しては邪魔をする側に回ることすらある。

自分のとっての大切さの度合いは、周囲にいる1人ひとりの存在がすべて異なっているし、相手に対する言動も、自分にとっての大切さによって当然違ってくる。それが「人との距離」である。

 

例えば、私が以前喧嘩した男の1人を例にとって考えてみよう。彼は、人との距離の取り方が致命的に下手だった。何かのきっかけで少し親切にされるとすぐにその相手が「友達」(それも「親友」のレベル)になったと思い込み、彼が考え得る限りの「好意」を示し始める。どこかに旅行をしたり帰省したりするとお土産を買ってくるし、酒の席などで話題になった商品についてインターネットで調べ上げ、それを買ってきたりもする。「好意」を示された方は、それ程彼と「親しい」という認識はないのでそうした行動に対して違和感を覚えるが、変に波風を立てることもないと判断して、取りあえずは彼に対する「好意」として受け取る。当然、本当に受け取った側に必要かどうかは別問題であり、返って後で困惑したりするような場合もある。

 

そのような「勝手な好意」の積み重ねによって、本人は「自分がこれだけのことをしているのだから、相手も自分を大切にしてくれて当然」と考えるようになる。ところが、相手の都合を考えない「勝手な好意」であるために返って相手に困らせている場合もあったりする。また、何かを頼まれた場合でも、本当の意味で相手の身になって考えていないために、どうでも良い時でも余計な言動で気分を患わせる程度は序の口、時として本当に大事な場面でとんでもないポカをやらかして周囲に多大な迷惑をかけたりする事がある。

 

そうした事件の積み重ねが、やがては相手を怒らせ、関係をこじらせて、それでも自己弁護に終止して責任を取ろうとしないので、喧嘩別れという結果になってしまう。だからこそ、自分に対して優しい言葉を掛けてくれたり、穏やかに接してくれたりする人が現れると、すぐにその人を勝手に自分の「友達」と感じて、小さい子どもが母親にくっついて離れないように、その人にまとわりつき、自分の「勝手な好意」を押しつける。

 

けれども、それはまた相手に疎ましがられ、嫌われることにつながり、ちょっとした事でお決まりの喧嘩別れに終わってしまうことになる。その繰り返しの中で、心に寂しさを感じ続けながらも、次々に新しい人と「友達」になっては喧嘩別れをする事を繰り返し、人との関係に苦しみながらもその中を彷徨い続けている。

 

人間というものは基本的に弱い存在である。特に、最近の日本人は、子どもも大人もそうであると、様々な場面や機会を通じて実感することが多い。もちろんそれは自分自身も含めてなのだが……。

だが、「弱さ」が必ずしも「自己チュー」につながる訳ではない。最低限、そうした自分の弱さを直視し、自覚する覚悟があれば良い。そしてその弱点を直すべく努力を続けていれば、必ず周囲から損得や立場を越えたサポートが入る。周囲の視線や好意がその人を支えてくれる訳である。このように、損得を越えて支援してくれる人がいるという事実が、好意を受ける側の人物が「自己チュー」ではない証でもある。

 

それに対して「自己チュー」はどうか。その人の言動が周囲の損失や迷惑につながると見られる範囲において、そのマイナスを最小限に抑えるためのサポートはあるだろうが、彼や彼女自身に対するサポートは本人にとって大切な時ほど受けられなくなる場合が多い。そのような現実から考えれば、「自己チュー」は本当に哀れで悲惨である。しかし、それは彼もしくは彼女自身が招いた事なのである。

 

それでも、「自己チュー」は自分の行動ややり方を変えず、相変わらず「自己チュー」であり続ける場合が多かったりする。そうした姿勢や言動を非難することは簡単で、噂話や酒の肴にしてうっぷんを晴らせば、多少なりともその「被害」を受けている人々の精神衛生には良いだろう。だが、その背景をさらに深く掘り下げることの方がより建設的だと思うので、その辺りについて考えてみよう。

 

彼もしくは彼女たちが「自己チュー」であり続ける理由……。それは、自分の心の深い部分で自分自身の存在に対する自信がなく、また自分自身の「弱さ」にきちんと目を向け、認める強さを持ち合わせていないことによるのではないだろうか。例えば、学歴や地位を前面に出して、直接・間接の形で「特別扱い」を要求する輩がいる。けれども、そうした人間ほど実力や人間的魅力がない場合が多い。従って、彼らは学歴や地位といったものにすがりつき、さらに醜態を晒すことになるのである。だが、それは彼もしくは彼女たちが自分の「弱さ」を安心して出せる機会のないまま、そこまで年齢を重ねてきた結果なのかも知れない。

 

自信は、その字の示すごとく自分自身への信頼によって育まれるものであり、その自分自身に対する信頼は周りの他者に対する信頼と表裏一体のものである。自分の弱さを認められない背景には、周囲に対する不信がある。失敗や弱さが自分への虐待や攻撃につながる体験を小さい時から数多く経てくれば、周囲に対する信頼は育まれず、自信を持てない人間になる。

 

その自信のなさをカバーするのに彼等は外からの権威を借りてくる。自分の言動ではなく権威者の言葉や行い、あるいは知人の業績や言動を利用して、自分を攻撃してくる(と信じ込んでいる/誤解である場合も少なくない)相手を攻撃し、優位に立とうとする。あるいは弱い立場の人々を攻撃する事で自分の「強さ」(もちろん錯覚に過ぎず、これがいじめや差別となる)をアピールして不安を紛らわせようとする。ガードする必要のない「弱さ」を自分と他人の目からごまかすために過剰に反応し、結果として関係をぶち壊してしまうのである。

 

結局、「弱さ」がウィーク・ポイントとなって自分が攻撃の対象となると信じているので、外に対して失敗や弱さを認めず、虚勢をはって自分の小さなプライドだけを守ろうとするようになるのであろう。だが、そうした姿勢は、多くの人々の心に敵意を生じさせると同時に、好意を持って近付いてくる相手に対しては、拒否や攻撃の壁となってしまう。その結果、彼や彼女たちは本当に自分を慈しみ守ってくれるかも知れない相手に対してさえも牙を剥き、爪を立ててしまうのである。

 

これは何も一般人だけではない。政治家や公務員の中にも、自分のミスや失敗を認めずに強弁と言い逃れと情報操作を繰り返してそれをごまかそうとする心の弱い輩は多い。小泉首相、パロマの経営陣、「自己チュー」と見受けられる人々は多いが、彼らの「自己チュー」によって多くの人々が苦しみ、命さえ失われている悲惨な現実がある。彼らに自分の失敗を認める「強さ」があれば、事態が悪化する以前に改善できたであろうと思われる事は多い。権力を持つ人々は、間違いを認める「強さ」を持つ事が最低限の「自己責任」だろう。

 

最後に、こうした分析・考察の上に立った「自己チュー」に対する接し方について述べておこう。自分に、守るべき人々や仲間がいて、「自己チュー」が自分や大切な人々に関わってくる場合は、自分自身の力量の範囲で対処が可能である限り、あまり深く関わりを持たない関係で止どめておくのが利口だろう。

自分の力量の範囲で対処が不可能と思える場合は、彼や彼女たちと喧嘩してでも自分の守りたい人々をガードした方が良いだろう。こちらが強い意志でガードを固めて対処していれば、自分に自信のない彼等は、敢えてそれ以上の侵入を試みないと推測できるからである。その場合は、安易な妥協や思いやりは返って「自己チュウ」の甘えや暴走を引き出してしまう場合があるので、毅然とした態度で臨むよう心がけると良いだろう。

それに対して、「自己チュウ」である彼や彼女たちが守らなければならない大切な相手であるならばどうだろうか。意外な事かも知れないが、「自己チュウ」の精神的背景には自分自身の存在に対する自信のなさ・不信感が存在している場合が少なくない。ワガママで自分勝手にふるまっているようでも、裏を返せば、自信のない弱い自分を強く見せようと無理を重ね、注目を集める事で自分に対する「真実の愛」を確かめたいともがいている哀しい存在であったりする。だから、そのような背景を意識しながら優しく丁寧に彼もしくは彼女に対応していくような大きく深い「愛」が必要だろう。

また、自分自身が「自己チュウ」ではないかという自覚、もしくは疑いを持っている場合は、欠点をも含めて自分自身を見つめ直し、許す努力から始めてみよう。そうすれば、本当の意味で自分を愛する事が出来るようになり、無理に強がる必要も他者からの攻撃を恐れる事もなくなる。そして、自分を許し、愛する事が出来るようになると、不思議な事に他の人々も心から愛せるようになるものである。自分を愛し、周囲に深い愛情を持って接する努力を続けていけば、やがては「自己チュウ」も卒業できるだろう。

結局、すべては愛と努力の積み重ねによる。深い愛と信頼に基づく正しい努力と、家族や友人や周囲の仲間の協力によって、どれ程の高い壁でも越えることができる。人生とは、そんなものである。

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2006年8月29日 (火)

「めんどうくさい」と思う時

若い頃はそうでもなかった事が、オジサン年齢になるとメンドウになったり鬱陶(うっとう)しくなったりする事がある。恋愛なども、ある意味ではそうである。

もともと男と女は肉体的にも精神的にもけっこう異質な存在である。(もちろん、同性でも1人ひとりはけっこう違っていたりする)だからこそ、ある程度お互いをわかり合い、共感し合うためには、それなりの時間が必要になる。例えば、一緒にいて他愛のないことを話したり、メールや電話での会話、手紙のやり取りなどでも、「効率」という面では大いなる無駄、と思われることも少なからずあったりする。けれども、お互いの関係を深めていくためには、この【大いなる無駄】が非常に大きな役割を果たす。それに手を抜けば、恋愛などすぐに終わってしまうと言っても言い過ぎではないだろう。

ただ、恋愛の初めの頃や若い時代には、この無駄な時間がとても楽しく感じられる。けれども、オジサン年齢になると、それなりに様々な仕事や責任があったりするので、それらとの関係上、この大切な【無駄な時間】を面倒くさがったり、うっとうしく感じたりすることがある。それが言葉や行動の端にポロリと出てしまったりすると恋愛は危険信号、そこから心の距離が生まれたり、あるいは広がっていったりする。

もちろん、よほど深く愛されている場合はその限りではないが、その恋愛を大切にしようと思っている場合には気を付けたいところである。とは言っても、もちろん、人生において100%の人が「恋愛がすべて」と考えているわけではないし、同じ人間であっても時と場合によっては、恋愛以上に大切なものがあると感じる場合もあるだろう。その場合は、潔く恋愛以外の選択をすれば良い。それもまた人生である。

ただ、関係を大切にしたい、と考えるならば【無駄な時間】も「めんどうくさい」などと思わずに大切にいく必要があるだろう。もちろん、いつもそう出来る訳ではないのだが……。

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2006年8月28日 (月)

