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2006年11月30日 (木)

「新世界より」を聞きながら

時々、クラッシック音楽を聞くことがある。我がCDコレクションの中でもそれなりのスペースを占めているクラッシック……。およそ100枚ほどあるクラッシックの中でも、最も多いのがドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」である。カラヤン、ジュリーニ、カール・べーム、ショルティー、ストコフスキー、小澤、メータなど20枚を越すコレクションの中でも、やはりチェコ・フィルの演奏が多い。ノイマンなどは録音年が異なるものまで持っている。その中でも、一番よく聞くのがアンチェルが指揮して1961年に演奏されたものである。

最初の出会いはご多分にもれず小学校で聞いた第2楽章である。それが、誰の演奏だったかも今では定かではない。高校時代にクラッシックが好きな友人がいて、その影響もあって聞き出したら、けっこう第4楽章が好きになった。やがて、指揮者や演奏者によってかなり感じが違うことが分かるようになり、その中でもチェコ・フィルの「新世界より」を聞くことが多くなった。中でも、カレル・アンチェル指揮のものは特に良く聴いている方だと思う。

どこがそんなに良いのかを言葉にするのは難しい。けれども、聞いていてしっくりくることが多いのが、アンチェルの「新世界より」である。もちろん、時にはケルテス指揮/ロンドン交響楽団の演奏を聴きたくなる事だってあるし、「今日は派手めのショルティーにしよう」という気分の日もある。それでも、落ち着いて聴こうと思うときにはアンチェル指揮の演奏が心のひだにすうっと入り込んでくる。

あくまでも好みの問題なので、それだからどうだ…という話ではない。ただ、時にはゆったりとクラッシックを楽しむ心のゆとりは持っていたいと思う。…今は結構忙しいのだが……。

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2006年11月29日 (水)

少子化対策としての雇用政策

心の相談に関わる交流会で、不登校・ひきこもり問題についての話題に触れた。家族の相談をする際、まず母親が相談に訪れることが多い。そして、父親も一緒に出てくるようになると、状況が良い方に動いてくる場合が少なくない。家族として一致して問題に関わることによって家族環境が大きく変わっていくからである。

このことは、逆に言えば、その時点までは家族として心を合わせて問題に取り組めない現実がそれなりにある…という事でもある。理由は簡単である。父親が忙しすぎるのだ。そして、バブルの崩壊と「グローバリズム」の進展の影響もあり、正規労働者の労働環境は悪化しているにも拘らず、家計の収入は悪化し、身を粉にして働かなければ生活がなりたたなくなっている家計が増加している。当然、父親は家族のために割けた筈の時間を削られ、場合によっては母親も家計を支えるために働かなければならない現実が生じる。家族、子どものために心配なく使える絶対的な時間が減少しているのである。

さらに、家計の収入の低下や伸び悩みの問題も大きい。「景気は回復した」と喧伝されているにも関わらず、多くの人々にとってその実感は乏しい。実際、生活保護や就学援助の申請は増加しているらしい。アメリカのワーキング・プア…本当に一生懸命働いても生活が成り立たない人々の増加の問題が報道されるのを時々見かけるが、同様の状況が日本にも生じている。

収入の不安と家族に関わることのできる時間の減少……。バブルの崩壊の中で賃金の上昇が抑制され、雇用の不安定化とパートやアルバイトなどの非正規労働者が増加した。家族のために使えるお金も時間も減少し続けている今の日本の現実……。これでは、安心して子どもを生み育てることは出来ない。

逆に言えば、家計の収入が増加し、家族に関われる時間を増やしていけるような労働環境を実現すれば、安心して子どもを生み、育てる環境が整うことになる。そのために必要なことは、パート・アルバイトも含めた労働者の収入の増加と雇用の安定を政策として進めることが必要である。実際に、オランダは、それに成功しているし、逆にアメリカは今回の選挙結果でも分かるように、今までのワーキング・プアを生み出し続けている政策の転換を国民からの要求と言う形で突きつけられている。

日本はどうか。変更を余儀なくされているアメリカのモデルをそのまま無反省に推し進めようとしているように見受けられるのは私の思い違いだろうか。少子化対策を本気で進めるつもりなら、家族・家計の立て直しこそが最重要課題である。そのためには、大企業中心の政策ではなく、別の道へと舵を切らなければならない。そうした視点から、雇用政策・労働政策を早急に検討しなおすことが必要だろう。

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2006年11月28日 (火)

いじめ…どうケアをするのか

いじめに関わる事件が連日報道されている。それぞれが、胸の痛む話ではあるが、こと子どもの問題については、大人の責任としてきちんとケアをする必要がある。そのことを少し考えてみよう。

まず、いじめられている側の子どもについてだが、まず何よりも早急に、その「いじめ」の現場から保護する必要がある。学校でいじめがあるなら、学校を休ませる…というのも1つの選択肢である。「現場」から引き離して保護し、落ち着かせるのである。

次に、いじめられ続けていると、自分の存在に対して自信を失い、「いても仕方がない」「生きていても仕方がない」などという自己否定感につながる思いに取り付かれてしまっている場合が少なくない。だから、周囲が、「あなたはかけがえのない存在なのだ」ということをきちんと伝え、自信を回復させていく手立てを取る必要がある。それも、早急に取り掛かることが要求される。けれども、いじめられている期間が長いほど、自信や自己肯定感を回復させるのは大変で、時間もかかる。けれども、愛情を持って辛抱強く接していくことが大切であろう。

それから、加害者のケアも大切である。1つは、いじめだと気づいていないケース……。遊びのつもりでからかい続けていることが「いじめ」になってしまっていると本人たちが気づいていない場合は、それを教える必要がある。友達関係の中でお互いにからかい合うのは時々見かけられることだが、それが一方向で続いてしまっている場合は「いじめ」になるのだと認識させなければならない。自分がからかい続けられる立場だったらどんな気持ちになるかをきちんと考えさせ、相手への共感を育てていく。同時に、からかい続けている背景には、何らかのストレスの発散である場合も少なくないので、その原因を見つめ直し、改善できることは改善していけるようにサポートしてあげることも必要であろう。

が、「いじめ」だと知っていながらやっている場合は、それでは済まない。場合によっては法的な介入も含めて、まず強制的に停止させる手立てが必要になる。ただ、子どもである以上そこまで精神的に荒廃してしまっている背景に目を向け、立ち直っていけるようなサポートも必要だろう。時には、心から信頼している人間が周囲にいないこともあるので、他者との関係作りや、その子の居場所作りから始めていかなければならないだろう。

