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2007年4月30日 (月)

厳罰化よりも必用なこと

少年法が「改正」され厳罰化が進む見通しとなった。確かに、日本のマスコミによる現在のニュース報道を見ていると、厳罰化もある程度仕方が無いのかな…という思いは否定しきれない。しかし、過去のデータを詳細に見てみると、戦争前の一時期や戦後の一時期においても現在以上に凶悪な犯罪が起こっていたし、件数も現在を上回っていたという事実が確認できる。ということは、今までの「少年法」においても、それなりの効果は上がっていたという結論になる。

「厳罰化」というのは、ある意味では「脅し」だが、脅しが通用しない相手も存在する。1つは《無知》。その事実を知らなければ、歯止めにはならない。そして、犯罪を犯す青少年の生活環境を考えれば、十分に法律の知識を持たない場合が少なからずある。もう1つ、知っていても実感していない場合。これも、脅しは通用しない。

結局、「厳罰化」というのは、対処療法の一つに過ぎないのである。それよりも、戦後の混乱期から徐々に青少年の犯罪が減少していった背景を考えた方が実りのある議論ができるのではないだろうか。戦後の混乱の中で青少年を支える家族や地域社会の機能が低下していたが生活の安定と共に家族や地域の支える力が強まり、それが犯罪の減少につながっていったのだと考えるのが自然だろう。

翻って、今の現実を考えてみよう。家庭や地域の青少年を支える力の弱まりが指摘されて久しいが、なぜそうなったのか。大企業優遇政策が人々の競争を過度に煽ってつながりを弱め、長時間あるいはぶつ切りの労働時間によって、人々の生活時間を奪っている現実があるではないか。それを放置して「厳罰化」を進めても、根本の背景が改まらない以上、問題は解決しないのである。

教育再生会議もそうだが、今の政府・与党は、口先あるいは表面的な対処療法をパフォーマンスとして表に出すだけで、問題の根本を分析してその解決に努力しようとする強い意思と粘り強い努力に欠けている。それに手を着ける決断から逃げ続ける限り、状況は好転せず、さらに悪化する危険性をはらんでいる。上に立つものが現実を真摯に見つめ、率先して自らの衿を正し、問題に向き合っていくことが大切だろう。

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2007年4月29日 (日)

『なんとなく、日本人』を読む

この本は、対米売国小泉「改革」によって日本社会の持っていたセーフティ・ネットが次々と壊され、「改革」の欺瞞や英米式「グローバル・スタンダード」の嘘が、強力なメディア・コントロール(あるいはメディアの自殺)にも関わらず、徐々に見え始めた昨今の政治・経済情勢の中で、色々と納得できる提言も書かれているけっこう面白い「日本人論」である。

 

例えば、日本語そのものの特性からのアプローチは、外国人のための日本語教育に関わる立場からも非常に納得できる記述があり、楽しいばかりでなく興味深く読むことが出来た。また、若い世代に対する分析も、表面的な差異に目を奪われずに、歴史的な事実とも比較しながら見ていく語り口には納得できることが多かった。

 

そうした記述も楽しかったが、何よりも興味深く読むことが出来たのは「場」という視点だった。

以前、フレネ教育研究会のレポートで何度か「場」の問題を取り上げたことがあったが、教育の現場にあっても、安定したお互いの共感が成立する「場」が形成されていれば、学習、精神の安定や自立、成長の面で大きな効果が上がることを指摘したものだった。この著者の分析は、教育の場ではなく社会や製造の現場でのことを取り上げているのだが、その分析や指摘は、私自身の考えていたことと共通する部分を多く持っているように感じられた。

 

この「場」との関わりでおもしろかったのは、「自我」の問題である。

著者は「自我」を「場」との深い関わりの中で安定する「日本的自我」と「西洋的自我」(旧来の意味での「自我」)を対比させ、必ずしも「西洋的自我」を「確立」させなければならない必然性があるのか、という主張を展開している。

私自身も自我の確立については自分自身もけっこう悩んだし、また教育相談などの現場でも問題とせざるを得ない場面を何度も経験した関係上深く考えてきた方だが、個人的には、「自我を確立し、さらにその自我さえも自由自在に捨てられるようになる事が理想ではないか」と考えていた。が、「自我」そのものが実は「西洋的自我」であり、日本では日本の歴史的背景や社会の状況にあった「日本的自我」の確立で良いし、「西洋的自我」の特徴や発想を理解した上でならば、真の意味でのグローバル化にもプラスになる、という考えにはけっこううなずけるものがあった。

自分の属する「場」での安定が「日本的自我」の安定につながり、それが能力を発揮させたり開花させたりすることにつながっていく。またそればかりでなく、それがお互いの共感を育て豊かにしていくのであれば、そうした面は大切にしていくことが、確かにグローバル化の進展という歩みの中でも大切になるだろう。けれども、「個」の弱さは、ある意味では弱点にもつながりかねない部分を持っている事もまた事実である。要は、それぞれの違い・長所・欠点を意識しながら付き合っていくしかないし、それさえきちんと出来れば、グローバル化の中でもやっていけると思われる。これは、ある意味では今後の方向性をも示唆してくれている本だといえよう。

ただ、具体的にはセーフティー・ネットをどのような形で再構築し、様々な「場」での安定性を回復していくかが政治的にも経済的にも社会的にも大きな課題となってくる。外国人労働者や移民に関しての考えでは相違点もあるが、当面の課題は大いに共感できる形でまとめられている。

一市民の立場として出来ることは少ないにしても、読んでいて希望が膨らんでくる一冊であったと思う。            〔完〕

 【TEXT】

  『なんとなく、日本人』

        小笠原 泰 作 

            2006年  PHP新書

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2007年4月28日 (土)

『オニババ化する女たち』を読む

そのショッキングな表題と「女性の身体性を取り戻す」という副題に興味をそそられてこの本を購入したのは2004年の秋のことだった。

 

私の、どこか不純な期待は完全に裏切られたが、それ以上におもしろく、興味ぶかく、そして考えさせる内容だったので、仕事が詰まっている時期であるにも関わらず、この本を読み終わるまで数日とはかからなかった。そして、読み終わった後、妻を大切にして幸せな生活を育もう、そして子どもを産んでもらう時には、可能であれば病院ではなく助産婦さんに頼みたいものだ……などという訳のわからない結論に達してしまった。

 

そうした意味では、期待を裏切る非常におもしろい1冊であり、この本に出会えたことを心から感謝したいと思う。

 

詳しい内容を要約するつもりはないし、それはぜひ自分自身で確かめてもらった方が良いと思うが、これを読みながら感じたり考えたりしたことを述べてみよう。

 

この本では女性の「身体性」について生理や妊娠やセックス、出産などを手がかりにしながら作者の国際協力活動の体験を通して得られた知識や実感を交えて色々な視点から記述してある。

 

そうした「女性の身体性」については女でも両性具有でもない以上、実際に体験し実感する事は不可能だが、「身体性」については、それなりに自分の体験からも何となく頷ける部分がある。

 

実は、私のマッサージには隠れファンがけっこういて、元妻はもちろん、行きつけの飲み屋などでも時々マッサージをする羽目になることが少なからずある。その際に、指先で身体に触れていると、硬くなっていたり熱を持っていたりするところがある。そこは、大抵悪いところなので、「今日はここが悪いね」などと言いながらソフトにその辺りをほぐしていく。

 

ある関西で活躍している友人のベーシストなどは「マッサージは力まかせみたいなとこが嫌いやで行かんけど、拓さんにしてもらうのは気持ちええわ」などと言いながら商売道具の肩を揉ませる。自分自身についてでも偏頭痛や歯痛の時にちょっと熱を持った部分を押さえることで楽になったりする。その際のポイントは接している指先の触感であろう。微妙な温度や硬さの違いが「異常」を教えてくれるのである。

