« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »

2007年1月31日 (水)

『銀翼…つばさ』を読む

『銀翼』は1997年に立原あゆみが「少年チャンピオン」に連載し、後にYCコミックスにまとめられて出版されたマンガである。

戦後ではなく、「戦前」のような空気がじわじわと日本に広がってきている。自ら戦場に足を運ぶことのない無責任な輩が、嘘とごまかしで塗り固めた法律と手続きで、自衛隊を危険な〈非戦闘地域〉へと送り込む。そして、世界の各地で吹き荒れる「テロ」の嵐…。弱者を巻き込むテロは決して許せないが、同様に強国が欲望のために人々の生活を破壊し、貧困と絶望を拡大する事も絶対に許せない。

 

太平洋戦争の歴史を知る日本人であれば、戦争末期、飛行機等による特攻作戦を立案して実行させた上層部はともかく、家族や故郷の「くに」を守るためと信じて敵の艦船に体当たりを敢行した一人ひとりの特攻隊員を責める人はまずいないだろう。

 

このコミックは、そうした特攻隊員の一人が、知覧を飛び立つまでの姿を描いたものである。

 

爆弾を抱いた一式戦闘機「隼」にのる渋沢大助という青年がこの物語の主人公である。母の、婚約者の、大切な家族の生きる故郷を守るために命を投げ出す。けれども、それで戦争に勝つわけではない。大声では言えないそんな予感が、隊長や特攻隊員の胸に澱んでいる。

 

だが、こうした思いは、パレスチナやイラクでの「自爆テロ」と重なっていないだろうか。「話せばわかる」ならば、誰も自分の命を犠牲にしたりはしない。努力によってどうにかなる状況ならば、そしてその希望や可能性が実感できるならば、自分の命を犠牲にして他人を殺す必要などありはしないのだ。

 

もはや、語れる言葉もなく、希望もない。

そうした状況の中で、知覧から多くの若者が飛び立っていった。「特攻」などという作戦ですらない作戦を立案し、実行させた指導部の罪は重いが、命を賭けて「特攻」という殺人・破壊行為に及んだ特攻隊員を糾弾する言葉を私は持たない。

 

では、「自爆テロ」はどうか。イラクやアフガニスタンの人々の苦しみ、パレスチナ難民の絶望と怒り…。新聞やTVニュースではあまり詳細に報道される事はないが、僅かに伝えられる内容を見てもその惨状は目を覆うばかりであり、しかもそれはほんの一部に過ぎない。テロによって亡くなった人々の存在やその家族の悲しみを思えば胸が痛むが、そうした現実に思いをはせれば、「自爆」をした「犯人」たちの周囲にもそれに勝るとも劣らない悲しみや苦しみ、絶望があったのではないだろうか。

 

確かに、罪もない人々や弱者を犠牲にするテロは許せない。けれども「テロには屈しない」と叫ぶ人々の「反撃」によって、もっと弱く貧しく、罪のない人々が犠牲になっている。使用者が「核兵器」と認定していない【劣化ウラン弾】によって多くの人々が今尚「被爆」し続ける現実。高い失業率。そして「責任」をとる訳でもない「誤射」「誤爆」など生活や文化を破壊し、人々の命さえも奪い続けて責任をとらない卑劣な行為の数々…。私は、それらも国家による「テロ」だと思う。

 

ある意味では、「争う」事は簡単なのだ。しかし、暴力で「その場」は押さえられても、根本的には何も解決しない。大切なのは、理解し、分かち合う事である。

 

私たち日本人は、【特攻】という歴史を持っている。その背景には、爆弾を積んで飛び立っていった若者たちの絶望と純粋で切ない思いがあった筈である。

 

そうした歴史から学ぶことが出来れば、「自爆テロ」の背景にあるものも少しは理解できるのではないだろうか。「テロに屈しない」と叫ぶのは易しい。けれども、日本の歴史を真摯に学べば、それだけで済ませてはいけない何かがあるのか分かる。【特攻】という歴史を持つ日本だからできる事…。私たち一人ひとりが、それを真剣に考え、それぞれが地道に出来る何かを探していくことが大切だと私は思う。

 

人気ブログランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年1月30日 (火)

「ゆりかごの歌」…谷山浩子《翼》より

谷山浩子の《翼》というアルバムの中に「ゆりかごの歌」という歌が入っている。ゆりかごの中で眠る赤ちゃんに語りかける声は……。

風が、ゼンマイ仕掛けの猫が、オルゴールの歌姫が、おもちゃたちが、そして絵本が、同じ言葉を繰り返す。「人は人を殺せる」…優しい旋律にのって、恐ろしい言葉が何度も何度も波のように寄せては返す。

恐ろしい言葉ではあるが、それは【事実】でもある。人は、自分という存在をも含めて、人を殺すことができる。イラクでも、アフガニスタンでも、そして日本でも……。人とは、そういう存在なのだ。憎しみの中で、あるいは恐怖の中で、他者を殺す人々。そして、絶望し、苦しみから逃れようと自分を殺す人々。いずれの立場でも、人は人を殺す。他の動物たちとは異なり、人は、意識して人という存在を殺すことができるのだ。

そうした、恐ろしい【事実】の蔓延する世界で私たちは生きている。その【事実】から目をそらせてはいけない。が、それでも私は生きて生きたいと思う。少しでも、その恐ろしい【事実】を変えていくために。この歌を聴いていると、そんなことを考えてしまう。

人は、人を殺せる。誰が、そうしたのだろうか。だが、同じように、人は人を助けることもできる。そのような生き方をしたい。選択するのは、自分自身である。

 

人気ブログランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月29日 (月)

零式艦上戦闘機

戦争は嫌いだし、平和を守るための努力は常に行われなければならないと考えているが、戦闘機はけっこう好きである。特に零式艦上戦闘機(ゼロ戦)は、シルエットを見れば、これは21型、これは32型、これは52型…というように判断することもできる。

もちろん、これは隼(陸軍・一式戦闘機)、こちらは飛燕(メッサーシュミットをモデルにした陸軍・三式戦闘機)、そしてこれは疾風(大東亜決戦機とも呼ばれた陸軍・四式戦闘機)…これは雷電(海軍・局地戦闘機)、こちらは紫電21型(紫電改)…といったレベルならば、ゼロ戦ほどではないにしてもある程度判るし、F15イーグルやF14トムキャット、F16ファイティング・ファルコンなども知っている。戦争に使う兵器であることを考えなければ、そういうメカニックなものは元来好きなのである。

ゼロ戦も中学校の頃には、設計を担当した堀越技師の書いた本を読んでいて、昇降舵の剛性低下の技術や流線型の落下タンクなどの技術は、当時、ゼロ戦が初めて導入した話などを興味深く読んでいた。プロペラも当初は二枚だったのが振動が激しかったので三枚に変更したら安定した…という話も面白かったのを覚えている。

けれども、ゼロ戦の開発計画に防御思想が弱かったことなどもあり、重装備のF6Fヘルキャットの登場によって苦戦を強いられ、兵士を使い捨てにする無謀な作戦によって多くの犠牲を出し、やがては菊水作戦によって【特攻】に使われていった…という太平洋戦争を象徴するような運命には胸が痛んだ。

けれども、ゼロ戦によって殺された人々も存在する。重慶の無差別爆撃を護衛したのは実はゼロ戦であり、日本にとっては迎撃戦闘機のすべてを打ち落とした華々しい「戦果」であったとしても、市民にとっては多くの死傷者の元凶を作った憎むべき存在でもある。

そうしたことも含めて「戦争」を記憶し、平和への努力を積み重ねる必要があると思う。

人気ブログランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年1月28日 (日)

星の子守唄…SF西遊記スタージンガーより

松本零士の関わったTVアニメの一つに【SF西遊記スタージンガー】という作品がある。1978年4月から79年6月にかけて放映されたものでオーロラ姫を守って、ジャン・クーゴ、ドン・ハッカ、サー・ジョーゴの3人のサイボーグが宇宙を旅をする話である。そのアニメの後半のエンディングが増山江威子の歌う「星の子守唄」である。

松本アニメの子守唄では、【宇宙海賊キャプテンハーロック】の挿入歌の一つ「銀河子守唄」も好きだが、「銀河子守唄」が父親が娘のために歌う子守唄として心優しく聞いていられる歌だとすれば、この「星の子守唄」は母性溢れる安らぎの歌…ということになろうか。

