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2006年9月30日 (土)

101

前回の投稿で、記事数がちょうど100になった。全国研究会で留守にしていた時以外は、今のところ毎日何かを書いている。もっとも、upが午前〇時を越えてしまい、翌日扱いになった日も何度かあるが……。

20代の半ばから結婚前まで、毎日、小説の草稿を書き続けていた。毎日続けることで、それなりに文章修行になり、新風社から『異・邦・人』という小説を出版し、童話で鳥羽市マリン文学賞地方文学賞をいただける程度の文章力はついたようである。が、結婚前にいろいろと忙しくなったこともあり、小説書きは中断してしまった。現在も書き掛けのままの小説が数本ある。

それが、このブログを書き続ける中で、再度、文章修行をやり直すきっかけになっているかも知れない…と思い始めた。小説の草稿書きは形を整えて本や雑誌に発表するまで読者がいない。が、ブログは面白ければ読者は増える。その意味ではけっこうシビアな世界である。それでも、思いがけない形でのコメントやトラックバックは励みになる。

新しい形での文章修行の再開になったが、読んでいただける方の存在が本当に励みになる。無理をし過ぎない程度に、これからも書き続けていきたい。

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2006年9月29日 (金)

聞く度量

他のブログを見ていたら、コメントの中に1人自分の感情的な意見をぶつけるだけで、他の人たちの意見を丁寧に読まない人を見つけた。自分は強気のつもりなのだろうが、返って度量が狭く、流行や既成の権威に依存しているだけの自分のない人であることが見てとれた。結局、自分という存在を精神的に確立できていないから、それがばれたり不安定な今の自分が崩れてしまうのが怖くて、他者の意見を自分の中に取り込めないのだろう。

けれども、よく考えてみると、有名、無名を問わず、そういう人を見かけることが最近多くなったように思う。つまりそれは、自分というものを確立できていない、自分が精神的に自立できていない人が増えているということなのだろう。青少年については、成長途上であるということを考えればある程度仕方がないことだし、それに上手に関わりながら自立を促していくことが周りにいる大人の度量だし、また役割でもある。

しかし、いい歳をした大人のそんな姿を見てしまうと、情けないなあ…と思うし、また可哀相だとも思う。多分、これから先、多くの人々とぶつかり、嫌われ、寂しい人生を送るのだろうから。

他者の意見を丁寧に聞く、もしくは読む、という行為は、大人としての度量だし、また自分の精神をより大きくしたり深めたりするチャンスでもある。その関わりを通して、人間として大きくなる機会かも知れないのだ。

確かに、それまでの自分の発想や見方とは異なる場合は、最初は理解しにくいだろう。けれども、それを理解する過程で、何か新しいものが見えてくるかも知れない。それをきっかけにして、自分のミスや欠点を修正できるようになるかも知れない。だから、他人を受け入れようとする姿勢は自分を変えるチャレンジでもあるのだ。

他者の言葉に耳を傾けられる度量を、いつも持っていられたら……と思う。

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2006年9月28日 (木)

こんな一日も…

大きな衝撃…という程ではないが、あまりうれしくないことがポロポロと続き、結果としては気持ちもどこか重くなっている。でもまあ、こんな日もあって良い。

明るいばかりでは疲れる。マジメなばかりでも疲れる。いろいろな時間がアクセントとなって、うれしい時や楽しい時をより鮮やかに彩ってくれる。運が良い時、悪い時、哀しい時、辛い時…それらをありのままに受け入れる強さを自分の中に持てたら、きっと人生は豊かなものになるだろう。

でも、たまにはエネルギーの衰える時だってある。今日は、そんな一日かもしれない。動物が、雨の中で物陰に身を潜めて待っているように、今日はおとなしくしていよう。よく考えてみると、けっこうエネルギッシュに動き回っているような気がする。たまには休め…と運命が言ってくれているのかもしれない。

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2006年9月27日 (水)

間違いを認めない非効率

明らかなミスや間違いを認めない人間を、最近よく見かける。それが、特に力を持たない一般の人であれば「大人気ないな」と感じ、よほど特別な事情がない限り、その人と付き合う機会を極力少なくしていけば、日常生活での悪影響は最小限に抑えることができる。

けれども、それなりに権力や影響力を持つ人が間違いを認めずミスを隠して居直ろうとすると、様々な面で周囲に悪影響を及ぼすことになる。彼らが、組織のトップやトップに近いところにいる場合は、その組織の存続にも関わりかねない。なぜなら、間違いやミスを認めれば、そこから軌道修正が可能となるが、認めないまま居直ると、軌道修正が難しいために事態が悪化の一途をたどりかねないからである。そして、当人が困るのはある程度自業自得だが、結果として組織の末端に位置する人が困るのは本当に悲惨である。

しかし、そのような心の病が日本の社会を覆いつくしつつあるように感じられる。雪印の事件や三菱自動車の事件、そしてパロマの事件…いずれにしろ末端の従業員やパート・アルバイトの人たちの責任はそれほど大きくなく、組織の上層部が間違いを認めて素早く方向転換をすれば、買い手の側の被害はもちろん、組織の傷ももっと小さくて済んだ筈である。が、結果として間違いやミスをごまかし続けたことで多くの被害が出て、組織自体も大きく傷つく事になった。

日本そのものはどうだろう。景気は持ち直しているという話だが、一般の人々にその実感は薄い。が、大企業には減税を、そして一般の人々には増税の道が画策されているようである。「国際競争力」の維持とやらがその理由だが、誰が商品や製品・サービスを買うのだろうか。賃金が伸び悩み、税や社会保障の負担が増える一般の人々にその余力があるとは思えない。外需に頼るには、アメリカ経済の動向には不安の影があるし、他の貧富の差が激しい国々に安定した購買力を期待するのも本末転倒のような気がする。とすれば、それなりに儲かっている大企業には増税しつつ賃金の上昇を図るなどの内需を拡大する条件を整えた方が良いのではないだろうか。

国会で法案を審議しているうちに矛盾や問題点が明らかになっても原案を押し通そうとする与党の姿は、間違いを認めないことによる非効率の例そのものである。結局、社会保障制度など、毎年議論され手直しされ続けているではないか。これを非効率と言わずにいられる人々は、自らが「効率」という言葉の意味を理解していないのだろう。

間違いを認めることは、決して悪いことではない。いつの間にかそれを忘れてしまった日本社会の行く末が心配である。

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2006年9月26日 (火)

わからないことのおもしろさ

最近の子どもたちを見ていると、「わからない」ことを楽しめず、イライラしたり、すぐ投げ出してしまったりするように感じられる。いや、子どもばかりでなく、大人もそのような傾向が強まっているかも知れない。

確かに、わからなくて恥ずかしい思いをする、ということは子どもでも大人でもあるだろう。大人の場合は特に、「わからない」と攻撃の対象になったり、評価が下げられたりする、ということもあり得る…という思いから、いかにもわかっているふりをしてその場をしのごうとすることは少なくない。ハツタリでごまかそうとするのである。

けれども、「わからない」を素直に認め、そこから「わかる」ための努力を続けていくと、その問題・課題・テーマが思いがけない広がり・深みを見せはじめ、さらに追及することによって知識や人間関係が深まったり広がったりしていく。そういう展開を経験すると「わからない」の中には、いろいろな「おもしろさ」が隠れていることが理解できてくる。

もちろん、すべての「わからない」を追求していくことができるほど人の一生は長くない。たくさんの「わからない」から、最終的にはいくつかを選び、調べ、考え続けていく形にならざるを得ない。けれども、その過程はとても楽しいし、その過程で関わる人々の何人かとは本当にいい関係をつくっていくことが可能になる。それを考えると、「わからない」は「楽しさ」や「おもしろさ」につながっていくのである。

けれども、周りを見渡してみると、「わからない」の「おもしろさ」を知っている人は、大人も子どもも、本当に少ない。いろいろと関わっていく中で、「わからない」の「おもしろさ」を少しでも多くの人々に伝えていければ……と思う。

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2006年9月25日 (月)

「学力」って…

子どもたちの「学力」問題が問題になって久しいが、学校・塾・外国人教育・不登校などの様々な教育の現場での経験からすれば、確かに「学力」が問題であることに異存はないが、その中身の議論が非常に浅いのではないか…という思いがある。

確かに、以前に比べて、例えば文章を読み取る力や自分の思いを言葉で表現する力の弱体化を感じるが、それ以上に、考え、判断する力の低下の問題が大きいような気がする。もちろん、分数の計算ができない大学生や助詞の使い方がおかしい高校生の存在を実際に知っているし、それらを放置して良いとは思わないが、情報が氾濫する中で分析し、考え、判断する力が低下すれば、自分を成長させ、周囲の人々と協力し、未来を創造する上で大きな支障をきたし、周囲の雰囲気に流されて不幸になる未来が待ちかまえている。

その意味で、昨今、巷で論議されている「学力」の中身は非常に狭い範囲に限られ、個としての成長や周囲との共感・協力、社会の変革を担う主体者としての能力…などといった本来もっとも重視されなければ部分に目を向けさせない意思が働いているのではないか…とさえ感じてしまう。

オウム事件をはじめ、様々な事件で、知識はあってもきちんとした判断力の育っていない状況の危険性は明らかである。そして、思考力や判断力を育てるには、考えたり判断したりする体験を積み上げていくことが必要である。けれども、計算練習や漢字練習、知識の暗記を積み重ねても、考えたり判断したりするような体験はなかなか積み重ねられない。

もちろん、知識は必要である。しかし、知識をいくらストックしても意味はない。大切なのはそれをどう使いこなすかである。そうした点も含めた「学力」をしっかりと吟味し、未来の日本のためのになる「教育」を再構築する必要があろう。少なくとも、日の丸や君が代や愛国心を押し付けることでは、まったく問題の解決にはならないことはきちんと認識しておく必要があるだろう。

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2006年9月24日 (日)

カワイイの上下構造

「カワイイ」という言葉を、最近、本当に様々な場面で耳にする。15年、あるいは20年ほど前には絶対に使われていなかったような場面でも、この「カワイイ!!」という言葉が飛び出す場合も少なくない。けれども、このカワイイという言葉は、けっこう曲者(くせもの)である。なぜなら、その背景には必ず上下構造が存在しているからである。

「カワイイ!!」という言葉が発せられる場面を少し想像してみよう。その言葉を発する側は、その言葉の対象よりも立場あるいは能力や力の面では上に位置するという無意識の前提がある。例えば、ある男が彼の恋人やガール・フレンドに対して「かわいいね」と言う場合、彼女を保護の対象(いわゆる【守ってあげたい】と感じている)と見ている。なぜなら、彼は自分の女性上司や先生など上の立場もしくは自分より力を持つ異性に対して「カワイイ」とは感じないからである。女子中学生や女子高校生が子ネコを拾ってきて「カワイイ!!」と言っているような場合でも、圧倒的な力の差が存在している。彼女たちはその気になれば子ネコを殺せる力を持っている一方で、サバンナや密林で無防備な形でライオンやヒョウに遭遇した時には絶対にライオンやヒョウを「カワイイ!!」と感じないであろうことは誰でも想像できるだろう。

では、女性が彼女の恋人を「カワイイ」と感じるような場面はどうか。多分、バリバリと仕事をしている時や、何らかのトラブルに際して自分を守ってくれている時ではなく、無防備にくつろいでいる時や他愛のない失敗をして世話を焼いている時などに感じる場合がほとんどではないか……と思う。無防備な場面では、その気になれば女にでも男を殺すことができたりするし、世話を焼くのは、そこに焼くものの方が能力が上であるという前提がある。だから、心の中では、自分の方が上と(あるいは無意識に…)感じているから「カワイイ」と思うのである。

もちろん、「カワイイ」と感じる相手に対して、まず悪意や害意は持たない。あくまでも、守ってやろう、保護してやろう、世話をしてやろう、という思いや行為が伴い、それは対象にとって利益になる場合が多い。けれども「…してやろう」と思うその中には、どこかしらその相手や対象を下に見ている意識(もしくは無意識)の存在、上下構造がある。

