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2006年12月31日 (日)

松園の【焔】をめぐって

上村松園といえば【花がたみ】と共に忘れられない作品がある。能『葵の上』を題材にした作品とされている【焔】(ほのお)である。能の元になっているのが『源氏物語』だが、六条の御息所の嫉妬の凄まじさとそれゆえの哀しさが胸を打つ。それを、平安風ではなく桃山風の女性の姿で描いているところに松園の感性が感じられる。

とは言うものの、【蛍】にしろ【楊貴妃】にしろ【序の舞】にしろ、松園の描く女性の表情には穏やかなものや優しいものが少なくない。その意味では【花がたみ】や【焔】の表情は特異なものと言えるかも知れない。けれども、逆に言えば【花がたみ】や【焔】の表情が描ける松園だからこそ穏やかな表情や優しい表情にも深みを感じられるのかも知れない。

それにしても、【焔】の表情は何とも言えない凄みを感じさせる。背景にある『源氏物語』を知らなくても嫉妬の感情の凄まじさと哀しさは伝わってくる。そして、女の匂い立つような色気も……。これ程までに女性に愛されたいと思うと同時に、そこまで愛されることが怖くもある。二律背反の感情ではあるが、理解してもらえる男性は少なくないと思われる。

そうした作品だから、見ていてほっとするような作品ではないし、長時間見ていたいとはなかなか思えないだろう。けれども、一度見たら、二度と忘れないほどの強烈な印象を見た者の心に深く刻み込んでしまう。その意味では、一度見ただけでも様々なことを語ることの出来る作品である。

決して手元に置いて毎日眺めていたい絵ではない。けれども、女について、恋について、そして生きることについて様々な思いを紡ぎ出すきっかけを与えてくれる。その意味において、忘れることの出来ない印象深い作品である。

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2006年12月30日 (土)

ストコフスキーのベートーヴェン第9

年末といえば、ベートーヴェンの交響曲第九が定番となっているが、個人的には、毎年ストコフスキー指揮・ロンドン交響楽団、合唱団のものを聞いている。1970年6月に録音されたものだが、ベートーヴェンの第九についてはドヴォルザークの第九「新世界より」ほどの拘りはないので、唯一持っているストコフスキーのものを毎年聞いているだけの話である。

だが、数あるベートーヴェン第九の中で、なぜストコフスキーなのか。答えは簡単で、実は、ストコフスキー指揮の幻想交響曲(作曲ベルリオーズ、1968年ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)を聞いて以来、ストコフスキーが好きになり、このベートーヴェンの第九も含め、ストコフスキー演奏のCDは、12枚ほど持っている。もちろん、その中にはストコフスキー指揮の「新世界より」もあり、これは多分、かなり珍しいものだろう。いずれにしても、たまたまストコフスキーを集めた中にベートーヴェンの第九が混じっており、それ以降、別に新しいものを買う気にならなかったので、毎年これを聞いているということになろう。

ただ、ストコフスキーの指揮による演奏は、ある種独特の雰囲気がある。ベルリオーズの幻想交響曲などを聴き比べてみると、本当に同じ曲なのか…と思うほどである。だが、その独特の感覚が性にあっているのだから、それを楽しめばいい。そんな訳で、今年も、ストコフスキー指揮のベートーヴェン第九を聞いている。

いろいろと事の多い一年だった。また、けっこうシンドイ思いもした。けれども、様々な新しい出会いもあった。ストコフスキー指揮の演奏に耳を傾けながら、静かに一年を振り返って見るのも良いかも知れない。

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2006年12月29日 (金)

意外と楽しい遠距離恋愛

帰国している彼女から3日ぶりにメールが届いた。1通目は「メリー・クリスマス」が遅い!! と怒り気味だったが、例の台湾での地震の影響で電話回線やメールがつながりにくくなったり遅くなったりしていることを理解したためか、2通目と3通目は「愛してる」「仕事が終わったら電話下さい」という内容になっていた。

心身がしんどい時には側にいて欲しいとも思うが、忙しいときやこちらの付き合いがある時には相手が出来なくなることもある。そういう時には、近くにいると怒ったり拗ねたり嫉妬したりして後始末に苦労するが、離れていると、信じあわなければ終わってしまうという危機感もあってか、逆に、側にいるときよりも理解がある…と感じられる場合も少なくない。それとも、重ねた時間が「理解」につながっているのだろうか。

その意味で、それぞれが自分の時間を重ねながらも、お互いを信頼しつつ再会を待つ時間はけっこう楽しい。今頃、働いているな…とか、ごはんは何を食べているだろうか…とかを想像しつつ、メールを送る。あるいは、仕事が終わってから電話を入れる。少し、疲れているときでも、電話の声を聞けばほっとして、心なしか元気が出てくることも多い。

さりげなく、自由を謳歌しながらも、信頼する相手のいる立場は心地よい。相手への想いと信頼が続く限り、遠距離恋愛も悪い面ばかりではないと思う。

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2006年12月28日 (木)

労働環境と家庭環境

大企業過保護政策の奴隷と化した厚生労働省は、労働者側の危惧を無視して、遮二無二ホワイトカラー・エグゼンプションの導入を進めようとしている。長期的展望を欠いた政府・与党と経営側は、それによって賃金未払い労働の合法化を画策している訳だが、実はその結果、家庭の崩壊・教育の崩壊・地域社会の崩壊、そして少子化のさらなら悪化が心配されることになる。きちんとした労働者保護制度を確立しないまま導入するなど、まさに亡国の所業なのである。

【国際競争力】を理由とした労働者の賃金の抑制は、一般の家計に打撃を与え、男性ばかりでなく女性をも長時間労働へと駆り立てている。時給の抑制と非正規雇用の増加のために家計に必要な収入を得るためには、どうしても長時間労働(非正規雇用の場合は特に複数の仕事のかけもちによって必要な収入を確保するしかない)をせざるを得なくなる状況に多数の人々を追い込んでいく。したがって、企業の都合で家庭生活のまとまった時間を分断されることになり、子どもや高齢者への家族としてのケアの時間が犠牲になり、減少していくことになる。

それが、どういう影響を家庭や社会に与えるのか。子どもを育てるにも、高齢者のケアにも、共に過ごす時間は必要不可欠である。その物理的時間が保障されずに削られ続ければ家庭は崩壊し、教育は荒廃し、地域社会はズタズタになる。

例えば、不登校ひきこもりやニートの問題でも、非行の問題でも、初期の段階で丁寧なケアが出来れば、その回復は早く、壁を一つ乗り越えた子どもや青少年は人間的にも成長していく。けれども、その丁寧なケアのためには家計収入の安定と、まとまって当事者に関わることのできる物理的な時間が必要不可欠である。それを低賃金の不安定就労(そのための【かけもち】はさらに時間を奪う)は、保障しないどころか奪っていくことになる。

子どもや若者が、成長過程で必要なケアを受けられなければ心は荒廃し、生活が荒れる率は高まり、それが犯罪や反社会的行動へとつながっていく危険も高まる。それは、社会全体に不安定化をもたらし、治安維持や社会保障のための公共支出を高めることにつながっていく。