 

この本で述べられているいくつかの例、例えば月経血のコントロール能力なども、かつての女性が自らの身体についての鋭い感覚や自覚によって支えられたものであり、そうした身体感覚を日常生活や地域社会、文化的な面が包み込み大切にしていたことを示してくれている。もちろん、過去の制度や文化には影の部分もあった訳だが、現代の「グローバル化資本主義経済」のように経済効率の観点だけで全てを考え、制度として「女性の身体性」を侵害していくといったような現実はなかった。

 

なぜ、生理中でも通常と同じように働かなければならないのか。少子化の不安を煽りながら、子どもを産み育てることへの支援が遅々として進まないのはなぜなのか。病院での出産によって会陰部切開が増加したのは身体への侵略ではないのか…。

 

女性の人権を口にしても、そうした部分での現実的な後退は、「グローバル化資本主義」の矛盾と虚偽性・陰湿性を浮き上がらせる。「グローバル化」は、その名のもとに様々な「地域」と独自の「風俗・文化」を侵略し、【効率性】によって破壊していったのである。

 

身体性への着目は、自然や人間性を大切にすることにもつながっていく。普通に働き、普通に身体を大切にして、普通に休んで、それでいて普通に暮らしていける文化を私たちは地球のいたるところで持っていたはずである。贅沢はいらない。それを取り戻したいと私は思う。               〔完〕

      

【TEXT】

 『オニババ化する女たち』…女性の身体性を取り戻す

   三砂ちづる 作  2004年  光文社新書

 

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2007年4月27日 (金)

歩こう! 歩こう!!

今回の職場での最後の仕事が遠足のつきそいだった。幸い、朝から良い天気で、子どもたちも時間通りに集まり、予定より少し早く出発した。ここでは、春の遠足は、しっかり歩かそうという形をとっている。そして、個人的にも子どもの頃から歩くのは好きだった。ただ、メンバー構成の関係で、車係と相成った。

それでも、出発駅で子どもを見送った後、目的地の最寄の駅まで車を先回りさせ、駅のすぐ近くの交差点に向かう。実は、この駅の交差点が一番交通量も多く、道も変形5叉路になっていて危険な箇所である。子どもたちは70名を少しわる程度の人数でつきそいは4人。信号や車に注意して子どもたちを渡らせ、2つ目の信号交差点まで横を歩き、全員を安全な歩道まで渡らせてから、最初の目的地まで先回りする。そして、そこから迎えに歩き出す。…こんな具合だったので、車係であるにも関わらず、けっこう良く歩いた。

最初の目的地から、次の目的地の展望台へと移動するときには、さすがに歩きつかれて進むのか遅くなった子どもたちが7,8人、最後尾を歩いている。くじけそうになるのを励ましたり、横道に逸れそうになるのを引き戻したり、少し笑わせたりして元気付けたりで何とか展望台まで送り届ける。

「歩こう 歩こう」と少しふしをつけて言うと、「トトロでしょう?」と笑う。続いて「歩くのキライ」などというので「じゃあ、走りな」と切り返す。少し太り気味で足取りが重かった子どもたちも何人かいたが、とにかく全員を展望台に移動させて休憩をとる。休憩時間になると、足取りの重かった子たちも元気に走り回るのがおかしい。

その後、徒歩で次の目的地に向かう子どもたちの出発を見送った後、ボールやなわとびなども積んである車に戻り、別の道から次の目的地の芝生公園に向かう。そこで、弁当と休憩。子どもたちは楽しそうに遊び回っている。だが、歩く時になると元気がなくなったりするのがおかしい。帰りも、先に交差点まで車を回し、迎えに戻る。そして、全員が駅のホームに入った後、解散予定の出発駅に車を回す。歩く距離もそれなりに多い1日だった。

遠足のつきそいも20年ぶりくらいになるので多少疲れたが、やはり歩くのは気持ちが良い。忙しさの中で忘れかけていた心地よい足の筋肉の疲れの感覚を今夜はじっくりと味わいたいと思う。明日の朝、体中が痛くならなければいいのだが……

 

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2007年4月26日 (木)

八十八夜…NSPの歌より

4月も、残すところわずかとなった。小さい頃は、祖母に連れられて茶摘をした思い出があるが、「茶つみ」という歌の冒頭が「夏も近づく八十八夜…」であったように、もうすぐ八十八夜である。今年は5月2日がちょうど八十八夜に当たっている。

さて、八十八夜と聞くと、NSPを思い出す。「夕暮れ時はさびしそう」や「赤い糸の伝説」のヒットで知られるグループだ。彼らの歌の中に、ちょうど「八十八夜」という歌がある。長過ぎた恋に終止符をうって結婚を決めた女性が、結婚を前にして、ふとかつての恋人の写真を引き出しの奥から見つけてしまう。その心の揺れをNSPが歌う。

もう、引き返せない。恋は終わったのだ。そう、何度も自分に言い聞かせながらも、完全には捨て切れないで宙に浮いたままの想い。それを断ち切ろうとする心に、思い出が揺れる。それを振り払おうと繰り返す言葉…サビの部分である。

もうすぐ八十八夜 もうすぐあたたかくなる

もうすぐ八十八夜 もうすぐ幸せになる

恋人と共に生きることを願う想いは純粋であっても、それだけで生きていくことはできない。終わった恋に区切りをつけて、新しい愛を育んでいく…それもまた人生である。

 

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2007年4月25日 (水)

心に残るラストシーン/アニメ編

以前、特撮のラストについて書いたが、今回はアニメで考えてみよう。その際に、すぐ頭に浮かぶのは映画「銀河鉄道999」のラストシーンである。機械化母星を破壊して地球に帰ってきた鉄郎とメーテルの別れ……。唇の柔らかさやぬくもりまで伝わってくるようなメーテルのキスと走り出す999を、メーテルの名を呼びながら追いかける鉄郎…そして宇宙へと遠ざかっていく999……。何度でも見たいシーンである。

それから、TV版「宇宙戦艦ヤマト」の最終回の地球到着を前に「地球か…何もかも懐かしい」という言葉を最後に息を引き取る沖田艦長…それを知らせようと艦橋に向かった佐渡先生の前で何も知らずに喜びに沸き立つ艦橋と古代の胸で息をふき返した森雪…ちょうど沖田艦長の魂が、雪の魂を呼び戻したかのように、喜びと悲しみが交錯するラストも心に残っている。

また、「もののけ姫」の矛盾を抱えながらもそれと向き合い、森とタタラ場に別れて生きていく選択をしたサンとアシタカの思い…それに対比するように明るくしたたかに生きる人間たちの姿と変わってしまった森の姿……このラストも印象深い。

あるいは、「海のトリトン」で海の仲間たちに支えられてポセイドン族の刺客を次々に退け、オリハルコンの短剣をかざしてポセイドン族の本拠地に飛び込んだトリトンを待っていたポセイドン族の滅亡……。知らないで進んできた道を過酷な運命が待っていたという衝撃のラストは深く心に刻まれている。

他にも、「天空の城ラピュタ」や「紅の豚」、「機動戦士ガンダム」「闘将ダイモス」「惑星ロボ ダンガードA」「ジャイアントロボ~地球が静止する日」や「タイガーマスク」「ペリーヌ物語」映画「1000年女王」など、ラストシーンが蘇ってくるアニメはいろいろある。その中でも999やヤマト、もののけ姫、トリトンなどは特に印象深い作品である。

 

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2007年4月24日 (火)

