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2008年8月31日 (日)

呆れた年金得別便

私のところにも、年金特別便がやってきた。古い年金手帳が手元にあったので確認することが出来たのだが、1年間抜けている期間があった。特にコロコロと職場を変わった訳ではないにも関わらず、このような状態なのだから、いかに杜撰な仕事をしていたかが良くわかる。銀行など民間の業務であれば、即刻、懲戒免職であるばかりでなく、その損失の責任はミスをした人間や管理責任者が当然被るべき大失態である。

だが、この再調査にかかる費用までもが、私達の税金によってまかなわれている。これは、無責任であるばかりでなく、明らかに税金の無駄遣いである。

社会保険庁は年金関係の仕事をすることにその存在意義があったのだし、その仕事を自らの責任で完遂するという前提の下に給与や賞与、退職金がでる筈である。その仕事をまともに出来ないで放置しておいて給与や賞与、退職金を貰うなど、はっきり言って詐欺である。仕事が出来ずに国民に多大の迷惑をかけているのだから、最低賃金(それで生活できる筈だろう)のみ残して後はすべて没収する必要がある。それは、国の赤字をほんの少しでも減らすためにも、当然必要な処置だろう。

何よりも、この作業に無批判に税金が投入されること自体がおかしい。【自己責任】という小泉政権ごろから政府や議員達が口にしてきた言葉からすれば、当然、見直し作業は社会保険庁の旧職員や現職員によって負担するのがスジだろう。それを集めるまでの時間のみ税金を貸し付けて対応する…というのなら、理屈として納得できる。だが、そういう話は未だに、寡聞にして耳にしない。

これについては、マスコミも、もっと徹底的に追求する必要がある。野党もそうである。責任ある無責任与党や、まともに仕事をしていなかった無責任公務員に何を遠慮する必要があるのか。その能力がないのであれば、さっさとご退場願いたい。このような無責任は、国を滅ぼす。国民にとって許容できない悪である。

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2008年8月27日 (水)

歌ってよ夕陽の歌を

先週末に明和町のジャスコで、70年代までのフォークを歌うコンテストのイベントがあった。友人が参加していたこともあり、隣町の友人と二人で見にいった。参加した友人は残念ながら優勝できなかったが、【バンバン】や【ユーミン】、【チューリップ】などの懐かしい歌が聞け、それなりに楽しい時間を過ごした。

ただ、フォーク…と言われると、個人的には【かぐや姫】以前の【シューベルツ】や【五つの赤い風船】、【上条恒彦】などを連想する。「涙そうそう」の作詞で健在ぶりを示した【森山良子】なども、フォーク系の歌手の1人である。「今日の日はさようなら」や「禁じられた恋」、「さとうきび畑」などが有名だが、個人的には「歌ってよ夕陽の歌を」が好きだ。森山良子の高い声が良く伸びて恋の夕暮れを美しく描いている。

 

歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく

 

あなたは坂を登って行く 私はあとからついていく

影は私達をへだてるので やさしい夕陽は時々雲にかくれてくれる

歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく 

歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく

 

あなたは夏をおりて行く 私は秋に登って行く

心を季節がへだてるので すばやい風はこうして二人を寒くさせる

歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく

歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく

 

 

季節は、夏から秋へと向かう頃。夕焼けが美しくも物悲しい。そんな風景に心の揺れる恋人達の姿を森山良子が歌い上げる。秋の空気を感じさせる今日この頃、ふと聞きたくなる歌である。

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2008年8月24日 (日)

金持ち優遇が世界を滅ぼす

道沿いのガソリンスタンドが表示しているガソリン価格は、ほとんどが180円台となっているが、元売各社の意向では、まだまだ下がりそうにはない。と言っても、小売のガソリンスタンドが儲けを出しているわけではなく、顔見知りの従業員の話では、かなり大変そうである。加えて、漁業や農業にも原油高の悪影響は確実に出ており、生産者の立場からすれば、燃料サーチャージなり、相応の支援なりが確実に必要な状況である。

そういう現状を見ていると四月の責任ある与党の無責任による揮発油税等の衆議院での再可決は、無思慮・無分別の批判は免れないだろう。選択肢としては、全廃かそのままか、というだけでなく、一時的に期限を切って10円なり15円なり安くするとか、原油価格の過度の上昇時の限定付きでその期間だけ税率を下げるという選択肢もあった訳で、車の使用が減少している中での「道路作り」など、ちぐはぐを通り越した明らかな失政であろう。

