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2009年9月30日 (水)

睡眠不足ぎみ!?

ここ数日、睡眠不足ぎみの夜が続いている。しかも、やるべきことをしていてついつい時間が経ってしまい、結果として睡眠時間が少なくなってしまった…というパターンではなく、やるべきことはあるのだが、エンジンがかからないためについついサボってしまって、今日のところは寝て…と布団を敷いたところで、手元にあった本をつい開いてしまい、少し読んでいたらいつの間にか1時間、2時間…と経ってしまって睡眠時間が少なくなってしまった…というパターンである。

たまに、ということであれば、「まあ、そういうこともあるかな」で済むのだが、週の初めからずっと続いてくる…となると、ちょっと心の疲れを意識せざるを得ない。「やるべきこと」に振り回されるのは良くないが、「やるべきこと」をある程度受け入れながら上手に消化していく…というのは大人として当然のことである。ましてや、今の時点でいくつか抱えている「やるべきこと」は、自分としても苦痛ではなく、けっこう興味を持って取り組んでいることなのだから。

あるいは、体力的な疲れが、精神面にも影響を及ぼしているのだろうか。自分の年齢をきちんと受け入れるのも大事なことだし、年齢的にはもうとても「若い」とは言えない以上、体力の衰えは当然である。とりあえず、早く身体を休めることにする方が良いかもしれない。

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2009年9月26日 (土)

美辞麗句…岡村孝子《私の中の微風》より

今日は、片道1時間ほどかけて隣の市まで出かけていたので、途中の車の中で岡村孝子の歌をかけていた。岡村孝子の歌は割とよく聞く方だが、ソロになってからのアルバム《夢の樹》や《リベルテ》、《オー・ド・シェル~天の水》は特に好きな歌が多く入っている。今回取り上げる「美辞麗句」は2ndアルバムの《私の中の微風》に入っている歌である。このアルバムには来生えつこ・たかお姉弟が詞と曲を書きシングルカットもされた「はぐれそうな天使」も入っているが、個人的にはこの「美辞麗句」や「Baby, Baby」、「ひとりごと」などの歌の方が好きである。それらの詞と曲には、20代の頃の若き岡村孝子の瑞々しい感性が感じられる。

 

幸せについてコメントすれば あたりさわりのない美辞麗句 何かがこわい誰かがこわい 自分をせめるすべてのもの

こんなに私は弱虫だっけ 思わず苦笑い 退屈なだけの夜を飛び越え ここを見つけたのに 本当の自分をどこかに忘れ 今日もさまよう

 

周囲の視線がどうしても気になってしまう。歳を重ねることでその怖さや不安は若い頃ほどには感じなくなったが、20代の頃には周囲を過剰に意識し、不安や恐れを感じていた。そして、「本当の自分」を探して悩み、迷い、苦しんだものである。けれども、そうした日々を越えてくる過程で、「自分」というものは、周囲の他者と関わりながら、時には影響を受け、時には影響を与えながら少しずつつくりあげていくものだったのだな、ということを今になって思う。

けれども、若い頃はそんなことなど思いつきもしなかったし、幻想の中の「本当の自分」を信じて苦闘したものだった。それゆえに、同じように苦闘していた岡村孝子の歌に惹かれたのだろう。この歌を聞いていて、そんな若い頃のことを思い出してしまった。若さには若さの良さと苦悩があり、歳を重ねればそれに応じた別の良さと苦しみがある。それを受け入れながら、まじめに生きることが「本当の自分」へと至る道なのかも知れない。

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2009年9月23日 (水)

友と飲むグレンフィディック&スプリングバンク

昨夜、高校時代の友人と、いつものスナックに出かけた。久しぶりに飲みたい、ということで、彼はそのまま我が家に泊まる予定で、午後9時過ぎに家を出た。彼は、それほどお酒が強くはないのだが、それでもたまには飲みたい、とのことで久しぶりに2人で出かけた次第である。

酒はもちろん、ボトルキープをしてあるグレンフィディック。こちらは、いつものようにロックで、彼は水割りで杯を重ねつつ、カラオケを楽しんだ。大体いつも、1人で飲みに出かけることの方が多いが、仲の良い友人と出かけるのも好きである。たまたま知り合いの画家のS先生も飲みに来ていて、とても楽しい数時間となった。

楽しいと、うまい酒が飲みたくなる。こっそり、秘蔵のスプリングバンクも出してもらう。こちらはもちろん、ストレート。まず、横のS先生とショットグラスで乾杯。S先生は身体のために普段は焼酎だが、シングルモルトの味も分かっているので、1杯だけお誘いしたのである。友人も一口だけ味見をしたが、スプリングバンクは少しアルコール度数が高いので、後で水割りにしてもらった。

