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2006年10月31日 (火)

過剰管理の心的背景

日本の社会が息苦しくなっている。理由は、過剰な管理が広がり続けているからである。その結果、あちこちでゆとりがなくなり、短期的にはともかく、長期的には独創性や突発的なことに対する対応能力が低下し、返って能率すらも損なわれてしまう場合まで出てきている。

なぜ、これ程までに「管理」が必要なのだろうか。それは、現場に対する信頼や管理する側の新しいことに対する理解能力や許容能力、そしてリスクに対する責任感を充分に持ちえていないまま管理する側になってしまっている人々が増えているからではないだろうか。つまり、上に立つ側の人間的な力も含めた統率力が弱くなり、その能力不足を過剰管理によってごまかそうとしているからではないかと思われる。

充分な能力もないまま上の立場(管理する立場)に立っている者にとって、管理を強化することによって自由な発想や新しい積極的な行動を制限し自らの理解能力の範囲でものごとに対処するのは楽である。それは、自分を変える必要がないからである。

加えて、「管理」さえしていれば、「自分は仕事をしている」「努力はした」という言い訳はそれなりに外部に対しては通用する。集団そのものが崩壊しない限り、「言い逃れ」や「責任回避」といったごまかしが通用することも少なくないのである。その結果、集団が著しい被害や損害を被ったとしても、本来は責任をとらなければならないはずの人たちが生き残り、問題を隠蔽したまま流れていく。個人にとっては、とても良い話である。

けれども、それは集団全体にとってはマイナスである。管理する側の理解能力を超える新しい発想や活動が制限されてしまう結果、新しい芽がたくさん潰されてしまい、発展の可能性が小さくなってしまうからである。そして社会や周囲の変化が管理する側の理解能力を越えるほどに進んでしまえば、集団そのものが社会や周囲に対応できなくなって潰れてしまう。上に立つ者の姿勢が集団そのものを崩壊に導くことにもつながりかねないのである。

その意味で、管理の過剰な集団は危険である。身近にある周りの集団については、とりあえずは「大丈夫かな…」という気はしている。けれども、【日本】という集団はどうだろうか……。

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2006年10月30日 (月)

ヒステリックな「強者」

連日、信じられないような「いじめ」事件が報道されているが、実は小泉「改革」以降、政治や社会の場での弱い立場の人々への「いじめ」が常態化しつつある中での出来事であり、そうした背景の下、精神的に影響を受けやすい子どもたちの「いじめ」も深刻化しているのではないか…という気がしないでもない。

ある意味で、本当に強い人々は、「いじめ」をする必要がない。その強さを自他ともが認めているから、無理に力を誇示すれば、逆にその「力」そのものに疑いを生じさせかねないからである。だから、本当は力のない人々は、自分より弱い立場の者を「いじめ」ることによって周囲に力を誇示しようとする。そうする事で、自らの力のなさをごまかそうとするのである。自分に対しても……そして他人に対しても……。自信のなさがそうした行動に駆り立てるのだろうが、つまりは「弱い犬ほどよくほえる」の類であろう。

それは、日露戦争後の日本の姿や現在のアメリカの姿とも重なってくる。本当に強いならば、ある程度相手の主張や要求も受け入れられる度量がある筈なのだ。それがないからこそ、その弱点を見破られないように必要以上に力を誇示しようとする。正々堂々と強い相手と勝負できないから、小ズルク立ち回り、弱い相手のみにケンカをふっかけようとするのであろう。

ブッシュ政権によるアフガニスタンやイラク侵略もそうである。充分な外交力があれば、実際に侵略戦争に突入するような不経済な選択はする必要がない。その力がないからこそ、軍事力をひけらかして意思を通し、一部の利益だけを守ろうと画策したのである。それは、真の意味での「強者」としての自信・力量の欠如を示している。本当の意味で強くなくなっているからこそ、「外」に対してほえ続けるのである。

小泉前首相のやった郵政解散なども、きちんと中身で勝負できる強さがあったのなら「刺客」などを送って徹底的にメディア・コントロールで相手を中傷する必要などなかった。国民の生活環境や治安の悪化を見れば、その力量のなさは簡単に確認できる。それをきちんと検証しないまま小泉前首相のパフォーマンスに踊らされたマスコミも情けないが、結局、小泉前首相に真の意味での力量がかけていたことの1つの証拠だろう。

だから、「弱者」をいじめる人々には、それを自覚させることが必要となってくる。力の誇示は【自信】のなさのあらわれであり、本当の意味で強くなり自信をつけるには、力を蓄える地道な努力が必要なのだ。それをせずに力を誇示しても【自信】を持つことは出来ないし、その無理な力の誇示が、相手に力の無さを悟らせてしまうことにもつながりかねない。そうなれば、返って不利な事態に自分を追い込みかねないのである。

私たちは、ヒステリックな「強者」になる必要はない。本当の実力と心の余裕を持った人間になればいいし、そのように後に続く世代に伝えていけばいいのである。

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2006年10月29日 (日)

ウイスキーの飲めない日々

10日以上、じっくりとウイスキーを楽しめない毎日が続いている。仕事の忙しさに加えて、プライベートでも色々と時間を取られる出来事が続いているからである。

もちろん、家にはグレンフィデックをはじめ、スプリングバンク、グレンスコシア、ウシュクベなどのウイスキーはあるのだが、仕事の準備が深夜まで及んで翌朝も仕事だとウイスキーをゆっくり味わおう…などと言う気分にはなれないし、夜中に呼び出しがかかる可能性があるときには、車を運転する都合上、飲めない。不便なことである。

今日はもちろん、あとしばらくこの状態は続くので、残念だがウイスキーを飲めない夜はもう少し続きそうな気配である。けれども、久しぶりの一口は、琥珀色の心地よい刺激が一層豊かに口の中に広がる気がして、至福を感じる一瞬を味わえる。その日のために、どうも気分は乗らないが、たまっている仕事を再開していこう。

今晩は、また寝るのが遅くなりそうである。

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2006年10月28日 (土)

ケンカは怖くない

恋愛関係や夫婦関係にケンカはつきものであり、ケンカをしてしまったこと自体を必ずしも怖がる必要はない。それは、逆に、お互いをもっとよく知るチャンスになるからである。このことについて、もう少し考えてみよう。

なぜ、ケンカになるのだろうか。それは相手の言動に腹が立つからだ。では、なぜ腹が立つのか。それは、相手が自分の思いや感情を分かってくれない、と感じたからである。けれども、自分が大切だと感じていない他人が自分のことを理解していなくても別に腹が立つわけではない。相手が自分にとって大切な人であり、自分のことをある程度理解してくれている…という信頼感があり、分かってくれるに違いない…という甘えがあるから、自分を理解していない、と感じる言動に対して怒りを感じるのである。