だから、必要なのは【国際競争力】よりも、崩壊し始めている「美しい日本」の再生なのである。そのためにはまず、家庭環境を豊かにし、地域社会に活気を取り戻さなければならない。それに必要なのは、労働者が企業による時間的制約から自由になり、家庭や地域で過ごせる時間をある程度保障される労働環境…ということになる。ボランティア活動や公共的な活動、伝統文化を支える活動なども、経済的な安定と企業労働から解放されるまとまった時間があってこそ可能となるのである。

労働環境の保護制度が充実している条件の下においては、確かにホワイトカラー・エグゼンプションも悪い制度ではない。けれども、アメリカよりも法整備が劣悪な中でこれを導入すれば、「サービス残業」と呼ばれる賃金未払い労働に法的な口実を与え、それが労働環境をさらに悪化させて国民生活を崩壊させかねない。

亡国の企業過保護政策は、国民生活を破壊し、それは当の企業活動にも取り返しのつかないダメージを与えかねない。物価は高かったけれども家計収入が安定していた時期と現在を比較したとき、どちらが豊かで安定していると考えられるだろうか。物価が、人件費の削減によって下がったのであれば、それは一般の家計収入の悪化と直接つながっている。それに乗じて蓄財した反社会的な人々は誰なのか…。日々、まじめに働いて生活をしていた一般の国民でないことだけは確かである。

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2006年12月27日 (水)

年賀状…という慣習

相変わらず、毎年の年賀状に苦労している。時間さえあれば、1人ひとりの旧友や関係者に心からの言葉を書きたいのだが、ここのところずっと仕事に追われ、ついつい手抜きのものを出してしまうことになる。枚数の多さがそれを助長するのだ。

けれども、それは様々な場面で共に苦労したり、楽しい時間を重ねたりした人々である。それを思うと、例え十分なものでなくても、元気で生きていることだけは伝えたい。その思いが、とにかく年賀状を出そうとする原動力である。たとえ250枚を超える量だとしても……。

ただ、今年は昨年まで名簿の整理と宛名ラベルの印刷に使っていたワープロが壊れたため、名簿の作成と整理から始めなければならなくなり、一層時間がかかった。そのお陰で精神的にストレスと疲れがたまり、いくつかの不運を呼び込んだ。そのせいか、気分も今ひとつ沈んでいる。

それでも、とりあえず遅まきながらでも年賀状は出した。今日の不運は、こんな日もあるのだと納得して眠りにつこう。

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2006年12月26日 (火)

ウルトラセブン1999印象記…模造された男

ウルトラセブンはテレビシリーズの他に、いくつかのオリジナル・ビデオ・シリーズがある。その中の一つ「ウルトラセブン1999」は、《フレンド・シップ計画》という名の先制攻撃思想を実現しようとする計画にノンマルトなどの思惑もからみ、フルハシ参謀(このシリーズの前に隊員からウルトラ警備隊隊長に、さらに参謀に出世…時代を感じさせる)の生死と絡みながら物語は進んでいく。

シリーズ全体としても良くできているが、その中でも往年のファンにはキングジョーⅡが登場する「模造された男」が面白いのではないか…と思う。実は、後にグラビア・アイドルとしてブレイクする原史奈が、鍵を握る女子高生役で出ているとか、セブンとキングジョーⅡの死闘など様々なシーンで見所が満載である。

ただ、物語のストリーの中で「侵略されるからより強力に武装する」という思いが、逆に侵略を呼び込んでいるのではないか…という思想が語られる。アメリカの「先制攻撃」理論との類似性、そして現在の方向転換と併せて考えれば、TV版ウルトラセブンの流れを受け継ぎながら、現代の日本や世界を俯瞰しつつ作られたこの作品は、非常に興味深い存在である。祈るだけで平和は実現しないが、過剰な恐れと不信は戦乱を呼び込む。個々の人間関係においても国際関係においても、信頼の構築はきわめて重要だろう。

そうしたストリーの流れとは別に、感動のアクション・シーンもある。セブンのワイドショットを素早い分離合体で避け、圧倒的なパワーで迫るキングジョーⅡに、セブンは不退転の決意でアイ・スラッガーを胸部に何度も何度も叩き込む。そして、キングジョーⅡが倒れた瞬間、驚異の硬度を誇るアイ・スラッガーがポロリと欠けるシーンは、映像としても素晴らしかった。

大きな壁を前にしても、ひるまずに立ち向かう強い意志を持ちたいものである。

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2006年12月25日 (月)

コメントではない「コメント」

コメント…つまりは何らかの文章なり発言なり作品なりに対する、自分自身の思いや感想や意見を率直に語ったもの…それがあるからこそ、関係が生まれる。従って、コメントを口にするなり書くなりするためには、それなりに相手の言葉や作品にきちんと向き合うことが必要になる。

ところが、そうしたことを勝手に省略して、エゴを押し付けてくるものが混じっている。SPM業者のものは、その最たるものである。インターネットの性質上、そうしたコメントではない「コメント」が混じるのは仕方がないことである。それは分かっているが、不愉快でもあるので、最初は、公開設定で気づいたときにいちいち削除していた。けれども、公開を保留して確認した上で公開した方が、不愉快なSPMコメントは一掃出来ることに気づいた。

本当の意味でのコメントをいただいている方には、こちらが確認するまでのタイムラグは申し訳ないが、基本的には24時間の間に公開しているので、言葉を大切にする私自身のポリシーに付き合っていただけるようご理解いただければ…と思う。

お互いの言葉や作品を真摯に受け止めることから人と人との関係が生まれ、深まっていく。インターネット環境を、人と人とをつなぐものとして利用していければ…と思う。

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2006年12月24日 (日)

風に立つライオン…人としての想い

さだまさしの「夢回帰線」というアルバムの最後に「風に立つライオン」という歌が入っている。1980年代の後半に出たアルバムなので、すでに20年近くも前の歌である。ライナーノートによれば、彼が尊敬するという宮崎県の外科医のことを歌ったものだ。

歌詞は、ケニヤで巡回医療活動を行っている青年医師に元の婚約者から届いた結婚の知らせに対する返信という形になっている。アフリカの豊かで鮮やかな大自然を背景に、そこで暮らす決して経済的に豊かではないが心豊かな人々との交わり、日本へのそして元婚約者への想い……。淡々と流れるメロディー、語りかけるような歌声によって、それが聴く者の心に染み入ってくる。

国境近くの村でサンタに扮したクリスマスのひととき、そして大自然の中で高まっていく祈り……。生々しくも荘厳な生がそこにはある。では、日本は……。歌詞の中で青年医師は、大切なところで道を間違えたようだ、と綴る。アルバムの発売から20年近くの年月を経た今この歌を聴いていても、そのことを強く思う。道を間違えて多くの矛盾を露呈しながらも、この国は間違えた道を突き進んでいる。多くの弱者の痛ましい生と死に目を向けないまま、一部の人々が空虚な「繁栄」を謳歌している。

