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2009年5月31日 (日)

小西湖の天津飯

津からの帰り、夕飯時になってしまったので、久しぶりに伊勢市内の小西湖という中華料理屋によった。小西湖は神宮徴古館の下の方にある伊勢消防署の近くにある。基本的に中華料理は好きなので、新しい店を見つけると入ってみたりもする。辛口の四川料理も好きだが、天津飯も大好きで天津飯をたのむことも多い。ところが、何回か行っていたにも関わらず、日替わりランチを頼んだりすることが多く、小西湖で天津飯を頼んだことはなかった。

今日は、そう言えばここで天津飯を食べたことはなかった…と思い、天津飯をオーダーした。出てきた天津飯を見て驚いた。四角い皿に四角い天津飯が盛り付けられ卵焼きとタレの上には中華系の香味野菜と身の付いたカニのはさみがのせられていた。カニの赤と卵焼きの黄色、そして香味野菜の緑が鮮やかで、見た目からしてとても美味しそうなのだ。一口食べてみると、タレと香味野菜の味のバランスも絶妙で、見た目に違わず美味しい天津飯だった。

普通、天津飯と言えば丸い器に丸く盛り付けられ、ご飯の上にカニの入った卵焼きを載せ、とろりとしたタレをかけてある。ただ、もともとの中華料理には天津麺はあっても天津飯はないということを聞いている。この料理は和製中華料理なのだ。その意味では、中華のコックさんの創意工夫によって、日本の中華料理の定番の一つと言える。そして、定番の形で美味しい店もたくさん知っているが、こうした工夫のあとが偲ばれる料理もおもしろいと思うし、それが美味しければ素晴らしいと思う。

店を出る前に、「驚いた。こんな変わった天津飯は初めてで、とても美味しかった」と伝えると、天津飯というとあまり変化がないのだけれど、いろいろと工夫して現在の形にした、ということを話してくれた。たかが夕食ではあるが、されど夕食。美味しい食事はとても幸福な気分になる。そして、夕食が美味しければ、何となく1日が幸せだった用に思われてくる。片道2時間をかけて津まで往復したが、いい1日だった。

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2009年5月30日 (土)

バラマキ補正予算は成立しても

バラマキ補正予算は成立……ということだが、景気の方は必ずしも順調ではない。一般の労働者や派遣、失業などによって生活どころか生存までも脅かされている人々の安心や安定は遅々として進んでいない。それは、裏を返せば、小泉改革の頃から自公政権によって徹底的に破壊されてしまった国民生活の傷がいかに深いかを物語っている。

だが、バラマキ補正は大企業に厚く、本当に緊急の支援が必要な派遣などの低所得者層に対する効果は薄すぎて低所得者層の生活の安定やそれに支えられた内需の拡大はあまり期待できない。逆に、その後の消費税増税構想などからすれば、低所得者層への負担ばかりが増し、セーフティー・ネットの構築は不十分なまま経済格差が広がり続ける。だが、それに気付かないのか、あるいは気付いていても路線変更ができないのか、いずれにしても国民生活の前途は多難である。

そうした意味では、この程度の「対策」しか打てず、二階や森元総理などの自党議員のことは棚にあげて「国民の最大の関心は西松問題」などと的外れなことを言ってそのおかしさに気付きもしない総理をいただく現自公政権の政権担当能力の無さは目を覆うばかりである。民主党も頼りないが、これ以上自公政権が居座れば、「100年に一度の危機」を口にする割には代わり映えのしない「対策」しか示すことが出来ず国際社会や経済の激変にまとも対処する能力を持たない自公政権では、緊急対策や新しい発想の改革は進められず、事態はいっそう悪化するだろう。

それにしても、なぜここまで自公政権の居座り・居直りが許されてしまったのだろうか。権力を持つ立場の者たちがなりふり構わず権力維持のためにメディア・コントロール等をはじめとするアン・フェアな手段を可能な限り使ったという部分もあるかも知れないが、国民の側も「変化」を必要以上に怖がった部分もあったような感じがしないでもない。けれども、世の中は変化の嵐の中にある。変化を過度に恐れずに立ち向かう勇気と気概を持つことも必要だろう。

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2009年5月25日 (月)

ウルトラQ印象記…ゴメスを倒せ !

