2009年11月16日 (月)

「銀河鉄道999」印象記…メーテルの旅

TV版「銀河鉄道999」では最終113話間近の109~110話、原作コミックでは「週間少年キング」連載のおよそ4分の3を過ぎた辺りで「メーテルの旅」というエピソードがある。ワープ中の事故によって鉄郎たちの乗った999は、未来の時間を旅する999と接触事故を起こし、惑星ファントムに落下してしまう。未来の999には、メーテルと車掌さん、そして鉄郎と同じNo.4の戦士の銃を持つレドリルという少年が乗っていた。

レドリル少年も鉄郎と同じ生身の人間で、機械の身体を手に入れるために機械の体をただでくれる星に行くという。メーテルは、鉄郎との旅を終えた後も、永遠の旅を続けている、ということが分かるエピソードである。1つの場所に留まり、老いて死ぬこともなく、永遠に同じ姿で時の流れを旅していくメーテルの哀しみが伝わってくる。

ところで、惑星ファントムでは、鉄郎たちの地球とは反対に生身の人間が自分たちの欲望に任せて機械人間を殺したり改造したりしているという。そのため、虐げられた機械化人が2人、999に忍び込み、2人の車掌さんを拘束して鉄郎やレドリルと入れ替わり、999で惑星ファントムを脱出しようと企てる。

その後のエピソードは原作コミックとTV版では少し異なる。コミック版では、拘束された車掌さんたちが「鉄郎やレドリルを殺すなら自分たちを殺してくれ」と考えただけで心が傷つき戦えなくなって2人を解放して逃げていった。一方、TV版では車掌さんたちと鉄郎たちがお互いをかばいあって自分が犠牲になろうとする姿に胸を打たれ、生身の人間に対する認識を変えて車掌さんたちを解放し、自ら999を降りて去っていく。いずれも、他者のために自らを犠牲にしようとする思いが、事態を変えるきっかけとなる。

TV版999が放映されたのは1981年2月26日と3月5日、今から28年も前のことになる。およそ30年近くも時を隔てた今、私たちの地球には《惑星ファントムの生身の人間》のように自分勝手で他者の痛みの分からない人が増えていないだろうか。減るどころか他国にまで飛び火している〈振り込め詐欺〉、アメリカでは弱者に対する医療保険の負担に反対するデモも起きている、という話も耳にしている。

競争に煽られ、ゆとりをなくしてしまうと、自分のことにしか目が行かず、心の余裕を失って孤立していく。「情けは人のためならず」…【他者に対してのサポートは、まわりまわって、結局、自分へのサポートとなって返ってくる】という諺を今一度かみしめたいものである。

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2009年9月10日 (木)

「銀河鉄道999」雑考…メーテルと機械化人

昨日は2009年9月9日、ということで999となり、銀河鉄道999に関わるイベントが行われたところもあったらしい。そんな話を聞いたために、「銀河鉄道999」のことを思い出した。昭和のTVシリーズにしろ、2つの映画にしろ、999では、機械化人が生身の人間の敵として登場する。機械化人とは、永遠の命を持つ存在として描かれ、限りある命を生きる人間と対比される。星野鉄郎の旅は、原作マンガおよびそのストリーに沿って忠実に創られたTVシリーズにしても、最初の映画版にしても、永遠の命を求めてメーテルと共に地球から旅立つという形でスタートする。けれども、その旅を通して、鉄郎は限りある命の輝きとその大切さを実感し、生身の身体にこだわって機械化人と戦う人生を選択する。

ところが、機械化人の「永遠の命」という設定を考え直してみると、「変わらない現実」を無理やりに維持しようと尽力しているようにも読めなくもない。そして、機械化人たちは生身の人間たちを権力で押さえつけていた。その意味では、変化を受け入れようとせずに自分たちだけが利益を得るシステムに固執しようとしている守旧派とも取れる。言わば、変わり続ける現実の流れを無理に押し止めようとしている老いた権力者たちである。

それに対して生身の人間というのは、常に変化の中に身を置く存在であり、その中で自分自身をも好むと好まざるとに関わらず変えていく若者たちのように読み取れる。子ども、あるいは青年前期としての鉄郎が、限りある命にこだわるのは、その意味において当然であろう。

