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2007年3月13日 (火)

赤坂・千早城の攻防…楠木正成の戦略

後醍醐天皇による2度目の倒幕の企て・元弘の変は1331年9月28日の笠置山の落城によって一段落したかに見えたが、楠木正成は河内で赤坂城に籠もり幕府への抵抗を続けていた。

「城」と言っても、この時代は日本の城を代表するような姫路城などとはまったく違っている。当時の城は天守閣や城全体を囲む水堀などを持たず、いくつかの砦を連携して運用しているような形であり、赤坂城はそれほど規模が大きいわけでもなく、にわか作りの塀や櫓が点在するだけであり、当然、幕府軍は一気に潰せると考えた。

ところが、赤坂城は簡単には落ちなかった。東国武士の一騎討ちに拘る発想を逆手にとって徹底的なゲリラ戦で対抗したのである。楠木勢の準備としては食料の備蓄など、完全とは言えなかったが、地の利を活かし、戦法を工夫して幕府軍を翻弄した。そして、頃合を見て、10月21日、嵐にまぎれて城に火をかけ、脱出してしまったのである。

幕府軍は、これによって勝利をしたと勘違いし、軍を引く。だが、楠木正成は一年近くの間に反撃の準備を整えた。金剛山を中心にして千早城を築き、1332年12月、一気に赤坂城を奪還し、幕府軍と戦った。幕府は大軍を派遣したが、正成は千早城に籠って抵抗し、ゲリラ戦を仕掛けて幕府軍を翻弄した。

地形を利用し、土豪を組織して、遠征軍を分断し、集団戦で先駆け・一騎討ちの戦法に拘る幕府軍に対抗する。戦場地形の知識に乏しく、土豪たちを組織することもせず、「古い伝統」の戦い方が頭から抜け切れなかった幕府軍が責め切れなかったのは、ある意味では当然であろう。

大軍で攻めてもそれを翻弄し、落城せずに抵抗を続ける千早城の楠木正成の存在は、反幕府勢力の蜂起を促し、鎌倉幕府滅亡の流れをつくっていくことになる。

だが、これが可能となったのは、敵を研究し、地の利を十二分に活かし、相手の裏をかく戦法を次々と実行した楠木正成の智慧と戦略があったからである。敵を知り、己を知れば百戦危うからず…楠木正成は、赤坂・千早城の戦いにおいて、身をもってこれを実践したのである。

 

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コメント

日本の歴史上には魅力ある人物が多い中、楠木正成については名前だけしか知りませんでした(^^ゞ
智謀に長けた戦略で大敵を相手に戦うところに僕も魅力を感じます。
中国の三国志にも魅力的な人物が多いですが、やはり有名なのが「泣いて馬謖を切る」諸葛孔明でしょうか。語り継がれる諸葛孔明はかなり演出されたものとなっていますが、それでも若い頃の僕にとってはヒロー的存在でした(^_^)

投稿: うるとらの音 | 2007年3月14日 (水) 21時36分

孔明は、私も大好きです。それから、源義経や竹中半兵衛も好きですね。あくまでも自分は一歩引いてトップを大切にする智謀の軍師……てのが好みです。

竹中半兵衛と言えば、仮面の忍者赤影を秀吉に紹介したのが、実は半兵衛ってことになってます。飛騨の赤影ですから、設定としては歴史的な考察をしてるよなぁ…って思いました。さすが、横山光輝さんの原作です…何の話だっけ(笑)

楠木正成に戻れば、多分、現実的な判断からすれば足利尊氏と後醍醐天皇の共存を正成は望んでいたと思います。そして、尊氏も正成の仲介であれば、快く後醍醐天皇と共存したと思います。尊氏は、新田はともかく楠木正成はその力量と人格を認めていたし、一目置いていましたから。それでも、朱子学を学んでいたこともあって、最後まで後醍醐天皇を支えて湊川に散った生き様には心惹かれます。

投稿: TAC | 2007年3月14日 (水) 22時00分

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