それを考えれば、相手が怒っている…というのは、自分という存在を大切に思い信頼してくれているという前提がその怒りの背後には存在することになる。相手に信頼され、大切に思われているのであれば、「怒り」を受け止めることはそれ程苦痛ではないはずである。加えて、その怒りそのものが誤解や錯覚であるならば、それを訂正することで相手により深く理解してもらえることになる。

それから、「怒る」ということは、感情を安心してさらけ出している…という事でもある。つまり、「この人なら安心して感情をさらけ出せる、さらけ出しても良いのだ」という信頼がその背後には存在している。

ということを考えれば、これらの点から、ケンカができることそのものに大きな意味がある。感情をぶつけられるようなケンカができる…ということは、お互いの深い信頼関係に支えられているのである。

ケンカは、確かに不快な出来事である。けれども、それは逆に二人がお互いをより深く理解するチャンスでもある。だから、ケンカをすること自体を恐れる必要はない。大切なのは、そのケンカをどう生かしていくか。そのことが二人に問われていると言えよう。

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2006年10月27日 (金)

未履修事件の背景

各地の高校で、世界史等の教科を履修した形にしていた事件が発覚した。悪意ではなかったとは言え、最大の被害者である高校生たちの被る不利益が最小限になって欲しいと願うが、現状のまま推移すれば3年生たちの時間的・精神的な負担は、けっこう大きなものになりそうである。

時間だけを削ればよしとする「ゆとり教育」を推進したのは誰か…、あるいは、そもそも学習指導要領の法的拘束力そのものに問題があるのではないか…など、事件の背景には、現場を無視した教育行政を押し付け続けた政府・与党・文部科学省の姿勢がある。

例えば、週休二日の完全実施によって、授業や行事における学校現場のゆとりはなくなり、教師も生徒も慌しく時間に追われるようになった。学習指導要領は、当初、法的拘束力など持ってはいなかったのは教育史を学んでいるものにとっては常識であり、歴史的な事実でもある。

審議会や諮問委員会で、それなりの「提言」が出たとして、では実際に官僚やそれぞれの委員が学校現場で活動して、その「提言」にそった形での指導上の効果を上げられるのか。多分、多くの官僚や委員にその能力はないだろう。

確かに、現場の視点だけでは未来への方向性は見えにくいだろう。その意味では、さまざまな立場からの意見に耳を傾けることは大切である。けれども、現場の声や実態を無視して強権的に効果を上げようとしても無理である。

その意味では、これだけ多くの学校ぐるみによる未履修の実態があった、ということが現在の受験システム・教育システムの現実の姿なのである。それに対して「学習指導要領違反」ということで上から圧力をかけるだけでは問題は解決しない。もちろん、教育基本法を「改正」しても問題解決に結びつく力とはならないだろう。すべては、現場の声・現実を無視して恣意的に国民の権利としての教育を捻じ曲げてきた結果なのである。

ただ、さまざまな教育現場で実際に子どもや生徒、家族に関わっている立場からすれば、少しでも「現実」を改善するための努力や工夫を続けるしかない。私たちは、日本の未来と最前線の現場で関わっているのである。それは、大人としての未来の世代に対する責任だと思っている。政府・与党や文部科学省も、教育基本法改正などというパフォーマンスに終始していないで、もっと教育の現実に目を向け、未来の世代に対する責任をきちんと果たして欲しいものである。

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2006年10月26日 (木)

教育は誰のため?

教育基本法「改正」の審議が、審議の体をすらなしていない。与党が、立法府の場において、その仕事を完全に放棄し、「非自由」「反民主」の行動ここに極まれる…としかコメントできないような現状は、一国民として非常に恥ずかしいし、情けない。民主国家・先進国を自任したいのであれば、それに見合うだけの言動で本当の意味での「愛国心」を示して欲しいものだが、他者に「愛国心」を押し付けようとしている人々が一番「愛国心」を持っていないようである。

そもそも、現行憲法において、教育は受ける側にとって【権利】である。そして、憲法を改正していない以上、国会議員はもちろんすべての官僚はそれを遵守する義務がある。ところが、ニュースなどで報じられている内容からすれば、政府・与党の側に「受ける側の【権利】としての教育」という視点は欠如していると言うしかない。

だいたい、法律をなし崩し的に無視したり破ったりした上で、「法律」そのものが「現状」に合わないから変える…などというのは、法治国家の政治家や官僚のするべきことではない。けれども、教育基本法に関しては、まさしくそれが行われてきたのである。

教育基本法を守ってきちんと条件整備をしていれば、すべての学校図書館に専任司書と司書教諭が何十年も前に置かれていただろうし、子どもたちの問題行動に対して、例えば犬山市のような少人数学級の導入をもっと早期から検討していなければならなかった筈である。それらを放置して教育予算を削り続けた結果が、現在の教育の荒廃を招いている。

必要なことは、そうした現実をきちんと見つめ直し、それに対する責任ある対応を取ることであり、「教育基本法・改正」などのパフォーマンスで対応の不備をごまかすことではない。教育は「国家百年の計」である。私利私欲ではなく、1人1人の子どもと未来の日本のために、責任ある国会論議と財政的な配慮をしていくことの方が急務であろう。

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2006年10月25日 (水)

悪女といい女

恋愛の視線から【いい女】考えると、最近は「若い」という条件はそれほど重要ではなくなった。と言うよりも、20代前半やそれよりも若い女は子どもっぽく感じてしまい、恋愛…というよりもこちらの方が大人として合わせてあげている…というように感じられ、恋愛の対象にはならない。恋愛、ということであれば、心と心の結びつきが大切だと考えているし、そのためにはある程度の楽しい会話が必要だからである。

その意味では、悪女…はけっこう【いい女】かもしれない。こちらが振り回されることはあっても、その過程そのものをけっこう楽しめる部分はあるからである。何よりもちょっとした会話でのやり取りや駆け引きがおもしろい。ただ、深みにはまってしまったら、そんな悠長なことを言ってられないと思うし、なにぶん、恋愛の修羅場をそれ程多く体験しているわけではないので、下手に悪女には近づかない方が良いかも知れないが…。

それでも、一応はまだ男である以上、悪女系のいい女にも当然興味はある。身を破滅させるかどうかのギリギリの体験が、文学を書くのにはけっこう良い肥やしになるかも…などと考える部分がどこかにあるからである。実際に今まで出会った中に「悪女」はいたかどうかは定かではない。深みにはまる前に終わってしまったこともけっこうあるので、もしかしたらいたかも知れないが、幸いと言うべきか、残念だがと言うべきか、今も何とか平穏な生活を送っている次第である。

ただ、【文学】にはけっこう入れあげ、お金を使い、時間を費やして、今なお振り回されている。それ自体がけっこう楽しい部分もあるが、腐れ縁と言うべきか何と言うべきか、離婚をすることは出来たが、【文学】と完全に縁を切ることには成功していない。その意味では【文学】そのものが、究極の【いい女】かもしれない。

バツイチ不良中年の、ささやかな戯言だろうか。

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2006年10月24日 (火)

「自由」ってめんどう?

