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2008年12月31日 (水)

今年もストコフスキー指揮の第九で…

仕事が昨日まであったので、今日はようやく仕事のない1日になったが、パソコンで同人雑誌の編集作業をしながら、CDを聞いていた。年末という事で、チョイスはベートーヴェンの第九、指揮はもちろんストコフスキーである。演奏はロンドン交響楽団、1970年の録音だから、今から40年近く前の音ということになる。

ストコフスキーの演奏は、ベルリオーズの幻想交響曲やムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」などが思い浮かぶ。「展覧会の絵」などは、ラヴェルの編曲の方が知られているが、ストコフスキーが指揮しているのは自身が編曲したものである。いずれも、ストコフスキーの強烈な個性が感じられる演奏となっている。

もちろん、このベートーヴェンの第九も、どこかしら異なった匂いがある。確かに第九なのだが、確かにストコフスキーと納得のできる演奏でもある。1年の終わりに当たってチョイスしたCDが今年もストコフスキーの第九だったことは何ともいえない感慨がある。

今年も、いろいろと事の多い1年だった。世界レベルでも、日本レベルでも、そして自分自身のことを振り返っても……。波乱の時代にあっては、波乱を乗りきる強い個性が必要となる。ただ、大きなことをなすには、1人では何もできないことを自覚した上で、個性を尊重しながら心を合わせていく努力が必要となる。ストコフスキー指揮のベートーヴェン第九をチョイスしたのは、無意識の中に、そんな思いがあったからだろうか。

やがて2008年の12月31日も終わる。新しい年が、多くの人々にとって幸福であることを願わずにはいられない。

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2008年12月25日 (木)

講演会にて

隣の市で特別支援教育に係わる研修としての講演会があったので、参加した。会場は、ボランティアの日本語教室でも使っているビルなので、勝手知ったる何とやら…で、少し前に到着し、真ん中の前から2番目の席に座った。しばらくすると、スタッフから声をかけられた。別に用という訳ではなく、高校時代の同級生だったのである。

彼女と会うのは、20年ぶりくらいになるのだろうか。高校のクラスは1年の時も、2年の時も、3年の時も、割と皆仲が良かった。今年の初めに開かれた学年の同窓会でも、わが3Fの出席率はトップクラスだったし、実は1年次のクラスのメンバーの出席率も非常に高かった。そんな訳で、高校時代の同級生に会うと、特別に理由がなくてもやはりうれしくなってしまう。

二言三言しか言葉を交わす時間はなかったのだが、彼女は10月の三重大でのシンポジウムにも参加していたらしい。私が、司会者や他の人と話をしていたので、声をかけそびれたとか。それでも、現在の彼女の仕事は、私の(金にならない)活動とも関係あるようなので、「また連絡して」という事で、メールアドレスや携帯番号の入った名刺を渡しておいた。1人でも、ネットワークが広がるのは大歓迎だからである。

こちらとしては、久しぶりに高校の頃と変わらぬ元気そうな姿を見ることが出来てうれしかったが、私自身は彼女の目にどう写っていただろうか。やはり、あの頃と変わらないなぁ、と思っているのだろうか。高校時代も、今の自分の基礎となる大切な時間だったと思うが、それからの年月の間に様々な出会いや決断を経て、今の私がある。自分自身が今の年齢に相応しい程度に成熟しているだろうか。そうであって欲しいと思う。

講演会そのものも、大切なポイントを短い時間で分かりやすく実感させてくれるいいものだった。ただ、やはり時間の制約がある以上、全てを話し尽くせるわけではない。質問の時間に、講演の中では取り上げられなかった特別支援教育と医療現場の連携について質問をした。誠実には答えてくれたが、まだまだ特別支援教育の現場における大きな課題でもある。現場と行政、双方が力を尽くしていかなければ好転はしないと思うが、予算の壁が大きく立ちはだかる。金ばかりかかってあまり利用価値のない全国一斉学力テストを廃止して、その予算を回すだけでもずいぶん違うと思うのだか。

まあ、それはそれ、個人的には同級生との再会があり、しっかりした話も聞けたよい講演会だった。

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2008年12月23日 (火)

