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2010年1月24日 (日)

冬の夜…温かい家族の風景

明治45年に作られている文部省唱歌の中に「冬の夜」という歌がある。最近の音楽の教科書からは消えているが、曲も良く知っているし、小さい頃に歌った覚えもあるので、多分、小学校辺りで習ったのだろうと思う。

 

 

冬の夜

燈火(ともしび)ちかく衣(きぬ)縫う母は 春の遊びの楽しさ語る。

居並ぶ子どもは指を折りつつ 日数(ひかず)かぞえて喜び勇む。

囲炉裏火(いろりび)はとろとろ 外は吹雪(ふぶき)。

囲炉裏のはたに縄なう父は 過ぎしいくさの手柄(てがら)を語る。

居並ぶ子どもはねむさ忘れて 耳を傾(かたむ)けこぶしを握る。

囲炉裏火(いろりび)はとろとろ 外は吹雪(ふぶき)。

 

 

囲炉裏はもちろん、夜なべ仕事でお母さんが服を縫ったり、お父さんが縄をなったりするような光景は、今ではもう見られないだろうし、小学生ではイメージすらもできない事と思う。そして、子どもの数も「居並ぶ」ほどいる家はめったにないだろうし、テレビやゲームに熱中したり、あるいは宿題に追われたりして、夜な夜な父母や祖父母の話を聞くなどの経験もまずないに違いない。その意味において、小学校の音楽の教科書から消えてしまったのは、致し方ないことなのかもしれない。けれども、この歌の描く情景は素朴な温かさに充ちている。

明治に作られた歌、という意味では時代を感じる言葉もある。「過ぎしいくさの手柄」というのは、明治45年という年代を考えれば日露戦争だろうか。日露戦争には当初から多くの東北からの兵士が出生しており、たくさんの犠牲者を出している。それを生き延びれば、まさしく英雄であったと、子ども心に感じるだろう。戦争に対する評価はともかく、強くて尊敬できる父と優しい母を何の不安もなく無邪気に信じられる子どもたちのまなざしとそれを慈しむ両親の視線。今のように電気炬燵も石油ストーブもエアコン暖房もないが、その心のつながりとそれゆえに感じられる温かさが胸に染みこんでくる歌である。

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2010年1月18日 (月)

迷走民主とカン違い自民

マスコミのネガティブ報道に民主党が浮き足立ち、迷走をはじめているように感じられる。そしてそれが、国民の不審を呼び、支持率の低下に結びついている。マスコミはマニフェストを守らないことをなじるが、現段階では今までの自民党政権の失政の後始末が当初の予想以上に膨大で、変革を軟着陸させるにあたって、スケジュールの変更を余儀なくされている、という感じにも見えなくもない。ならば、当座の見通しを細かく示して、4年間で少しずつ実現していく筋道を示せばいいと思うのだが、「すぐにやる」「やらない」の話になってしまっている。

一方、激しい批判を展開しようとしている自民党だが、その割りに支持率が上がらない。なぜなら、自らの政権与党時代の失政を棚上げにして、批判のための批判に終始しているからである。小沢氏を批判するなら、自民党の側から「政治献金全面禁止」を提案すれば良いではないか。それをしない、ということは西松建設の献金事件などでうやむやになった森元首相をはじめとする多くの灰色政治家についての反省をせずに失敗した今までの政治体制を元に戻そうとしているに過ぎない、ということが透けて見える。これでは、二大政党としての政権交代の担い手として自民党を考えることは出来ない。

これは、国民にとってとてつもなく不幸である。少なくとも、先の衆議院選挙では、国民に「民主党政権」という選択肢があった。けれども、民主党はダメ、自民党も再生不能という体たらくでは、国民に選択肢はなくなってしまう。これは、取材力を低下させ、公正で優れた見識を失って久しいマスコミ報道にも原因の一端はあるが、いずれにしても混乱が続けば日本の国力は低下し、国家の将来に禍根を残す。「困った」を通り越して「お先真っ暗」という状況だが、希望が完全に失われてしまった訳ではない。

例えば、子ども手当て(実行のためにはまだまだ越えなければならないハードルは多いが…)学力テストの抽出方式への転換、高校の授業料無償化、学級定員を減らすための見直し、などの政策を総合的に考えて判断すると、未来の世代に対するサポート強化の方向性はかなりしっかりと見えてくる。そうした点にも目を向けながら、今後の推移を見ていきたいと思う。

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2010年1月17日 (日)

説明責任 !?