国家権力の【約束】としての憲法

ポスト小泉ダービーの報道がマスコミを賑わしている。その報道を見ていても、今後の日本の行方は見えてこない。1つは、候補者の未来を語る能力の欠如の問題もあるのだろうが、マスコミの側も、それを追求できずに競馬やペナントレースの勝者を予測する程度の掘り下げしか出来ない能力の低下の問題もありそうだ。

ただ、現状からすれば憲法をどうするのか、という問題も、日本の未来を考えていく上で重要な視点を提供してくれる。その際に、忘れてはならないのが、憲法とは最高法規であり、1つの国の国家権力がその国民および他国政府に対して「力の濫用をしない」と誓った破ってはならない約束である。

与党の憲法論議などを聞いていると、時々、憲法改正によって国民の権利を制限し義務を強化しようという19世紀レベルの不勉強な輩がいる。そういう連中に限って、公務員や国会議員の「憲法遵守の義務」を口にしない(多分、知らないのであろう)のみならず、靖国神社参拝の行動でもわかるように、神道以外の宗教を信じている国民の信教の自由を平気で侵害してはばからない。人権は、政治権力を持つ強者よりも持たない弱者の方を尊重しなければならない、という世界常識すらわきまえていないのである。

そうしたレベルでしか考えていない(あるいは考える程度の能力すら持ちえていない)から、憲法が他国に対しての約束でもある、という発想はないのだろう。例えば、批准したはずの人権関係の条約を平気で踏みにじることのできる法改正や法運用を行ったりしている例がある。悪質なものでは、入管難民法をたてにして国連が認めた難民を追い返そうとしたこともあった。9条の平和主義も、解釈改憲の積み重ねによって近隣に勝るとも劣らない装備を持つ「自衛隊」が存在し、イラクにまで派遣されている。さらにこの9条を変えることは、他国に対して平和主義の撤回を示すことにもつながりかねず、「先制攻撃」の口実を与えることにもなりかねない、という可能性には誰も言及していないようである。

憲法改正に言及する前に、まず憲法とは何なのか、そして国家権力の側が、それを最高法規として遵守しているのかをよく考えてみる必要がありそうである。私は、主権を有する国民の一人として、それが為されているのかを注意深く見ていきたいと思っている。

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2006年8月27日 (日)

いじめ・暴力の裏側

中学生に「どうして【いじめ】はあるんですか」と聞かれたことがある。即座に「いじめる本人の心が弱いからだよ」と答えた。続けて「本当に強い人はいじめない。その必要がないんだ。でも、本当は弱い人というのは、それをごまかすために力を周りに誇示しようとする。だから、自分より弱い人にしか向かっていかないんだ。つまり、分かっている人から見れば、【いじめ】をする人は自分が弱虫だと行動で示しているのと同じなんだ」と説明してやった。聞いてきた中学生は、それで納得したようだった。

現在、【いじめ】や【暴力】が非常に増えてきている印象がある。被害者に対するケアはもちろん最優先でやる必要があるが、【いじめ】や【暴力】を減らしていくためには加害者やその予備軍に対するケアも必要となる。周囲を信頼できずに孤立し、ストレスをためて爆発したり、過剰に圧力を感じて【力】を示さなければならないと誤解したりした結果が【いじめ】や【暴力】につながっていると考えられる場合が少なからずある以上、彼らを孤立させずに共感し、「弱い自分」をそのまま認めて強くなるよう努力していくことをサポートしていけば、【いじめ】や【暴力】は減少していくだろう。学校においても、社会生活においても、まず、そういうことを考える必要があるように思われる。

この分析は、実は、現在の国際政治や国際社会にもつながっている気がしないでもない。アメリカにしろ、イスラエルにしろ、強硬に軍事力を行使しているが、実はそれは政治力や外交力の低下があるからこそ、軍事力に頼っているのではないのか。同じように日本も、憲法を改正して軍事力を増強する道を開こうとする政治家の発言の数が増えているようだが、それは政治力・外交力の低下を軍事力という【暴力】でごまかそうとしている結果ではないのか。私たちは、そういう事も考えてみる必要がありそうだ。

相談をしてきた中学生には「本当に強い人は、実はとても優しい。本当に強い大人になれるといいね」という言葉を最後に贈った。私も、大人として本当に強くなれるように努力を続けたいと思う。そしてそれは、一般の大人にも、そして日本政府にも必要なことではないだろうか。

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2006年8月26日 (土)

自分というリアリティー

「自分」というものについて考えるとき、どうもイメージとして「西洋的な自我」に近いものを思い浮かべるような感触がある。そして、以前はそれに対する違和感はあまり感じなかったように思われる。

けれども、最近は少し違う。西洋的自我は、ギリシャ・ローマやキリスト教の文化的影響を受けた西洋という文明圏の中で発達したものであって、別の伝統や文化・歴史をもったところでは別の「自分」意識があっても良いのではないか、という気持ちが強くなっている。つまり、日本には日本の文化や伝統や精神的風土に根ざした「自分」があったのではないか、いや多分あったのだろう、という思いである。

ただ、それが今の現実世界に適していて、我々の人生を幸福に導くか、というと必ずしもそうとは限らない。「西洋的自我」を知らないままに普通に暮らしていけるような状況であればそれで良かったかも知れないが、今の我々は「西洋的自我」の洗礼を受けており、グローバル化の進展の中では知らない時代に戻ることは不可能だからである。

ただ、もともと主語をなるべく省略して会話の中で「自分」という存在の突出を避けようとする構造を持つ「日本語」という思考形式をベースに生きている日本人にとって、「自分」を実感していく過程での周囲の共感は大きな意味を持つように感じられる。それが実感でき、安心して自分のありのままを出していける「場」を持ち得るか否かが日本人にとっては特に大きな意味があるのではないかと思われるのである。

そのためには、1人の時間も当然必要だが、1人でいるだけでは「場」は作れない。だからこそ、自分のありのままを出していける「場」や仲間を作っていくことが大切になる。そのためには、どうすれば良いか。浅い関わりだけを広く持っていても、自分のありのままを出すことは難しい。時には傷つき、時には疲れ、時には苦しむかも知れないが、そうした感覚と折り合いをつけながらも、関係を深めていく努力が必要となるのである。

ただ、一日のすべての時間でそうする必要はない。何かのときに、安心してありのままにふるまえるところ・関係を1つでも2つでも持っていればいいのである。そうした関係の積み重ねの中で「自分」が徐々に固まっていく。自分とは、探すものではなく、周囲の人々との関係の中で固めていくものではないか……そんな風に思う。

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2006年8月25日 (金)

「押し付け憲法」論の嘘

自民党総裁選が近づいているが、目にしているマスコミ報道の範囲では、競馬中継かペナントレースの解説でも見ているような「…が有利」というような文字や発言ばかりが目につき、マスコミの能力低下も末期的…と感じてしまう。

が、嘆いていても仕方がないので、当然の争点の1つになるべき話題であるはずの日本国憲法について考えてみよう。現在では「日本国憲法は押し付け」という主張が声高に語られているが、中学校や高校で社会科を教えた経験のある立場からすれば、「もう一度現代史・憲法史を勉強しなおせ」とダメ出しをせざるを得ない。大体、平和主義の戦力の不保持などは幣原喜重郎など日本側が言い出した事だし、国会に提出されたGHQの原案も自由民権運動の論客の1人である植木枝盛の憲法草案を元に民間から出されたものを参考にして、改正を骨抜きにしようとする国会論議の方向を修正しようと出されたものである。また、重要な修正もけっこう受け入れている過程をきちんと学んでいれば、「押し付け」などという意見は、自らの無知と不勉強を示す以外の何物でもない。

逆に「押し付け憲法」論による憲法改正(というよりも改ざんと言いたくなるようなポリシーのない案がとある政党などから出ているが)そのものが、戦争を続けたがっている某国が自国の利益のために日本を利用しようと画策している「押し付け」ではないか、という疑いが様々な文献から浮かび上がってきている。

外交戦略(こういう言葉は使いたくないが、日本を某国に売り渡す売国奴が政治・行政の中心部に跋扈しているので、せめて【国益】くらい守れよ…の意味を込めて、敢えて使っておく)上からすれば、平和主義は単なる国内問題ではなく、周辺諸国に対する不戦の約束の根幹に関わるものであり、これを変えて「普通の戦争をする国」にしてしまえば、「先制攻撃」の理論(某国が使い泥沼にはまっているが)をたてに、攻撃を仕掛けられてしまう危険性が高まる。ところが、「改正論者」はこの点にはまったく言及していない。そうした視点を持てないのであれば、政治家として、あるいは評論家として力量不足だし、知っていても言及しないのであれば、詐欺師の売国奴である。

こうした悪質な言動を放置することは、日本を「戦前」に導くのに手を貸すことであり、責任ある大人として次の世代に日本を渡すためには、知ることと伝えることが必要となる。だからこそ、ここで書いておこう。「押し付け憲法」論は無知と不勉強の産物である。そして、「押し付け憲法論による憲法の改正」こそが押し付けである。国益を守り、周辺地域の国々との関係を大切にするためにも、このことをきちんと書き記しておきたい。

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2006年8月24日 (木)

詩が書けない!!

いろいろと金にならない活動をしているが、文学なども出費ばかりがかさむ活動の1つである。現在、二つの同人誌と関わっているが、そのうちの一つの作品締切が20日だった。ちょうど犬山市であった教育研究会と重なっていたために、県の事務局長をしている関係でそちらを優先したが、無理を言って少し待ってもらっている。

それにしても…この4日間、まったく手につかない。色々と多忙なせいもあるのだが、詩を書く際の独特の精神状態にまで自分を持っていくことができないのだ。結局、時間がぶつ切りになってしまうせいで、集中に至るまでの時間を確保できないのである。

それでも、1秒、また1秒と時間は過ぎていく。時間は作るものだと思っているし、実際にある程度やり繰りをして、やることが多い割には結構好きなこともしている。けれども、創作活動に必要な時間は、そうした「効率」ではどうにもならない別次元の問題である。

もちろん、自分の「作品」がそれほどのものとは思っていないが、取り組む際には、できるだけのことはきちんとしたい。それによって、結果とは別に納得できるもの、勉強になる何かを得ることができるからだ。

だが、今回は思いはあっても集中する時間がなかなか作れない。思いだけが空回りをしている状態である。今週中には何とかしたいのだが……。

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2006年8月23日 (水)

私たちのユートピア

彼岸、天国、桃源郷、竜宮城にエルドラド。伝説や宗教の世界を散策すれば、様々な名前のユートピアが現れる。それだけではない。小説や童話、絵画にイラストあるいは映画などの場面にもユートピアは登場する。また、哲学書を紐解いたりしても、ユートピアを見つけることが出来る。それ程までに、ユートピアは、人々の心を引き付ける。ユートピアは、人間の心の内にある様々な時空を越えて至る所に存在しているのである。

 

