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2006年8月30日 (水)

「自己チュー」雑考

最近、以前ほどには「自己チュー」という言葉は聞かれなくなった。にも関わらず、ニュースや雑誌・本などで取り上げられる事件を見聞きしていると「自己チュー」は以前にも増して増殖しているように感じられる。そこで、あらためて「自己チュー」について考えてみようと思う。

自分では基本的には穏やかな性格だと思っているので、あまり他の人と喧嘩をする事はない。それでも、天使や仏ではない人間の身である以上、まったく……という事はない。やはり、何人かとは喧嘩をしてしまった経験はある。本来、「来る者は拒まず、去る者は追わず」のポリシーなので誰とでも割と軽いノリで仲良くなるが、こちらから喧嘩別れのような形で精算するような関係は今までほとんど記憶にない。が、それでも幾人かの例外はある。

そうした事例における原因のほとんどは、あまりにも「自己チュー」で他人の言葉に耳を傾けず、自分勝手に解釈・行動して、関係者のみならずその周囲の人間にまで多大な迷惑を及ぼし続ける人間に対してホトホト愛想が尽きるという状況に陥った事による。が、こうした体験をエッセイのネタにしようとしているこちらも、ある意味では結構「自己チュー」である。皆さん、文芸創作者との付き合いには気をつけましょう。

 

さて56年前から、巷でよく聞かれるようになった「自己チュー」だが、自分勝手で自己中心的な人間をそう呼んでいる。その姿や背景について少し素描してみよう。

 

彼ら「自己チュー」は、他者からみて自分勝手でワガママと写る訳だから、彼もしくは彼女のことを「自己チュー」だと考えている人間が周囲に多いという事になる。つまり彼らのほとんどが人間関係に問題を抱えている人物であると言えるだろう。

 

人間関係の問題、平たく言えば他人とのつきあいだが、人間が11人オリジナルであり感じ方や考え方が異なっている以上、それは結構難しい。自分の都合や意見を主張し過ぎれば「自己チュー」と言われて関係が壊れるし、相手の都合や意見に合わせ続けていれば自分に無理が生じて精神的にストレスが溜まり、おかしくなってしまう事もある。

 

だから、「自己チュー」がすべて「悪」であると言える訳ではないが、結局、適当な頻度でコントロールできるかどうかにかかってくると言っても過言ではない。しかし、実際問題としてそのコントロールが難しいために有史以前から人類が長きに亘って悩み続けているのである。

 

おっと、大風呂敷を広げ過ぎたので、少し話を小さくしよう。

 

人間はお互いが掛け替えのない大切な存在であるとしても、実は、ある人にとって他の人達との心の距離は1人ひとりがすべて異なるものである。恋人・家族・配偶者・親友・友人・知人……。ある人には話せるが、別の人には話せないことがある。ある人に対しては損得を越えて協力することでも、他の人に対しては邪魔をする側に回ることすらある。

自分のとっての大切さの度合いは、周囲にいる1人ひとりの存在がすべて異なっているし、相手に対する言動も、自分にとっての大切さによって当然違ってくる。それが「人との距離」である。

 

例えば、私が以前喧嘩した男の1人を例にとって考えてみよう。彼は、人との距離の取り方が致命的に下手だった。何かのきっかけで少し親切にされるとすぐにその相手が「友達」(それも「親友」のレベル)になったと思い込み、彼が考え得る限りの「好意」を示し始める。どこかに旅行をしたり帰省したりするとお土産を買ってくるし、酒の席などで話題になった商品についてインターネットで調べ上げ、それを買ってきたりもする。「好意」を示された方は、それ程彼と「親しい」という認識はないのでそうした行動に対して違和感を覚えるが、変に波風を立てることもないと判断して、取りあえずは彼に対する「好意」として受け取る。当然、本当に受け取った側に必要かどうかは別問題であり、返って後で困惑したりするような場合もある。

 