久しぶりに古いビデオを見た。「ウルトラQ」である。「ウルトラマン」以前の円谷プロダクションの作品でデジタルどころか白黒映像である。けれども、白黒写真が独特の味わいを持つように、意外と奥行きを感じる面白い映像となっている。そして、ウルトラマンでフジ隊員を演じた桜井浩子も若々しい動きも魅力的である。また舞台となったトンネル工事現場の風景も、妙に懐かしい感じがする。さて、最初にテレビで見た子どもの頃には気づかなかったが、ゴメスの着ぐるみは、ゴジラを改造して作られたことが顔や手足や尻尾から良く分かる。そういうところも、久しぶりに見ると楽しい。

さて、物語は東京と大阪を結ぶ弾丸道路のトンネル工事現場で、アル中の男がトンネルの奥から出てきた穴の中に光る眼を見る。実はそれがゴメスだったのだが、発見者がアル中だったためにその言葉は信頼されなかった。ただ、その現場から隕石とも化石とも見えるような謎の物体も出てくる。工事現場に出入りしていたジロウ少年は記者と共に神社の古文書を見て、工事現場の光る眼の正体がゴメスであり、謎の物体がリトラのサナギ(!?)ではないか、と予想する。ゴメスによって工事は停止し、桜井浩子が演じるカメラマンは洞窟に閉じ込められてしまう。

ゴメスは洞窟の奥からトンネル工事現場に出現して暴れ出す。一方、ジロウ少年はリトラのサナギを温め、中からリトラが出てくる。サナギから出たばかりのリトラは最初動かなかったが、ゴメスの出現とジロウ少年の必死の呼びかけの中で大空に羽ばたき、ゴメスと戦う。ゴメスの鋭い爪やしっぽに痛めつけられながらもリトラは鋭いくちばしでゴメスの眼を突き、口から溶解液を出してゴメスを倒す。だが、リトラも戦いに力尽き、死んだゴメスの上に折り重なるように倒れ絶命するのである。

わずか30分にも満たない時間に多くのエピソードを詰め込んでしまっているきらいは無きにしも非ずだが、その映像そのものが何ともいえず懐かしい。

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2009年5月20日 (水)

誰のための裁判員制度?

明日から裁判員制度が始まる。一般国民の感覚を司法の現場に生かすということらしいが、制度上の問題点が数多く指摘されているにも関わらず、「3年後の見直し」ということで強行されることとなった。気になることはいくつもある。例えば、守秘義務については欧米の陪審員制度でも裁判の終結までとなっているようだが、一生守らねばならないようでは精神的負担が大きい。その点だけでもカウンセラーのサポートが必要となりそうだが、もちろん、そんな配慮も予算もない。

死刑など命に関わる判決や量刑の決定についても不安が大きいという声も多い。法律に対する知識やきちんとした判断が可能となる自我の成熟がなければ、「専門家」である「裁判官」の意見に強く影響される危険も大きい。ここ数年の裁判の判決の中でも、それ自体が「疑わし気は罰せず」の原則に明らかに反しているだろうと感じられる判決があったりもしている。「国民の感覚を生かす」と言えば聞こえは良いが、アリバイ的に「国民の関与」の状況を作って「裁判官」の押し付けをごまかすことにならないかも気になるところである。

それに、なぜ刑事裁判だけなのか、という思いも強い。国民の意識との乖離で問題になるのは、特に行政裁判ではないか、という実感があるからである。特に憲法判断との関わりにおいては、どうしても行政寄りの判決が多いように思う。そのような裁判にこそ、「国民の意識」や「実感」が必要だと思うのだが、何故か行政裁判についてはこれまで通りである。