共謀罪や教育基本法「改正」など、国民の自由を奪おうとする政府・与党の悪辣な動きが進んでいるが、それに対するマスコミや人々の反応は、不思議なほど鈍い。人々は、「不自由」を望んでいるのだろうか。

私などは「自由」は大切なものだと思っている人間なので、当然、共謀罪には反対だし、教育の条件整備など政府自らの責任を果たさないまま教育を荒廃させた挙句、その責任をごまかして現行教育基本法を攻撃する無茶苦茶なやり方は絶対に許容できないと考えている。

けれども、そうした「声の大きさ」に流されて、情報の確認を怠ったり、分析をしないまま思考停止をしたりしている人々が増えているように感じられる。そのような人々は「自由」が重荷となっているのだろうか。

E・フロムは『自由からの逃走』という本を著しているが、ある意味では、自分できちんと考えたり判断したりせずに流されていく【生き方】は、その瞬間だけを考えれば、とても楽である。が、歴史は、その結果がファシズムの台頭と戦争を許してしまった事実を教えてくれている。

【自由】は、自分の欲望のままに好き勝手なことをすることではなく、他者の尊重と結果に対する責任がその背景に存在する。けれども、他者の尊重や責任などは、けっこううっとおしいものである。つまり「自由」って、思っている以上にめんどうなのだ。

それでも、その面倒をきちんと受け入れることで【自由】は大きな力となって私たちの生活や生き方を変えていってくれるものなのだ。だからこそ、【自由】を守りたいと思っている。どこまで出来るかは分からないが、少しずつでも積み上げていきたいものである。

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2006年10月23日 (月)

「バクチ経済」の危険性

グローバリゼーションの進展と金融改革の流れの中で、日本の企業も銀行を通しての間接的な資金調達方法から、株式の発行による直接的な資金調達方法へとシフトしてきた。そうした流れを受けて株の取引が増大し、企業の活動や経営にも様々な変化をもたらしている。

が、こうした流れの中で、株式の売買により増殖を続ける「マネー」が、モノづくりをする企業への影響力を増大させ、時としてそれを圧迫することも起こり得る状況を生み出してきている。そのカラクリは「信用取引」というやり方にあるが、それによって一部の現金を用意するだけで済むことになり、現金でない「情報マネー」をどんどん膨らませている。

だが「情報」が信頼するに足るものなのかという問題が隠れている。取引そのものをお互いに信用でき、その取引が第三者の目から見ても公正で安定していて安心できるならば、「情報」の取引がモノやサービスの取引に変化していく流れのスピード化、効率化か促進されるが、その回路の一部が「信用」を失えば、「ニセ情報」に転落した「情報」は、実際のモノやサービスの供給に悪影響を及ぼしてしまう。アジアの通貨危機なども、そうした流れの中で起こるべくして起こったと言えるのではないだろうか。

実際、株式の売買に課せられている税率は、非常に低い。それに対して実際にモノやサービスの提供によって生じる所得にかせられる税率は高く、こうした風潮が続けば、モノやサービスの供給よりもマネー・ゲームが良い……ということになるが「情報」から実物は生じない。けれども、モノやサービスの提供が無くなってしまっては、マネー・ゲームは消滅する。つまり、現実のモノやサービスの供給という信頼があってこその「情報」なのである。

けれども、世界レベルで「情報」やマネー・ゲームによる所得に対する税率は低く設定されており、経済のバクチ化の進行は著しい。その結果として、モノやサービスの提供に悪影響を及ぼす度合いがさらに強まってからの軌道修正では間に合わなくなるのではないだろうか。

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2006年10月22日 (日)

問答無用!?

郵政民営化解散以降の国会で、公約にあえて盛り込まなかった重要なことを論議し、多くの国民の疑問や反対を無視して、勝手に政権与党が多数決で決めていく反民主的政治運営が顕在化している。だが、歴史に学べば、こうしたやり方はテロを生み出す大きな要因の1つである。

5.15事件で犬養毅首相が暗殺されたとき「話せば分かる」と言った犬養首相に対して青年将校たちは「問答無用」と答えたという話がある。相手の話を聞き、相互の考えや立場を理解した上でものごとが決まり、動いていくと実感できるならば、誰もがみな話をするし聞こうとするから少しずつ分かり合えるだろう。けれども、話しても無駄だと感じていれば誰が話をするだろうか。話す時間すら無駄であり、行動するしかない……ということになろう。そしてその行動が【テロ】という可能性も出てくるのである。

政権与党や政府が、国民の声を捻じ曲げたり無視したりして様々な一般国民・弱者の生活を困窮させ破壊する政策を推し進めた結果、多くの人々の心が荒廃してきている。そして、マスコミもそうした政権与党・政府の悪行を暴ききることが出来ず、返って「大本営発表」を繰り返して悪行に手を貸しているようなところさえある。これでは、「話しても無駄だ」という思いはどんどん蓄積され、拡大していくばかりである。

今はまだ、細々とではあっても私は書いたり話したりしている。けれども、戦前・戦中のように「問答無用」という世界が迫っているように感じられる。歴史に学び、同じ失敗を繰り返したくはない、と思うのだが……。

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2006年10月21日 (土)

999と盗作騒ぎ

つい先日、「銀河鉄道999」の中で使われているフレーズを、某シンガーソングライターが盗作したのではないか、というニュースを目にした。新聞報道で見たフレーズからすれば、疑われても当然だろうと思う。

付け加えれば、1998年に公開された「銀河鉄道999~エターナル・ファンタジー~」の主題歌「Brave Love」をTHE ALFEEが歌っている。その歌の中にも問題になっている部分とよく似たフレーズが出てくるので、私自身も時々カラオケで歌っている程度には流行った歌である以上、件のシンガーソングライターが意識的に盗作をしたかどうかは定かではないにしても、何かの折に耳にしたものが無意識の中に残ってしまったという可能性は大いにあり得る。

まあ、まともな大人の感覚や常識があるのならば、そうした事実経過を意識すれば、今の時点では松本氏の側で裁判を起こして損害賠償を求める、とまでは言っていないようなので、素直に謝ればすむのではないかと思う。

けれども、最近は「まともな大人」が減少しつつあるような気がする。以前このブログで取り上げた津地検の人権侵害事件でも、すぐに陳謝して結果報告を送付すれば事件にすらならなかったことである。いい年をした大人が、まともな感覚や常識を失いつつあるのなら、逆にそれは日本社会の危機かもしれない。間違いやミスに対してはきちんと謝罪をし、そこから方向転換が出来る勇気を持った「まともな大人」でありたいと思う。

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2006年10月20日 (金)

息苦しい経済の「自由化」状況

先日、新聞記者の方と話をする機会があり、新聞の現場でも「息苦しさ」が増しているというような話を聞いた。競争に勝ち抜くための「効率化」が、どうもその背景にあるらしいが、これって、と゛こかおかしいのではないだろうか。