全国一斉学力テストは行われたが…

教育委員会がポリシーを持って反対した犬山市をのぞいて、全国一斉学力テストが行われた。教育学を専門とする立場からすれば、犬山市教育委員会の対応は言動一致の一貫したものであり納得できる。

逆に文部科学省の説明は多くの課題や問題点に対して十分に答えないまま強行しているため、その説明すらも納得しきれないものであるし、「君が代」を国歌にした時に「強制はしない」と答弁しながら東京都の「国旗・国歌」の強制的な押し付け政策に行政指導のかけらも行っていない事実からすれば、言行不一致も甚だしく、信頼が置けない。

犬山市教育委員会は、実際にこれまで進めてきて実績も上げてきている市教委独自の教育改革の延長線上に今回の【保留】がある訳で、例えば、データとして全国レベルより低い平均点の出た都道府県に対し、日本国憲法26条に規定されている子どもが義務教育を受ける権利を平等に保障するために、優先的に教育予算を増額して教育の質を向上させる…というような使い方をするのであれば、多分、犬山市の進めている教育改革の理念にも合致するので、参加を検討する方向に変わるに違いない。

ところが、競争を煽ることになってしまわないかという危惧に対し、文部科学省は具体的に手立てを示していない。なぜ、長きに渡って中断したのか……という理由が、競争原理を煽って教育を荒廃させるという批判が高まったからなのだが、その対策を示さないまま強行された以上、文部科学省のこれからの動きには十分に注意する必用がある。

教育の荒廃が語られる中、金を出さずに口先だけで「改革」をアピールしようとする政府と文部科学省。全国一斉学力テストも、そのための言い訳に悪用される危険もある。そして、現場を無視した的外れの「口先改革」が返って教育現場を混乱させ、教育を荒廃する危険性もはらんでいる。

犬山市教委が主張するように、未来を考えれば教育予算を福祉予算とともに削るのではなく、もっともっと教育に金をかける必要がある。そして、犬山市教委は、実際に全国に先駆けて30人学級を実現しており、その言葉は、政府・文部科学省の主張とは異なり、口先だけではないのである。議員宿舎などの無駄な金を徹底的に削って、学力テストの結果を生かすような教育予算を組むかどうか。今回の学力テストが「口先改革」のパフォーマンスに悪用されないかどうか、注視していきたいものである。

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2007年4月23日 (月)

『ぼちぼちいこか』を読む

大学時代、友人の1人から紹介され、今も手元にある1冊の絵本がある。マイク=セイラー作/ロバート=グロスマン絵の『ぼちぼちいこか』というわずか32ページの本である。

 

物語はいたって簡単で、主人公のカバくんが消防士や船乗り、パイロットやピアニストなど様々な職業にチャレンジするのだが、身体の大きさや重さ、微妙な力のコントロールが出来ない事などが原因ですべてに失敗し、ひとやすみをしよう……という流れになっている。今江祥智の関西弁の訳とやわらかな色彩で描かれたカバくんの何ともいえないユーモラスな表情が絶妙で、何度読んでも楽しいし、また、読み終わった後、ほのぼのとした気分になれる本である。

 

その名訳の一部を紹介してみよう。原作本では、「NO」がだんだん大きくなっていくという話だが、「…なれるやろか」―「なれへんかったわ」・「…どうやろか」―「どうもこうもあらへん」・「…になるちからは」―「ありすぎやったな」・「…てをだしてみたら」―「てがでえへんやんか」といった具合に変化していく。それが、グロスマンの絵と訳とは思えないほどマッチして、何度読んでも、ページをめくる度に笑みが零れてしまう。

 

それでも、失敗を繰り返しながらも次々と新しい事にチャレンジするカバくんの姿は微笑ましいし、失敗続きでも落ち込まず、「ま、ぼちぼちいこか」とハンモックでひとやすみを決め込むカバくんにほんのりと温かいものを感じてしまうのはどうやら私1人ではないらしい。

 

大人が手にすれば「癒し系」という事になるだろうが、もちろんこの本を手にした子どもにも人気があるようで、甥や姪が小さい頃に買い与えたら、プレゼントした事を後悔する程、何度も何度も「読んで」と言って近寄って来たし、自分で字が読めるようになっても、時々、思い出したように手にしていたのを記憶している。

 

いずれにしろ、大人にとっても子どもにとっても「良い本」には違いないのだが、最近の日本の世相を見ていると、心のために「必要な本」となりつつあるのではないか……という思いにとらわれる事がある。不況が長引く中、多くの人が職を探し、不安定な労働環境の中で苦しんだ。最近は、多少改善されつつあるが特に若い世代はまだまだ非正規雇用が少なくない……というような話も耳にする。就職ばかりでなく学校や年金など未来を悲観しかねない情報が巷に溢れている。

 

学校や職場でも心のゆとりは失われ、時間や日々の仕事・勉強に追われて心は疲れ、荒れすさみ、穏やかな心でゆとりと優しさを持って周囲の人々に接する事の出来るような人は私の周囲でも少なくなっているように思われる。

 

そうした中で夢や希望を持つ事は難しいかも知れない。しかし、心にゆとりを持って自らを取り巻く現実を見つめ、その上で自分の能力で出来る事を地道に積み重ねていけば、少なくとも絶望せずに生きていく事は可能になる。

 

ある意味では、絶望する事は易しい。しかし、それでは前には進めない。遠過ぎる目標だけを意識せずに、自分や周囲の「現実」をきちんと受け入れながら、それでも今出来る事を積み重ねていくと、少しずつ前に進んでいくことが出来るのではないかと思われる。

 

苦しいのは自分だけではない。あるいは、状況も悪いかもしれないが、長期戦の覚悟を決めて、ゆっくりと進んでいけば、少しずつ道は開けてくる。「ぼちぼちいこか」という言葉を、苦しんでいる多くの人々に伝えたい。       〔完〕 

  『ぼちぼちいこか』

  マイク=セイラー 作 ロバート=グロスマン 絵

   今江祥智 訳       偕成社   1980年

 

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2007年4月22日 (日)

あなたが美しいのは…愛する人に伝えたい言葉

堀内孝雄が歌っている歌の1つに「あなたが美しいのは」という歌がある。作詞は小椋佳、作曲は堀内孝雄である。誰もが、人に好かれたい。特に、自分が愛している人には……。そういう思いを持っているだろう。その思いゆえに「美しくありたい」と願うことも多い。だが、美しさ…とは何だろう。

例えば、テレビや映画で見る女優、あるいはアニメやコミックのヒロイン……。確かに、美しいのだが、実は身近なところにも美しさはある。ひたむきに生きること、そしてひたむきに愛すること。家族やパートナーの姿に、あるいは周囲の人々の行動にそれを感じたとき、やはり美しいと感じるものである。

 

あなたが美しいのは 愛されようとする時でなく

あなたが美しいのは ただ愛そうとする時

あなたが素晴らしいのは 愛されようとする時でなく

あなたが素晴らしいのは ただ生きようとする時

 

小椋佳が紡ぎ、堀内孝雄が繰り返し歌うこのフレーズが胸に響く。確かに、パートナーが美しくありたいと思う気持ちはかわいらしいと思う。だが、現在の若さの美を過度に賛美する風潮は明らかにおかしい。歳を重ねることでにじみ出てくる美しさというものもあるからだ。だからこそ、愛する人に伝えたい言葉がここにある。小椋佳が過不足なく歌詞にし、堀内孝雄が曲をつけ、歌いこんだこの歌。面と向かって口にするのは照れくさいが、心を込めて歌ってあげたい歌である。

 

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2007年4月21日 (土)