そのような「勝手な好意」の積み重ねによって、本人は「自分がこれだけのことをしているのだから、相手も自分を大切にしてくれて当然」と考えるようになる。ところが、相手の都合を考えない「勝手な好意」であるために返って相手に困らせている場合もあったりする。また、何かを頼まれた場合でも、本当の意味で相手の身になって考えていないために、どうでも良い時でも余計な言動で気分を患わせる程度は序の口、時として本当に大事な場面でとんでもないポカをやらかして周囲に多大な迷惑をかけたりする事がある。

 

そうした事件の積み重ねが、やがては相手を怒らせ、関係をこじらせて、それでも自己弁護に終止して責任を取ろうとしないので、喧嘩別れという結果になってしまう。だからこそ、自分に対して優しい言葉を掛けてくれたり、穏やかに接してくれたりする人が現れると、すぐにその人を勝手に自分の「友達」と感じて、小さい子どもが母親にくっついて離れないように、その人にまとわりつき、自分の「勝手な好意」を押しつける。

 

けれども、それはまた相手に疎ましがられ、嫌われることにつながり、ちょっとした事でお決まりの喧嘩別れに終わってしまうことになる。その繰り返しの中で、心に寂しさを感じ続けながらも、次々に新しい人と「友達」になっては喧嘩別れをする事を繰り返し、人との関係に苦しみながらもその中を彷徨い続けている。

 

人間というものは基本的に弱い存在である。特に、最近の日本人は、子どもも大人もそうであると、様々な場面や機会を通じて実感することが多い。もちろんそれは自分自身も含めてなのだが……。

だが、「弱さ」が必ずしも「自己チュー」につながる訳ではない。最低限、そうした自分の弱さを直視し、自覚する覚悟があれば良い。そしてその弱点を直すべく努力を続けていれば、必ず周囲から損得や立場を越えたサポートが入る。周囲の視線や好意がその人を支えてくれる訳である。このように、損得を越えて支援してくれる人がいるという事実が、好意を受ける側の人物が「自己チュー」ではない証でもある。

 

それに対して「自己チュー」はどうか。その人の言動が周囲の損失や迷惑につながると見られる範囲において、そのマイナスを最小限に抑えるためのサポートはあるだろうが、彼や彼女自身に対するサポートは本人にとって大切な時ほど受けられなくなる場合が多い。そのような現実から考えれば、「自己チュー」は本当に哀れで悲惨である。しかし、それは彼もしくは彼女自身が招いた事なのである。

 

それでも、「自己チュー」は自分の行動ややり方を変えず、相変わらず「自己チュー」であり続ける場合が多かったりする。そうした姿勢や言動を非難することは簡単で、噂話や酒の肴にしてうっぷんを晴らせば、多少なりともその「被害」を受けている人々の精神衛生には良いだろう。だが、その背景をさらに深く掘り下げることの方がより建設的だと思うので、その辺りについて考えてみよう。

 

彼もしくは彼女たちが「自己チュー」であり続ける理由……。それは、自分の心の深い部分で自分自身の存在に対する自信がなく、また自分自身の「弱さ」にきちんと目を向け、認める強さを持ち合わせていないことによるのではないだろうか。例えば、学歴や地位を前面に出して、直接・間接の形で「特別扱い」を要求する輩がいる。けれども、そうした人間ほど実力や人間的魅力がない場合が多い。従って、彼らは学歴や地位といったものにすがりつき、さらに醜態を晒すことになるのである。だが、それは彼もしくは彼女たちが自分の「弱さ」を安心して出せる機会のないまま、そこまで年齢を重ねてきた結果なのかも知れない。

 

自信は、その字の示すごとく自分自身への信頼によって育まれるものであり、その自分自身に対する信頼は周りの他者に対する信頼と表裏一体のものである。自分の弱さを認められない背景には、周囲に対する不信がある。失敗や弱さが自分への虐待や攻撃につながる体験を小さい時から数多く経てくれば、周囲に対する信頼は育まれず、自信を持てない人間になる。

 