小沢幹事長の政治資金がらみで、元秘書や国会議員などが逮捕され、連日「政治責任」という言葉が報道現場に溢れている。白という印象はないが、報道されている内容から考えれば、せいぜい「灰色」であり、自民中心の旧政権によって制定されたザル法の政治資金規正法では、罪刑法定主義では「疑わしきは被告人の利益に」という国際人権上の常識と日本国憲法の精神により有罪とするのは無理ではないか、と思われる。

小沢氏を逮捕できないのはそれだけの証拠が揃わないからだし、任意同行に対しては、人権上、小沢氏は拒否する正当な権利がある。ただ、政治家として同義的にも政治的にも説明する責任があることに対してはその通りである。ただ、説明責任を小沢氏のみに求めるのは明らかに公平性に欠ける。なぜなら、自民党の議員に対しても西松建設事件では多くの名前が出ていたし、トータルの金額では民主党よりも自民党の方が多かった訳で、小沢氏に対する追求の厳しさは、当然、自民党の側にもあってしかるべきである。法的には、1万や10万のレベルではない以上、「金額の過多」で差別するのはおかしい。その【恣意性】に対する検察の説明責任をどのマスコミも追及しないのはどういうことだろうか。

また、土地購入の資金の流れに「闇献金があるのではないか?」というのが検察側のリーク情報らしいが、その根拠・証拠が示されてない以上「思い込み」と判断されても仕方がない。そして、「思い込み」の捜査が多くの冤罪を生んだのは周知の通りである。だから、当然、検察にも説明責任はあるのだろう。加えて、リーク情報、となれば守秘義務の捜査情報を恣意的にもらしているのではないかという疑いも出てくる。ここにも、「説明責任」が生じるであろう。

そして、マスコミ。どうも、検察のリーク情報を元におおっぴらに検察側に立った報道を展開しているようだが、「土地購入の資金に闇献金が使われているのではないか」という検察の主張に対して、贈った側のウラを取るなど、きちんとした根拠があっての報道だろうか。公正を期するなら、最低限、検察側の主張は主張として、リーク行動の中に世論誘導の意図の可能性や冤罪の可能性もきちんと指摘しておくべきだろう。そうした点を考えれば、マスコミの側にも「説明責任」は生じてくる。併せて、取材の技術という点からも「説明責任」を叫ぶだけではとても取材とは言えない。

例えば、「検察側は、土地購入の資金を闇献金ではないかと疑っているようですが、その根拠となる事実をつかんでいると考えられますか?」などと尋ねれば、少なくとも取材する側は検察の主張は主張として、公正な記事を書こうとしていることが聞かれる側にも伝わってくる。となれば、取材に応える過程で情報収集もできるかも知れない、と考え取材に応じるかもしれない。けれども、「説明責任」の連呼では検察側の主張を鵜呑みにしていると判断され、取材に応じる気は起こらないだろう。そんないいかげんな取材をして報道している「説明責任」もありそうである。

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2010年1月10日 (日)

ヤマト復活篇と「さらば宇宙戦艦ヤマト」

先週、「宇宙戦艦ヤマト復活篇」を映画館に見にいった。ブレイクする前の「アルプスの少女ハイジ」の裏番組であった頃からずっと見ていたこともあり、アニメの《ヤマト》ということになるとあまり理性的な経済観念が働かず、ついフラフラと前売り券を買ってしまったためである。

コスモゼロやヤマトの雄姿には心躍ったし、CGを駆使したアニメーション表現はここまでのことが出来るのか、と感心もしたので「金を返せ」と言いたくなる様な作品ではなかったが、ストリー的には「さらば宇宙戦艦ヤマト」とイメージがダブるところが多く、逆に「さらば宇宙戦艦ヤマト」の作品としての出来の良さを再確認することとなった。ヤマトも何本も映画になったが、映画作品としては「さらば宇宙戦艦ヤマト」がヤマト映画では一番良かったなあ、と改めて感じた。

