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2006年8月23日 (水)

私たちのユートピア

彼岸、天国、桃源郷、竜宮城にエルドラド。伝説や宗教の世界を散策すれば、様々な名前のユートピアが現れる。それだけではない。小説や童話、絵画にイラストあるいは映画などの場面にもユートピアは登場する。また、哲学書を紐解いたりしても、ユートピアを見つけることが出来る。それ程までに、ユートピアは、人々の心を引き付ける。ユートピアは、人間の心の内にある様々な時空を越えて至る所に存在しているのである。

 

美しいユートピア…素晴らしいユートピア。ユートピアは人々の憧れだ。しかし、その姿を正確に描こうとすると、何故か輪郭がぼやけ、幻想の彼方へと去って行ってしまう。ユートピアというのは、単なる幻にすぎないのだろうか。その甘美な言葉の響きは人の心を惑わす麻薬のようなものでしかないのだろうか。否。そう言って諦めてしまうには私の心は若すぎる。今一度、私もユートピアというものを考えてみよう。

 

私には、「ユートピア」という言葉を聞くと、つい、頭に浮かんでしまう本がある。古谷三敏氏の描いた漫画『ダメおやじ』がそれだ。昭和52年から57年にかけて、とある少年誌に連載していた作品なのだが、何故か、その後半でユートピアがテーマになってくるのである。

 

作品の中でプラトンの『国家論』が語られる。また、一方では、「酒が好きな人にとっては、酒のあるところがユートピアだ。」という意見も出てくる。遊園地、家事をしなくて済む世界、そして、人間が1人もいない世界…。様々な人がユートピアを語っていく。どれも、一面では「なるほど…」と思うのだが、どこか、違和感を感じてしまう。

 

確かに、自分の好きなものに囲まれ、好きなことが出来るとしたらそこはユートピアだと言いたくなるに違いない。しかし、酒が好きな人がいれば、大嫌いな人もいる。酒好きの人にとってユートピアである酒に満ち足りた場所は、酒嫌いの人には地獄になってしまうだろう。それではとてもユートピアの名は与えられない。ユートピアというからには、1人の人間だけでなく、全ての人々が幸福を感じられるところではないだろうか。つまり、ユートピアというのは「私の」ではなく、「私たちの」でなくてはならないのである。

 

ということで、今から、「私たちの」ユートピアについて考えてみよう。 ユートピアとはどんなところか。そこは、全ての人が幸福に生きられる世界である。したがって、ユートピアを考えるに当たってのキイ・ワードは、「幸福」である。そこで、まず、「幸福」について考えてみよう。

 

人は、どんな時に幸福を感じるのだろう。好きな物に囲まれている時、好きな人と時間を共有している時、そして、好きなことをしている時…。まず、思い浮かぶのはそのような時だろう。いずれにしろ、「快」を感じるような時とでもまとめられる場面である。もちろん、「快」を感じること自体は決して悪いことではなく、幸福の1つの条件となるだろう。しかし、「快」を感じることが出来ればそれだけで本当に幸福と言えるのだろうか。

 

メーテルリンクの『青い鳥』で、チルチルとミチルが「幸福の花園」に行く場面がある。そこでチルチルの回したダイヤモンドの光に追われて逃げていく「見せかけの幸福」の中身と「快」を感じることの中にどこか重なりあっている部分があるように思われる。「快」を感じることは、人間の欲望と深く結びついている。欲望を完全に否定するつもりはないが、それに振り回されてしまうと、かえって何も得られなくなることも少なくない。つまり、「快」を感じることだけが幸福の条件とは言えないのである。

 

では、いったい何が重要なのだろうか。私は、1人ひとりが「生きがい」を持って、精一杯自分らしく生きられることだと思う。そして、それが保障されるためには、自分の今のちからに応じて働き、他の人々の役に立つと同時に、またその活動が正当に評価されなければならない。それに加えて、必要とあれば、さらに自分の能力を伸ばす機会や環境が与えられなければならない。その鍵を握るのは「教育」である。つまり、「私たちのユートピア」は、「教育のユートピア」でなければならないのだ。国家や一部の人たちのために行われる教育ではなく、1人ひとりの能力をその人の現在のちからや状況に応じて最大限に伸ばすような教育が保障される世界、それが「教育のユートピア」であり、「私たちのユートピア」なのである。

 

この「教育のユートピア」について、もう少し考えてみよう。

 

まず、「教育」の中身である。1人ひとりのさまざまな能力を伸ばすことが目的である以上、選別のための競争原理や効率主義、教育内容の押しつけなどがあってはならない。(しかし残念なことに日本の教育の現状はそれらが我が物顔にのさばっているのである。)そして学習の期間や内容については大幅なゆとりが設けられ、学習者の状態や状況に応じて変更されるようにする。そのためには、当然、旧来の学校とは異なる教育方法が取られることになる。それは、教科書などによって固定された内容を強制的に覚えさせられ、その知識の量や処理能力によって選別させられるような上から押し付けられる教育ではなく、学習者1人ひとりの可能性を認め、それを信じて展開される「対話の教育」である。