スタージンガーのオーロラ姫が、本来の『西遊記』における三蔵法師の立場になるわけだが、このオーロラ姫はメーテルやスターシャ、雪野弥生(1000年女王)、霧野リサ(惑星ロボ・ダンガードA)などの松本作品における主人公を見守る母性的な女性キャラクターの系譜に入る存在となっている。だが、メーテルのような陰のイメージをほとんど持っていないために良い意味での母性の塊のような印象を受けるが、その分、キャラクターとしての存在感には弱さがある。しかし、この「星の子守唄」は、まさしくそのオーロラ姫の存在そのものをまるごと歌にしているような作品に仕上がっているので、聞いていてとても心地良いのである。

だから、疲れているときに聞くと、とても心が休まる。もはや30年近くも前の歌であり、覚えている人もそれ程多くはないだろうが、何とも言えず好きな歌の一つである。

 

人気ブログランキング  … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月27日 (土)

どうして改造が行われたのか

パロマの事故関連のニュースで、死亡事故に至ったケースの多くに、改造の問題があった。それを聞いていて疑問に思うのだが、なぜ改造しなければならなかったのかという点である。それなりに複数の新聞やニュース番組を見ているが、改造した結果として一酸化炭素の発生を指摘する解説はあっても、なぜ改造が行われていたのか…という理由を突っ込んで取材・報道していたものを寡聞にして知らない。

例えば、自動車やバイクの改造ならば、スピードを上げるとか見栄えを良くする(使用者の感性からすれば…の話だが)などの理由はあるが、例えば洗濯機や冷蔵庫について改造する理由はない。同じ様に湯沸かし器に、どのような改造の理由があるのだろうか。

それを考えれば、それなりにまとまった数の【改造】が行われていた事実がある以上、何らかの理由が、当然ある筈だ、と考えられる。それもきちんと取材し、分析しなければ、同様の事故は、また繰り返される可能性がある。

もちろん、対応の上での会社の「安全性に対する考え方の甘さ」の問題はあろう。けれども、よく考えてみると、コスト削減の方向の中で、もっとも軽視され削られかねないのが「安全性」に対するものである。その点では、パロマの事故も不二家の事件も、安全性の犠牲を企業・現場が選択する際に頭にあったのがコスト削減ではないのか。そういう分析も、あまりニュースや新聞報道の中では見受けられない。

様々な視点から分析をし、事件の構造に光を当てることで発生を抑制することも報道の使命ではないかと思うのだが……。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年1月26日 (金)

「煙草」…岡村孝子の1stアルバムより

岡村孝子の1stアルバム【夢の樹】の中に「煙草」という歌がある。シングル・カットされた歌ではないし、特に目立つ歌でもない。それでも、初めて耳にしたとき、女性のリアルな本音を垣間見たような気がして、妙に心に残ったのを覚えている。

アルバムとしても歌としても20年以上も前のものだが、当時の世相なども垣間見える。この歌の頃は、煙草を吸う女性の姿も見かけるような時代で、自立を志向するようなタイプの人がアクセサリーの一つのように煙草を扱っていたように記憶している。だから、男に「可愛い」と見られ、その庇護を受けるような旧来のジェンダーの枠組みから抜け出る意思を持たない女性は、まず煙草を手にしなかったのを記憶している。その意味では、この歌は自立に揺れる女性の心を素直に描いているのである。

だからこそ「煙草をとりあげて」とか「名前を呼び捨てて」といったフレーズが出てくる。社会的・歴史的なジェンダーの枠組みと自立志向、そして嫉妬の中で揺れる感情が時折り混じる不安定な和音と響き合いリアルに伝わってくるように思われる。

名前を呼び捨てる…という行為の中に含まれる様々なもの…愛着、親しさ、そして上下関係などが複雑に絡み合う。それをする側、そして受け入れる側の感情の流れ……。もちろんそれは恋する男女の間に限定することはないのだが、このような小品からもそのようなものを感じ取ることが出来る。歌というのも、なかなかおもしろいものである。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月25日 (木)

教育再生会議というヤラセ

教育再生会議の中間報告が発表されたが、今のところ安倍首相の「方針」に沿ったものばかりであり、【想定外】の内容はほとんど見受けられない。つまりは、直接言っただけでは説得力を持たないので、「方針」通りの結論をごまかすために、議論のパフォーマンスを演じただけ……ということになる。アメリカ産牛肉の再開に関わっての【審議会の答申】と同じで、「はじめに結論ありき」の議論なのだということを図らずも露呈したものと言える。

その意味では、教育基本法の改悪の際のタウン・ミーティングも根本的な構造は同じであり、基本的に国民や専門家の声に真摯に耳を傾けようとする姿勢が相変わらず見られない。したがって、本来であればきちんと反省した上で責任を取り、方向転換すべきことが改められず、矛盾をさらに拡大させる結果となる。

例えば、《不適格教員》の問題にしても、問題になるのは教員だけなのか? という疑問がある。資格というならば、弁護士や医者もそうであり、官僚にしても例えば飲酒運転で事故を起こし現地の人を2人死に至らしめた外務省の職員が、大した処分も受けずに他の部署で仕事を続けている事例などを考えれば、《不適格官僚》なども、同列に5年ごとの見直し制度を設けるべきであろう。

いじめの問題も、被害者はもちろん、加害者にも周囲にいる子どもたちにも丁寧なケアが必要となる。「サインを見逃さないように」などと言っても、そのためには大人たちが子どもと関わるための時間を物理的に保障しない限り無理である。つまり、大人たちにきちんと家族で過ごすことのできる時間を保障する必要があり、そのためには最低賃金を上げ、時間外労働を減らす政策を採らなければならないのだ。その前提があって、子どもたちとの時間を積み重ねられてこそ「サイン」に大人が気づくことが出来るようになるのである。

本当の意味で《教育の再生》を求めて知恵を結集するならば、当然、【想定外】の内容がそれなりに出てくるだろうし、それを実現するためには文部科学省や厚生労働省も組織改革や方向転換なども必要となるはずである。だが、そんな兆候はほとんど見られない。これは、この教育再生会議が単なるパフォーマンスに過ぎないことの証拠ではないだろうか。

本当の意味での改革を考えるならば、みんなで痛みを分かち合う必要がある。さらに言うならば、上の立場に立つ人間、指導者たる人間は、その責任からしても、下の者よりも多くの血や汗を流す必要がある。それを現状のように回避している限り、矛盾は決して解決されないだろう。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年1月24日 (水)

「責任」をどうとるのか

納豆のデータ捏造問題で一つの番組が姿を消す。だが、その責任の取り方が、経営側の減俸程度で終わりそうな気配である。データ捏造やヤラセの責任をその程度でとったことに出来るのであれば、何のことはない、必ず事件は再発するだろう。

問題の構造からすれば、まず、事件の背景の解明と再発防止への取り組みが先であり、それを一般の人々を納得させるまで行った上でトップが本当に身を切るような責任の取り方…例えば、再発防止のシステムが構築できるまで最低賃金以上の給与を返上し、退職金は当然辞退するというような…をする必要がある。

下請けに対してまともなチェックをしないまま視聴率至上主義で圧力をかけ、失敗したら下に責任を押し付けて自分は地位や特権を享受し続けるようなことを許していては、そしてそれで「責任をとった」ことにしていては、根本的な問題は解決されぬまま放置されることになる。しばらく時間が経てば、また同じことが繰り返されるだけである。

この構造は、そもそも教育基本法改悪に関わってのタウン・ミーティングのヤラセ事件でも同じである。世論を捏造し、誘導しようとした責任が、給与の返上ですむのか。それが許されるなら、日本の「民主主義」は権力者の恣意的なプロパガンダの押し付け放題である……と認めるのと同じである。当然、それが民主主義の名に値しない恥ずかしいことである、と知識や教養のある人なら誰でも思うだろう。

日本の社会は今、本来、責任をとらなければならないトップや経営側が責任から逃げ、それを現場の弱い立場の人々に押し付ける風潮が強まっている。それなりに報酬が高いのは、いざという時にきちんと責任を取る立場であるからの筈なのだが、そうした自覚のない欲深で無責任な連中が経済や政治の場にはびこっている。