ただ、原油や食料の高騰は、投機マネーがそこに流れ込んだという要因もある。だが、その投機マネーにしても、アメリカや小泉改革後の日本が税制をはじめとして金持ち優遇の政策をとったことにも原因がある。そちらからの課税をしっかりして、低額所得層への減税を進めれば、もっと内需が安定して、投機や輸出にこれほど依存する形にはならず、経済ももう少し安定感を感じられたのではないかと思われる。

その意味では、金持ちよりも一般の人々の生活の安定に経済政策を大胆に転換すべきだし、投機マネーの暴走を抑えられるシステムの構築が世界レベルでの課題となる。先進国優位のWTOによる自由貿易の促進は、輸送の負荷による環境への悪影響がもっと懸念されて良いし、その点から考えれば、暴走する投機マネーを制限する国際的な取り決めこそがWTO辺りでも議論されてもよさそうである。

金持ちは、そのお金を世の中のために使う責任がある。欲望に踊らされて、その責任が果たせないのなら、それは法や人権の視点から、厳しい制限が設けられても仕方がない。アメリカ発の金融資本主義の失敗と、それを無批判に受け入れようとした自公政権の失敗は明白である。そのつけは、今、多くの普通の人々や貧しい人々に回されている。この無責任システムを何とかしないと人類社会全体が回復しきれない傷を負うことにもなりかねない。方向転換のためのタイムリミットは想像以上に近いかも知れない。

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2008年8月21日 (木)

余市…スコッチではないが

バテ気味で少し気合を入れようとする時には、ウィスキーを1ショット飲むことがある。今夜は、ちょっとそんな気分だったので、ウィスキーを飲もうと手を伸ばした。ちょっと、ティーチャーズの方に手を伸ばしかけたのだが、1ショットならシングル・モルトの方が良かろうと思い直し、東京の研究会に持ち込んで、飲み残した【余市】の方を手に取った。

【余市】は、その名の示す通り、スコットランドではなく、日本の北海道で作られるニッカのシングル・モルトである。日本産ではあるが、シングル・モルトとしては良い味を出していて、もちろん、ストレートにも耐えうるしっかりとした味わいがある。好みのスコットランドのシングル・モルトと比較すると良くも悪くもまろやかではあるが、それは日本という風土と文化が育てた味わいであり、けっして悪くはない。

その証拠に、1ショットで止めるつもりが、ついつい2杯目をショット・グラスに注いでしまった。とりあえず、緊急かつ重要な案件をひかえている訳でもないので、気合を入れ直すつもりが、反対にくつろいでしまったという事だろう。暑さのためにだらけてたるんでしまった精神ゆえか、あるいは【余市】の上質の味わいが豆腐のような根性を軽く凌駕してしまったせいか、いずれにしても、結局は仕事にならなくなってしまった。

この際、無駄な抵抗はせずに、仕事は明日に回して、今夜は国産のシングル・モルトをじっくりと楽しむことにしよう。幸いなことに、明日はそれ程早起きをする必要はない。2時や3時まで飲み続けるつもりはないが、立秋を過ぎて少し涼しくなってきた8月の夜を、【余市】を片手にゆったりと過ごすのも良い。窓の外からは、虫の声が聞こえている。

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2008年8月20日 (水)

リューズとクレア…映画「銀河鉄道999」より

映画「銀河鉄道999」で、主人公の鉄郎のために命を落とす2人の女がいる。1人は、鉄郎の母の敵(かたき)である機械伯爵の愛人リューズ、そしてもう1人は999の食堂車でウェイトレスをしているクレアである。共に、原作のマンガやTVシリーズにも登場するが、それぞれに魅力のあるキャラクターである。

前回の記事のコメントで、リューズを《いい女》、クレアを《かわいい女》に分類した。リューズは、愛する男の命じるままに機械の身体を改造し、やがて時間を自由に操れる力を身に付けてしまった。「男の言いなりになる」という面では、一見、男にとって《かわいい女》と見えなくもないが、その結果として「時間を自由に操る」という【毒】を身に付けてしまった。そうした生き方にリューズ自身の心に満たされない想いがくすぶり続け、鉄郎との出会いによってそれを自覚したリューズは、自分の男である機械伯爵の絶体絶命の危機において彼を裏切るという選択をする。