「自由」競争の結果として、個人のゆとりが奪われ、自由な時間や発想が失われていくならば、自由競争の「自由」は人々に不自由を押し付けるためのペテンではないか…ということになる。

いくらバツイチ「中年」オヤジとは言え、安易に「昔は良かった…」という言葉は使いたくないが、10年前、15年前の方がはるかに時間的にも精神的にもゆとりがあったように思われる。それは個人的にも…そして社会的にも…である。

「自由化」が進んだ結果、個人個人の「自由」がどんどん失われていくのであれば、その「自由化」は明らかにまやかしであろう。そして、社会的な実感からすれば「自由」はどんどん後退しつつある。ということは、「効率」重視の「自由化」とは、人間性無視の「自由」ということにもなり兼ねない。

「自由」は重要な基本的人権の1つである以上、結果としてより多くの人々の「自由」の抑圧につながる「自由化」は、その哲学や方法論に間違いがある、と考えられる。世に喧伝されている「自由化」の議論を、もっともっと詳細に検討し、まやかしをあぶりだす必要がありそうである。

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2006年10月19日 (木)

「外国人」によるケア

新聞の投書欄で、介護の際の看護士は日本人だけにして欲しい…という内容の意見が掲載されているのを見た。コミュニケーションに不安を感じる、という意味においてその気持ちを理解できないでもないが、日本の現実から考えればワガママ…とも思える意見ではないか、と感じた。

看護士の不足は現在慢性化しており、労働鎖国政策を維持しながら高齢化の進展をむかえれば、看護士の絶対数はさらに不足する。現在は、その不足を長時間労働で支えているが、それからくる労働条件の悪化がさらに看護士不足を加速させている。

そうした現実を考えれば、看護士を日本人だけにして、世話をされる時間がさらに少なくなっても良い…納得する、ということなのだろうか。投書の文章を読んでいるとそうではなさそうである。ケアを充実させてしかも日本人スタッフだけをそろえる、ということは労働条件を大幅に改善して人材を集中させなければ不可能だが、少子化の現実を考えればそれは困難を通り越して無理難題と言わざるを得ないだろう。

もう1つ気になることは「外国人はイヤ」という人に対して、他国から来た人が親身になってケアをしてくれるのか、という問題も出てくる。誰でも、自分を嫌がっている相手に親切にしたり丁寧に対応したりするのは、ほんの一時ならともかく、長期にわたる場合は難しいだろう。

逆に、国際交流の経験からすれば、こちら側が相手に好意を持って親切に対応していけば、他国から来たばかりで充分に日本語を使えない人でもすぐに心は通じ合い、相手も親切で心のこもった対応をしてくれる場合が多い。言葉は不十分でも、お互いにその気があれば、かなりコミュニケーションは可能となるのである。

少子高齢化の現実を考えれば、私たち日本人は、外国からの労働力をあてにしなければ生活が難しくなるだろう。けれども、それに対する心構えはきちんと出来ているだろうか。政治的に大きな力を持っている人たちが繰り返すアジア人に対する差別発言……。入国管理局や法務省の、情けないほどの人権意識の低さ……。そして、一般の人々の中にも隠れている差別感情……。これらを放置していると、近い将来、日本と日本人はとんでもない報いを受ける可能性がある。

それを避けるためにも、私たちは意識改革・制度改革を急ぐ必要がある。他国からきた人々が気持ちよく働けるような条件整備を行い、親身になってケアをしてもらえるような環境を整える必要があるだろう。私は、日本人だけの不十分なケアよりも、他国からきた人も含めての充分なケアの方が明らかに安心できる。現実を考えれば、その方が賢明な選択ではないか、と思うのだが……。

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2006年10月16日 (月)

頭痛との折り合い

最近、ちょっとした頭痛に悩まされることが多い。原因はだいたい睡眠不足である。仕事ばかりでなく様々な活動に関わっている関係もあって、毎日が結構忙しい。好きな映画も2ヶ月以上見に行っておらず、ビデオを借りてきても見る暇もない。そんな中で、ちょっと何かがあるとすぐに睡眠不足になってしまうのである。

そんな訳で頭痛の原因は分かっているし、薬に頼らなくてもポイントを指先で力を加減しながら押すことによって結構頭痛は楽にもなる。それにあまりにも酷いときは数分から30分程度でも横になって目を閉じるだけでも多少マシになるので、何とか頭痛と折り合いながら毎日を過ごしている。

そういう意味では、対処法が分かっているために慌てない……ということになるのだが、原因としての忙しさと睡眠不足を何とかしない限り、やがては折り合いをつけることも難しくなって来るだろう。とすれば、身体からのメッセージである頭痛も大切にしなければならないと思う。あまり若作りをして無理するキャラクターではないが、それでもつい、歳を忘れてがんばってしまうこともある。もう若くはないのだから気をつけなければ…と思う。

きょうも、少しこめかみの辺りに痛みがある。いろいろと仕事も多いが、そろそろ身体が悲鳴を上げ始めているというサインなので、今日はなるべく早く寝なければ……と思っている。

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2006年10月15日 (日)

生活者としての「学力」

「学力」について考える際、私たちには様々なアプローチの仕方がある。それは、東京大学の佐藤学が指摘するように、「学力」という言葉が情緒的に、あるいは多様なイメージで語られているからであり、同じ場で議論しながらも、話し手の使う「学力」という言葉のイメージが微妙にずれているためである。従って、学問的に整理するならば、厳密にその言葉の意味を定義した上で論を進めることが望ましい。しかし、それを意識してしまうと「学力」について私が語ろうとする思いに無意識的に制限が加えられる恐れがあるので、この場ではそこまで厳密に取り扱わず、私の思いを述べることを優先したい。

私は、ボランティアの日本語教室や塾などの場において外国の人たちに教えた経験があり、その一部は現在も続いている。そこから得る実感を手がかりにしながら「学力」について考えてみたい。

 

まず、塾について。少し前に私の塾にJというブラジル人の女の子が通っていた。日本語の会話と読み書きは普通の日本人の子どもたちと同じようにできたが、特に数学が悪かった。分数の計算と割り算の筆算が出来ず、当然、中学の数学も苦労していた。そこで、そうした点も含めて対応できる私の塾に通い始めたのである。2カ月近くのやり取りの中で、日本では当たり前となっている掛け算九九を彼女は書いて覚えたということや、基本的な理解力はあるし数学のセンスも良さそうなので、少しずつ丁寧に学習を積み上げていけば年度末ぐらいには中1の数学ぐらいには進めることなどを本人に話し、本人もそのつもりで学習に取り組み、やがては連立方程式なども基本的な問題は解けるようになった。

 