『水晶の涙』を読む

ファンタジーではあるが、神話や英雄譚ではなく、人魚にまつわる小さな物語である。人生においても日常の生活においても、ほんの些細な事が実はとても大切であったという経験は少なくないが、雄大なストリーばかりがファンタジーではないことを再認識させてくれる逸品として、このあまり人に知られていないであろう作品をあげたい。

 

人魚が登場する物語としてこの作品と比較したいのは、アンデルセン童話の『人魚の姫』(新潮文庫1968年による)である。アンデルセン童話の人魚姫は、魔法の力を借りて人間の姿になるのと引き換えに美しい声(を出す舌)を失う。

 

それに対して、この物語の人魚たちは最初から舌はない。人魚たちは泡と手話で会話をするのである。その際、舌は綺麗な泡(の言葉)を作る邪魔になる。この設定は、おもしろいと感じられる以上に、ある種科学的な説得力を持って、物語世界の人魚たちの種あるいは社会にリアルな存在感をあたえている。

 

また、アンデルセン童話の人魚姫は、人間の姿になってからも歩く度に痛みを味わう身体になる。が、昼間人間に姿を見られて人魚の社会を追放された人魚メルシーナは、最初は足の使い方が分からず、歩けない。幼児が歩行を覚えるように、あるいはリハビリの訓練のように、人魚の彼女を見た耳の不自由な少女ジェスと老いた船乗りキャプテン・Aの助けも借りながら、少しずつ足の使い方を覚えて歩けるようになっていくのである。

 

それから、人魚の少女メルシーナと人間の少女ジェスとの交流は、異文化交流の視点も持ちながら読み進めていくととても興味深い。

 

聾唖者でもある女優マーリー・マトリン主演の「愛は静けさの中に」という映画で健常者の夫と主人公がけんかをするシーンがある。同じ英語文化圏の中で生きていても聾唖者と健常者という違いが距離となって2人の間に横たわる。相手が好意を持つ理解者であっても、完全には理解しあえないからこそ、その努力を続ける姿が見ていて胸を打った。

 

一方、この物語における人魚の少女と2人の人間との間にはそれ以上の距離があった。水や衣服の感触、他のものとのつながり、あらゆるものが違っているからこそお互いの心を通わせるために、その生きてきた背景を理解する努力が必要だった。そしてそれは、今までの自分自身を振り返るきっかけとなり、この出会いを通して水の中で生まれた少女と陸で生まれた少女が成長していくことになる。

 

メルシーナは人魚たちに伝えられていた「3つの知恵」〔①忍耐せよ、海のように②周囲の生命のリズムに合わせてうごけ③すべてのものは他のすべてのものになれ、あらゆる生命は海とふれ合っていることを知れ〕の意味をより深く理解し、自分の犯した過ちに気付くと共に、この「3つの知恵」を陸に伝える役割を自分が持っていたのではないかと考え始める。そして最後には、仲良くなった陸の少女ジェスに自らの思いを込めた水晶の涙を残して海へと帰っていく。

 

また、ジェスは残された水晶の涙をイヤリングにしようというキャプテン・Aの言葉にうなずく強さを身に付ける。それは、他の人の目にも補聴器を付けた耳をさらす事であり、耳の不自由なありのままの自分を受け入れ、そして人々に向かって自分の心を開いていくことにもつながる事でもあった。

 

ストリーに関わっての細かい言及はこの程度にとどめておきたいと思うが、小さな物語の背景にちりばめられた小道具の細密な描写と設定が読む者の成熟度に合わせてイメージの翼をより大きく羽ばたかせ、生きる事に関わる様々な問題にアクセスさせてくれる。例えば「3つの知恵」などは仏教や道教などの東洋思想との関連なども感じさせる内容となっている。この小さなファンタジーは、そういう奥行きの深さを持つ作品である。

 

機会があればぜひ一読していただければと思う。

ジェイン・ヨーレン  『水晶の涙』  (村上博基 訳) 

                ハヤカワ文庫FT54  (1983年 7月  初版発行)

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2007年4月20日 (金)

荘園と武士2…侵略される荘園

幕府に任命された地頭が荘園の軍事・警察権を握ったことは、やがて現地の武力によって荘園の所有者に圧力をかけることが可能になり、年貢の搬入を妨害する…というようなことも起こってくる。所要者である領家は、当然、幕府に訴えたりもするが、幕府そのものが武士の作ったものである以上、なかなか領家の要求通りの結果は得られない。そこで、年貢の徴収を地頭に請け負わせたり(地頭請)、荘園を2等分して半分を地頭の支配下に置くことを了解する形で、多少なりとも収入が確保しやすい形で妥協をしていくことになる。結果として、武士の荘園侵略が進んでいくのである。

さて、鎌倉幕府において、《守護》というものがある。地頭が荘園の軍事・警察権を掌握するのにたいし、上総・下総といった国の単位(現在の県のようなものだが)で軍権を握るのだが、いくつかの荘園を支配する有力御家人が、大軍での行動が必要なときに本来は同じ御家人のはずの他の地頭に命令を下す役割を担っている。ただ、鎌倉幕府の成立の時点では、軍事的な場では命令に従うとしても、一般の地頭が守護の家臣であったわけではない。

ところが、時代が下っていくにつれて、守護が地域の地頭を家臣化していく動きが顕著になっていく。そのような形で、室町時代の守護大名は生まれていくのである。その頃には、荘園の領家の方も、守護に年貢の徴収を請け負ってもらう形になっていく。地頭請が、その実効性を高めようとする荘園の領家の都合で守護請という形に変化していくのである。結果として、ますます領家の力は低下し、戦国時代を経て、豊臣秀吉が全国を統一し、太閤検地を実施していく中で、荘園は消滅してしまうのである。

結局、現地の実態を知らないで年貢だけを受け取って…という形が通用したのは、武士が実力をつけるまでのことであり、武装農民として現地に密着している武士は、現場を知るからこそ、実力によって荘園を自分のものにできたのである。現場を離れてものごとを決定し、支配しようとしても、現場が力をつければつけるほど権威は低下し、決定の実行は難しくなる。現場を知り、現場を重視することの大切さは、ある意味において、現代も同じであろう。

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2007年4月19日 (木)

荘園と武士…地頭の持つ意味

以前、楠木正成を論じたときに、もともとの武士は《武装農民》であることを書いた。寄進地系荘園が増加するということは、荘園を開いた地域の有力者が、荘園の所有権を放棄してそこの管理者となり、その代わりに有力貴族や寺社の獲得した、免税と役人の立ち入り拒否の特権を獲得していく形が増加していくことを意味していた。

荘園を開発した地域の有力者と寄進先(つまり新しい所有者)の大貴族や寺社との関係が良好で、周囲の荘園との対立や抗争がない時にはそれでよい。ところが、地域の有力者が寄進先とトラブルを起こしたり、水利などの関係で周囲の荘園との抗争が始まったりすることは、決して珍しいことではない。その結果、荘園を開いた地域の有力者たちは、自分や一族を守るために、好むと好まざるとに関わらず、武装しなければならなくなってしまった。これが、【武士】ということになる。

こうした武士の登場は、律令制度の衰退の中で軍団が廃止されたこととも関わっている。軍団が存在して睨みを聞かせていれば、例えば天候が不順で水不足になった時に近隣の荘園から力ずくで水を奪ってくることなどできない。が、軍団がいなければ、勝算がある限りそれが可能となる。そうした事情からも、地域の有力者たちは武装する必要があったのである。

