2017年4月30日 (日)

理解すること…「星野、目をつぶって。」を読みながら

最近注目しているマンガの一つに「星野、目をつぶって。」(永椎晃平/週刊少年マガジン連載中)がある。 主要登場人物が皆、「いじめ」の傷を隠しているマイノリティーというのも地味だが興味深い設定である。
 
主人公の小早川は、小学校時、憧れ、仲の良かった【加納くん】という男勝りの女の子がいつの間にかいじめのターゲットになってしまった時、最後の最後で彼女に手を差し伸べられず、とうとう転校という形で失ってしまったことに深く傷つき、周りの他者との表面的な「仲良しごっこ」を否定的なまなざしで眺める高校二年生。
 
彼が密かに憧れていた美術部顧問の弓削先生に頼まれ、引き受けることになったのが、同じクラスの人気者、星野海咲のメイクである。星野はクラスでも人気のあるギャル系のかわいい女の子…と思いきや、実は小学校時代にスポーツが得意だった、というよりも上手すぎたために、周りから孤立した過去を持つ。
 
けれども、中学校に入学した際に幼馴染みだった弓削先生にメイクをしてもらって人気者になり、仲の良い友達もできて高校に通っているが、不器用なためメイクが自分でできず、弓削先生そして小早川に頼っている。ただ、自分が孤立していた過去の体験から、いじめや困っている人を見捨てずに考えなしに突っ走ることが多く、その際に正体を知られないようにメイクを落としジャージ姿で行動する。小早川は弓削先生の後を受けて、突っ走る星野のメイクを直してやることになるのである。


また、小早川と同じ美術部に籍を置く松方いおりは、漫画研究会にも所属しているが、いじめのターゲットになっている。ある日、松方をいじめる加納グループに他の生徒が見て見ぬふりをしたり、面白がったりしている中、星野はメイクを落とし、ジャージ姿で割って入り、キックを食らわせる。星野の優勢に生徒たちが遠巻きにはやし立てたり加納に物やジュースを投げたりする中、メイクが落ちそうになって顔を隠す加納をかばって小早川はプレサーの上着をかけながら言い放つ。
 

「何が元はといえばだ。テメエが正しいみたいに言ってんじゃねぇ!! …(中略)…どいつもこいつも横目で人の顔色見ることしかしねぇクソ共だ!! …(中略)…何もできてないだぁ!? ああ そうだよ。みんな仲良く「何もしない」ことを選んでるテメエらよりもましだけどな!! テメエらこそ偉そうにガタガタ言う前に誰か一人でも…黙ってドロップキック出来んのかっつってんだよ!!! 」と。

 
この言葉はバレーが大好きで努力を続け先輩たちよりも上手であるがゆえに孤立する添島や野球部のエースで人気者だがLGBTという秘密を持つ高橋の胸を打ち、彼らの自覚と行動を後押しするとともに小早川の存在の大きさを強く意識するきっかけとなる。一方、この事件で孤立しつつも小早川を好きになった加納愛那果、実は彼女こそ、小学校時代に孤立させられた時に小早川が助けることができなかった【加納くん】だったことを知る。加納は孤立させられ転校した時、いじめられないようにするため、いじめる側に回る、という選択をして現在に至ったのだった。
 
その加納との関係を修正するとともに、何とか孤立する状況から脱出させたいと努力する小早川。その小早川の思いを受けていじめていた松方を理解しようとする加納。それがそう簡単なものではないことは、大人としては知っているが、自分がマイノリティーだからこそ他のマイノリティーの痛みを察し理解しようとあがき続ける小早川の努力はけっこう胸を打つ。
 

どれほど近い関係であっても、お互いを理解することは難しい。また、わかってしまっても辛いこともある。もう、いい大人の年齢だから、その辺りは理解しているつもりだし、他者に対して自分を100%理解してほしいなどという無謀なことを求めるつもりもない。ただ、自分自身は、少しでも他者を理解する努力は続けたいと思っている。

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2016年4月30日 (土)

卑怯な連中

小さい頃から、TVやマンガ、アニメが好きだった。仮面の忍者赤影、サイボーグ009、仮面ライダー、ウルトラマン、レインボーマン、キカイダー、マジンガーZ、ライディーン、キューティーハニー、月光仮面、ジャイアントロボ、バロム1……。少し考えるだけで数多くのタイトルが思い浮かぶ。そして、それらの作品にはたくさんのヒーローたちがいた。その一方で、ヒーローに敵対する悪の組織も存在した。金目教、ブラックゴースト、死ね死ね団、ショーカー、デストロン、ダーク、パンサークロー、サタンの爪、BF団、ギドロン……。様々な悪の組織があったが、そうした連中は様々な卑怯な行い、卑劣なことをして人々を苦しめ、社会を破壊した。嘘や不正、殺人、誘拐、破壊工作、テロ……。嘘をつくなど平気、弱い者いじめは当たり前、影に隠れて悪行の限りをつくし、私利私欲をむさぼる。子ども心にその行為の醜さを嫌悪した。そして、そうした行いをせぬようにと心に誓い、卑怯を嫌悪したものだった。
 
そうした意味において、たくさんのマンガやアニメ、特撮は私たちの道徳の先生ともなった。大人になって学校で生徒たちに教えたときに、「ウルトラセブン」や「帰ってきたウルトラマン」を見せて子どもたちに感想を書かせ、話し合いをさせるようなこともした。教科書を説明するよりも熱心に文章を書き、真剣に発言する子どもたちの姿があった。
 
だが、最近の社会を見ていると、卑怯な連中が幅をきかしている姿が目に余る。公約というものは破るのが当たり前と考えている政府与党。政治献金をなくすための政党助成金をもらいながら政治献金を受け取るなど卑怯千万である。丁寧に説明すると言いながら審議に応じなかったり、重要事項を隠した真っ黒な資料を渡して審議そのものを妨害するような行為もあった。今回の熊本周辺の震災に関わっても、何故か鹿児島県の震度が出てこない。距離的に見れば明らかに情報の隠蔽であろう。また、パナマ文書で「合法的」…というよりも法律の不備をついて税金逃れをする一方で減税を求める財界。これも卑怯で不誠実な行動である。
 
このように見てみると、フィクションであった悪の組織が社会のあちこちで実体化しているかのようである。しかし、現実の社会にはウルトラマンも仮面ライダーもそんざいしない。私たち一人ひとりが卑怯を許さない態度を貫く必要がある。

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2015年1月30日 (金)

ブラックゴーストと安倍政権

マンガ家石ノ森章太郎の代表作「サイボーグ009」で、ゼロゼロナンバーサイボーグの改造や多くの武器の製作に手を染めていた謎の組織、ブラックゴースト。地下帝国ヨミ編のラストで、ブラックゴーストは武器商人たちが自らの欲望の充足のためにブラックゴーストを作ったことがほのめかされる。そして、動く巨大な魔人像の中にある三つの脳がブラックゴーストの首領であり、自らが009に破壊されても、人間の欲望がある限りブラックゴーストは何度でも復活するだろう、と予言する。
金儲け至上主義に走れば、他所の戦争ほどオイシイ商売はない。兵器は、何も生み出さないが、戦闘が続く限り消費され、その購入に資金が必要だからである。実際、最新鋭の兵器は非常に高価である。戦闘機にしろ、イージス艦にしろ、ミサイルにしろ、その購入が新たなモノやサービスを生み出す事にはつながらず、ただ消費するだけである。だが、その購入を少しひかえれば、例えば戦闘機を一機減らしてそのお金を福祉に回すだけで、多くの人の年金や医療費が賄える。そして、年金や医療費に回ったお金は、当然、使われて別の人の所得となり、次々と動いていく。その動きそのものが新たな仕事を生み、所得を生み、所得税を発生させて経済を循環させる。
そうした流れを考えた時、日本の武器輸出禁止という歴史的な決断は英断であったと思う。そして、基本的に日本で作られたものが他者を殺傷する兵器や武器にならないという信用が、アラブ・イスラム世界での平和な日本人の活動を支えていたと言えるだろう。そうした歴史を捻じ曲げようとしているのが、今の安倍政権である。武器輸出の禁を解き、軍事的志向を強固に主張するのは、首相の子供じみたプライドをくすぐるのだろうが、それによって失われる国益は小さくない。政権の軍事化の動きに呼応するように日本人が人質になる事件が増加しているが、それを助ける軍事的決断はもちろんできないし、だからといって強い外交努力で直接介入するわけでもない。政権の鈍い動きを見る限り、口先だけの実力のない政府であることが内外に見透かされている。
日本は、このままブラックゴーストの下っ端への道を進むのだろうか。我々はサイボーグ009のように文字通り体を張ってそれを止めることは困難である。しかし、亡くなった石ノ森先生のように、多くの国民が日本がブラックゴースト化することに反対していると信じたい。

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2014年7月31日 (木)

女性が先に死ぬ物語

ジブリの「風立ちぬ」のDVDを見た。主人公の堀越二郎の婚約者菜穂子は、途中、結核で亡くなる。主人公に恋人がいて、物語が進み、どちらか一方が亡くなってしまう時、亡くなるのは女性であるケースはかなり多い。
それを最初に意識したのは、新井素子の小説『グリーン・レクイエム』の明日香だった。他にも立原あゆみの『本気!』の久美子やアニメ『さらば宇宙戦艦ヤマト』の森雪やマンガ『ピグマリオ』のオリエ、マンガ・アニメ・映画の『デビルマン』の美樹などもそうである。恋人ではないが『ポーの一族』でもメリーベルは兄のエドガーよりも早く消滅してしまう。ざっと部屋を見渡しただけでも、これだけの女性が先に死ぬ物語がある。
逆に、男性が先に死ぬ物語は、というとなかなか思い当たらない。せいぜい『銀河英雄伝説』でラインハルトやヤン・ウェンリーがヒルダやフレデリカよりにも先に死ぬのを思い出した程度である。それくらい、男性が先に死ぬ物語は少ない、ということなのだろうか。
だが、現実はどうか。生物学的には女性の方が生命力は強いようである。平均寿命も、だいたい、女性の方が長い。夫婦でも、女性が年下であることが多いのもあって女性の方が男性よりも早くなくなる場合は少ない。どうも物語の傾向と現実は正反対だと言えそうである。

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2013年11月30日 (土)

星が永遠を照らしてる

珍しく市内から出歩かない土曜日となり、時間に余裕があったので、「宇宙戦艦ヤマト2199」第七巻のDVDを見た。デスラー総統との戦い、イスカンダル、そして地球への帰還までを描いた最終巻だが、その中に第一巻のエンディングに使われていた【星が永遠を照らしてる】をBGMに使っているシーンがあった。総監督の出淵裕をはじめ、製作スタッフのヤマトへの愛と熱意が感じられる2199で、基本的なところは忠実にオリジナルの筋を守っているが、もちろん新しいところもある。エンディングの歌もいくつか作られていたが、中でも結城アイラの【星が永遠を照らしてる】を初めて聞いた時はオリジナルの【真っ赤なスカーフ】のイメージをきちんと踏襲しながらも新しいものを加えた良い歌だと思った。
残念ながら、【星が永久を照らしてる】はDVD第一巻だけで使われたものだったが、歌詞が素晴らしかったこともあり、何度も聞いて、カラオケでも歌えるくらいになった。ただ、音域が結構高く、カウンター・テナーでけっこう高い声が出せても、歌うのはなかなか難しい。それでも、愛する人を見送る思いや、無事を祈る気持ちなどが込められた歌詞は、この作品の最後を飾る歌にふさわしい。その歌が最終巻でも聴けたのはなかなかの演出であったと思う。
人は出会い、思いを通わせる。そして、離れ離れになる時間があっても、相手を信じ、未来を信じて祈る。その思いが美しい。それを若々しい高い声で、結城アイラが歌い上げる。ヤマト2199を観ずにこの歌だけを聴いても、どこかひきつけられるものを持つ歌だと思う。
思いがけず、ゆったりとした時間が過ごせたお蔭でゆっくりとDVDを見ることができた。あらためて【星が永遠を照らしてる】を聴いてみようと思う。
 

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2013年9月30日 (月)

宇宙戦艦ヤマト2199のTV放映終了

世間では「あまちゃん」や「半沢直樹」の終了に話題が集まっているが、個人的には「宇宙戦艦ヤマト2199」の終了の方が淋しい。もちろん、「あまちゃん」や「半沢直樹」も時々は見ていたが、最初の放映時、ほとんどの同級生が裏番組の「アルプスの少女ハイジ」を見ていた中で最初は人気が出なかった「宇宙戦艦ヤマト」を見続けていた者としては、ヤマト2199はテレビ地上波での放映が始まる前から気になる存在だった。ただ、筋金入りのファンとしては、雑な作られ方をしているようであれば大いに批判するつもりであった。

 
だが、そうした心配(?)は杞憂に終わった。リニューアルされたヤマトは非常に丁寧に作られていて、参加したスタッフのヤマトへの愛情と熱意が感じられる作品に仕上がっていた。唯一の不満は松本零士の名前が出てこないこと。コスモゼロのデザインや佐渡先生などは明らかにオリジナルの色合いが強く残っているし、沖田艦長や徳川機関長なども明らかにオリジナルの松本キャラの雰囲気を残している。西崎義展との確執はあったにしろ、ヤマトは松本零士の存在なしには成立しえなかった作品である以上、その点だけは少しさびしかった。その点以外は、かつてのファンとして100点満点に近い評価を与えたい出来で、さすがは押井守る総監督…とうなってしまった。
 

オリジナルの際に、ツッコミを入れたかった様々なポイント、例えばガミラス人の肌の色の違いや、七色星団やガミラス本星での戦いのガミラスの兵力の少なさなどに納得できる背景を作り、森雪以外の魅力的な女性キャラとそれにまつわる面白いエピソードをちりばめつつも、波動砲の試射や冥王星の戦い、ガスエネルギー生命体といったポイントとなるエピソードは確実に踏襲し、緻密な形でリニューアルしている。そして、新しいキャラと絡めたエピソードと元々の重要なエピソードをバランス良く配置し、全体としての面白さを増している。人気作品のリニューアルはある意味ではけっこう難しいのだが、今回は大変良質な作品に仕上がっている。これはやはり、制作するスタッフたちのヤマトという作品への深い愛情がその根底にあったからではないかと思う。

本放送は9月をもって終了したが、オリジナルの最初の放映時とは異なり、今はDVDやブルーレイなどのソフトもあり、レンタルなどもあって割と手軽に見直すことが可能である。その中で、TV放映時には気付かなかった細かな設定やこだわりを、2度、3度と見直す中で発見することもある。これからはそれを楽しみたいと思っている。

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2011年8月 1日 (月)

映画「コクリコ坂から」と宮崎吾朗監督

月末に、久しぶりに映画を見に行った。ジブリのアニメ「コクリコ坂から」である。宮崎駿ではなく息子の吾朗が監督ということで最初は迷っていたのだが、主題歌がかつて森山良子が歌っていた「さよならの夏」だったので、その懐かしさに惹かれて行くことにした。

ジブリのアニメはけっこう見ているのだが、「ゲド戦記」については宮崎吾朗監督の強い思い入れがマイナスに作用したというような印象で、「金を返せ」というほどの駄作ではなかったが、掘り下げが甘く、あれでは原作者のグインは怒るだろう、と思った。ちょうど、映画「ネバー・エンディング・ストリー」を見た「果てしない物語」の作者エンデが怒ったと伝えられる話と共通するような感じである。ただ、「ゲド戦記」で使われた歌を宮崎吾朗が作詞していて、その詞を見る限りでは、彼の創作者としての繊細な部分は感じられた。それをうまく活かせるような作品に仕上がっていれば…という期待もあった。

そして、実際に見て、なかなか満足のいく映画だ、という感想を持った。「ゲド戦記」では詞にしか感じられなかった繊細な部分が作品の随所にちりばめられていた。この仕上がりを見て同じくジブリ・アニメではあるが宮崎駿が監督ではなく夭折した若手が作った映画「耳をすませば」を思い出した。

時は1960年代前半、女子高校生のスカートの丈は膝下で、高校2年生の主人公の海は1人で弟や妹、祖母といった家族ばかりでなく、下宿の住人たちの朝食や夕食の準備をしている。ガスコンロに火を点けてご飯を炊き、おかずを作り、妹たちを起こし…。かつては目にしていた「あたり前の日常風景」を見かけることは今はない。けれども、そうした何気ないシーンが丁寧に作られていることが物語に深みを持たせ、抑え気味の台詞の中に込められた登場人物たちそれぞれの思いが胸を打つ。

出会いと共に過す時間の中で感じるときめきや育まれる想い、そして「出生の秘密」に揺れる恋。懐かしさを感じる街の風景や人々の動き、高校生たちのまっすぐな思いと行動…それらの1つひとつが心の琴線を揺らす。その中で、ああ宮崎吾朗もこれだけの力を持っていたんだ、という思いも抱いた。「ゲド戦記」の歌詞に感じた豊かな感受性は、やはり本物だったのだと。映画館でもう一度…とまでの切実さはないが、もう一度見てみたい映画である。

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2011年7月 7日 (木)

追悼…和田慎二

「スケバン刑事」「ピグマリオ」などのTVドラマ化、アニメ化されたマンガの作者、和田慎二さんが7/5に亡くなられた。「スケバン刑事」や「ピグマリオ」の原作マンガは、我がマンガ蔵書の中に全巻揃っているが、他にも「超少女明日香」や「少女鮫」「わが友フランケンシュタイン」などもあり、和田さんは好きなマンガ家の1人である。