ところが、水割りにするとあまり美味しくない。スプリングバンクは、やはりストレートが断然美味しいことをあらためて実感した。アルコールに強くはないけれども、友人も同意見だった。結局、グレンフィディックのロックを3杯、スプリングバンクのショットを2杯、といつもよりも多めに飲んでしまった。特に悪酔いすることもなく、楽しい時間を過ごすことができたが、今日は一日、何となく身体がだるい。さすがに、歳を感じてしまったが、たまには、こんな休みも良いものだとしみじみ感じた夜だった。

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2009年9月14日 (月)

鳥羽みなとまち文学館

所用があって鳥羽市に行ったついでに、鳥羽みなとまち文学館に足を延ばした。館長の岩田氏とは古くからの知り合いで、昨年末に行った時はたまたま年末年始の休業日にかかってしまっていたために入口だけ見て帰ってきたので、遅まきながら、今回が初入館となった。ここは、鳥羽市の生んだ民俗学者・文学者の岩田準一と、彼と交流のあった江戸川乱歩、竹久夢二にまつわるものが展示されている。入場は無料で、火・水が休館日となっている。

岩田準一の名前は中学校の頃から知っていた。彼の鳥羽・志摩の民俗に関する著作を何冊か読んでいたからである。ただ、その岩田準一が、実は江戸川乱歩と交流があったということについては、岩田館長と出会うまでは知らなかった。小中学校の時代には、怪人二十面相/少年探偵団のシリーズを夢中になって読んでいたので、それを知った時にはけっこう驚いたことを記憶している。

さて、鳥羽みなとまち文学館では、岩田準一の乱歩をはじめとする文学者たちとのやりとりの書簡や絵画、当時岩田準一が使っていた日用品などが展示されている。建物の中の雰囲気は、大正から昭和初期にかけての匂いに満ち、その雰囲気を味わいながらゆったりと過ごすにはもってこいの場所となっている。鳥羽駅から徒歩で10分ほど。忙しい日常から逃れるのにはもってこいのちょっとステキなスポットである。

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2009年9月10日 (木)

「銀河鉄道999」雑考…メーテルと機械化人

昨日は2009年9月9日、ということで999となり、銀河鉄道999に関わるイベントが行われたところもあったらしい。そんな話を聞いたために、「銀河鉄道999」のことを思い出した。昭和のTVシリーズにしろ、2つの映画にしろ、999では、機械化人が生身の人間の敵として登場する。機械化人とは、永遠の命を持つ存在として描かれ、限りある命を生きる人間と対比される。星野鉄郎の旅は、原作マンガおよびそのストリーに沿って忠実に創られたTVシリーズにしても、最初の映画版にしても、永遠の命を求めてメーテルと共に地球から旅立つという形でスタートする。けれども、その旅を通して、鉄郎は限りある命の輝きとその大切さを実感し、生身の身体にこだわって機械化人と戦う人生を選択する。

ところが、機械化人の「永遠の命」という設定を考え直してみると、「変わらない現実」を無理やりに維持しようと尽力しているようにも読めなくもない。そして、機械化人たちは生身の人間たちを権力で押さえつけていた。その意味では、変化を受け入れようとせずに自分たちだけが利益を得るシステムに固執しようとしている守旧派とも取れる。言わば、変わり続ける現実の流れを無理に押し止めようとしている老いた権力者たちである。

それに対して生身の人間というのは、常に変化の中に身を置く存在であり、その中で自分自身をも好むと好まざるとに関わらず変えていく若者たちのように読み取れる。子ども、あるいは青年前期としての鉄郎が、限りある命にこだわるのは、その意味において当然であろう。

では、メーテルはどうだろうか。原作マンガやTV版「メーテルの旅」において、変わらぬ姿で時間の流れを旅し続ける姿が描かれているメーテルもまた、永遠の命を持つ存在である。ただ、鉄郎たちの戦う機械化人たちと違い、メーテルは自らの権力を維持するために変わろうとしないのではなく、自らの運命を背負うために変わることが出来ないのである。そしてメーテルは変われない辛さを受け止めながら永遠の時を生き続ける。メーテルの美しさは、その哀しさゆえなのかも知れない。

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2009年9月 8日 (火)

財界の責任は?

国民生活を破壊して、リーマンショック以降も適切な手を打てずに居直り続けた麻生/自公政権は8月末の総選挙で大敗し、今月中にも民主党を中心とした新政権が発足する。自公政権の崩壊・退場は、国民の生活破壊や生存権を侵害するほどの格差を間違った政策によって作り出し、その反省もないまま居直り続けた結果責任を選挙結果によって取らされたということになろう。

だが、小泉政権から麻生政権までの自公政権は、常に国民や労働者の意見に耳を貸さず、ブッシュ政権と財界の意見に沿った政策を続け、結果として世界レベルの経済危機に対応できず、多くの国民の生活を破壊してしまった。それは正しく、自公政権の失敗なのだが、自公政権の政策が財界の意向に沿ったものであったという事実を考えれば、当然、財界の責任についても、検証・追及する必要があるのではないだろうか。