クレアは、見栄っ張りの母親によって、自分の身体をクリスタル・ガラスにされてしまい、冥王星に眠っている自分の身体を買い戻して生身に戻るために999で働いている。999での旅の過程で、クレアは鉄郎に対しほのかな恋心を抱いており、惑星メーテルの崩壊から脱出して999に乗り込み、鉄郎を殺そうとした機械帝国の女王プロメシウムから鉄郎を守るために砕け散ってしまう。

リューズの選択は、自我の確立に失敗して流されながら時を重ねてしまった自分自身の虚しさから解放され、自分を取り戻すための決断だったが、機械伯爵への情に殉じて、自らは時間城の崩壊を前にしながら脱出をせずに、機械伯爵のなきがらと共に時間城の中で錆びて崩れ落ちていく。その最期には女の哀しさが漂っている。

クレアの選択は、「ロミオとジュリエット」のジュリエットのような若さゆえの真っ直ぐな想いが感じられ、この映画を映画館で初めて見た若い頃には、そのけなげさに胸を打たれたものだった。若い頃であれば、恋人としての理想像の1つであったろう。ただ、歳を重ねた今は、また少し違った感覚もあるのだが……。

「銀河鉄道999」の女性を考えるとき、まず頭に浮かぶのはメーテルであり、次にエメラルダスを思い浮かべることが多いが、リューズやクレア、メタルメナなど、メーテルやエメラルダスの他にも、けっこう魅力ある女性たちが登場する。それを楽しむのも、999の楽しみ方の1つだろう。

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2008年8月17日 (日)

かわいい女・いい女・パートナー

8月上旬に参加した研究会の夕食の時、近くにいた関西の若い女性や関東の若い男性と話していた雑談の中で、かわいい女といい女とパートナーの話に花が咲いた。多少アルコールも入っていたが、×一の男の言葉に対する妙に素直な反応が、なぜかおかしかった。

まず、「かわいい女」だが、アイドルやお人形的な、現実感の乏しさが1つの条件であろうか。ただ、自分の弱さを自覚した上でのズルさはある程度許容範囲で、それは、素直でけなげなところに通じている。アニメ「エヴァンゲリオン」の桂木ミサトなどを「かわいい女」の例に挙げたら、妙に納得されてしまった。

つぎに、「いい女」について。若い女性は、「米倉涼子などはどうか?」と言ったが、即座に却下。理由は、「毒が足りない」ということで、「ルパンⅢ世」の峯不二子や小沢真珠などを例に挙げたら納得されてしまった。毒を持ち、宿命の匂いのする大人の女性…そんな印象なので、モローの絵「オイディプスとスフィンクス」のスフィンクスなども「いい女」の条件にピッタリかも知れない。ついでに、北条司のマンガも話題になったので、「キャッツ・アイ」の長女/泪(るい)や「シティー・ハンター」の冴子などが「いい女」で、「キャッツ・アイ」の愛は「かわいい女」だ…という話は3人で大いに盛り上がった。

そして、「パートナー」。恋人や夫婦の場合は相手がもちろん「パートナー」だが、仕事やさまざまな活動の場面でも、相手を信頼して重要なことを任せられ、もしそれが失敗したら、その結果はどれほど酷いものでも甘んじて受け入れる覚悟ができる相手である。夫婦や恋人の場合は、特に、一緒に日常を積み重ねられる相手であると同時に、異性を感じられる相手でもなければならない。これも、かなり納得されてしまった。

現実を生きていく際には、「パートナー」の存在は大きい。だが、文学・芸術の感受性を刺激するのは「パートナー」よりも「いい女」の方である。すでに人生の後半に差し掛かった今、どのような出会いが待っているのだろうか。

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2008年8月14日 (木)

モローのクレオパトラ

最も好きな洋画家は、ギュスターヴ・モローである…ということを以前にも書いたが、久しぶりにゆったりとした時間があったので、何冊かのモローの画集をパラパラと眺めてみた。もっとも好きなのは、やはり「オイディプスとスフィンクス」だが、「出現」で描かれているサロメなどもけっこう惹かれる。スフィンクスの表情にしろ、サロメの表情にしろ、宿命の女たちの存在そのものの重さが、稲妻のように胸に突き刺さってくるからである。

歴史的に見て、そのような意味で男の心をくすぐる女の1人にクレオパトラがいるが、モローは1887年に「クレオパトラ」という絵を描いている。クレオパトラは古代エジプトの女王として知られているが、その時の王朝はプトレマイオス朝であり、アレクサンドロス大王の大帝国が3つに分裂した王国の1つであり、その意味では彼女は生粋のエジプト系ではなく、実はギリシャ系であった。そして、王朝の衰退とローマ帝国の拡大という内憂外患の状況の中、彼女は自分のすべてを捧げてプトレマイオス朝エジプトを守ろうとしていたところもある。