加えて、イギリスなどでは行われて実績も上がっている取調べの可視化(完全録画)もこれだけ冤罪事件が出ている中で、何故か実現が見送られているし、被告に有利な証拠も検察の判断で排除されるような可能性も消えていない。逆に、裁判員制度を悪用してマスコミ/報道の統制を行おうとするような危惧も指摘されている。

こうした状況の中で、敢えて導入されようとしている「裁判員制度」……。ここ数日のマスコミ報道からはそうした問題点の指摘が以前よりも減っているように感じられる。議論不足・準備不足のまま、導入を急ぎ過ぎてはいないだろうか。

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2009年5月19日 (火)

開国/不平等条約と自由貿易体制

1853年のペリーの来航によって、江戸幕府の鎖国政策は終わりを告げ、日本は開国の道を選択した。その後、日米修好通商条約を皮切りに、アメリカやヨーロッパの国々と不平等条約を結ぶこととなった。経済的には、関税自主権がなかったことが日本の経済に大きな衝撃を与えることとなった。

開国までの江戸時代の経済体制は、基本的には国内で自給自足ができ、ある程度安定した閉じた経済圏を作っていた。ところが、不平等条約によって外国から多くの物品が輸入されることになり、それが国内の産業構造を破壊して多くの人々を困窮させた。そうした社会情勢が幕府への不審を生み、尊王攘夷運動を拡大させていったのである。

そうした歴史に学ぶと、グローバル資本主義が錦の御旗と掲げる「自由貿易体制」の欠点が見えてくる。「自由貿易体制」は第二次世界大戦を引き起こした経済的要因にブロック経済/各国が自国の利益のみを追求するあまり他国との貿易を著しく制限したこと…があったという理解と反省から、「自由貿易体制」の維持に各国が協力するということでGATTそしてWTOが組織され現在に至ったものである。

確かに、ある程度対等に近い国々の自由貿易は、それぞれの関係国を豊かにし、共生するための条件を整えていくシステムになると考えられる。けれども、経済的に格差の大きい国との「自由貿易」は、経済的に強い国はさらに豊かにするが経済力の弱い国を疲弊させる結果を生む。開国当時の日米貿易や日欧貿易は、欧米にとっては「自由貿易」に近かったが、日本にとっては「不平等」であった。そのため日本の国民生活は疲弊し、関税自主権の回復は明治政府の懸案となったのである。

経済的に格差の大きい国の間での「自由貿易」は、実は「不平等貿易」であることを開国の歴史は教えてくれている。私たちは、このことをあらためて考え直す必要がある。

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2009年5月18日 (月)

欲望との折り合い

資本主義経済は人間の欲望を肯定しエネルギーにしてここまできた、という見方をしてきたが、特に昨今のグローバル経済の状況は、欲望の暴走がコントロールを失った結果であろう。その結果、世界中の多くの人々が貧困に苦しみ、環境を破壊し続けている。だが、キリスト教をはじめイスラム教、仏教など多くの宗教が欲望の暴走を危惧し、そのコントロールを力説し、他者への博愛や友愛を説いている。資本主義経済も、もともとのルーツを辿ればピューリタンなどのキリスト教文化圏から誕生している。それが、多くの人々を貧困に陥らせ生命の危機すらも感じさせる状況に追い込んでいる。

もちろん、この現実は、様々な偶然や政策、対応のミスが重なって生じたものには違いないのだが、一方でわれわれ自身も欲望のコントロールを怠り、周りに流されてきた部分があった点も見逃せない。周りに流され雰囲気に身を任せ、「これくらいなら…」という積み重ねが「今」をつくってしまったのである。

ただ、現実の社会の中で生きていくにあたって、欲望を完全に消し去ることは不可能だし、また欲望がなさ過ぎると現実社会で生活していく上で様々な不都合も生じてくるだろう。その意味では、現実を生きていくためには欲望を排除することは不可能である。けれども、自分自身の欲望をある程度見つめ直すことが必要になってくるのではないだろうか。特に、コマーシャルや周囲の空気に煽られ、自分の欲望が暴走していないかという点を気にかける必要があるように思う。