美しいユートピア…素晴らしいユートピア。ユートピアは人々の憧れだ。しかし、その姿を正確に描こうとすると、何故か輪郭がぼやけ、幻想の彼方へと去って行ってしまう。ユートピアというのは、単なる幻にすぎないのだろうか。その甘美な言葉の響きは人の心を惑わす麻薬のようなものでしかないのだろうか。否。そう言って諦めてしまうには私の心は若すぎる。今一度、私もユートピアというものを考えてみよう。

 

私には、「ユートピア」という言葉を聞くと、つい、頭に浮かんでしまう本がある。古谷三敏氏の描いた漫画『ダメおやじ』がそれだ。昭和52年から57年にかけて、とある少年誌に連載していた作品なのだが、何故か、その後半でユートピアがテーマになってくるのである。

 

作品の中でプラトンの『国家論』が語られる。また、一方では、「酒が好きな人にとっては、酒のあるところがユートピアだ。」という意見も出てくる。遊園地、家事をしなくて済む世界、そして、人間が1人もいない世界…。様々な人がユートピアを語っていく。どれも、一面では「なるほど…」と思うのだが、どこか、違和感を感じてしまう。

 

確かに、自分の好きなものに囲まれ、好きなことが出来るとしたらそこはユートピアだと言いたくなるに違いない。しかし、酒が好きな人がいれば、大嫌いな人もいる。酒好きの人にとってユートピアである酒に満ち足りた場所は、酒嫌いの人には地獄になってしまうだろう。それではとてもユートピアの名は与えられない。ユートピアというからには、1人の人間だけでなく、全ての人々が幸福を感じられるところではないだろうか。つまり、ユートピアというのは「私の」ではなく、「私たちの」でなくてはならないのである。

 

ということで、今から、「私たちの」ユートピアについて考えてみよう。 ユートピアとはどんなところか。そこは、全ての人が幸福に生きられる世界である。したがって、ユートピアを考えるに当たってのキイ・ワードは、「幸福」である。そこで、まず、「幸福」について考えてみよう。

 

人は、どんな時に幸福を感じるのだろう。好きな物に囲まれている時、好きな人と時間を共有している時、そして、好きなことをしている時…。まず、思い浮かぶのはそのような時だろう。いずれにしろ、「快」を感じるような時とでもまとめられる場面である。もちろん、「快」を感じること自体は決して悪いことではなく、幸福の1つの条件となるだろう。しかし、「快」を感じることが出来ればそれだけで本当に幸福と言えるのだろうか。

 

メーテルリンクの『青い鳥』で、チルチルとミチルが「幸福の花園」に行く場面がある。そこでチルチルの回したダイヤモンドの光に追われて逃げていく「見せかけの幸福」の中身と「快」を感じることの中にどこか重なりあっている部分があるように思われる。「快」を感じることは、人間の欲望と深く結びついている。欲望を完全に否定するつもりはないが、それに振り回されてしまうと、かえって何も得られなくなることも少なくない。つまり、「快」を感じることだけが幸福の条件とは言えないのである。

 

では、いったい何が重要なのだろうか。私は、1人ひとりが「生きがい」を持って、精一杯自分らしく生きられることだと思う。そして、それが保障されるためには、自分の今のちからに応じて働き、他の人々の役に立つと同時に、またその活動が正当に評価されなければならない。それに加えて、必要とあれば、さらに自分の能力を伸ばす機会や環境が与えられなければならない。その鍵を握るのは「教育」である。つまり、「私たちのユートピア」は、「教育のユートピア」でなければならないのだ。国家や一部の人たちのために行われる教育ではなく、1人ひとりの能力をその人の現在のちからや状況に応じて最大限に伸ばすような教育が保障される世界、それが「教育のユートピア」であり、「私たちのユートピア」なのである。

 

この「教育のユートピア」について、もう少し考えてみよう。

 

まず、「教育」の中身である。1人ひとりのさまざまな能力を伸ばすことが目的である以上、選別のための競争原理や効率主義、教育内容の押しつけなどがあってはならない。(しかし残念なことに日本の教育の現状はそれらが我が物顔にのさばっているのである。)そして学習の期間や内容については大幅なゆとりが設けられ、学習者の状態や状況に応じて変更されるようにする。そのためには、当然、旧来の学校とは異なる教育方法が取られることになる。それは、教科書などによって固定された内容を強制的に覚えさせられ、その知識の量や処理能力によって選別させられるような上から押し付けられる教育ではなく、学習者1人ひとりの可能性を認め、それを信じて展開される「対話の教育」である。

 

「対話の教育」では、学習者の可能性に絶対の信頼が置かれ、1人ひとりの学習者の立場に立って教育が展開されていく。それは、学習者の発言、文章・絵画・音楽・身体の動きといった、学習者自身の表現から出発し、学習者と指導者、あるいは学習者相互の対話の中で興味や知識や行動を練り上げていく形で進められる。イメージとして、ソクラテスが若者たちと対話をしながら彼等の内から知識を引き出していったやり方を想像すると分かりやすいかも知れない。それが、1学習者と指導者との間だけで行われるのではなく、学習者相互の間でも対話などを通してお互いに影響を及ぼし合いながら共に高まっていくのである。

 

このような形で1人ひとりが学習を進めていくと、その過程で学習者相互の間に豊かな人間関係が形成されていく。対話を通して、共感や相互理解が得られ、それがさらに深まっていくからである。またその中でお互いに正しく評価する姿勢をも学んでいくだろう。こうして学習者は、お互いの存在を尊重しあい、また、お互いに協力しあいながら、自分の可能性を無限に追及していくことが出来るのである。

 

この教育の前提として、学習をするための条件が国や公共団体を中心にして整備されていなければならない。しかし、それは、あくまでも外的条件であって、内容についてまで口出しすることは許されない。(この点は教育基本法第10条でもはっきりと規定されている筈なのだが、現状はどうだろうか…。)学習内容の強制は、その枠内に学習の展開を閉じ込めることとなり、発達の可能性を制限してしまうからである。学習内容に強制は要らない。個人の興味や関心から出発しても、整えられた条件のもとで学習が展開され、深まっていけば、ごく自然に様々な分野との関連が生まれ、実践的可能性や応用力に富んだ学力が1人ひとりの身についていくのである。

 

また、年齢による制限・制約を排除し、たとえ老人であっても、いわゆる学齢期を越えた人であっても、自分の現在の発達段階や知識の状態に応じた学校で自由に学習出来なければならない。学習者の年齢や理解の速度、学習する場に因る差別は完全に否定されるということも重要な条件である。そして、必要とあれば、仕事を一時休職してでも学習することに社会の理解が得られる状況も必要である。

 

こうして、徹底的に学習を保障する事は、様々な分野での基礎研究や技術の研究・開発の土壌を豊かにし、長期的な展望に立てば、産業のさらなる発展をも約束してくれるものとなるだろう。教育は、まさしく、「国家百年の計」なのだ。1人ひとりの幸福を考えた教育を実現出来れば、それは、1人ひとりが幸福に生きられる社会につながっていくのである。

 

このような形で、教育が1人ひとりの学習を保障する社会が実現すれば、当然、その構成員であるすべての人の能力が高まり、それによって社会も無限に発展していくことになる。常に前進し、発展していく社会…。そこは、希望と活気に満ち、その構成員1人ひとりが「生きがい」を持って生きていくことの出来る社会である。これこそ、まさしくユートピアと言えるだろう。 その社会を、より具体的に描く事は止めておこう。私の限りある想像力で、無限の可能性を持つ世界を思い描くことは不可能だからである。1人の人間の想像力に収まり切れない程の可能性を持った世界、それこそ、「私の」ではなく、「私たちのユートピア」なのである。

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幻のユートピア

人は誰でも、自分だけのインナー・スペースを持っている。そこは、親や友人であっても、また、どれ程の力を持った権力者であっても、侵すことの出来ない場所である。しかし今、その大切な場所が緩やかな侵略の危機に晒されている。マス・コミニュケーションの発達が、大切なイメージの世界を広げると同時に、1人ひとりの独自性を次第に奪おうとしているのである。 情報の洪水。イメージの氾濫。一見、それは人間の内的世界を豊かにするもののように感じられる。しかし、氾濫した河川が全てを飲み込んでしまうように、多すぎる情報の渦の中で、人は、自分自身の感性を鈍化させられ、やがてはそれを見失ってしまうのである。

 

例えば、生活。

 

肥大した鮮やかな(しかし、良く見れば毒々しい色彩を持った)イメージの世界は、一種のユートピアである。自分の精神をその中にまどろませてさえいれば、人は幸福を感じていられるのだから。いや、幸福というよりも、単なる快楽といったほうが正しいだろうか。しかし、その状態は心地好い状態であり、決して不幸を感じないことだけは確かなのである。だから、そこは、ユートピアと言っても差支えがないと思われるのである。

 

だが、そのユートピアからは、日々の生活が抜け落ちてしまっているのが普通である。いや、その中に没入することによって、人は日々の生活を忘れようとすると言った方がいいかもしれない。いずれにしろ、そのユートピアは、日々の生活、つまり日常を否定することによって入ることを許される夢の世界なのである。例えば……。

 

何気なく入れたテレビのスイッチ。次の瞬間、画面は、日常とは別の世界を映し出す。光の中で歌い、踊るアイドルたち。あるいは日常的にはありえない、ハンサムや美人ばかりが出てくるドラマ……。その映像そのものが、美しい夢の世界……ユートピアである。

 

何気なく開いた漫画雑誌。そこにも、一見、日常を装った全く別の幻想世界が潜んでいる。日々の生活の中にそこに登場するような「素晴らしい仲間」や「素敵な恋人」は現れないし、また、自分自身も、主人公のようには行動出来ない……そんな度胸も、優しさも、勇気も、純粋さも持ち合わせていないのだから。そこも、美しい夢の世界……ユートピアなのだ。

 

何気なくスイッチを入れたTVゲーム。そこにも、多様な別世界が広がっている。1度や2度死んでも(ゲーム・オーバー)3度、4度とやり直しの出来る別世界となっている。いくつもの命を持って冒険を楽しめるアドベンチャー・ワールド。ここもまた、楽しい夢の世界……ユートピアと言って良いだろう。

 

いくつかの例をあげてみたが、いずれも大変日常的な、どこにでもある、しかし、日常の生活から遊離することによって入っていくことを許される夢想世界としてのユートピアである。

 もちろん、私は、この様な夢想世界を全面的に否定しようと言うのではない。日常とは違う美しい夢の世界もまた必要なのだ。それが人々の新しい活力となって、日常の中にある様々な矛盾を切り開き世界を変えていく出発点となるのであれば……。

 

しかし、現状を見てみると、どうもそうではないらしい。子どもたちや若者たちは、日々の生活を忘れ、幻想のユートピアの中に自分自身の心を閉じ込めていく。他の人々との交流を嫌い、自然や生き生きとした生活を忘れ、一見雑多な色彩を持った、しかし、他の誰かの手による安易な幻想世界に落ち込んでいくのである。

 