では、メーテルはどうだろうか。原作マンガやTV版「メーテルの旅」において、変わらぬ姿で時間の流れを旅し続ける姿が描かれているメーテルもまた、永遠の命を持つ存在である。ただ、鉄郎たちの戦う機械化人たちと違い、メーテルは自らの権力を維持するために変わろうとしないのではなく、自らの運命を背負うために変わることが出来ないのである。そしてメーテルは変われない辛さを受け止めながら永遠の時を生き続ける。メーテルの美しさは、その哀しさゆえなのかも知れない。

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2009年5月 9日 (土)

レリューズ…もう1人のリューズ(コミック&TV版999より)

「銀河鉄道999」の原作コミックおよびTVシリーズにレリューズという機械化人の歌手が登場する。惑星ヘビーメルダーの時間城で暮らしているところや時間を自由に操れる能力などは、映画版999のリューズと同じである。ただ、原作コミックとTVシリーズでは先に《リューズ》が登場していることもあり、レリューズはリューズの姉ということになっている。そして、映画版999では、時間城の主は鉄郎の母を殺した機械伯爵であったが、原作コミックとTVシリーズでは《キャプテン・ハーロック》を名乗る機械化人が時間城の主であると同時にレリューズの恋人である。

原作コミックにおいて、レリューズは酒場で「やさしくしないで」を歌っている。これは、映画版999でリューズが歌っていた歌である。ただ、TV版での歌は「想い出なみだ色」である。歌は違っているが、過去を思い出し懐かしくなるような歌である。リューズもレリューズも恋人の言うがままに自らの身体を改造し、思いがけず時間を操る能力を手に入れてしまった。だが、鉄郎の言葉や行動によって若い頃の気持ちを思い出して心を動かされ、信じていた「恋人」が、実は自分を愛してはおらず、道具として扱っていたことに気付いてしまう。だから、土壇場で「恋人」の【命令】を聞かずに裏切ってしまうのである。

けれども、その「恋人」を捨てて、新たな自分の人生を生き直す強さは持ちえず、愛した「恋人」と共に滅んでいく道を選択するのである。しっかりとした《自分》を作れなかったからこそ、「恋人」の言うがままに生きてきた。けれども、その冷たさを見ようとしなかったし、彼が自分を愛してくれている訳ではないという現実を認めようとしなかった。だが、意識はしていなくても心のどこかでは感じていたからこそ「恋人」を裏切ったのだ。それは、レリューズ(リューズ)にとっては自立への第1歩であった。けれども、愛し続けた「想い」から逃れなかったために、2歩目へと進めなかったのであろう。あるいは、「恋人」の言うがままに犯してしまった【罪】を自らの命で償おうという意味もあったのかも知れない。

レリューズのように自立しきれない人々は少なくない。けれども、生き続けていれば、やがて2歩目を歩む日が来るかもしれない。それを信じて生き続けてほしいと思う。

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2009年5月 1日 (金)

めーてるの気持ち…背景にあるしんどさ

『めーてるの気持ち』は、マンガ家・奥浩哉が2006~07年にヤング・ジャンプに連載したものをコミック化したもので、全3巻が発売されている。

メーテル…といえば『銀河鉄道999』のヒロインだが、当然、直接これに関係ある訳ではない。主な登場人物は、30歳でひきこもりを続ける慎太郎と、その父親と結婚し、すぐに未亡人になったはるか。他にも慎太郎の父やはるかの母など数人の登場人物場が出てくるが、「めーてる」という名前は出てこない。はるかは、20代前半で慎太郎よりは年下である。このようなマンガに、なぜ「めーてる」が出てくるのか。999のメーテルは、星野鉄郎の母代わりであると同時に恋人でもあった。だが、鉄郎の未来のために、すべてが終わるとひっそりと鉄郎の下を去っていく。そうした点ははるかの立ち位置と重なる。その辺りに「めーてる」が出てくる意味があるのだろう。