もう1つ、周囲の子どもたちに対するケアも大事である。「いじめ」そのものを許さない雰囲気を作ることによって、関係は豊かになっていく。確かに、1人で行動を起こすのは大変かも知れない…ということは共感しつつ、それならば他の子どもたちと一緒になって「いじめ」を止めるアクションを起こせるようにする、という方向に導いていくことが大切だろう。具体的には、他者、特に止めてもらえそうな相手に事実を伝えることから始め、やがては、その「場」でも、「いじめ」を制止できる仲間や関係を育てていく……ということになろう。もちろん、時間をかけて丁寧にやっていかなければならない事だが、そのように努力することが大人としての責任だろう。

だが、こうした「いじめ」の背景には、大人の心の荒廃やゆとりの喪失、「いじめ」の蔓延が考えられる。実際に、そういう相談も受けた事があるし、ニュースなどでも職場での悪質な事例が報道されたりもしている。

自分自身が「いじめ」に関わっていないか、「いじめ」を許していないか……ということも大人自身がきちんと見つめ直し、自らの行動を修正し、社会を変えていく努力を続ける必要があるだろう。

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2006年11月27日 (月)

出現…モローの描くサロメ像

ギュスターヴ・モローは、もっとも好きな洋画家である。大学生の頃、県立美術館の「モローと象徴主義の画家たち」展で初めてその作品の実物に出会ったことが私の意識を一変させ、以来、何度となく美術館に通いつめ、いつしか画家や学芸員、版画家、陶芸家といった美術の関係者とも多少なりとも美術の話ができるようになった。

そのきっかけとなった一枚が、以前このblogに書いた「オイディプスとスフィンクス」という作品だが、もちろん、それ以外にも興味深い作品がモローにはある。その1つが、踊るサロメの前に処刑されたヨハネの首が浮いている「出現」という作品である。

もちろん、題材は「聖書」からとっているのだが、その関連作品として「ヘロデ王の前で踊るサロメ」という作品もあり、いずれも1876年にサロンに出品された作品とは異なる未完成のものも残されており、このモチーフに対するモローのこだわりがうかがえる。

描かれているサロメの肉体はふくよかでけっこうエロチックだが、その表情は、以前取り上げたスフィンクスの吸い込まれるような感じはない。サロメの年齢からしても、それほど深い考えや意思がないことが、そのサロメの表情によって描かれているのである。けれども、サロメのしたことは重い。無思慮・無分別であったとしても結果からすれば稀代の悪女…と言うべきだろう。

他にもモローはヘレネやデリダなどの「悪女」を作品の題材に取り上げている。女の持つ魔性(もちろん、男にとってと言う意味だが)は、芸術家の感性に響くものを持ち続けているからなのだろうか。その完成途上で放置された作品も含め、何度となく描かなければならなかったこだわりそのものに強く心をひかれている。

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2006年11月26日 (日)

ステップを刻んで

午後、何人かの人々と教育に関わる話をした。一度、大きくつまづいて動けなくなったときどうするか。最近は、よくある話である。まじめな性格だと、すべてを一気に取り戻そうと焦り、やらなければならないことの多さに途方にくれ、絶望してしまう…といった例も少なくない。けれども、そこで小さくステップを刻み、続けていけるようにサポートしてやると少しずつ進んでいきやすくなる。

これは何も勉強だけの話に限らない。そして、子どもたちだけではなく大人も同じである。怪我や病気で長く休んでしまった場合、取り戻さなければならない勉強の全量ばかりに注目してしまうと気力がなえてしまうかもしれない。が、とりあえず今出来そうなことから始め、毎日(あるいは毎週)きちんと続けていくことに意識を集中して努力を重ねていくと、しばらくして振り返れば、けっこうやれるようになった事実に気づいたりする。そこから自信も生まれてくるし、その自信に支えられてさらに努力も続けやすくなる。

まずは、ステップを刻もう。続かなければ、計画したステップが高すぎたということだから、少しステップを低くして、もう一度刻みなおしてみよう。当事者も、周りでサポートする人々もこう意識するだけで、少しずつ現実を変化させていくことが出来る。

最初、その変化は本当にわずかなものかもしれない。けれども、続けることで、時間を重ねることで変化は目に見えるようになってくる。そして、その過程で自信と実力も育っていく。信じて続けること…これが大切なのである。

まずは、続けられそうなステップをイメージし、それを少しずつ刻んでいこう。変化は、そこから生まれる。

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2006年11月25日 (土)

Birth…記憶の棘(とげ)

忙しい時間の合間を縫って、久しぶりに映画館に行った。ニコール・キッドマン主演のその映画は「Birth」邦題は「記憶の棘」である。2時間ほどの上映時間を、まったく時間のことを忘れて見入ってしまった。久しぶりの味わい深い時間であった。

再婚を間近にひかえたアナ(ニコール・キッドマン)の前に1人の少年が現れる。彼は、アナの死んだ夫であると主張し、二人しか知らない事実を次々に語り始める。彼は、本当に死んだ夫の生まれ変わりなのか…。最初はイタズラだと思っていたアナの心は揺れはじめ、やがて……。

作品のストリーを語るのはこの程度にしておきたいが、永遠の愛を信じたいと思う人はけっこう多いだろう。けれども、それがはかない夢や幻想であると現実の恋愛の中で嫌と言うほど思い知らされる人もまた、それに劣らずたくさんいるに違いない。それでも、永遠の愛を信じたい。私自身も、時々そう思うことがある。だが、諸行無常は世の習い。その一瞬は永遠と感じる想いも、時として移ろい、消えてしまうこともある。それでも、永遠を感じる一瞬は、真実の想いなのだろう。

そして、輪廻転生。もう一度生まれ変わって愛する人の前に…というのはいかにもご都合主義だが、相手への想いが強ければ強いほどそう願わずにいられない部分もあるだろう。仏教的な考え方から見れば、それは悪い意味での執着につながりかねない想いでもある。しかし、それも含めて人間の強さであり、また弱さでもあるのだと思う。

そうした強さと弱さを抱えながら、人は生きていく。どうすることも出来ない想い、そして、いやそれゆえにお互いを支えようとする愛がある。それを信じて生きていきたい…そんな気持ちになったひとときであった。

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2006年11月24日 (金)

誰が買えるの?

