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2007年2月10日 (土)

高橋留美子作品の異界論

15歳の少女・日暮かもめは、神社の隠し井戸に落ちて戦国時代にタイムスリップしてしまう。そして、そこで出会った犬夜叉という妖怪と人間のハーフと共に、四魂の玉のかけらを求める冒険が始まる。現在「少年サンデー」という週間の少年向けマンガ雑誌に連載されている最新の高橋留美子の作品が、この「犬夜叉」である。
 

「犬夜叉」に限らず、高橋留美子の作品には、普通の人間とは異なる存在が登場することが少なくない。例えば、TVアニメや映画にもなった「うる星やつら」には、宇宙人という微妙な設定であるが鬼や雪女、弁天、烏天狗などが登場するし、オリジナル・ビデオアニメとして作られた「人魚の傷」の原作の「人魚シリーズ」には、人魚の肉を食べて不老不死となってしまった人間たちが出てくる。
 

TVアニメやゲーム・ソフトになった「らんま 1/2」でも、水をかけると女の子や小豚や猫に変身し、お湯をかけると元に戻るという、普通ではない人間が主人公や脇役となってストリーを展開する。「めぞん一刻」ではそうした異質の存在は登場しないが、一刻館の住人は年齢・職業不肖の四ッ谷をはじめ、例外なく常人離れをしたキャラクターで固められている。短編で出てくる座敷ぼっこなども含めて考えれば、こうした異者が登場する傾向は決して連載作品にはとどまらないと言えるだろう。
 

だが、高橋留美子の作品世界において、このような異質の存在は、実は異者であって異者ではない。大人気を博した「うる星やつら」の主人公の諸星あたるは、地球人のガール・フレンド三宅しのぶと同じように鬼娘のラムや雪女のユキ、弁天様たちと接しているし、現在、週間「少年サンデー」に連載中の「犬夜叉」でも、ヒロインの日暮かもめは、人間と妖怪の混血少年である犬夜叉や妖狐の七宝と、ある場面においては普通の人間たち以上に親しみと愛情を持って接している。異形のものや特異な能力を持ったものでも、広い意味では「同じ人間」として生きていける世界がそこには存在しているのである。
 

しかし、現在の日本に目を転じてみると、正反対の事例がそこかしこに見られる。同じ人間なのに、わずかな違いやちょっとした差を理由にして、いじめられたり酷い差別を受けたりするという現実が様々なメディアによって至る所で報告されている。
 

例えば、教育関係誌に限らず様々な雑誌や書物で取り上げられ、TVのニュースや特別番組などでも何度も特集が組まれる学校での「いじめ」の問題。真実かどうかは別にするとしても、そのきっかけや背景に挙げられるのは、ほんの些細な差やちょっとした違いである。その背景には、同質性に病的なまでに固執するあまり、本来同等である仲間をわざわざ「異者」に仕立て上げて排除しようとする、余裕のない荒んだ心の風景が見える。
 

そうした「いじめ」は、子どもの世界ばかりでなく、大人の社会でも幅広く見受けられる。南米から日本に働きに来たが職場でいじめや差別にあって心を閉ざしてしまった女性、職員室で孤立し体育館の裏で泣いていた若い講師、自らが差別をされているがゆえに不法滞在のアジア人ホステスを蔑視してしまう男性…。少しアンテナを張っただけで、こんな情景や話をいくらでもキャッチできてしまう現実が今の日本にはある。
 

それは、現在の日本人が心にゆとりを失って追いつめられていることの表れなのだが、そうした心の弱さや醜さをそのまま発散させることは、社会全体が一層ゆとりを失い荒んでいくことにつながっていく。弱者をいたぶり排除を続ければ、次第に自分自身も弱者の側に追いやられ排除される道へと誘導されていくことになってしまうのである。
 

だが、ちょっとした心の持ち方で、そうした悪循環は断ち切ることができる。1人ひとりの「違い」を「個性」として受け入れ、心を通じさせようと努力すれば、時として世代や言葉の壁さえも超えて「思い」を伝えることが可能となる。一方の好意は、鏡のように他方からも好意として返ってくるのである。
 

高橋留美子の作品世界とは異なり、現実の地球には、妖怪や魔物や宇宙人は存在しないかも知れない。しかし、高橋留美子の世界/るーみっく・ワールドの前提にある、「違い」を「個性」として認め「存在」をそのまま受け入れるまなざしがあれば、「異者」も安心して生きていくことが可能となる。そして、「異者」を受け入れることのできる社会は、その視野を拡大し、発想や技術を飛躍・発展させて、社会全体をダイナミックに変革していく力を内在させているのである。
 

私は、自分自身が「異者」であると感じてきたがゆえに、様々な「異者」と巡り合うことができたように思う。そして、彼らとの交流は、私自身の「生」を非常に豊かなものにしてくれたという実感がある。そうした体験から、私は、自分自身を「異者」として生かしてくれる「集団」に対しては、できる限りのことをしてその扱いに応えたいと努力している。その努力は、集団を豊かな形に変革していく力につながると同時に、私自身の人間的な成熟にもつながっている。一方の利害ではなく、双方向の豊かさがその関係には存在しているのである。
 

「異者」をいじめたり排斥したりすると、その一瞬だけは気分が晴れるかも知れない。しかし、そのことによって失われる「豊かな実り」を思えば、そうしたやり方がいかに愚かであるかが理解できるだろう。るーみっく・ワールドの登場人物たちのように、「異者」をありままに受け入れる豊かさを持ち続けたいと思う。

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コメント

異者とは 他者 それは 人を自分と同じと 思うこと
宇宙人は テレパシーで会話をしています 思うだけで伝わるのです
 心が浄化されるでしょう
   宇宙生命科学研究会
     世話人 黒澤 泉

投稿: 黒澤 泉 | 2007年3月 1日 (木) 18時33分

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