溢れるリズムとメロディーの中に、氾濫する色彩と映像の中に、生々しさを失ったケイタイやマイクを通った電子音声の中に、人や自然とのつながりを失った若者たちが漂う。そこは、自分1人だけのユートピア。アクセスしてくる相手は在っても、この閉ざされた世界に土足で踏み込み、花園を蹴散らす者はいない。いや、彼等は、そのような存在は自分の方から拒否してしまうのである。無視、反抗、暴力という言葉を使って…。

 

そうして、彼等は自分だけのユートピアの中に閉じこもる。やがて、現実が見えなくなり、現実に対処し、それを変えていく力を、未来への可能性を放棄してしまう。権利を主張、擁護し、義務を果たす責任と自覚を持った大人になりきれず、シンデレラとして、ピーターパンとして、青い鳥を求めて自らの幻想によって空洞化されてしまった現実を彷徨い歩く。シンデレラ症候群、ピーターパン症候群、青い鳥症候群などがそれである。

 

彼等は、結局、現実の世界ではユートピアに到達することは出来ないのである。自らの幻想の中にあるユートピアを破壊しない限り…。そして、そんな彼等が到達出来るのは、自らの内にある幻想の世界……幻のユートピアだけしかないのである。

 

そこには、確かにユートピアが在る。しかし、それは、何と悲しいユートピアだろう。余りにも不確かな、シャボン玉のように脆い、幻想のユートピア。無数にあるがゆえに、はかなく、淡く、それゆえに美しいのだが、未来への可能性を浪費してしまう仇花として咲き誇るユートピアなのである。

 

こんなユートピアなど要らない。そう、叫ぶことが出来たらどんなに幸福だろう。しかし、私自身、自らの内にある幻のユートピアをどうしても捨て去ることが出来ないでいる。麻薬のような、美しきユートピアを……。

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2006年8月21日 (月)

短歌雑考

十数年前、初めて自分の意思で短歌を作ってみた。というよりも、心に沸き上がる想いを言葉にしてみたら、それが自然に31文字の形をとっていたと言ったほうが正しいかもしれない。それをノートに書いて、あらためて読んだとき私は思いもかけなかった驚きを味わった。凝縮した自分の言葉が、ある人への想いと重なり合ってとてつもなく愛しかった。遥かな過去から日本の中で受け継がれてきた短歌。それを守り、そして作り続けてきた人々の気持ちが、ほんの少しだけ分かったような気がした。

 

遠い遠い昔、言葉には重みが在った。人々の想いが、人々の願いが、そして、人々の祈りが言葉に込められ、それが、1首の歌となって結晶した。それは、単なる作品ではなく、行動を、生き様を、そして未来までも内包したものだった。……言魂信仰である。

 

倭武命(ヤマトタケルノミコト)の古事を見てみると鎮魂のための、そして哀切の感情を込めた歌の存在が確認される。また、柿本人麻呂は壬申の乱の後、近江の都を旅してたくさんの戦死者のために挽歌を詠んでいる。祈りや感情が歌という形に結晶し、それが死んでいった人の魂を鎮める。歌、すなわち言葉の持つ神秘的な力を人々は信じていた。誰もが心の内に持つ願いや祈りを歌にして、祟りなどの不幸から救われることを、希望がかなえられることを望んだ。日々の生活と未知なるものに対する信仰が溶け合っていた時代。1つひとつの言葉が、そしてそれが練り上げられた歌そのものが人々にはとても大切なものだった。

 

このような時代の歌の中で私が好きなものを何首かあげてみよう。

  君が行く道のながてを繰り畳ね焼きほろぼさむ天の火もがも

                        狭野茅上娘子

  我が背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし

                        大伯皇女

狭野茅上娘子の歌には、鎮魂というような意味合いはないが、それでも、恋人の中臣宅守の配流による別れの悲しみ、そしてかなうべくもない願いがひしひしと伝わってくる。はっきり言えば恋の歌である。しかし、その恋は、すべての想いを、そして一生を賭けることをもいとわない程の恋である。今の時代でこそ「たかが恋」かもしれないが、流行りのアイドル歌手の歌とは比べものにならないほどの重みが1つひとつの言葉に感じられる。

 

一方の大伯皇女の歌はもっと重い。何気なく見れば恋の歌の1つというような感じもするが、「我が背子」が謀反の疑いをかけられ大和に帰れば殺されるであろう弟の大津皇子だということを知っていれば、その哀切の想いが挽歌の色彩さえ帯びて悲しく伝わってくる。歌は、このような重みを持った言葉の結晶だった。だからこそ、その神秘の力も信じることが出来たのだろう。

 

その後、時代は下って平安の貴族文化が咲き誇る。そんな中で多くの恋の歌が生まれる。様々な技巧が発達する一方で、真摯なまでの色合いは薄れてはいったが、それでも、歌に託された想いには真実が含まれていたように感じられる。例えば、こんな歌が好きである。

  玉の緒よ絶えなばたえねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

                        式子内親王

やがて新古今の時代が過ぎ、歌はかつての勢いを失っていく。そして明治。近代に入って短歌の勢いを蘇らせた人の1人に与謝野晶子がいる。何気なくこの1首を選んだが、彼女の激しい想いが伝わってくる。その激しさが好きである。

  やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

                        与謝野晶子

そして現在。爆発的に売れていた時はどうしても読みたくなかったのだが、少ししてから読んでみた俵万智。言葉の中に狭野茅上娘子の時代のような重さは感じられないが、それでも、さらりとした素直な想いが伝わってくる。

  母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる

                        俵 万智

世は軽薄短小の時代。政治家の言葉も嘘で塗り固められていて、軽い。そんな中で日常的な言葉も重みを失ってシャボン玉のように漂っている。俵万智の歌のさらりとした感触は、そうした時代の影響かもしれない。それでも、彼女の歌には素直な想いがある。事実とは異なっていても、その中に現実の生活があり、現実の言葉がある。その言葉を詠み込むために、時として五・七・五のリズムが崩れるものもあるがそれに拘らない素直さが彼女にはある。俵万智の歌は、正直な想いの中から生まれる真実の夢である。だから、彼女の歌が嬉しい。

 

8ビート・16ビートのリズム、早口で捲し立てるラジオやテレビ。その中で軽薄な言葉が流れ、漂い、使い捨てられて消えていく。たくさんの嘘によって貶められ、その場限りのイメージと効率だけで寸断され、歪められ……。祈りどころかささやかな願いや想いすら乗せることも儘ならず、シャボン玉のように生まれては消えていく言葉。もはや、そこには言魂信仰の影すら無い。そんな時代だからこそ、1つひとつの言葉に想いを凝縮させた歌を詠みたい。1つひとつの言葉に言魂を結晶させた歌が読みたい。

 

結局、歌とは「想い」の結晶なのだ。1人ひとりの大切な「想い」を吟味された言葉の中に詰め込んだ心の結晶なのだ。「想い」のこもった言葉は、自然に人間の思いや行動と絡み合い、その重みを増していく。そんな過程を通して新しい歌が生まれていくのではないだろうか。時代を越えた新しい歌が…。

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文学、そして宮澤賢治

文学とは何か…。それは、絵の具の代りに言葉を使って描かれた1枚の絵画だ。1つひとつの言葉が、鮮やかにちりばめられ、響き合い、混じり合って、1つに凝縮されたイメージの空間なのだ。詩・短歌・俳句・童話・小説……といった様々なジャンルは、水彩・油彩・版画・イラストなどの違いと同じで、いずれも、1人の人間が自分自身の内にあるものを言葉を使って表現したというだけにすぎない。その人にとって、絵や音楽以上に、言葉がその瞬間の自分の心を表現するのに適していたということだと思う。つまり、文学とは、言葉を使った自己表現なのである。

 

その自己表現を、私たちは『読む』ことによって味わう。作者の思いが様々な感情を引き出し、心の中に何かを刻んでいく。それが、恐怖であっても良い。悲しみであっても良い。優しさであっても良い。嬉しさや喜びであっても良い。読んでいく間に、心の中に新しい何かや、忘れていた何かがイメージ化していく。そして、それが、その後の自分の感じ方や考え方、行動の変化を引き起こす一因となったりする。そんな経験が重ねられて、知らぬ間に今までとは違う自分に変わっていくのである。

 

したがって、この様な実感を与えてくれる、言葉で綴られた作品は、すべて『文学』と呼んでいいと思うし、また、『文学』と呼びたい。たとえ、それが純文学だろうが、詩や短歌・俳句だろうが、SFやミステリーだろうが、漫画だろうが構わない。SFや漫画のように、一昔前までは只の娯楽作品と考えられていた物でも、現在は、質の良い深みを持った作品がたくさん出版されている以上、それはそれとして認めたい。言葉だけで書かれてなくても、言葉を使って綴られ、私の心に、何か新しい感動や印象を心に刻みつけてくれる作品は、私にとっては文学なのだ。

 

こんなふうに書いてしまうと、多くの人々から批判を受けるかもしれない。前に揚げた文学の定義では、1個人の感性のレベルだけに偏っていて、『一般の評価』や『価値』について何も言及していないからである。そして、その事は文学に置ける「社会性」の問題を無視することに通じている。確かに「社会性」の問題に関わる『評価』や『価値』というものは大切だ。しかし、私自身は、文学について考える際には、それ以上に「自分の内なるもの」との関わりを大事にしたいと考えている。それは、この「内なるもの」が、1人ひとりの「生き方」と関わってくると思うからである。

 

そして、「生き方」という一人ひとりの人間のレベルまで降りて考えていくことは、一見、「社会性」の問題を無視するように見えながら、実は、それと深く関わってくるのではないかと考えている。作品というものは、作者の感性と表現力なくしては成立しないが、それに共感し、感動するのは1人ひとりの感性である。別の人間でありながら、そこに共感が生じるのは、感性の深部で人間として共通する何かがあるからだろう。

 

感性の深部での共通性は、各国の神話、伝説の中にも見られる。例えば、日本の神話におけるイザナミの復活の話と、ギリシャ神話のデメテルの話の類似性などもその1つで、共通性があるからこそ、遠く離れた地の神話によく似た物語が現れると考えられるのである。だからこそ、周囲に流されないで、個人の生き方、感性を掘り下げる事こそが重要だと思う。それが、私の「生き方」へのこだわりなのである。

 

このように「生き方」との関わりを重要な視点の一つとして作品を見たときに、どうしても心を引かれてしまうのが宮澤賢治のそれである。「雨ニモマケズ」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」……。詩も童話も、賢治の作品には、賢治の生き様が反映している。それが、一層、作品を深め、読む度に新しい何かを私に語りかけてくれるのである。

 

私が宮澤賢治の作品と出会ったのは、小学校2年生の時だった。姉が暗唱の宿題に出された「雨ニモマケズ」の詩を何故か弟の私が先に覚えてしまうという訳の分からないパターンで知った宮澤賢治。私はそれから30年以上にわたって彼を追い続けている。

 

