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2006年8月17日 (木)

戦火の拡大と共感する心の喪失

レバノンの情勢が、ようやく停戦へとこぎつけたようだが、まだまだ予断を許さない状況にあることには変わりはない。それぞれの権力者のメンツの問題があり、今の時点でこの世界から戦争と暴力を駆逐することは非常に困難である。が、少しでも、普通の人々が平穏に暮らせる地域・時間が増えていって欲しいと思う。

多分、そう考える普通の人々の方が世界全体では多いと思われるのだが、それでも戦争・暴力・争いはなくならない。問題は、より大きな権力を持つ人々の弱者に対する共感が失われつつあるからではないだろうか。例えば「テロとの戦い」において「テロには屈しない」と強弁し、戦いを続ける国がある。その結果として、テロや暴力はなくなっただろうか。なくなるどころか、戦火は拡大し続けている現実がある。つまり、「テロとの戦い」は失敗したのである。

ある意味では、テロは民主的・平和的な手段への絶望である。貧困や生活崩壊の現実をいくら民主的・平和的に訴えても状況は変わらないならば、そうではない手段をとる…。それが、テロをする側の論理の1つではないのか。共感がえられない、理解が得られないのであれば、もはや議論の時間そのものにも意味はない。かつて日本でも五・一五事件というテロがあったが、「話せばわかる」という言葉に対しての「問答無用」という言葉および首相暗殺という行動による応えがその実例である。当時の一連のテロ事件の背後には民衆、特に農家の貧困や窮乏の現実が色濃く反映していた。

その意味では、本当の意味でのテロとの戦いは貧困との戦いであり、異文化の交流や共感を疎外することで利益を維持している人々のプロパガンダから民衆を自由にし、お互いの交流と共感を進め、深めていくという地道な活動のはずである。決して、力を誇示して、一方的に要求を認めさせ、その過程で弱い立場の人々を犠牲にしてその責任をとらず口をつぐむことではない。

私には3日か4日に一度、勝手に誤解して怒りケンカを売ってくる相手がいるが、こちらは、なぜそういう誤解が生じて、どういう思考の流れで怒ったかが良く分かるので、怒れない。結局、粘り強く関わり続けて、丁寧に誤解を解いていくようにコミュニケーションをとっていくと、やがて「ごめんなさい。愛してる」という言葉が返ってくる。相手が異国の人であっても、母語が異なっていても、共感し理解しあおうという気持ちがあれば、心は通い合う。ある意味では、「売り言葉に買い言葉」「目には目を」は、非常に安易な対応であり、その場では楽でも、最終的には悪意や憎悪の繰り返しという最悪のスパイラルに陥りかねない危険性をはらんでいるのである。

今の世界・経済は、お互いに共感しようとする気持ちが、より力を持っている人々の間で薄くなっているために、安易にちから(軍事力・経済力)に頼った手を使い過ぎるように感じられる。しかし、それでは問題は解決できず、返って反発や不幸を招いてしまう。やはり、安易にちからを使ったりせずに、地道に他者(弱者)との共感を広げながら、より多くの人々が幸せになる道を探して努力していくことが大切であろう。

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