 

「対話の教育」では、学習者の可能性に絶対の信頼が置かれ、1人ひとりの学習者の立場に立って教育が展開されていく。それは、学習者の発言、文章・絵画・音楽・身体の動きといった、学習者自身の表現から出発し、学習者と指導者、あるいは学習者相互の対話の中で興味や知識や行動を練り上げていく形で進められる。イメージとして、ソクラテスが若者たちと対話をしながら彼等の内から知識を引き出していったやり方を想像すると分かりやすいかも知れない。それが、1学習者と指導者との間だけで行われるのではなく、学習者相互の間でも対話などを通してお互いに影響を及ぼし合いながら共に高まっていくのである。

 

このような形で1人ひとりが学習を進めていくと、その過程で学習者相互の間に豊かな人間関係が形成されていく。対話を通して、共感や相互理解が得られ、それがさらに深まっていくからである。またその中でお互いに正しく評価する姿勢をも学んでいくだろう。こうして学習者は、お互いの存在を尊重しあい、また、お互いに協力しあいながら、自分の可能性を無限に追及していくことが出来るのである。

 

この教育の前提として、学習をするための条件が国や公共団体を中心にして整備されていなければならない。しかし、それは、あくまでも外的条件であって、内容についてまで口出しすることは許されない。(この点は教育基本法第10条でもはっきりと規定されている筈なのだが、現状はどうだろうか…。)学習内容の強制は、その枠内に学習の展開を閉じ込めることとなり、発達の可能性を制限してしまうからである。学習内容に強制は要らない。個人の興味や関心から出発しても、整えられた条件のもとで学習が展開され、深まっていけば、ごく自然に様々な分野との関連が生まれ、実践的可能性や応用力に富んだ学力が1人ひとりの身についていくのである。

 

また、年齢による制限・制約を排除し、たとえ老人であっても、いわゆる学齢期を越えた人であっても、自分の現在の発達段階や知識の状態に応じた学校で自由に学習出来なければならない。学習者の年齢や理解の速度、学習する場に因る差別は完全に否定されるということも重要な条件である。そして、必要とあれば、仕事を一時休職してでも学習することに社会の理解が得られる状況も必要である。

 

こうして、徹底的に学習を保障する事は、様々な分野での基礎研究や技術の研究・開発の土壌を豊かにし、長期的な展望に立てば、産業のさらなる発展をも約束してくれるものとなるだろう。教育は、まさしく、「国家百年の計」なのだ。1人ひとりの幸福を考えた教育を実現出来れば、それは、1人ひとりが幸福に生きられる社会につながっていくのである。

 

このような形で、教育が1人ひとりの学習を保障する社会が実現すれば、当然、その構成員であるすべての人の能力が高まり、それによって社会も無限に発展していくことになる。常に前進し、発展していく社会…。そこは、希望と活気に満ち、その構成員1人ひとりが「生きがい」を持って生きていくことの出来る社会である。これこそ、まさしくユートピアと言えるだろう。 その社会を、より具体的に描く事は止めておこう。私の限りある想像力で、無限の可能性を持つ世界を思い描くことは不可能だからである。1人の人間の想像力に収まり切れない程の可能性を持った世界、それこそ、「私の」ではなく、「私たちのユートピア」なのである。

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コメント

「ユートピア」について深く考えた事は無いですが、「私たちの」という公のレベルでユートピアを考察してゆくところはTACさんらしいですよね。
それでは万人にとってのユートピアとは何か? これを考察する上で難しいのは、一人ひとりが「欲する」ものは千差万別だというところでしょうか。マズローの5段階要求に従う様々な欲求が人にはありますからねぇ。でも万人に言える最高の欲求は「自己実現」なのですから、ユートピアは「自己実現を成し得た人達が集まる世界」と言えるかもしれません。ここで重要なのは自己実現は個人のスキルと人間性でその性質が決まるものですから、この意味においても教育は不可欠なものであると言えるでしょう。。。
と、慣れない学識的な意見を述べると頭が混乱してきます^^;
やはり僕個人にとってのユートピアは,,,
美人と美酒に囲まれた世界です(^^ゞ

投稿: うるとらの音 | 2006年8月24日 (木) 22時35分

1人ひとりの欲求は確かに千差万別です。ただ、それを昇華、あるいは純化していく過程で、自分のやりたい事が自分だけのためではなく、周りのより多くの人たちのためにもなり、協力して実現できる……という場合もあります。

さすがに「いつも」という程までには出来た人間ではありませんが、自分のやりたい事をやって他の人にも喜ばれ、皆で行動することによってより深い充実感を得られた……という体験は何度かありました。

それを、少しでも広げていければ……と思います。

投稿: TAC | 2006年8月24日 (木) 22時57分

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