それゆえだろうか、モローの描くクレオパトラは、月の光の中、そのエロティックな肢体にわずかな布をまとい、1人部屋のイスに座って、外を眺めている。その横にはカエサルもアントニウスも存在せず、静かな孤独の空気が漂っている。けれども、モローの描く彼女の表情は妖しい美しさとともに鋭さをも持ち合わせていて、宿命の荒波の中にあっても強い意志を持って生き抜こうとしたクレオパトラの存在感を見事に1枚の絵の中に封じ込めている。

ある意味では、1人の女として平凡に生きた方が楽だったかも知れない。けれども、女王としてエジプトに君臨したクレオパトラは、女としての弱さを、女の武器で補いながら、女王として生きようとした。その矛盾の中にある強さと孤独と哀しさにモローの筆が迫る。宿命の女を描ききるモローの絵の魅力がそこにある。

実在した歴史上の人物としてのクレオパトラ。そして、モローの描いた作品としての「クレオパトラ」それぞれの波動が重なり合い響き合って、感性を揺さぶり続ける。宿命の女の魅力である。

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2008年8月 7日 (木)

藩札というシステム

藩札とは何か。それは江戸時代に、藩の中だけに通用したお金である。その意味では、藩という枠内での地方通貨ということになる。その存在を知ったのは、三船敏郎主演のテレビドラマ「大忠臣蔵」においてであった。史実としては、赤穂事件…ということになるが、時は元禄時代、武断主義から文治主義への転換期にあって、商業の発達の中で旧来の戦国武士的な精神を残す藩にあっては藩財政の悪化と藩札の導入は説得力のある設定だった。ただ、当然、藩がつぶれれば藩札は何の値打ちもない紙切れになってしまう。藩が健全に存続することによって藩札は地域通貨として通用していた…ということになろう。

この、藩札というシステムだが、地域通貨として性質を考えれば、現代風にアレンジすることによって地産地消を促進して地域経済を活性化し、内需を拡大するのに使えないか…という風に最近は考えるようになった。もちろん、1地方都市などのレベルでそれが乱立すれば煩雑になり不便だが、例えば東海とか近畿といったレベルで「近畿円」とか「関東円」という形で設定し、円との交換比率を設定して、例えば近畿なら近畿という地域内でなら円も「近畿円」も自由に使えるが、 公共事業その他の入札の条件に規模に応じて「近畿円」の発注、円の発注というような形で地方の企業と大企業の発注条件を制限したり、交換比率の設定の際に他地域や外国からの流入については環境への負荷のコストを課税するといった方法で地域の産業を保護・育成する手立てに出来ないか…と考えているのである。

「外からの安いもの」の流入が、地域の製造業を圧迫し、人件費が抑制されて家計が苦しくなり、内需が弱体化する。これが今の不況のスパイラルだが、逆に言えば、地産地消によって食料を含む地域の産業を活性化させ、長距離移動による環境への負荷を低下させて地域の仕事を増やせば、家計の可処分所得が増え、内需の安定にも繋がってくる。そのような形でお金が多くの人の手を介して動けばその過程で所得が生まれ、税収の増加も見込まれる。地域での消費は、地域通貨が割安になるように設定してやれば、地域での消費を刺激することにも繋がるだろう。

もちろん、これはちょっとした思い付きの段階であり、実現を目指すとしたら当然詳細な検討が必要となってくるだろう。けれども、小泉・安倍・福田と続く「改革」の失敗による日本社会の荒廃は目を覆いたくなるようなものがたくさんある。それを何とか改善するための工夫や発想は、どのような形であっても注意してみるべきではないだろうか。個人的にも、まだまだ詳細な部分を考えていきたい発想だが、今回はまずblogの記事の形でupしてみた。意見を聞かせていただける方があれば、詳細な検討の際には不可欠なので、ぜひコメントを頂きたい。これからも、いろいろと考えてみようと思っている。

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2008年8月 5日 (火)

蜩…長山洋子の歌

夏の陽光の中を響き渡る蝉の声…それ自体が嫌いではないが、それがいっそう暑さを感じさせることもある。それでも、地上に出てからの蝉の命の短さを思うとその声がいとおしく感じられることもある。蝉の声が聞けるのは、それだけ身近に自然が残っている証でもある。そんな蝉の声を聞いていると思い出す歌がある。それが、長山洋子の「蜩」である。