賢治の詩や童話には、しっかりとした科学的な裏付けと、独特の幻想的なイメージと、人間の慟哭が混在している。それは、まさしく、科学者として地学を研究し、社会教育者としてとして農民と共に苦闘した人間・宮澤賢治の生き様と深く関わっているのである。

 

例えば「作品第1090番」の詩には、兎を飼ったり、グラジオラスを植えたり、マッシュルームを作ったりする様子が描かれている。羅須地人協会を作り、自らも農耕に従事しながら、農民たちの相談にのったりしていた賢治だが、病魔との闘いや、治安当局の取り調べなど、賢治の理想通りにいかないことが多かった。その事実を知ったとき、「何をやつても間に合はない」という詩の1節に込められた賢治の思いが胸をつく。

 

賢治の作品は、心の内から吹き出す想いそのものだったのかもしれない。幻想的イメージは、その理想。それは、美しいイメージで作品化されている。それは、文章によるものだけでなく、花壇であったり、絵であったりもするのだ。しかし、それだけではない。病気をはじめとする重苦しい現実に何度となく叩きのめされた時、魂の叫びが、祈りが、別の色彩を持つ作品を生み出している。その両面の混沌の中に賢治の姿があり、その生き方から芽生えた作品の数々が私を魅了するのである。

結局、文学とは、生きることそのものなのだ。詩人・宮澤賢治、童話作家・宮澤賢治、科学者・宮澤賢治、そして教育者・宮澤賢治。それら全てが賢治の生きる姿だった。そして、その中での体験が、作品の深みを作り出す土壌となって、作品を生み、育てていた。そんな賢治の作品を私は読み、感銘を受けた。そして、今の私がある。私は思う。作者にとって文学は、生きることの表現であるし、読者にとっては、生きることへの共感である。そして、ある意味では、その共感も、読者の消極的な表現方法の1つなのかもしれない。

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2006年8月18日 (金)

恐怖を煽る人たち

以前、大きな震災があった直後、とある宗教を信仰する人たちが「布教」に訪れたことがあった。個人的にはグループに入る気はないが、キリスト教や有神論哲学、仏教や神道の本もたくさん読んでいるので、宗教そのものに対しては、よほどおかしなものでない限り、あまり強い拒否反応はない。

そんな訳でしばらくは友好的に会話していたつもりだったのだが、そのうちに話題が震災に及び、「この震災も予言されていた」というような話をし始めた。それにカチンときた私は、「聖書や仏典、およびそれに関する書物はたくさん読んでいるが、他者の不幸を利用するような言い方はおかしい」と断固とした口調で言った。彼女たちは反論する言葉を失い、帰っていった。そしてそれ以来、二度と我が家を訪れてはいない。

だが、ある意味では彼女たちはまだまだ可愛い方である。もっと質の悪い連中が恐怖心を煽り、自分たちの都合のいい方向に人々を動かそうとしているような例が国内・国外を問わずたくさんあるからである。

例えば、アフガニスタンやイラクの例を振り返ってみよう。911日の同時多発テロを引き起こしたのは確かにアルカイーダかも知れない。けれども、アルカイーダ=アフガニスタン政府ではなかったはずだし、アメリカ軍等の攻撃で殺された一般のアフガニスタンの人々にアメリカを攻撃する意思も力もなかったはずである。もちろん、当時のアフガニスタン政府の中心であったタリバンでも、アメリカはおろか国外を侵略するのに十分な軍事力は持っていなかった。イラクも同様で、大量破壊兵器が今の時点でも見つかっていない以上、国内の人権侵害を理由に他国による軍事侵攻(侵略)を許されるのであれば、アメリカ自体も同じ理由で侵略されることを肯定されかねない。では、なぜこのようなことが許されたのか。テロの恐怖を必要以上に煽る報道が繰り返されたからである。

日本の例も挙げてみよう。今、高齢化社会の問題が声高に叫ばれ、それを根拠に税金の値上げや社会保障のサービスの低下が画策され、生存権も脅かすような法律が可決・施行されている。けれども、以前からあちこちで書いているように、例えば公式に外国人労働者を受け入れれば、様々な条件が変わってくる。けれども、政府も与党も、決してそれについて表立った議論はしていない。つまり、これも「少子高齢化」によるセーフティー・ネット崩壊の恐怖を必要以上に煽り、他の可能性に目を向けさせないようにして、自分たちの都合のいいように人々を動かしていこうと考えている連中がいるということなのだろう。

恐怖は、時として人から判断力を奪う。けれども、事実をきちんと見つめてみるとまったく違ったものが見えてくることもある。その際に、恐怖を煽って人々を都合の良いように動かそうとしている者たちがいないか……ということも併せて考えてみると良いかもしれない。ひょっとすると恐怖を煽られ「敵」とされている人たちとは別の【敵】の存在が見えてくるかも知れない。

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2006年8月17日 (木)

戦火の拡大と共感する心の喪失

レバノンの情勢が、ようやく停戦へとこぎつけたようだが、まだまだ予断を許さない状況にあることには変わりはない。それぞれの権力者のメンツの問題があり、今の時点でこの世界から戦争と暴力を駆逐することは非常に困難である。が、少しでも、普通の人々が平穏に暮らせる地域・時間が増えていって欲しいと思う。

多分、そう考える普通の人々の方が世界全体では多いと思われるのだが、それでも戦争・暴力・争いはなくならない。問題は、より大きな権力を持つ人々の弱者に対する共感が失われつつあるからではないだろうか。例えば「テロとの戦い」において「テロには屈しない」と強弁し、戦いを続ける国がある。その結果として、テロや暴力はなくなっただろうか。なくなるどころか、戦火は拡大し続けている現実がある。つまり、「テロとの戦い」は失敗したのである。

ある意味では、テロは民主的・平和的な手段への絶望である。貧困や生活崩壊の現実をいくら民主的・平和的に訴えても状況は変わらないならば、そうではない手段をとる…。それが、テロをする側の論理の1つではないのか。共感がえられない、理解が得られないのであれば、もはや議論の時間そのものにも意味はない。かつて日本でも五・一五事件というテロがあったが、「話せばわかる」という言葉に対しての「問答無用」という言葉および首相暗殺という行動による応えがその実例である。当時の一連のテロ事件の背後には民衆、特に農家の貧困や窮乏の現実が色濃く反映していた。

その意味では、本当の意味でのテロとの戦いは貧困との戦いであり、異文化の交流や共感を疎外することで利益を維持している人々のプロパガンダから民衆を自由にし、お互いの交流と共感を進め、深めていくという地道な活動のはずである。決して、力を誇示して、一方的に要求を認めさせ、その過程で弱い立場の人々を犠牲にしてその責任をとらず口をつぐむことではない。

私には3日か4日に一度、勝手に誤解して怒りケンカを売ってくる相手がいるが、こちらは、なぜそういう誤解が生じて、どういう思考の流れで怒ったかが良く分かるので、怒れない。結局、粘り強く関わり続けて、丁寧に誤解を解いていくようにコミュニケーションをとっていくと、やがて「ごめんなさい。愛してる」という言葉が返ってくる。相手が異国の人であっても、母語が異なっていても、共感し理解しあおうという気持ちがあれば、心は通い合う。ある意味では、「売り言葉に買い言葉」「目には目を」は、非常に安易な対応であり、その場では楽でも、最終的には悪意や憎悪の繰り返しという最悪のスパイラルに陥りかねない危険性をはらんでいるのである。

今の世界・経済は、お互いに共感しようとする気持ちが、より力を持っている人々の間で薄くなっているために、安易にちから(軍事力・経済力)に頼った手を使い過ぎるように感じられる。しかし、それでは問題は解決できず、返って反発や不幸を招いてしまう。やはり、安易にちからを使ったりせずに、地道に他者(弱者)との共感を広げながら、より多くの人々が幸せになる道を探して努力していくことが大切であろう。

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2006年8月16日 (水)

「わからない」ことの意味

「わからない」ということは、ある意味では幸福である。

人と人との関係において、相手のことがわからなければ、簡単に怒ることができる。けれども、相手のことがある程度以上に理解できるようになると、一見すれば腹の立つ言動であったとしても、その背景にあるものが理解できてそうした言動をとる理由がわかってしまうと、安易に怒りをぶつけることが出来なくなってしまう。特に相手が自分より弱い立場にいる場合は特にそうなる。相手に対する理解や共感が怒りを止めてしまうのである。

つまり、相手との関係において、理解や共感が深まれば深まるほど怒りの爆発・暴走は回避できる可能性が高くなり、悪意や暴力の応酬などという事態は起こりにくくなる。そして、そのような関係が広がれば、多くの人々とおだやかで優しい時間を過ごすことができるようになる。

しかし、相手に対する理解や共感が深まれば、必然的に自分自身のこれまでの見方や考え方を修正する必要も生じてくる。それが、人間を成長・成熟させていくことにつながるのだが、それは実は、今までの自分を変えていくことでもある。自分を変えていくという過程は、実は、辛く苦しい部分も含んでいる。その痛みや苦悩から逃れるのは実は易しい。相手を理解せず、共感もしない、つまり「わからない」ままにしておくことである。

「わからない」ままでいるということは、その時点ではとても楽な選択である。けれども、それをそのまま放置しておくと、後でとんでもないツケを払わされる場合が少なくない。けれども、それは当然かも知れない。「わからない」ままにしておくことは、人間としての成長・成熟の道を自ら閉ざすことであり、後になって問題がより大きな形になって自分の人生に巡ってきても、対処する力がついておらず、結果としてより大きな苦しみや辛さを味わうことになりかねないのである。それが、自分1人の人生だけに降りかかるのであれば、ある意味では自業自得、ということになる。けれども、地位や権力を持つ人がそれをすれば、自分1人だけでなく、周囲の人々にも苦痛を与え、迷惑をかける。

靖国神社参拝の意味をわかろうとしないで勝手気ままに行動する小泉純一郎(神道とは異なる宗教の信者の痛みや侵略戦争によって大きな被害を受けた国の民衆の痛みをわかろうともしないし、共感もできない)という男の行動によって、国民には多大な迷惑がかかっていることを彼は考えもしない。考えることは、これまでの自分を否定することになるかもしれないが同時に成長・成熟させることにもつながる。彼は、(もしかすると無意識に)それを恐れているのかも知れない。

確かに、人間である以上、「わからない」ことがあるのは仕方がない部分もある。それに、「わかる」までにはそれなりに時間がかかる場合も少なくないので、「わからない」ことそのものが悪いわけではない。問題は「わからない」をどうしていくか……ということである。

「わからない」を放置しないで心にとどめ、少しずつでも理解や共感が可能になるように努力を続けること……。そのことが人間としてのステップを1つ進めることにもつながってくる。「わからない」を認めつつも、それがさらなる理解や共感を深めることにつながるようにしていければ……と思う。

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2006年8月15日 (火)

8月15日に思うこと…小泉売国奴総理

4日ほど趣味の世界に走っていたが、わが国の小泉売国奴総理がまたバカなことをしてくれたので、安心して趣味の世界に安住していられなくなった。言わずと知れた、「現職総理大臣としての靖国神社参拝」である。

