« 恐怖を煽る人たち | トップページ | 短歌雑考 »

2006年8月21日 (月)

文学、そして宮澤賢治

文学とは何か…。それは、絵の具の代りに言葉を使って描かれた1枚の絵画だ。1つひとつの言葉が、鮮やかにちりばめられ、響き合い、混じり合って、1つに凝縮されたイメージの空間なのだ。詩・短歌・俳句・童話・小説……といった様々なジャンルは、水彩・油彩・版画・イラストなどの違いと同じで、いずれも、1人の人間が自分自身の内にあるものを言葉を使って表現したというだけにすぎない。その人にとって、絵や音楽以上に、言葉がその瞬間の自分の心を表現するのに適していたということだと思う。つまり、文学とは、言葉を使った自己表現なのである。

 

その自己表現を、私たちは『読む』ことによって味わう。作者の思いが様々な感情を引き出し、心の中に何かを刻んでいく。それが、恐怖であっても良い。悲しみであっても良い。優しさであっても良い。嬉しさや喜びであっても良い。読んでいく間に、心の中に新しい何かや、忘れていた何かがイメージ化していく。そして、それが、その後の自分の感じ方や考え方、行動の変化を引き起こす一因となったりする。そんな経験が重ねられて、知らぬ間に今までとは違う自分に変わっていくのである。

 

したがって、この様な実感を与えてくれる、言葉で綴られた作品は、すべて『文学』と呼んでいいと思うし、また、『文学』と呼びたい。たとえ、それが純文学だろうが、詩や短歌・俳句だろうが、SFやミステリーだろうが、漫画だろうが構わない。SFや漫画のように、一昔前までは只の娯楽作品と考えられていた物でも、現在は、質の良い深みを持った作品がたくさん出版されている以上、それはそれとして認めたい。言葉だけで書かれてなくても、言葉を使って綴られ、私の心に、何か新しい感動や印象を心に刻みつけてくれる作品は、私にとっては文学なのだ。

 

こんなふうに書いてしまうと、多くの人々から批判を受けるかもしれない。前に揚げた文学の定義では、1個人の感性のレベルだけに偏っていて、『一般の評価』や『価値』について何も言及していないからである。そして、その事は文学に置ける「社会性」の問題を無視することに通じている。確かに「社会性」の問題に関わる『評価』や『価値』というものは大切だ。しかし、私自身は、文学について考える際には、それ以上に「自分の内なるもの」との関わりを大事にしたいと考えている。それは、この「内なるもの」が、1人ひとりの「生き方」と関わってくると思うからである。

 

そして、「生き方」という一人ひとりの人間のレベルまで降りて考えていくことは、一見、「社会性」の問題を無視するように見えながら、実は、それと深く関わってくるのではないかと考えている。作品というものは、作者の感性と表現力なくしては成立しないが、それに共感し、感動するのは1人ひとりの感性である。別の人間でありながら、そこに共感が生じるのは、感性の深部で人間として共通する何かがあるからだろう。

 

感性の深部での共通性は、各国の神話、伝説の中にも見られる。例えば、日本の神話におけるイザナミの復活の話と、ギリシャ神話のデメテルの話の類似性などもその1つで、共通性があるからこそ、遠く離れた地の神話によく似た物語が現れると考えられるのである。だからこそ、周囲に流されないで、個人の生き方、感性を掘り下げる事こそが重要だと思う。それが、私の「生き方」へのこだわりなのである。

 

このように「生き方」との関わりを重要な視点の一つとして作品を見たときに、どうしても心を引かれてしまうのが宮澤賢治のそれである。「雨ニモマケズ」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」……。詩も童話も、賢治の作品には、賢治の生き様が反映している。それが、一層、作品を深め、読む度に新しい何かを私に語りかけてくれるのである。

 

私が宮澤賢治の作品と出会ったのは、小学校2年生の時だった。姉が暗唱の宿題に出された「雨ニモマケズ」の詩を何故か弟の私が先に覚えてしまうという訳の分からないパターンで知った宮澤賢治。私はそれから30年以上にわたって彼を追い続けている。

 

賢治の詩や童話には、しっかりとした科学的な裏付けと、独特の幻想的なイメージと、人間の慟哭が混在している。それは、まさしく、科学者として地学を研究し、社会教育者としてとして農民と共に苦闘した人間・宮澤賢治の生き様と深く関わっているのである。

 

例えば「作品第1090番」の詩には、兎を飼ったり、グラジオラスを植えたり、マッシュルームを作ったりする様子が描かれている。羅須地人協会を作り、自らも農耕に従事しながら、農民たちの相談にのったりしていた賢治だが、病魔との闘いや、治安当局の取り調べなど、賢治の理想通りにいかないことが多かった。その事実を知ったとき、「何をやつても間に合はない」という詩の1節に込められた賢治の思いが胸をつく。

 

賢治の作品は、心の内から吹き出す想いそのものだったのかもしれない。幻想的イメージは、その理想。それは、美しいイメージで作品化されている。それは、文章によるものだけでなく、花壇であったり、絵であったりもするのだ。しかし、それだけではない。病気をはじめとする重苦しい現実に何度となく叩きのめされた時、魂の叫びが、祈りが、別の色彩を持つ作品を生み出している。その両面の混沌の中に賢治の姿があり、その生き方から芽生えた作品の数々が私を魅了するのである。

結局、文学とは、生きることそのものなのだ。詩人・宮澤賢治、童話作家・宮澤賢治、科学者・宮澤賢治、そして教育者・宮澤賢治。それら全てが賢治の生きる姿だった。そして、その中での体験が、作品の深みを作り出す土壌となって、作品を生み、育てていた。そんな賢治の作品を私は読み、感銘を受けた。そして、今の私がある。私は思う。作者にとって文学は、生きることの表現であるし、読者にとっては、生きることへの共感である。そして、ある意味では、その共感も、読者の消極的な表現方法の1つなのかもしれない。

|

« 恐怖を煽る人たち | トップページ | 短歌雑考 »

コメント

生粋の理系人間である僕には文学について云々語る知恵もありませんが、TACさんの仰ること、なんとなく分ります。
文学というか読み物は全て文字を介して作者→読者という情報伝達の形態が形成されている訳で、そこには情報を発信する者の思いがあって、それを受ける者が何かを感じる。ここに読み物の存在価値・意義がある訳で、特に感銘を受ける書物に出会った時、それは精神的な豊かさという有機的な効果をもたらすものなのだと思います。
ところでTACさん、SF小説を書かれているのですね。僕は理系の端くれですが、TACさんの調査力には脱帽です。先日アップされていた「きままに時空論」シリーズも大変興味深く、いつか機会が得られましたらじっくりとお話しをお聞かせ願いたいものです(^_^)

投稿: うるとらの音 | 2006年8月21日 (月) 18時36分

小説や童話などは、もう1人の仲間と作っているブログの方で発表していく予定です。一応、文学的なものを本腰を入れて書き始めてから20年ほどになります。

作品の出来はともかく、きちんと取り組むことによって、自分自身の心の動きや人間についてわかってくることがあります。ものを書こうとする気持ちがドンドン好奇心を広げ…それが感性を磨くことにつながり、心のことも他の人より少しわかるようになっているようです。

でも、心がわかるって、必ずしも幸せや楽しさにはつながらないものですね。

投稿: TAC | 2006年8月21日 (月) 22時36分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/120394/3146553

この記事へのトラックバック一覧です: 文学、そして宮澤賢治:

« 恐怖を煽る人たち | トップページ | 短歌雑考 »