一般の人々に対して「自己責任」を口にする連中が、どのような「責任」をとっているのか……。私たちはきちんと見極める必要がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月23日 (火)

思わぬ休日

しばらくの間、毎日、新しい記事をupし続けてきたが、昨日の夕方、パソコンのアクセスが不能となり、結局、書くのを一日休んでしまった。小説を書き始めた当初、毎日、少しずつでも書き進めることを目標にして、実際に、何年も続けて実行していたこともあったが、結婚の際に色々とトラブルが多かったこともあり、中断したままになってしまったことがあったので、このままズルズルいかないかと心配したが、とりあえずは、また書き続けられそうである。

それにしても、昨日はけっこう焦った。研究会がらみのメール連絡もあるし、遠距離恋愛のメールのやり取りもあるので、色々と試してみたが埒が明かない。パソコンに詳しい何人かの友人にも電話で聞いてみたが、結局、復旧したのは今日の夕方だった。あまりにも簡単に直ってしまったので拍子抜けすると同時に、自分の知識不足にはため息が出た。それでも、パソコンを使わずに仕事は出来ない。あきらめて付き合っていくしかない。

その程度の能力しかないにも拘らず、一応、こうしてブログを続けていられるのは良い事だと思う。半分は、文章の再修業…のつもりでいる。結局、ある程度自分自身で納得できるものを書くには、日々の勉強が大切になってくる。まあ、「勉強」とは言っても、それ程気負ったものでもなく、半分は楽しみでもある。

それでも、1日の空白は、精神的には良い気分転換になったような気がする。それほど無理をせずに、これからもマイペースで続けていきたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年1月21日 (日)

心躍るライダー・キック

先日、何気なくつけたTVで少し前に公開された忍者映画を見た。その時に感じたのだが、アクションの映像がとてもきれいだった。きれいだったのだが、もう一つ力強さを感じられない。その時に、ふと頭に浮かんだのが、子どもの頃に見た「仮面ライダー」だった。

「仮面ライダー」および「仮面ライダーV3」あたりまでは、TVにかじりついて見ていた記憶がある。電光ライダーキック(1号)やライダー卍キック(2号)V3反転キックやV3マッハキックなどは、現在の映像技術でとったらとてもきれいになるだろうと思う。

が、それによって当時感じた力強さはどうなるだろう。当時の仮面ライダーのアクションは大野剣友会が取り仕切っていたが、まさに肉体を極限まで使うことと情熱によって、少ない予算と映像技術の制約を跳ね返したあの迫力が生まれていたのではないだろうか。ある種の泥臭さはあったが、それも含めて、アクションシーンの力強さや迫力につながっていたのではないかと思う。

現在の映像技術は確かに美しい。けれども、あまり現在の仮面ライダー・シリーズを見たいとは思わない。が、当時のライダー・キックは、たとえ泥臭いアクションであっても、ついついビデオを取り出したくなる。ストリー展開や小道具、台詞の中にはツッコミを入れたくなるものもあるが、心躍るライダー・キックを見るだけで満足なのである。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月20日 (土)

存在回帰への祈り…エンヤの音楽表現

精神がささくれ立ち、心が深く傷付いた時に、そっと抱き留めてくれる音楽がある。ただ静かに耳を傾けるだけで、失いかけていた魂の平安を思い出させてくれる音楽がある。身体の上を通り過ぎて行くだけの音楽が全盛である現代日本の音楽環境の中にあって、エンヤの音楽は、心の奥深い場所にまで降りてくる数少ない音楽の一つなのだ。

 

アルバム「watermark」の世界的規模での大ヒットで、一気にトップ・アーティストの座に着いたエンヤではあったが、日本で見られる多くの芸能人たちとは違い、そのことによって彼女は生き方のスタンスを大きく変化させることはなかった。

 

それは、エンヤが自身の生き方と深く関わる音楽表現の位置付けへの拘りがそうさせたのであろうが、一般的な目からすれば「めったにマスコミには登場することがない非常に変わった人」だと写る。けれども、その拘りが「Shepherd Moons」そして「The Memory of Trees」へと続き、「a day without rain」から2005年の「Amarantine」へといたる、新しくかつ変わることのない彼女の音楽世界を造り上げているのである。

 

エンヤとの出会いは、「地球交響曲」第1番というドキュメンタリー映画だった。見ているだけで魂が洗われるような心地好さを感じるその映画に彼女自身も出演していたが、映画全般を支えるBGMはほとんど全て彼女の曲だった。

 

その映画の監督である龍村仁は、「地球交響曲」制作と深く関わるエッセイ『地球のささやき』(創元社 1995年)の中で、次のように述べている。

「エンヤは現代の最先端のテクノロジー、シンセサイザーと出会った。そして、シンセサイザーがもたらしてくれる安易さに溺れることなく、内側から聴こえてくる声にしたがって、シンセサイザーを使いこなした。その結果、初めてあのエンヤ独特の音楽が生まれた。古代の魂と最先端のテクノロジーが、エンヤというメディアを通じて出会った時、はじめて、ケルトの魂が現代に甦ったのだ。」

 

温故知新という言葉がある。

 

「私」という存在の根っこには「私」を育ててくれた家族の存在があり、感性を育んでくれた故郷の風景がある。けれどもそれらは、さらに時間と空間を遡って遥か遠くから続く命の流れと繋がっている。

 

便利ではあるが忙しい毎日の中で、私たちはそのことを忘れてしまいがちだが、ふと日常の歩みを止めて振り返ってみると、そこには、小さな一人の人間の一生の生を越え、時代を越えたものが確かに横たわっているのだ。それを感じる事で、私たちは新しい真実を実感し、自分自身の生をリフレッシュしていけるのである。

 

だが、ミヒャエル・エンデが『モモ』という物語の中で指摘しているように、現代社会のシステムという「時間どろぼう」が、私たちの心のゆとりを奪い、魂の平安を失わせている。もちろん、私たち自身、現代社会を生きる以上、童話のように「時間どろぼう」を壊滅させる事は不可能であり、それなりに「時間どろぼう」と妥協する必要はある。

 

けれども、大切な自分自身の存在を殺すほどに妥協することは、私たち自身にとってはもちろん周囲の人々にも有害となる。精神的なストレスが溜って本人の心を狂わせるだけでなく、周囲の人間関係をも引き裂いて行くからである。

 

だからこそ、「時間どろぼう」の呪縛から逃れ、心の深い部分と対話する事が必要となる。傷付き、疲れ果てた時にこそ、そんな時間が必要なのだ。

 

たとえば海や山の自然に抱かれ、もしくは古い神話や伝説の魂に触れ、あるいは聖なる教えに耳を傾け、または欲望や損得を越えた芸術と向き合って、自分の生き方の上に積もった日常の世界を離れる。そして、「自分」という表層から、人間としての魂の核芯へと降りていく。時間をかけ、意識を集中して、自らのうちにある自分という存在の根源と、自分自身の枠組みを越えた深い意識に触れるのである。

 

そうした内なる対話は、確かに自分自身を出発点にしているが、行き着く先は個人という枠組みを越え、人間という個体をつきぬけて、より大きな存在と向き合う道へとつながっていく。その道を辿る過程こそが、迷いを解き心を癒す奇跡のちからを持つ。

 

それは、欲望を脱した清浄な意思であり、純粋な祈りに限りなく近いように思われる。自分や身近な人々の利益を願うのではなく、そうした「日常」を離れた意識のより大きく深みのある願いであるかも知れない。

 

ある意味では非常に逆説的だが、欲望にまみれた日常の自分を脱することにより、自分自身の心と魂に愛と調和と安らぎを獲得することができる。そしてそれは、単に自分ばかりでなく、周囲の人々や世界にまで広がって行く実践なのだ。

 

けれども、それを貫く事は難しい。私たち自身「日常」を生きている以上、それを拒否することは出来ないし、また、そう願う事自体愚かでもある。「日常」を否定してしまうのは日常まで繋がっている命と意識の流れをも切断するからである。

 

拒否したり否定したりするのではなく、あるがままに受け入れて自在に離れる。不可能とは言いたくないが、そうした境地にまで達するのはほとんど困難と言って良いだろう。けれども、過程そのものに救いがあるのなら、歩みを続ける事が大きな意味を持つ。それを信じる事から始めていけば良いのかも知れない。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (6) | トラックバック (3)