作品そのものは、一応、ラブ・コメである。そして最後に慎太郎はひきこもりを脱して家族を持ち、ラーメン屋を経営するまでになる。けれども、そこに至るまでのはるかの努力や迷い、そして慎太郎の、家の外や他者に対する恐怖感などは恐ろしくリアルである。その意味においては、ひきこもる人の気持ちを、マンガという手段によって分かりやすく表現してある作品といえる。

例えば、はるかが風邪で寝込んだとき、慎太郎ははるかのために薬を買いに行き、買い物をして、おかゆを作る。けれども、1歩外に出るだけでも強いプレッシャーがかかり、気分が悪くなる。薬局で薬を買い、レジでお金を払う時も、心理的にはかなりシンドイ思いをしてやっとのことで買ってくる。しかし、はるかが回復するとまた外には出られなくなる。

実際のひきこもりに関わる相談の際に「イベントではなく、アクシデントがきっかけになる」という話をすることがある。周囲が意図的に何かをさせようとしても、本人が心情的に十分に納得できないとうまくいかない場合は少なくない。けれども、周りが意図していない出来事や事件がきっかけになって本人が動くことは意外にある。その点を考えれば、この風邪のエピソードは、けっこうリアルである。

他にも、慎太郎の30歳という年齢設定は、現在、ひきこもりの平均年齢は30歳を超えていると推測されていることから、それほど違和感はない。従って、「時間がない」という周囲の理解は重要だし、自立と関わって異性とのコミュニケーションの問題や性の問題、就労の問題などは大きな課題となる。そして、「母親」が「子どもがすべて」の人生ではなく、母親自身の人生を生きることも、「自立」のための「環境」として大切なポイントである。

はるかは、慎太郎の想いを受け入れることを決断し、「母親」ではなく、「恋人」として慎太郎を外に連れ出し、キスをする。そして、セックスも……。けれども、次の日、はるかは慎太郎が寝ている間に家を出て行く。1つは、慎太郎がズルズルとはるかに依存して自立できなくなってしまうことを避けるため、そしてもう1つは多分、自分の人生を生きるために……。

はるかが去ったことに気づいた慎太郎は、最初は怒り、悲しみ、自暴自棄になってはるかの残してくれたお金を無思慮に使ってしまう。けれども、はるかがどこかで見守っていることを信じて、アルバイトを始めようとする。仕事が出来なくて罵倒され、何度もクビになり、それでも仕事を続けた結果、慎太郎はラーメン屋の主人となり、家族を持つまでになる。

実際は、就労から自立までの過程が大変で困難も多いのだが、この作品は、あくまでもラブ・コメなので一応はハッピー・エンドとなっている。が、実際のひきこもりの本人や家族の状況は、もっとしんどい。その辺りも含めて、気になる部分もあるが、上手に読めば、いろいろなことを考えさせてくれるマンガである。

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2009年2月 5日 (木)

コスモタイガーⅡ…ヤマトの艦載機

宇宙戦艦ヤマトの艦載機と言えば、すぐ、コスモタイガーⅡが頭に浮かぶ。実は、コスモゼロ、ブラックタイガー、新コスモゼロなど、ヤマトにもいくつかの艦載機が登場するのだが、もっとも好きなのが、コスモタイガーⅡである。コスモタイガーⅡは、映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」から登場し、その後のTVシリーズのすべてと映画の「完結編」までヤマトの主力艦載機となるが、実は、単座タイプ(1人乗り)と3座タイプ(3人乗り)があり、登場回数は圧倒的に単座タイプが多いが、3座タイプは白色彗星帝国との戦いの際、空間騎兵隊を乗せてその内部に突入する際に使われている。

艦載機としては、銀河英雄伝説に登場するワルキューレやスパルタニアン、キャプテンハーロックのアルカディア号のスペースウルフ、マクロスのバトロイド・バリキリー、宇宙空母ジャスダムの巨大艦載機でダンガードAに変形するサテライザーなども思い浮かぶが、そのシャープなイメージの割には曲線も多い洗練されたフォルムと、大気圏/宇宙空間と場所を選ばず使用可能な汎用性、機銃で敵艦を破壊する攻撃力(?)、なかなか撃墜されない強さ(?)など、突っ込みどころも多いトップクラスの高性能は相当魅力的だと言えよう。

