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2006年10月31日 (火)

過剰管理の心的背景

日本の社会が息苦しくなっている。理由は、過剰な管理が広がり続けているからである。その結果、あちこちでゆとりがなくなり、短期的にはともかく、長期的には独創性や突発的なことに対する対応能力が低下し、返って能率すらも損なわれてしまう場合まで出てきている。

なぜ、これ程までに「管理」が必要なのだろうか。それは、現場に対する信頼や管理する側の新しいことに対する理解能力や許容能力、そしてリスクに対する責任感を充分に持ちえていないまま管理する側になってしまっている人々が増えているからではないだろうか。つまり、上に立つ側の人間的な力も含めた統率力が弱くなり、その能力不足を過剰管理によってごまかそうとしているからではないかと思われる。

充分な能力もないまま上の立場(管理する立場)に立っている者にとって、管理を強化することによって自由な発想や新しい積極的な行動を制限し自らの理解能力の範囲でものごとに対処するのは楽である。それは、自分を変える必要がないからである。

加えて、「管理」さえしていれば、「自分は仕事をしている」「努力はした」という言い訳はそれなりに外部に対しては通用する。集団そのものが崩壊しない限り、「言い逃れ」や「責任回避」といったごまかしが通用することも少なくないのである。その結果、集団が著しい被害や損害を被ったとしても、本来は責任をとらなければならないはずの人たちが生き残り、問題を隠蔽したまま流れていく。個人にとっては、とても良い話である。

けれども、それは集団全体にとってはマイナスである。管理する側の理解能力を超える新しい発想や活動が制限されてしまう結果、新しい芽がたくさん潰されてしまい、発展の可能性が小さくなってしまうからである。そして社会や周囲の変化が管理する側の理解能力を越えるほどに進んでしまえば、集団そのものが社会や周囲に対応できなくなって潰れてしまう。上に立つ者の姿勢が集団そのものを崩壊に導くことにもつながりかねないのである。

その意味で、管理の過剰な集団は危険である。身近にある周りの集団については、とりあえずは「大丈夫かな…」という気はしている。けれども、【日本】という集団はどうだろうか……。

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コメント

「能力に応じて」ということは、よくいわれるわりに生かされないですよね。むしろ既存の秩序を守ろうという力のほうが強いです。
 ある会社で、エスカレーター式ならぬ「エレベーター式」というのがあると聞きました。「年功序列」によくありがちな「よほどのことがないかぎり降格はない」でなく、常に上下のどちらにも動き得る制度だそうです。これが現在社員でない人との壁が撤廃されるまでになれば、雇用問題はけっこう改善されるんじゃないでしょうか。雇用そのものよりも生活のほうがより守られるべきでしょうから。前提として、憲法25条が実質的に守られることと、雇用にあたっての基準が客観化されることは最低限必要ですが・・・。

投稿: かじか | 2006年11月 2日 (木) 16時32分

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