銀河子守唄と星の子守唄…松本アニメ/父と母の子守唄

松本零士のアニメのエンディングや挿入歌に、いくつか子守唄がある。例えば、【SF西遊記スタージンガー】のエンディンク「星の子守唄」や【宇宙海賊キャプテンハーロック】の挿入歌「銀河子守唄」、【新竹取物語1000年女王】の挿入歌「ラーメタル・ララバイ」などがそれである。

子守唄というと、母親や子守の少女など、どちらかと言えば女性が歌うイメージが強い。その意味においては「ラーメタル・ララバイ」や「星の子守唄」は女性の澄んだ声が相応しい母性あふれる歌になっている。1000年女王/雪野弥生もそうだが、オーロラ姫も銀河に母性のエネルギーを復活させるためにジャン・クーゴやサー・ジョーゴ、ドン・ハッカの三人のサイボーグに守られながら銀河の中心にある大王星へと旅をする。その存在そのものが大いなる母性であり、オーロラ姫の歌としてのイメージで作られた「星の子守唄」は母性の子守唄であると言えよう。

 

ララル ララル 星の海は 白い流れ 静かな輝き 星くずキラキラ 船のしぶき 遠い彼方へ 旅は長く 夢路はるかな母の星よ 眠れ眠れよ 心安らか ララル ララル 星のララバイ ララル ララル 星のララバイ

ララル ララル 星の空は 七色虹の きれいな輝き 光るかけ橋 夜も昼も 明るく照らす 旅のゆくえ 願う心は 母の星よ 眠れ眠れよ 夢は静かに ララル ララル 星のララバイ ララル ララル 星のララバイ  〔星の子守唄〕

 

一方、「銀河子守唄」は、ハーロックの親友で、肉体は死んでも心は海賊戦艦アルカディア号の頭脳となって行き続ける大山トチローが、マゾーンにさらわれて助けられた後も恐怖のために眠れない愛娘まゆを眠らせるために歌ったうたであり、言わば父性の子守唄である。

 

大きな枕に 星屑をつめて おやすみ おやすみ いとしい子 この世で一番 美しい星は おやすみ おやすみ その瞳 さがしに行こう 夢の宇宙船で よみがえる 愛の星を みんなの星を

輝く銀河の ゆりかごに乗って おやすみ おやすみ いとしい子 誰もが待ってる 新しい星は おやすみ おやすみ その笑顔 さがしに行こう 若い宇宙船で 父母の生きた夢を みはてぬ夢を  〔銀河子守唄〕

 

どちらも、それぞれの味わいがあって優しい。心が疲れたときには、そっと聞いていたい歌である。

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2008年12月22日 (月)

派遣・パートはきっても配当は増加?

世界同時不況の様相を呈している中、大企業をはじめとする多くの企業が派遣労働者やパート、期間工などを切る動きが強まり、社会問題化している。その一方で、労働者を削減している企業の中に株主への配当は増やしているところがあるらしい。また、少し前にも書いたように、経営陣の大幅な賃金カットのニュースは寡聞にして知らない。おかしくはないだろうか。

この不況の原因の1つは、労働者の賃金抑制による内需の軽視という構造を作ってしまったことにもよる。外需に頼り企業の社会的役割を軽視した財界/経営陣の判断ミスとそれを助長する流れを作って内需の弱体化に歯止めをかけられなかった政府・与党の経済政策の失敗がその背景にはある。「自己責任」を口にした連中が、自らの自己責任には目をふさぎ口をつぐんでいる構図である。

ここに至って、金融資本主義の失敗は明らかである。それを修正するには、マネーの暴走に歯止めをかける取り組みが当然必要となる。短期的な株の売買による利益には、もっときちんと課税する必要があるだろうし、不況の中で安易に従業員を切り捨てる動きには、内需を支える意味からも厳しい対応が必要となる。政府も、企業経営陣も、まず、自ら襟を正し、誠実な対応をすることによって、社会に苦境を乗り切ろうとする強い意志と希望が生まれるだろう。それを貫くことが、上に立つものの責任である。

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2008年12月15日 (月)