2007年1月19日 (金)

「銀河英雄伝説」から読む民主主義

「銀河英雄伝説」はもともと田中芳樹原作の小説だが、その後オリジナル・アニメ・ビデオのシリーズとして制作され、テレビでも放映された。原作も非常に面白く、10巻をわずか数日で一気に読んでしまったが、その原作に忠実に作られているアニメも、よく出来た作品である。

個人的には、「宇宙戦艦ヤマト」の古代進の声を担当した故・富山敬が自由惑星同盟のヤン・ウェンリー役をしていた事もあり、そちらの興味もあって何度となく楽しんでいる作品の一つである。特に、作品の中でヤン・ウェンリーが亡くなった後、富山敬も後を追うように亡くなっているので、特に印象が強い。

そのヤン・ウェンリーは、よく民主主義や民主政治について自らの考えを周囲の仲間や家族に口にする。それは、歴史的に見ても、法学や政治学の視点から見ても、けっこううなずける内容が多い。政府の上層部にいる人々が「愛国心」を口にして戦争を煽るにも関わらず、自らはもちろん、その家族をも戦場には送っていないことへの批判は特に手厳しい。そして、現在のアメリカの姿を見ていると、それは大いに納得できる。

自由惑星同盟が、民主主義の制度疲労によって衆愚政治に堕し、銀河帝国のローエングラム候による清潔な独裁制によって滅ぼされる辺りは、何とも考えさせられる。民主主義がきちんと機能するためには、自立した個人やマスコミによるきちんとした情報開示や情報公開が必要であり、逆に、公正な税制や国民を大切にする政策があれば、独裁体制でも国民に支持される……などなど。

例えば、ヤン・ウェンリーは考える。国民としては、清潔な独裁政治と極度に腐敗した民主政治とでは、どちらの国民がより幸福なのか……と。そして、改革を進めるには、独裁制の方が効率的であるとも……。それでも、ヤン・ウェンリーは最後まで民主主義を守るために戦い、死んでいった。だが、彼は、自分の作戦によって失われた敵と味方双方の命についても考え、狂信的に「民主主義」のドグマを信じるようなこともなかった。

翻って、現在の日本の姿や世界の姿を見てみよう。「民主主義」の名の下に多くの人々を殺したり苦しめたりしている権力者たちがいる。国民を苦しめる政策を立て続けに実行し続けて恥じない「民主国家」の政治家たちもいる。日本や世界を、自由惑星同盟のようにはしたくはないと思うのだが……。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月18日 (木)

不調とのつきあい

ここしばらく、体調が今ひとつの日が続いている。ただ、心の方はそれ程悪い状態ではないので、何とか毎日が過ぎている感じである。もともと、あまり健康に自信がある方ではないし、最近は、運動不足や睡眠不足も気になっている。また、体調が良くないと、精神的にも悪影響が出ることも少なくない。あまり、無理はしたくないものである。

ただ、人間、いつも良い状態が続く訳ではない。それに、ある程度よくある不調については、けっこう自分なりに付き合い方を知っているものもある。偏頭痛などは、もちろん睡眠が大切だが、指先で頭に触れてみて少し熱を持っているところを押さえる…とか、腸の具合が思わしくない時には、背骨の少し外側の辺りやへその下の方を圧迫してやるとか、落ち込みがひどい時には、森田童子などを集中的に聞く…といったようなことをして、それなりに調整している。

その結果…外から見ると、けっこう元気に見えるようだ。個人的には、「無病息災」よりも「数病息災(?)」のタイプではないかと思っている。不調にとらわれず、上手に付き合いながら、それなりにやっていければ良い。そんな考え方が【元気!!】の秘訣かも知れない。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月17日 (水)

グレンフィディックをロックで

ここのところ忙しい日々が続いている。それでも、何とかスケジュールを消化しているのは、やはり三が日に寝正月を決め込んで、疲れを取ったからかもしれない。ただ、年が明けてから二週間以上経っているにも拘らず、グレンフィデックを飲んだのは一度きりである。それだけ、ゆったりとシングルモルトを楽しめる余裕がなかったということだろう。

さすがに、秘蔵のグレンフィデック・クラッシックを開ける気になるほどではないが、とりあえず、今週の後半は多少ゆとりを持って過ごせそうである。そう考えると、グレンフィデックが恋しくなる。寒い日が続いてはいるが、グレンフィデックを飲むならば、やはりロックがいい。ロックグラスにに氷を入れて、緑の三角柱のビンを手に、少し淡い琥珀の液体を注ぐ。トクン・トクン・・という音と独特の芳香が良い。そして、軽くグラスを振る。氷がウイスキーの中でぶつかって小さな音を立てる。

一口、ウイスキーを含み、舌で味わい、ゆっくりと飲み込む。心地よい刺激が、五臓六腑に染み込んでいく。ささやかな幸せを感じるひとときだ。少し解けはじめた氷がグラスのウイスキーとの間に陽炎のような模様を作り始める。水との混じりあいの中で、微かな甘味を楽しむことも出来る。

そして、音楽…。こんな夜は、キース・ジャレットのケルン・コンサートでも聴きたい。夜が更けていく。心地よい酔いを楽しみながら眠りにつこう。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年1月16日 (火)

英語の詞と日本語の詞

少し前に、大阪在住のジャス・ボーカル山下みさ子さんに作詞を頼まれたことがあった。軽い気持ちで引き受けていくつか渡したが、その中に、最初は英語で作ったものを後で「訳も欲しい」と言われ、ついでに日本語バージョンも作ったものがいくつかある。

作り比べるとよく分かるのだが、言葉が違うと、当然リズムが異なってくる。それぞれ「作詞」はしたが、同じ曲で歌うのは難しいかもしれない…と思った。それでも、作詞の過程はそれぞれの言葉の違いや特徴が実感できて、けっこう楽しかった。

最近は、忙しくてなかなか時間が取れず、英語の作詞まではちょっと手が回らない。日本語のものは、かろうじて1年間で2つ作った程度である。数的には大いに不満が残るが、それでも、創作活動は楽しい。一週間ぐらい、ゆっくりと詞や詩や童話や小説を書くのを楽しみたいものだが、そんなささやかな夢は、今年も多分実現しないだろう。だが、創作を止めるわけではない。少しでも時間を作って、一作でも多く創作を楽しみたい。

その願いを込めて、英語/日本語の詞をupしておこう。

 

   THE ELDEST TREE 

 

 LIVING IS TOO HARD

 SOMETIMES I FEEL THAT WAY

 THEN I GO TO THE ELDEST TREE, AND TALK WITH HIM

 HE ASKS NOTHING, THEREFORE I SPEAK EVERYTHING

 

 WHEN YOU FEEL LONELY,

 STY HERE, HAVE A REST HERE, AND WATCH YOUR WORLD

 THEN YOU'LL KNOW THAT YOU ARE NOT ALONE

 THERE ARE A

LOT

OF PEOPLE NEAR WHO AGREE

 YOU CAN BE THE WORLD WHERE MANY PEOPLE LIVE

 

 

 LIVING IS TOO SAD

 FREQUENTRY I THINK SO

 THEN I MEET THE ELDEST TREE, AND FEEL WITH HIM

 HE SPEAKS NOTHING, THEREFORE HE SPEAKS EVERYTHING

 

 WHEN YOU FEEL LONELY,

 STY HERE, HAVE A REST HERE, AND WATCH YOUR WORLD

 THEN YOU'LL KNOW THAT YOU ARE NOT ALONE

 THERE ARE A LOT OF LIVES NERE YOUR MIND

 YOU CAN BE THE WORLD WHERE MANY LIVES LIVE

 

 WHEN YOU FEEL LONELY,

 STY HERE, HAVE A REST HERE, AND WATCH THE EARTH

 THEN YOU'LL KNOW THAT YOU ARE NOT ALONE

 THERE ARE A

LOT

OF LIVES ON THE EARTH

 YOU CAN BE THE EARTH WHERE MANY LIVES LIVE

    

 

 生きることは辛すぎる 時々わたしはそう思う

 そんな時には大樹の下で自分のことを話してみる

 樹は何も尋ねないが それゆえすべてを打ち明けられる

 