もちろん、お金があるにこしたことはないし、美味しいものを食べたり、贅沢をしたりもしたい…という気持ちは誰もが持つだろう。けれども、それを貫くことが、誰かもっと弱い立場の辛さや苦しみにつながっていることはないだろうか。そういうことも少しは考えてみたい。そして、可能であれば、「自分のため」がもっと弱い立場の誰かのためにもつながるような行動にも手を伸ばしたいと思う。

少し考えただけでは、「シンドイ」と感じるかもしれない。けれども「自分のため」だけで動くとだんだん心に余裕を失っていくし、他者との関係も薄れたり切れていったりするので、精神的にギスギスしていっそう余裕がなくなってしまう。他者のことも考えるそのことによって、逆に心に余裕も生まれてくるのである。それに他者のために動くことで他者との関係が生まれたり深まったりもする。それが精神的な余裕につながったり、困ったときのサポートにつながったりもするのである。

結局それは、自分自身の欲望との折り合いをつけるということである。人間である以上、欲望を完全になくすことは無理だろうが、ある程度は欲望との折り合いをつけることで心のゆとりを取り戻したいものだ。

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2009年5月16日 (土)

私はここにいる…岡村孝子 3rd / リベルテ より

岡村孝子がソロになって3枚目のアルバムとなる「リベルテ」。このアルバムの中の歌では「電車」や「夢をあきらめないで」の方が有名だが、「私はここにいる」という歌も個人的には好きである。大好きな恋人の愛を失って、失意のどん底にあっても最後のギリギリのところで《私はここにいる》と自分の存在を肯定する。そこに、生きていく力強さを感じるからである。岡村孝子の澄んだ声が、切なく淋しい想いをしんみりと語るように歌い、そしてそれでも死ぬこともなく、今、ここに存在していることを歌い上げる。古いポップスの曲でカーペンターズがアルバム「Now & Then」でカバーした「The End of the World」と対比すれば、恋人が「さよなら」を告げた時に「この世は終わった」と歌う「The End of the World」の歌詞よりよりもずっと、女性の自意識を感じられる。

 

生きていたくない 悲しい時にも あきれてしまうほど 笑って見せてる私を 許せないほど 憎んで 会えない時にも過ごせるようにと 始めた夢なのに 二度とは会わずに こうして 強くなってゆくのネ 笑って手を振る私を無理にとめてほしかった

あなたがいなけりゃ 愛はもう 歌えない いつでも 私の心に あなたがいる

楽しく話せる仲間もできたし 夢に近づいても 切ない位に孤独よ 自分を見つけられずに 全てを敵にしてでも あなたがいれば良かった

あなたがいなけりゃ 愛はもう さがせない いまでも 私の心に あなたがいる

あなたが いたって 愛はもう 歌わない あなたが いなくても 私は ここにいるわ

 

辛い時にどうするか。その辛さを心から切り離そうとする精神的な「防衛」がある。けれども、それが不自然に習慣化してしまった時、精神的な悪影響が生じてしまうことがある。感情的に暴走してしまった(キレた)その瞬間、まったく別人のようになってしまい、自分の意識で自分の行動や思いをコントロールできなくなってしまうのである。昨今の事件の中には、そうした精神的な「乖離(かいり)」という防衛が痛ましい事件へと発展してしまったものを見かけることが少なくない。だが、周りにそうした辛さを理解してくれる人が1人でもいれば、不自然に習慣化することもなく、事件も起こらなかったのかも知れない。

自分の周りにいる大切な人たちの辛さを理解してあげられれば、お互いに愛をはぐくむことが出来るだろう。だが、関係が壊れてしまっても、自分は自分として存在する。そのように、自分を肯定できる強さを持ちたいと思う。

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2009年5月11日 (月)

小沢氏は辞めた、では二階氏や他の自民議員は?