当初、練習問題自体は小学校のものを使用していたが、説明の仕方は微妙に小学校のものとは変えたりする場合もあった。多少間違いもあったが、後で本人が見たらすぐわかるようなケアレスミスがほとんどで、彼女が数学につまずき、それがここまで放置されていたこと自体が不思議なくらいだった。その時点では中学校での数学の授業は少し辛かったかも知れない。しかし、塾の数学の時間を苦にしている様子は見えなかったし、時にはプリントを家でやってきたりするなど、学習意欲も高かった。

 

このようなJの様子を思い出してみると、あらためて「学力」って何だろう? と考えてしまう。分数計算や割り算の筆算が出来るようになることは確かに大事だが、それ以上にその意味を理解することが大切だし、学ぼうとする意識や意欲、学ぶ楽しさがより重要な意味を持つように思われる。

 

次に、日本語教室での事例について述べよう。これも少し前のことだが、週に一度、日本の方と結婚しているフィリピン人のLさんとAさんに、国際交流協会の日本語教室でボランティアの講師として日本語を教えることになった。昼間の日本語教室については、それ以前にもカナダ人や韓国人の方に教えていたのだが、彼らが引っ越して日中の時間の希望者がいなくなったので、一時期休んでいた。が、2人が夜間よりも日中の時間の方が都合が良いということで、再開することになったのである。

 

2人の日本語能力だが、2人ともごくごく基本的なある程度の日常会話はできた。

が、例えば数字の変化(ひとつ・いち・いっこ・いっぷん・など)はかなりあやふやだったし、特にLさんについてはひらがなも読めなかった。だから、テキストをゆっくり進みながら(当初は1ヶ月で4ページ)ひらがなの練習もしていった。これは、ひらがなの読み書きが出来るようになれば、生活の上でも今までよりも便利になるし、日本語教室の授業自体もテキストにそって進められるという判断からである。

 

が、もちろん同じ文字を何度も練習するような形は取らず、しりとりのような形式で言葉を増やす工夫をしたり、本人の名前や住所、家族の名前を書きながら少しずつ使うことで覚えていくという方法などいろいろと工夫しながら進めていった。フィリピン人であるため、英語の説明が可能だったので、日常的な語句の説明は、単語の置き換えや和文英訳などをして発音をしながら進めた。やがてLさんもいくつかのひらがなは書けるようになり、時々乱入してくる2人の子ども(YちゃんとKくん)も日本文の題材にしたりしながら、和気あいあいと授業を進めていった。日本語の授業は基本的にとても楽しそうに参加しており、時間をかけて少しずつ力をつけていった。

 

そして、この例でも考える。「学力」って何だろう? と。

 

彼女たちにとって、かなり日本語が上達した今でも、その習得は本当に切実な問題である。が、小さな子どもたちをかかえ、まったく文法体系も文字も異なる日本語の勉強をするのは本当に大変である。しかし、子どもたちが小学校に通う時点で、一緒に低学年の国語の教科書ぐらいは読めるようになって欲しいと考えていた。それは、彼女たちにとって生活を営む上で母親として意味のあることだと思ったからである。

 

卒業論文で夜間中学に通っていた頃、生きる力としての「学力」について考えた。

いま、日本人以外の人々との交流の中で、あの頃とは異なる実感に支えられながら、《学力》について考え続けている。そこには、「学校」の枠だけで考えてはいけない何かがある。そのことだけは分かっているが、現時点ではまだその先が明確にはなっていない。時間をかけて取り組んでいければ……と思う。

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2006年10月14日 (土)

「時間通り」の怖さ

外国人と関わっていると、必ずしも「時間通り」にものごとが進まない場合がある。日本的な感覚では、少しでも時間がずれてしまうと違和感を覚えるが、そうした「日本的な感覚」から少し距離を置いてみると、「時間通り」という「常識」は現代日本の特殊な文化的感覚に過ぎない、という事実が見えてくる。

確かに、あらゆることが「時間通り」に進むと大変便利で効率が良い。細かいところまで予定が立てられ、仕事にしろ日常生活にしろ、「効率よく」進めていくことが出来る。

けれども、そうした感覚が「幸福」につながっているだろうか。一週間ほど外国旅行をした時、時間単位で予定が決まっていて次々に仕事をこなしている「日常」から自由になり、まったく予定のない1日をぼんやりと過ごす「楽しさ」や「面白さ」を経験した。経験してみると、それまで「常識」であった「時間通り」という感覚が現代日本の特殊な「感覚」に過ぎないことを実感できた。そして、時間に追われる生活は、非常に慌しくて精神的に余裕を失ってしまいかねないものであることも……。

「時間通り」に進むことは、確かに便利である。けれども、それによって失われているものがあることを私たち日本人は意識する必要があるのではないだろうか。それを知ることで、自分の世界認識が少し広がっていくように思う。

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2006年10月13日 (金)

異文化交流としての恋愛・結婚

バツイチの結婚相手が実は外国人だったこともあり、結婚生活というのは、つくづく、異文化交流だなぁ、と思う。けれども、別に相手が外国人でなくても、そして恋愛関係であっても、それは同じではないかと最近では思っている。

例え、相手が同じ国、地方の人間だったとしても、生まれ育った家庭やそれまで生きてきた経験はそれぞれ違う。だから、一緒に過ごす時間を長くしようとすれば、それぞれが生まれ育った文化・生活経験がぶつかるところが少なからず存在しているのである。

もちろん、それほど関係が深まらない間はお互いに猫をかぶりつつ相手の様子を探り合っている。だから、好意を持つ相手ほど自分から譲って波風を立てないように努力するだろうし、相手に合わすことで「優しい人」だと思わせようとする部分もある。

けれども、関係が深まり、お互いのことが分かってくると、当然、ちょっとしたことで波風が立つようになる。それはお互いに自己主張をし始めるという部分と安心して甘え始めるという部分があるのではないかと思う。そうした場合の「波風」は1つひとつが異文化戦争の色合いすら帯びる。「うちはこうだった」「私はいつもこうしている」などなど……。

けれども、本当に相手のことを考えれば、けっこう「譲れる」ことは多い。けれども、譲ってばかりではこちらが消耗するので、自分が大切にしている部分に関してはまず理解してもらい、その上で譲ってもらいたい、と誰もが思うだろう。それらのバランスの上で新しいものも生まれる。それが2人で創造するオリジナルのものとなっていくのなら、そうした恋愛や結婚は楽しいものになるだろうし、また幸せなものとなるだろう。

良い結婚はこの先できるかどうかは分からないが、良い恋愛はこれからもしていきたいものである。

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2006年10月12日 (木)

ロック・ランザを再び

グレン・フィディックと出会ってからすっかりシングル・モルト党になってしまったが、それでも、時にはブレンデッド・モルトも飲む。サントリー・リザーブやバランタインなどは、頂き物だからということもあり、しばらく飲み続けていた。日本で有名なスコッチ・ウイスキーは、カティー・サークにしろ、ホワイト・ホースにしろジョニー・ウォーカーにしろシーバス・リーガルにしろほとんどブレンデッド・モルトだが、もちろんそれほど有名ではないものもある。その中で、けっこう美味しいのがロック・ランザである。

