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2006年10月15日 (日)

生活者としての「学力」

「学力」について考える際、私たちには様々なアプローチの仕方がある。それは、東京大学の佐藤学が指摘するように、「学力」という言葉が情緒的に、あるいは多様なイメージで語られているからであり、同じ場で議論しながらも、話し手の使う「学力」という言葉のイメージが微妙にずれているためである。従って、学問的に整理するならば、厳密にその言葉の意味を定義した上で論を進めることが望ましい。しかし、それを意識してしまうと「学力」について私が語ろうとする思いに無意識的に制限が加えられる恐れがあるので、この場ではそこまで厳密に取り扱わず、私の思いを述べることを優先したい。

私は、ボランティアの日本語教室や塾などの場において外国の人たちに教えた経験があり、その一部は現在も続いている。そこから得る実感を手がかりにしながら「学力」について考えてみたい。

 

まず、塾について。少し前に私の塾にJというブラジル人の女の子が通っていた。日本語の会話と読み書きは普通の日本人の子どもたちと同じようにできたが、特に数学が悪かった。分数の計算と割り算の筆算が出来ず、当然、中学の数学も苦労していた。そこで、そうした点も含めて対応できる私の塾に通い始めたのである。2カ月近くのやり取りの中で、日本では当たり前となっている掛け算九九を彼女は書いて覚えたということや、基本的な理解力はあるし数学のセンスも良さそうなので、少しずつ丁寧に学習を積み上げていけば年度末ぐらいには中1の数学ぐらいには進めることなどを本人に話し、本人もそのつもりで学習に取り組み、やがては連立方程式なども基本的な問題は解けるようになった。

 

当初、練習問題自体は小学校のものを使用していたが、説明の仕方は微妙に小学校のものとは変えたりする場合もあった。多少間違いもあったが、後で本人が見たらすぐわかるようなケアレスミスがほとんどで、彼女が数学につまずき、それがここまで放置されていたこと自体が不思議なくらいだった。その時点では中学校での数学の授業は少し辛かったかも知れない。しかし、塾の数学の時間を苦にしている様子は見えなかったし、時にはプリントを家でやってきたりするなど、学習意欲も高かった。

 

このようなJの様子を思い出してみると、あらためて「学力」って何だろう? と考えてしまう。分数計算や割り算の筆算が出来るようになることは確かに大事だが、それ以上にその意味を理解することが大切だし、学ぼうとする意識や意欲、学ぶ楽しさがより重要な意味を持つように思われる。

 

次に、日本語教室での事例について述べよう。これも少し前のことだが、週に一度、日本の方と結婚しているフィリピン人のLさんとAさんに、国際交流協会の日本語教室でボランティアの講師として日本語を教えることになった。昼間の日本語教室については、それ以前にもカナダ人や韓国人の方に教えていたのだが、彼らが引っ越して日中の時間の希望者がいなくなったので、一時期休んでいた。が、2人が夜間よりも日中の時間の方が都合が良いということで、再開することになったのである。

 

2人の日本語能力だが、2人ともごくごく基本的なある程度の日常会話はできた。

が、例えば数字の変化(ひとつ・いち・いっこ・いっぷん・など)はかなりあやふやだったし、特にLさんについてはひらがなも読めなかった。だから、テキストをゆっくり進みながら(当初は1ヶ月で4ページ)ひらがなの練習もしていった。これは、ひらがなの読み書きが出来るようになれば、生活の上でも今までよりも便利になるし、日本語教室の授業自体もテキストにそって進められるという判断からである。

 

が、もちろん同じ文字を何度も練習するような形は取らず、しりとりのような形式で言葉を増やす工夫をしたり、本人の名前や住所、家族の名前を書きながら少しずつ使うことで覚えていくという方法などいろいろと工夫しながら進めていった。フィリピン人であるため、英語の説明が可能だったので、日常的な語句の説明は、単語の置き換えや和文英訳などをして発音をしながら進めた。やがてLさんもいくつかのひらがなは書けるようになり、時々乱入してくる2人の子ども(YちゃんとKくん)も日本文の題材にしたりしながら、和気あいあいと授業を進めていった。日本語の授業は基本的にとても楽しそうに参加しており、時間をかけて少しずつ力をつけていった。

 

そして、この例でも考える。「学力」って何だろう? と。

 

彼女たちにとって、かなり日本語が上達した今でも、その習得は本当に切実な問題である。が、小さな子どもたちをかかえ、まったく文法体系も文字も異なる日本語の勉強をするのは本当に大変である。しかし、子どもたちが小学校に通う時点で、一緒に低学年の国語の教科書ぐらいは読めるようになって欲しいと考えていた。それは、彼女たちにとって生活を営む上で母親として意味のあることだと思ったからである。

 

卒業論文で夜間中学に通っていた頃、生きる力としての「学力」について考えた。

いま、日本人以外の人々との交流の中で、あの頃とは異なる実感に支えられながら、《学力》について考え続けている。そこには、「学校」の枠だけで考えてはいけない何かがある。そのことだけは分かっているが、現時点ではまだその先が明確にはなっていない。時間をかけて取り組んでいければ……と思う。

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コメント

「学力」のイメージが異なることで教育が左右されるというのは当たっていると思います。
 いまのところ私は、読み書きそろばん(計算)のような実用的な面とは別にこんな目的があると思ってます。ひとつは、いろんな分野へのゲートウェイであること。例えば原子を学ぶと、細かいことは分からなくとも物質が化学的に変化するイメージを持てますよね。必要に応じてその先を学ぶ場合はその基礎にもなるのは当然といえば当然です。
 もうひとつ、自分が物事を自分なりに思考していく手段ではないかと。これは知識ともリンクしますが、それぞれの分野での考え方は、意外に思考のモデルになり得ます。特に数学は(例えば場合分けとか)その傾向が顕著です。
 目先で役に立たないから学ばないというのはとても愚かな考え方だと私は思っています。ただ、特に小学校でいえることですが、現行の多くの教育は知の世界へ楽しくいざなう工夫が足りないですし、自ら表現することも少ないです。それが、受け身な人間を生んでいるのではないでしょうか。

投稿: かじか | 2006年10月16日 (月) 02時01分

教育行政の貧困/与党の責任は大きいですね。日の丸・君が代の押し付けや守ってすらいない教育基本法改正の動きよりも、20人学級を実現して教員への過剰統制を修正すれば、犬山市の教育改革の例のように結構劇的に変わると思うのですがねえ。

生活への視点と、表現する過程への視点から「学力」そのものを洗い直すことが大切だと思ってます。

投稿: TAC | 2006年10月16日 (月) 02時21分

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