小沢氏が民主党代表を辞任した。西松建設の「違法献金」問題……という報道が毎日のように流されたが、西松建設の「違法献金」は二階氏や森元総理などにも流れていた。逮捕された秘書の弁護士によれば、検察からの偽情報がマスコミに流れた疑いも残るが、二階氏や森氏などの言い訳と小沢氏の主張は同じである。だが、マスコミは何故かその点への追求はほとんど行われていない。また、小沢氏の秘書に対する「違法献金」に対する情報も、その後ほとんど聞こえてこない。

このような流れから見ると、本当に「違法」献金だったのだろうか、という疑いも生じてくる。なぜなら、現行の政治資金規正法はある意味ではザル法であり、法律の条文からすれば、誰が寄付したかは問題であっても、その資金がどのような流れで来ているのかまでは規制する根拠とはなりえないからである。その意味では、法律上は小沢氏は十分に説明責任を果たしていたし、小沢氏が説明責任を果たしていないとするのであれば、西松建設ルートの政治資金を受け取ったすべての自民党議員にも同様に説明責任を果たす義務がある筈である。

当然、マスコミはこの点についてしっかり取材をし、追求するのが公正な態度であるし、検察も二階氏や森元総理のルートも徹底的に追及し、マスコミにリークするのが不偏不党の公正な立場であると言えるだろう。その意味で、ここまでやった以上、検察もマスコミも西松建設の献金の流れを徹底的に追及し、小沢氏と共に自民党各議員への追求と説明の要求をより声高に叫ぶべきであろう。それが出来てこそ、金権政治への歯止めがかかるし、検察もマスコミもその公平性を国民と世界の国々にアピールすることができるだろうし、信頼回復にもつながっていくだろう。

けれども、小沢氏の民主党党首辞任によって、この西松建設の献金問題への追求が尻すぼみに終わるのであれば、検察がやったのは国策捜査である……という小沢氏の主張の正しさを証明することになるだろうし、NHKをはじめとするマスコミの報道が、実は偏向していて、自公連立政権の「大本営発表」垂れ流しであることを自らの行動によって示してしまうことになる。小沢氏の辞任は、検察とマスコミにその公平性の問題をつきつけている。私たちは、検察とマスコミのこれからの動きを注視していかなければならない。

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2009年5月10日 (日)

零戦の欠点と技術者の苦悩

零式艦上戦闘機…ゼロ戦という名で知られている日本海軍の誇る戦闘機は、実は、開発当初から欠点を抱えていた。それは、欧米に比べて重さの割りに馬力の小さいエンジンを機体設計でカバーする上で必然的に眼をつぶらざるを得なかった部分でもあった。

例えば、零戦の構造図を見てみると、その骨組にけっこうたくさんの穴が開いているのが分かる。強度という点から考えれば、これは明らかにマイナスである。けれども、馬力が十分でないエンジンで高速と運動性能を満足させようとした時、開発した技師たちは機体を1gでも軽くするという結論に達した。その結果がこの穴の存在だったのである。当然、燃料タンクや操縦席の防弾についても、スピードと運動性…つまり格闘(ドッグ・ファイト)性能の向上のために軽視され、付けられなかった。これは、発注した日本海軍の優先順位の結果削られたものだった。

そのため、激しい急降下には耐えられず空中分解を起こすことや、燃料タンクや操縦席への狙い撃ちが弱点になることについては、技術者たちは早い段階から認識していた。だが、その弱点もスピードや運動性に圧倒的に優位を誇っていた段階では目立つことなく、大きな戦果をあげることが出来た。

けれども、太平洋戦線での戦闘が激しさを増し、アメリカ軍がゼロ戦を手に入れて研究し、新たな戦法の導入と新鋭機の投入の本格化により、ゼロ戦の優位は崩れ、その欠点が原因となって苦戦を強いられることになった。当然、そうした状況の中で、現場のパイロットからも防弾の必要性を説く声が多く寄せられる。前線でP38ライトニングに撃墜されて戦死した山本五十六は、現場のパイロットとの会議の中でその必要性を痛感していたが、戦死によってその声は海軍本部にはきちんと伝わらなかった。