「蜩」は、それまではアイドル歌手として名を売っていた長山洋子が、演歌に転向した時の1曲目の歌でもある。カラオケは好きでも、演歌はあまり歌わない。それでも、長山洋子の歌は何曲か歌うが、特に「蒼月(つき)」とこの「蜩」は演歌にしてはよく歌う方の歌である。

 

命を燃やす季節は短い まして女のきれいなときは

夏の夕暮れ人恋しさに 焦がれなきする蝉のようです

言葉で愛を語れたら 手紙に愛をつづれたら

ああ あなた 死んだら涙 流してくれますか

冷たい身体 抱きしめてくれますか

 

ある意味では、演歌歌手としては若いので相応しい歳になるまでアイドル歌手として芸能界での経験を積んでいたとも言える長山洋子にとって、演歌デビューの第1曲目は非常に重要であったろう。そしてこの「蜩」は、彼女やスタッフのそうした思いにこたえられる良質の演歌である。情念を込められた歌詞が演歌の物悲しいメロディーに乗せられ、想いの熱さが悲しいくらいに切なくなる。そんな歌を、民謡などのトレーニングをしっかり積んできた長山洋子がしっとりと歌い上げる。この歌がヒットしたのも当然だろう。

今も昔も、演歌をそれほど好んで聞く機会はないのだが、それでもこの「蜩」を聞いていると、たまには演歌も良いものだなぁ…と思う。想いのありったけを燃やす熱い恋。燃え尽きてしまうことを恐れないのは、若さゆえかも知れない。けれども、そんな恋もまた良い。そんな風に思う心が、まだ自分自身の中に残っている。それが残っている間は、まだ、文学を続けられそうである。

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2008年8月 2日 (土)

友という存在

今日は、松阪に住む大学時代の友を訪ねた。フォルクローレを愛するちょっと変わった男だったが、自分自身がかなり変わっているという自覚があるので、彼の存在を非常に心地よく感じていた大学時代。そして、それは今も変わらない。

大勢でワイワイと騒ぐのが得意なキャラクターではないのだが、それでも大学時代のこの友人をはじめ、高校時代、中学時代のそれぞれで多分親友と呼んで良い友人たちは何人かいる。歳を重ねるにつれてそれぞれの立場で忙しさが増し、そうたびたび会うこともないが、長い間あっていなくてもほぼ無条件に信頼できる。そういう友人がけっこういる…ということは、もしかしたら幸せなのかも知れない。

今日の午後、彼を訪ねた時も、それ程長くいるつもりはなかったのだが、気がついたら2時間が過ぎていた。彼の奥さんも交えて、3人で仕事のことや教育のことを雑然と話していただけなのだが、穏やかで楽しく、そして心休まる時間だった。その時間も、彼という存在があったからこそ味わえたのであり、特に何かを話したいという訳ではないのに、話しているとお互いに通じ合っているという感覚がある。基本的に相手を信頼しているからだろう。

ただ、若い人を含め、いろいろな人の話を聴いていると、必ずしもこうした基本的に信頼しあっている人がいない場合が少なからずある。そして、それが精神的に不安定になったり、心に闇を抱えたりしていることと重なっていたりもする。お互いに信頼し合える関係を結びきれていないのだろう。

関係を結び、深めていくためには、お互いが自分自身をそれなりに出し合い、共感を重ねていく体験が必要である。けれども、自分自身を出せずに仮面をかぶり続けていると、自分を出すことに恐怖を感じ始め、それが積み重なっていくと、自分を出せなくなってしまうことが少なくない。その意味で、「キャラ化」する現在の風潮は、けっこう危険な部分もあるといえるだろう。

けれども、思い切って自分を出してみると、きちんと受け止めてくれる相手もそれなりにいる。結局、その1歩を踏み出すのは、自分自身の意思や決断にかかっているのである。もちろん、周りのすべての人が自分をきちんと受け止めてくれる…とは限らない。けれども、探してみれば、自分を受け止めてくれる人は多少なりとも存在する。それは、家族かもしれないし、配偶者かもしれないし、友人かもしれない。関係を結び、関係を深めることには今までの「自分」を変えなければ知れないかも知れない…という怖さを感じたりもするかも知れない。けれども、その怖さに打ち勝って1歩踏み出したとき、自分自身の人生が広がる可能性がある。今日の午後のひとときは、そのことをあらためて実感させてくれた時間だった。

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