それでも、心ある人々は他者を思い、他者のためにも祈る。エンディングにはアメージング・グレースのメロディーが重なる。自らのためにではなく、苦しみ、辛い目をしている多くの人々のために祈りたい夜である。

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2006年12月23日 (土)

もう施行!? 改悪・教育基本法

改悪・教育基本法が22日に早々と施行された。憲法に規定されている教育を受ける側の権利としての義務教育の思想との齟齬、旭川学テ判決の国の教育権の制限、子どもの権利条約との齟齬は放置されたままである。もっとも、現状では関連法案の整備がなされていないので、直接現場に変化を強要する手立てに乏しい現実はあるのだが……。

ただ、強行採決をしたとしても、国民への周知徹底の義務を当然のことながら政府・与党は持つことになる。機会のある毎に矛盾を追及し、教育基本法の「再改正」の環境づくりをしていく必要があるだろう。それは、強行採決を許してしまった野党の責任でもある。特に社民党などは、平和を守る政策戦略の一環として教育基本法の「再改正」を考え、試案を準備することは党勢の巻き返しのためにはそれなりに有効に機能するのではないか…という気がしないでもない。攻めの姿勢はやはりものごとを動かす。その意味では、教育基本法に対しては、攻守が逆転しているのだ。それをチャンスとして活かすことが出来るように力を結集していけると良いと思う。

政府・与党の拙速は、この改悪・教育基本法の問題点を良く知っているからだと思う。だから、なるべくこの問題を早く忘れてもらいたいと考えているに違いない。だからこそ、ひっそりと、けれども素早く施行したのだろう。最近の政府・与党や官僚たちは、相手が法律を知らない…と判断すると、平気で人権侵害や不法行為をする。このブログでも以前に入管や検察の悪行を紹介しているが、今回の改悪・教育基本法がらみでも、今後、多くの問題が起きてくるに違いない。我々は、主権者である国民として、それを注意深く見つめていかなければならないと思う。

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2006年12月22日 (金)

教育行政の放漫

教育再生会議の中間報告の作成過程で、各委員からの反発が出ているらしい。「事務局」の側が勝手に議論の内容を削ったり、主張を弱めた表現に書き直したりしていることが原因だという。各種「審議会」などもそうだが、現場や本当の意味での「有識者」を無視して、自らの偏狭な知識のみでやり過ごそうという姿勢が図らずも露呈してしまった、ということだろう。

本当の意味で改革・再生を考えるのであれば、現場を含めた様々な視点・立場からの知恵や意見を結集し、十分に議論する時間を取ると共に、その提言には真摯に耳を傾ける必要がある。けれども、ヤラセのタウン・ミーティング事件が示すように反対意見を謀殺・黙殺してアリバイ的に「意見を聞くイベント」を開催し、実態を無視して勝手に事を進めようとするから問題は解決せず、矛盾が新たな問題を生じさせる。

教育基本法の「改正」という改悪についても、教育行政の中で意図的に教育基本法の精神を踏みにじり実現への努力を文部省・文部科学省・政府・与党自体が怠ってきた事実(例えば学校司書や司書教諭の設置を法律に掲げながら、何十年も完全実施を怠ってきたなどの事例は、明らかに改正前教育基本法10条違反であろう。)をごまかして、強行採決をしている。審議をしていけば、ボロが出るからであろうが、そのような拙速なやり方では問題山積の教育現場を正常化できないだろう。

複雑に変化する現代社会において、党派的な硬直した考え方で教育行政を進めようとすれば、様々な問題を生じさせるばかりでなく、国の未来を損なってしまう。未履修事件についても、国会で決められてないにも関わらず法的拘束力を持つとされている学習指導要領の矛盾が問題の背景にあるにも関わらず、現場に責任を押し付けて文部科学省や政府・与党の責任をごまかしたために、高校生は迷惑し、現場では自殺する校長も出た。責任の一端は現場にあるかも知れないが、そもそも現場を無視して勝手に押し付けられた実施困難な学習指導要領を作った責任は誰がとったのか。誰もとっていないのである。

これ以上、教育行政の放漫な姿勢を許せば、教育はさらに荒廃していく。未来の世代に美しい日本を残すためには、責任ある大人としてこうした教育行政の現実を容認することはできない。声をあげ、声を集めていかなければ……と思う。

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2006年12月21日 (木)

過労死を増やす気なのか!

ホワイトカラー・エグゼンプションの導入が議論されている。ところが、その前提となる「自律的な労働」が、実はまともに条件付けられていない。実際問題として、日本のホワイトカラーと呼ばれる労働者のほとんどが、自らの裁量で会社の都合や経営者の意思に関係なく仕事を配分・調整できる権限を持ち合わせていないからである。

そんな中でホワイトカラー労働者に対して労働時間規制の適用を除外する自由を企業に与えれば、不法行為の賃金未払い労働である【サービス残業】の不法性を不当に消滅させてしまう。結果として労働時間の増加と賃金の抑制につながる可能性は大きく、一層、ウツや自殺、過労死が増える危険が指摘されている。そういった点を考慮すれば、とんでもない制度であると言えよう。

ことは労働条件、労働問題に留まらない。それは、労働環境の問題に留まらず、労働者から家庭での時間を奪うことにもつながり、少子化の抑制に逆行するばかりでなく、家庭の教育力を一層弱体化させ、地域での活動や自主的なボランティアの時間さえも奪っていくことにもなる。企業経営者の目先の利害のみにつながる制度変更でしかないにも関わらず、厚生労働省は、これを進めようと動いている。薬害エイズなども含めて、国民・労働者の敵である厚生労働省の姿を象徴している事例の一つである。

このように問題の大きいホワイトカラー・エグゼンプションを何故導入しなければならないのか。連合はもちろん、マスコミも、この制度の問題点を徹底的に調べ上げ、導入を断固阻止する必要がある。今の日本の労働現場の現実からすれば、国民生活を破壊する改悪になってしまうのだから。【愛国心】を口にする人々よ、「美しい日本」を守るために、ぜひともホワイトカラー・エグゼンプション導入の阻止に全力をあげてほしい。

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2006年12月20日 (水)

意識の集中をめざして…

文芸同人誌に長く関わっているので、小説をはじめ、童話、詩、短歌、俳句、エッセイ、シナリオ、作詞など一通り書いて発表した経験はある。その中で、小説や詩などは、けっこう集中した状態でないと作品が書けない。ここ2週間くらいは非常に忙しく、睡眠時間も少ない状態であったので、特に新作の詩が難産になっている。

昨年だったか、次にあげたような詩を書き上げた。今年はまだ、この詩のレベルの集中の体験がなく、この詩と比較すると自分なりに納得できるような詩は書き上げていない。今年も残すところあとわずかになった。ゆったりとした時間を確保し、意識を集中して、何とか、それなりに満足できるレベルの詩を書き上げたいのだが……。

ぬれ落ち葉

                                 