その後もゼロ戦は改良を重ねて前線で戦い続けたが、技術陣や現場のパイロットたちの防弾の必要性を説く声は海軍上層部によって軽視され続けた。ゼロ戦は十分な防弾装備を持たぬまま、特攻機として次々と太平洋に散っていったのである。ゼロ戦の後継機である烈風は、防弾に対する開発陣の思いから最初から防弾装備があったが、戦場に姿を見せることなく敗戦の日を迎える。設計上のバランスからすればゼロ戦に防弾装備をつける改良は難しかったかも知れないが、現場の声を聞いて少しでも早くそれに着手していれば、ベテランのパイロットはもっと生き残っていただろうし、特攻作戦とは別の作戦も考えられたのではないかと思われる。

守りを軽視し、現場の声を聞こうとせずに失敗を重ねた海軍上層部。歴史に学べば、同じ失敗を繰り返さないだろうが、日本には現場の声を聞かない「伝統」が今も少なからず残っている。例えば、全国一斉学力テスト。例えば、高齢者医療。社会のさまざまな場において、「現場の声」が無視され、決定がなされていく。ゼロ戦の悲劇は、また繰り返されそうである。

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2009年5月 9日 (土)

レリューズ…もう1人のリューズ(コミック&TV版999より)

「銀河鉄道999」の原作コミックおよびTVシリーズにレリューズという機械化人の歌手が登場する。惑星ヘビーメルダーの時間城で暮らしているところや時間を自由に操れる能力などは、映画版999のリューズと同じである。ただ、原作コミックとTVシリーズでは先に《リューズ》が登場していることもあり、レリューズはリューズの姉ということになっている。そして、映画版999では、時間城の主は鉄郎の母を殺した機械伯爵であったが、原作コミックとTVシリーズでは《キャプテン・ハーロック》を名乗る機械化人が時間城の主であると同時にレリューズの恋人である。

原作コミックにおいて、レリューズは酒場で「やさしくしないで」を歌っている。これは、映画版999でリューズが歌っていた歌である。ただ、TV版での歌は「想い出なみだ色」である。歌は違っているが、過去を思い出し懐かしくなるような歌である。リューズもレリューズも恋人の言うがままに自らの身体を改造し、思いがけず時間を操る能力を手に入れてしまった。だが、鉄郎の言葉や行動によって若い頃の気持ちを思い出して心を動かされ、信じていた「恋人」が、実は自分を愛してはおらず、道具として扱っていたことに気付いてしまう。だから、土壇場で「恋人」の【命令】を聞かずに裏切ってしまうのである。

けれども、その「恋人」を捨てて、新たな自分の人生を生き直す強さは持ちえず、愛した「恋人」と共に滅んでいく道を選択するのである。しっかりとした《自分》を作れなかったからこそ、「恋人」の言うがままに生きてきた。けれども、その冷たさを見ようとしなかったし、彼が自分を愛してくれている訳ではないという現実を認めようとしなかった。だが、意識はしていなくても心のどこかでは感じていたからこそ「恋人」を裏切ったのだ。それは、レリューズ(リューズ)にとっては自立への第1歩であった。けれども、愛し続けた「想い」から逃れなかったために、2歩目へと進めなかったのであろう。あるいは、「恋人」の言うがままに犯してしまった【罪】を自らの命で償おうという意味もあったのかも知れない。

レリューズのように自立しきれない人々は少なくない。けれども、生き続けていれば、やがて2歩目を歩む日が来るかもしれない。それを信じて生き続けてほしいと思う。

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2009年5月 5日 (火)

連休唯一の遠出は

今年のGWはほとんど市内から出なかったが、今日は友人が四日市でライブをするというので仲間を誘って四日市まで出かけた。あいにく、帰省ラッシュとぶつかり、志摩市内や伊勢市内、津市内、鈴鹿市内などでノロノロ運転となった。1時間ほど余裕を持って出かけたのだが、結局、開始に10分ほど遅れて会場に着いた。