例えば、敵の攻撃を受けながらも、充分に相手をひきつけるまで反撃を待ち、一気に勝負をつけるシーンなどは、宇宙気流の出口で待つミサイル艦ゴーランドの艦隊を土方艦長がギリギリまで引きつけて反撃したシーンとイメージが重なったし、カスケードブラックホールの中で波動砲を発射するシーンは、地球に迫る白色彗星の前面にヤマトがワープし、デスラー総統に教えられた渦の中心に波動砲を発射するシーンとダブってくる。「さらば宇宙戦艦ヤマト」では1つひとつが驚き、かつ手に汗握る迫力の場面だったが、復活篇のよく似たシーンではCGを使って表現力を増した画面の美しさに魅せられることはあっても、「さらば宇宙戦艦ヤマト」ほどの感動はなかった。

すぐに復活する第三艦橋やどれほど激しい攻撃を受けても決して致命傷とはならないところなど、《リアル》の弱さを指摘され批判されることも少なくないヤマトだが、ヤマトそのものが英雄であり、たいてい女神的な存在が登場(スターシャ、テレサ、サーシャ、ルダ・シャルバート、クイーン・オブ・アクエリアス、女王イリヤなど)する、という観点で見れば、SFというよりもファンタジーと考えた方が良さそうなので、個人的にはそれ程気にならない。

ただ、それゆえに復活篇はリアルを中途半端に追及したために、逆に物語のファンタジー性が弱まり、物語性の面では中途半端なものとなってしまったように思われる。その意味では、「さらば宇宙戦艦ヤマト」の物語性は徹底しており、CGの映像技術がなくても物語性によって驚かされ、心動かされるものとなったし、今だに、時々見たくなる作品となっている。ある意味では、「さらば宇宙戦艦ヤマト」の良さを再認識させてくれたのが、今回の復活篇だったのかも知れない。

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2010年1月 5日 (火)

年明けのウイスキーは

新しい年が明けて、最初に飲んだウイスキーはやはりグレンフィデックだった。そんなに毎日大量に飲むわけではないので、この一週間弱の間に飲んだウイスキーは、グレンフィディックをロックで5杯、そしてバランタインをロックで1杯というところである。年の初めの量としては大人しい方だろうか。

相変わらずグレンフィディック、というのはかわりばえがしないが、やはりグレンフィデックは美味しいシングルモルトだし、いつでも安心して飲めるスコッチである。その意味では、今年最初にグレンフィディックを飲んだことに別に後悔はない。今年も1年よろしく、という思いを込めて、bestの選択だったかも知れない。

次のバランタインは、年末のカウンセリングのエンカウンター合宿の残りものだった。もう少しあるかと思ったが、ぐらすに入れてみたら1杯分しかなかった。最近はブレンデッドを飲む時にはティーチャーズが多いが、もちろん、バランタインも美味しいウイスキーだ。実は、1杯分しかなかったのも、その美味しさの証である。女性の割合が高い合宿でウイスキー党など少ないだろうと思ってカティーサークを持ち込んだら、一晩でほとんど空いてしまい、急遽バランタインを仕入れたが、美味しさが災いして、シッカリ飲まれてしまった。帰りにバランタインという名前をメモしていった方もいたほどである。

それでもまあ、美味しいウイスキーが評価されるのはうれしい。今年も楽しくウイスキーと付き合っていきたいと思う。

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2010年1月 1日 (金)

特に変化もない新しい年

新しい年、2010年が明けた。と言っても、何か大きな変化がある訳ではなく、昨日に続く今日であり、明日へと続いていくだけであり、何かしら新しい感慨などがあるわけではない。せいぜい仕事が休みで通常の日にはないほどDVDやビデオを見たというくらいだろうか。パソコンやワープロを前に原稿を書いていた正月休みもあったことを考えると、ゆったりとした正月休みである。

ただ、まとめなければならない原稿が無い訳ではないし、研究会の案内も作らなければならない。4,5年前なら、確実にそれに取り組んでいたことだろう。けれども、今年は「やらんとあかんけどなあ」と思いつつ、手を付けずに「スピードレーサー」や「ファンタスティック4」などのDVDを見ていた。集中力や気力の低下がこうした1日を過ごしてしまった原因ではないか、と思わないでもない。

けれども、いつまでも若くはいられないし、体力・気力の低下そのものは歳を取ったという現実なのだから、それを素直に受け入れれば良いのではないか、という気持ちもある。まあ、無理をせず、自分の体力や気力と相談しながら、穏やかな1年を過ごしていければ、と思う。

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