 孤独を感じるその時は ここにきなさい休みなさい

 そして世界を見つめなさい

 その時あなたは知るでしょう 自分が一人でないことを

 あなたの心のすぐそばに 多くの人が生きている

 あなたも生きていける 人々が生きるこの世界で

 

 

 生きることは悲しすぎる 度々わたしは考える

 そんな時には大樹に会って 自分の心を重ねてみる

 樹は何も語らないが それゆえすべてを語ってくれる

 

 孤独を感じるその時は ここにきなさい休みなさい

 そして世界を見つめなさい

 その時あなたは知るでしょう 自分が一人でないことを

 あなたの心のすぐそばに 多くの命が生きている

 あなたも生きていける 生命が生きるこの世界で

 

 孤独を感じるその時は ここにきなさい休みなさい

 そして地球を見つめなさい

 その時あなたは知るでしょう 自分が一人でないことを

 母なる地球のその上で 多くの命が生きている

 あなたも生きていける 生命が生きるこの地球で

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月15日 (月)

「よその子」…谷山浩子《宇宙の子供》より

谷山浩子の《宇宙の子供》というアルバムの冒頭に「よその子」という歌が入っている。夕暮れの街を1人の子がさまよう。帰れる家・家族がないからこそ、街をさまようのだ。窓の中に見える家族の姿にあこがれ、寂しい思いをしながら……。

その痛いような寂しさを谷山浩子が歌い上げる。高く低く流れるピアノが夕闇をあてもなくとぼとぼと歩く子の切なさを描いていく。だが、それは特別な光景なのだろうか。ふと、そんなことを思わずにはいられない現実がある。例えば、「いじめ」の問題にしても、不登校やひきこもりの問題にしても、夕暮れの街をたった1人であてもなくさまようような心細さと重なり合う部分がある。その関係にぬくもりを実感できる人や大人がいない子どもが、以前よりも増えてきているように感じられるからである。

けれども、そんな寂しさに耐えながらも温かい心を失わなければ、そして、その寂しささえも越えていくことが出来れば、人として優しくなれる。夕暮れの街に浮かび上がる家の灯り…そしてそこに暮らすすべての人々の幸せを祈れる強さを、さらには視界には入らない人々の幸せさえも願える強さを持ちたい……。そう歌い上げる透き通った高い声。

自分は、弱く小さい存在かもしれないけれど、それでも、他者の幸福を祈ることができるような強さを持ちたい。それは、とても大切なことだと思う。自分のことしか考えられない弱さが、社会を荒廃させ、自分をも含めた多くの人間を追い込んでいく。だからこそ、それに抗う努力は必要なのだと思う。

今日は、まだ出会えない誰かの幸福や、一生出会うこともできないかも知れない誰かの幸福のために祈りたい。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月14日 (日)

「いじめ」の講演会を終えて

12月に依頼された「いじめ」についての講演が昨日無事に終わった。被害者・加害者・周囲の子どもたちについての詳しい分析からはじめ、次に、どのようにそれぞれに関わっていくのかという方向性を話したが、分かりやすかったかどうかは定かではない。役員さんたちは「よく分かった」と言ってくれてはいたが……。

ところで、政治家のコメントなどで「サインに気をつける」という話が良く出るが、様々な教育現場に関わっている立場からすれば、非常にいい加減なコメントだと思う。問題は、サインに気づくためにどうすればいいのか…ということなのだ。

サインに気づくためには、ある程度しっかりと当事者に関わる必要がある。そのためには、最低限、物理的に一緒にいる時間をきちんと長く取る必要があるのだ。その時間を、実は、日本の政治や社会は十分に保障していない。

非正規雇用の増加による賃金の抑制と家計収入の悪化にともない、父親はもちろん時には母親も、家計収入を支える仕事のために長時間働かなければならない現実がある。特に、パートや派遣労働者は、時給など手取りも低く抑えられているために、【かけもち】でもしなければそれなりの収入にはならない。そんな中では、しっかりと子どもたちに関わる物理的な時間や精神的な余裕が十分には持ち得ない。

だから、サインに気づくには家族の時間を保障する必要があるが、そのためには労働者の権利をきちんと保障せずにいては不可能なのである。子どものいじめ問題をどうにか改善して行こうとするためには、家族の時間を保障しなければならない。そのためには、労働者の時給を上げ、8時間以上働かなくても家庭に帰れるようにしてやることが前提となる。それをしないで、いくら美辞麗句を並べ立てても問題は解決しないのである。

講演会では、「いじめ」は子どもの問題には留まらず、大人の問題でもあることを指摘しておいた。子どもたちをきちんと育てるために、大人も努力する必要がある。特に、政治に関わる政治家や官僚、企業のトップの責任は重い。目先の利害だけにとらわれるのではなく、広い視野で賃金の問題なども考えていく必要があるだろう。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年1月13日 (土)

夢への道しるべ…オードリー・ヘプバーンの輝き

激動する時代の中で、あるいは長い時を隔ててもその輝きを失わないものがある。「モナ・リザ」、『ロミオとジュリエット』、『源氏物語』、ビートルズ…。私の意識の中では『ローマの休日』という映画もそうした存在の一つである。『ローマの休日』と聞けば、ほとんどの人があのアン王女の愛らしく清楚で気品のある笑顔をイメージするだろう。この「マドンナ・えっせい」の最後のページは、アン王女を演じたオードリー・ヘプバーンを鍵にして文章を綴っていきたい。

 

存在自体の輝き。TVや映画のスター、あるいは歌手を見てそれを感じる人は少なくない。しかし、最近の日本を見渡してみると、オードリーほど長く、またオードリーほど気品に満ちた存在感を感じられる歌手やスターはみられない。もちろん、一瞬、あるいは一定の時期に渡って輝く存在はみられても、その持続は難しいのである。

 

その理由の一つに、気品の欠如がある。お金や生まれではなく、背後に存在そのものの重みを感じさせる何か。それは、人生の闇を真摯に見つめながらも、欲望に流されず、そして希望を捨てずに生き続ける姿勢から滲み出して来るものではないだろうか。戦争の影、父親との別れ、結婚の光と闇…。オードリー・ヘプバーンの人生にも、様々な幸福と不幸がちりばめられていただろう。しかし、彼女はスクリーンではいつも輝き続けた。いや、彼女がこの世を去った今も、その作品は輝き続けているのである。

 

今、日本は不況の中に喘いでいる。中高年男性の自殺は急増し、その数は、交通事故死のそれを上回っているという。子どもたちは将来に対する夢を失い、空ろな心をモノとイメージの消費で埋めながらもがいている。世界恐慌の始まった一九二九年、ベルギーに生まれたオードリーは、当然、あの第二次世界大戦を体験している世代であり、戦争が彼女と父親を引き裂いていくのだが、その不幸と、今の日本の不幸とはどちらが深いだろうか。それを考えた時、オードリーのあの輝きには意味深いものを感じてしまう。

 

いくつか、オードリーの作品を挙げてみよう。『ローマの休日』『パリの恋人』『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディー』…。それらを思い浮かべてみれば、多くの作品が「夢」であることが分かる。現実の生活はともかく、彼女は、多くのスタッフとともに真摯な姿勢で「夢」を作り続けた。そしてそれは、映画を見る多くの人々の夢や希望を紡ぎ、心を満たしていった。スクリーン上の彼女は、プロとして自らの内にある影を微塵も見せず、輝き続けた。彼女の気品は、そうした姿勢やそれを支えた彼女自身の芯の強さの中から生まれたのではないかと思われる。

 

翻って、私達自身を眺めてみよう。

 

人間は、ある意味では、一人ひとりが様々な不幸を背負っている。しかし、そうした現実を見つめ、立ち向かう強さも、人間は持ち得ている。その一方で、それを妨げる弱さもまた、人間は自身の心の内に持っている。例えば、身勝手な欲望や甘えがそれである。暴走する欲望や甘えは人との関係をぶち壊し、自分自身の生活を荒らし、どれほどモノで埋めても埋めることのできない空洞を心の内に作り出す。その空洞をモノや快楽でごまかそうとするからこそ、私達は、夢や希望を見失ってしまうのかも知れない。

 