だが、現在の所有者との間にトラブルが起こってしまうと、管理者の立場はどうしても弱くなる。だが、地頭は、荘園の軍事・警察権を持つので、自分が地頭であればそれをたてに一定の権利を主張することが可能となる。また、必要経費も要求できる。しかも、地頭の任命権は、貴族や寺社とは一線を画した幕府が握っているので、所有者とトラブルになっても幕府の権威と実力でそれなりに対抗できる。そうした地頭の特質を考えれば、武士にとって地頭に任命されることは大きな意味を持っていた…ということになる。

その意味において、地頭の任命権は鎌倉幕府の要(かなめ)だったのである。同時に、幕府はその権威と軍団の動員力を背景に、荘園と荘園(武士と武士、あるいは武士と荘園領主)のトラブルを仲裁できるだけの力を持っていた。したがって、幕府と対立した勢力の荘園を没収したり、地頭を置けなかった荘園に対して幕府への反抗を理由に地頭を置く…ということもできた。それは、荘園の実質的な支配権を保障することであり、それが、武士の幕府への信頼と支持につながって、政治を動かすことが可能となったのである。

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2007年4月18日 (水)

荘園の発展…自墾から寄進へ

「悪貨は良貨を駆逐する」という諺があるが、荘園も、本来の意味からすれば律令国家のすべてが公地という建前の中で成立する私有地だから、悪貨の類である。だが、時を重ねる中で、公地そのものも荘園化していくことになる。荘園の増加の中で、律令制の徴税システム(祖・庸・調・雑徭・兵役)が破綻してしまうからである。

なぜ、そうなってしまうのか。貴族や寺社が政府に働きかけて、不輸の権・不入の権…つまり納税をしなくてすむ権利と官吏の荘園への立ち入りを拒否する権利を獲得してしまったからである。

墾田永年私財の法が施行されても、当初はある程度は税も納めなければならなかったし、もちろん、官吏は必要に応じて荘園に立ち入ることも可能であった。その意味では、地方の有力者も、有力貴族や寺社(東大寺や春日大社などの大きな寺院や神社)も同じ条件だったのである。だから、荘園を持つには、自らが荒地を開墾する必要があった。荘園の所有者が自らの手で開拓した荘園を自墾系荘園と呼ぶ。当初は、それが荘園の主流であった。

ところが、貴族や寺社はその力を背景に、自分達の荘園では納税はしないし官吏の立ち入りも拒否できる特権を手に入れたのに対し、地方の有力者の荘園は税を徴収され役人も立ち入る…という不平等が生じてくる。そこで、地方の有力者は、大貴族や寺社などの有力者に自分たちが開墾した荘園を寄付し、代わりにその荘園の管理者に任命してもらう…という形を取るようになる。これが寄進地系荘園である。

地方の有力者にしてみれば、国に税を払い役人に調べられる形よりも、有力者に一定の年貢を納めて、国の税や役人の立ち入りを拒否する方が有利になったからである。その結果、寄進地系荘園はどんどん増加し、律令制の公地公民は破綻してしまうのである。

特権を持つ者が、それを悪用して国家のシステムを破壊していく。何か、現代にもつながるような構図である。

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2007年4月17日 (火)

荘園とは何か…成立の事情

日本の歴史を考える時、荘園が理解できるかどうかが大きなポイントとなる。その成立は奈良時代、そして、消滅は太閤検地によって…ということになろうから、時間にして800年ほど日本の経済に根を下ろしていたシステムということになる。

日本の歴史は、地方分権が外圧(外国からの侵略の危機)によって中央集権化するが、危機が去ると、中央集権を嫌がって地方分権の方向へシフトする。が、外圧があると、中央集権の方向へシフトし……という繰り返しになっている。荘園は、日本史における地方分権の経済システムに関わる重要な存在なのである。

さて、荘園が生まれた奈良時代と言えば、日本における律令制度の安定期ということになろうが、律令制度自体は、隋や唐による侵略の危機の中、豪族の連合政権という形での地方分権色の強い氏姓制度では各個撃破されて滅びかねないので、聖徳太子から天武・持統天皇の時代に作り上げた中央集権の政治システムである。

けれども、耕地の不足から、開墾を奨励する目的で三世一身の法が作られる。本来は、公地公民…すべては国有地で、国が責任を持って人々に耕地を与える代わりに人々は税を負担する…制度である以上、私有地は存在しない。だが、新しく開墾した時は本人の孫の代(三世)まで私有を認め、荒れ果てた耕地を再び整備して農耕ができるようにした場合は本人の代(一身)まで私有を認めたのである。

ところが、なぜかそれでは十分には効果があらわれないと判断され、墾田永年私財の法が制定される。この法律によって開墾した土地の一部を私有することを認めてしまったのである。この結果、私有地が生まれる。この私有地が荘園となるのである。

墾田永年私財の法の成立は、国家の利益よりも自分の利益を優先しようとした一部権力者の意図が透けて見える。これが、律令制の経済システムの根幹を崩してしまうことになるのである。

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2007年4月16日 (月)

ウルトラセブン1999印象記…私は地球人

ウルトラセブン1999の6部作は1つひとつの物語にいろいろと興味深いものが流れている。例えば、先制攻撃の思想が、逆に侵略を呼び込む…などもその1つだが、その最終話「私は地球人」において歴史の改ざんの問題が提起されている。

この話のベースには、ウルトラセブン42話「ノンマルトの使者」がある。テレビ放映時において、オカリナを使ったノンマルトのテーマ音楽がとても印象的だったが、地球人は、先住民のノンマルトを侵略して海に追いやった侵略者ではないのか? という疑問が提示された異色作であった「ノンマルトの使者」。「私は地球人」においては、それが事実であり、その証拠が発掘されたのを知った地球防衛軍の首脳は、侵略の事実を隠蔽しようと画策する。ノンマルトは、「侵略者の地球人をどうするのか? しかも、侵略の事実を隠蔽しようとしている地球人を」とセブンに問いかける。

この問いかけは、日本政府への問いかけであるとともに、私たち1人ひとりへの問いかけとも重なっている。従軍慰安婦の問題や沖縄戦での教科書検定において、現政権は、従軍慰安婦問題や沖縄戦で沖縄の人々を守らずに自決に追いやった軍部の責任を矮小化しようと試みている。だが、そうした歴史の真実に目を向けず、歴史から学ぼうとしない態度を北朝鮮に利用され、拉致問題の解決を困難にしている。

同じ第二次世界大戦の敗戦国でありながら、侵略の歴史的事実に真摯に向き合い、周辺の国々からの信頼を勝ち取ったドイツと、重慶への無差別爆撃や従軍慰安婦などの問題を矮小化しようとして、未だに「歴史認識」という外交カードに周辺諸国から利用され、周辺国から常任理事国になるのを反対される日本。ウルトラセブン1999の地球防衛軍首脳と同じまちがいを日本は侵そうとしているのだ。

「私は地球人」では、殉職したフルハシ参謀に育てられたウルトラ警備隊の隊員たちが侵略の事実を宇宙に向かって公表しようとし、セブンは、最終的にその時間を稼ぐためにノンマルトの守護怪獣ザバンギを足止めしようと戦う。その結果、地球防衛軍が隠蔽しようとした地球人の侵略の事実は宇宙に公開され、地球人は、その反省に立って新たな道を歩む可能性を残せたのである。だが、地球人という「侵略者」を助けてしまったセブンは……。

もう、8年も前に作られた作品なのだが、今の世界や日本の情勢とからまって私たちにいろいろなことを考えさせてくれる上質の作品である。

 

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2007年4月15日 (日)

主人公…さだまさし《私花集》より

さだまさしの3rdアルバム《私花集》の最後に【主人公】という歌が入っている。さだまさしの歌の中では【夢】【童話作家】【極光】などと並ぶ、特に大好きな歌の1つである。さだまさし自身もそれなりにこだわりがあるようで、《帰郷》などにはアレンジを変えたものも収録されている。ただ、個人的には《私花集》のアレンジの方が好きである。

