異文化交流としての恋愛・結婚
バツイチの結婚相手が実は外国人だったこともあり、結婚生活というのは、つくづく、異文化交流だなぁ、と思う。けれども、別に相手が外国人でなくても、そして恋愛関係であっても、それは同じではないかと最近では思っている。
例え、相手が同じ国、地方の人間だったとしても、生まれ育った家庭やそれまで生きてきた経験はそれぞれ違う。だから、一緒に過ごす時間を長くしようとすれば、それぞれが生まれ育った文化・生活経験がぶつかるところが少なからず存在しているのである。
もちろん、それほど関係が深まらない間はお互いに猫をかぶりつつ相手の様子を探り合っている。だから、好意を持つ相手ほど自分から譲って波風を立てないように努力するだろうし、相手に合わすことで「優しい人」だと思わせようとする部分もある。
けれども、関係が深まり、お互いのことが分かってくると、当然、ちょっとしたことで波風が立つようになる。それはお互いに自己主張をし始めるという部分と安心して甘え始めるという部分があるのではないかと思う。そうした場合の「波風」は1つひとつが異文化戦争の色合いすら帯びる。「うちはこうだった」「私はいつもこうしている」などなど……。
けれども、本当に相手のことを考えれば、けっこう「譲れる」ことは多い。けれども、譲ってばかりではこちらが消耗するので、自分が大切にしている部分に関してはまず理解してもらい、その上で譲ってもらいたい、と誰もが思うだろう。それらのバランスの上で新しいものも生まれる。それが2人で創造するオリジナルのものとなっていくのなら、そうした恋愛や結婚は楽しいものになるだろうし、また幸せなものとなるだろう。
良い結婚はこの先できるかどうかは分からないが、良い恋愛はこれからもしていきたいものである。
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コメント
私は結婚という制度に疑問を持っている一人です。それは、姓をどうするかに象徴されるように、一方が一方に従う形をとりがちだからです。
でも、異性との交流が異文化交流というのはよく分かります。昨今、「男性女性としてみる前にまず人間として」と主張する人がよくいますけど、人間としてみてるつもりが実は男性(女性)としてみていることだった、てなことだってあるに相違ありません。男脳・女脳ということもいわれるようになりましたし。ひどいときにはこのために男性が女性を精神的に縛ってしまうことだってあり得ます(結婚すればなおさら)。そういうリスクを考えず、安易に「人間として」と主張するようでは、ジェンダーからもかえって自由になれないと思うのですが、どうしてそういう意見が他で聞かれないのかが不思議です。
投稿: かじか | 2006年10月14日 (土) 01時14分
お越しいただきありがとうございます。制度としての結婚は、長く続いてきただけにそれなりの安定性はありますが、ある程度見えてしまっている人にとっては様々な矛盾を感じるものです。ただ、それなりに愛情を感じている関係であれば、お互いに甘えあい許しあう部分もあり(恋愛関係でもそうですが…)、それを意識した上でなら良い関係を作っていけるのではないかと思います。
ただ、それが一般の「制度としての結婚」とはずれるかもしれません。でも、関係として良ければ、別に良いのではないかと思います。「一般」とのずれは誰でも持っており、それでも一人ひとりは生きているのですから。
投稿: TAC | 2006年10月14日 (土) 11時26分