特に地方在住の一般の人々にとって、実感はほとんどないが、景気は順調に回復しているらしい。その割りには、労働者の賃金の上昇は鈍く、正規雇用の数もなかなか増えてこない。当然、一般家庭での収入は、大きく低下した不況期から十分に回復したとは言い切れず、商品やサービスの購買に回せるお金もそれ程大きくは伸びていない。景気の回復を実感できないのも当然である。

ところが、政府・与党は、一般国民の税負担をさらに上げることを考え、企業へは減税を考えているらしい。つまり、一般国民の購買力をさらに減らそうというのである。

景気の回復、拡大を力強いものにしようとするのであれば、内需の拡大は不可欠である。けれども、「国際競争力の維持」を口実に、正規雇用を減らし、労働者の賃金の上昇を抑え続けた結果、内需は力強い伸びを示していない。収入が減り、税負担が増えている以上、家計の選択としては支出を切り詰めざるを得ないのである。

収入が上昇すれば、それだけ買えるものやサービスが増える。そうなれば、商品やサービスが売れるようになるのでその関連企業が潤うようになる。それが、設備投資を呼び雇用拡大を促進させることにもつながる。結局、人を介在してモノやサービスやお金が動くことで経済が息を吹き返すのである。

ところが、銀行など一部の大企業の売り上げが伸びているのにそれを積極的に労働者や一般国民に還元する手立てが見えてこない。国民の税負担を増やし、企業には減税を…では、国内経済は萎縮するだけである。それでは、外需は本当にあてになるのか…というと、戦争やテロ、相手国の思惑など、国際情勢が不安定化する中、そのリスクはけっこう高い。加えて、売れるためには相手がそれなりに豊かであることも必要で、他国との経済力を比較してみれば、それなりに「買える」条件を持つ国は必ずしも多いとはいえないだろう。

そのように考えれば、普通の人々が安心して「買える」ということを、もっともっと大切にする必要があるのではないだろうか。安定した収入があれば、あるいは順調に収入が増えれば、人々の購買意欲は高まり、内需の拡大を呼ぶ。それは、景気を安定させ税収を増加させることにもつながる。経済・財政政策の転換が必要ではないだろうか。

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2006年11月23日 (木)

5000を越えて…

2006年6月中旬からこのブログを始めて5ヶ月あまり……。いつの間にか、このブログのアクセス数が5,000を越えていた。付き合っていただいている皆様に感謝している。

ただ、本来であれば、文学や音楽、芸術、映画などの記事やウイスキーのことだけを書いて戯れていたいのだが、世の中の動きが気にかかり、政治や経済、教育などを書かなければ…という気になってしまう。そして、振り返ってみるともっと書いていたはずのモローのことや文学・言葉の関係記事、そしてウイスキーや音楽の記事もそれ程多くない。予定は未定でしばしば変更することがある・・・というのは父の口癖の1つだが、まさしくその通りである。

ただ、それはそれとして結構、様々な記事にアクセスをしてくれたり、まじめにコメントをしてくれたりしてくれる方の存在はとてもうれしいし、またありがたい。それに、トラック・バックをたどってたどり着いた出会いもあり、ブログを始めてよかったと思う。でも、トラック・バックをはじめ、まだまだ出来ないこともたくさんある。少しずつ、出来ることを広げていければ……と考えている。

おつきあい、ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

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2006年11月22日 (水)

自分であること

日常のボランティア活動に取材が入り、新聞に出てから、色々と新しい接触が入ってきている。結果として、日頃の活動で支えている人々のプラスになれば…と思っているので、少しでもSOSを受け止める機会が増えれば良いと思う。

人間として当たり前と思うこと、例えば、自分よりも弱い立場や苦しい状況にいる人々に手を差し伸べるのは当然だと思うのだが、最近のニュースを見聞きしていると、それが「当然」ではなく、弱者の生き血を吸って贅沢三昧…という卑劣な例が以前よりも目に付く。嘆かわしい限りである。

ただ、結局、そういう人たちは自分に自信がないのかもしれない。自信がないから、心にゆとりが持てず、感性も鈍化して、他者の痛みが分からなくなってしまったのだろう。そして、そのような自分をごまかすために、暴力や権力の鎧を被り、他者の目と自分自身の目を眩ましているのかも知れない。

他者から注目を浴び、一目置かれる…というのは、虚栄心をくすぐられる。けれども、その甘美さに浸るうちに自分を見失ってしまうことも多い。今、自分は、きちんと「自分」のままでいるのだろうか。他者の痛みに鈍感になっていないだろうか。時々は、わが身を振り返ってみる必要があると思う。

特に、忙しい時はそのような余裕を失ってしまうことがある。明日は、勤労感謝の日。少し時間的な余裕をもらえそうなので、ゆっくり休んで、今の自分を見つめ直してみようか。

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2006年11月21日 (火)

自殺の痛み

いじめによる子どもたちの自殺が次々と報道されている。そこまで追い込まれてしまった子どもたちの心が痛ましい。いじめられ、自分自身に対する自信や肯定感を失って、思わず「死」を選んでしまったのだろう。それに対して、民間でも様々な動きが出ている。「いじめ電話相談ネットワーク」などもその動きの1つである。責任ある大人として、少しでも子どもたちのSOSに耳を傾けることは大切だと思う。

だが、実は、自殺の問題自体は、大人も少し前から高止まりの傾向が続いている。だが、それに対する社会、特に政府の対応は鈍い。大人にしても失業や仕事での失敗、未来を悲観して、自信と自己肯定感を失い自殺に走る構造はそう変わりはない。教育現場の荒廃と混乱に正面から取り組まず「教育基本法改正ごっこ」をして遊んでいる政府・与党の無責任さを考えれば、自殺の高止まりも大したことがない…と言うことなのかも知れない。

けれども、自殺した本人の苦悩はもちろん、残された家族の苦しみや辛さを思えば、自分として出来ることはないか…と考えるのは人間として自然なことだろう。例えば、仲の良い友人の中にも家族を自殺で失った人はいる。「もう少し気をつけていれば…」という思いを聞くと胸は痛い。が、仕事や生活に追われていると、その時間的な余裕や微かな変化に気づく心の余裕がなかったりする。そういう現実があるのだろう。

そうした面からも、自殺の問題は考える必要があるのではないだろうか。1人1人が、普通に働きながら家族に目を向けられる時間が十分に確保できているだろうか。それぞれの努力で出来る部分もあるが、今の日本の現実を考えれば、それで十分とはいえない。その意味では、個人の努力に留まらず、周囲と協力しながら身の周りや社会を少しずつ変えていく努力が必要である。