実際、年越し派遣村の報道によって明らかになった多くの派遣労働者たちの、生存権すら危うくなっている現実は、派遣労働に対する規制緩和(それに対するセーフティー・ネットの未整備)が原因である。そして、その規制緩和は、目先の人件費の削減による短期的な利益の獲得を目的とする財界の意思が背後にあった。財界/大企業は、先に大企業が業績を回復することで労働者や下請けにもその効果が及ぶと説いたが、現実は、国際競争を口実にして労働者や中小企業に恩恵が及ぶことはなかった。それが、実感なき景気回復の正体である。そのため、内需は回復せず、企業は外需頼みの体質になってしまった。そして、未曾有の大不況に対してさらに労働者や国民に負担を押し付けようとしたのである。

結局、セーフティーネットを整備せずに雇用の流動化を推し進めた政策は失敗だったわけだが、それを推し進めた政権は責任を取っても、それを推し進めさせた財界/大企業は、その責任をうやむやにしたまま相変わらず我がまま放題の発言を続けている。一企業の経営というレベルで考えても、労働者の賃金を抑えて内需を先細らせ、外需の依存度の高い企業体質にしてしまった経営責任は当然、問われなければならない。そしてそうした大企業の意見を集約して自公政権にアプローチを行い、国政を誤らせてしまった責任も当然追及されるべきだろう。

だが、自公政権に対する責任追及の報道はあっても、財界の責任に対する報道はほとんどなされていない。おかしな話である。

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2009年9月 3日 (木)

鳩山論文とアメリカの反応

鳩山論文がアメリカのマスコミに出て、日米関係について懸念する発言が色々と出ているらしい。まあ、鳩山氏自身の説明不足…というところは大きいようだが、これも小泉以降の自公政権が取った、日本国民の思いや利益よりもブッシュ政権の対日要求に無思慮無批判に従い続けた隷属外交の負の遺産ではないか、と思えなくもない。

ブッシュ政権の独善外交や金融資本主義がどれだけ世界をズタズタにしたか、を考えれば、日本国益や日本国民の利益をアメリカ企業や政府の要求よりも重視するのは国家指導者としては当然だし、ブッシュ政権のポチに終始した小泉・安倍・福田・麻生政権は、愛国心を持つものからすれば、対米売国外交以外の何者でもなかった以上、見直しは当然である。

現実的に見て、日本にとって対米関係の重要度は現在も未来も決して小さいものではないだろうが、日本にとっての利益、日本国民にとっての利益もきちんと主張した上でお互いの着地点を探すのが本来の外交であろう。その意味においては、アメリカの要求を無批判に受け入れ続けた自公政権のやり方は外交というにはあまりにも稚拙なものであった。だから、これをきっかけにして、アメリカとの間できちんと議論を重ね、本当の意味での外交を展開するきっかけにしていけるのであれば、今回のことも良い機会といえるかもしれない。

問題は、そうした「外交」ができるか、ということである。その点に注目しながら、今後の鳩山氏や民主党の対応を見ていきたいと思っている。

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2009年9月 1日 (火)

君子豹変す…変われなければ君子とは言えない

「君子豹変す」という諺がある。誤用を見かけることが時々あるが、本来は「間違いを改めるに憚ることなかれ」というものと同じような意味であり、自分の言動が間違いだったと分かれば、今までの言動に拘らず、今までとは正反対のことであってもそれをやる、というような意味である。

今回の総選挙における自民党の目を覆うほどの歴史的惨敗も、「豹変」できなかったことが大きいのだろう。前回の郵政選挙の後、圧倒的な多数を得た自公政権は三分の二を占める衆議院での数の暴力によって、議論の中で問題点が見えてきても修正せずに再可決で押し切った。結果として、後で多くの問題点が出てきた例が少なくなかったが、その責任を取ることなく、再可決を多用して政治を歪め、国民生活を破壊してしまった。その怒りが今回の結果につながったのだろう。

国民の生活、というためにはもちろんだが、与党の党利党略という意味でも、自分たちの集団を守るためには、「豹変」すべきだった。けれども、君子ではなかった自公政権のリーダーたちは、「間違いを認める」ことや「変える」ことを過度におそれ、「豹変」できなかった。自らの手で間違いを改めることができず、責任逃れに終始すれば、よほど温厚な人であっても怒り出すのは当然だろう。

さて、選挙の結果、今度は民主党が未曾有の大勝利となり、単独でも300を越えるほどの議席を得た。だが、この多数の議席をどう使うか、が実は試されている。野党となってしまった自公政権の失敗に学ばず、権力のわなに落ちてしまえば民主党も次の選挙では今回の自公政権と同じ目に合うだろう。だが、そのような形で政治が混乱すれば、割を食うのは1人ひとりの国民である。自公政権の失敗を「他山の石」とし、国会の場できちんと議論し、改めるべきところは改めるようになってくれると良いのだが……

それが、「変心」になるのか、君子の「豹変」になるかは、神のみぞ知る。ただ、国民の生活のためには、「豹変」できる政治になってほしい…と祈るのみである。

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