会場はしっとりとした喫茶店で、遠くなければ毎週でも通いたいくらいであった。ライブはサイモン&ガーファンクルの歌から始まり、ユーミン、ふきのとうなどの歌やオリジナルで1時間あまり。少しギターのミスもあったが、友の歌は相変わらずで落ち着いた時間を過ごせた。渋滞の中を無理して出かけたが、その甲斐のある1時間だった。

夜の仕事があったので、その後すぐに帰ってきたが、雨と渋滞の中を出かけて良かった。ただ、できることならば、もう少し近いところでやってもらえるとありがたいのだが……。

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2009年5月 3日 (日)

勤労の権利、そして生存権

1947年5月3日、前年の11月3日に公布された日本国憲法が施行された。今日は、この日本国憲法が施行された憲法記念日である。憲法は、国家権力が国民に遵守を誓った約束であり、従って政府は全力を上げてその実現をはかる責務がある。ところが、いくつかの権利が危うくなっている。特に、昨年秋からの世界レベルの不況で、国民の勤労の権利と生存権が危機的な状況に陥っていることが明らかになった。例えば、横行する派遣切りや内定取り消し、そしてそれに伴って住むところを失った人もたくさん出ている。

この現実は、実は働く権利と生存権【健康で文化的な最低限度の生活を送る権利】の危機でもある。小泉改革以降、自公政権の大企業・高額所得者優遇/低所得者の生活破壊政策が「国際競争」の名の下で無思慮に進められてきたが、それは一般国民の家計収入の減少につながり、内需を弱体化させてしまった。そこに今回の大不況である。経済の建て直しは急務であることに依存はない。だが、優先すべきは多くの低所得者層の就労と生活の安定である。そしてそれは、内需の安定や所得税などの税収の増加、失業保険等の支出の減少につながっていく。

ところが、国民の選択を受けずに政権のたらいまわしを続ける反民主主義・麻生/自公政権は相変わらず高額所得者優先の補正予算を組み、さらに消費税の税率を上げて一般国民の家計にさらなる打撃を与えようと画策している。やるべきことの選択が根本的に間違っているのは、民主主義や日本国憲法の精神を根本的に理解しようとせず、姑息な形で踏みにじろうとしているからだろう。

そのような現実にあって、改めて、日本国憲法の重要性が輝きを増す。その1つひとつをかみしめ、守っていくための努力を重ねていきたいものである。

25条/すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

27条/すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。

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2009年5月 2日 (土)

モローの一角獣

「一角獣」The Unicornsはモローの1885年の作品でモロー美術館にある。3頭のユニコーンが4人の娘たちとともにくつろぐ。右手に横たわる娘は服を身に着けておらず、右手でユニコーンの首に手をかけ、ユニコーンの方も娘の顔を見つめている。左手に立つ娘は細密な刺繍の着いたドレスを身に着けて両脇にユニコーンを寄り添わせている。その少し後方に2人の娘。1人は立ち、1人は座っている。背後にある大木と湖が静けさを漂わせている。娘たちのドレスやアクセサリー、帽子の模様は細密で、さすがはモロー……とうならせる手の込みようである。

伝説と文学的感性を刺激するこの絵は、他のモローの絵画と同じように心を惹きつける。誰もが大人への時間を進んでいく。そしてそれはやがて死へと至る。その意味では、娘たちの静かな時間は幻に過ぎない。けれども、その一瞬が永遠とも感じられる濃密なものであれば、それを体験してみたいとも思う。萩尾望都が「ポーの一族」で少年エドガーの時間を止めてしまったように、モローは一瞬を少女たちとユニコーンに託して絵の中に封じ込めようとしたのだろうか。

考えてみれば、女として花開く前の少女たちの時間は、危うく儚い。リストカットや摂食障害などは深層心理的には、女として成熟することへの抵抗という形で見ることができなくもない。だが、過酷な現実の時間は、少女たちを女へと変化させていく。たとえ本人がそれを望まなくても……。そうした思いを受け止め、支えてくれる存在が周りにあれば、あるいは受け入れられる強さを持つことが出来るような成長がなされれば進み行く時間を受け入れられるのだろう。

