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2008年7月31日 (木)

ようやく直ったパソコン

18日に、前日まで反応していたキーボードの一部が突然反応しなくなった。近くに住むパソコンに詳しい友人に様子を見てもらったが直らなかったので、結局、購入した量販店に持ち込んだ。保障期間内だったので修理費は負担せずに済んだが、メーカー送りということになった。家にはもう1台古いパソコンがあったが、ADSLには接続できなかったので直るまで、メールやインターネットにアクセスが不能となった。

また、同人雑誌の編集にも支障が出た。修理に出したパソコンだと読むことが出来た原稿が、古いパソコンでは読み取れず、結局、原稿をまるまる打ち直したものもあった。けれども、メールでのやり取りが出来なかったので、作者との最終確認が出来ないまま印刷に回すこととなった。パソコンも、便利なようでけっこう不便である。

それでも、ようやく直ってきておよそ2週間ぶりでインターネット接続が出来るようになった。spamメールの多さには閉口したが、とりあえず無事に直ってきたので、原稿のやり取りや連絡、研究会等の案内を送付するのには支障がなくなった。とは言っても、同人雑誌の編集には、タッチの差で間に合わなかったが。

今日から、またblogの方も再開したい。ただ、あまりありがたくないニュースばかりが目立つ今日この頃、たまには、心温まるような社会評でも書きたいと思うのだが……。

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2008年7月17日 (木)

体調不良は…

体調が今ひとつよろしくない。暑さのせいか、年齢のせいか、はたまたその両方か……。いずれにしても夏風邪を引いたようで、熱を出して寝込む程までにはいたっていないが、のどが不調で、咳や痰が完全には収まらない。疲れがたまっているのかもしれない。

そう言えば、この2年ほどは土日にもけっこう予定が入っていて、ゆっくりした週末を過ごした記憶はほとんどない。風邪は言葉にはならない自分の身体からの声ではないかと感じるときがある。今回もそんな感触がある。加えて、体調の不良は、心からのSOSである場合もあるし、今回についてはそちらの傾向もありそうだ。

無理をせず、睡眠時間が短くならないように気をつけているが、それでは身体は休められても心の方の休息とまではいかないように感じられる。つまりは、それくらい忙しくしすぎていたのではないか…という自覚が多少はあるということである。

もう少しすれば、お金の方は心もとないにしても、多少は時間が取れそうである。完全にひきこもって文学三昧とまではいかないだろうが、多少余裕ができるであろう時間を使って読み残している本を読んだり、文芸創作に取り組んだりしたい。そう考えると、心の疲れの方も何とかなりそうである。

身体も心も、大切に使えば一生(!?)使える。今はやりのアンチ・エイジングなどという若作りに時間をかけたりせずに、ゆったりとした時間を過ごしたいと思う。

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2008年7月15日 (火)

燃料無策と生活の崩壊

燃料の高騰によって漁業の赤字が累積し、全国規模で出漁を停止する事態が起きた。石油価格の急激な上昇に対して何の手も打たず、能天気に暫定税率を再可決してきた無能政権の無為・無策が、とうとう生活を脅かし始めたということであろう。こんなになるまで、よくもまあ何もせずにおれたもの、と責任ある政党の無責任にあきれ果ててしまう。

世界レベルでの原油価格や食料価格の高騰は、グローバル化による金融資本主義、つまりバクチ経済の暴走がその原因であり、バクチ経済の暴走を許した責任の一端は米英による世界レベルでのバクチ資本主義化の流れに無批判に乗った歴代の日本政府にもその責任はある。ただ開催したというだけで何の成果も見えてこない洞爺湖サミットに高い税金を浪費して国民の生活を無視し続けてきた福田政権。その【成果】の1つが、原油の暴騰を野放しにして漁業関係者を追い込み、全国一斉休業という前代未聞の呆れた事態を招いたことであろう。

ことここにいたって、ようやく、与党の方でも原油の暴騰に対する生活防衛の発言が出始めたようだが、本来は、暫定税率の期限切れの際にきちんと議論すべきであった問題である。まともな議論をせずに、今まで通りの税率を民意を反映していない衆議院で再可決してから、ガソリンは一度ならず跳ね上がり、車なしでは生活がしにくい地方での生活を圧迫し続けている。これは、明らかに政策の失敗による物価の高騰・国民生活の破壊である。

だが、無責任な与党・自公連立政権は、能天気に「内閣改造」のポスト争いや駆け引きを重ねている。こんな政府はいらない。まずは、襟を正して、衆議院を解散するべきであろう。

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2008年7月12日 (土)

本田美奈子の風流風鈴初恋譚

アイドルからロック歌手、そしてミュージカル、クラッシックと様々な分野で自分の可能性を広げ、白血病で亡くなった本田美奈子の歌に「風流風鈴初恋譚」というものがある。だが、様々な本田美奈子の歌のイメージからすると、この歌はまた異色な感じを受ける。何となく、演歌の匂いを感じるからである。作詞は岩谷時子、作曲は弦哲也。「JUNCTION」というアルバムに入っている。

 

風鈴屋さんが来たよ これを1つ下さいな

丸いガラスに 1と刷け赤い花 江戸風鈴を 器用に包み

「ありがとうよ」で 眼と眼があった

忘れられない 初恋の人 名前呼びたい 呼ばれない

駆け出す背中に すずしい声で

土曜の日暮れは いつでもいるぜ だってだって

 

 