自分で出来ること、そして皆と力を合わせなければ実現できないこと……。少しずつでも、それらを積み重ねていかなければ…と思う。

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2006年11月20日 (月)

哀しさや辛さを胸に…

突然、知人から四字熟語を2回続けて聞かれたことがあった。まず、起承転結、そして諸行無常と答えた。後で解説を聞くと、1つ目が人生観を2つ目が恋愛観を表すという。起承転結については、もっとカッコいい言葉を言えばよかった、とも思ったが、諸行無常については思わず苦笑してしまった。何となく納得してしまったからである。

一応、中年と呼ばれる範疇の年齢なので、それなりに恋愛経験はある。まあ、バツイチでもあることだし、それなりにシンドイ恋愛も経験している。それでも、基本的に後悔に満ちた恋愛の記憶はない。

確かに、あの時ああしておけば、とか、あそこであんなことを言わなければ…と思ったことはたくさんある。けれども、そうした言動のすべてが、その時点の「自分」の精一杯だったのではないか…と思えるからである。

どんなに努力をしても、哀しさや辛さ、苦しみを感じないですむ恋愛など存在しない。恋愛が、他の関係よりも深い人間関係を新しく作っていくものである以上、それは仕方のないことなのである。

だから、今の自分の精一杯が相手に対して出来ているか…ということを自分自身の心に問う。精一杯であれば、辛いことも苦しいこともある。そして、それでも力が及ばないときは哀しい。けれども、その辛さや苦しさや哀しみは、きちんと自分の心で受け止めていかなければならない。それは、相手を受け止めることと同じなのだから。

その上で、別れが来るのなら、それも運命なのだろう。精一杯努力をしたという実感があれば、多少時間は必要になるだろうが、それはそれとして受け入れられるだろうし、また新しい人生を歩いていけるだろう。これまでもそうだったのだから、これからもそうであると信じて生きたいものである。

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2006年11月19日 (日)

いじめの奥にあるもの

いじめニュースが続いている。教育相談の現場でそうした問題とも関わった経験があるが、まず最初に手を打たなければならないのは、いじめられた側については緊急に心身の安全と安定の確保である。学校の中でのことなら、緊急避難の選択としては「不登校」もその1つである。

個人的な体験や、関わってきた事例なども含めて考えれば、いじめられた側の自己肯定感はその期間が長いほど著しく傷ついているので、まず、その回復が急務である。被害者のケアに最優先で取り組まなければならない、ということである。

けれども、それだけでは問題は解決しない。加害者の側や周囲に再発防止の手立てを打つ必要がある。

大きなポイントの1つは周囲の傍観者の意識を変えることである。いじめを見過ごすことは、共犯者である…という意識をつけ、阻止できる力をつけさせることである。もちろん、必ずしも1人でやらなければならない…という事ではない。仲の良い、信頼できる仲間と共に阻止する方向に動けるようになれば……と考えられれば良いだろう。

もちろん、最大の課題は加害者の意識と行動を変えさせることである。特に、加害者が「いじめ」ではなく遊びの延長として「からかい」続けているだけ、と考えているだけの場合は、それが「いじめ」になっていることを意識させることで、被害者はもちろん、加害者自身も救われることになる。「からかい」そのものが無意識的なストレス発散として出ている場合も少なくないので、そうした場合はそのストレスの原因を掘り下げ、生活を改善していく道筋をつけていけば、再発防止の効果はさらに大きくなるだろう。

けれども、そうしたレベルで済まない場合は、それなりに強権的な手立てを使うしかない。警察や裁判なども視野に入れた対応を考えざるを得ないだろう。特に大人の社会での場合は、裁判なども視野に入れながら対応するしかない場合もある。そうした覚悟が必要なほど、実は、大人社会にもいじめや差別、弱者切捨てが横行しているのである。

ある意味では、「いじめ」を子どもの問題に矮小化してはいけない。現実社会の矛盾が、弱い立場の子どもたちに投影され、事件となって噴出しているのである。もちろん、具体的な事件としての「子どものいじめ」は、大人として対処してあげなければならない。が、おかしくなってしまった大人社会も、大人の責任で共生と弱い立場の存在への共感に満ちた社会へと変えていく努力が必要だろう。

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2006年11月18日 (土)

競争よりも大切なもの

衆議院における教育基本法の改悪に、心ある人々は憂い、怒り、悲しんでいる。が、様々な教育現場を知るものとしては、それだけでは済まされない憂慮がある。この教育基本法改悪の流れをそのまま進めれば、確実に教育現場の混乱と荒廃に拍車がかかると予想できるからである。

問題の1つに、「競争」の名の下に学力の二極化、特に経済的・家庭環境的に学習を十分に保障されない子どもたちへのサポートが弱体化し、結果として新・教育基本法体制の学校でより多くの「おちこぼれ」を量産する可能性が高まってくるからである。

1人も「おちこぼれ」を出さないで教育の底辺を底上げしようとして教育改革に取り組んだスウェーデンは、そのような形での人材育成が功を奏して、経済を上向かせることに成功した。「グローバリズム」の荒波の中で、日本には「アメリカ・モデル」ではなく「スウェーデン・モデル」に学ぶ選択肢が、実は90年代後半には存在していたのである。

けれども、マスコミは「スウェーデン・モデル」はほとんど取り上げず、小泉政権に迎合して「アメリカ・モデル」だけを垂れ流し続けた。そして、国民は多くのものを失い、そこにあった富をアメリカの一部の企業に持っていかれてしまったのである。

安倍政権は、そうした日本国民の利益よりもアメリカの一部企業の利益に即した政策を「改革」という名目で行う小泉路線を追求し、教育にも「競争原理」を持ち込もうとしている。だが、現場の現実からすれば、競争を煽って子どもたちを孤立させるよりも、子どもたちに教え合い・助け合いを促し、共に学ばせる環境を作った方が効果は上がる。教える側も理解した内容を整理し、確認するというプラス効果が生じるからである。

教育には「競争原理」よりも大切なものがたくさんある。目先の経済的利害で「競争」を煽ってはいけないのである。

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2006年11月17日 (金)

国会はいらない

教育基本法「改正」案が、野党欠席のまま衆議院への採決が行われ、参議院へ送られた。つまり、噴出している教育現場の問題・事件を無視し、タウン・ミーティングのやらせ、謝礼送付というゴマカシもうやむやにして、無理やりに与党案をゴリ押ししようというのである。