以前、小泉売国奴総理は国債発行の公約に対して、公約を破ることは「大したことではない」と言い放った。国民生活に大きな影響を与える公約に対して…である。が、同じ公約でも「8/15靖国参拝」はそれ自体が日本国憲法の信教の自由(神道を信じていない人々が総理大臣の公式参拝によって受ける精神的苦痛・不利益)を侵害する違憲行為であるし、また東アジア諸国の反発を考慮すれば国益にも反する、問題の多い公約である。その「公約」を、自らの「信教の自由」を口実に強行した。

だいたい日本の権力者は、基本的人権というものが弱者においてこそ最大限に尊重されなければならないという世界常識を理解していない(あまりにも無知な)輩が多い。が、そうした世界常識からすれば強者が基本的人権を口実に憲法違反をして開き直ること自体が自らの無知・無能をさらけ出し、日本の恥をさらしている売国好意である。

そして、それをどのマスコミも追求していないこの状況はどういうことか。マスコミはもはや「大本営発表」しか行わない「戦前」のレベルに退化してしまっているのであろう。情けない話である。マスコミは、また戦前・戦中と同じ過ちを繰り返そうとしているにも関わらず、まったくそれを自覚していないようだ。呆れると同時に哀しいことでもある。

が、責任ある無名の一国民としては、こうした状況を看過し得ない。小泉売国奴総理が口先でどう弁解しようと、その行動は、日本を【戦争】のできる国へ導き、その過程で国民の生存権や基本的人権を「法的」に踏みにじることを可能にする法整備を推し進めようとしているのは明白である。だからこそ、その象徴としての「首相の靖国参拝」をアジア諸国は問題視するのである。

広島・長崎、そして東京や名古屋など多くの都市への大空襲において、確かに日本は被害者かもしれない。けれども、こうした卑劣・卑怯な無差別爆撃を日本軍は中国の重慶に対しても行っている。その反省・謝罪をきちんとしてこそ、原爆や空襲にNoと言うアピールは説得力を持つし、その延長としての平和を維持するための努力・行動が日本の信頼を回復させることにつながる。しかし、今の日本政府の行動を客観的に見ていると、平和を維持するための努力・行動はいかにもおざなりで、逆に平和を乱そうとするアメリカの暴走に無条件に追従している。これでは、決して国としての信頼を得ることは出来ない。

だからこそ、まずは意見を主張したい。違憲を糾弾したい。そして、平和のための努力として人権侵害をもくろむ立法の動きを糾弾したい。それとともに、日本の国をアメリカに売り渡そうとする権力者の目論見を見過ごさずに行動したい。大人として、次の世代に戦争をふっかけない「まともな国」をそのままバトン・タッチできるように……。8月15日、日本敗戦の記念日における名も無き国民のささやかな思いである。

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2006年8月14日 (月)

暗黒物質と空間…きままに時空論4

暗黒物質と空間
 
現代天文学と宇宙物理学を悩ませる難問の一つに宇宙の質量という問題があるらしい。物理学の専門家でも天文学の研究者でもないので詳しいことはよく分からないが、今まで考えられていた理論が実際の観測結果と合わないというのである。そこで、その原因として解明されていない「暗黒物質」の研究が進められているという。
 

最近の研究では、質量がないとされていたニュートリノがその候補の一つだとか、まだ発見されていない未知の素粒子だとか、現在の技術では観測できない天体(例えば光を発しないばかりでなく、近くに恒星や星雲などがないために観測網にかからないもの)だとか、様々な議論が噴出し、今も世界各地で暗黒物質捜しが続けられている。
 

とは言っても、それぞれ、この文章を書いている本人にもよく分からないのだから、詳しい説明などできようはずがない。だが、「知らない」というのは気楽なもので、そこから様々な可能性を勝手に想像することができる。ましてや、こちらは物理学や天文学のド素人、その発想を数式や実験、観測などで裏付ける責任や義務はない。好き勝手に想像して、自由にイメージを描けば、それでオシマイ。空想をこころゆくまで楽しめるのである。 で、その空想の中身はと言うと、三次元時空になりきれていない時空の歪みではないか、というのが現在もっとも気に入っているものである。
 

相対性理論の有名な数式の一つに、E=mc2 (エネルギー=質量と光速の二乗の積)というものがある。これを数学的に考えれば、エネルギーを光速の二乗で割れば質量…つまり物質ができるのだから、高いエネルギーは重い質量に還元し得ることになる。
 

その高いエネルギーの存在については、こう考えるのである。「超ひも理論」によればもともと不安定な十三次元であった宇宙が安定の良い現在の三次元時空になる際のエネルギーの放出がビッグ・バン(宇宙創造)の始まりだったと言う。だが、水面が高速で動くと渦を生じるように、ビッグ・バンの直後にすべて均質な三次元時空が生まれたと考えるのではなく、ところどころに、水面の渦のように三次元にまで安定しきれていない多次元時空が残っていて、その中にはまだ解放されていない膨大なエネルギー(つまり質量)が眠っている。それが、なぞの質量、すなわち暗黒物質ではないかという想像である。
 

これは、現在、第二部の草稿を執筆中の長編SFの背景として考えているものだが、面白そうだと思った人は、ぜひ、知り合いの物理学か天文学のプロ(いたらの話だが)に話してみて欲しい。鼻で笑われるかも知れないが、個人的には、けっこう独創的な発想ではないかとうぬぼれているので…。まあ、専門家の正論を聞くまでのささやかな楽しみにすぎないだろうが。

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2006年8月13日 (日)

存在と生命…きままに時空論3

存在と生命…きままに時空論3
 
小説や物語の構想を練る時間は、創世記を思わせる。創作者の「思い」通りにイメージが形成され、主人公やその他の登場人物が固まり、様々な物質が形作られて作品世界が創造されていく。そしてそれは、原稿用紙やワープロに書かれる過程で、創作者自身の中にイメージが固定され、実在の「作品」として定着するようになる。
 

が、もしこの宇宙に創造主がいるとしたら、その実感の中には私たちが物語を創造する際に感じるものと同質のものが存在し得るのではないだろうか。
 

例えば、創作過程でその作品と深いレベルでシンクロした場合は、作品に登場するキャラクターが、当初は予定していなかったような考えを持ったり行動をしたりすることが少なからずある。そして、そうしたキャラクターの考えや行動は、たいてい当初の構想よりも物語を深くかつおもしろくしてくれる。私の場合だけかも知れないが、キャラクターが独自の意識を持つことによって、物語に生命が宿るのである。
 

こうした実感から、一つの物語が生まれた。十三の次元に渡って拡がっていた創造主の意識が三次元に集中することによってビッグ・バンが起こり宇宙が生まれた。当初、創造主はその宇宙の中に自分の分身を送り込み、その分身の下に十二人の使徒をつけて宇宙を統治しようとした。が、意識の奥に眠っていた様々な負の思いが宇宙の様々な時空で「悪」の存在を生み出し、十二使徒を妨害して宇宙に破壊を広げようと画策する。そのうねりの中、果てしない戦乱が続いていく…というのがその物語である。
 

考えてみれば、一人ひとりの人間の心の中には数多くの「善」と「悪」が存在し、それらが交じり合い、反発し合って一人の人間の思いや行動を形成し、一人ひとりの人生を編み上げて行く。その際、ある瞬間の善悪は、長い目で見るとまったく逆転してしまう場合もあり得るし、善悪の判断自体が意味がなくなってしまうことさえある。
 

それを「宇宙」という規模に当てはめるのは、無茶と言うよりも無謀と言った方が正しいかも知れない。しかし、創造主の中の善の部分が存在や生命の創造に携わり、悪の部分が破壊と殺戮に奔走する。その二つのぶつかり合いのうねりの中で元の創造主の「意識」にはなかったものが生まれ、やがては創造主の作った「宇宙」を支え導いていくという物語を創造するのは非常に楽しい。
 

ただ、そこに大きな問題が存在している。それは、作者自身の知識と表現力がそれに追い付けないことである。こうして今日も私は、その「物語」と格闘を続けている。 

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2006年8月12日 (土)

エネルギーという意思…きままに時空論2

エネルギーという意志…きままに時空論2
 
最近、心理学に関係する本を読んでいて目につく表現に、「…に、エネルギーを使う」というものがある。と言っても、物質が動いたり熱を発したりするのではなく、「憎しみ」や「心の中の葛藤」と言ったものが目的語の部分に入るのだが…。
 

この表現は、物理学的には奇妙なニュアンスがあるが、感情的には納得できる。そうした実感からすると、心に強く思う活動にはエネルギーが必要であり、また、それが現実の関係を動かすエネルギーとなる…という前提を無意識的に感じている事になる。
 

この実感を物質に延長すると、物質の「思い」がエネルギーなのではないかという推論を進めることができる。もちろん、物質に人間と同じ心がある訳ではない。しかし、物質にも、人間とは異なる心があると仮定すれば、その「思い」がエネルギーという形で現れていても不思議はないのである。
 

この推論を荒唐無稽と感じる人は多いだろう。けれども、バラモン経典にはブラフマンというあらゆるところに存在する「宇宙の最高原理」が出てくる。聖書でも「光あれ」という「神の意志」がすべてを創造していく。

時空そのものが高次の絶対的存在の意志によって作られ、維持されているのであれば、その「思い」も時空や物質に応じて現れ方が変化していても不思議はない。たとえ、個々の物質や生命のレベルでは、そうした現れ方の違いを認識できなくても…である。
 

このように考えていくと、日常的な現象ばかりでなく、超常現象も説明できるように思われる。試みに、少し例示してみよう。
 

物質の「思い」が時空を歪めて物質を動かすのに加え、人のさらに強固な「意志」が時空を歪めれば物質の「思い」を越えるサイコキネシスとなり、時空をねじ曲げてつなぎあわせてしまえばテレポーテイションとなる…などといった解釈も成立しそうである。
 

幽霊なども、亡くなった人の強い思いが物質を離れて時空に残ってしまった…などと考えられるだろう。そして、すべての「思い」はブラフマンなり神なりの一部分にすぎないので、「個人」の執着から離脱できれば新しい輪廻転生へと向かうということだろうか。 おっと、少しばかり悪ノリしすぎたようである。
 

イメージ的にはこういう形でまとまりつつあるが、このイメージ世界が論理的・客観的に読者を説得し得るかどうかは大いに問題が残っている。もう少し厳密に細かい部分を整理して、矛盾や飛躍のなくなるような形にまとめていきたいものである。もう一人の自分が「無理、無理!」とシニカルに笑っているのが気になるところだが…。                            

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2006年8月11日 (金)

物質というゆがみ…きままに時空論1

物質というゆがみ…きままに時空論1

小説を書きながら、物質や時空について考えた。

 

