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2008年6月28日 (土)

心の闇を考える

心の闇を考える
 
一般の感覚からすれば、一見、不可解な「凶悪犯罪」のニュース報道が続いている。その象徴的な事件の1つだったM死刑囚の死刑は先日執行されたがその頃からの報道に登場していた【心の闇】に対するマスコミの扱い方については、かねてから不満を感じていた。

私自身も【心の闇】ということについては良く考えるし、他者との話の中で使ったりもする。が、そのスタンスは「まだまだ明らかにはならない部分もあるから、それを考え続けていくために、とりあえず【心の闇】という言葉を使っていこう」というものであり、今後とも追及の努力を続けていかなければならない、という前提がある。
 
ところが、昨今のマスコミの報道においては《心の闇》という言葉によってそれ以降の追及をうやむやにし、「不可解」な罪を犯した青少年を、「自分たちとは異なる異世界人」とすることによって問題の背景や本質に迫る取材や報道をごまかそうとしているように感じられる。そのスタンスは、ある意味では「大人たち」にとっては非常に都合が良い。事件が「異世界人」の手によって起こされているのなら、「私たちとは違う存在」のせいだから、私たちは「異世界人」さえ排除すれば、私たちの社会の安定は守る事ができるし、私たち「大人」に何の責任もないことになる。それは、「今、ここにある現実」から目を逸らすのには非常に都合のいい理論である。

けれども、その「異世界人」たちは、確かに私たちの世界に存在しているし、なおかつ、私たちの社会のシステムが、まともな環境の下では開花せずにすんだかもしれない不都合な心の因子を開花させてしまった可能性があるのだ。だからこそ【心の闇】は思考停止のためのブラックボックスではなく、問題に取り組むための出発点にしなければならない。社会の矛盾は、もっとも弱い存在にもっとも強烈な形で襲いかかる。その過程にこそ、大人の責任で解明していかなければならない【心の闇】が存在する。真実というものが本当に存在するかどうかは分からないが、少なくとも、真実に迫ろうとする意思と努力は、大人としての責任を果たし、人間として誠実に生きていこうとするのであれば絶対に必要であろう。

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