さく さく とん

さく さく とん

晩秋の雨にたたかれて

落ち葉が土に佇んでいる

灰色の雲におおわれた

静かな夕暮れのひととき

からだいっぱいに光を浴び

柔らかな風に揺れた春の日々

眩しい陽光から樹下の命を守り

力強く空をにらんだ夏の午後

そして

命の役割を終え

枝先を離れて舞い落ち

鈍い土色に変わっていく

冷たい雨が肉を削り

細胞を崩していく

再び土にかえり

新たな命を育むために

アスファルトではなく

コンクリートでもなく

土の上に落ちた

ささやかな幸福がそこにある

さく さく とん とん とん

さく さく とん とん とん

雨粒が

ひとつ またひとつ

からだに染み込んでいく

命をつなぐ死が

世界をだきしめる

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2006年12月19日 (火)

真夜中のギター…懐かしい時間を

最近、忙しさの中で、ギターに触ることが少なくなった。けれども、ギターの手触りは何とも言えず、時にはゆっくりとギターと戯れたくなる。ギターのイメージで印象的なのは、小さい頃テレビで見聞きした「真夜中のギター」である。ギターを弾いて歌っていたシーンは微かにしか覚えていないが、歌詞の印象は強烈で、中学から高校にかけてギターに熱中した頃にも時々自分で弾いていたし、今でも気が向くとカラオケで歌うことがある。

それなりに人生を生きてきて「孤独」や「つらい」思いは何度となく経験しているか、あのギターのサウンドとアルトの優しい響きは、そうした経験を抱き締めてくれるように感じることがある。そのためか、我がCDコレクションの中にも、しっかりと千賀かほるのアルバムは1枚入っている。もちろん、冒頭に「真夜中のギター」が入っているアルバムである。

ゆったりとしたリズムと素朴なギターのサウンドが疲れのたまっている心と身体にゆっくりと染み込んでくる。真夜中に1人でギターを弾いたことは幾度もあった。それは、若かった頃の思い出のシーンだ。「真夜中のギター」の歌詞は、それとも鮮やかに重なってくる。

ウイスキーも良いが、たまには、少し錆びた弦を張ったままのギターに手を延ばしてみようか。それとも、少しボリュームを絞って、千賀かほるの「真夜中のギター」を聞いてみようか。冬の夜は更けていく。寝る前のひとときを懐かしい想いの中に浸って楽しむのも良いかもしれない。

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2006年12月18日 (月)

労働者の賃金を上げる能力のない経営者

大企業を中心に、「景気」は上向いているとのことだが、その実感が今ひとつ薄いのは、実は、経営側の無能によるものではないだろうか。確かに、会社が潰れそうな危険な状態の時に、労働者にも我慢をしてもらう…というのは緊急避難として仕方のないことかもしれない。けれども、業績が上がっているにも関わらず、労働者の賃金が上がらないというのであれば、それは経営側の無能ということになるのではないだろうか。

労働者が能力や業績で評価される…ということであれば、当然、経営者も同じようにきちんとその能力を評価されるべきであろう。そして、経営能力は、もちろん売り上げ等を上げることや無駄遣いを無くすことも大切だが、労働者の賃金や福利厚生、安全といったものが無駄遣いなのか…という問題が当然生じてくる。

安定して組織を維持していこうとするならば、設備ばかりでなく、働く従業員たちの技術の向上や安全、生活の保障があってこそ長期的に高度な技術や伝統が維持できるのではないか…。それを疎かにして「使い捨て」にすれば、有能であったはずの労働者のモチベイションや集中力が低下し、不良品の増加やサービスの悪化、大きな事故などにもつながりかねない。だから、労働条件や労働環境の整備といった視点が、当然、経営する側にも要求されなければならない。

それが出来ない経営者は、無能…という評価が当然なされてもおかしくない。そういう視点から見たとき、「有能な経営者」は、どれだけ日本に存在するだろうか…。少なくとも人件費や教育・研究費の削減で「利益」を粉飾しているような経営陣には、「有能」と呼ばれる資格はないと思うのだが……。

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2006年12月17日 (日)

言葉を大切に

国会の議論などでも感じることだが、最近は、言葉を大切にしていない人が増えているようだ。相手が子どもだろうと、自分よりも若い人であろうと、老人であろうと、一人前の人間であれば、自ら口にした言葉に責任を持つべきだろう。

間違ったことを口にしたら素直に謝ればいいし、知らないことは「知らないので教えて欲しい」とか「知らないから、また調べてくる」という形で対応すれば良い。それは、決して恥ずかしいことではないし、またそれによって本当の意味での権威や信頼感がなくなる訳ではない。返って、嘘を言う人ではない…と印象を持たれるようになり、発する言葉への信頼感が増すことにもつながるのである。

そして、口にしたことはきちんと実行する。あるいは、実行できなくても、最低限、実現のために最大限の努力をする。それが大切だろう。それによって、発する言葉に重みが加わり、尊敬や信頼を集めることにもなる。

ところが、最近の国会の様子や政府・与党の答弁、首相をはじめとする人々の言動はどうだろう。嘘とごまかしばかりで、権威や信頼感は感じられない。本人たちにとっても不幸なことだが、一般の国民はもっと不幸である。

やろうとすることを発言しなかったり、訊ねられたことに対してきちんと答えず沈黙したりごまかしたりするようでは、言霊という形で言葉を大切にしてきた美しい日本の伝統にも反する。上に立つものが率先して、言葉を大切にするべきだろう。

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2006年12月16日 (土)

対話をしてこそ

テロとの戦いのキー・ワードは、対話と共生である。

お互いの思いを伝え合うことと、共に生きていけるように努力すること、それが達成されれば、暴力は不要となる。逆に、相手の言葉に耳を傾けず、相手の生存権・生活権を奪うような行為を続ければ、暴力が始まる。暴力は新たな暴力を生み、憎しみを育てる。そして、双方の暴力行為はどんどんエスカレートしていき、当事者ばかりでなく周囲の多くの人々や国にまで不幸をもたらす。

どの国の歴史を紐解いても、これは変わらない。従って、対話は基本中の基本であり、これをなくして民主主義も人権尊重もありえない。けれども、こうした歴史に学ぶことを疎かにしている指導者が目立つ。中東問題におけるブッシュ政権、そして日本の安倍政権もそうである。

対話とは、お互いの意見に耳を傾けることである。そして、きちんと耳を傾けることによって、当然、意見の修正が行われ、それをすり合わせながら共に生きていける道を探ることが本筋であろう。

教育基本法や共謀罪、税制論議において、政府・与党に異なった意見に耳を傾ける姿勢はあっただろうか。教職員や大学教授をはじめ、多くの国民が慎重な論議を望む中での強行採決は、対話の拒否をその行動で示したものである。

対話が可能であると実感できてこそ、人や集団は平和的に話し合おうとする。それを無視し続ければ、話し合いに絶望する。その先は、「問答無用」…暴力を含めた行動で解決するしかない…と考える。特に、生存権・生活権を過酷なまでに侵害されていると強く感じていれば、暴力に対する躊躇はほとんど無くなる。