だからといって、特に何か問題があるのか、と言われれば、まあ個々の場面において必ずしも問題が起きることは少ないかもしれない。けれども、1つ気をつけておきたいことがある。上下構造は、時として支配につながる。相手を「カワイイ」の中に閉じ込めて、自立を邪魔するようなことをしてしまわないように注意したいものである。

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2006年9月23日 (土)

誰のための日の丸・君が代

東京地裁で、東京都教育委員会が教師に日の丸・君が代を処分をもって強制した事に対する裁判で、原告側勝訴の判決が出た。象徴天皇制・国民主権の日本にとって日の丸・君が代が国旗・国家として相応しいかを充分な議論や対案なども掘り起こさぬまま国会でなし崩し的に決定し、その際に「強制するものではない」との答弁があったにもかかわらず強制し、天皇陛下にまで「強制」をたしなめられたにも関わらず無反省に押し付け続けた結果がこれである。

だいたい、日本が人民を大切にする素晴らしい国であったならば、強制などしなくても人々は国を愛するだろうし、その延長線上での国旗・国家ならば、強制などする必要はない。アメリカの判例などでも、宗教上の理由から国旗に対して敬礼をしない自由が認められている。

それでも強制しなければならない理由は何なのか。国民が大切にされていなくても、すりこみによって一部の人だけの利益につながる「国策」を強制できるように、何も考えずに従う「臣民」を作りたいだけではないのか。そうした危険な「現実」に対して、司法の独立の立場からストップをかけた、というのが今回の判決だろう。

もちろん、日の丸や君が代を心から愛している人からそれらを奪う、という判決ではない。教師を統制することで児童・生徒を統制し、宗教や国籍、あるいは戦争との関わりで日の丸と君が代を受け入れられない人々が日の丸や君が代に敬意を示さなくてもすむ精神的自由をあらためて確認したということに過ぎないだろう。

逆に、あらためてそんな事を確認しなければならないほどの歪みが、東京都の教育行政にあったということになる。判決では教育基本法の10条の規定にも触れているが、もちろん教育基本法は改正されているわけではなく、制定の経緯からすれば「教育の憲法」としてあらゆる公務員が遵守する義務を負っている。それをせずに、ここまで強行してきたことに、それを推し進めた側の不実と不正義を感じる。

「改正」を議論する以前に、今までごまかしてきたことをきちんと守る義務を果たすことが大切ではないだろうか。そうした視点で学校行事の日の丸・君が代を見たとき、また異なったものが見えてくるのではないと思う。憲法や法律は、まず、政府や公務員が遵守する義務を持つものなのだから……。

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2006年9月22日 (金)

民主主義って?

タイでクーデターが起きて、それまで政権を維持していたタクシン首相が失脚した。「軍事クーデター」ということで欧米各国は懸念をしているようだが、とりあえず国民の支持はあるようだし、今のところ流血沙汰も聞こえてこない。社会や経済も翌日からクーデター前と同じように動き出しているようである。

新しいニュースでは政治集会(5人以上での政治の話は禁止)に対しての統制命令が出ていて、それに対する静かな抗議集会が計画されているらしい。それに対する対応や今後の動きも分からないので拙速な判断はできないが、国民がクーデターを支持したのは、政治的混乱が続くことへの懸念であるのではないかと分析されている。

いわゆる「民主主義」についてだが、必ずしも完璧で万能なわけではない。歴史的に見てもドイツのナチス政権は、ワイマール体制という民主的な制度の中で生まれ、成長した。日本の例でも、国民の大多数が反対したイラクへの自衛隊派遣を、なぜか「民主国家」である筈の日本政府は強行している。パレスチナでは、民主的な選挙で選ばれた最大多数の政党に対して欧米がクレームをつけ経済封鎖を行ったが、ある意味では明らかな内政干渉である。そして、アメリカ……。生存権も危ぶまれるほどの格差の中であえぐ人々の存在を見れば、この国が「民主主義」だなどと、悪い冗談ではないかとさえ思う。

何か、厳密な共通イメージを持たぬまま多用される「民主主義」だが、やはり政府に都合の悪いことも含めて情報がきちんと公開され、マイノリティーや少数意見もきちんと尊重されることが必要だし、国民(人民)ひとりひとりが公開されている公正な情報(もちろん「大本営発表」を【公正】とは言わない。日本やアメリカのマスコミは「大本営発表」に限りなく近づいているようだか…)を判断する力を持っていることが前提である。

日本やアメリカの様子を見ていると「民主主義」の腐敗や政府・制度の暴走(少数意見を抑圧したり無視したりする【多数決】は決して民主主義ではない)を止める術がないのではないか…という思いもある。その意味で、タイの状況は興味深い。欧米の批判はあるし、短期間であるとしても言論への統制は危惧を感じるが、今後の展開によっては、「民主主義」の暴走を制御する一つのモデルになる可能性もあるのではないか、とも思う。とりあえず、社会や世界の様子を注意深く見守っていきたい。

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2006年9月21日 (木)

暴走「グローバリズム」の非効率

英米式「グローバリズム」経済が世界を席巻してからある程度年を経たが、その効率をあらためて考えてみると、実は、非常に効率が悪いという分析ができそうに思われる。「効率化」を口にしながら、世界レベルで争いを撒き散らし、治安を悪化させ、環境破壊を推し進めている。「テロとの戦い」が、その帰結である以上、すぐ嘘がばれた口実で仕掛けられた侵略戦争による武器と人命の浪費、環境の破壊は、何ら世界の平和と安定に寄与することなく、返って無駄な支出を現在と未来に渡って拡大させているからである。

経済性・競争力を増大させ効率をあげる、と主張するならば、当然、無駄遣いは極力削っていかなければならない。ならば「テロとの戦い」という口実の侵略戦争は、結果として高価な武器を浪費し、お金には換えられない尊い人命を浪費し、石油を高騰させ、環境を破壊するという結果が積み重ねられているではないか。それを含めて「収支」を再検討してみれば、英米式「グローバリズム」は一部の利益のために多くの普通の人々のささやかな生活を強奪する暴挙であり、不経済なものであると結論付けざるを得ない。

例えば、日本国内のことを考えてみよう。「小泉改革」というまやかしで英米式グローバリズムを導入した結果がどうなったか。リストラと称して労働者の収入を削ることによって消費者の購買力を削った結果内需が低下して多くの企業が苦しんだ。効率化と称して「安全」対策の費用を削った結果、悲惨な事故や信用低下を引き起こし潰れた企業もたくさんある。つまり、「効率化」によって「必要な費用」を削った結果、より多くの負担をより多くの人がしなければならなくなったのである。

そうした現実をふりかえれば、英米式暴走「グローバリズム」の方向は間違いであったということが出来る。それをさらに推し進めることが、日本の利益になり、世界の利益になり、地球の利益につながることにはならないという事実は、少しでも考える力がある人間には明白である。無駄の多い英米式暴走「グローバリズム」にさっさと見切りをつけて、もっと効率の良い経済を創造していくことが今の日本には必要であろう。

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2006年9月20日 (水)

耳をすませて

市立図書館の読書会で、久しぶりに『モモ』(エンデ/岩波書店)を読んだ。作者のエンデは1995年に亡くなったが、その作品は今も世界中の多くの人々を魅了し続けている。

 

映画化もされ、エンデ自身も少しだけ映画にも出演しているというこの作品の主人公モモには不思議な力が備わっている。それは、他の人の話を聞くのがとても上手いことだ。町の人は、困っている仲間にこんなふうに声をかる。「モモのところへ行ってごらん」と。 

 

子どもに過ぎないモモは、お金を持っているわけでも、アドバイスをしてくれる訳でもない。ただ、素直に、そして一生懸命に聞くだけだ。けれども、モモに話し終わる頃には、何か良い考えが浮かんできたり、気持ちが楽になったりする。だから、聞き上手のモモは、人々にとってとても大切な存在なのだ。

 

さてここで、私たち自身の生活を振り返ってみよう。自分に、安心して話をすることの出来る家族や友達はいるだろうか。この人なら、安心して何でも話せる。この人といるだけで、ほっとする。そんな家族や友達や先輩や仲間が一人でもいる人は、もしかすると、とても幸福な人かも知れない。

 

別にアドバイスを受けなくても良い。というよりも、下手なアドバイスは、聞いていて腹が立つことだってある。「そんなことは、分かってる。でも、出来ないから困ってるんだ」と心の中でつぶやきながら、相手の得意そうに始めた「正論」や「自慢話」や「体験」を聞くなどという展開になってしまって、返って不愉快になったり、落ち込んだり…。そんな場合も、結構少なくないのではないだろうか。そう考えると、ちゃんと話を聞いてくれる人の存在は、とても貴重で得がたいものだということが分かる。

 

では、私たちは、自分の大切な家族の、あるいは友達や仲間の話をちゃんと聞くことができているだろうか。少し話を聞いただけで分かったつもりになって、その「理解」の上に立ち、自分に都合のいい考えを無意識の内に押し付けていることが結構多いのではないかと思われる。いや、もっとひどい場合は、相手の話をさえぎり、こちらの意見や都合をまくし立てることもあるのではないだろうか。

 

どうしてそうなってしまうのか。きっと、親しいから、分かっているから、という無意識の甘えを背景に、あるいは相手との上下関係などを背景にして、相手の気持ちに十分に応えずに、つい自分を主張してしまうのだろう。

 

ただ、相手が普通の状態(精神的にも、状況的にも)であるならば、そうした部分はお互い様だから、何事も無く過ぎていく。しかし、相手が切羽詰っていて余裕の無い状態であれば、そうした「普通の何気ない対応」が相手の心を深く傷つけてしまうこともあるのだ。

 

もちろん、いつも「特別に注意を払った対応」を全ての人を相手に出来るわけではない。と言うよりも、人間にそんなことは不可能であり、無理にそうしようと努力すれば確実に自分の心が蝕まれ、おかしくなってしまうだろう。その意味では「普通の何気ない対応」というのは、そうならないための無意識の安全弁かサーモスタットのようなものなのかも知れない。

 

また、人間誰しも、精神的に余裕のある時には、わりと他の人の話を聞いてあげられるものだ。そういう時に、少し「耳をすませてみる」と、「普通」だと思っていた相手が「普通の状態」でないことに気づく場合がある。そして、モモのように誠意を持って真剣に話を聞き出すと、思いもかけなかった事実や悩みや思いが吹き出す事もある。しかもその内容が聞く側の人にとっては重すぎて何も出来ない事だってあるのだ。

 

しかし、慌ててはいけない。無理をせずに出来る事……。そう、モモと同じようにただ、真剣に相手の話を聞き続ける事は出来るはずである。心を合わせてそばにいてくれる、そんな人が存在していると実感できる、それだけで楽になる事があるのだ。下手な解釈や場当たり的な解決策を口にしなくても、自分の辛さや苦しさや悩みを理解してくれる人がいると信じられる事が、人に希望を与えるのである。

 

けれども、精神的に追い込まれている度合いが強いと、自分の辛さにしか目が行かなくなり、その中だけで堂々巡りをしてしまい、手を差し伸べようとしてくれる人に対してさえも心を閉ざしてしまったり、イライラや持って行き場の無い怒りをぶつけたりしてしまう場合がある。そんな時には、それでもあえて聞き続けるというのは本当に辛いことかも知れない。

 

でも、少し考えてみよう。他の人には出来ないかもしれないけれど、信頼している相手になら、自分の弱い部分を見せることが出来るし、無理を言ったりして甘えることも出来る……ということが人間にはあるからだ。

 

そうした事が少し分かっていると、大切な人が自分にとって辛い言動をしても、何とか受け止められる場合がある。必ず受け止められるとは言えないが、知識として知っていることで、わずかずつでも許容範囲が広がるという事はあるのだ。

 

もちろん、何もかもを自分ひとりで背負えるという訳ではない。と言うよりも、あまり自分ひとりで背負い込んでしまうと、その許容範囲を超えたときの反動が大きく、返って周囲の人に多大の迷惑を及ぼす場合だってある。

 