2つの【私をとめて】

シャンソン歌手の北岡樹(みき)さんが歌う「ぶたないで」という歌を、先日の津への行き帰りに車の運転をしながら聞いていた。この歌は、幼児虐待をテーマに作詞したもので、北岡さんは、それをシングル・カットして無料で配布したり、そのシングルへのカンパの一部を寄付したり…という活動を続けている。先月は、久しぶりに生で「ぶたないで」を聞く機会もあったが、作詞者としては久しぶりに聞くと、どうも恥ずかしさが先に立ってしまって、何となく居心地が悪かったのを覚えている。

さて、そのアンサー・ソングという形ではないが、北岡さんのライブでの意見の中に、虐待をしてしまう方の側からの歌が作れないか…という話があり、「私をとめて」という詞を書いてみた。実は、この「私をとめて」だが、現時点では2つのバージョンがある。2つ目の方がより深刻なバージョンになっているが、背景に、母親や家族を追い込む社会や政策の貧困がある。OECD諸国で最低の教育予算、母子家庭で、まじめに働く母親が貧困から抜け出せない唯一の国、日本……。子どもを安心して育てられない国や社会で、少子化が進むのは当然なのである。幼児虐待は、もちろん止めなければならない。けれども、そのためにしなければならない最低限の手立てがある。その現実/日本の中で進んでいる子どもの貧困の実態を、私たちは知らなければならない。

 

私をとめて

 

仕事が始まる 時間がせまる なのに この子はぐずってばかり

言う事きかず 甘えているの それとも 私を困らせたいの

 

この子をなぐる 手がとまらない しつけをしているつもりなのに

私の心が疲れ果てて 壊れ始めているのだろうか

 

 

隣の子どもは 聞き分け良くて いつも ニコニコ愛想がいい

だけどこの子は オドオドしてて 私の 困ることしかできない

 

この子に向ける 目がきつくなる 私が望んだ子どもなのに

悩みを相談できないまま 心の闇に呑み込まれそう

 

 

子どもはおまえに まかせたからな おれは 仕事が忙しいから

困っていても 相談できず 毎日 ストレスたまってくだけ

 

しつけをしてる そう思っても 何かが違うと感じている

早く私をとめてください どうか私をとめてください

 

 

 

私をとめて Ⅱ

 

私がこんなに 世話してるのに この子は ニコリともしない

泣いてぐずって 言う事きかず いつも私を困らせる

 

この子を何とか しつけなければ 可愛くないけど 私の子ども

心が壊れ始めているの? この子をなぐる手が止まらない

 

 

私が愛する あの人が言う この子は いつもオドオドしてて

言うこと聞かず 不器用すぎる こんな子どもは 好きじゃない

 

この子を何とか しつけなければ 私はきっと 捨てられちゃうわ

心に憎しみ生まれ始める この子はなぐるだけじゃダメなの?

 

 

子どもは愛するものだと言うけど 私も いつも殴られていた

だけど私も 母親だから 可愛くなくても 育てなければ

 

この子を何とか しつけなければ どなって殴って 蹴ってそれから…

私の心はどうなってるの? 誰でもいいから私をとめて

 

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2008年12月12日 (金)

今週の御言葉…「はいからさんが通る」より

大和和紀が週間少女フレンドに連載して大ヒットしたマンガ「はいからさんが通る」は基本は純愛なのだが、あちこちにギャグがちりばめられ、非常に楽しい作品に仕上がっている。そのギャグシーンの背景にさりげなく登場する【今週の御言葉】が、なかなかブラック・ユーモアに富んでいて、今、読み直してもとても面白い。いくつかあげてみよう。

 

強いものにはへつらおう 弱いものはいたぶろう

わいろできめよう 人のあつかい

つっぱるな しょせんあなたは三級品

ごますろう 金のあるやつ 強いやつ

みかえり期待し いつも親切

金になるならへつらおう 金は正義だ真実だ

われときて あせれやとりえのない女

はりあおう あなたは上役わたしは下っ端 同じ米くってどこちがう

みやげ持ちには笑顔で接待 もってこんやつぁ涙で抗議 しゃぶりつくそう骨までも

こだわろうひとつの善行 わすれよう百の悪行

 

ただ、これはあくまでも、風刺、ギャグとして面白いのであって、これを地で行く人が増えれば増えるほど、世の中は暮らしにくくなる。最近の社会が暮らしにくいのは、これを地で行く連中が、例えば政府や行政の中枢にいたり、大企業のトップにいたりするからではないだろうか。

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2008年12月11日 (木)

経営責任は?