全ての物質には重力があり、お互い、どれほどの時空を隔てても、またいかに大きさに差があろうとも引き合っている。そして質量が大きくなるほどその力は強いから、人間は自転している地球の上から離れられない。…これが、ニュートンに始まる物理学の見方であり、さらに現代の物理学研究によれば、物質は存在する事により時空そのものを歪めているという。

 

もちろん、時空や原子を構成する素粒子などは、私たちが直接手にとって眺めたり触ったりできる性質のものではないから、「そうなのか」と、教科書や本を読んで自分自身の頭に思い込ませるしかない。ただ、今まで目にした本の印象からすれば、ほとんどすべてが物質の側から書かれていて、「時空」の側からは書かれていないように思える。

 

たとえば、スポンジの上に鉄の球をのせるとしよう。

 

その重さによって当然スポンジは窪む。もっと重い球を乗せるとスポンジはより深く窪む。では重さの違う二つの球を一緒にスポンジの上に転がせばどうなるか。球が近ければ、重い方の球の窪みに軽い方の球は転げ落ちるだろう。

 

万有引力という視点で二つの物質を見た場合、この重さの違う球が二つの物質である。そして、スポンジが時空という事になるわけだが、これをスポンジの歪みという視点から見たらどうだろう。スポンジの窪みが大きければ大きいほど、球は、次々と窪みに集まってくる。もしかして球と感じているのはスポンジの歪みに過ぎないのではないか。…そんな考え方はできないだろうか。

 

つまり、物質というものは時空の歪みそのものであり、歪みが他の歪みと影響しあって動いて行くという動きそのものがエネルギーと考えても良いのではないか。それは、水面を動く波がお互いに影響し合う事で大きくなったり小さくなったりするイメージで見ていくと物質の大きさの違いも説明できるかも…。

 

そんな他愛のないことを、全宇宙を舞台にしたSF小説に取り組みながら考えていた。けれども、費やした時間の割には、まだ第一部しかできておらず、自分なりのイメージの整理も不十分である。表現活動を通して、自分の考えや認識はある程度整理をしていく事ができるが、今の状態では、ほとんど半年前と変わっていない。小説も、時空イメージの整理も、まだまだ先は長そうである。

p.s.ここで述べているSF小説については《まい・ぺん・らい》というブログをのぞいてみてください。http://maipenrai.noblog.net/

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2006年8月10日 (木)

異界との交流

座敷童子の物語を読んだ夜、何の脈絡も無く、座敷童子と遊びたいと思った。

 

その日に限って俯せになって布団に入っていたが、うとうととまどろみの時間を過ごすうちに、どこからともなく、板間の上で乾電池を転がして遊ぶようなゴロゴロという音が聞こえて来た。

 

ぼんやりとした頭で、「うるさいなあ…」と思った瞬間、身体がピクリとも動かない事に気が付いた。久し振りの金縛り体験。けれども不思議な事に心は晴れた冬の夜の湖の水面のように落ち着いていた。

 

動かす事の出来ない背に、重いものがのしかかってくる。座敷童子って小泣きじじいだったっけ? 訳の分からない連想が夢うつつの頭の中を駆け巡る。そして、子どもの笑い声。あっ! やっぱりこいつは座敷童子に違いない。

 

そう思った途端、心が行動を起こしていた。

「おい、手を延ばしてくれよ、なあ、何もしないからさぁ…」

 

目も開かないし、口も動かない金縛りの中、背中にのしかかっている不思議な存在に、心で呼び掛ける。すると、布団から出ている右手の方に小さな手が伸びて来るような気配。その手が、親指の上の辺りまできた瞬間、すべての意志を右手に集中して、伸びてきた掌を握ろうとした。

 

成功! …当然の事ながらと言うべきか、不思議な事にと言うべきか、その掌は確かに、小さな幼児のものだった。

 

けれども、その手を握ったと同時に背中が軽くなり、金縛りは解けてしまった。ようやく自由になった瞼を開け、周囲を見回したが、そこにはいつもと同じ夜の寝室の空間が広がっているだけだった。

 

それから半年ほど経った後の金縛り体験で、ゴロゴロという乾電池を転がすような音は、耳に聞こえているものではなく、心に直接響いているのだということを発見した。

 

…コノ物語ハのん・ふぃくしょんデアリ、登場スル場所・時間ナド、スベテハ現実ニアッタ体験デス。

 

                                    〔完〕

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2006年8月 9日 (水)

疑うことと信じること

「仮面ライダーSpirits」というマンガ(講談社マガジンZKC 漫画:村枝賢一)で、滝和也が風見志郎(ライダーV3)にこんな言葉を語るシーンがある。

確かに疑っている間は敵を見抜けるかもしれんがよ 信じてみなきゃ「仲間」は見つかんねえだろ

なかなか興味深いセリフである。

疑うことで見えてくるものは確かにある。「常識」あるいは「権威」を盲信していては、今の世の中、簡単に騙されてしまう。だからこそ、深く考えずに簡単に信じてしまう、という人にとっては、非常にリスクが高い世の中になってしまったように感じられることが多い。困ったことであると同時に哀しいことでもある。

けれども逆に、信じなければ見えてこないものもある。教育やカウンセリングの現場では、そういう事例をたくさん見ることができる。信じることでお互いの心がつながる。信じられている、という実感の中で新しい一歩を踏み出すことが可能になる。そういうことも世の中にはあるのだ。

信じる、特に、腹をくくって信じきるというのは結構難しいし、エネルギーのいることでもある。それは、信頼を裏切られるという結果をも含めて、すべてを受け止めようとすることだからだ。だが、そうした信頼が、信頼を寄せられた相手の心の中で希望の光になったり、心の支えになったりする場合も少なくない。その信頼の根底には深い愛情が存在するからである。

そして、自分を信じ相手を信じきることで見えてくるものが、人間を成長させ、成熟させてくれる。ある意味では、「信じたけれど、裏切られた」と言って逃げ出すことは易しい。そして、自分自身に十分な力が備わっていない時点では、「逃げる」ことはその時に限っては正しい場合もある。けれども、「逃げた」ということを意識して「この次」のために力をたくわえる努力を続けることは必要となる。そうした努力を重ねた上で、人を「信じる」ことのできる人間は、優しく、そして強い。

最近は、そのような優しくて強い人間が少なくなったように思われるが、今より少しでも優しく強い人間になれたら……と思う。

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2006年8月 8日 (火)

次のステップは…

6/14からこのブログを始めたので、もうすぐ2ヶ月になる。ありがたいことに、アクセス・カウントは1000を越え、どこかうれしいような恥ずかしいような気持ちだ。それでも、いろいろな新しい出会いもあり、始めてみてよかったと思っている。

少し前から文芸同人誌の編集事務局を前任者から引き継いだこともあり、文章を書くことに対するプレッシャーは少ないが、それでも、紙に印刷する出版物とネットでの文章の質感はかなり違う。それを意識しながら、それぞれのメディアに合わせた文章を使い分けられるように努力していきたいと思う。

ブログを始めたきっかけは、同人誌の仲間とやっていたhpを閉めることになり、そのうちの一人と改めてブログを始めることになったことによる。その練習のつもりで始めたこの【TAC雑想記】だが、あえて小説や童話、詩などはupしていない。そちらの方は、そろそろ動き出した【まい・ぺん・らい】http://maipenrai.noblog.net/ で載せていきたい。興味のある人はのぞいてみてほしい。

とりあえず、今のところはまだ時間を作る余裕があるが、また忙しくなったときにどうなるか……。多少不安もあるが、やれることはしっかりやって、あとは「まい・ぺん・らい」…まあ、いっか…というスタンスで続けていきたいと思う。さて、次のステップは???

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2006年8月 7日 (月)

「勝利」の先にあるもの

少年ジャンプや少年サンデーといった少年誌のマンガをよく読んでいるが、スポーツ系にしろ、冒険ものにしろ、敵やライバルに対して友情や愛に支えられながら努力を重ねて勝利を手にする作品が結構多い。マンガばかりでなく、ゲームでもファンタジー系のものを中心に、同じようなパターンはよく見られる。

 

もちろん、読んだり遊んだりするのはそれなりに楽しい。しかし、物語が続く限り、主人公に安住の時間はない。一つの敵を倒しても、主人公の前にさらなる強敵が出現するからである。そして、強敵の背景にある世界はどんどん拡大を続ける。編集の要請にしろファンの希望にしろ、物語を続ける限り、作者は無限に強敵を作り出し、世界を広げざるを得なくなるのである。

 

こうした構造は、現代資本主義の『成長神話』のイメージと重なってくる。経済成長を続けるためには競争に勝ち、市場を拡大し続けなければならない。イラク戦争も、「敵」に勝ち「イスラム世界」を欧米資本主義の市場に組み入れることを目的に強行されたと考えれば、それなりに納得がいく。治安が回復しないのに石油輸出のための「復興」が最優先で進められている現実が何よりもそれを物語っているからである。イスラエルの暴挙も、そうしたアメリカ政府の姿勢が停戦に消極的であることを見越してこそ出来ることであろう。

 

「勝利」のためには「敵」が必要である。しかし、「敵」は本当に「敵」なのだろうか。

子どもの頃夢中になっていたテレビ番組の主人公の台詞で、強く印象に残っているものが二つある。一つは「宇宙戦艦ヤマト」の主人公/古代進がガミラスとの決戦の後口にした「負けた者はどうなる?」という言葉、そしてもう一つは「ウルトラセブン」の主人公/モロボシ・ダンが一つの星を一発で破壊する超兵器R1号の開発に対して口にした「血を吐きながら走り続けるマラソン」という言葉である。

 

軍拡競争の愚かさは冷戦時代を通じて多くの人々が身にしみた筈である。だが、軍拡だけでなく、経済競争も、実は、同じ種類の愚かさをその内に持っているのではないだろうか。「勝つ」ことだけを目的にして手段を選ばずに走り続ければ、その過程で「負けた者」が「敵」になる。また「勝つ」ために無理やり競争相手や異質な存在を「敵」にして「競走」そのものを強いる場合も出てくるだろう。つまり勝ち続ければどんどん「敵」が増えていくことになるが、「負けない」ためには勝ち続けるしかなくなってしまうのである。

 

それが、本当に「幸福」への道につながるだろうか。答えは否である。競争そのものを否定するのはバカげているが、「競争」に呑み込まれて豊かなものを見失ってしまうのはそれに勝るとも劣らない愚かなことである。人間社会が愚かな迷宮から一日も早く抜け出すことを願ってやまない。

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2006年8月 6日 (日)

文字と、言葉の表情

あいしてる/愛してる/アイシテル/aishiteru…発音すればすべて同じのように思えるかも知れないが、こうして書き並べてみると、実は、それぞれの印象が微妙に異なっている。日本では、ごく普通に、ひらがな・カタカナ・漢字・アルファベットが使われているので、1つだけを書かれた時にはあまり意識しないかも知れないが、よく考えてみると、書き手がどのような文字を選択するかによって読み手の受ける印象は異なってくるのである。