私の愛する女は、わりと優しいところがあるが、とても気が強く、何もかも自分ひとりで背負い込んでしまう傾向が見受けられる。身近で接している時はそれが分かっているから、なるべく一人で背負い込んでしまうことがないように、と気をつけているが、大事なところで自分の中に溜め込んでいるうちに許容範囲を超えてしまって暴走し、すべてをぶち壊してしまいかねない言動を取ったことも何度かある。それでも、彼女のすべてに「耳をすませて」いると、後始末の際に「バカ…」とつぶやくぐらいのことはあるとしても、どうしてそうなったか、ということも含めて理解できるから、変わらずに彼女を受け入れ続けることが可能となる。(今だけ……でないことを祈りたいものだが。)

 

それに、私自身も聖人君子ではないので、精神的に余裕の無いときにはバカなこともするし、他の人の心情にまで思い至らずに無神経な言動をとったりもしてしまう。ただ、そういう場合でも、なるべく自分の心に「耳をすませて」心の余裕を失っていないかどうかを確かめるように心がけようとしている。

 

今までの自分自身の経験からすると、自分の辛さや淋しさや苦しみを見つめ、それを超えて生きていこうとする体験が、いつしか出会う誰かの辛さや淋しさや苦しみを和らげる力となる事だってあるかも知れない。そう考えると、まず自分自身の心に「耳をすませる」勇気が湧いてくる。

 

そろそろ40代の後半に差し掛かっていてそれなりの経験も積んでいるが、それでも、未だに自分の未熟さを痛感することは少なくない。しかし、自分が辛いときでも、他の誰かのために何かをしてあげられる強さを持ちたい…と思う。まあ、なかなかそれが出来ないから、そう思うのだろうけれど。しかし、自分の心に「耳をすませ」、周りの人々の言葉に「耳をすませて」、今よりも少し強く、今よりも少しだけ優しい自分になりたいものである。モモのように、いつでも、自分も含めたあらゆる存在に対して「耳をすませる」ことができたら良いと思わないだろうか?。私は、そう思う。

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2006年9月19日 (火)

姑息な「審議会答申」

政府が、国民や関係地域の住民に都合が悪いかも知れないことを押し付けようとする時に「…審議会」や「…諮問会議」などをつくり、「有識者」や「専門家」を集めて議論をさせ、答申を出させる、という方法がよく使われている。けれども、その際の参加者の人選を良く見てみると、政府の主張や考え方に近い人たちばかりを集め、その上で政府の方針に箔をつけて進めていく根拠としている傾向が最近は特に強まっているように思われる。

BSE問題で揺れたアメリカ産牛肉再開の際にも、明らかに最初から「再開」という結論ありき、で、結局少なくない委員が辞めている。これでは、審議や諮問自体が問題点の発掘や新しい可能性を生み出す提言にはなり得ず、時間や金の無駄遣いである。

政治家にしろ、上級官僚にしろ、異なる意見に対してもきちんと耳を傾けることによって、様々な可能性やリスクを深く検討できるようになるので、審議会に諮問をするならば、少なくとも半数は政府の出した方向性に疑問を持ったり反対したりする人々も委員に選出することが議論を深いものにし、万が一のときの方向転換も視野に入りうるので、リスクに対しても強くなる「答申」が期待できるようになる。

なぜ、それが出来ないのだろうか。国民のことや国の将来よりも、身内の目先の小さな利益しか目に入らないのだろうか。そうであれば、政治家として官僚としての資質を欠いていると言わざるを得ない。

日本の社会も、国際社会も多くの問題を抱え、様々な矛盾に満ちている。そんな厳しい環境の中では、広い視野と遠くまで見通すビジョンが必要である。厳しい環境の中で、それを養うには、小さな世界の中に閉じこもっていては不可能である。それを開く鍵が、意見の異なる他者の話を良く聴き、方向性に矛盾や問題点が出てきた時には潔く修正できる強さを身につける事である。

御用学者ばかりを集め、政府の方針に沿う「答」の用意されている「答申」を並べ立てても未来は開けない。そういう姑息な「…審議会答申」などはさっさと廃止して、より多くの立場の人々や本当の意味での専門家の意見に耳を傾けることが必要だろう。

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2006年9月18日 (月)

人権侵害の現場から…津地方検察庁

  はじめに

 

 

検察は現代社会において被害者になりかわって科学的・論理的に被疑者を追及し、犯罪や不法行為を暴く大切な役割を担っている。したがって、一般の役所以上に厳しい公平性を要求される。これは、近代以降の民主的国家の常識である。

ところが、2004年の夏、津地方検察庁において、家族の裁判記録の開示を求めていた人に対し、記録係の検察職員が、記録が貸し出されている事を隠蔽した上で記録開示を「できない」と断り、さらに差別発言を重ねる……という事件が、勤務時間中に起きた。

それだけでも、絶対にあってはならない事件なのだが、その事後処理において、一般職員を監督しなければならない役割を持つ検務監理官が隠蔽工作を画策するというさらに呆れた対応が行われた。

 

そうした対応にあった被害者は、当初は津地検の名誉のために内密に動いていたのを改め、事実を公表することが次の差別事件を防ぐために必要であると判断し、様々な場での公表に踏み切った。

津地方検察庁は、前職と現職の検務監理官が隠蔽工作に動いたため証拠となる文書を一切残していないが、被害者は検察との対応において、手紙を含む5通ほどの文書を残しているので、その文書と被害者の証言を元にしてこの事件を報告していきたいと思う。

ルポルタージュの性格上、本来は、双方の主張をきちんと確認する作業が必要なのだが、津地検の方が隠蔽工作によってその道を自ら閉ざしている以上、筆者に選択の余地はないことは先に明記しておきたい。

   発端としての差別事件

被害者が最初に津地方検察庁を訪れたのは、2004726日の夕方だった。その日の午後、弁護士の法律相談を受けて、配偶者の事件について裁判記録の確認をアドバイスされた被害者はその足で津地方検察庁を訪れ、記録係のS氏(勤務時間内の公務執行中のことなのでプライバシーの保護をする要件ではないのだが、一応イニシャルで記しておく)から、記録開示に必要な書類・持ち物等を聞いて、30日の午後再訪する事を伝えて津地検を出た。津地検到着が午後445分頃であったこと、婚姻関係を証明する書類がその時は用意できていなかったことがその理由である。S氏はその時、次のように語っている。「配偶者だから、それを証明するものとあなた自身を証明するもの、例えば戸籍謄本とか免許証などを持参してくればコピーもできる」と。

 

被害者はその言葉を信じて、戸籍謄本を用意し、730日午後2時頃、津地方検察庁に着き、裁判記録開示のためにS氏に面会を求めた。ところがS氏は26日の説明を覆して裁判記録の公開を法的根拠もあげずに拒否をしたのである。

 

この日のS氏は、「係の人(上司)がいない」「一応、また聞いておくけど難しいだろう」「本人の手紙があっても難しいだろう」と言った発言を繰り返し、被害者が納得する理由を説明せずに記録開示を拒否し続けた。

 

その後の記録開示によって、実は被害者の配偶者の裁判記録は、他の裁判のために貸出中であったことが分かっている。実は、問題の裁判記録は、この時点では津地検にはなかったのである。

 

裁判記録の開示は、その時点において、被害者にとって急を要するものではなかった。従って、被害者の側からすれば、貸出中である事実を告げられ、記録が戻って来た時点で連絡を入れてもらえれば何も問題はなかったのである。ただ、事前に日時を指定しているので数時間をかけて津まで出て行く事を考えれば、前日までに連絡がなければ不満が残っただろうが……。

 

その際にS氏は、「私も調べてみたが…」と言って、被害者がすでにわかっている入管難民法の条文の説明を始め、被害者の側が鞄からそのコピーを取り出して説明が不必要であることを示してもその話を続けた。そして、その説明は実際の裁判の時点で裁判官がしたものとは異なっていたという。

S氏の対応については、いろいろと細かな問題点もあるが、法的には、裁判記録が貸し出されている事実を告げず、係の不在等を口実にして記録開示を拒否した行動がもっとも深刻であろう。これは、この日の時点で事実を隠匿した明白な不法行為なのである。しかも、S氏はそれにとどまらず、配偶者に対する差別発言を繰り返すという検察職員として絶対あってはならないことをした。この差別発言について、被害者が津地検に送っている文書には次のように書かれている。

…前略…さらに3度も妻に対する差別発言を繰り返しました。 

S氏は、その日の時点で「私が奥さんなら、夫に迷惑をかけるから離婚を考える」「家族や親戚の事も考えるべきではないか、年頃の人がいれば、奥さんの事で結婚が破談になる場合もある」などと暗に離婚を勧めるような差別発言を繰り返しました。特に「家族や親戚のこと……年頃の……」の発言は、過去の部落差別事件でも問題になっている結婚差別そのものの発言であり、さらに「もう(妻が)働かなくても良くなった」というような発言や、「(売春など)自分の国でやればよい」といった発言なども繰り返しました。…後略…

こうした発言に対し、被害者は「悪意はないのはわかりますが、それは差別発言になりますね」と釘をさした。が、S氏は一瞬沈黙したのみで、発言の訂正はもちろん、きちんとした謝罪すらもまったく行わなかったという。

もっとも公正さが必要とされる検察において、その職員が「差別発言」を指摘されるなど、前代未聞の、決してあってはならないことである。それ自体が、検察の「公平性」を著しく傷つけるからである。従って、この場合の客観的に納得できる対応としては、すぐに自らの非を認めて謝罪するか、最低限、「表現」もしくは「伝わり方」に「誤解があった」として、それを訂正することが必要だろう。特に、この場合、被害者の方が穏か、かつ冷静に対応しているので、謝罪さえしていれば「事件」にさえならなかった可能性がある。にも拘らずS氏はこうした判断すら出来なかった。その後S氏は「今日は詳しい人がいないので、来週にでもまた聞いて連絡してあげる。ただし、月曜にできるかどうかはわからないが…」と言って、被害者を帰してしまったのである。

 

ここで、こうしたS氏の言動について、多少の分析を加えてみよう。

裁判記録は、通常、検察に保管されていて、貸し出されるようなことはめったにないという。当初S氏は、被害者が来た事を知って、すぐに記録を開示しようと調べたところ、めったにないことだが貸し出されていて津地方検察庁内にない事を知った。それを告げて改めて来てもらうという「まとも」な対応をすると、記録が戻ってきた時点で改めて連絡をしなければならない。が、裁判のために貸し出されているので貸し出しは長期化する可能性が高く後の連絡を考えれば煩わしくなる。しかし、事前に説明をしてしまったので一方的に「開示できない」と自分の言を翻すことは難しい。そこで、「他の係の反対」を理由に開示を拒否すれば、この件はそれで終わる。

あくまで例えばの話だが、そんな風に考えた可能性がある。そして、被害者が法律的なことに無知であれば、それで終わってしまい、その企ては成功したのだろう。

ところが、S氏の予想に反して、被害者は入管難民法のコピーを持ち出すほどの法律的知識を持っており、穏かにではあるが「差別発言」まで指摘してきた。何とか記録開示を諦めさせようとしてやったことが裏目に出て、この場で終わらせることができなくなってしまった。S氏の方にも「相手を甘く見て対応を間違えたかも…」という思いが浮かんだかも知れない。が、その場で事態を収拾する良い考えもうかばず、相手を帰す事で問題を先送りにしてしまった…といった辺りが事実ではないかと推察される。

 

だが、被害者の立場からすればどうだろう。いくら「穏かに対応」したとしても家族を悪し様に言われて腹を立てない人間はいない。この時点で、被害者の津地方検察庁に対する信頼は完全に失われたと言えるだろう。さらに、津地検にとって間の悪いことに、この被害者は以前にも公務員による差別事件に関わりを持った経験から、メモや文書を残すことの大切さを理解していた。そこで、事実をメモしたり記録したりしながら推移を見極め、場合によっては法的対応も含めて考えよう、と決めていたことをS氏や津地検は知らなかった。被害者は、長年、地域の国際交流の活動もしており、この件を放置することは、マイノリティーである外国人の人権侵害につながるとも考えていたのである。

 