アラン島のモルトで作られたこのウイスキーを手に取ったのは数年以上前のことになる。その鮮やかな瓶の青に惹かれて試しに買ってみたのだが、これがなかなか美味しかった。割と軽い口当たりで、あまり考えずに楽しめる。値段もそれほど高くなく、それから立て続けに数本買ったものである。

ところが、ここ数年はお目にかかっていない。最近は忙しくて、ウイスキーを探すだけの時間すらも取れないので、ついつい手近な店で買ってしまうこともその要因なのだが、あの青い箱とボトル、そして軽く楽しめる飲み心地はけっこう捨てがたい。戸棚の奥に残っていた空箱を見ながら、またの再会を願っている秋の夜のひととき…。ロックグラスの中で揺れる淡い琥珀色が、今宵の夢に出てくるかもしれない。

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2006年10月11日 (水)

まだ半そでで…

10月に入ってかなり涼しくなったと思ったら、また日中暑くなったりする。深夜や早朝はけっこう寒いのだが、日中のことを考えると着る服の選択が難しい。結局今日は、半そでのカッターにネクタイをつけて、長袖のブレザーを着ていった。10時過ぎにはブレザーを脱いで、ちょうど良い加減だった。

しかし、考えてみると、子どもの頃の10月はもっと寒かったように思う。衣替えで学生服を着ていくようになってもそれ程暑くはなく、中のカッターはもちろん長袖だった。それを考えると、地球の温暖化は確実に進んでいるのだなあ、と実感してしまう。

人間は地球環境に甘え、環境を破壊し続けてここまで来た。「地球にやさしく」などというキャッチフレーズを聞くと、「環境」とは言っても「人類が生存できる環境」であり、もし人類が滅亡してしまったとしても、多分、地球は存在するのではないかと思う。それを考えれば「地球にやさしくする」など、ひどく不遜な考えではないか。

そんなことを考えながらブレザーを脱ぐ。半そでだと少し寒いかもしれない。風邪を引かないように気をつけなければ……。

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2006年10月10日 (火)

自立ということ…

最近の日本社会は、付和雷同の傾向が強くなっているように感じられる。これは、自分自身をきちんと精神的に確立していない人間が増えている、と云うことから来るのではないだろうか。その意味で、自立や自己主張の必要性を叫びながらも、それに反する押し付け行為が行われているからこそ、精神的に自立できず声の大きい人の言うことを何も考えずに繰り返すことを「自己主張」と勘違いしている人間が増えているのではないか、と思われる。

まず、自分というものを確立することは確かに大事だが、そのためには土台となる知識や判断力が必要であり、それをもとにじっくりと考えることが次のステップとして大切である。けれども、考えるだけでは不十分で、その考えを真摯に表現し、また自分の行動を通して確認してみることも重要となってくる。そうした積み重ねと、その過程の中での他者との関わりにおいて「自分」というものが次第に形成されてくるのではないか、と思われる。

ところが、考えることや自分の考えや言葉に基づいて行動することを疎かにしている人々が多い。それなりに責任のある立場の人々、権力を持った大人たちでもそうである。つまり、責任ある立場にいても、それなりに権力を持っていても、自立している人間は思いのほか少ないようなのである。

自立していない人間にとって、本当に自立している人間の存在は邪魔で、また怖くもある。自分の弱さや虚偽性を見透かされてしまうからであろう。だから、実力も伴わないくせに高圧的にでたり、その身にそぐわない権力を使って他者の批判を押しつぶし、小さな自分の考えや判断の枠内にその言動を押し込めてしまおうとする。そういう大人が、本当にイヤになるほど増え続けているように思われる。

だから、まず自立を促したい。たとえ苦しくても、実際に苦労して自分の頭で考えることを進めたい。そして、自分の言葉に責任を持つことを……。もちろん、私自身、それがきちんとできている訳ではない。けれども、なるべく多くの時間それが出来るように……と心がけている。そして、それを理解し、共に努力をしてくれる仲間や友人もいる。そういう輪を、少しでも広げて生きたいものである。

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2006年10月 9日 (月)

北朝鮮の核実験

夕方のニュース報道で北朝鮮の核実験を知った。各国の反発の中で強行した核実験だが、当然、周辺諸国をはじめ世界各国の非難が集中し、「制裁措置」もより厳しくなることは予想できるので、国として、軍のとしてのメンツを保つということ以外にメリットはないように思われる。そうした点から考えれば、政府の権力による押さえが効かなくなり、一部が暴走を始めているのではないか、という推論もできる。とすれば、現政権の崩壊は近いかもしれない。

今の状態では、北朝鮮に自国のメンツをそれなりに維持しつつ事態を打開する選択肢は極めて乏しいように思われる。とすれば、軍などのそれなりに力を持った側からすれば、クーデターをおこして金政権にすべての責任を押し付けて政権を握り、その上で周辺国や他国に対して多少なりとも妥協しながら新政権への承認と支持を得る、という選択は悪いものではない。そして、そうした展開は、アメリカや中国などにとっても面子が立つし、路線の変更を促しやすいメリットもありそうである。

ただ、その流れの中で、北朝鮮に住む人々が本当の意味で開放され幸福になれるか、という点では大いに疑問が残る。この流れからすれば、各国の制裁措置は強化されることはあっても緩むことは考えられない。ただ、その際に最も大きな打撃を受けるのは北朝鮮に住む一般の人々の生活であり、生存権である。普通の人々への打撃が最小限に抑えられるような展開になって欲しいと思うのだが……。

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2006年10月 8日 (日)

手作業のおもしろさ

昨日、教育研究会の実技講座で身近にあるものを使って綿菓子作りをした。準備したものは、ジンジャー・エルの小さなアルミ缶、自転車のスポーク、百円ショップで手に入れられる手持ちのファン(扇風機)、アルコールランプ、作る作業の時に下にしく紙と飛び散り過ぎないように周りを囲む厚紙、それに綿菓子の原料となるざら目の砂糖である。

参加者は学生、小学校の先生など大人ばかりだったが、1つひとつの肯定にとても良い顔をして集中し、実際に綿菓子を作る段にはキャーキャーと大騒ぎ(参加者の3分の2は女性だった)になった。一応、原理を学習するということになると、物質の気化やアモルファスの問題になってくるが、楽しい作業を通じてとなると非常に意欲的に聞こうとする。本来の教育の場において、もっともっとあっても良い姿だろう。

しかし、現場では押し付け構造が大流行である。学校現場の忙しさ(まじめに取り組んでいる先生方は、仕事のために遅くまで残ったり、家庭訪問を繰り返したり、仕事を家に持っていったり、と本当に忙しい。そして、私の周囲で見かけるのは、まじめな先生が圧倒的に多い。)の中で、教育現場を知らない企業のトップや官僚・政治家たちが自分たちの利害のための「教育」を推し進めた結果の教育荒廃の責任をとらず、押し付けをさらに強化しようとしている。「教育基本法の改正」などの動きは、その最たるものである。