少し、遊んでみよう…。

《あたしが、「あいしてる」と言ったら、あなたは「アイシテルヨ」と応えた。》

この二人は、愛し合ってると感じられるだろうか。あるいは、二人はどんなキャラクターなのだろうか。…もちろん、この一文だけでは判断は不可能である。けれども、いろいろなパターンを想像することはできる。

【あたし】が日本人で、【あなた】がまだ日本語に堪能ではない外国人ならば、二人は相思相愛である。たどたどしいながらも、せいいっぱい「愛している」ことを伝えようとする【あなた】の行動が【あたし】にはとてもうれしく感じられる。

別れの予感に【あたし】が発した言葉を、もう心が離れている【あなた】が形式的に応じただけなら、【あたし】は、【あなた】の行動を一層腹立たしく感じ、やがては別れる運命にあることを納得してしまう。

もちろん、この他にもいろいろ考えられるだろうが、ひらがなやカタカナ、漢字といったそれぞれの文字の持つ印象を上手に生かすことによって表現力は向上し、様々な意味や感情をよりリアルに伝えることも可能になるのである。

ちょっとしたことには違いないが、文字の選択にも意識的になることで文全体の表情をも豊かにしていければ……と思う。

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2006年8月 5日 (土)

良い嘘と悪い嘘

今日、友人と言葉についての話をした。個人的には嘘はキライだが、小さな子どもではないので「嘘は悪いことだから、絶対に他人に嘘をついてはいけない」などと言うつもりはない。それなりの人生を生きてきて、真実が実は大変な毒を持っているという事実を経験しているからである。

だから、基本的に「嘘」は悪いことだと思っているし、特に、嘘をついて自分の利益や自分の周りの一部の人々だけの利益を求めるのは最悪の犯罪行為だと思っている。現在の日本は政治や経済のトップにこの種のウソツキがゴロゴロいる。この種の嘘は最悪であり、このような嘘を撒き散らす人間の言葉は軽く、信用できない。けれども、今の日本を見渡してみると、首相の小泉を筆頭に、この最悪の嘘を撒き散らし続ける人間の数が増え続けている。だからこそ、世の中が乱れ、暮らしにくくなっているのであろう。

ただ、個人的に許容できる嘘もある。それは、その嘘によって自分より弱い立場にいる人々を守る、という時に使われる嘘であり、そのために自分の身に降りかかるであろう不利益は、甘んじてそれを受けるという覚悟を伴ってのことであれば、それは何ら悪いことはない、と思う。そして、そこまでの判断と覚悟の上での嘘であれば、その嘘は美しく、そして優しい。これは、数少ない「良い嘘」ということになるだろう。

ただ、では絶対に嘘をつかなければ良いのか、というとそうでもない。例えば、家族の誰かが癌であることを告げられたとしよう。本人あるいは家族全員がそれに耐えられるか、というとそうでもない。以前、父が手術をする前、プライベートな場で、執刀する先生に癌の可能性を指摘されたことがあった。先生は私がその真実に耐えられると信頼して告げてくれたのだが、確かに家族を見渡した時、母が父の癌に平静でいられるとは思えなかった。幸いにして手術で患部を切開した結果、癌ではなかったことが判明したので、両親には何も話していない。けれども、本当に癌であったならば、その真実は、たとえ覚悟はしていても、重くのしかかってきたことだろう。

ある意味では真実は劇薬である。その激しい作用を回避し、弱い人々を守るためであれば、嘘も仕方がない場合はあるし、そのような嘘は優しく、美しい。けれども、自分や一部の人間の利益のためにつく嘘は醜く、多くの人々を傷つける。石油資源の豊富なイラクを侵略するのを目的にアメリカがついた嘘、一部の大企業や政治家・官僚の利益を守るために小泉や竹中がついた嘘……。このところ弱い人々を一層苦難の道に追い込む悪質な嘘が多すぎる。それが、少しでも減っていくように行動していきたいと思う。

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弱さの暴力

本当は弱いものほど、虚勢を張って強がろうとする。いじめや差別などの背景には、そうした構造がある。いわゆる「弱い犬ほどよくほえる」というやつである。

そう言えば、最近は弱者に暴力をふるう事件が多発している。幼児虐待、ドメスティック・バイオレンス、中には相手の命を奪ってしまうような場合もある。

けれども、本当に力があるのなら、暴力をふるう必要はない。力を誇示するのはエネルギーの浪費であり、かえって本当に力のある人には、その弱さを見透かされてしまう。力は、本当に必要なときに使えば良いのである。

そのように考えれば、本当に力を持っている人は優しい。そして、本当に強い人が多ければ世界は優しさに満ちているはずである。けれども、今の現実を見渡してみるとどうもそうではない。逆に、余裕のない、暴力的な世の中になりつつある、と感じられる。それが多くの人の実感であるならば、それは人々が弱くなり、けれどもゆとりも無いために、虚勢を張って生きている人が増えているからだろう。

けれども、本当の強さは、そのような虚勢からは生まれないし、育ってもいかない。本当に強くなりたいのであれば、まず自分の弱さを認めることである。自分は「弱い」ということを認めることによって虚勢をはる必要がなくなると同時に、堂々と強くなる努力を重ねられるようになる。そして、その努力の積み重ねが、弱い自分を強い自分に変えていく。

そうした意味で、自分自身、強くなりたいと思うし、また多くの人々に本当の意味で強くなって欲しい。強い人が多くなれば、理不尽な暴力事件は明らかに減少していくだろう。そして、その強さが国境を越えて広がれば……。私は、そんな世界を見てみたいと思う。

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2006年8月 3日 (木)

ウルトラセブンとアメリカ

子ども時代に夢中になった円谷プロダクション制作の特撮の1つに「ウルトラセブン」がある。その42話に「ノンマルトの使者」というものがあった。

海底開発のための基地が爆発する。その原因はノンマルトという海底にすむ人々が自らの生存権を確保しようとして基地を破壊したためであった。ところが、そのノンマルトは人類が地球に来る以前から住んでいた先住民で、人類が地球を侵略して定着し、侵略の記憶をなくした…という可能性が高まり、ウルトラセブンが怪獣を倒し、ウルトラ警備隊がノンマルトの海底都市を破壊して事件は終結する。

この話のシナリオを書いたのは沖縄出身のライター金城哲夫である。そして、沖縄の視点でこの物語を見ていくと、ノンマルトが沖縄人、人類が日本人、ウルトラ警備隊が自衛隊、そしてウルトラセブンがアメリカ軍の存在と重なってくるということを切通理作が『怪獣使いと少年』という本で指摘している。

その後「ウルトラセブン」はいくつかの新しいシリーズが作られたが、その中でセブンは人類を愛し、人類のために戦い続けた。けれども、「ノンマルトの使者」において怪獣と戦って人類を守ったウルトラセブンに重ねられたアメリカ軍はどうか。特に最近の動きは、自国の一部の人々や企業の利益のためにあちこちを脅し、武力を行使する侵略者の様相を強めているように見える。アメリカ軍ばかりではない。アメリカの押し付ける経済政策は他国の人々の安全や暮らしを脅かし、環境破壊に対する配慮もほとんどしないでいる。

その中で、実はアメリカの国民も様々な不利益を被っている事実は、マイケル・ムーアやチョムスキーなども指摘している。そうした行動が世界に不幸を撒き散らすばかりでなく、それほど遠くない将来において自らの首も絞めかねないことにアメリカの権力者は気付いているのだろうか。

そして一部の人々はアメリカがウルトラセブンのように無条件に日本を愛し、日本のために動いていないことに気付いている。けれども、政府・与党や官僚はどうか。それを知っていながら国民の財産や幸福をアメリカの一部の利益のために売り渡そうとしている【売国奴】なのだろうか。それとも、そんな事にすら気付かない無能な人間の集まりなのだろうか。

少なくとも私たちには「ウルトラセブン」はいない。とすれば、自らの手でしなければならないことがある。意見を発信していくこと、そして次の選挙での賢明な選択である。

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2006年8月 2日 (水)

つい…

またもやコンビニでフィギアを買ってしまった。300~400円で高さは10cm程の、申し訳程度にガムなどのお菓子がついている商品である。最近のものにはあまり触手が動かないが、昔の仮面ライダーやウルトラマンなどのシリーズだと、つい、買ってしまう。我ながら困ったものである。

これは、1つに造形がかなり丁寧であることにもよる。小さいころ夢中になってみていた番組の様々なシーンが心によみがえってくるのである。だから、別に動く必要はない。手にとって遊ばないが、机や棚においておき、何かの拍子に眺めては懐かしいシーンを思い出してしまうのである。そしてそれはけっこう楽しい。

数百円の出費は、タバコも吸わないし毎日晩酌をしている訳でもないので、それほど気にはならない。タバコの一箱よりもずっと気分転換にはなるので、「まあ、いいか…」となってしまうのである。ところが、最近のものはけっこう精密なので、一つ買ってしまうと、ついついもう1つ…となってしまう。おかげで、仮面ライダー2号は、テレビの上ばかりでなく、わが愛車の中でもカッコ良くポーズを決めている。

女性にはあまり理解してもらえそうにないが、同年代の男どもは、同じような感覚を持っている者も多少はいるようである。これ以上増えると置き場所の問題も出てきそうだが、家計を圧迫するわけでもないので、苦笑しながらも、良しとしておこう。

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2006年8月 1日 (火)

心のバランス

先日、いろいろと別々の「場」での仕事が重なり《I want to do nothing./何もしたくない》状態になった。たまにこういう精神状態になることがあるのはよく知っているので、とりあえず、あまり悪化させないように気をつける……ということになる。

まずは、十分な睡眠。そして、やりたくないことはなるべくやらない。楽しい、と多少なりとも感じられることだけをやる。こんなところだが、ある程度の年齢である以上、様々な「場」でそれなりの役割を演じており、きちんと責任を取って動かなければ進まないものもあるので、けっきょく、のばせるものだけは極力のばして、最低限のことだけをやる……という判断になる。軽い状態なら、これで何とかコントロール可能な場合も多い。

実際、今回は明日ぐらいには通常レベルに復帰できそうである。

とは言っても、いつも簡単に出来るわけではないし、誰もが同じように出来るわけでもない。ある程度、自分の心を見つめることが出来るようになってようやく可能になってくるやり方である。そして、それが出来ていると多少のゆれはあっても、長いスパンで見れば割と心の平静は保てる。

とは言うものの、いつもいつも静かな湖の水面のように平静でいられるわけではない。短い期間や時間で見れば、心はいつもゆれているし、かなりバランスがくずれかける時もある。ただ、心はもともとそういうものなのだ、ということを知っていれば、それほど慌てないでいられる。

バランスは別にくずれても良い。立て直せばすむのである。怒り、哀しみ、苦しみ……様々な心のゆれを、まず認め受け入れる。それを繰り返しているうちに、少しずつ自分の心が見えてくる。そういう段階からスタートし、慌てたり投げ出したりせずに、根気よく自分の心とつきあっていければ……と思う。

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