国会は、法律を決める役割を持つ、国権の最高機関だったはずだが、その前提は、きちんと議論をし、問題点は修正して、十分に議論を尽くした上で法律案を可決・もしくは否決することにある。そもそも、タウン・ミーティングでのやらせ自体が政府による情報操作とアリバイ作りであり、国会での議論の最中にこんな事実が発覚した場合は、当然、その全容を究明すると同時に、そのような不正義が関わった法律案など廃案にして改めて時間をかけて法案作りから始めるべきだろう。

それをせずに、ただ、無理やり与党の法案を通す、というのは、国会議員の責任放棄であり、国会の役割放棄である。国会が「問答無用」の世界になってしまったのであれば、国会そのものが不必要である。議論をつくして法律を作る責務が国会にある。特に、教育などの国の根幹に関わる重要な法律を一時期に政権を担っている与党の都合だけで強行採決するなど、国会の自殺行為であろう。

自殺して、役割を放棄した国会は、税金の無駄使いである。もはや、国会はいらない。

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2006年11月16日 (木)

夢…さだまさしの歌から

学生時代からずっとアルバムを求め続けていた歌手の1人にさだまさしがいる。「主人公」「異邦人」「風に立つライオン」「極光」など、好きな歌は多いが、中でも「夢」という歌は特に大好きな歌の1つである。

バツイチだから特に、恋愛の達人というよりも、恋愛には不器用かも…と思わないでもない。その意味では「人は誰でも不器用で…」というフレーズは、けっこうグサリと胸にくるかも知れない。いやいや、そういう部分もないではないが、不器用な自分の存在をそれ程嫌ってはいないので、いつもしみじみと聞き、時にはカラオケで歌ったりもしている。

自分の恋愛を振り返ってみれば、愛するがゆえに別れる…というハードな体験は多分ないと思う。だいたいは、愛していたけど…というパターンである。それでも、何人かの女性には、愛されていたという実感もある。そうした実感は、心を暖かくしてくれる。と同時に、別れた相手であっても、幸せになって欲しいと思う。

そんな心が、しっとりと滲んでくる「夢」……。結婚していた相手との思い出もあるが、離婚した今でも大好きな歌の1つである。

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2006年11月15日 (水)

責任放棄の強行採決

教育基本法の「改正案」が、野党が欠席する中、委員会で強行採決され、衆議院に送られることになった。タウン・ミーティングでの「やらせ」の発覚、未履修問題、いじめ自殺事件など、教育に関わる問題が噴出してきたこの時期に、あえて議論を封じ、疑問に答えることなく、ただただ党利・党略(対米追従のための憲法改悪)の目的だけの行われた悪行である。

疑問の追及も話し合いも必要ない、ということであれば、国会という組織・システム自体がその存在意義がなくなってしまう。自由民主党は自由を奪い民主主義を否定して、再び軍国主義への道をまい進しようしているのであろう。5.15事件で暗殺された犬養毅首相は「話せばわかる」と言ったと伝えられているが、「問答無用」の銃弾に倒れた。そして、自由民主党と公明党は自らの行動によって「問答無用」であることを国民に示したのである。これは、議員として、議会としての責任放棄であろう。

そして、マスコミ……。民主主義の擁護者としての責任感と自覚があるのなら、なぜ、この反民主主義の行動を徹底的に追及できないのだろうか。もはや、権力の暴走をチェックする役割と責任感を失ってしまったのだろうか。そして、戦前と同じように「大本営発表」を無自覚に垂れ流すだけに成り下がってしまっているのだろうか。

何度も書いていることだが、教育は受ける側の国民の権利であって、国家権力から押し付けられる「義務」ではない。一部、一時期の権力者による不当な介入は、国家の未来を危うくしてしまうのである。それは、戦前から戦中にかけての日本近・現代史に真摯に学べば誰もが納得できることであり、その危険性を排除するべく、戦後の教育基本法は作られたものである。

何のための、教育基本法の「改正」かは、タウン・ミーティングの「やらせ」が何度も行われていたことが発覚した以上、きちんとその真相を究明した上で、改めて議論をしなおすのが筋であろう。それを行わない、ということは内外の不信感を強め、長い目で見れば政治に対する信頼感や国家に対する信頼感を外国からの視線も含めて損なうことにもつながっていく。

教育は、「国家百年の計」である。安易な強行採決などせずに、正々堂々と議論をして人々の合意を取り付けなければ国の未来は危うくなるばかりである。それとも、「愛国心」を持たない売国奴たちばかりだから、こんな無責任なことが出来るのだろうか……。

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2006年11月14日 (火)

欲望との折り合い

少し前から、現代資本主義の経済システムは欲望を煽り続ける事で成り立っているように感じている。欲しいもの・必要なものを安く作って大量に売る、というよりも、欲望を煽って必要でなかったものまで「欲しい」という気持ちにさせ、新たに買わせる…という形になってしまっているのではないか、と思われるからである。

確かに、欲望は生きている証ではあるし、それをエネルギーにして人類は自分を変え、社会を変えてきた部分もある。ただ、そのすべてが良い方向への変化であったとは必ずしも言えず、多くの社会問題も生じさせてきた。

こうした社会・経済システムは、そろそろ限界に来ているのではないか…と感じている人々は、今の段階では、決して少なくないのではないだろうか。私も、その1人である。

欲望を煽り、次々とモノやサービスを生み出してきた人間たちだが、その結果、多くの有害な廃棄物が生じているし、心の荒廃も進んでいるように思える。そうした部分を予感していたからこそ、多くの偉大な宗教家や思想家は、欲望の制御を呼びかけていたのではないだろうか。

現代のグローバリズム資本主義は、その《欲望の制御》という鎖を断ち切ることで地球上の人類社会を席捲したが、荒廃も広範囲に広まってしまった。従って、その修正には、新しい形で《欲望の制御》を位置付け直す必要があるのではないだろうか。人は、1人では生きていけない。そして、人類も人類だけでは生存不可能である。共存と共生…共に存在していることをそれぞれが自覚し、共に生きていくための工夫と努力に目を向けていかなければならない。

そのために、個人としてできることは? そして、皆と力を合わせてしなければならないことは? それを考え、行動に移していかなければ…と思う。

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2006年11月13日 (月)

きっと歩いてゆけるから

友人のシャンソン歌手、北岡樹(みき)さん〈http://www.todoland.co.jp/MIKI/kitaoka.html〉のオリジナル・ソングに「きっと歩いてゆけるから」という歌がある。シンドイ思いをして心が疲れきった時、元気がなくなったときに、聞きたくなる歌の1つだ。