大学卒業生の内定取り消しや、派遣労働者、パート従業員削減というニュースがあちこちから聞こえてくるようになった。サブプライムローンの焦げ付きが発端となって、暴走を続けたグローバル金融資本主義のバブルがはじけ、それが実体経済にも悪影響を及ぼして世界同時不況への道を転げ落ちつつある状況である。

トヨタ、ソニー、キャノンといった巨大企業も、次々と生産調整による労働者の削減計画を発表し、新卒者や派遣労働者、パート従業員の雇用不安が拡大し続けている。けれども、これ自体は新卒者や派遣労働者、パート従業員の責任ではなく、はっきりいって経営者の側により大きな責任がある。にも関わらず、日本においては、経営陣が率先して給与やボーナスを返上・削減した…というニュースがまったく聞こえてこない。これは、おかしい話である。

そもそも、派遣労働者やパートを増やして正規雇用を縮小し、家計の収入を抑えることによって内需を縮小させてしまったのは経営者である。外需に依存しすぎる企業体質への転換を決定した経営陣が責任を取らず、そのミスを新卒者や派遣労働者、パート従業員に追わせようとするのは筋違いである。

こうした安易で無責任な経営陣に対し、あちこちで裁判という労働者の反乱が起こり始めている。大企業の経営陣が数年の間給与やボーナスを返上しても生活に困るとは思えない。企業の身勝手で、派遣やパートの立場に置かれ続けた労働者が、恣意的に雇用を切られてしまえば、生存すらおぼつかなくなる。社会のセーフティー・ネットを財界の望み通りに削減・縮小し続けた政府・与党の政治的責任も重いが、まずは経営責任が追及されるべきではないだろうか。

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2008年12月10日 (水)

世界人権宣言

今日は、12月10日、1948年に国際連合総会を世界人権宣言が通過し、世界中に向けて宣言された日である。日本も後に国際連合に加盟し、さらに世界人権宣言をより具体化するために作られた国際人権規約も昭和54年に批准して、立法措置や行政措置によってそれを具体化する責務を政府は負っている。

この世界人権宣言だが、その内容および日本語訳の記述は、日本国憲法と共通しているものが多い。「愛国者」の皮を被った「売国奴」が「押し付け憲法」などと攻撃を続ける日本国憲法だが、その内容は、植木枝盛ら自由民権運動を支えた人々が作った私議憲法の草案を下に鈴木安蔵を中心とした憲法研究会が作った憲法草案が、実はGHQ草案の土台になっている、ということを以前、このブログの記事にも書いたことがある。その意味では、日本国憲法は、日本の自由民権運動の伝統を受け継ぐものであると同時に、世界人権宣言に先駆けた先進的な内容を持つ憲法だとも言える。

日本の政府および国会議員、そして官僚のすべては、日本国憲法を遵守する義務を負っているし、批准した以上、世界人権宣言および国際人権規約を守る義務も併せて負っていることになる。

さて、世界人権宣言には、次のような記述がある。

23条 

1 すべての人は、勤労し、職業を自由に選択し、公正かつ有利な勤労条件を確保し、及び失業に対する保護を受ける権利を有する。

2 すべて人は、いかなる差別をも受けることなく、同等の勤労に対し、同等の報酬を受ける権利を有する。

3 勤労する者は、すべて、自己及び家族に対して人間の尊厳にふさわしい生活を保障する公正かつ有利な報酬を受け、かつ、必要な場合には、他の社会的保護手段によって補充を受けることができる。

この内容を、日本政府は遵守しているだろうか。あるいは、少なくとも遵守するために最大限の努力を払っているといえるだろうか?