構造改革と財政再建を旗印に小泉内閣が誕生し安倍内閣へと変わったが、僅かながら持っていた期待はすでに失望へと変わっている。強者が自らの利権を守ることに汲々とし、結果として弱者により多くの痛みを押しつけながら、その現実に目を向けず保身と責任回避に走るだけの政治姿勢に全く変化が見られないからだ。ゼロ金利政策や、労働者の首を切り中小企業をつぶすような「リストラ」を続けても「景気回復」を口にしても家計収入は回復には程遠い状態が続く。普通の人々が安心してお金を使える気持ちにならない限り消費は伸びず、安定した形での景気は上向くことはないからである。

 

終身雇用と年功序列というセーフティ・ネットが崩壊する中で、国民の負担のみを増やし将来を不安にさせるような年金制度の改悪と不完全で利用しにくい介護保険の導入が進む。いずれも、未来のビジョンを失わせ、夢を奪ってしまう悪政である。

 

その根底には、自分自身の一握りの「身内」の利益のみを優先し、現実から目を逸らして身勝手な言動を続ける指導者たちの存在がある。もちろん、彼等を選んだ国民一人ひとりの責任もあるのだか。

 

こうした現実を打開するためには、「夢」の力が必要である。自分の欲望や甘えに流されずに、辛さや苦しみの現実を見つめ、その上に立って自分とより多くの人々の幸福のために何ができるのか。狭い視野で眺めていると見えないことが、広い視野で見つめ直すことで見えてくる。私のためでなく、私と家族のため…。家族や親戚のためではなく、町や国のため…。そして単に日本という国のためではなく、アジアやアフリカを含めた多くの人々のために…。そうした視点を持てば、身勝手な欲望から自由になり、埋めることのできない心の空洞も小さくなって「未来へのビジョン」=「夢」が見えてくる。

 

晩年、ユニセフの大使として活動したオードリー…。私達も、そんな「夢」を持てるような生き方をしていきたいものである。

 

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月12日 (金)

「眠れない夜のために」を聞きながら

昨日の記事で少し書いたが、谷山浩子のアルバムの中に「眠れない夜のために」というものがある。すべての曲を自らのピアノ演奏で谷山浩子が歌っているが、落ち着いたピアノの音に乗せて谷山浩子の高く澄んだ声が流れる。疲れた心をそのまま音が包んでくれるような感触がある。

「もみの木」「すずかけ通り三丁目」「おやすみ」「真夜中の太陽」「地上の星座」「銀河通信」…。1人でアルバムを聞きながら、森へ過去へ闇の中へそして宇宙へ…狭苦しい日常から解放されたイメージが目を閉じた闇の中で浮かんでは消え流れていく。

ピアノの音、流れる歌とイメージ…心地よい眠りの扉がいつしかすぐ側にあるようだ。最後まで聞こうか、それとも、このまま夢の世界に落ちていこうか。そんなことすら考える必要もないような心地よいまどろみ。…どうも、今日は眠りの精がすぐ近くまでやってきたようだ。これ以上抵抗するのは難しそうなので、ここでパソコンを閉じて眠りにつこうと思う。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月11日 (木)

眠れない夜

昨日は何故か熟睡をしたという感覚があまりなく、ウトウトとしてはすぐに目が覚める…というような時間が続いた。毎日だと困るが、たまにはこういう時もある。ただ、焦って無理に眠ろうとすると返って消耗してしまうので、こんな時には、「まあ、こんな夜もあるさ」というような感じで軽く考え、布団の中で目を閉じながらとりとめもないことを考えるのが一番である。その方が、短い時間でもウトウトすることが出来るからだ。

確かに、それで前日の疲れが取れるわけではない。実際、今日の日中は何となくぼうぅぅぅぅ…としていて、ときどきあくびも出たが、一応、身体と目は休めているので、そう心身ともに堪えるという状態ではなかった。夕方、少し眠ろうとしたが、修理に出していた車が直ったとの連絡が入り、結局、その時間も奪われてしまった。少し仕事も残っているのだが、今日は、無理をせずに早く寝た方が良いかも知れない。

眠れないときは、眠れないというありのままの自分をそのまま受け入れてしまえば、「不眠」に対する精神的ストレスはそれほどたまらない。そんな時には、ゆったりとした音楽でも流したりしてぼんやり聞くのも良い。谷山浩子の「眠れない夜のために」というアルバムなどは、その名のごとくピッタリの一枚である。温かいココアやホット・ミルク、あるいはホット・カルピスなどもけっこう良い。意外と不便なのがホット・ウイスキーで、酔いがさめるとまた目が覚めてしまうことがある。

そんなことを考えると、眠れない夜も、それなりに楽しみ方がある。毎日だとある程度心身が消耗していくことになるので困るが、たまには、それを楽しんでしまうというのも面白いかもしれない。でも、今日は早く寝ることにしよう。

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月10日 (水)

破局の肖像…「君は人形」ふきのとう's Song

高校時代から聞いていた《ふきのとう》の【風待茶房】というアルバムの中に「君は人形」という歌がある。恋愛の破局にあって、お互いに相手をなじりあうことは多いが、ワガママな女に対する男の最後の言葉を歌にしたものである。

男は女に対して、君の「愛する」という意味は「愛される」ということだとなじる。つまり、男は「愛されていない」し、女はただ自分を大事にしているだけだというのである。男と女の立場が入れ替わっていても、相手のことを考え、相手をどれほど大切にしても、相手は自分のことしか考えていないなぁ…と感じられる場合は少なくない。そこでどうするのか、という問題が当然出てくることになる。

片思いの段階ならともかく、それなりに相手がパートナーであると考えている、あるいは周りからもそう認識されている場合において、お互いに相手を大切にしようとしているし、大切に思われていると感じられるのであれば、その言動に多少のズレや勘違いがあってもやっていけるだろう。まあ、男と女は感性や考え方も違うわけだし、そうしたズレや勘違いを楽しむのも恋愛の醍醐味だとも言える。

けれども、相手の思いや誠意が感じられず、利用されているだけだということになれば、当然、情熱は冷める。そうした実感が度重なれば、破局…ということもあるだろう。個人的にも、そういう経験はある。意外に、男の立場からそれを歌っている歌は少ないように思われる。実際、そのような歌はこの「君は人形」の他には知らないので、時々、聞きたくなることがある。

パートナーの自己チュウ・ワガママが目に余る時にどうするか。その背景を理解できた上で、それが許せるならば、まだ恋愛は続けられるだろうし、もしかするとその情熱が相手を変えていくかも知れない。けれども、理解できなくて許せなくなったら、自分が納得いくように「別れ」という決断もあってよい。きちんと、自分なりに努力した結果であれば、別れた直後は辛く苦しくても長い目で見れば、自分の人生を豊かにする良い経験だったと言える日が必ず来るだろう。

もしかすると、自分の経験が浅く、愛する能力が不足していたために見えなかった…ということもあるかも知れない。けれども、それを次の恋愛に生かすことができるように経験を重ねて、豊かな人間になれれば…と思う。

 

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 9日 (火)

まず自分から愛さなければ…「ペリーヌ物語」より

風邪のために寝正月を決め込んだ年末から三が日の休みの間に見ていたビデオの一つに「ペリーヌ物語」がある。「アルプスの少女ハイジ」や「あらいぐまラスカル」、「ムーミン」などで有名なフジTV系列の《世界名作劇場》シリーズの一つで、1978年の1月1日から12月31日まで放映された作品である。

 

原作はエクトル・マロの『アン・ファミーユ』、日本では『家なき娘』という題名で訳されたりもしているが、同じ作者の『家なき子』ほど有名ではない。けれども、まじめに、そして正直でけなげに生きていくうちに周りの人々に愛されて幸せになる、という筋立ては共通しているかも知れない。

 

現代社会では、何が「幸せ」かということ、つまり幸せの質や中身が問題になってきている。が、このシリーズが最初にTVで放映されていた30年ほど前の時代であれば、経済的・物質的豊かさが大きな意味を持つと感じられていた。

 

確かに、それらがなければ、必ずしも「幸せ」とは感じられない人は少なくないかも知れない。けれども、お金持ちで物質的に豊かであっても「幸せ」だとは限らない。この物語の主人公であるペリーヌの祖父ビルフランも、ペリーヌが現われるまではそうだった。

 