さて、被害者は、そうした思いを胸にしながら一旦は記録開示を諦めて自宅に帰った。5時間ほどの時間がこれによって奪われたことなど、被害者の怒りの中では小さい方だという。そして、その後のS氏の対応を見きわめるために、敢えて何もしないまま待っていた。

その後、S氏から被害者に電話があったのは、89日午前935分頃のことだという。その際に、S氏は、裁判記録が他の裁判のために貸出中で津地方検察庁にはないこと、および返ってくるまでに時間がかかるので9月以降であることを告げている。被害者は、時間は遅くなっても目を通したいという意思を告げ、S氏は、電話では申告が改めて必要になるのでまた連絡する、と言って電話は終わったという。以降、S氏から被害者にはまったく連絡がなかった。

年が明けた2005年、S氏に当事者能力がないと判断した被害者は、14日付けで津地方検察庁のトップである検事正に詳細を書いた手紙を送った。112日午後5時過ぎ、被害者に津地検のE検務監理官から連絡が入った。その際に、被害者は翌19日の午後辺りに再度津地検に出向くことを告げている。裁判記録はこの時点で確認できるのだが、当然、それで差別発言や不法行為が消滅するわけではない。以降は、一般職員ではなく、それを監督する立場にある検務監理官の対応に焦点をあてていこう。

  2人の検務監理官

119日午後2時頃、仕事を早めに切り上げた被害者は、津地方検察庁に着き、E検務監理官に会った。裁判記録はその時確認することができた。被害者の「知る権利」に対する侵害は3ヶ月ほど遅れて解消されたことになるが、不法行為と差別事件そのものが事実として消滅したわけではない。従って、被害者としては事実確認と再発防止の手立てを求めるのは当然である。そして、それがきちんとなされれば、「事件」は一職員の起こした不手際として表に出すつもりはなかったという。

 

裁判記録の確認と一部をコピーして送付してもらう手続きを終えてから、被害者はE検務監理官と差別事件について話をした。その際に、被害者は差別事件について書いた文書をE検務監理官に手渡している。

 

事実確認という点については、手続き上、きちんとした報告文書を相手に送付するべきだし、その際に事前に口頭で謝罪したとしても謝罪も付け加えるのが一般的常識だろう。私自身も、ある図書館とトラブルがあったが、それを伝えたところ、日を置かずして図書館長と事務長が謝罪に訪れ、1ヶ月も経たないうちにトラブルの原因とその対策を記した文書を送付してきた。その図書館との信頼関係はそれによって回復し、現在も関係は続いている。

被害者も、一応、文書による確認を口頭で求めた上で、いくつかの事を確認した。その時に、裁判記録は7月の時点では貸し出されており、それが津地検に返却されたのは10月であった事実を確認している。

ただ、記録係のS氏の差別発言については「前のことなので記憶があいまいなところがあり……」と言葉を濁し、他の職員が事件に関与していたか否かについては明確な答えは得られなかったという事である。

 

E検務監理官の「あとは、こちらにお任せいただけますか」と言う言葉を、被害者は、そうした事実関係の確認も含めて後で報告してもらえると理解し、うなずいた。ただ、あらためて文書の送付を強く確認しなかったことが後になって少し気になったらしい。

 

ところが、2ヶ月が過ぎ、3ヶ月が経ち、4月が終わっても、まったく連絡がない。そこで被害者は、527日付でE検務監理官に確認の手紙を出した。

その手紙に対し、津地方検察庁から電話がかかってきたのは、62日午後336分のことだった。その電話で、E検務監理官が換わった事が伝えられた。それによって詳細な連絡が遅れたのであれば、多少は仕方がないと思われる。が、新しい検務監理官は、「他の職員の件についてはその場で説明した。文書での送付は聞いていない。」という事を10分ほど一方的にまくしたて、被害者に話させようとしなかった。

 

その対応に、被害者は怒り「けんかしたいのですか」「こちらにも話をさせてください」と言って、その場で話してあったのであればわざわざ文書でその件を尋ねないこと、お互いの意思疎通に問題があったのではないか、という点を指摘した。すると電話口の現検務監理官は態度を変えてその2点を認め、謝罪した。それで、この差別事件そのものを終わりにしようとしている隠蔽の意図がありありと見える対応であったらしい。

が、その言葉によって被害者は「調査」そのものがいい加減で終わっている可能性があることに思い至り、67日付で再度検事正に隠蔽工作の疑いと「調査」がきちんと行われたか否かについての手紙を送った。

口頭でなら、その場で、どのような言い逃れでも可能である。そうした視点で考えれば、現検務監理官がこちらの言葉によってあっさり前検務監理官の言葉を否定できること自体がおかしいのである。厳密に事実関係を調査するのであれば、双方の発言内容の矛盾をきちんと整理し、何度でも確認を行って事実に迫る必要がある。2人の検務監理官の言動は、明らかにそうした原則から逸脱していると言えよう。

さて、被害者が検事正あてに出した手紙だが、2週間経っても何の返事もなかったらしい。そこで、改めて24日付で手紙を出し、「隠蔽工作」についての反論がないということから、「調査」そのものもきちんと事実確認をしないまま切り上げている可能性を改めて指摘し、次の点について文書での返答を求めている。

 

     差別事件の職員に対して、前検務監理官が調査を行った回数と日時

     前検務監理官の差別事件に関する他の職員への調査の有無

     前検務監理官の事件に対する報告の概略

     事件以前の差別や人権に関わる研修の有無(ある場合は回数)

     事件以後の差別や人権侵害の再発を防ぐ津地方検察庁としての対応

事は、津地方検察庁の「公正」と「信頼」に関わる問題である。記録係の差別事件は、ある意味では単に一般職員が起こした事件に過ぎない。が、その一般職員を監督する立場の者が隠蔽工作に走れば、「組織ぐるみ」の事件となり、津地方検察庁そのものの信頼が失われてしまう。そうした動きそのものが組織としての自浄能力が低下していることを示してしまうからである。そのような組織が、どうなってしまうか。三菱自動車やJR西日本の例をあげればそれ以上の説明は不要だろう。検察という組織の性格から考えれば、小さな差別事件が冤罪事件に発展してしまう可能性がある。

けっきょく、それ以降、津地方検察庁からは被害者のところには何も連絡がなかったらしい。そこで被害者は、津検察審査会に宛てて、このような事件があったので、必ず文書で事後報告を義務付けるように改革して欲しい、あるいはもともとそうした規定があるのなら、それを徹底するように申し入れて欲しい、という提言を法律の規定に基づいて文書で行った。けれども、検察審査会からの回答は「No」であったらしい。つまり、検察審査会では、事実をきちんと究明せずにうやむやにしても良い、という判断をしたわけである。

 

被害者は同時に、複数の新聞社にこのことを知らせた。しかし、それに対する反応は鈍く、地域の記者も「管轄が違うので…」ということで話を聞いただけで終わってしまったらしい。被害者は「マスコミって意外と頼りにならないようだ」と述べている。

 

被害者は、そうした経過を受けて、名古屋高等検察庁宛に事の詳細を知らせた文書を送ったという。名古屋高等検察庁からは「発言の事実は確認できなかった」という趣旨の文書と、「あってはならないことなので、このような形で研修を行っている」という研修計画を送付してきたらしい。被害者は、「検察の身内以外の不法行為であれば、当然、もっと厳しく追及するはずだ」と考えたらしいが、この問題だけに時間を取られるわけにはいかない、ということで文書による回答が送られてきたことで、管理する側にも事件が伝えられたことが確認できたとして、追求を収めることにしたという。

 

以上が事件の経緯である。日本という国が、本当の意味で「民主国家」であり、「先進国」であったならば、絶対にありえない話である。最近は特に、上にいる公務員や政治家の差別発言が耳に入ることが少なくない。返って一般国民より人権意識が低いのではないかと思われる。国民に愛国心を説く以前に、すべての政治家と上級公務員に人権研修を義務付ける必要がありそうだ。公務員が憲法を遵守する義務を、現行の日本国憲法はきちんと規定しており、日本国憲法はまだ改正されていないのだから……。

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2006年9月17日 (日)

売り言葉には…

子どもたちの相談を受けていると、けっこう人間関係で苦労している例が見られる。その際に、ちょっとした言葉が関係をこじらせていることが少なくない。だから、相手の気持ちや状況を考えてあげて【売り言葉に買い言葉】という対応ではなく、言葉の奥にあるイラダチなどを上手に受け止めてあげられるといいね、というような話をしている。

実はこれは、子どもたちばかりでなく、大人にも言えることである。「あなたなんかキライ!」という言葉に対して「ああ、キライで良いさ! 勝手にしろ!」と返せば、完全に【売り言葉に買い言葉】になってしまうが、「どうしてそんなに怒るの?」と返せば、反応は違ってくる。「あなたなんか…」という言葉の裏には「あなたにだけは分かって欲しい、共感して欲しい」という思いがあり、分かってもらえないから苛立ち、怒ってしまう……という場合がけっこうあるからだ。

相手が【売り言葉】を発する背景には、それなりに追い詰められて状況があり、心に余裕がない、という心理状態に陥っていたりする。その相手と、この場限りで決裂してもかまわない、というのであれば【買い言葉】も1つの選択だが、ケンカしてばかりいては信頼できる相手を次々に失い、人間として孤立してしまう。だから、相手の感情に巻き込まれずに、ある程度の心の余裕を持って、【買い言葉】とは異なる対応をすれば良い。そうする事で関係はつながり、深まっていく…という事になる。これは、決して損な話ではない。

何も、周りのすべての人々に対して、いつもいい顔をする必要はないが、少し、心に余裕を持つことで、落ち着いた対応ができる。【売り言葉】に対して【買い言葉】とは違う対応ができるだけの余裕を心に持ちたいものである。

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2006年9月16日 (土)

人の話が聞けない政治家たち

テレビのニュースや国会中継などを見ていると、他者の話をきちんと聞けない政治家が増えているのが目に付く。小泉純一郎などはその典型であるが、テレビ討論などの場面でも、相手の話をさえぎり、自分の主張だけを押し付けようとする政治家は多い。しかもその主張が自己中心的で非論理的で説得力がない場合も少なくない。見ていて非常に見苦しいし聞き苦しいので、興味のない話だとすぐにチャンネルを変えてしまう。

民主主義の要諦は、お互いの意見をきちんと聞いて話し合い、最善の道を探る政治的過程である。従って、国会の論戦の中で提出された法律案の矛盾が明らかになれば、それを修正すれば良い。だから、法律案は、修正が行われたうえで可決されるのが本来の民主的な議会の姿であろう。

けれども、そうした話し合いが日本の国会で行われている姿はもうほとんど見られない。話し合いではなく意見を言い合うだけで、採決、それも時には野党を無視した強行採決が行われる。話し合いがなくなれば、国会は機能不全に陥る。まさしく、現在の姿である。

仮にも、先進国・民主主義国家を自称するならば、こうした非民主的な国会の姿を正常な話し合いの場に戻してもらいたい。そのために必要なのは、相手の試験をきちんと聞き、改める点は誇りと誠意を持って改めることである。それが、首相、および多くの国会議員に決定的に欠けている。…しかしこれは、代議士としての最低限の資質である。

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2006年9月15日 (金)

なぜマスコミは…

岐阜県の裏金事件の報道が、連日新聞やテレビを賑わしている。確かに、あれ程までに巨額の裏金を作り、その処理を先送りして、最終的には燃やしたり私的流用をしたり、というような扱い方をしていた県職員の責任は重い。だが、もっと重い者たちへの責任追及がまったくなされていない。異常な事である。

裏金事件の背景には、官官接待の問題がある。そして、官官接待が様々な形で地方自治体にプラスになったからこそ行われたのであって、その元凶を作った接待された方の官の責任は非常に重い。だから、岐阜県や職員にその返還を求めるのであれば、より一層の圧力を接待された方の官、つまり国家公務員への返還を求めてしかるべきである。どうして、そういう視点がほとんど見られないのか、不思議なことである。

