« 姑息な「審議会答申」 | トップページ | 暴走「グローバリズム」の非効率 »

2006年9月20日 (水)

耳をすませて

市立図書館の読書会で、久しぶりに『モモ』(エンデ/岩波書店)を読んだ。作者のエンデは1995年に亡くなったが、その作品は今も世界中の多くの人々を魅了し続けている。

 

映画化もされ、エンデ自身も少しだけ映画にも出演しているというこの作品の主人公モモには不思議な力が備わっている。それは、他の人の話を聞くのがとても上手いことだ。町の人は、困っている仲間にこんなふうに声をかる。「モモのところへ行ってごらん」と。 

 

子どもに過ぎないモモは、お金を持っているわけでも、アドバイスをしてくれる訳でもない。ただ、素直に、そして一生懸命に聞くだけだ。けれども、モモに話し終わる頃には、何か良い考えが浮かんできたり、気持ちが楽になったりする。だから、聞き上手のモモは、人々にとってとても大切な存在なのだ。

 

さてここで、私たち自身の生活を振り返ってみよう。自分に、安心して話をすることの出来る家族や友達はいるだろうか。この人なら、安心して何でも話せる。この人といるだけで、ほっとする。そんな家族や友達や先輩や仲間が一人でもいる人は、もしかすると、とても幸福な人かも知れない。

 

別にアドバイスを受けなくても良い。というよりも、下手なアドバイスは、聞いていて腹が立つことだってある。「そんなことは、分かってる。でも、出来ないから困ってるんだ」と心の中でつぶやきながら、相手の得意そうに始めた「正論」や「自慢話」や「体験」を聞くなどという展開になってしまって、返って不愉快になったり、落ち込んだり…。そんな場合も、結構少なくないのではないだろうか。そう考えると、ちゃんと話を聞いてくれる人の存在は、とても貴重で得がたいものだということが分かる。

 

では、私たちは、自分の大切な家族の、あるいは友達や仲間の話をちゃんと聞くことができているだろうか。少し話を聞いただけで分かったつもりになって、その「理解」の上に立ち、自分に都合のいい考えを無意識の内に押し付けていることが結構多いのではないかと思われる。いや、もっとひどい場合は、相手の話をさえぎり、こちらの意見や都合をまくし立てることもあるのではないだろうか。

 

どうしてそうなってしまうのか。きっと、親しいから、分かっているから、という無意識の甘えを背景に、あるいは相手との上下関係などを背景にして、相手の気持ちに十分に応えずに、つい自分を主張してしまうのだろう。

 

ただ、相手が普通の状態(精神的にも、状況的にも)であるならば、そうした部分はお互い様だから、何事も無く過ぎていく。しかし、相手が切羽詰っていて余裕の無い状態であれば、そうした「普通の何気ない対応」が相手の心を深く傷つけてしまうこともあるのだ。

 

もちろん、いつも「特別に注意を払った対応」を全ての人を相手に出来るわけではない。と言うよりも、人間にそんなことは不可能であり、無理にそうしようと努力すれば確実に自分の心が蝕まれ、おかしくなってしまうだろう。その意味では「普通の何気ない対応」というのは、そうならないための無意識の安全弁かサーモスタットのようなものなのかも知れない。

 

また、人間誰しも、精神的に余裕のある時には、わりと他の人の話を聞いてあげられるものだ。そういう時に、少し「耳をすませてみる」と、「普通」だと思っていた相手が「普通の状態」でないことに気づく場合がある。そして、モモのように誠意を持って真剣に話を聞き出すと、思いもかけなかった事実や悩みや思いが吹き出す事もある。しかもその内容が聞く側の人にとっては重すぎて何も出来ない事だってあるのだ。

 

しかし、慌ててはいけない。無理をせずに出来る事……。そう、モモと同じようにただ、真剣に相手の話を聞き続ける事は出来るはずである。心を合わせてそばにいてくれる、そんな人が存在していると実感できる、それだけで楽になる事があるのだ。下手な解釈や場当たり的な解決策を口にしなくても、自分の辛さや苦しさや悩みを理解してくれる人がいると信じられる事が、人に希望を与えるのである。

 

けれども、精神的に追い込まれている度合いが強いと、自分の辛さにしか目が行かなくなり、その中だけで堂々巡りをしてしまい、手を差し伸べようとしてくれる人に対してさえも心を閉ざしてしまったり、イライラや持って行き場の無い怒りをぶつけたりしてしまう場合がある。そんな時には、それでもあえて聞き続けるというのは本当に辛いことかも知れない。

 

でも、少し考えてみよう。他の人には出来ないかもしれないけれど、信頼している相手になら、自分の弱い部分を見せることが出来るし、無理を言ったりして甘えることも出来る……ということが人間にはあるからだ。

 

そうした事が少し分かっていると、大切な人が自分にとって辛い言動をしても、何とか受け止められる場合がある。必ず受け止められるとは言えないが、知識として知っていることで、わずかずつでも許容範囲が広がるという事はあるのだ。

 

もちろん、何もかもを自分ひとりで背負えるという訳ではない。と言うよりも、あまり自分ひとりで背負い込んでしまうと、その許容範囲を超えたときの反動が大きく、返って周囲の人に多大の迷惑を及ぼす場合だってある。

 

私の愛する女は、わりと優しいところがあるが、とても気が強く、何もかも自分ひとりで背負い込んでしまう傾向が見受けられる。身近で接している時はそれが分かっているから、なるべく一人で背負い込んでしまうことがないように、と気をつけているが、大事なところで自分の中に溜め込んでいるうちに許容範囲を超えてしまって暴走し、すべてをぶち壊してしまいかねない言動を取ったことも何度かある。それでも、彼女のすべてに「耳をすませて」いると、後始末の際に「バカ…」とつぶやくぐらいのことはあるとしても、どうしてそうなったか、ということも含めて理解できるから、変わらずに彼女を受け入れ続けることが可能となる。(今だけ……でないことを祈りたいものだが。)

 

それに、私自身も聖人君子ではないので、精神的に余裕の無いときにはバカなこともするし、他の人の心情にまで思い至らずに無神経な言動をとったりもしてしまう。ただ、そういう場合でも、なるべく自分の心に「耳をすませて」心の余裕を失っていないかどうかを確かめるように心がけようとしている。

 

今までの自分自身の経験からすると、自分の辛さや淋しさや苦しみを見つめ、それを超えて生きていこうとする体験が、いつしか出会う誰かの辛さや淋しさや苦しみを和らげる力となる事だってあるかも知れない。そう考えると、まず自分自身の心に「耳をすませる」勇気が湧いてくる。

 

そろそろ40代の後半に差し掛かっていてそれなりの経験も積んでいるが、それでも、未だに自分の未熟さを痛感することは少なくない。しかし、自分が辛いときでも、他の誰かのために何かをしてあげられる強さを持ちたい…と思う。まあ、なかなかそれが出来ないから、そう思うのだろうけれど。しかし、自分の心に「耳をすませ」、周りの人々の言葉に「耳をすませて」、今よりも少し強く、今よりも少しだけ優しい自分になりたいものである。モモのように、いつでも、自分も含めたあらゆる存在に対して「耳をすませる」ことができたら良いと思わないだろうか?。私は、そう思う。

|

« 姑息な「審議会答申」 | トップページ | 暴走「グローバリズム」の非効率 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/120394/3516175

この記事へのトラックバック一覧です: 耳をすませて:

« 姑息な「審議会答申」 | トップページ | 暴走「グローバリズム」の非効率 »