対話を拒否した関係の中では、テロや戦争の歯止めは効かなくなる。アメリカもそうであった。結果として中東情勢は混乱するばかりで、テロの脅威は世界中に拡大している。日本はどうだろう。政府・与党は、アメリカすらも方向転換を模索し始めている中で、旧来の方向を再考しようとする姿勢さえ見せていない。国内問題は、完全に対話拒否の行動を貫いている。テロや暴力がいつおこっても不思議ではないのである。

だが、責任ある大人として後の世代に未来をバトンタッチするには、それに絶望してはいられない。身の周りから、対話を深め、広げていかなければ……と思う。

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2006年12月15日 (金)

教育基本法「再改正」を目指して

なぜに議論ができないのか。問題点は、どんどん噴出しているにも拘らず…。一連の茶番劇を見ていてそう疑問に思っていたが、議論をすればするほど問題点やゴマカシが明らかになってしまうから、それから逃げているのだと理解できた。つまり、与党・現政権は、国会での議論に耐えられないほど無能なのである。

そうした無能な連中によって決められた新しい「教育基本法」は、当然、現行憲法との間での矛盾が出てくるであろう。まず、明らかな勘違いなのだが、義務教育は国家・現政権の権利ではなく、それを受ける国民の側の権利である。従って、次の課題としては、出来るだけ早く、教育基本法を再改正する準備を整えることであろう。

現場の荒廃を無視した拙速な「改正」によって、教育の荒廃に歯止めがかかるとは思われない。改めて、教育現場の「現実」を直視し、茶番のタウン・ミーティングではない広く国民や様々な立場の人々の意見を集約する場を組織し、その議論を持ち寄りながら国会で十分な審議を尽くす……つまり、今回の経過と反対のことをすれば、本当の意味での「教育の憲法」を再制定しなおすことができる。それが、未来の国民としての子どもたちのために、大人である私たちがしなければならないことであろうと思う。

郵政民営化については、確かに国民の意思が示されたかもしれない。けれども、それは労働条件の悪化を許容したり、一般国民に対する増税を許容したり、教育基本法を議論もまともにせぬまま強行採決を続けたりするのを許容した訳ではない。約束もしてないことを議論せぬまま勝手に決めることしか出来ないのは、議論をすれば嘘や矛盾がバレるという政府・与党の判断があるからなのだろう。

自分たちは骨身を削らずに、一般の国民・労働者にばかり負担を押し付け続ける「改革」は、もはやいらない。その事を忘れずに、【準備】をしていかなければ…と思う。

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2006年12月14日 (木)

TMの責任のとり方…処分で済むの?

タウン・ミーティングの責任の取り方がおかしい。やらせや、おかしな税金の使用によって【民意】を広く聞いたという前提が崩れているのだから、当事者の処分で済んで良いはずがない。関連法案は一度廃案にして、選挙できちんと問うのが筋である。つまり、郵政解散のように教育基本法解散をして民意を問うべきなのだ。

それを減給/給与の返納でごまかそうと言うのだから、総理大臣が子どもたちに「ごまかしたもの勝ち」「金で解決すれば良い」と、実際の行動で示していることになる。道徳や徳目を語る資格を自ら放棄したのと同じである。

そんな党首の率いる与党の主張が信頼に値するか、その言葉が信用できるか、否である。どこが「美しい国」なのか。堕落したウソツキの使って良い言葉ではない。本音は「問答無用」であり、アメリカに日本を売り渡すためなら、どんな姑息な手を使い、民主主義・国民主権を機能不全に陥らせてもかまわない、ということだろう。

自らの能力が低い人間は、過ちを認められず、したがって軌道修正が困難になる。今の与党や政府の姿である。そして、能力が低いがゆえに、本当に能力のある人の出現を恐れ、その芽を摘もうとする。結果として、その集団はどんどん衰退していくことになる。

日本は再び、滅びの道を辿りたいのだろうか…。

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2006年12月13日 (水)

地方の財政危機

夕張市の財政悪化を皮切りに、複数の地方自治体で、財政危機の公表がなされ始めた。地方を切り捨て続けてきた国政のツケが、このように具体的な形で表面化してきたといえるだろう。そもそも、郵政民営化自体も、明らかに地方切り捨てである。選択肢の多い大都市ならば郵政民営化は民間のサービスによってカバーできるが、地方ではそうは行かない。ニュージーランドのように民営化が失敗であったとして方向修正をしているところもあるのだ。

「景気回復」もそうである。労働者や地方にはなかなかその恩恵が行き渡らない中で一般国民への増税だけが議論をされる。給料が上がらず、家計の収入が頭打ちの中で税金が上がれば地方の消費はさらに冷え込み、また倒産が増え、失業者が増加する悪循環に陥りかねない。

それが広がれば、都市部も労働環境や住環境が悪化し、マイナス面はさらなる広がりを見せることにもなりかねない。疲弊した地方へのテコ入れは、日本の未来を左右する緊急課題なのである。

それなのに、なかなかそうした動きが見えてこない。防衛庁や共謀罪などよりも、地方の再生の方がよほど緊急かつ待ったなしの課題である。地方を立て直して生活が出来るようになれば、やがて税収の増加も見込めるだろう。アメリカの顔色ばかりを窺っていないで、もっと足元に目を向ける必要がある。

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2006年12月12日 (火)

帰ってきたウルトラマン印象記…怪獣使いと少年

「帰ってきたウルトラマン」のエピソードの一つに「怪獣使いと少年」という話がある。

宇宙人に助けられて一緒に暮らし始めた身寄りのない少年が、他の子どもたちや地域の大人にいじめられ「宇宙人」と言われて差別され続ける。けれども少年は、地球の大気汚染などによって身体を蝕まれ健康を害した宇宙人を守って、必死に生きようとする。

ウルトラマンに変身するMATの郷隊員は少年に寄り添おうとするが、町の人たちの偏見が、少年をリンチにかけようとするまで暴走し、それを救おうとした宇宙人は、結局命を落としてしまう。その結果、宇宙人の力によって地中に封じ込められていた怪獣が、封印を解かれて暴れだし、町を襲い始める。郷隊員は、結果として宇宙人を死に追いやった町の人々を助けることに迷いを持つが……。

ストリーを追っていくとこのような流れになる。子ども番組という形を一応取っているわけだが、見ていると、人間の醜い部分を突きつけられて辛くなり、ウルトラマンが登場する場面では「ほっ」とするような感じになる。

シナリオは沖縄出身のライター上原正三。非常に、印象深い作品である。

初めてこの作品を見たときには、ここまでの現実はもう日本では姿を消しただろう…と信じたかった。けれども、外国人と関わる中で、日本の法務省や入管、あるいは政治家たちの差別意識の酷さを目の当たりにすることがたくさんあった。

そして、小泉「改革」から安倍政権の流れの中で、人権侵害の状況はどんどん悪化しているように感じられる。子どものいじめ問題も、大人の社会に蔓延しているもっと悪質ないじめが強い影響を与えているのではないか。そう思わずにはいられない現実が、あちこちに存在している。最近の「自立」を口実にした弱者の生存権を奪う法改正は、政府・与党によるいじめ以外の何ものでもない。

