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2007年1月24日 (水)

「責任」をどうとるのか

納豆のデータ捏造問題で一つの番組が姿を消す。だが、その責任の取り方が、経営側の減俸程度で終わりそうな気配である。データ捏造やヤラセの責任をその程度でとったことに出来るのであれば、何のことはない、必ず事件は再発するだろう。

問題の構造からすれば、まず、事件の背景の解明と再発防止への取り組みが先であり、それを一般の人々を納得させるまで行った上でトップが本当に身を切るような責任の取り方…例えば、再発防止のシステムが構築できるまで最低賃金以上の給与を返上し、退職金は当然辞退するというような…をする必要がある。

下請けに対してまともなチェックをしないまま視聴率至上主義で圧力をかけ、失敗したら下に責任を押し付けて自分は地位や特権を享受し続けるようなことを許していては、そしてそれで「責任をとった」ことにしていては、根本的な問題は解決されぬまま放置されることになる。しばらく時間が経てば、また同じことが繰り返されるだけである。

この構造は、そもそも教育基本法改悪に関わってのタウン・ミーティングのヤラセ事件でも同じである。世論を捏造し、誘導しようとした責任が、給与の返上ですむのか。それが許されるなら、日本の「民主主義」は権力者の恣意的なプロパガンダの押し付け放題である……と認めるのと同じである。当然、それが民主主義の名に値しない恥ずかしいことである、と知識や教養のある人なら誰でも思うだろう。

日本の社会は今、本来、責任をとらなければならないトップや経営側が責任から逃げ、それを現場の弱い立場の人々に押し付ける風潮が強まっている。それなりに報酬が高いのは、いざという時にきちんと責任を取る立場であるからの筈なのだが、そうした自覚のない欲深で無責任な連中が経済や政治の場にはびこっている。

一般の人々に対して「自己責任」を口にする連中が、どのような「責任」をとっているのか……。私たちはきちんと見極める必要がある。

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