時には、思い出をたどって懐かしい街並みをたずねてみたい。毎日の仕事や生活に追われ、心に疲れを感じると、ふとそんなことを思う時がある。金も地位も力もなかったが、時間と希望だけはあった若い頃。そんな時代を過ごした懐かしい街で思い出をたどりたくなる。様々な選択をし、今の自分がある。それゆえに、あの時、別の道を選んでいれば、また別の人生になったのかも…とも思う。

けれども、今の生き方は、自分の今までの選択の結果でもある。別の選択をしていれば出来なかった事、出会えなかった人はたくさんいるだろう。だから、それなりに苦労もあったし、辛いことや悲しいこともあるが、逆に、楽しいことも多かったし、それなりの幸せを感じられる時間も数多くあった。

だからこそ、時には、思い出に浸ることはあっても良いが、今までの自分自身の歩みを受け入れ、今の自分を精一杯生きたい。自分の人生の主人公は、さだまさしが歌い上げているように、あくまでも自分なのである。過去を悔やむのではなく、辛かったことや悲しかったことも含めた過去の温かさに励まされながらも、今の自分を、胸を張って生きたい。この【主人公】は、いつも、そんな気持ちにさせてくれる歌である。

 

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2007年4月14日 (土)

春の嵐の後で

昨夜は夜中から激しい雷雨となった。会議の疲れもあって、とくに仕事らしい仕事もせずにブログを読んだり書いたりしていたが、深夜の1時を過ぎたので風呂に入ろうとしたら、雨はやんでいた。

一夜明けて、風はまだ吹いているが、そらはすっかり晴れ渡っている。体感気温も温かく、一雨ごとに温かくなる春の風情を楽しめる朝である。道端の桜は翠の若葉が増えてきているが、一方でタンポポは満開…といったところだろうか。

今日は、午後から研究会の予定なので、1ヵ月ぶりの大学である。最近は、仕事が多くて忙しいが、それなりにベテランとしての役割を果たしていきたいと考え、やれることは可能な限りカバーしている。そんな日常の日々とは違う時間の流れが、研究会にはある。その発想や感覚を、日常の日々にもかえしていけるようにと心がけている。

少し早い昼食をとって、そろそろ出かけなければならない時間である。今日も、良い議論ができればと思う。まあ、国会のように時間と税金の無駄遣いには絶対にならないであろうが……。ここでも、それなりにベテランとしての役割を果たしていきたい。

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2007年4月13日 (金)

自由民主党…民主政治へのテロリスト

またまた、強行採決となった国民投票法案……。つまり、自由民主党は「問答無用」であることをその行動で示しているようである。5.15事件において、暗殺された首相の犬養毅は、テロリストである青年将校たちに「話せばわかる」と言ったという。これが議会制民主主義・民主政治の基本である。議論を尽くし、その上でどうしてもまとまらなければ、多数決の結果としての多数意見にとりあえずは従う。それが、民主主義であり、だからこそ「話せばわかる」という言葉になったのだろう。

それに対するテロリストの答えは「問答無用」であった。別に、憲法を変えなければ日本が取り返しのつかない非常に危険な状態になるわけではない。国民投票法案の問題点も、議論が進む中で次々に明らかになってきている。緊急を要する事態ならば、めったにないはずの強行採決が1度ぐらいあってもそれは必ずしも民主主義の否定とはいえない。しかし、これだけ強行採決が続くのはいかがなものか。自民党は、国民の意見も有識者の意見も無視したいということである。つまり、「問答無用」なのだ。これは、テロリストと同じ行動原理である。

テロリストと戦うためには、自らがテロリストにならなければならないのか。そんなことはない。テロリストとの戦いにおいては、テロの土壌となっている貧困や差別の問題に目を向け、その解決をはかることがテロリストを孤立させ、テロを押さえ込むことにつながる。昨今の政治を見れば、自由民主党は貧困や差別の問題から目を背け、それを拡大している。すでに、政党ではなくテロリストのレベルに堕落しているのだろう。

イラクに対するアメリカ政府のテロ行為のように、テロは次々と連鎖し拡大していく。やがて日本にもテロの嵐が吹き荒れるようになるのかもしれない。

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2007年4月12日 (木)

ホイッスル! …努力をする才能

最近は、さすがに身体がついていかないのでめったにサッカーをすることはないが、見るのはもちろん、身体が動く間ならサッカーは好きなスポーツの1つである。そのこともあって、「シュート」や「俺たちのフィールド」など、いくつかのサッカーマンガをコレクションしているが、週間少年ジャンプに連載され、コミックも2003年に完結した「ホイッスル!」も大好きなサッカーマンガのひとつである。

主人公である風祭将は中学生。背が小さいがサッカーは大好きで、何よりも努力を惜しまない。そのひたむきさが周囲の少年たちや大人たちを動かし、様々な壁に突き当たりながらも、自ら努力し、そのひたむきさが周囲のサポートと共感を引き出し、一歩、また一歩とステップを重ねていく。その中で、新しい仲間やさらなるライバルが生まれ、支えあいつつも競い合う中で、将はやがて世界へ向かって羽ばたこうとするが……。

努力を続けることは、ある意味では大変な苦しみである。けれども、努力を重ねることによって得られる喜びや楽しさがある。そして、その努力が、必ずしもストレートには報われなくても、積み重ねた時間は、何らかの形で新しい希望や幸せを運んでくる。努力を信じられることのすばらしさ、努力を続けることのすごさを感じさせてくれるマンガ…それが、この「ホイッスル!」である。

最近の日本を見ていると、ひたむきに努力を続けるよりも、安易に結果を求めようとする雰囲気がはびこっている。そして、途中の苦しさゆえに努力を避け、努力することが逃げる子どもや大人を以前よりも目にするようになった。けれども、最初から努力を放棄するのは、社会のためにも、そして何よりも自分自身のためにもならない。

様々な壁を前にしても、そして大きな不幸を前にしても、将はサッカーにこだわり続け、努力を続けた。そんな風祭将の姿はとても気持ちよく感じられる。もちろん、大人の世界では、努力だけではものごとは解決しないということも少なくない。けれども、それが努力をすることから逃げる口実にはならない。「ホイッスル!」はサッカーを楽しみながらも、そんなことを考えさせてくれる作品である。

 

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2007年4月11日 (水)

瀬戸の子守唄…子どもへの思い

高石ともやとザ・ナターシャー・セブンの「フィールド・フォークvol.1」というアルバムの中に「瀬戸の子守唄」という歌がある。瀬戸とは、陶磁器で有名な瀬戸であり、陶磁器を焼く仕事の合間に子どもを寝かしつけようとする親の温かさと仕事のきびしさが伝わってくる詞が胸に響く。

「ねこなし ねこなし…」という言葉が4番まである歌詞のサビの部分で繰り返されるが、意味はもちろん「ネコがいない」ではなく、「眠らないで」という意味になる。鉢や皿を寝ずに登り窯で焼きあげる厳しい仕事。けれども、そこに働く人々の働くことに対する喜びや誇りも伝わってくる。だから、子どもがおきたら窯の火や登り窯を見せてやろうと歌うし、焼き上げた鉢や皿が売れたら、お菓子屋さんをまるごと買ってやろう…などという豪快な話になってくる。

どんな仕事も、それなりに大変である。けれども、誇りを持ってできるやりがいのある仕事で家計を支え、家族を守り、子どもを慈しみながら育てていこうとする素朴な思いがこの歌から伝わってくる。そのあったかさが、たまらなく好きである。