作詞の方と北岡さんの出会いから生まれた歌だと聞いているが、本当に辛い思いをして、それでも希望を失わずに生きていこうとする作詞者の心が、歌詞の言葉ににじんでいる。それが、北岡さんの低く伸びのある歌声に乗って疲れた心にしみこんでくる。

特に、ライブなどの生の声で聞いていると、歌声に抱きしめられているような感じがすることも少なくない。生きていれば、色々と辛いことや苦しいときがある。それでも何とか今まで生きてきたが、この歌、この人に出会えたことで踏み止まれた…という体験が確かにあった。そういう経験ができた幸福……。大ヒットをしているような歌ではないが、大切な一曲である。

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2006年11月12日 (日)

教育を荒廃させる教育行政

教育基本法の「改正」と併せて、教員免許の更新が議論されてきている。その際の比較の対象が、何故か運転免許である。制度的に言うのであれば、同様に医師や弁護士なども比較されて叱るべきであり、何よりも公務員、とくに官僚が比較の対象でなければおかしい。

それについて言及できないマスコミの無能も問題だが、「問題教師」がいるのと同様に、「問題医師」や「問題弁護士」、「問題官僚」も十分に事件を起こしているではないか。それに言及しないで、「教員」だけを議論しようとしているのは、現行教育基本法に規定されている「教育への不当な支配」に当たらないのか? 今日の時点で、現行教育基本法は廃止も改正もされていないのだが……。

議論の問題点は、力量のない教師の資格剥奪を判定する立場のものの恣意性を制限する条件が整っておらず、将来的に国家の不利益になっても、現行政府・与党の利益に適うならば、それだけであらゆる「教育」への支配が強化されることを可能とする流れの中に「教員免許の更新」制度が利用される危険が高い、ということである。共謀罪の文脈も同じ流れの中にあり、「今の政府・与党」の利益のために、国民の利益や未来の利益が削られ続けていこうとしているのだ。

未履修問題における「学習指導要領」の問題点の議論も進んでいない。現場の状況を無視した「学習指導要領」の押し付け(法律ではないものの【法的拘束力】の問題、しかも現場の実態を無視している)が問題の背景にあり、それをきちんと是正しなければならないのに、「現場」に責任をおしつけて言い訳とゴマカシに終始して、現実を見ないようでは、教育行政がさらに教育現場を荒廃させていくことにもなりかねない。

いや、戦争へと至った歴史の真摯な反省の上に立っていたからこそ、政府の教育への不当な支配を制限し子どもたちの能力の開花と成長を実現するために、教育基本法が作られたのである。それを空洞化し続けた結果としての教育の荒廃は、現場を無視して教育を政府の都合のいい形で捻じ曲げ続けてきた教育行政に、それなりの大きな責任がある。教育基本法の「改正」を議論しようとする最中に、いじめ自殺の事件や未履修事件が表面化したのもある意味では当然なのかも知れない。

教育は「国家百年の計」である。未来の日本のことを真剣に考えれば、反省もないまま目先の小さな利害を目的とした教育行政をこのまま継続しては絶対にいけない。それは、日本の未来を閉ざしてしまうことにもつながってしまう。机上の空論をもてあそんでいる時間はない。現場の問題点をきちんと見据えて、教育行政を転換しなければならない時期に来ている。

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2006年11月11日 (土)

指先の感覚

お酒を飲みに行ったときに、時々、マッサージをしてあげることがある。店のスタッフや常連さんに頼まれたときに限るが、割と評判は良い。というよりも、ファンがいるほどで、大阪在住のベーシストに「マッサージ師には触らせへんけど、TACさんならええわ」と言われ、気持ち良さそうに商売道具の「肩」をあずけられたこともある。

自分の身体が痛むときもそうだが、指先で触っていくと少し熱をもっていたり、妙に硬くなっていたりするところがあり、そこをほぐしていくことで痛みやコリが和らいだり、楽になったりする。それを他の人の身体にもしてあげるだけなのだが、それがとても気持ちが良いようだ。ある時など、店のスタッフの話の流れで1人のお客さんの肩を揉んであげたら、とても良かったらしく、本気で財布からお金を出してきたこともあった。

結局、指先が柔らかくて敏感であることがプラスに作用しているのだろうが、もしかすると他の人は必ずしも指先の感覚が敏感でないのかもしれない。あくまでも自分の感覚だけで素直にやっているだけなのだが、それが良いのだろう。

相手が気持ち良さそうにしていると、こちらも嬉しいが、きれいな女性だと、それとは別の楽しみもある。まあ、酒の席でも不埒なことはしないが、凝った背中や肩や腰であっても、女性の肌の感触はそれなりに心地よい。その辺りは、【役得】として素直に受け入れている程度である。その辺りの自制心が、「TACちゃん、お願い」と、臨時マッサージ屋さんが続く理由なのかもしれない。もちろん、無料の……。

それが果たして得なのか、損なのか……。けっこう微妙かもしれない。まあ、自分として不快ではないので、良いことにしておこう。

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2006年11月10日 (金)

紅茶の美味しい季節

昼間は多少汗ばむ日もあるが、朝晩はめっきり寒くなり、紅茶の美味しい季節になった。

今日は、ジャスミン茶、レディー・グレイ、ウーロン茶を楽しんだが、リーフがポットの中で開いていく時間がなかなか楽しくていい。そして、コーヒーのように押し付けがましい匂いもなく、後味もすっきりしている。紅茶を愛する理由だ。

ただ、最近は、一時期ほど百貨店等で置いてある紅茶の種類が多くはなくなった。お気に入りでほとんど見かけなくなったのは、Queen Maryである。もちろん、地方都市の喫茶店では、紅茶の銘柄まで指定できるところはほとんどないので、しばらくは飲んでいない。

かろうじて、インターネットでは買えそうなので、Prince of Wales などと一緒に買うことも考えようかな…と思う今日この頃である。ただ、ゆっくりと紅茶を楽しむ時間的余裕が以前ほどはなくなってきている。哀しいかな、貧乏暇なし…というところか。寝る前には、アップル・ティーでも入れよう。

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2006年11月 9日 (木)

愛国心…国民に愛を乞う【国】

江戸時代の米沢藩主・上杉鷹山は、藩の家督を継ぐ際に次のような歌を詠んだと言う。

受け継ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母

そして、春日神社に「民の父母としての政治」を行うことを誓って誓詞を捧げていたことが後の研究で分かっている。米沢藩の人々は上杉鷹山に愛され、飢饉で近隣の藩が餓死者を出した時も1人として餓死者を出さなかったらしい。鷹山は人々に慕われたが、決して「愛する」ことを強要していない。その必要すらなかったのである。