ビルフランは、マロクール村でフランス一の織物工場を経営し、多くの使用人に囲まれて大きな家で生活していても、たった一人の息子(つまりペリーヌの父親)とは結婚をめぐって対立したために音信不通となっていた。周りの人々から「ビルフランさま」と呼ばれ、傅かれたり、羨望されたりしていても、ビルフラン自身は、本当に心を許し、愛することのできる人を周囲に持っていなかったのである。

 

その孤独な心を開かせたのは、ペリーヌだった。ペリーヌは最初、オーレリーと名乗ってビルフランの工場でトロッコ押しをして働いていた。けれども英語ができたことから通訳に抜擢され、さらにビルフランの個人秘書として信頼を得て、一緒に屋敷で暮らし始めていた。

 

マロクールへ向かう旅の途中、パリで亡くなったペリーヌの母マリは、死ぬ間際にパリでペリーヌに、人から愛されるにはまず自分から人を愛さなければならない、と言い残した。

 

ペリーヌはその言葉を守り、母マリのことを誤解し憎んでいるビルフランを心から愛した。そして父エドモンの死を知って悲しむ祖父ビルフランを一晩中看病した。

 

そんなペリーヌの思いは次第にビルフランにも伝わり、やがてビルフランはオーレリ―と名乗る少女が自分の孫ではないかと思い至る。そして、弁護士に息子が死んでからの足取りを調べてもらい、オーレリ―=ペリーヌが孫であることを確かめる。ビルフランは、孫のペリーヌの存在が新たな生きがいとなって生きる意欲を取り戻し、目の手術にも耐えてペリーヌと共に幸せになる。

 

だが、ペリーヌやビルフランがすばらしいのは、自分たちの幸せだけではなく、保育所や労働者住宅なども整備して、みんなの幸せを考えて生きていこうとするところである。

 

確かに、誰もが愛されたいと思うだろう。けれども、誰もが深く愛されるとは限らない。ただ、これまで出会った多くの人々のことを考えると、多くの人を愛している人ほど周囲から愛されているように思われる。愛とは、与えれば与えるほど返ってくるものなのかも知れない。

 

例えば、「愛国心」を強制しようとする人々がある。けれども、政治家や官僚がまず国民を愛し、大切にしていれば、愛国心など勝手に育まれるだろう。自分を愛してくれる存在を愛せない人間などいないのだから……。

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年1月 8日 (月)

Mezzo Piano…谷山浩子のピアノアルバム

昨年公開されたアニメ映画「ゲド戦記」の挿入歌「テルーの歌」をはじめとする何曲かを作曲している谷山浩子は、本来はシンガー・ソング・ライターであり、その高く澄んだ声とファンタジーに満ちた詞に魅了され、高校の頃に聞いた「ねこの森には帰れない」以来30年以上にわたってその歌を聴き続けている。

その谷山浩子のアルバムに「Mezzo Piano」がある。実はこれは、谷山浩子本人がピアノを演奏しているだけのアルバムで、歌は歌っていない。ただ、彼女の作曲した歌のピアノ演奏だけが流れ続ける。それだけのアルバムだが、聞いていてとても落ち着ける。

谷山浩子のアルバムの中には「眠れない夜のために」という、歌とピアノだけのものもあるが、このアルバムの雰囲気も良く似ていて、疲れきっていて眠れないような時には、灯りを暗くした部屋の中で目を閉じて聞いているとそれだけで安らげる。

正月休みを挟んでいたこともあり、仕事そのものは今のところそれ程忙しい訳ではない。が、今週から本格的に忙しい毎日の中に入っていかなければならないとなると少し気がめいるように思われる。そんな感覚が、このピアノ・アルバムを選ばせたのだろうか。その選択は間違っていなかったようで、「COTTON COLOR」を聞きながら心は穏やかになってきている。

今日のところはそろそろ休んで、ハードな週後半に備えよう。

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年1月 7日 (日)

地域労働者の活用

地産地消という言葉がある。地域で生産したものを地域で消費しようというものである。同じように、地域の労働者を活用することによって、地域経済の活性化を図るようなことも考えていく必要がある。

例えば、公共事業の入札において、地域とはまったく関係のない大都市の大企業が受注したりすることがままある。確かに、経費は安く済むかも知れないが、その企業から地方公共団体に税金が入るわけではない。また、現場で働く人は他の地域から集まってきていたりもする。それで良いのか…という問題である。

地方公共団体によっては、条例である程度地域の企業や労働者を使うことを義務付けている場合もある。地域の活性化という視点から見れば、これは正しい。地域の企業や労働者を活用できれば、当然、そこからの税金が地方公共団体に入ってくるし、それによって得た収入がそれぞれの家計支出を支える原資にもなる。そうした点をも含めて考えれば、規制が地域社会を守ることにもつながってくる。

規制なしで、その場のコストを安くすることによって失われるマイナス面、例えば、地方公共団体の税収に無関係だとか、支払われたお金は地域に関係なく動く…といった点を考えれば、長い目で見たときにどちらがプラスか、ということもよく考える必要がある。

公共事業の受注に際しては、例えば、関係する労働者の半数は地元になるように、下請け企業の使用も含めた上での規制をかける…といったようなことはあっていいのではないだろうか。地方の荒廃がこれ以上進めば、国はあれ、国民の心はどんどんすさんでいく。自由化や規制緩和は、決して万能ではなく、それなりに様々な問題点を抱えているのである。

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年1月 6日 (土)

DAVE…あるべき政治の姿

年末年始の間、久しぶりにゆったりとした時間が取れたのでDVDを見た。けっこう地味な作品だが、大好きな映画の一つ「DAVE…デーヴ」である。1993年の作品だから、もう10年以上昔の映画ということになる。行きつけの映画館でたまたま見たのだがとても気に入ってしまい、LDを買い、DVDも買ってしまった。その意味で、本当に気に入っている映画ということになる。

大統領にそっくり…ということを芸にしながら、仕事の紹介もやっているデーヴは、ある日、シークレットから「安全上の配慮」を理由に大統領の代役を一度だけの約束で依頼される。ところが、途中、本物の大統領が脳卒中で倒れ、主席大統領補佐官ボブの思惑もあって、そのまま代役を続ける羽目になる。実際にホームレスの施設を訪問して子どもたちとも触れあったデーヴは、スタッフが削ろうとしたホームレスの支援を復活させ、国民の失業をゼロにする取り組みに着手しようとするが…。

派手なアクションがある訳ではない。エキサイトするようなシーンがある訳でもない。ある意味では、淡々と物語は進んでいく。けれども、見ている間に心はとてもあったかくなる。そんな映画である。特にデーヴのさりげない優しさは胸を打つ。ホームレス、仕事のない人々…。社会的な弱者である。アメリカでも日本でも社会的な弱者を切り捨てて恥じない政治家が非常に目立つ。けれども、民主政治における政治家とは、国民の福利の増進を依頼された臨時雇いではないのか…とデーヴは議会で演説し、倒れる。

決して悲しい映画ではない。でも、夢である。それが実現可能な夢になるのか、それとも、実現不可能な夢なのか。それは、私たち1人ひとりの選択にかかっている。

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 5日 (金)

仕事は始まったが…

年末から風邪をひいていて、この正月三が日は寝正月を決め込んだ。お陰で、風邪も大したことはなく、快方に向かっている。まだ全快とまではいかないのはやはり歳を取った証拠だろう。いつまでも若くいたいとは思わないが、病気や怪我の回復が多少なりとも遅くなっているのを感じると、少しばかり若さがうらやましくなることもある。

だが、基本的には、年齢相応の精神的な成熟を伴う歳の取り方をしたいと思う。この年齢になってこそわかることも多いし、その年齢だからこそ味わえる楽しみというのもある。だから、今の年齢を自然な形で楽しんでいければ…と思う。

が、バツイチといえどもさすがに中年のオジサンは忙しい。仕事は昨日から始まっているし、仕事自体は休みにしてある明日も、会議の予定が入っている。加えて、明日は1月最初の土曜日であり、冬休み最後の土日でもある。伊勢神宮の周辺は普段よりも込み合うだろうから、車の移動も考えものである。会議など放り出して寝ていたいところだが、中年オジサンは、それなりの立場にいるのでそうもいかない。あきらめて出席しよう。