 

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2007年4月10日 (火)

ウルトラセブン印象記…零下140度の対決

ウルトラセブンは寒さに弱い…その印象を決定付けたのが、25話「零下140度の対決」である。ポール星人が地球防衛軍/ウルトラ警備隊の極東基地の周辺に強烈な寒波を送り込み、さらに怪獣ガンダーを使って基地の原子炉を破壊する。

基地の人々による必死の復旧作業が続くが、寒さの中で隊員たちは次々と倒れていく。パトロールの最中に寒波に見舞われポインターを捨てて徒歩で基地に戻ろうとするモロボシ・ダンも、途中でセブンに変身するためのウルトラ・アイを紛失してしまう。

そんな危機の中、カプセル怪獣ミクラスは必死にガンダーと戦うが、冷凍光線を吐くガンダーに翻弄されるばかりである。犠牲が増える中、キリヤマ隊長は撤退を決める。その時、原子炉の修理が終わりウルトラホークがガンダーと戦うために発進する。そして、太陽エネルギーを補給したセブンも…地球に帰還し、最後は必殺のアイ・スラッガーがガンダーを倒す。

ハラハラどきどきするストリー展開、そして三つに分かれたホーク1号とホーク3号がガンダーと戦うシーン、人間の命の大切さと使命感の問題など、セブンの戦闘シーンはわずかだが見所の多い話である。個人的には「史上最大の侵略」「セブン暗殺計画」「ノンマルトの使者」などとともに、特にお気に入りの話である。

 

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2007年4月 9日 (月)

投票率の意味

統一地方選挙の前半が終わった。我が県の知事については若干投票率が下がったようだが、「民主主義」の本来の意味から考えれば、投票率は気になるところである。少なくとも、投票率が50%を下回るようでは、本当に「民意」と言って良いのかという問題が出てくる。

ところが、国民投票法案の与党案を見ていると、投票率についての縛りは無視している。つまり、そこに反民主的与党の意図が透けて見えるのである。政府与党の画策している「憲法改正」は決して国民の過半数の賛成を得られないだろうという読みがあるから、投票率の縛りをかけられないのである。

憲法改正の国民投票に関わって言えば、欧米の事例を見てみると、投票率の縛りを駆けている国がそれなりに多く、そこに「民意」を敏感に反映しようという姿勢と民所主義国家を表明する矜持がうかがえる。

だが、それをごまかしている政府・与党の姿勢は、自らが民主主義を放棄し、国民の意見を無視したいという思いがうかがえる。本当に、民意を大切にし、国民のためを考えるのであれば、格差を拡大し生存権をも犯しかねない医療制度改悪や、社会権としての義務教育を無視して経済格差が教育格差に直結しかねない教育制度改悪は出来ないからである。

「郵政」の「改革」のみを掲げて衆議院選挙で大勝した政権与党に、国民はフリーハンドの承認を与えたわけではない。だが、国民の疑問や反対を無視して、一般の人々の生活を追い詰め続ける医療や教育の路線変更が多数の強行採決によって勝手に進められる。明らかに異常な状況である。

参議院選挙を前に、暴走する政権与党が何をしようとしているのか、何をごまかそうとしているのかをシッカリ見極めたいと思う。

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2007年4月 8日 (日)

Old Black Joe…フォスターの名曲

「故郷の人々」「おおスザンナ」「草競馬」、スティーブン・コリンズ・フォスターの名曲は数多くあるが、中でも大好きなのは「Old Black Joe」である。手元にはロジェー・ワーグナー合唱団の歌うフォスターの名曲集があるが、この「Old Black Joe」は、そのアルバムの最後を飾っている。

この「Old Black Joe」ができたのは1860年。1860年といえばリンカーンが大統領になった年であり、時代からすれば黒人奴隷が存在しており、人種差別も激しかった。そんな中で自分に忠実に尽くしてくれた老黒人のために作った歌がこの歌である。歌には、当時のアメリカにおいて黒人であることの大変さと、その中で生き抜いてきた男に対する優しいまなざしと、歌の完成を待たずに世を去った老人への鎮魂の想いが感じられる。

歳を重ねて生き続けるのは大変なことである。その意味では、老いることそのものが価値がある。近年、「若さ」を偏重し「老い」を軽視する風潮がある。現代の暴走資本主義の「効率」からすれば、確かに「老い」は効率が悪い。だが、それが人間としての「自然」であり、暴走資本主義こそが、多くの人々の幸福な人生を圧迫し、「老い」の価値を不当に貶めているのである。

人は、何もしなくても歳を重ね、老い、死へと近づいていく。豊かで穏やかな歳の重ね方をしたいものである。

 

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2007年4月 7日 (土)

久しぶりのウイスキーは

新しい職場での1週間はとりあえず無事に終わった。昨年よりも起きる時間が早まり、拘束時間も長くなるので多分、一ヶ月は疲れもたまるだろうと思う。そのこともあって、一週間以上ウイスキーを飲まなかったが、今日は十分に睡眠をとったし、明日は早起きをする必要もないので、久しぶりにグラスを出した。

ただ、10日ほどウイスキーは飲んでなかったし、先週は体調も今ひとつだったので、最初から飛ばし過ぎてもよくないと思い、まずは水割りのスタートである。水割りにシングル・モルトを使うのはもったいないので、まずはカティーサーク。お気に入りのグレンフィデックと同じ緑の瓶である。ただ、日本では圧倒的にカティーサークの方が有名だろう。軽く飲みやすいタイプのブレンデッド・モルトで値段もそれほど高価でなく、その点でも気持ちよく飲めるウイスキーである。

ただ、久しぶりにウイスキーを楽しめる時間だから、カティーサークだけではもったいない。1、2杯飲んだところでロックにスイッチしよう。当然、次はシングルモルト。さすがに、秘蔵のスプリングバンクを開けるつもりはないが、グレンフィデックでも楽しもうか。

グラスの中で氷が囁く。舌が、胃袋が、久しぶりのウイスキーの味わいを楽しんでいる。ささやかな幸福の時である。

 

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2007年4月 6日 (金)

一緒に食べること

4月から、新しい職場に変わった。しばらくは、食事の時間は同じグループの人たちと一緒に外食…という展開になった。交代で車を出し合って食事に行くのだが、前の職場がすぐ近くだったこともあり、ほとんど、こちらが提案する店に行って食事をした。

そのせいか、グループの人たちと、とても話しやすくなった。お互いに初めてなので、協力して仕事を進めるにはなるべく早く心を許せる関係になった方が良い。そんな時、一緒に食事を取るのはとてもプラスになる。仕事の話ももちろん出るが、リラックスして話もするので趣味や家族のことなども話題に上る。そして、何か共通することがあると、一気に関係は近くなる。

今日は、1人が早めに帰って後の準備をする必要があった事情もあり、徒歩5分でも行ける店に車で行って食事を取った。ジャイアンツもホークスも負けたので、野球の話題は今ひとつ盛り上がりに欠けたが、仕事についてのアイディアの交換や手順の確認、そしてマージャンやマンガの話をしながらの食事だった。お互いにかなりうちとけているという感覚があり、仕事も、協力しながらそれなりに楽しくやっていけそうな雰囲気になっている。まだまだ身体が慣れていないのでシンドサはあるが、仕事自体への不安はほとんどなくなった。協力してやっていけるなら、多少のことはあっても何とかなるだろう。

同じように、恋人や夫婦、家族の間においても、一緒に食べることの意味は大きい。食卓を囲みながら、いろいろな話をする。子どもの茶碗に好きなものをのせてやったり、キライなものでも口に運んで食べさせたり……笑顔がこぼれる食卓が、関係を温かいものにし心の交流を深めていく。