対して、現代日本の政治を見てみよう。なぜ、「愛国心」なるものを国民に強要しようとしているのだろうか。国民に愛される政治さえしていれば、そんなものを強要しなくても、誰もが【国】を愛するだろう。そんな政治をしていないからこそ「愛国心」を押し付けなければならないのであり、そうした動きそのものが現在の国政が国民不在の政治を続け、国民を愛していない政治を行っていないという事実を示している。国民に、愛されていない政治をしているという自覚があるからこそ、「愛国心」を問題にしなければならないのだろう。

上杉鷹山は日本の歴史上の人物であり、財政を再建し、民を大切にする政治を行った。日本の歴史や伝統を大切にしようと言うのであれば、この上杉鷹山の政治から多くのことを学べるはずである。「愛国心」を語る人々、特に政治家や官僚は、国民に愛を乞うのではなく、上杉鷹山の政治姿勢にこそ学んでもらいたいものである。

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2006年11月 8日 (水)

あきれた《タウンミーティング》疑惑

教育基本法「改正」がらみのタウンミーティングで、文部科学省が秘密裏に一部の出席者に対して「改正に対する賛成意見」を述べるように根回しをしていた事実が明るみに出た。タウンミーティングの制度や民主主義に対して唾を吐きかける、恥ずべき行為である。

日本の伝統を大切にしている「恥を知る」人々であれば、こんな不正とごまかしで満ち溢れた「教育基本法の改正」は即座に撤回するに違いない。けれども、「愛国心」を他者に押し付けて自らの利益や某国の利益を優先する【売国奴】であれば、恥も外聞もなく、国を売る行為を推し進めるだろう。

本当に日本という国や日本国民の利益につながる「教育基本法の改正」であれば、姑息な手を使わずに正々堂々と説明し、反対意見をきちんと聞いた上で論破して説得し、時間をかけて国民の理解を待ち合意を図り、充分な準備の元に「改正」していく筈である。それが出来ない、ということは、この「教育基本法の改正」が、本当の意味で日本と言う国の国益や国民の利益につながらず、反対意見を論破できる理由も力量もないまま、自らの利益や某国の利益のために行おうとしているのだ……という事を、その行動で示していると言って良い。「教育基本法の改正」は国民の不利益・売国のために行われようとしているのである。

だが、それを追求しきる力を、今のマスコミが持ちえていない。いじめ自殺や高校の未履修問題が表面化して、教育現場の荒廃が一層深刻化しているにも関わらず、それに対するまともな対処をしないで「教育基本法改正」ごっこに逃避している政府与党をなぜ追及しきれていないのか。情けない話である。

本当に、国を憂い信念を持っての「改正」であれば、堂々と議論をするだろうし、どんな質問にも受けて立つだろう。当然、それなりに反対意見も高まっている状況を考えれば、タウンミーティングでもそれを聞いた上で論破すれば済むだけの話である。それすら出来ない、という実態が明らかになってしまった以上、「教育基本法の改正」は時期尚早である。与党・国会議員としての誇りがあるならば、もう一度きちんと準備をして出直すべきだろう。

ただし、誇りを持たない【売国奴】ばかりであれば、それは無理かもしれない。私は、【売国奴】に投票した覚えはないが、売国行為は見過ごせない。国を守るための行動を改めて真剣に考え直さなければ……と思う。

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2006年11月 7日 (火)

唯足るを知る

今日の夕方、財布の中に2,000円しかお金がなくなった。夕食の買い物を終えた後だったが、財布の中身を思うと、寒さが一層身にしみた。その後、30,000円ほどの入金があったので多少は落ち着いた。特にお金が入用な予定もないので、一段落…という感じである。

もちろん、お金はあるに越したことはない。けれども、お金に執着し過ぎれば、返って時間がなくなり心も貧しくなる。贅沢が出来なくても、普通に暮らしていく事が出来れば、今の生活はそれなりに充実している部分もあり、大きな不満はない。

もちろん、新しいDVDレコーダーが欲しい…とか、パソコンがもう1台あれば…とか、もう一回り大きい新しい車が欲しい…といったような事を思うことはある。その意味で、物欲をはじめとする欲望を持っていない訳ではない。けれども、どうしてもそれが絶対に必要か…と自分に問いかけてみると「あれば便利・楽しい」という程度で、なければ困る訳ではない。というよりも、なくても生きていけるものが多いのである。

現代資本主義社会は、欲望を煽ることで物を売り、富を蓄積しようとしている。そして一部の人々は、自らの富の蓄積のためには弱い立場の人々の生活の悪化や生存についてはどうなっても良いと考えているふしがある。モノやサービスを生産して流通・売買する過程で富を得るのが現代の経済システムである以上、欲望のエネルギーはそれなりに大切である。けれども、欲望の暴走は、当事者ばかりでなく関係のない多くの人々をも不幸にすることが少なくない。

時には、一息ついて自分の内にある欲望を見つめ直してみよう。「欲しい」と思っていたモノが、実はそれほどではなかった場合も出てくるかも知れない。そうした目で、日々の生活を再検討してみると、結構、幸せな場合もある。時には「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」という言葉をかみしめてみると、思わぬ心の平安が得られるかも知れない。

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2006年11月 6日 (月)

教育の現実を直視しなければ…

いじめ事件や未履修問題で騒然としている教育現場を無視して、教育基本法を変えようとしている愚か者たちがいる。ここまで現場の問題が噴出してきている以上、まずはその背景をきちんと洗い直し、それに対処する手立てを講じることがまず必要なはずである。今は「教育基本法改正ごっこ」をして遊んでいる暇はない。

実際問題として、「愛国心」を法律の条文に入れて、いじめが無くなるのか? 否である。未履修問題の背景となっている学習指導要領と受験システムの矛盾が解消するのか? 否である。

政府与党は、ケガ人の手当てもせずに、病気にかからない方法を論じようとしているが如き愚かなことを進めている。問題に対する緊急のケア及び原因究明の調査を放置して、何をしたいのか。明らかに、責任の放棄である。ここまで教育現場での問題が吹き出てきた以上、それに対する対処法を早急に明らかにして実行すると共に、再発しないように教育行政の矛盾や問題点を洗い直し、現実から出発した多くの人々のためになる教育の再構築をはかる必要がある。

にも関わらず、何を遊んでいるのか。まさしく税金泥棒の所業であろう。

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2006年11月 5日 (日)