マスコミの大きな責務は権力の監視であり、表現の自由はそのための大切な権利である。従って、裏金問題の背景にあった官官接待の構造をきちんとあぶりだし、二度と再びこのようなことを起こさないように監視する責任がある。それなのに、国家公務員の側への責任追及は行わず、岐阜県のみを槍玉に挙げるのは明らかに公正さを欠いている。すでに、マスコミは戦前の「大本営発表」レベルになってしまっているのだろうか。それならば、表現の自由を主張する資格を自ら放棄しているのに等しい。

権力に迎合するのではなく、権力を監視すること。その崇高な責務に目覚め、民主主義を本当の意味で守るための報道を心から期待したい。

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2006年9月14日 (木)

まやかしの「現実主義」

夢や理想を語ろうとすると「しかし、現実はそう甘くはない、なぜなら…」と口を挟む人が少なからずいる。自称「現実主義」者である。確かに、まったく現実を直視しないで理想を語ることはバカげている。けれども、「現実」を追認しているだけで何も行動せず、当たり障りのないところで文句や不満や愚痴を述べているだけなら、それは現実主義でもなんでもなく、現実に流されるだけの敗北主義だろう。

以前、教育相談の場で「先生から、毎日5時間勉強しなければ、入れる高校はない、と言われた」と言う発言を聞いたことがあった。確かに、今までほとんど勉強らしい勉強をしてこなかったその生徒が、中学校で学習する内容を完璧に身につけようとすれば、毎日5時間勉強しても足らなかっただろう。けれども、全教科で100点をとらなければ高校に合格できない、という訳でもない。その時は、まず毎日1時間以上勉強を続けられる努力をするようにアドバイスをした。その生徒はアドバイスを守り、秋口に骨折で入院するというアクシデントがあったにも関わらず、ちゃんと高校に合格することが出来た。

この例からもわかるように、5時間勉強することは理想でも、勉強の習慣がまったくついていない現実があるならば、まず小さなステップとしての目標を作り、それをクリアする努力を積み重ねることが重要である。もし、この生徒が「自分はどうせ勉強できない」と、今の「現実」にいなおって努力することを放棄すれば、高校受験失敗、という「現実」を経験することになっただろう。結果の分かれ目は、努力を積み重ねる決断をしたか、努力を放棄したか、ということになろう。

ところが、今の日本の社会を見ていると、「どうせ、現実は変わらない」「現実はそんなに甘くないんだ」という言葉を吐いて、努力することから逃げている人間が増えているように思われる。確かに、努力にもコツがあり、ステップの刻み方が大きすぎると続かなかったり、努力が空回りしたりすることはある。ただ、そういう場合は、もう一度現実に立ち戻り、ステップの刻み方を変更することで結果は変わってくる。その意味で、「現実」という言葉を何もしない理由や努力をしない言い訳に使っているのであれば、それはまやかしの「現実主義」であり、ただの敗北主義である。

一方で、美辞麗句だけを並べ立て、現実からのステップをきちんと示さないような人間も存在する。これも「理想主義」でも何でもなく、単なる夢想家かペテン師の類であろう。遠くの理想、つまりビジョンを示すのは確かに大切である。けれども、それだけは足りない。夢を実現するためには、短期および中期の、現実から出発した具体的な目標、つまりステップが必要なのである。そして、現実の変化に応じて、ステップはそれなりに対応し変化していくものである。そうした流れの中で「現実」は変化していく。もちろん、そのためにはステップを実現するための努力が必要なのである。

けれども、まやかしの「現実主義」や美辞麗句を並べ立てるペテン師が跋扈する社会になりつつあるように感じられる。そうした嘘をしりぞけ、努力を復権させることをとりあえずは目指さなければ……と思う今日この頃である。

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2006年9月13日 (水)

内向きの危うさ

最近、人々の視線が内向きになっているように感じられることが少なからずある。もちろん、それも大切なのだが、過ぎたるは及ばざるがごとし…で、外もある程度きちんと意識しておかないと、返って問題を抱えてしまったり、問題を大きくしてしまったりするような事態になってしまうことがままある。だから、内を振り返ることも大切だが、あくまでも外への視線とのバランスも考えた上で…という点は意識しておきたい。

例えば、イラクやレバノンでの戦闘に対して、どこかしら傍観者的な意識が社会にはある。もちろん、遠い国の話には違いないのだが、ある意味では石油価格の高騰や、憲法改正の論議とのつながりなどもあり、グローバル化の進む時代において外への視線を失ったり、外からの視線を意識しなくなったりするのはけっこう危険である。

憲法改正にしても、日本の国の憲法だからと日本の国だけを考えてすむ問題でもない。別のところでも書いたが、国際常識からすれば憲法は政府の国民に対する約束であると同時に、諸外国に対しての約束でもある。そういう視点からすれば、9条の平和主義は、国家の指導者レベルからすれば侵略戦争を行わないという主張の信頼性の根拠足り得るのである。それを変え、自衛隊を自衛軍にしようとする動きは、一つの根拠やある程度の歴史的信頼性を持った重要な外交カードを自らの手で放棄するに等しい。

外からどう見えるのか。日本人は豊かさを実感していなくても、他の国々から見れば充分に豊かである以上、日本で働きたいと考える他国の人々は多い。そして、少子高齢化の問題や単純労働の現場での人手不足の問題などを含めて考えれば、もっと外からどう見られているのかを考え、ある意味ではそれを利用して、どのような方向に進んでいくかを模索することが大切である。

にも関わらず、そうした意識が全体的に欠如しているように感じられる。個人のレベルでなら「それだけの余裕がない」という場合もあるかもしれないし、それは多少は仕方がない部分もある。けれども、政府やマスコミ、といったレベルでは、それは許されない。目先の利益、一部の利益ではなく、より大きな視点での動きを期待したいものである。

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2006年9月12日 (火)

象徴天皇制を考える

以前、河合隼雄の著作で日本神話の中空構造の話を読んだ時、なるほどなぁ、と感心したことが合った。アメノミナカヌシ、イザナギ、イザナミの3柱の神々、あるいはアマテラスオオミカミ、スサノウノミコト、ツキヨミノミコトの3柱の神々など重要な関係の中に必ず無為の存在がいる、という指摘である。確かに、日本の国を作ったイザナギ、イザナミの2柱の神々に比べてアメノミナカヌシの印象は薄いし、伊勢神宮内宮の主神で世界でも珍しい女性の太陽神にして天皇家の祖先とされるアマテラスオオミカミやヤマタノオロチを退治してオオクニヌシノミコトに娘を与えたスサノウノミコトに比べるとツキヨミノミコトの影も薄い。そうした空の存在が、日本人の精神に大きな意味を持っているのではないかという話である。

それを頭に入れながら日本の歴史を振り返ってみると、中心の存在を空洞化して周辺部にいるものが実権を握ると形が古代から繰り返して現れているように思われる。

例えば、聖徳太子から天智天皇、天武天皇といった流れの中で天皇中心の国づくりを目指していたものが、いつの間にか摂政や関白が実権を握ったり上皇(法皇)が実権を握ったりする形になり、天皇の存在が権威だけを残して空洞化していった。

さらに、摂政や関白なども、やがて武士が政治の実権を握っていく中で空洞化し、征夷大将軍が中心になる。それも時代が下っていくと執権という《周辺》、あるいは三管領や四職に、あるいは老中や大老の合議制に、と政治の実権は移動していく。

こうした流れを見てくると、日本では中心を空洞化してその周辺部が実権を握る形が繰り返し現れてきているように感じられる。

そこで、象徴天皇制である。確かに、この言葉は現行の日本国憲法の規定からきている。けれども、明治政府において直接政治を動かしていたのは誰だったのかを考えれば、戦前、あるいはそれ以前から、日本の伝統として《象徴》天皇制の実態があったのではないか、と考えられなくもない。

ただ、中心を空洞化し、周辺部が実権をにぎるという形は、責任の存在をあいまいにしてしまう危険が非常に高くなる。これだけ国際化が進んでくると、「責任をとる」ということをあいまいにしていては対外的に理解を得られにくく、交渉の場では不利になることも少なくない。そうした点も含めて、歴史を見つめ、参考にしながら、未来への道を模索する必要があるかもしれない。

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2006年9月11日 (月)

人権侵害の現場から…名古屋入国管理局

2002年秋以降、それまで公式には認めてこなかった「拉致問題」を朝鮮民主主義人民共和国が認め、国家による誘拐・家族の分断という悪質な人権侵害が行われていることが明らかになった。だが、「日本」という国も、実は公的機関による家族の分断が、日本国憲法や国際人権規約の規定に反する疑いをも含む「出入国管理及び難民認定法」(以下「入管法」と略する)を「根拠」にしながら、人権意識の希薄な(と言うよりも差別意識を持った)係官によって、「調査」・執行されている。その実態について、筆者と信頼関係のある夫婦の実例を中心にして述べていきたい。

 

   *

 

この夫婦の妻は、2002年8月、日本を強制退去となり帰国している。彼女は、1月下旬に不法在留等の罪で逮捕され、7月下旬に裁判の判決を受けた後に名古屋入国監理局に収容されている。その際に特別残留の手続きと仮放免の手続きをして調べを受けていたのだが、本人が「母国に帰りたい」と言ったということで、強制退去させられた。

 

裁判の後、執行猶予がついた判決が出た場合、日本人であれば家族や身元引受人に預けられる。しかし、彼女は外国人であることから、そのまま名古屋入国監理局に送られた。これは「入管法難民法」の規定に基づくものだが、これ自体も日本国憲法の平等権の規定に照らし合わせて考えた場合に微妙な問題を含むが、今回は夫婦の証言ややり取りされた手紙、提出書類のコピーなどから、名古屋入国監理局の係官の「調査」に、より悪質な人権侵害があったと考えられるので、その点を中心に明らかにしていきたいと思う。

 

「入管法」の規定によれば、何の手続きもしなかった場合、この妻は最低でも5年間は日本への再入国が認められず、場合によっては永久に許可が下りないことすらあり得る。だが、この規定自体も、実は世界人権宣言・第12条や国際人権規約B規約・第17条の規定にある「私生活、家族」に対して「ほしいままに」(世界人権宣言)あるいは「恣意的に」(国際人権規約)「干渉され」たり「攻撃され」たりしないという権利との間で微妙な関係にある。従って、このケースの場合は、憲法や条約の順守が義務となる日本国の公務員という立場からすれば、最低限、その「調査」に際してそれなりの注意が必要となってくるのである。

 

ところが、名古屋入国監理局及びその担当係官の対応はどうであったか。証言に従ってその経過を示してみよう。

 

   *

 

7月の初め、夫は名古屋入国監理局に電話をかけ、妻が裁判中である事と、特別在留手続きをしたい旨を告げ、どうしたら良いか、どうなるのかについて尋ねている。その際、判決が出るまではわからない事、判決の日に手続きの書類を持っていって説明する事を聞いている。ここで、1つには確定出来ないにしてもいくつかの可能性があり、それについて説明してもらえれば夫婦で相談が出来るにも関わらず、そうした内実をまったく知らせない「情報の未公開」(あるいは隠匿)が為されている。そして、この情報公開をなるべくしないでおこうとする姿勢は、この事例では終始一貫して変わらない。

 

7月下旬、妻に対して判決が出る。弁護士と裁判官のスケジュールの調整ができなかったためだが、逮捕から判決までおよそ半年が経過していた。公判の後、名古屋入国監理局のI係官(公務執行中の場合は人権に配慮する必要はないが、一応、主要な2人の係官はイニシャルで記しておく)が、特別在留手続きの書類の書き方のみを丁寧に夫に説明している。しかし、I係官は、許可されない場合の複数のケースや調査の経過のおおよその目安などの説明、留意点などには触れていない。

 

翌日、夫が面会に行く。待合室には面会時間は15分という記載も壁に掲示されていたが、面会時間は10分。面会室の環境にしても、三重県内の2つの警察署や三重拘置所のそれと比較しても、当時の名古屋入国監理局の条件は非常に悪かった。4か所の面会室を比較して、もっとも狭いのが当時の名古屋入管であり、また、タイマーを設定(必ず10分)して音を面会者にも聞かせて心理的圧力を与えているのは名古屋入管のみであり、面会室の出入りの施錠を係官が行い、面会者が自力で面会室から出ることができないのも名古屋入管だけである。いずれも、面会者に心理的プレッシャーを与えるのに効果的な方法だが、特に3点目については面会者を犯罪者扱いしているとも取られかねないやり方であり、万が一地震や火事などが起こった際の「安全」面も気になったという。