まあ、悪いことばかりではない。HさんやKさん、Yさんのにこやかな顔は見ていてほっとする。若くきれいな女性が1人もいない…というのが残念ではあるが。今日は、ウイスキーでも飲んで早く寝なければ……。

人気blogランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年1月 4日 (木)

童話作家…グレープ・さだまさしの歌

『帰去来』というさだまさしの1stアルバムに「童話作家」という歌がある。実はこの歌、グレープの解散コンサートの時にも歌われている歌である。その時のステージ・トークによると、解散するといっても、新しいものを加えておきたい…という思いから歌われた、ということらしい。

その経緯も知っていたので、『帰去来』を買ったときにアルバムの中に「童話作家」か入っているのを見て非常にうれしかった記憶がある。もちろん、アレンジはグレープの解散コンサートで歌われていたものとは違う。それでも、初めて聞いたときから「童話作家」という歌は好きだったので、今でも歌詞はすべて覚えている。もちろん、ギターを持てばコピー演奏までは無理だが、それなりにコード進行に沿って伴奏もできる歌である。

歌詞の中に、本当を書くのは難しい…というようなフレーズが出てくる。詩や小説や童話を書いていると、それを切実に思うことがある。文学を書くのはある意味ではフィクションの構築だが、その根底には何かしらの真実がないと作品として納得できるものにはならない。それを実感しているからこそ、いっそうこの歌が好きになる。

そして、自分がウソツキ…というようなフレーズがそれに続く。そう、人間は弱く、真実は時として人間の心を追い詰めるので、生きていく上ではどうしても嘘が必要になる。ただし、自分だけが得をしようとしてつくたちの悪い嘘を許すつもりはない。それでも、嘘なしに人が生きていけるとは思えない。嘘は、人間の哀しい弱さゆえに生じてしまうのである。

だから、この歌は愛おしい。さだまさしの歌の中で、何度も何度も聞きたくなる大好きな歌である。

人気blogランキング

コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年1月 3日 (水)

子ども省よりも家庭時間の充実を!

新聞によると、政府・与党は【子ども省】を新設し、少子化対策やいじめ、児童虐待など複数の省庁に関わる子ども関連の問題に対応していこうと構想しているらしい。そうした発想はすでに民主党の構想にも以前から出ているし、そのこと自体が必ずしも悪いわけではない。けれども、根本の発想が対処療法的なものであり、なぜそうなったのかという分析を抜きにして場当たり的に継ぎ接ぎの対策を実施しても問題は解決しない。

数年前の元旦に年始周りをしていた時、ある家でおじいさんが1人で2人の孫の面倒を見ていた。両親が、元旦からの大売出しで仕事に出て行ったために、孫を預かっていたのである。以前なら長いところでは一週間ほど年末年始の休業があったし、元旦や1月2日はデパートでもほとんど営業はしていなかった。しかし最近では1月2日の営業は当たり前、コンビニや量販店では年末年始も休まず営業していることが多い。買う立場からすれば便利にはなったが、働く立場からすればそれだけ休みが取りにくくなり、家族と過ごす時間が減っていくことにもつながっている。

昨年から問題になっているホワイトカラー・エグゼンプションの導入の可否にしても、使う側の企業の都合を優先した議論になっており、労働環境に関する視点は二の次扱いである。ましてや、長時間労働の歯止めをきちんとしないまま導入されれば、家庭で過ごす時間が減少し、それが夫婦の交流や子どもとの関係においてどれ程深刻な悪影響を及ぼすことになるか…などという分析はほとんどなされていない。

しかし、教育相談など現場での実感からすれば、ケアの必要な子どもや人に家族による充分な時間が保障されていない現実は、問題の解決に大きな障害となる。また、夫婦のすれ違いも、共に過ごす時間を仕事に分断されないで積み重ねられれば改善される事例も少なくない。共に過ごす時間が増えれば、子どもをつくる時間はもちろん世話を分担する時間も今まで以上に充実させられるであろう。

保育環境の整備や施設の増設など社会的・制度的なサポートももちろん大切である。だが、それ以上に企業における労働の都合を無条件に優先して家庭での時間を分断し続けるのを許容している経済政策の転換こそが問題の根本的な改善には必要なのではないだろうか。

1日の3分の1は労働に、3分の1は休息に、そして残りの3分の1は家庭や地域のために使って生活が可能となる。それが、本来の健康で文化的な人間の姿である。それを守ることが「美しい日本」を守ることにもつながっている。企業過保護の労働政策を強引に推し進めれば、問題はさらに悪化しさらなる【対策費】も必要となるだろう。そのような悪循環から抜け出すためにも、経済政策を転換し、普通に働いて普通に生活できるような社会を作っていかなければならないのではないだろうか。

人気blogランキング

・コメントは日本語でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2007年1月 2日 (火)

ひとりでお帰り…谷山浩子を聞きながら

最近の日本人は、以前にもまして【ひとり】を恐れているような印象を受けることが少なくない。子どもたちはもちろん、少なからぬ大人たちが近代的な自我を確立しきれないまま流され、周囲に左右されているからなのかも知れない。けれども、【ひとり】の時間、【ひとり】の空間には大いなる豊かさが存在している。【ひとり】の重さに耐えることによって【ひとり】の楽しさや【ひとり】の深さを手に入れる事が可能となるのである。

そんなことを感じさせてくれる歌がある。《銀の記憶》という谷山浩子のアルバムの冒頭に収められている「ひとりでお帰り」という歌である。誰もいない真夜中の舗道……。ひとり、自らの影と共に踊り続けるのを満月だけが見守っている。非常に孤独を感じさせるシーンであるが、そんな中で一心に踊り続ける姿が胸を打つ。

孤独に耐え、孤独を越えることによって得られるものがある。例えば、まだ出会えない誰かを包み込むことのできる強さと優しさ……。それは、本当に辛い思いに耐え、苦しみを越えてきたものだけに与えられるものである。それを持っていれば、去勢を張って強さを誇示する必要はない。自分より弱いものをいじめ、虐げることによって本当は弱い自分の存在をごまかす必要はないのである。

谷山浩子は歌う。夜が深くで足が怯えても、顔を上げて闇に沈まぬように…と。社会の闇も人々の心の闇も深い。けれども、自分自身をしっかりもって【ひとり】の存在としての自分を確立すれば、周囲に流されて闇に沈むことはない。そのための道は、まだまだ遠いかもしれない。けれども、信じる限り未来は続く。

谷山浩子の高く澄んだ声が、今の辛さを包み込み、未来に向かって一歩を踏み出す後押しをしてくれるようである。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2007年1月 1日 (月)

激突! 天皇杯

元旦…と言えば天皇杯。実は、サッカーがけっこう好きなので、天皇杯決勝は毎年楽しみにしている。今年は、浦和レッズvsガンバ大阪ということで昨年のJ1のリーグ優勝を最後まで争った2強の激突となった。

そして、浦和レッズはブッフバルト監督の退任・帰国、ガンバ大阪はキャプテンをも務めた宮本のヨーロッパ移籍を前にした最後の負けられない試合。そういう訳で、その思いと意地のぶつかり合う緊迫したゲームとなった。

終始攻勢だったのはガンバ大阪。何度となく浦和レッズの陣内を切り裂き、決定的なシーンをつくりシュートを放つ。それを浦和レッズが守りきって0点に押さえきった。特にゴールキーパー都築の守りは素晴らしく、入ってもおかしくないシュートを何本も好セーブしたりはじき返したりした。だが、攻撃面では浦和レッズはなかなか波に乗れず、苦労した。期待していた小野も後半に左足を傷めたようでもう一つ精彩を欠いていた。それでも、数少ないチャンスを活かし、後半の終わりごろになって永井がボールをゴールに押し込んだ。

結局、その1点が決勝点となって、浦和レッズがJリーグ発足以来初めての2連覇を成し遂げ、リーグ優勝に続くシーズン2冠を達成したのである。試合後の表彰式で、ブッフバルト監督の目が潤んでいたのをカメラが映していた。選手として当時は弱小チームだったレッズをひっぱり、そして再び監督として来日しレッズに見事な結果を残してくれたブッフバルト監督が去るのは寂しいが、日本サッカーと浦和レッズに深く関わり続けてくれた彼の帰国に対する最高のはなむけとなったのではないかと思う。

なかなか緊迫したおもしろい天皇杯決勝であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »