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2008年8月 2日 (土)

友という存在

今日は、松阪に住む大学時代の友を訪ねた。フォルクローレを愛するちょっと変わった男だったが、自分自身がかなり変わっているという自覚があるので、彼の存在を非常に心地よく感じていた大学時代。そして、それは今も変わらない。

大勢でワイワイと騒ぐのが得意なキャラクターではないのだが、それでも大学時代のこの友人をはじめ、高校時代、中学時代のそれぞれで多分親友と呼んで良い友人たちは何人かいる。歳を重ねるにつれてそれぞれの立場で忙しさが増し、そうたびたび会うこともないが、長い間あっていなくてもほぼ無条件に信頼できる。そういう友人がけっこういる…ということは、もしかしたら幸せなのかも知れない。

今日の午後、彼を訪ねた時も、それ程長くいるつもりはなかったのだが、気がついたら2時間が過ぎていた。彼の奥さんも交えて、3人で仕事のことや教育のことを雑然と話していただけなのだが、穏やかで楽しく、そして心休まる時間だった。その時間も、彼という存在があったからこそ味わえたのであり、特に何かを話したいという訳ではないのに、話しているとお互いに通じ合っているという感覚がある。基本的に相手を信頼しているからだろう。

ただ、若い人を含め、いろいろな人の話を聴いていると、必ずしもこうした基本的に信頼しあっている人がいない場合が少なからずある。そして、それが精神的に不安定になったり、心に闇を抱えたりしていることと重なっていたりもする。お互いに信頼し合える関係を結びきれていないのだろう。

関係を結び、深めていくためには、お互いが自分自身をそれなりに出し合い、共感を重ねていく体験が必要である。けれども、自分自身を出せずに仮面をかぶり続けていると、自分を出すことに恐怖を感じ始め、それが積み重なっていくと、自分を出せなくなってしまうことが少なくない。その意味で、「キャラ化」する現在の風潮は、けっこう危険な部分もあるといえるだろう。

けれども、思い切って自分を出してみると、きちんと受け止めてくれる相手もそれなりにいる。結局、その1歩を踏み出すのは、自分自身の意思や決断にかかっているのである。もちろん、周りのすべての人が自分をきちんと受け止めてくれる…とは限らない。けれども、探してみれば、自分を受け止めてくれる人は多少なりとも存在する。それは、家族かもしれないし、配偶者かもしれないし、友人かもしれない。関係を結び、関係を深めることには今までの「自分」を変えなければ知れないかも知れない…という怖さを感じたりもするかも知れない。けれども、その怖さに打ち勝って1歩踏み出したとき、自分自身の人生が広がる可能性がある。今日の午後のひとときは、そのことをあらためて実感させてくれた時間だった。

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