しかし、我々の現実にはウルトラマンは存在しない。我々自身の手で矛盾を正していかなければならないのである。

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2006年12月11日 (月)

未来のためにできること

何のために歴史を学ぶのか。それは、未来を開くためだと思う。小学校の頃から本を読むのが好きで、色々な本を読むうちに、一時期、歴史の本を読み漁ったことがあった。その流れや、様々な人々の存在が興味深く、日本史から世界史、古代史から現代史まで本当にたくさんの本を読んだ。

やがて、歴史に学ぶことは、未来を模索することにつながっていることを実感するようになった。人間は、けっこう同じような過ちを繰り返しているのである。だから、真摯に歴史に学ぼうとすれば、現在の「危なさ」や「危うさ」が見えてくることがある。

始まり、きっかけは小さなことでも、それが大きな流れになってしまうと、抗うことはもちろん、多少なりともその流れを変えることさえ難しくなってしまう。例えば、日中戦争・太平洋戦争への流れにも、たくさんの「小さなこと」が散りばめられている。

それを知れば知るほど、今の日本の危うさを感じずにはおれない。不正や汚職が横行し、人々が政治に絶望したときにテロが始まり、それが議会制民主主義を窒息させていく。やがて、自由がどんどん制限されるようになり、ついには目も耳も奪われた民衆は、勝ち目の無い戦争へと押し出され……。

「小さなこと」の1つに教育の統制があった。その歴史に学んだからこそ、教育基本法が生まれたのである。けれども、下位法規によってそれが形骸化されていく。その流れは、日本の再軍備の歴史とも重なっている。そして、それをさらに進めようとするのが、今回の教育基本法「改正」である。本当の意味で「正しく」「改める」ならば、十分な説明と慎重な議論が必要なはずである。けれども、それをしないのは、政府・与党が、歴史に学ばす、現実に背を向けているからであろう。

身内だけの小さな考えで凝り固まっていては、世界の大きな流れは見えてこないし、自分たちの発想を超える広い考えや深い考えが理解できない。その結果、未来の可能性に枠をはめ込み、どんどん縮小させてしまう。

自分のためではなく、未来の世代のために何が出来るのか。今、明日、そして……。伝えなければならないことがある。それが、大人としての責任である。例えば、関わりのある人たちに……。そして、出会った人たちに……。1人の力は小さいかも知れないが、その小さな力を少しでも集めて生きたいと思う。

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2006年12月10日 (日)

良く寝た…ということは?!

昨日は、起きる時間も遅かっただけでなく、午後も夕方まで昼寝をしていた。これ程長い時間寝たのも久しぶりで、少し腰が痛いくらいだった。だが、逆に言えばそれほど疲れていたということなのだろう。

元気であれば、映画にでも出かけっていただろうが、そんなことすら頭に浮かばないほどまぶたが重く、布団が恋しかった。「惰眠をむさぼる…というところか」などと自嘲しながらも、出かける気力はなく、とうとう24時間家で過ごしてしまった。本当に珍しい1日だった。

そのせいだろうか、今日はけっこう調子が良い。研究会の案内や集会案内もすべて作り、郵送できるようにした。すっかり締め切りを過ぎてしまった詩の方も、何やらイメージがぼんやりと浮かんできている。まだ、最初のフレーズが出てきていないが、何とか今月中に出来そうな希望が出てきた。

年齢的に考えれば、ある程度忙しいのは仕方がない事かもしれない。けれども、ちゃんと休まないといろいろと支障が出る。特に今回、どうしても詩のイメージが浮かばなかったのは、けっこうショックだった。周囲との関係で、やらなければならない仕事も多い。それでも、自分の身体のためにも、そして自分らしさを支える文学と関わり続けるためにも、きちんと休みは取らなければ…と思う。

もっとも、それを許そうとしない事情も多い。けれども、その背景が正しいか…という事を考えてみる必要がある。住基ネットの裁判ではないが、不完全な制度を、問題点が指摘されているにも関わらず、無理やり導入したのは政府・与党である。離脱に費用がかかるというのであれば、それを進めた官僚や賛成した議員の給料や退職金を返納させてでもその費用を賄うべきだろう。住民に責任はなく、制度を作って決めた側の責任なのだから。「自己責任」という言葉を発する相手に、本当に責任はないか考えて、相手の責任まで押し付けられないようにしなければならない。

ひどい世の中である。

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2006年12月 9日 (土)

企業過保護の亡国

労働環境が悪化する中、経済財政諮問会議で提案された「労働ビッグバン」は、さらにそれを悪化させようというものであった。「景気回復」の実感が一般には乏しく、その足腰が弱いのは内需の拡大が不十分だからであり、それは、大企業の論理やアメリカ政権の要求を優先した経済政策の結果である。一般の国民や地方の普通の企業が恩恵を被っていない以上、内需の拡大はもちろん国民からの税の増収は見込めない。一時は外需に活路を求めることは出来ても、内需の勢いを取り戻さない限り長期的な経済成長は見込み薄だろう。

労働環境の悪化は、少子化問題や教育の荒廃ともつながっている。長時間・低賃金労働に縛られていては、安心して家庭生活や子育てを充実させるのは難しい。これ以上一般国民や労働者を疲弊させては、国そのものが滅んでしまう。

政府・与党は、大企業に対する過保護の経済政策を転換する必要がある。まずは、各種の諮問会議に様々な立場・考えを持つ人材を発掘し、登用すべきであろう。労働者の代表の存在しない経済財政諮問会議や一般の教職員や父母の代表のいないような教育再生会議では現場の実態・現実がわからず、返って間違った結論を出してしまう危険が大きくなってしまう。必要なのは、広い視野・長期的な視野からの提言であって、一部の利益だけを追求するような「提言」では、将来的にはすべてが崩壊してしまう。

大企業の代表者たちは、タコが自分の足を食べて生き続ける事が出来ない、という事実を無視しているのではないだろうか。労働者の賃金すら上げられないトップは、経営能力に欠けていることをもっと自覚すべきだろう。それを考えれば、労働者の賃金が上げられない企業経営陣に、高給を受け取る権利はない。悪質な給料泥棒であり、それを野放しにして【サービス残業】などと呼ばれている賃金未払い労働を放置していては、不当な格差が拡大し続けるだけである。

今のように大企業過保護の経済・財政政策を続けていれば、甘やかされた大企業はやがてその力を失い衰退していくだろう。国民増税・大企業減税など、長期的な展望のない、私利私欲の提案である。子育てに過保護がよくないように、大企業に対する過保護な経済・財政政策は、国民ばかりでなく当の大企業の未来をも奪ってしまう。それとも、太平洋戦争の時と同じ様に、自ら滅亡への道を突き進みたいのだろうか?