 

面会の後、調査部のS係官により、夫に対する面接調査が行われる。夫婦の出会いや双方の家族状況について夫が詳細に説明し、それに加えて、妻が長期の勾留で心身共に疲労がたまっている事、妻の日本語能力、そして提出書類に記載場所のなかった特別在留を求める4つの理由を話している。

 

妻の方の日本語能力については、日常会話は可能だが、難しい法律用語や細かいきまりなどは母国語で説明されても理解しにくく、また日本語の読み書きにいたっては、何とか平仮名は読めるが、書く方は時間をかけても平仮名で数行を書くのがやっとという程度であり、実際、裁判の最中も母国語の書類や同時通訳があるにも関わらず、週に1度か2度の面会と時々送った平仮名の手紙で時間をかけて、裁判の経過や見通し、必要な法律用語などをあらためて説明する必要があった事などが夫から説明された。

 

また、特別在留を求める理由については、次の4点を夫が係官に話している。

①夫の収入だけで日本での生活と母国への仕送りを賄うのは少し難しい。

②妻本人の息子を夫の養子にする際に日本への受け入れをする準備や、日本に来てからの言葉や生活・教育の問題を考えた時、本国に帰されてしまっては困る。

③入退院を繰り返している妻本人の父の病気が悪化して、日本で手術をするような場合も考えると、本国に帰されてしまっては困る。

④来日が、家族の年収が数千円という生活の貧しさから「ウエートレスをする」という言葉に騙されて借金を背負ったという事情があり、本国での生活の貧しさを考えれば、帰国させてしまえば生活の必要に迫られて再び悪事をせざるを得ない可能性があるが、日本に残って夫の監督下で生活していれば、夫や家族の職業・法律の知識などからして、不法行為をする可能性は全くない。なお、夫は、最後の理由についてのみは妻に伝えていない、という事をS係官に話している。

 

これに対して、S係官も、日本に在留する方が更生の可能性が高い事を口答で認めている。それから、「残留は難しいが、本人の気持ち次第」という発言、あるいは「場合によっては最高で60日、入管に勾留される場合がある」との発言をしている。

 

そして、発言内容を元にS係官が調書を作成したが、なぜか特別在留を求める理由を記載していない。夫がその点について尋ねると、きちんと理由を説明せずにうやむやにしてごまかしている。夫は少し疑問を感じたが、この時点では調査がこの1回で終わるとは思わず、あらためてそうした点についての調査をすると考えていた。

 

その後、S係官は、仮放免の手続きを申請する部署に夫を案内している。ここで夫は、仮放免申請の書類の書き方だけを丁寧に説明してもらっている。が、もちろんそれ以外の情報は夫に知らされていない。特に問題となるのは、仮放免については強制送還が決定した際に荷物を整理するための短期のものがあり、それはそれで別の手続きが必要であるという事を、この時点で夫が知らなかったという点である。夫がそれを知ったのは8月に入ってからで、S係官に別の用で電話をした時に、S係官の口から不意に知らされている。この事は、名古屋入管での勾留による妻の心身の消耗と突然の発言の変化と併せて、S係官の人権侵害を夫が疑い始めるきっかけとなっている。

 

さて、ここで妻の方の証言からも入管の対応を見てみよう。当時の「入管難民法」の規定によれば、数日中に調査を始めなければならないので、妻の方の面接調査は、夫が仮放免の申請をした日の前後と考えられるし、それは妻の証言と一致している。ところが、問題は、その中身である。

 

妻の、帰国してからの手紙によれば、最初、結婚していることと在留したいということを言ったという。ところが、担当のS係官は、在留を希望する場合はさらに長期(1ヶ月以上)の勾留を続けると圧力をかけ、在留が難しいこと、帰国すると言えばすぐに入管から出すという形の説明をし、「早く出られるなら母国へ帰りたい」という言葉を引き出した。そして、これを根拠にして、強制送還の決定・執行が行われることになる。

 

しかし、この対応には非常に多くの問題点が含まれている。

 

まず、事前に夫から日本語能力に関わる説明を受けているにも関わらず、S係官は、通訳をつけていない。すべての取り調べは日本語で行われているので、日本語能力に問題があることを知っていながら、不公平な日本語による取り調べを強行しているのである。

 

さらに、夫に対して「本人の気持ち次第」という発言をしながら、長期の勾留で脅して、妻の最初の発言による本人の「残留したい」という気持ちをねじ曲げている。確かに「入管難民法」第41条では、最大で60日間、調査のための勾留を認めているが、法理論からすればあくまでも「調査」が目的であって、それを刑罰や精神的・肉体的拷問…あるいは、それをちらつかせた脅迫の手段として使わせるような規定ではない。

 

当人の状態を考えた場合、客観的にみて、逮捕から裁判の判決までの半年にも及ぶ勾留が続いているとすれば、その心身は疲労の極にあると誰もが考えるだろう。しかも、この事例では、夫が、心身の疲労と荷物整理、及び領事館での手続きを理由に仮放免(あくまでも仮放免であり当然その後の調査は続けられるし、その結果として在留を許可しないという判断も入管の立場では可能である)の申請をしている。調査のことを考えるとしても、仮放免の場合は、調査期間をかなり長く取ることも可能なので、一度、その身柄を夫に預けることにそれ程大きな問題はないと思われる。

 

それと共に、長期の勾留で心身が疲労している状態の人間に対し、さらに長期の勾留をちらつかせることは、それだけでも調査の公平性を欠く。これは、一般的常識であると同時に世界人権宣言第5条や国際人権規約第7条の「拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰」を受けないという規定、あるいは日本国憲法第36条の拷問を禁止する規定、及び同じく日本国憲法第38条・1項及び2項の「自己に不利益な自白の強要」を禁止する規定や「不当に長く勾留若しくは拘禁された後の自白」の正当性を否定する規定から考えてもおかしい。

 

それに、平成11年に発効した「拷問及び他の残虐な、被人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約」(拷問禁止条約)の第一条の規定にある「身体的なものか精神的なものであるかを問わず人に重い苦痛を故意に与える」形で「自白を得」、それをもとにして、強制退去の執行を行ったと判断し得る事例とも言える。

 

加えて、本人の意思という点では、裁判中の三重拘置所から夫に出した手紙でも、帰国後の手紙でも、一貫して日本で夫と暮らすことを望んでいる。それと合わせて、調査の際の冒頭の発言を考えれば、本人の「在留を希望する」という意思は明白であろう。

 

また、この妻の証言によると、実は、非常に大切な情報も本人に伝えられていない事が分かっている。それは、判決日から判決が確定する2週間の間は、たとえ本人が望んでも国外には出さないという規定である。これは、夫に対しては説明されているが、妻の方は帰国して夫に電話で聞くまでは知らなかったという。

 

そして、その事は「帰る」と言えばすぐに出す、という趣旨の説明を信じてそう言ったにも関わらず、さらに10日以上も説明無しに勾留が続けられ、その結果、さらに心身に負担がかかった可能性も出てくる。現に、夫の証言によれば、「妻の様子は、名古屋入国監理局に収容されていた時が、出会って以来最悪の心身状態だった」という。長期の勾留は、PTSD(心的外傷)を引き起こす原因の1つにもなり得るが、名古屋入国監理局はそうした点を無視している。夫が面会に行った時、妻は「警察や三重拘置所はがまんできるけど、入管はがまんできない」と何度も言っている。つまり、収容者の人権に対して、名古屋入国監理局は、三重拘置所や警察署以下の配慮しかしていないのである。

 

妻の方の証言から、名古屋入国監理局のS係官による、不公正で非人道的な「調査」の実態が浮かび上がってくる。S係官は、夫の証言によって得た情報、本人の日本語能力及び、日本の法律に対する無知につけこみ、そして条件の悪い収容施設と「入管難民法」の規定を悪用して脅しをかけ、「何が何でも強制退去」を意図した「調査」を行っている。そして、夫がそれなりの知識と真実を知りたいという強い意志を持っていなければ、こうした「調査」の非人道的な実態は闇に隠れたままだったのである。

 

その後、妻本人のパスポートが手元にない事が明らかになる。強制送還をする場合にも、正式なパスポートは必要である。ここで、妻は「夫に預けた」と証言したが、その事実はない。その証言、及び入管から届いた妻の手紙からすれば、妻は本当にそう思っていたようだが、その事実はPTSDとまでは断定出来ないにしても、この時点で長期の勾留による精神的な疲労による記憶の混乱の可能性も指摘出来る。その状態での「証言」を根拠にしての「調査」と執行だとすると、これは明らかに正当性が疑われることになる。

 

夫の方は、この時点で帰国に同意はしていないが、それでもパスポートの行方を確認するために、津地方検察庁や逮捕された警察に連絡を取っている。その結果、パスポートは間違えて警察の方に送り返されていたことが分かり、担当していた刑事が名古屋入国監理局に送っている。

 

この件でS係官に電話をした夫に対し、係官は「勾留が長くなる可能性が高い」という形で、前言を変更してくる。さらに8月に入って「荷物整理のための仮放免もある」という発言が出るに及び、夫の方も【情報操作】と人権侵害を疑い始める。

 

そこで、ボランティア活動で知り合った弁護士に聞いて、法律相談を受けた直後、夫の家に「仮放免不許可」の書類が届く。その内容は、「相当する理由がない」だけであった。この回答は、申請理由の書類に示された理由、すなわち、本人の心身の状態から考えても、荷物の問題や手続きから考えても、逃亡の可能性という点から考えても、「理由がない」とするには明らかに無理がある。

 

翌日、妻本人の衰弱具合を知る夫がS係官に電話をすると、「強制退去が決定し、翌日の朝の便で帰国の予定」であることを突然知らされる。夫は「もし、電話をしなければ、仕事のキャンセルもできず、最後に会う事すら出来なかった」と憤りを隠せない。しかも、面会にいった知人は、係官から「夫が反対しているせいで帰国できない」と聞いたと言う。

 

夫の考えに関係なく決定がなされたことは、知人が聞いた面会の係官は嘘をついたことにもなるし、「仮放免不許可」の通知以外は、未だに名古屋入国監理局から夫のもとには届いていない。また、妻の手紙に同封されて送られてきた書類(法務省の認定通知書)のコピーは日本語と英語のみで、妻本人は漢字と英語は読めないため3日以内の異議申し立て権利については、妻本人は分からないし、配偶者である夫には知らされていなかった。つまり、妻の手紙に「認定通知書」が同封されていなければ、夫はもちろん妻自身も、どういう決定が名古屋入国監理局によって行われたのかということを、法律の条文と照らし合わせて確認することすらできなかった。

 

このような経過を知れば、この事例において、名古屋入国監理局と担当のS係官の扱いに、【情報操作】と人権侵害がないと言い張る人物は、「人権」の何たるかを分かっていない人だけだろう。

 

以上が、夫婦の証言から整理した、名古屋入国監理局のS係官による人権侵害の事例である。ただ、「入管難民法」の規定や役割分担からすれば、S係官が報告する上司及び仮放免を許可する部署もこうした扱いを認めていたことになるので、これは、名古屋入国監理局という組織そのものの人権意識の欠如の問題である可能性が高い。

 

その後、夫は帰国した妻に仕送りをしながら、こうした名古屋入国管理局の対応について名古屋弁護士会(当時)の人権擁護委員会に調査を依頼し、さらに再入国のためのビザ申請を行った。「入管難民法」の規定からすれば、最低でも5年は許可がおりない筈なのだが、夫が申請書類にも担当者の不法行為・人権侵害の疑いのある対応を書き、併せて「許可がおりれば、この件を問題にするよりも生活の安定に集中したい」という趣旨の内容を書いた結果、わずか3年で許可がおり、再入国がかなったという。

この事例以外でも、ある国立大学の教授から、あるアジア人留学生が名古屋入国監理局に手続きにいった時に、本人だけで言ったらひどい言い方をされ、教授がついていったら対応が180度変わった話を聞いている。