国家の将来を支えるための教育に必要なのは、押し付けではなく、実際に作業したり集中したり考えたりする豊かな時間であり、それを支える豊かな環境である。

例えば、綿菓子作りなども、大学生や大人でも夢中になる手作業であり、それと絡ませながら最新のアモルファスの理論などの学習につなげていけば、確実に個々の学力は向上する。先進国で唯一25人学級を実現できない恥さらしな教育行政は、その事実を隠蔽するための「日の丸・君が代の強制」や「教育基本法の改正」などの前に、教育環境を整える条件整備をきちんとするべきだろう。金を出さずに「現場」を知らぬまま口だけ出して、も教育の荒廃は止められない。「教育審議会」のすべての委員は、荒れた学校で一ヶ月、自分の「指導」がきちんと児童・生徒を変える力を持っていることを実証してから発言するべきだろう。実績のない空虚な権威に支えられているだけの無責任な発言は、教育の荒廃に拍車をかけるだけである。

少し話が逸れてしまったようだ。個人的な体験や全国研究会での報告なども含めて検証すれば、今回の例ばかりでなく手作業の教育効果は非常に大きい。そうした時間を取れるだけの教育環境を学校現場の中で整えていく努力が、大人の責任として必要だと思う。

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2006年10月 7日 (土)

ぶたないで

大阪のシャンソン歌手、北岡樹さんに作詞をして提供した「ぶたないで」という歌がある。幼児虐待をテーマにした歌詞になっているのだが、最近また幼児虐待のニュースを多く見かける…ということで、シングル・カットをしようと考えているそうである。

抵抗できない幼児に対する虐待は大人として怒りを感じるが、背景には虐待する親の側の孤立と無知の問題が横たわっている。つまり、昔は家族・親戚・地域が役割をそれなりに分担していた子育てに対する若い親へのサポート体制が崩壊していて、代わりになる新たなサポート体制が構築しきれていないことにもよる。その意味で、当事者ばかりを責めても問題の解決にはならず、社会を構成する大人たち1人ひとりがこの問題にどう取り組んでいくか、自分として何ができるのか、政治に対して何を求めなければいけないのか……といったことを考え、行動していかなければ問題の解決には向かわない。

親が、子どもにきちんと関わっていられる充分な時間があるのか。これは家計の収入と労働時間の問題でもある。安い賃金で長時間働かせようとする企業の姿勢は、親が子どもと関わる時間を奪う意味において幼児虐待を助長している、とも言える。

親が悩んでいるときに、安心して相談できる場があるのか。実は、親の世代でもけっこうコミュニケーション能力に自信を持てない人は少なくない。そのため、1人で抱え込んで、どうにもならなくなって暴走してしまうこともある。本人が周囲にSOSを発信しそれを受け止めてもらえる場があれば良いが、最初の声かけにもためらう若い人たちはけっこういる。そういった際には、こちらから声をかけてあげられる心の余裕も必要である。

子どもたちのことは私たちの未来、この国の未来にも関わる。安心して子どもたちが育つことのできる社会、若い母親が安心して子どもを産める社会にしていければ…と思う。

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2006年10月 6日 (金)

成熟の豊かさ

最近の日本を見ていると、「老い」や「成熟」に対する価値を正当に評価せず、過度に「若さ」におもねっているような風潮を感じられる。確かに、若いということは良い事だが、歳を重ねるということの良さもまた、それに劣らない。

そういったポリシーから、子どもたちとの会話で年齢をたずねられると、たいてい「800歳」と答えている。周りで時々見かける、自分の年齢よりも若く見られようとする……という意識(無意識?)には同調したくないからである。

けれども、周囲を見渡すと、特に女性を中心に「若く見られたい」という意識を強く感じる。本人たちはそう思っているかも知れないが、実際に接していると、それなりに年齢を重ね経験を積んでいる方が魅力的に感じられる。酒を飲んでいる時などにそういった話題になると「あまり若くてもねえ…やっぱり30を過ぎないと」などと口にしたりする。相手との会話を楽しめるのは、こちらがかなり話題を合わせてやる必要がある20代以下よりも、あまり気を使わなくてもすみ微妙な会話のやり取りもできる30代以上が圧倒的に多い。

そういう意味で、日本社会は、もっともっと成熟の豊かさを認め、歳を重ねることに敬意を払っていいと思う。自分が小さいころの大人にはかなわないかもしれないが、年齢に応じた成熟の仕方というものがあるのではないだろうか。ステキな歳のとり方をしていきたいものである。

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2006年10月 5日 (木)

選挙の不平等

最高裁が5倍もの格差を容認する判断をしたというニュースを新聞で読んだ。憲法の番人という役割を自ら放棄するに等しい行為である。裁判官たちはそれでも困らないかもしれないが、国民は迷惑だし、また、日本という国への信頼感を一層低下させることにもつながろう。「愛国心」を押し付けたくなる構図である。

アメリカの独立に関わって「代表なければ課税なし」というスローガンがあったように記憶している。それで言えば、格差が5倍なら国税はすべて5分の1にすべきだろう。とても恥ずかしくて「民主主義国」や「先進国」を自認できない呆れた話である。

こうした不平等が生じるのは、自らの利害に関わることを国会議員が決められる不誠実な制度を容認していて、改善する「愛国心」や気概を当事者である議員諸氏が持っていないからである。気概を持ち、恥を知る、日本の伝統を身につけた国会議員が多数を占めるならば、当然、定数については外部の有識者を集めた会議を国税調査の後ごとに招集し、そこで定数是正を決定するような制度改革を行っても何も不思議ではない。そうした人材が国会議員諸氏の中には決定的に不足しているということなのだろう。

けれども、国会議員が自分たちの声を代弁してくれないと感じ、政治に絶望していて、しかも生活が苦しくなれば、社会の空気は悪化し、治安が悪くなったり、テロがおこったりする危険が増大していく。戦前のテロもそうだった。歴史に学ぶ姿勢を持たない現在の政治家諸氏は、そうした危機感すら持っていないのかもしれない。

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2006年10月 4日 (水)

鬼への想い

今、鬼が主人公の童話を連載している【まい・ぺん・らい】(http://maipenrai.noblog.net/)のアクセス数が今日の時点で5,000を越えた。特に、この一週間くらいはアクセスも多いので、この童話がけっこう好評なのかも知れない。

が、この作品に限らず、詩や他の童話でも鬼を扱った作品はけっこうある。文学に関わっていく中で、その異質性・異形性に心惹かれるものがあるからだ。本を読むだけでは飽き足らず、詩や童話や小説を書き始めて20年ほど経つが、その過程で感性が磨かれて、少し他の人と違って視点を持てたり、他の人が気づかないことに目がいったりするようになってきた。これも、1つの異質性である。