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2006年12月 8日 (金)

太平洋戦争開戦の日に…

12月8日…多少なりとも歴史を気にする人であれば、今日が太平洋戦争開戦/真珠湾攻撃の当日であることを知っている人は多いだろう。子どもの頃は、ゼロ戦(零式艦上戦闘機)が好きで、その関連の本を何冊もむさぼり読んだものである。だから、いまだに写真や絵を見れば「これは32型だ」「これは52型だ」などと解説を見なくても判断できる。

が、実際にそのゼロ戦の存在によって失われた命がたくさんある。アメリカにも、中国にも、フィリピンにも、日本にも…。戦っていた相手国の国民はあるいは撃たれ、あるいは護衛された爆撃機の落とす爆弾によって殺されただろうし、また戦争の末期には、菊水作戦などとても「作戦」とは呼べない【特攻】によって、多くの若い命がむざむざ死に追いやられてしまった。

この戦争によって多くのものが失われたが、今の日本の政治を見ていると、政権担当者たちは真摯にこの戦争の歴史に学んでいないように思われる。講和の目途もなく、無鉄砲に戦争をはじめ暴走した軍部…。同じように経済や外交の失敗に目をつぶり、方向転換が出来ないままズルズルと国民を傷つけ、国家財政を破綻させようとする「政策」が続いていく。

美しい国、伝統、そういったものを口にするのであれば、まず真摯に歴史に学ぶ必要がある。いじめた本人は忘れてもいじめられた被害者は決してそれを忘れない。日本人が広島や長崎、沖縄を忘れないように、中国の人々は重慶の無差別爆撃や南京での虐殺を忘れないのだ。

1941年と言えば、もう65年も前のことである。けれども、ある意味ではまだ65年しかたっていないのだ。今日は、少し太平洋戦争のことを思い出したいものである。

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2006年12月 7日 (木)

祈り…交響組曲・宇宙戦艦ヤマトを聞きながら

昨夜は、久しぶりに〈交響組曲・宇宙戦艦ヤマト〉を聞いた。①序曲、および⑪明日への希望のところに川島かず子のスキャットが入るが、その透き通った祈りのような歌声は、砂浜に染みていくさざ波のように心を包んでくれる。テープを買い、レコードを買い、CDまでも買ってしまった理由である。

そう言えば、〈宇宙戦艦ヤマト〉のドラマの中にはそこかしこに祈りがあったような印象がある。ガミラスの遊星爆弾に攻撃され、滅亡の危機にあえぐ地球、本土決戦の結果死の惑星となってしまったガミラスを見つめる古代進や森雪の心、そして人々の死に絶えたイスカンダルで1人生きようとするスターシャ……。それらのイメージの中に鎮魂の祈りが漂っている。

鎮魂の祈り、それは私たちが持っていた「美しい日本」の伝統の1つではなかっただろうか。原作者の1人である松本零士は、戦場マンガシリーズとして分類される多くの作品を描いているが、その作品の多くの鎮魂の思いを感じることが出来る。辛く哀しい戦争の歴史を経てきた日本という国の歴史を深く知れば知るほど、今の日本の政治や社会に失われようとしている本当の意味での「美しい日本」の姿が浮かび上がってくるが、それは某首相の著作の中身とは似ても似つかぬものである。

この鎮魂の祈りの音楽イメージは映画〈さらば宇宙戦艦ヤマト〉にも引き継がれている。流れゆく音楽の中に漂いながら、忙しさの中で見失っていたものを思い出したい。

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2006年12月 6日 (水)

転換できない弱さ

新聞で、市内の企業倒産件数が県下1になったと報じられていた。労働者や中小企業に「景気回復」の恩恵を分け与えることなく都市部の大企業中心の経済政策を推し進めている以上、夕張市の例も含め、地方の困窮は必然と言うべきだろう。

こうした政策が失敗であったことはアメリカの選挙結果や南米諸国での反米政権の勢力伸長を見れば明白だろう。けれども、政府・与党は、失敗が明らかになっている「新保守主義」の政策を転換できないままさらに推し進めようとしている。

現場の声を無視した【帳尻合わせ】の医療〈改革〉や福祉制度の〈改革〉によって、自立どころか【生存権】を失って病死したり自殺したりする人々のニュースが次々と報道されている。イギリスなどと比較しても、再チャレンジのシステムをきちんと作らないで【自己責任】という言葉で論評しても、その制度改革が破綻していることは既に明白である。「美しい国」というスローガンは、今や大いなる皮肉と化しつつある。傷が広がらないうちにさっさと方向転換をした方が、少しでも「美しい国」を残すことができると思うのだが…。

今、政府・与党は第二次世界大戦時の日本軍部や政府と同じ間違いを犯そうとしていないだろうか。撤退する勇気を持たなければ、また日本が焦土と化す。特に、国民の心が荒廃し、焦土と化してしまっては取り返しがつかない。子どもの世界のいじめが問題になっているが、大人の世界ではより陰湿・悪質ないじめが横行している。高止まりをしたままの自殺者数、そして成人のひきこもり…。これこそ、国民の心の焦土化の証である。

決断は、少しでも早い方が良い。自らの弱さを意識して、早く方向転換をする勇気を持って欲しいのだが…。多分、数字の操作でごまかし続けた【景気】の失速は、方向転換をしなければ、予想以上に速い足取りで迫ってくるだろう。

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2006年12月 5日 (火)

他者を思いやれる豊かさ

「情けは人のためならず」という言葉がある。一部に「情けをかけると相手のためにならない」と誤解している人もいるようだが、本来は「他者に情けをかけると巡りめぐって結局は自分にも恩恵がくるので、相手のためではなく自分のためになる」という意味である。まあマンガ『はいからさんが通る』(大和和紀)に出ていた〈今週の御言葉〉の1つにある「見返り期待し、いつも親切」という部分も含めた諺と言えば良いだろうか。

だが、心理的・仏教的な視点から見れば、より直接的に自分自身に返ってくる部分もある。具体的に例を挙げて説明してみよう。

まず精神的な面から考えれば、「他者に情けをかける」などという行為自体が、他者を見つめることの出来る時間的・精神的な余裕を必要とするので、それだけの余裕・ゆとりを持った状態に今の自分がいる…という証拠・証明となるからである。実際、その余裕・ゆとりのない人は、自分のことで精一杯である。それは、それだけ精神的に追い詰められているということなのである。

仏教的には、布施、喜捨などがあるが、相手に施しを与えることで優越感に浸る…ということではなく、相手に受け取ってもらうことによって自分自身の心に豊かさを与えてもらう…という発想になる。それを考えれば、受け取ってもらうことに感謝の念も芽生える。そういうことから考えれば、直接自分に返ってくる行為…と言うことになるのである。

さて、現代の日本社会を振り返ってみよう。自分が得をするためならば他者が苦しもうが悲しもうが何とも思わない…という人が増えていないだろうか。それは、その人自身が心の余裕・ゆとりを失っている、ということでもある。確かに、心身ともに追い立てられて疲れ、安心して安らげる居場所を持てないような状況では、なかなか他者には目が向かないかもしれない。