また、この事例の妻の友人も「友達が日本人と結婚したのに、1年経っても入国許可がおりない。何も悪い事をしてないのに、こんな状態が続けば、離婚しなければならなくなるのではないかと心配している」と言っているような話も漏れきいている

それから、ミャンマー人の配偶者の入国を一度は拒否しながらそれが新聞に報道された途端に一転して許可をしたという対応(中日新聞より)などもあった。

最近の事例では、不法滞在中に日本人女性と結婚し、名古屋入管に電話相談をして特別在留手続きの申請を行ったタイ人が、その後、無免許運転で逮捕された事件で、警察からの問い合わせに際して「申請も受け付けていない」と答えた、という話もある。その申請の際に、担当した係官は名札も付けておらず、書類のコピーには担当者の氏名欄にきちんとした名前すらも書いていなかった、という証言もある。日本人女性の従兄は、責任の所在をごまかそうとしている、と憤っている。

こうした事からもわかるように、情報が届き難いにも関わらず、「名古屋入国監理局には問題がある」という話は、少なからず耳に入ってくるのである。

 

だが、これは必ずしも名古屋入国監理局のみの問題ではない。国際化の進展に合致していない現在の「入管難民法」の矛盾と日本の外交姿勢も関連する構造的な問題点が、このような人権侵害の疑いの強い対応と関係しているのである。

 

   *

 

外国人による犯罪も、以前よりもマスコミを賑わすようになってきているが、一方で、ビザ取得に対して異常なまでにハードルが高い現実はほとんど報道されていない。経済格差からくる労働者移動の圧力は、国際化が進む中で非常に高くなっているが、この異常なハードルの高さが不法入国や不法滞在を増加させている部分もある。そして、彼らが不法滞在ゆえにまじめに働いていても充分な賃金をもらえなかったり、事故に際して充分な手当てや対応をしてもらえなかったりする、というような二重三重の人権侵害を受けている例も見られる。

その原因は国際化を口にしながらアジアからの単純労働者の受け入れせずに現実に合わず先進国としての責任も果たしてない労働鎖国政策を続けていることにある。しかも、現在ではそれが明らかに破綻しているにも関わらず、取り調べをする側の都合によって、それを認めようとしない部分が少なからずあるのではないかと分析出来るのである。

 

密入国者の中には、経済的には世界屈指の豊かさを持つ日本で働きたいのだが入国そのものが認められないために「密入国」という手段を使ったものも少なくないだろう。その場合、彼等は「借金」を抱えることになるので、厳密に言えば前述のごとく彼等は「人身売買の被害者」ということになる。日本の、「民主国家」あるいは「先進国」としての責任からすれば、そうした人々に人権の光をあてるのが筋だろうが、瀋陽の亡命事件で明らかになったように、日本政府・外務省はそうした人権意識が欠如している。おそらく彼等の中の少なくない人々が「人身売買の被害者」ではなく、「密入国の犯罪者」として扱われるのではないかと思われる。その方が、取り締まる警察や入国監理局の「実績」になるからである。しかし、「密入国の加害者」というより悪質な犯罪者は、自由かつより巧妙に立ち回り、闇社会を太らせ治安を悪化させていく。

国民の利益を考えれば、国際化の進展の中で破綻した労働鎖国政策を放棄し、こちらの面でも先進国の責任として国際化を進めていく方が良い。労働者を公式のルートで受け入れるようになれば、働きたい人々と闇社会の関係が切れるし、その中で労働者から税金を取ることもできるようになる。一方、警察や入国監理局も多数の「働きたい人々」を捜査する必要はなくなるので、犯罪外国人の捜査に専念でき、それは治安の回復にもつながってくるだろう。

 

また、「働きたい人々」に生活と仕送りを保障すれば、人件費の効率化や高齢化に伴う労働力不足の補充という今後の日本の生産力を維持・発展させる重要な要因として彼等の労働力を考え、期待することができるようになる。そのためには、日本が人々にとって安心して生活出来る場所となる必要がある。

 

そのカギとなるのが「人権」である。まだ日本は批准していないようだが、「すべての移住労働者とその家族の権利保護に関する国際条約」という1991年に国連が採択した条約がある。国際化の進展によって労働力が国境を越えて移動する時代になった。そんな中で「労働者の権利」が守られる国は、多くの人々にとって暮らしやすい国になる。また、日本人が海外に出て働く機会も増える中、その安全を守る手段の1つとしてこの条約を率先して批准し、さらに各国に広げていくことは、日本の国益にも適う。

 

もちろん、言葉や習慣、文化の違う人々と暮らすことは考えれば、時には誤解やトラブルも起きるだろう。しかし、それを乗り越えていくことで、新しい世界、物心共に豊かな未来が訪れるのではないだろうか。そういう世界、そういう未来を目指して努力を続けたいものである。

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2006年9月10日 (日)

裏金の責任

岐阜県の裏金問題が大きな問題になっている。確かに、国民の税金を不正に流用する裏金をここまで先送り・放置して、燃やしたり、私的な支出に使ったりしたのは言語道断だが、こうした構造の元凶となった官官接待、特に国の高級官僚の責任に対する議論がまったく上がっていないことがおかしいように思われる。

元地方公務員の人に聞いた話だが、年度末に国の公務員が突然出張でやってくる連絡を受けることが時々あり、地方としては財政処理が出来なくなるので裏金を必要とした、というような状況もあったらしい。年度末の突然の出張は、当然、国の側の予算を使い切るためのものだが、その後の関係や陳情・予算配分等の必要から、地方の側では官官接待をせざるを得なかった、という部分もあったらしい。つまり、接待される側の官(国の上級公務員)は、不要な出張で予算を無駄遣いし、さらに裏金によって接待されるという税金の不適切な二重使用の元凶であったということになる。

そうした意味では、確かに岐阜県の裏金作りは問題だし、それを「返還させろ」という主張もわかるが、それと同時に、裏金によって接待された国の上級官僚も、当然、その分は返還するべきではないだろうか。ところが、連日の新聞やテレビ等での報道において、そうした議論はほとんど見聞きしない。これはどうしたことだろうか。

裏金問題の構造は、官官接待の接待される官、つまり国の上級官僚の側に重い責任がある。上級官僚が接待をエリートの誇りを持って拒否し、接待された場合は、決してその便宜を図らない、という姿勢を貫いていれば、そもそも官官接待は成立しえず、巨額の裏金を作る必要はなかったことになる。だから、裏金問題において、接待された官の側の責任は非常に大きく重い。当然、追求するならば、そこまで深く掘り下げ、接待を受けた側の国家公務員にも、返還を要求し、例え今は職を辞していても責任追及の圧力をかけるべきだろう。

批判されたから今はしていない、ではなく悪い事をしていたのなら、きちんとその責任を取る。これが、大人としてエリートとして必要な態度であるし、マスコミの側も、問題を岐阜県のみに矮小化せずに、きちんと国家公務員の責任についても追求していくことがその責務である。我々は、民主国家の国民として、資質の欠けた権力者の不正やごまかしを決して許してはいけない。私は、そう思うのだが……。

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2006年9月 9日 (土)

美辞麗句ではなく

自民党の総裁選がスタートした。下馬評では安倍氏の当確、という声が高いが、美辞麗句を並べ立てるだけで、具体的な方向が見えてこない。

特に、憲法・教育基本法に関して言えば、安倍氏は「改正」の急先鋒だが、違憲の疑いの強い靖国神社参拝など、今まで守らずになし崩しにしてきた大切な国民や他国への約束を、自分たちに都合が悪いから変えようとしている、としか見えない。しかも、その変更によって国民の幸福が増進されるのであればともかく、あくまでもアメリカのほんの一握りの人々の利益が高まるだけの変更である。

仕事柄、教育関係に詳しいが、何度か書いている通り、多くの先進国がすでに実現している20人学級を導入するだけで状況はかなり改善される。それは、現行の教育基本法に規定されている「教育の条件整備」に過ぎない。それすらもせずに、「徳目」や「愛国心」を押しつけても状況は改善されるどころか、悪化するだけだろう。蛇足ながらついでに付け加えると、実はこれは、「教育にお金はかけません」と言っているのに等しい。実際に教育予算は削られ続けている。人材育成こそが資源のない日本の生き残る道なのに、それをないがしろにし続けているのである。

必要なのは、美辞麗句ではない。実際に、何を行ってきたのか。そして、これから何を行うつもりなのか。それを見極めて【選択】をしなければ……と思う。

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2006年9月 8日 (金)

仮面ライダーのすたるじい

子どもの頃、毎週テレビの前にかじりつき見ていた「仮面ライダー」……。そしてそろばん教室での待ち時間にむさぼるように読んでいた「仮面ライダー」……。その当時はそれ程意識していなかったが、今思い返してみると、テレビ版とマンガ版との作品世界は微妙に違っている。テレビ版、特にサボテグロンの襲来と仮面ライダー2号/一文字隼人の登場以降のシリーズではテンポのいいアクションとライダーのヒーロー性に魅せられて毎週見ていたが、マンガ版を後で読み返してみるとところどころに見える社会への視線が物語への深みを与えているのが理解できた。

なぜ、仮面ライダーは風をエネルギーとするのか、それは仮面ライダーが「自然」の使者でもあるからだ。そして、彼が戦い続けるショッカーとは……。例えば、マンガ版で出てくるコブラ男は、公害反対運動のリーダーたちの暗殺を行っている。高度経済成長期の社会の闇とアクセスしている存在、そうした面も持っているのだ。

そして、仮面ライダーがサイボーグであることの異人性も、マンガ版ではより強調されることになる。それは、激しい怒りを覚えると顔に改造手術の傷跡が浮かび上がるといった場面から象徴的に読み取ることができる。だからこそ、普通の人々との距離を感じざるを得ず、孤独を胸に戦い続けるのである。

しかし、テレビ版では、そうした部分を描ききれぬまま終わってしまったところがある。以降のシリーズにしてもヒーロー性を追及するあまり、社会への視線が弱かったのかなあ、と思う。もちろん、それゆえに繰り返し制作され、平成の今でも続くほどの大ヒット作品となったのだろう。それはそれで悪くはないのだが、マンガ版に描かれていた背景や異人性は、大人になった今でも充分に楽しめる深みを持っている。さすがに、平成の新しい仮面ライダーまでは見ていないが、時には古いビデオやフィギアの存在を楽しみたい今日この頃である。

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2006年9月 7日 (木)

ひとやすみ

昨日、一昨日と仕事の関係で睡眠時間が4~5時間という夜が続いた。あまり身体が丈夫な方ではなかったので若い頃から徹夜はほとんどしていないが、40代後半の中年ともなるとさらに体力が落ち、頭や目や身体に疲れが出てきている。特に、夜型人間なので、明日は起きるのが少し辛くなりそうだ。

こんな日は、美味しいウイスキーでも飲んでさっさと寝る方がいい。そう思いつつも、こうしてブログのためにパソコンを開いてしまっている。まあ、仕事ではないのだし、少しは心の骨休めになるかもしれない。

たまには、仕事が追いかけてこないところで数日のんびりと過ごしたい。特に、好きな女が傍にいて、ゆったりと美味しいウイスキーか泡盛の古酒でもあればいうことない。それほど贅沢な夢とは思えないのだが、これがまたなかなか難しい。金にはならないけれどそれなりに責任のあることを色々とやっていることもあり、仕事も含めてスケジュールを考えると、「数日」という自由時間が奇跡のような存在である。

それでも、ストレスをあまりためることなくそれなりにやっていられるのは、けっこう好きなように出来る環境をさりげなく整えているからだろう。とは言っても今日のところは、まず睡眠……。ゆっくりと身体の方の「ひとやすみ」を心がけようと思う。

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2006年9月 6日 (水)

祝! 男児誕生

皇室でおよそ40年ぶりに男児が誕生した。おめでたいことだと素直に思う。けれども、この半年ほどのニュース報道については、今ひとつ釈然としないものがある。日本の医療技術からすれば、当然、生まれてくるのが男子であることはわかっていたはずである。加えて、あれ程騒いでいた「皇室典範改正」の話も、いつの間にかどこかに消えてしまった。良いのだろうかと思う。