確かに、1人で食べる気楽さはある。けれども気の合う人たちと食べる食事は楽しいし、また一緒に食事をする機会を重ねる中で深まっていく関係もある。小さなことだが、「一緒に食事をする」ということを大切にしたいと思う。

 

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2007年4月 5日 (木)

ビッグX…正義を信じて

日本人とドイツ人、2人の天才博士が作ったビッグX、それは鉄の身体を持つ巨人になる薬だった。開発者の1人、朝雲博士は、それが戦争に利用されるのを嫌って、息子の身体にその薬の製造法を隠す。その薬が再び世に出たとき、朝雲博士の孫の昭が自らの身体に薬を注射し、鉄の巨人となって、薬をねらう組織と戦う。ビッグXの誕生である。

ビッグXの秘密を知り、それをねらうナチス同盟やクロス党の陰謀。昭はそれを打ち破り、正義と平和のために戦い続ける。ある意味では、朝雲昭は、真っ白な正義である。その意味で、欲望のために悪事に手を染める敵は徹底的にやっつけた。逆に、悪の一味にいても、悪に染まりきらない人間には信じられないほど優しい。

だが、世の中がそれ程簡単に色分けできるわけではない。ある立場の人々にとって利益になることが、別の立場の人々には不幸の種ともなる。そうした点からすれば、正義や悪という判断は必ずしも絶対的なものとは言えない。けれども、昭は、常に【正義】の側にいた。作者の手塚治虫は、そのことに違和感を持っていたのだろう。マンガのラストでは、ビッグXを飲んで巨大化したまま元に戻れなくなった朝雲昭は、ジャングルの奥へと消えていく。哀しいラストである。

 

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2007年4月 4日 (水)

春の日の花と輝く…懐かしいアイルランド民謡

埴生の宿、庭の千草、蛍の光、故郷の空…古くから日本で歌い継がれているイギリス民謡や歌はたくさんあるが、「春の日の花と輝く」は、高校時代に選択した音楽の時間に最初に習った歌としても覚えている。そのきれいなメロディーも大好きだが、堀内敬三の日本語詞もロマンに満ちていて良い。

肌の張りや瑞々しさ、躍動する肢体の美しさは、確かに若い時代のものだろう。けれども、歳を重ねて深まっていく美しさや愛というものもある。そうした久遠の愛を歌い上げる「春の日の花と輝く」は、その詞も、言葉の描く愛の姿も美しいと思う。

昨今、「若さ」のみが「美しさ」だとする間違った風潮がある。けれども、品性のある立居振舞の美しさは、若い世代ではなかなか出し切れるものではないし、心の美しさは愛し愛されることによって磨きがかかり、より一層輝きを増す場合もある。

確かに、年齢を重ねて経験を積み、結果として忙しさに追いまくられていると、春の日差しのように温かで冬に耐える大木のようにどっしりとした深みのある愛を育むことは難しいかもしれない。けれども、大切なパートナーに目を向け、愛を深めることは不可能ではない。そんな気にさせてくれる歌である。

手元には、鮫島有美子の「庭の千草…イギリス民謡集」があり、この中にはもちろん「春の日の花と輝く」も入っている。今日も忙しい一日だったが、歌を聞きながら愛する人への思いを温めたいと思う。

 

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2007年4月 3日 (火)

ふたり…越えていくさびしさ

大林宣彦の映画は割と好きだが、「ふたり」はその中でも特に好きな映画である。妹の実加訳の石田ひかりも悪くないが、特に、姉・千鶴子を演じた中嶋朋子の演技が強く印象に残っている。

「北の国から」の可愛い蛍ちゃん…の印象が強かった中嶋朋子だが、「四月怪談」「時計」などでも、味わいのある役をこなしており、「ふたり」は、実はとても楽しみにしていた映画だった。そして、期待にたがわず、中嶋朋子は見事な千鶴子を演じてくれた。

何でもできる優秀でしっかりした姉・千鶴子。妹としてはとても頼りになる反面、周りからいつも比較されてしまううっとうしい存在でもあっただろう。けれども、千鶴子は事故でなくなってしまう。その千鶴子の幽霊が実加の前に現れ、実加に寄り添ってくれる。その支えによって、実加も成長し、やがて、姉・千鶴子を追い抜いていく。

「お姉ちゃんなんか、どこかへ行っちゃえ !」

それは、千鶴子を越えていかなければならない実加が、千鶴子に言い放った決別宣言である。そして、千鶴子は、実加の前から姿を消してしまう。そう、千鶴子にとっても、そのままでは先には進めないのだ。と言って、高校生の幽霊のままで妹の側に留まることもできない。実加も千鶴子がいつまでも側にいれば、成長できなくなってしまう。本当の意味で実加を愛していればこそ、千鶴子は消えたのである。

実加は、千鶴子との日々を書き綴ろうとペンを取る。ふたりの時間をかみしめることで、実加は多くのことに気付き、さらに成長していくだろう。だが、もう千鶴子はいない。年齢も経験も、実加が千鶴子を追い抜き、先へ進んでいく。事故で、そして幽霊としての千鶴子を失って、そのさびしさを抱き締めながら実加は未来へ向かって生きていく。

寂しさの中に、温かさが溢れるしっとりとした映画である。

 

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2007年4月 2日 (月)

肌寒い春の夜

温かかった昨日までとうって変わって、今宵は少し肌寒くなった。寒気が日本列島に下りてきているらしい。季節の変わり目…ということを考えればままある事だが、2月の一時期や先日までが例年以上に暖かかっただけに、寒さが気にかかる。

このように気温の変動が激しいと、風邪をひきやすい。年齢的にそう若くはないし、仕事場も変わったばかりなので、注意しなければと思う。だが、例年にない暖かさについては、地球温暖化の影響がはっきりと出てきているのではないかと考えられなくもない。暴走資本主義が疎かにしてきた、福祉・安全・環境面の弊害である。

ついでに、懐の方も風邪をひきそうである。地方都市にあっては、「景気回復」の実感は薄く、春一番どころが、まだまだ木枯らしが抜け切っていない印象が強い。地方が崩壊すれば、やがて都市も壊滅せざるを得ないのだが、そういう危機感が政府与党には感じられない。

とりあえず、統一地方選挙が始まった。懐の肌寒さ・心の肌寒さを、投票行動によって表明したいものである。

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2007年4月 1日 (日)

雨音はショパンの調べ…雨の夜に

1時間ほど前に帰宅した時は降ってなかった雨が、いつの間にか降ってきている。春の夜のしっとりとした雨はそれなりに風情がある。明日はさらに春らしく、温かくなるのだろうか。そんなことを考えていたら、ふと「雨音はショパンの調べ」という歌を思い出した。さすがに古い歌なので、我がCDコレクションには無い。久しぶりに小林麻美の〈CRYPTOGRAPH~愛の暗号~〉というLPレコードを取り出した。何年ぶりかのレコード鑑賞である。

と言っても、小林麻美の歌は、それ程巧い訳ではない。ただ、そのセクシーな雰囲気が、歌のイメージとピッタリくるという程度である。原曲を作ったGAZEBO.P.L.Giombiniの曲と松任谷由実の日本語詞の出来がすばらしいので好きな歌になっているのである。カラオケなどでも、雨の降った夜に興にのると歌ってしまう。だが、小林麻美のような女の色気は出せない。…もっとも、出せたら怖いが。

それでも、しっとりとした雨の夜に楽しむのには良い歌である。いつもはCDで聞く音楽も、たまにはレコードで聴いてみると懐かしい。今宵は、他のレコードも楽しんでみようか。

 

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