その自信のなさをカバーするのに彼等は外からの権威を借りてくる。自分の言動ではなく権威者の言葉や行い、あるいは知人の業績や言動を利用して、自分を攻撃してくる(と信じ込んでいる/誤解である場合も少なくない)相手を攻撃し、優位に立とうとする。あるいは弱い立場の人々を攻撃する事で自分の「強さ」(もちろん錯覚に過ぎず、これがいじめや差別となる)をアピールして不安を紛らわせようとする。ガードする必要のない「弱さ」を自分と他人の目からごまかすために過剰に反応し、結果として関係をぶち壊してしまうのである。

 

結局、「弱さ」がウィーク・ポイントとなって自分が攻撃の対象となると信じているので、外に対して失敗や弱さを認めず、虚勢をはって自分の小さなプライドだけを守ろうとするようになるのであろう。だが、そうした姿勢は、多くの人々の心に敵意を生じさせると同時に、好意を持って近付いてくる相手に対しては、拒否や攻撃の壁となってしまう。その結果、彼や彼女たちは本当に自分を慈しみ守ってくれるかも知れない相手に対してさえも牙を剥き、爪を立ててしまうのである。

 

これは何も一般人だけではない。政治家や公務員の中にも、自分のミスや失敗を認めずに強弁と言い逃れと情報操作を繰り返してそれをごまかそうとする心の弱い輩は多い。小泉首相、パロマの経営陣、「自己チュー」と見受けられる人々は多いが、彼らの「自己チュー」によって多くの人々が苦しみ、命さえ失われている悲惨な現実がある。彼らに自分の失敗を認める「強さ」があれば、事態が悪化する以前に改善できたであろうと思われる事は多い。権力を持つ人々は、間違いを認める「強さ」を持つ事が最低限の「自己責任」だろう。

 

最後に、こうした分析・考察の上に立った「自己チュー」に対する接し方について述べておこう。自分に、守るべき人々や仲間がいて、「自己チュー」が自分や大切な人々に関わってくる場合は、自分自身の力量の範囲で対処が可能である限り、あまり深く関わりを持たない関係で止どめておくのが利口だろう。

自分の力量の範囲で対処が不可能と思える場合は、彼や彼女たちと喧嘩してでも自分の守りたい人々をガードした方が良いだろう。こちらが強い意志でガードを固めて対処していれば、自分に自信のない彼等は、敢えてそれ以上の侵入を試みないと推測できるからである。その場合は、安易な妥協や思いやりは返って「自己チュウ」の甘えや暴走を引き出してしまう場合があるので、毅然とした態度で臨むよう心がけると良いだろう。

それに対して、「自己チュウ」である彼や彼女たちが守らなければならない大切な相手であるならばどうだろうか。意外な事かも知れないが、「自己チュウ」の精神的背景には自分自身の存在に対する自信のなさ・不信感が存在している場合が少なくない。ワガママで自分勝手にふるまっているようでも、裏を返せば、自信のない弱い自分を強く見せようと無理を重ね、注目を集める事で自分に対する「真実の愛」を確かめたいともがいている哀しい存在であったりする。だから、そのような背景を意識しながら優しく丁寧に彼もしくは彼女に対応していくような大きく深い「愛」が必要だろう。

また、自分自身が「自己チュウ」ではないかという自覚、もしくは疑いを持っている場合は、欠点をも含めて自分自身を見つめ直し、許す努力から始めてみよう。そうすれば、本当の意味で自分を愛する事が出来るようになり、無理に強がる必要も他者からの攻撃を恐れる事もなくなる。そして、自分を許し、愛する事が出来るようになると、不思議な事に他の人々も心から愛せるようになるものである。自分を愛し、周囲に深い愛情を持って接する努力を続けていけば、やがては「自己チュウ」も卒業できるだろう。

結局、すべては愛と努力の積み重ねによる。深い愛と信頼に基づく正しい努力と、家族や友人や周囲の仲間の協力によって、どれ程の高い壁でも越えることができる。人生とは、そんなものである。

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