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2008年12月 8日 (月)

群青…残された者は

谷村新司が、映画「連合艦隊」のテーマ・ソングとして作った歌、それが「群青」である。今日は12月8日、日本海軍の連合艦隊による真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった日である。真珠湾攻撃を計画した山本五十六は、最後まで対米戦争への突入に反対したというが、開戦の決定によって、少しでもアメリカ太平洋艦隊の戦力を殺ぐべく、この真珠湾攻撃を計画し、実行に移した。けれども彼は同時に、彼我の工業力の差を熟知しており、アメリカの反撃を予測していた。そして、ミッドウェー海戦での敗北で赤城、加賀、飛竜などの主力空母を失った後、彼自身もラバウルで搭乗していた一式陸攻と共に暗号の解読によって放たれたP51戦闘攻撃機に撃墜され帰らぬ人となる。

その後、連合艦隊は次々と空母を失い、沖縄戦では連合艦隊の象徴であった戦艦大和も九州沖で撃沈されてしまう。映画「連合艦隊」でも、片道分の燃料で戦闘機の護衛もなく出撃していく戦艦大和を見送るシーンが心に残っている。「群青」の2番の歌詞は、このシーンを象徴しているように感じられ、胸が痛む。

 

老いた足どりで 思いを巡らせ 海に向いて 1人立たずめば 我より先に逝く 不幸は許せど 残りて哀しみを 抱く身のつらさよ 君を背おい 歩いた日の ぬくもり背中に 消えかけて 泣けと如く群青の海に降る雪 砂に腹這いて 海の声を聞く 待っていておくれ もうすぐ還るよ

 

大和の乗組員もそうだが、陸海軍の特攻隊による「攻撃」で多くの若い命が散っていった。残されたものの悲しみの深さや辛さを呑み込んで、戦争は1945年の8月半ばまで続けられた。決断力を欠いた政府と軍部首脳の罪は重い。

決断力を欠いている、という点において、現首相もあまり変わらないようだ。支持率の急落は、解散の決断を先延ばして行き当たりばったりの発言を続け、社会を混乱させ、自らの発言とは裏腹に「政治的空白」を作っている。本人がどうなろうと「自己責任」として仕方がないと思うが、その迷走によって多くの人々が苦しんだり、不安を感じたりしている。

老人が苦しい思いをしながら生きていくようなことのない世の中、若者たちが希望を持って働くことのできる社会が来ることを願わずにおれない。

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2008年12月 4日 (木)

問題の多い裁判員制度

12月に入って、裁判員制度についてのニュースが流れた。裁判員の候補者の方にそれについての通知を発送したというものである。裁判員制度も、開始に向けての秒読みに入ったといえよう。だが、この裁判員制度は、決まってからも異論や問題点の指摘が多く、制度改革としては準備不足であり、それを見切り発車した印象が強い。

国民の実感を判決にも生かすというのであれば、もっとも必要なのは行政裁判である。下級審の画期的な判断が、控訴・上告に従って、その時点の政府や与党の都合に即した判決になってしまったような例は多い。そもそも憲法判断を突きつけられた時点で「統治行為論」なるものを持ち出したような話は裁判所の法令審査権の放棄である。最高裁がそのような無責任な態度に終始しているからこそ、先の自衛隊派遣についての名古屋での違憲判決が示すように、下級審の裁判官は職を賭けてギリギリの判決を書かなければならなかったのであり、憲法や人権についての意識を多少なりとも持つものにとっては、呆れ返ってしまうような情けない話である。

さて、裁判員を引き受けるに際して、仕事との兼ね合いで不安を感じる人が多いことがニュースでも報道されている。それに関して突っ込んだ取材がなされてないので、敢えてこの場で書いておきたいが、実は、それ自体が労働環境の悪さを示しているともいえる。裁判員に選出されても安心して仕事を休めないような労働環境の実態が国内の多くの現場に存在しているということなのである。ゆとりを持って労働できるような環境であれば、裁判員として何日か休む程度ならば、労働者の当然の権利としての年休を取るのと本来ならばあまり変わらないはずである。けれども、それができない。「ゆとり」を「効率化」によって削り続け、労働環境を悪化させたからこそ、裁判員として仕事を休むことに多くの人が不安を感じてしまうのである。

他にも、「疑わし気は罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」といった、近代裁判の大原則が無視された【素人判決】を高裁レベルでも出しているような事例や、選挙違反に関わる冤罪事件など、検察や裁判所のレベルでの法令違反の疑いや無知を感じるような話も多い。イギリスなどでは導入されて効果もあがっている取調べの完全可視化に何故か警察や検察が二の足を踏み、抵抗しているのもうなずけない。そのようなことを総合的に考えれば、裁判員制度の導入は時期尚早である。1度、開始を凍結した上で、明らかになってきている制度上の問題点を改め、労働環境を改善した上で導入するべきであろう。

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