海の時間

映画「ゲド戦記」の挿入歌「テルーの唄」等の作曲をしているシンガー・ソング・ライターの谷山浩子の歌に「海の時間」というのがある。1991年発売のアルバム「ボクハ・キミガ・スキ」《PCCA-00272》の最後に入っている歌なのだが、心が疲れたりささくれ立ったりしている時に聞くと、暖かいものに抱かれているような感じで落ち着ける。数ある歌の中でも、特に大好きな歌のひとつである。

図鑑を見ながら作った…というような話を読んだか聞いたような覚えがあるが、ピアノの音が悠久の海に浮かんでいる際に全身で感じる穏やかな波のように寄せては返し、それに乗ってくる高く澄んだ歌声が永遠の時の流れを脳裏に感じさせてくれる。

確かに今は苦しい、疲れた…でも、それは小さな自分の人生の中のほんのひとときに過ぎない。そして、1人の人間としての自分の人生は、人類の歴史の中ではわずかな水の一滴にすらならないだろう。その人類の歴史も、地球の歴史に比べれば……。

そんなイメージの中であらためて悩みや苦しみ、疲れなどを見直してみると、何か小さなことのように感じられてくる。とりあえず、休もう…そしてまた。休むことで新しいエネルギーが生まれる。そこからまた、新しい一歩を踏み出すことができるだろう。

それはたくさんある歌の、ほんの1つに過ぎない。けれども、出会えて本当に良かったと心から思える歌である。

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2006年11月 4日 (土)

ペテン師 by かぐや姫

南こうせつとかぐや姫の歌に「ペテン師」というのがある。恋人と別れた男が、ある種の開放感を感じ、同じ男が結婚をすることで不自由を感じる…という内容の歌詞である。自分の経験からも、確かにそれはうなずける。特に、相手がヤキモチ焼きである場合はその思いは強くなるだろう。

高校の頃、このペテン師という歌を始めて聞いたときには、そういう印象はなかった。いや、俺は違うさ…。確かに、そういう男もいるだろうが。そんなことを考え、軽妙なリズムやメロディーにも関わらず、その歌詞ゆえに今ひとつ好きにはなれなかったのを覚えている。それが、今ではウンウンとうなずける。経験を積んだ…と言うべきか、歳をとったと言うべきか…。本でもそうだが、歌でも、年齢によって受け取る印象が違ってくるものがある。その変化自体が、なかなか興味深いものである。

今でも、かぐや姫の歌はよく聞いているし、カラオケで歌うこともある。次の機会には、このペテン師をカラオケで探してみようか…。

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2006年11月 3日 (金)

ゆっくり寝られる5日間?

仕事の都合で、木曜から月曜までゆっくり朝寝坊できる日程になった。最近は布団に入るのが午前1時や2時という毎日が続いていたので、7時起きをしなくても良い…とばかりに喜んでいた。が、風邪をひいて水曜の深夜から木曜の早朝にかけて高熱が出た事もあり、純粋に朝寝坊を楽しんだという実感はまだない。

残るはあと3日…。風邪の方はけっこう良くなったが、体調はまだ完全ではない。明日の土曜は不登校・ひきこもり関連の会に世話役として出かける予定があり、研究会の案内なども作らなければならない。月曜も、午後からボランティアの日本語教室…となかなか忙しい。その意味では、連休という感覚はあまりない。

それでも、夜型体質がしみこんでいる身には、7時起きをしなくて済むのがありがたい。深夜・早朝の寒さが気になり出したこの時期に、朝方の惰眠を楽しみたいと思う。今月半ばに締切の詩の原稿の為のイメージでも浮かんでくると、とってもうれしいのだが……。

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2006年11月 2日 (木)

風邪…

深夜、突然寒気がして、熱を測ってみたら38℃を越えていた。久々の風邪である。通常は細心の注意を払っているので、11月の段階で高熱が出るような風邪をひくことはないのだが、今回はひいてしまった。やはり、風邪っぽい女とのkissは慎むべきであったのだろう。もちろん、自分の身体を第一に考えればの話だが……。

それでも、午前中ゆっくり寝ていられたお陰で熱も下がり、一応は医者に行った後、午後からは普通に仕事をしていた。合間に、時々布団に入ってはいたが……。

日ごろ忙しくしていることもあり、風邪をひいてしまった時は、素直に「身体を休めなさい」という天の声だと思うことにしている。寝ているのか起きているのか分からないぼんやりとした頭で布団の中に入っているのはなかなか心地よい。詩などの面白いフレーズや印象的なイメージが心の中に浮かぶこともある。そういう面では、風邪もまた楽しい。

とは言うものの貧乏暇なしの身に、ゆっくりと休める時間はそれ程与えられていない。多分、月曜日には、完全に忙しい日常の中に戻っていることだろう。それもまた良し。基本的に、日常の生活の中にそれ程不満はない。忙しいということはあっても、自分のやりたい事ややらなければいけないと納得できる事はきちんと出来ているのだから……。

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2006年11月 1日 (水)

大切な相手を待つ時間

相談を受ける現場で、時々、待つことの大切さを話す事がある。聞いている相手は、だいたい「なるほど」という顔でうなずくことが多いが、実際にそのように行動できるかどうかはまた別問題である。一見、簡単に思える「待つ」ということだが、その時間が長くなるほど相手への不審や不満が芽生え始める。言うことは簡単だが、実際に「待つ」ということはけっこう難しかったりするのである。

「待つ」という時間は、相手への信頼を試される時間である。本当の意味で信じていればある程度待てるが、実は相手を軽く見ていたりあまり信頼していなかったりすると、それ程待つことは出来ない。あえて相手を待たせるなどは良くないが、どうにもならない事情がある場合もあるので、相手が待っていてくれるということは自分を信頼してくれているというメッセージであり、相手を待てるということは相手への信頼があるということである。

それでも、待つ時間が長くなれば苦しい。まして、いつまで待ったらいいのか分からないときは、より一層辛い。5分や10分なら、まだ簡単に待つこともできようが、5年、10年となると待つのも大変である。特に1人では、悪い考えの堂々巡りになることもあるので、出来れば、理解のある複数の人と待つことが出来ると良い。

それなりに生きてきて、ある程度は待つことも出来るようになったが、それでも時には心が揺れ、イラついたりすることもある。それでも、きちんと待ったことによって相手が良い方向に変わっていくのを見るのはうれしい。

まだまだ不十分なところもあるが、これからも「待つ」ということを大切にしたいと思う。

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