中でも「ピグマリオ」は神話・伝説の匂いの色濃いファンタジーで、心理学・カウンセリングの勉強を再開しから、そのキャラクターの配置や関係、ストリーの流れには改めて感心してしまった。西洋的な自我の成長を考えるにあたり、非常に興味深いものを数多く含んでいたからである。ただ、そのような知識はなくても、基本的におもしろく、感動的な作品である。

ドラマ化の際に斉藤由貴や南野陽子、浅香唯などのアイドルたちが主演した「スケバン刑事」も、ぐいぐい引き込まれていくストリーに読み出したら止まらなくなってしまうようなおもしろさがある。「怪盗アマリリス」や「忍者飛翔」という作品、そして「超少女明日香」のシリーズなどは、ちょと変身的な要素もあり、読んでいて純粋に楽しい。また、最近の「傀儡師リン」という作品も、人形が動くという突飛な設定の下で、色々と謎をはらんだ展開が、読者を楽しませてくれている。

こうしてその作品を振り返ってみると、ミステリー色はけっこうあるが、適度な笑いも散りばめられ、安心して楽しめるものばかりであることが分かる。まだまだ活躍して、もっともっと楽しい作品を生み出して欲しかった。心から、ご冥福をお祈りしたいと思う。

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2011年5月11日 (水)

タイガーマスク(マンガ版)が戦ったもの

先月、隣の市の書店に出かけていったところ、タイガーマスクの本が山積みにされていた。昔の懐かしさもあって早速2冊買ったが、読んでしまうと続きが読みたくなり、遠出をしたついでにその本屋により、結局、全巻をそろえてしまった。学生時代に貸本屋で、最初から最後まで通して読んでいたこともあり、まず懐かしさが先にたっての行動だったが、あらためて読み直してみると、当時は気付かなかったことも色々と読み取れた。

さて、タイガーマスクはレスラーだから、当然、毎試合対戦相手と戦う訳だが、一方で、【虎の穴】という悪役レスラー養成の秘密結社で鍛えられたにも関わらず、孤児たちを援助するためにそのおきてを破ってしまい、【虎の穴】の刺客レスラーたちと次々と戦わなければならなくなってしまう。さらに彼を慕う孤児の少年のために反則の限りをつくす悪役レスラーからフェア・プレーで勝負する正統派レスラーへと変わっていく。この辺りの経緯はTVでもマンガでも同じである。

けれどもマンガを丁寧に読んでいくと、タイガーマスクの戦いが自分自身との戦いであり、自分にうちかつことで精神的な成長とレスラーとしての成長を遂げていくという点がクローズ・アップされてくる。【虎の穴】のトレーニングによってタイガーマスクは強靭な基礎体力と根性、そして恐るべき反則のテクニックを身に付けてプロのリングに登場する。けれども、正統派レスラーへの道を選んだことから、さらなる練習を積み重ねるが、決め手となる必殺技を持っていないことから窮地になると無意識のうちに反則をしてしまうことに悩み、苦心の特訓の末に《ウルトラ・タイガー・ドロップ》という必殺技を編み出す。ところがアジア・プロレス王者決定戦でミスター?にそれを破られてしまう。その後、地下プロレスで戦うことになるがその苦しい戦いの中で《フジヤマ・タイガー・ブリーカー》という第2の必殺技を編み出す。そして、表の世界に復帰するが、【虎の穴】の切り札とも言えるミラクル3によって《フジヤマ・タイガー・ブリーカー》を破られ、覆面チャンピオンの座も奪われてしまう。

ところが、タイガーマスクはその衝撃からも立ち直り、付け人の助けも得て第3の必殺技《タイガーV》を完成させ、ミラクル3を倒す。追い詰められた【虎の穴】のマネージャー・ミスターXは孤児院の少年健太をさらってタイガーマスクを【虎の穴】本部に呼び出し、殺そうとするが、ジャイアント馬場やアントニオ猪木たち全日本プロレスのメンバーたちがタイガーマスクの後を追って【虎の穴】本部を襲い、【虎の穴】を壊滅させる。けれども、その頃アメリカに偽タイガーマスクが現れ、反則の限りを尽くして暴れまわったためにタイガーマスクは偽者と戦うために渡米し、偽者を倒す。ところがプロモーターの策略で悪役ワールドリーグ戦で戦わなければならなくなる。その一連の戦いの中で、反則も5秒以内のルール内で使いこなすようになることが本当に強いレスラーになるためには大切であることを悟り、レスラーとして大きく成長して帰国する。そして世界チャンピオンに挑戦し1戦目は相手の反則による勝利であったためにベルトは奪えなかったが、2戦目を目前にして交通事故で倒れるのである。