けれども、そこで敢えて他者に目を向けてみる必要があるのではないだろうか。自分より辛い人や苦しんでいる人、あるいは悲しみの中にのた打ち回っている人がいるかもしれない。そんな人に手を差し伸べる事ができたとき、同時に自分の中に何かを受け取ることが出来る筈である。シンドイ中でも、そんな部分を持ち続けていられれば…と思う。

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2006年12月 4日 (月)

なぜ復党なのか

郵政民営化造反議員のうちの11名が自民党に復党するらしい。反対して当選した議員は、それが地元の民意だったはずなのに、それをあっさり覆すということであり、自民党自体も郵政民営化を掲げて選挙を戦った以上、郵政民営化賛成の民意によって多くの議席を獲得したのだから、反対議員を復党させることは、その民意を無視することである。

従って、この一件で、彼らは、自分たちが民意を無視し公約など何とも思っていないということをその行動で示したわけである。民意も議論も関係ない、という与党の元で政治が動かされ、民意すら問うことがなかった教育基本法や共謀罪は勝手に成立させようとする。しかも、報道されているタウン・ミーティングの実態からすれば、ヤラセで「民意」を偽装しようとしたことも明白である。もはや、日本は民主主義国家ではなくなった、と与党がその行動で表明しているという事なのだろう。

折りしも、今日のニュースでは、南米のとある国で反米左派の大統領が圧倒的大差で当選したことが報じられていた。ニュースのコメントでは「独裁色が強まる恐れ」などという言葉が聞かれたが、自民党のやり方と比べたらどちらが民意を反映しているかは明らかである。そう言えば、タイのクーデターも、現在は多少批判の動きも国内では出ているようだが、国民の支持は失ってはいないようである。いったい、日本の政治と比較して、どちらが民主的だと言えるのだろうか。

いずれにしろ、民意を無視し、公約しなかったことを勝手に強行採決していく手法は、明らかに独裁のそれである。しかも、その結果として国民の生活が豊かになるのであれば支持することもやぶさかではないが、国民の多くはどんどん困窮し息苦しくなるのでは話にならない。

次の国政選挙では、ささやかな一票を、心して投じたいと思っている。

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2006年12月 3日 (日)

心身の疲れ

最近の忙しさで、疲れがたまっているようだ。まず、身体だが、朝9時過ぎに起きるつもりだったのが、11時前になってしまった。非常に分かりやすいパターンだが、もともと身体はそれ程丈夫ではないので、この種のサインや頭痛、あちこちの痛みといったサインには注意したいと思っている。

それに加えて、今日は昨日家族に頼まれていたことを完全に忘れていた。併せて、すぐに謝れずすっと言い訳の言葉が出ていたことに気づいた。これは、精神的にも疲れがたまっているサインだろう。余裕がないから忘れるし、イライラする。そういう時は、素直に謝れなかったり、愚痴を言い続けたり、間違いや過ちを認められなかったりするものだ。心の方も大分疲れているようである。

こういうサインに気づけば、ある程度、休むことを優先しなければ…と思う。無理をしても長い目で見れば能率は上がらないばかりかどんどん低下する一方だし、病気やウツになればあらゆることに悪影響が出てしまう。それよりも、ある程度腹をくくって休んだ方が、結局は集中力や体力も回復して心にもゆとりが生まれ、能率も上がってくるのだ。

時には、多少無理をするのも良い。けれども、無理をし続けると、自分自身はもちろん、家族にとっても、仕事の面でもマイナスになる。サインに気づく余裕がないと、ついつい無理をし続けてしまうのだから、最低限、サインに気づく余裕は失わずにいたいものである。

日本社会は、大丈夫だろうか。働き過ぎの人が増えていないだろうか。目先のことに追われ、ゆとりと長期的な展望が失われつつあるような気がするのだが……。

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2006年12月 2日 (土)

寒い夜はホットでも

本当に美味しいウイスキーはストレートで……。ウイスキーとの付き合いは、いつの間にかそういうことになっている。スプリング・バンクやグレン・スコシアなどはストレートで飲みたいウイスキーだ。ただ、基本はやはりロックという感じである。

でも、寒い夜にはホット・ウイスキーも良い。けっこう、身体があったまるのだ。最近は、あまり外には飲みに出ていないのと、家にいても仕事がたまっているのとで、あまりウイスキーを飲んでいなかった。今日も、飲みに行くことを考えていたが、この一週間の疲れや寝不足のせいで、夕食の後、数時間眠ってしまった。

今から飲みに行こうと言うほどの元気はさすがにないので、今日は1人大人しく家で飲んでいよう。さすがに、12月ともなれば、夜更けの寒さは堪える。いちいち氷を出すのも冷たいので、カティー・サーク辺りでホット・ウイスキーを作ろう。カティー・サークはもともと色の薄いウイスキーだが、お湯で割ってしまえばさらに薄くなる。それでも、ブレンデッド・ウイスキーなので、シングル・モルトのような強い個性はなく、割とウイスキーに慣れていない人でも飲みやすい。

というよりも、日本で知名度の高いスコッチはほとんどブレンデッドだ。バランタイン、シーバス・リーガル、ジョニー・ウォーカー、オールド・パー、ホワイト・ホース、ティーチャーズ、ロイヤル・ハウス・ホールド、デュワーズ等等…。飲みやすいと言っても、ブランデーほどは甘くなくそれなりに癖もあって楽しい。

明日の朝も仕事が入っている。あまり飲み過ぎない程度にホット・ウイスキーを楽しもう。

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2006年12月 1日 (金)

ウルトラセブン印象記…超兵器R1号

数々のウルトラシリーズの中でも、もっとも好きなのは「ウルトラセブン」である。その中でもいくつかの特に印象深いエピソードがあるが、世界に戦禍が広がり続ける現実の中、「超兵器R1号」のエピソードを思い出さずにはいられない。いわゆる〈ギエロン星獣〉の登場するエピソードである。

日々、侵略の危機にさらされ続ける地球で、惑星も1発で破壊できる〈超兵器R1号〉が完成する。そして、その実験に、観測の結果生物がいないという結論にいたったギエロン星を使うことが決定される。そして、実験は成功しギエロン星は宇宙から消滅するが…。

このエピソードで、モロボシ・ダン(ウルトラセブン)は、兵器開発競争を「血を吐きながら走り続けるマラソン」である、として止めようと説得し続ける。最初はその意見に耳を貸さなかった参謀たちも、〈ギエロン星獣〉の事件を経験した後、「R2号の開発を止めるように進言してみる」と言って負傷したダンが治療を受けている部屋から出て行く。

武力による威圧ではなく、共存できるような外交努力によって共に生きる道を探ろうというのである。そのラストには、小さいながらも本当に心を動かされたし、ぜひそのような世界になって欲しいと思った。

振り返って、今の日本、今の世界はどうだろうか。「血を吐きながら走り続けるマラソン」を今も続けている国がある。そして、私たちの祖国……。戦争の歴史に学ぶことなく、再び「血を吐きながら走り続けるマラソン」に参加しようとしていないだろうか。未来の世代のためにR2号の開発を止めるように進言できるような大人でありたいと思うのだが……。

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