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2006年8月26日 (土)

自分というリアリティー

「自分」というものについて考えるとき、どうもイメージとして「西洋的な自我」に近いものを思い浮かべるような感触がある。そして、以前はそれに対する違和感はあまり感じなかったように思われる。

けれども、最近は少し違う。西洋的自我は、ギリシャ・ローマやキリスト教の文化的影響を受けた西洋という文明圏の中で発達したものであって、別の伝統や文化・歴史をもったところでは別の「自分」意識があっても良いのではないか、という気持ちが強くなっている。つまり、日本には日本の文化や伝統や精神的風土に根ざした「自分」があったのではないか、いや多分あったのだろう、という思いである。

ただ、それが今の現実世界に適していて、我々の人生を幸福に導くか、というと必ずしもそうとは限らない。「西洋的自我」を知らないままに普通に暮らしていけるような状況であればそれで良かったかも知れないが、今の我々は「西洋的自我」の洗礼を受けており、グローバル化の進展の中では知らない時代に戻ることは不可能だからである。

ただ、もともと主語をなるべく省略して会話の中で「自分」という存在の突出を避けようとする構造を持つ「日本語」という思考形式をベースに生きている日本人にとって、「自分」を実感していく過程での周囲の共感は大きな意味を持つように感じられる。それが実感でき、安心して自分のありのままを出していける「場」を持ち得るか否かが日本人にとっては特に大きな意味があるのではないかと思われるのである。

そのためには、1人の時間も当然必要だが、1人でいるだけでは「場」は作れない。だからこそ、自分のありのままを出していける「場」や仲間を作っていくことが大切になる。そのためには、どうすれば良いか。浅い関わりだけを広く持っていても、自分のありのままを出すことは難しい。時には傷つき、時には疲れ、時には苦しむかも知れないが、そうした感覚と折り合いをつけながらも、関係を深めていく努力が必要となるのである。

ただ、一日のすべての時間でそうする必要はない。何かのときに、安心してありのままにふるまえるところ・関係を1つでも2つでも持っていればいいのである。そうした関係の積み重ねの中で「自分」が徐々に固まっていく。自分とは、探すものではなく、周囲の人々との関係の中で固めていくものではないか……そんな風に思う。

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