浴衣の似合う下町の夏の夕暮れ。道端の風鈴屋と少女の初恋のまなざし。そのしっとりとした風景はアイドルの本田美奈子のイメージはもちろん、ロック歌手の彼女とも、ミュージカルで熱演する彼女とも、クラッシックを歌う彼女とも重ならない。けれども、この一曲の歌には、もしかしたら演歌歌手としての可能性もあったかも知れない本田美奈子の世界が広がっている。その意味では、異質な歌でありながら、本田美奈子はしっとりとこの歌を歌いこんでいるのである。

この歌の入っているアルバム「JUNCTION」は、他にもシャンソンの名曲「愛の賛歌」やミュージカル「ミス・サイゴン」の「命を上げよう」、そして「つばさ」が入っている。良く言えばバラエティーに富んだ選曲だが、悪く言えばまとまりの弱い《アルバム》である。ただ、1曲1曲を丁寧に聴くと、そこに本田美奈子の歌い上げる様々な世界が広がる。一つひとつの歌が強い自己主張をしているアルバムだと言えよう。

そろそろ暑さが本格的になってきた7月。涼しげな風鈴の音に彩られた悲しい初恋小説を本田美奈子の歌声で味わいたい夜である。

 

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2008年7月 7日 (月)

七夕の夜に

601番目の記事は、七夕の夜である。現在、いくつか星は見えるが空は雲が多く、すっきりと晴れ渡ってはいない。織女と牽牛は、今夜は残念ながら逢瀬を楽しめないということか。七夕伝説の起源は、もともとは中国らしいが、年に一度の逢瀬とはなかなかロマンチックである。ただ、それがずっと続いているということになれば、距離を隔てていても、お互いの心は深い信頼で結ばれているということである。

ところが、人間たちの世界ではなかなかそれが難しい。例えば、若い世代の携帯メールのやり取りなどの様子を見ていると、メールが来るとすぐに返信しなければならないような様子が伺える。お互いに信頼しあっていればそんな必要はなく、それぞれの都合のいい時間に呼んで返事を返せば良いと思うのだが、やりとりの行為そのものによって関係を維持しているから、それができないのだろう。

これは、ある意味では極端な例かもしれないが、人間の恋人同士の場合は、当然、それぞれの人間関係もある訳で、やはり、同じ時間の積み重ねがお互いの想いを育むのに対し、時間的なすれ違いは、度重なれば誤解や不信感を生むことにつながりかねない。さびしい話だが、それが「現実」の姿でもある。

ただ、誤解や不信感は、きちんと向き合うことで、返ってお互いをより深く理解し合い関係を深めるチャンスにもなり得る。…もちろん、お互いへの強い想いが維持されている場合に限ってのことだが。ただ、時間をかけず、苦労をせずにそれができるわけではない。やはり、理解を深めるにはお互いに2人の時間をきちんと積み重ねる努力が必要である。

織女や牽牛は、そういう努力を積み重ねたのだろうか。それとも、人間ではないから、嫉妬や誤解に苦しむことはなく、それゆえに信頼していられるということなのだろうか。まあ、大気圏を越えてしまえば、2人の逢瀬を邪魔する無粋な雲は存在しなくなる。ただ、光速で進んでも1年や2年ではたどり着けない距離が横たわっているのだが……。

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2008年7月 3日 (木)

ブラザーサン・シスタームーン…心の平安を求めて

1人の若者が、十字軍に参加して傷病のために帰還した。生死の境をさまよった後に回復したとき、彼は、鳥の声や風の音、太陽の光の中に神の声を聴いた。そして彼は、豊かな生活を捨て、家を捨て、家族と別れを告げて、荒野の崩れかけた教会の再建のためにたった1人で動き始める。【ブラザーサン・シスタームーン】は、フランチェスコ派修道院の誕生を描いた美しい映画である。

今まで、何本も映画を見ている。多い時には、週に数回は映画館に通った時期もあった。そんな中で、最も心に残る映画の1つである。そのため、最初の携帯電話を買った時から現在に至るまで、着信音は、この映画のテーマを使っている。監督は、オリビア・ハッセーの「ロミオとジュリエット」を撮ったフランコ・ゼフェレッリ。四季に移り変わる美しい自然の映像を背景にしながら、富や地位や権力や欲望がいかに心の自由を蝕んでいるかを突きつけつつ、信仰と愛に生きる生活の貧しいけれども豊かな時間を鮮やかに描ききっている。

それ程多くの稼ぎはないので、贅沢をしているつもりはないが、それでも、今、生活を送っている部屋を見渡してみると様々なモノで溢れている。このモノで溢れた生活を維持するために、私たちは金を追い求め、自由な時間を削って、心の豊かさを売り渡している。もし、フランチェスコのようにすべてを捨てる強さがあったら、私たちも自由と心の豊かさを手に入れられるのだろうか。

町の裕福な市民たちが通う華やかな衣装に身を包み宝石をちりばめた王冠を被ったキリスト像。フランチェスコの行動と言葉に触発された人々が力を合わせて再建した小さな教会にある、聖書の言葉通りの十字架のキリスト像。町の教会は沈黙が支配し、フランチェスコの教会には自然な歌声と喜びの歌声が溢れる。自然の美しさと、神の言葉を素直に受け止められる澄んだ瞳の美しさが心を洗ってくれる。

この映画は、それ程名の売れている映画ではない。それでも、フランチェスコの語る言葉の1つひとつが深く心に染み込んでくる。何度見直しても、その都度、大切なものを思い出させてくれる珠玉の作品である。

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