たった1枚の絵を見ているだけで、さまざまな思いが心に浮かび、豊かに広がっていく。それが、モローの絵の持つ魅力であり、魔力なのかもしれない。

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2009年5月 1日 (金)

めーてるの気持ち…背景にあるしんどさ

『めーてるの気持ち』は、マンガ家・奥浩哉が2006~07年にヤング・ジャンプに連載したものをコミック化したもので、全3巻が発売されている。

メーテル…といえば『銀河鉄道999』のヒロインだが、当然、直接これに関係ある訳ではない。主な登場人物は、30歳でひきこもりを続ける慎太郎と、その父親と結婚し、すぐに未亡人になったはるか。他にも慎太郎の父やはるかの母など数人の登場人物場が出てくるが、「めーてる」という名前は出てこない。はるかは、20代前半で慎太郎よりは年下である。このようなマンガに、なぜ「めーてる」が出てくるのか。999のメーテルは、星野鉄郎の母代わりであると同時に恋人でもあった。だが、鉄郎の未来のために、すべてが終わるとひっそりと鉄郎の下を去っていく。そうした点ははるかの立ち位置と重なる。その辺りに「めーてる」が出てくる意味があるのだろう。

作品そのものは、一応、ラブ・コメである。そして最後に慎太郎はひきこもりを脱して家族を持ち、ラーメン屋を経営するまでになる。けれども、そこに至るまでのはるかの努力や迷い、そして慎太郎の、家の外や他者に対する恐怖感などは恐ろしくリアルである。その意味においては、ひきこもる人の気持ちを、マンガという手段によって分かりやすく表現してある作品といえる。

例えば、はるかが風邪で寝込んだとき、慎太郎ははるかのために薬を買いに行き、買い物をして、おかゆを作る。けれども、1歩外に出るだけでも強いプレッシャーがかかり、気分が悪くなる。薬局で薬を買い、レジでお金を払う時も、心理的にはかなりシンドイ思いをしてやっとのことで買ってくる。しかし、はるかが回復するとまた外には出られなくなる。

実際のひきこもりに関わる相談の際に「イベントではなく、アクシデントがきっかけになる」という話をすることがある。周囲が意図的に何かをさせようとしても、本人が心情的に十分に納得できないとうまくいかない場合は少なくない。けれども、周りが意図していない出来事や事件がきっかけになって本人が動くことは意外にある。その点を考えれば、この風邪のエピソードは、けっこうリアルである。

他にも、慎太郎の30歳という年齢設定は、現在、ひきこもりの平均年齢は30歳を超えていると推測されていることから、それほど違和感はない。従って、「時間がない」という周囲の理解は重要だし、自立と関わって異性とのコミュニケーションの問題や性の問題、就労の問題などは大きな課題となる。そして、「母親」が「子どもがすべて」の人生ではなく、母親自身の人生を生きることも、「自立」のための「環境」として大切なポイントである。

はるかは、慎太郎の想いを受け入れることを決断し、「母親」ではなく、「恋人」として慎太郎を外に連れ出し、キスをする。そして、セックスも……。けれども、次の日、はるかは慎太郎が寝ている間に家を出て行く。1つは、慎太郎がズルズルとはるかに依存して自立できなくなってしまうことを避けるため、そしてもう1つは多分、自分の人生を生きるために……。

はるかが去ったことに気づいた慎太郎は、最初は怒り、悲しみ、自暴自棄になってはるかの残してくれたお金を無思慮に使ってしまう。けれども、はるかがどこかで見守っていることを信じて、アルバイトを始めようとする。仕事が出来なくて罵倒され、何度もクビになり、それでも仕事を続けた結果、慎太郎はラーメン屋の主人となり、家族を持つまでになる。

実際は、就労から自立までの過程が大変で困難も多いのだが、この作品は、あくまでもラブ・コメなので一応はハッピー・エンドとなっている。が、実際のひきこもりの本人や家族の状況は、もっとしんどい。その辺りも含めて、気になる部分もあるが、上手に読めば、いろいろなことを考えさせてくれるマンガである。

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