象徴天皇制の下で、天皇や皇族の公務は本当に大変だと思う。ある意味では、われわれ日本国民は、象徴天皇制を天皇陛下と皇族の皆様に押し付け、職業選択の自由やプライバシーの権利などの多くの人権を奪っているのである。そして、この報道騒ぎからすれば、今日生まれた新しい命にも、われわれ日本国民は何も考えることなく、象徴天皇制を押しつけ続けるのだろうか。戦後のシステムからすれば、この後また同じことが繰り返される可能性は小さくない。それで良いのだろうか。

天皇陛下も皇族の方々も、激務をこなしながらも、正常なバランス感覚を失わず、時には行き過ぎたお調子者たちの愚かな発言をさりげなくたしなめたり、行動によってさりげなく意思を伝えようとしたりされておられる。が、それを理解しないお調子者や「愛国心」を口にしながらも実は他国の利益のために奔走する売国奴が跋扈する政治環境の中で、本当に苦労されておられることを感じてしまう。

私たちは、まだこれからも皇室システムに甘え、天皇陛下をはじめ皇室の皆様の人権を制限し続けていく選択を、何も考えないままに続けてしまって良いのだろうか。

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2006年9月 5日 (火)

かけひきと愛情

相手との関係が深まっていく中で、「自分はこれだけのことをしているのだから、当然、相手の方も…」と思うときは、多分誰でも、それなりにあるのではないかと思う。人と人との関係において、それは当然である。特に、仕事やお金が関係している場合は、自分が努力した分にみあうだけの見返りが期待できないとなると、当然、相手との関係は考えざるを得なくなるし、こちらの努力に比較して相手からの見返りが極端に少ないのであれば、自己防衛のためにも、相手との関係を清算する必要が出てくる。

けれども、信頼や愛情が絡まってくると、そうした割り切りだけで考えることはできないし、損得ばかりを気にしていては、信頼や愛情は育たない。恋愛の重要な部分には、相手への信頼と愛情が不可欠である。したがって、当然損得だけで判断するわけではないのだが、それでも「自分はこれだけやってあげているのに……」と不満に思うことはそれなりにある。

この時に、少し、自分自身を振り返ってみよう。自分は「相手のため」と思ってやったことであっても必ずしも相手のためになっていない場合もある。

例えば、甘いものが苦手な相手のために手作りのケーキを持っていったら……。相手は、自分への思いやりから、初めのうちは「喜んで食べてくれる」場合がある。でも、それを何度も続けたら、相手は自分のことを理解せずに、好意だけを押しつけ続ける人を次第にこころよく思わなくなるに違いない。

それから、自分は相手のためにと思って色々やっているが、相手はそれを利用して好き勝手にふるまうばかりで、こちらの状況や感情を理解しようとしないまま個人的な都合を押しつけ続けるような場合もある。こうした場合は、相手はこちらの信頼に応えていないということにもつながって来るので、パートナーとして選んで本当に大丈夫か? という疑問を抱かずにいられない。そして、それが重なっていけば、こちらとしてもそれなりの決断をする時が遠からずおとずれるだろう。

ただ、恋愛である以上、多少の駆け引きはあっても、まず《自分から愛する》ということに拘りたい。そしてそれは、一方的にこちらの好意を押しつけるのではなく、相手を理解し、相手がして欲しいことばかりでなく、その時点では相手が嫌がるとしても長期的見れば必ず相手のためになるであろうことをしてあげられる強さを持つ《愛》である。

が、相手がこちらの信頼に応えようとしないのであれば、それに足る人ではなかったという判断もまた出てくることもあるだろう。それでも、相手に媚びるのではなくきちんと愛することによって得られるものがある。それを大切にしながら、次の愛へと歩き出せば良い。

それもまた運命…と考えても良いのではないか、と思う。

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2006年9月 4日 (月)

終わった~~~

8月から文芸仲間と始めた《まい・ぺん・らい》 http://maipenrai.noblog.net/ というブログで連載していた小説がようやく終わった。25年以上前から構想を作り、草稿を書き、何度も書き直して……という作品なので、ようやく自分の中から完全に外に出したということになり、いろいろと感慨深い。

わずか1ヶ月程前から始めたにも関わらず、現時点でアクセス数は1900を越えており、3ヵ月になろうというこのブログのアクセス数を追い抜こうという勢いである。やはり、このブログの内容は硬いのかな……と思わなくもないが、それなりに読んでもいただいているようだし、こちらはこちらで楽しい部分もあるので、それぞれの違いを意識しながらこれからも楽しんでやっていきたい。

それにしても、一応は書き上げた(第一部だけだが…)わが小説の空間的な広がりは、およそ150億光年である。それにくらべれば、とてつもなく広いように思われる日本はもちろん、地球全体のレベルでも、砂粒よりもまだ小さいようなものだろう。けれども、その小さな世界の中で争い・諍い・暴力がはびこり、毎日多くの人々がそのかけがえのない命を奪われている現実がある。1人ひとりが自分や周りの利益だけではなく、もう少し広い範囲の人々の幸福に目を向けるようになれば、状況もいくらか変わってくると思うのだが……。

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2006年9月 3日 (日)

アジア人差別の構造

トヨタの下請け工場で、ベトナム人に対して最低賃金すらも支払っていなかったために労働基準監督署の指導を受けたというニュースが報道された。構造としては大企業が相手を無視した一方的なコストダウンを下請け・孫受け企業に押し付ける現実にあるようだが、もう1つの背景として労働鎖国政策も背後にチラついている。

他のアジアの国々から見た場合、日本は異常なまでにビザの取りにくい国のようだが、背後には政府がアメリカに卑屈なまでに盲従するストレスを経済的に優位にある他のアジア諸国に対して威圧的にふるまうことで解消しているように分析できそうである。だがこれは、二重・三重の意味で日本の国益を損なうことにつながる。

労働鎖国政策の闇の部分の1つに「研修」名目で外国人労働者を受け入れる形にすることで安価な「労働力」を確保する、という現実が時々見受けられる。が、そもそも、単純労働者をきちんと受け入れる道を開けば、下請け現場での労働力不足の解消や彼らにも社会保障の負担をある程度課すことで保険や年金の部分の制度の見直しが別の文脈から可能になる。また、「研修」制度をより厳密に適用することで相手国の技術の向上に道を開き、日本と言う国そのものの評価の向上にもつなげることが可能となり、「札束外交」よりもより効果的に日本の評判を高めることになる。そして何よりも「研修」制度を悪用した背信行為・人権侵害行為を減らすことに直接つながっていく。

ある意味では、これは日本の外交姿勢の問題である。国際交流ボランティアの活動で接している外国人に話を聞いたり、実際に大使館や入国管理局で担当者として接した経験からすれば、日本の役人は間違ったプライドとアジア人に対する差別意識で凝り固まっており、それによって日本の評判を下げ、外交上必要な様々な情報の取得を自らの手で困難にしているように感じられる。

これがアメリカに対して必要以上に卑屈になっていることの補償作用としての無意識の態度だとすれば、アメリカに対しては国民の利益を無視してその要求を無制限に受け入れ、結果として国の自立と信用を損なう形の売国行為になってしまうし、アジア諸国に対しては日本への反発を強め反日感情などを政治的に利用されるような形で国益を損なってしまうことにもなりかねない。いずれにしても、日本国民にとつて何の利益ももたらさないのである。

けれども、2000年前後から、この憂うべき状況がより強化されつつあるように感じられる。小泉政権の対アメリカ・ポチ外交とアジアに対する無思慮外交は特に目を覆うほどのものであったが、自民党の総裁選挙で優位に立っていると報道される安部氏の言動からは、小泉政権の外交失策を具体的に修正するステップがまったく見えてこない。美辞麗句を並べても、具体策が見えなければ修正の意思は伝わらず、返って状況を悪化させかねない危険をはらんでいるのである。

アメリカもアジアの国々も、住んでいるのは同じ人類である。アメリカに対してこれほどまでに卑屈になる必要はないし、ましてアジアに対して居丈高に接することはその場ではともかく長期的には百害あって一利なしである。政治家も高級官僚も、そんな普通の意識が持てない程までに能力は低下しているのだろうか。

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2006年9月 2日 (土)

愛しのメーテル

好きな映画を考えたときに、この数十年ベスト10から抜けずに不動の位置を誇るのが「銀河鉄道999」と「さよなら銀河鉄道999」である。最近は忙しくて見に行く回数が少なくなったが、映画はかなり映画館で見ている方なので、新しい映画の中でも良いものは良い。にも関わらず、この二つの999はすばらしい出来だと思っている。

999のシリーズは、雑誌・単行本・TV・映画、そして最近はインターネット連載までしているようなので、実に幅広いメディア展開となっている。そして、それぞれのメディアによって微妙に質感が違ってくるのだが……。

映画999について言えば、星野鉄郎の年齢設定がマンガやテレビよりも少し上げられていて、年齢感覚としても少年の成長と自立をメーテルとの間に流れる感情を絡ませながら見事に描ききっている。そして「銀河鉄道999」が母からの自立であり「さよなら銀河鉄道999」が父の存在を超えていくことにテーマ設定がなされているために、2つ併せて見るといろいろと考えさせてくれることが多い。

さらに両方の映画が「機械化人」という設定によって永遠の命と限りある命、すなわち生と死についても考えさせてくれる。限りある命だから、一瞬一瞬がかけがえのないものとなり、だからこそ命そのものを大切にしなければならない、という思いを何度見ても感じさせてくれるのである。

また、細かいシーンでも情感溢れるところが多い。「銀河鉄道999」のラストの別れのシーンでは、メーテルの唇の感触まで伝わってくるような映像になっている。母性の部分と恋人の部分をあわせもつメーテルの存在は作品全体にわたって大きな意味を持ってくるし、そうした意味でも、何度でも見たくなる映画である。

そう言えば、好きになった女たちの中で、髪の毛の長さと脚の線の美しさをあわせもつ割合はけっこう高いように思う。もしかするとメーテルの《悪影響》なのかも知れない。フィギアがあるとつい手を出してしまう(display collection 参照)ほどに、バツイチの今でもメーテルは好きである。

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2006年9月 1日 (金)

原作と映画

先週「ゲド戦記」を見に行った。最初は迷ったのだが、先月、挿入歌の「テルーの唄」を谷山浩子が作曲しているのを知り、急きょ見に行くことにしたものである。

原作を読んでいなかったので、映画としてはまあまあ楽しめた。けれども、多分、原作を読んでいたら不満に感じたのではないかと思う。ル=グインは高校生くらいの時に『辺境の惑星』というSF作品を読んでいて、当然『ゲド戦記』の存在も知っていた。けれども、長いのも知っていたので、なかなか読もうというところまではいかなかったのである。

原作と映画の関係では、本から先に入った場合は、読んだ時の自分の強い印象やイメージがあり、それが映像との間に距離を感じると幻滅することが時々ある。その最初の例は、中学時代に何度も熟読した新田次郎の『アラスカ物語』を高校時代に映画で見たときだった。思い入れが強かった分、映画を見た後「金を返せ!」と叫びたくなった。

原作との距離感で、どうも今ひとつ…と感じたのは「ネバー・エンディング・ストリー」などもそうである。やはり原作の『はてしない物語』の深さに映像が追いつけない…という感じであった。「百聞は一見にしかず」という諺があるが、視覚はイメージを固定する作用が強いので、原作の深みを表現しきれないと返って陳腐化してしまうのである。その意味では、同じエンデ原作の「モモ」はイメージを裏切らなかった作品であった。

逆に、原作は原作、映画は映画という感じでそれぞれ別の良さがあり、二重に楽しめたものもある。角野栄子原作の「魔女の宅急便」と宗田理原作の「ぼくらの七日間戦争」である。先に原作を読んでいたが、途中で思い切りよくストリー展開を変えてしまったので、それがそれぞれの面白さにつながったのではないかと思われる。

それでも、映画を見ることで、原作に触れてみようという気になる場合も少なくない。とりあえずは、『ゲド戦記』もほとぼりが冷めた頃にゆっくりと読んでみよう。

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