だから、いろいろな集団の中で活動しているが、基本的に異質であること、周辺部にいることができる場合は、けっこう居心地が良かったりする。そして、異質性を許容できる深さを持つ集団は信頼できるし、安心もできる。そうした自分自身の感覚が、鬼への想いを生み出しているのかもしれない。

が、最近、周りを見回してみると、異質な存在に対してすぐに排除の方向に走りたがる傾向が強まっているように感じられる。それは、そうした集団の余裕のなさや力量不足、暴走の危険性を見るバロメーターになるのだが、当然、当事者たちはそれに気づかない。例えば、日本の社会……。とても、危険な兆候だと思う。

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2006年10月 3日 (火)

壁から逃げないで…

生きていると、いろいろな「壁」につきあたる。個人的には、離婚などもその1つである。けれども、大切なことは、問題から目をそらさずにきちんとそれに向き合うことであろう。

きょう、久しぶりに読書会のメンバーと昼食をとっていたが、そんなことがいろいろと話された。子育てを終えて子どもたちが自立している人も多く、中には、ご主人が定年退職をされたような方もみえるのだが、それぞれの経験なども交えながら、そんな話をしていた。

とは言っても、「壁」を越える力がまだまだ身についていない場合は、その瞬間に限っては「逃げる」というのもアリだと思っている。ただ、その際に大事なのは、「今の時点で自分は逃げた」ということをきちんと意識しておくことであろう。メンバーの1人も、「逃げると、問題がもっと大きくなってまた返ってくる」と言っていた。同感である。だから、「逃げる」自分から目を背け、ごまかそうとするのは最悪の対応である…ということになる。問題を意識し、力が足りないことを認識して逃げるのであれば、力を蓄える努力につながり、次のチャレンジができる。そういう意識が大切なのである。

「それは、ちゃんと問題を見つめることで、本当の意味で逃げることではない」というような発言をしたメンバーもいた。1人ひとり、それなりの山や谷を経験してきた上での発言には実感がこもっていて、言葉そのものも重い。

自分としても、そういう意識を持ち続けていたいと思う。

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2006年10月 2日 (月)

なぜ外需に頼るのか?

ここしばらく、景気は上向きとの報道が繰り返されているが、地方の一般の人々の間にはそれほどの実感はない。パートやアルバイトなどの非正規労働者の割合が増え続けており、一部の人々を除けば、一般の家庭の収入はそれ程増加していない。逆に、収入が減少したり、貯蓄がなくなったりしている家庭が増加しているからである。

このような状況では、内需の拡大は見込めない。賃金の上昇を抑制し、低所得の人々からの税金を上げるような政策が続けば、内需は相変わらず冷え込んだままとなり、それに関連する中小の企業の経営は苦しいままであろう。

内需が見込めないとなると、企業活動としてはそれでも儲けを出さなければいけないので、外需に頼ることになる。そこで「国際競争」を名目に賃金を抑制することになるのだが、外需を求めて輸出を拡大し続ければ、相手国の産業構造の発展に歪みを生じさせ、大量の失業者・移住労働者を生み出すことになる。

こうした状況の中で「勝ち組」は全世界レベルで富を集中させていくことになるが、それは結果として貧困を増大させて不満や怨念を蓄積し、共感や対話に絶望した人々を暴力的行為や自暴自棄的な行動に走らせる。それによる世界や国内の不安定化に対処するためのコストを考えると、この一連の流れは経済的に非効率になる。またその際の環境破壊に対するコストも考えれば、その非効率と高負担はいっそう著しい。以上のことから、外需への依存のマイナス面はけっこう大きいと考えられる。

とすれば、内需拡大をもっともっと真剣に取り組む必要が出てくる。「地産地消」という運動は、まさしくこの内需拡大の流れにそったものである。地域の産業活動によって生まれたものを地域で消費することで地域の企業に資金が還流する。それは、地域の労働者の生活の安定と購買力の安定につながっていく。地域で生活ができるようになれば、一極集中や過疎の弊害は軽減され、環境の保護にもプラスになる。

少し考えれば、この程度のことは容易に分かると思うのだが「国際競争力の維持」という煽り文句によって「外需依存」「内需軽視」の構造が隠蔽されて久しい。地域のレベルでも国のレベルでも、そしてグローバルなレベルでも「地産地消」すなわち「内需」の意味をもっと丁寧に再検討する必要があるのではないだろうか。

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2006年10月 1日 (日)

少しばかり病的?

喫煙に続いて、飲酒運転の取締りが厳しくなった。もちろん、飲酒して泥酔のまま運転し、事故を起こしてひき逃げをするような連中を擁護するつもりはまったくない。けれども、「あれ?」と思ったのは、数時間仮眠をして運転し、取締りの際に「酒気帯び」で捕まったような事例である。本人としては、仮眠をして酔いをさましたつもりだったのが、完全に抜けていなかった……という事なのだろう。

本人の意識という事で、判断は微妙かも知れないが、明らかに泥酔ではないだろうし、それなりに判断力も戻っている状態でも「検査」にひっかかるのであれば、その危険性はどの程度なのだろうか。

今回の、取締りや報道において、発想そのものが都市部の最終電車の時間やタクシーの深夜営業、代行運転の充実など条件が整っている都会の現実を一律に当てはめていないか、という点が少し気になる。もし、そうしたケアの条件があまり整っていない地方で同様の取締りをすれば、多くのスナックや居酒屋などの経営が苦しくなるだろう。当然、そういうところで働いていた人たちが職を失うことになるが、「景気回復」の恩恵をほとんど受けていないような地方で、代わりの職が見つかるだろうか。多分、難しいだろう。

この一連の動きは、禁煙の広がりともイメージが重なる。父がヘビー・スモーカーだった反動でタバコは吸っていないが、あらゆる公共施設や多くの飲食店で【禁煙】が広がり続けるのは、やり過ぎのように感じられる。もちろん、歩きタバコや吸殻のポイ捨てなど、最低限のマナーすら守らない喫煙者を擁護するつもりはないが、社会的なマナーを守って吸っている人々に対するバッシングは、常識の範囲を超えているように感じてしまうのは私だけだろうか。

何か、日本社会が、妙に息苦しくなっているように思われる。例えば、「健康」は大切なことだが、過度に身体の「健康」を気にしていると精神的にストレスがたまり、返って精神衛生に良くない場合が少なからずある。今の日本の社会には、妙に「良い事」に対する強迫観念が強くなっているように感じられる。

江戸時代の狂歌に「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼恋しき」というものがあった。「正しい」ことばかりでは、人間も社会もおかしくなる。というよりも、安易な「正しさ」はナチス時代のドイツが「健康・健全」を過度にアピールしていた例もあり、暴走をすると返って大切なものを失うことにもつながりかねない。もう少し、いろいろな視点からものごとを考えてみる必要がありそうな気がする。

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