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2007年1月25日 (木)

教育再生会議というヤラセ

教育再生会議の中間報告が発表されたが、今のところ安倍首相の「方針」に沿ったものばかりであり、【想定外】の内容はほとんど見受けられない。つまりは、直接言っただけでは説得力を持たないので、「方針」通りの結論をごまかすために、議論のパフォーマンスを演じただけ……ということになる。アメリカ産牛肉の再開に関わっての【審議会の答申】と同じで、「はじめに結論ありき」の議論なのだということを図らずも露呈したものと言える。

その意味では、教育基本法の改悪の際のタウン・ミーティングも根本的な構造は同じであり、基本的に国民や専門家の声に真摯に耳を傾けようとする姿勢が相変わらず見られない。したがって、本来であればきちんと反省した上で責任を取り、方向転換すべきことが改められず、矛盾をさらに拡大させる結果となる。

例えば、《不適格教員》の問題にしても、問題になるのは教員だけなのか? という疑問がある。資格というならば、弁護士や医者もそうであり、官僚にしても例えば飲酒運転で事故を起こし現地の人を2人死に至らしめた外務省の職員が、大した処分も受けずに他の部署で仕事を続けている事例などを考えれば、《不適格官僚》なども、同列に5年ごとの見直し制度を設けるべきであろう。

いじめの問題も、被害者はもちろん、加害者にも周囲にいる子どもたちにも丁寧なケアが必要となる。「サインを見逃さないように」などと言っても、そのためには大人たちが子どもと関わるための時間を物理的に保障しない限り無理である。つまり、大人たちにきちんと家族で過ごすことのできる時間を保障する必要があり、そのためには最低賃金を上げ、時間外労働を減らす政策を採らなければならないのだ。その前提があって、子どもたちとの時間を積み重ねられてこそ「サイン」に大人が気づくことが出来るようになるのである。

本当の意味で《教育の再生》を求めて知恵を結集するならば、当然、【想定外】の内容がそれなりに出てくるだろうし、それを実現するためには文部科学省や厚生労働省も組織改革や方向転換なども必要となるはずである。だが、そんな兆候はほとんど見られない。これは、この教育再生会議が単なるパフォーマンスに過ぎないことの証拠ではないだろうか。

本当の意味での改革を考えるならば、みんなで痛みを分かち合う必要がある。さらに言うならば、上の立場に立つ人間、指導者たる人間は、その責任からしても、下の者よりも多くの血や汗を流す必要がある。それを現状のように回避している限り、矛盾は決して解決されないだろう。

 

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» 教育再生会議 第1次報告を読んで [hana先生のつぶやき日記]
新聞で,教育再生会議の第1次報告を読みました。評価すべき点と問題点などいろいろ・ [続きを読む]

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