反則はプロレスラーにとっては影=シャドウの部分でもある。そこからスタートしたタイガーは正等テクニック=光の部分にこだわるあまり、影を極端に忌避しようとするが、その無理が偽タイガーマスクという自分自身の影を生み出してしまう。それと戦い、反則という影の部分を受け入れることによってより強くなり、レスラーとしても成長していく。そうした読み方をすれば、タイガーマスクの戦いは、もちろん【虎の穴】や相手のレスラーとの戦いでもある訳だが、それ以上に自分自身との戦いであるというい意味も出てくるのである。人が生きていく上において、必ず自分自身と戦わなければならない場面に出合う。そこで自分自身ときちんと向き合い、自分自身の弱さにうちかって、人ははじめて人間として成長していけるのだと言えよう。

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2011年4月14日 (木)

「銀河英雄伝説」から信頼できる【指導者】を考える

田中芳樹の書いた小説「銀河英雄伝説」は、徳間書店から原作のストリーに忠実アニメ化されたが、現在の日本のトップに立つ人々の無能ぶりを報道で目にしたり耳にしたりする中で、改めて【指導者】への信頼について考えてみようと思った。

福島原発の事故において、現場で必死に命懸けの作業を続けている人々の行動と責任感には本当に頭が下がるが、逆に政府にしろ東電にしろ上に立つ立場の人々の言動には失望し、呆れかえり、その言葉に対する信頼は日に日に揺らいでいく。このような状況にあっても「大本営発表」を続けているトップとそれを垂れ流すだけのマスコミ(マスゴミ !?)報道には、もはやほとんど信頼が置けなくなりつつある。

最大の理由は、自分たちは安全な場所にいて、人々を死地に追いやりながら自己責任を回避し続けているからである。それと、反対の行動をラインハルトはしている。ラインハルトは危険な戦闘の場に必ず身を置いて配下の軍を指揮し続けてきた。それが部下たちの士気を高め、ついには新銀河帝国の皇帝にまで上り詰める。ラインハルトは、自ら安全な場所に身を置きながら国民を死地に追いやり続けた旧銀河帝国の貴族とその政治体制を憎んでおり、その思いが自らをして戦いの前線に立たしめていたし、それゆえに配下や国民の支持を得ていたのである。自ら前線に立ち続けたという意味に置いては、自由惑星同盟のヤンも同じであったし、ヤンもまた自らは安全な場所にいて自分達の利益のために他者を死地に送る決定をする輩を軽蔑していた。

ただ、旧銀河帝国にも自由惑星同盟にも、自分は安全な場所にいながら他者を死地に送り込む決定を平然と行い、その決断が間違っていた時には責任を他の連中に擦り付けて自らは責任逃れに終始しようとする醜いトップはいた。例えば、自由惑星同盟のトリューニヒトは戦争を賛美し国家に対する国民の犠牲を説いたが、ヤンの戦死した親友の婚約者で後には議員となったジェシカに、「自分や家族はどこにいるのか?」と決して前線に自分や身内を送らずに戦争を継続しようとする姿勢を厳しく追及される。また帝国貴族のリッテンハイム侯は戦闘に敗北して逃走する時に「私の転進の邪魔をする」という理由で味方の補給艦隊を攻撃して責任転嫁を図ろうとしたし、帝国屈指の大貴族であったブラウンシュバイク公は、ラインハルトの計略に乗せられて出撃したため手痛い反撃を食らった際に助けに来たメルカッツ大将に「なぜもっと早く助けに来なかった」と怒鳴り散らす。メルカッツが敵の計略だと出撃を止めたにも関わらず…である。

これはもちろん、小説やアニメの話である。けれども、トリューニヒトやリッテンハイム侯、ブラウンシュバイク公の姿は政府や東電のトップの姿とどこかしら重なってくる。そして、そのような指導者に命令されても彼らのために頑張りたいとは思えないし気力もやがて尽きてしまうだろう。一方、ラインハルトやヤンのような指導者の下でならば、自分自身としても、全力を尽くしてやれることをやりたい、と思う。未曾有の危機を口にするにしろ、その上で、どれだけ前線に立って決断や決定、指図ができるか。そこに指導者として信頼できるかどうかのポイントの1つがあるのだろう。

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