同じヤマトの艦載機でも、最初のブラックタイガーはどこかしらやぼったいデザインであったし、初代コスモゼロは、松本メカとしては納得できる仕上がりだったが、それゆえにごつごつした感じもあってシャープさという点では今ひとつという印象だった。が、コスモタイガーⅡは、松本メカのエッセンスを持ちながらシャープで洗練されたデザインであり、それを見た瞬間、プラモデルを作りたくなった。当時はいくつかの事情があってその夢は適わなかったが、現在my roomには4機のコスモタイガーⅡがブラックタイガーや宇宙戦艦アンドロメダなどとともに並んでいる。うち2機は、アフターバーナーのカラーリングが異なる山本機(単座タイプと3座タイプ)である。

このコスモタイガーⅡに乗って宇宙を飛行することは絶対に叶わないが、それでも、コスモタイガーⅡに乗って宇宙や大気圏を飛行する事を想像すると心が躍る。多分、その速度に耐えられるほどの力はこの肉体にはないだろうが、そのスピード感は、そのデザインを見ているだけで味わう事ができる。メカとして、ヤマトに次ぐ登場回数を誇るのもうなずける戦闘機である。

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2008年12月23日 (火)

銀河子守唄と星の子守唄…松本アニメ/父と母の子守唄

松本零士のアニメのエンディングや挿入歌に、いくつか子守唄がある。例えば、【SF西遊記スタージンガー】のエンディンク「星の子守唄」や【宇宙海賊キャプテンハーロック】の挿入歌「銀河子守唄」、【新竹取物語1000年女王】の挿入歌「ラーメタル・ララバイ」などがそれである。

子守唄というと、母親や子守の少女など、どちらかと言えば女性が歌うイメージが強い。その意味においては「ラーメタル・ララバイ」や「星の子守唄」は女性の澄んだ声が相応しい母性あふれる歌になっている。1000年女王/雪野弥生もそうだが、オーロラ姫も銀河に母性のエネルギーを復活させるためにジャン・クーゴやサー・ジョーゴ、ドン・ハッカの三人のサイボーグに守られながら銀河の中心にある大王星へと旅をする。その存在そのものが大いなる母性であり、オーロラ姫の歌としてのイメージで作られた「星の子守唄」は母性の子守唄であると言えよう。

 

ララル ララル 星の海は 白い流れ 静かな輝き 星くずキラキラ 船のしぶき 遠い彼方へ 旅は長く 夢路はるかな母の星よ 眠れ眠れよ 心安らか ララル ララル 星のララバイ ララル ララル 星のララバイ

ララル ララル 星の空は 七色虹の きれいな輝き 光るかけ橋 夜も昼も 明るく照らす 旅のゆくえ 願う心は 母の星よ 眠れ眠れよ 夢は静かに ララル ララル 星のララバイ ララル ララル 星のララバイ  〔星の子守唄〕

 

一方、「銀河子守唄」は、ハーロックの親友で、肉体は死んでも心は海賊戦艦アルカディア号の頭脳となって行き続ける大山トチローが、マゾーンにさらわれて助けられた後も恐怖のために眠れない愛娘まゆを眠らせるために歌ったうたであり、言わば父性の子守唄である。

 

大きな枕に 星屑をつめて おやすみ おやすみ いとしい子 この世で一番 美しい星は おやすみ おやすみ その瞳 さがしに行こう 夢の宇宙船で よみがえる 愛の星を みんなの星を

輝く銀河の ゆりかごに乗って おやすみ おやすみ いとしい子 誰もが待ってる 新しい星は おやすみ おやすみ その笑顔 さがしに行こう 若い宇宙船で 父母の生きた夢を みはてぬ夢を  〔銀河子守唄〕

 

どちらも、それぞれの味わいがあって優しい。心が疲れたときには、そっと聞いていたい歌である。

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2008年12月12日 (金)

今週の御言葉…「はいからさんが通る」より

大和和紀が週間少女フレンドに連載して大ヒットしたマンガ「はいからさんが通る」は基本は純愛なのだが、あちこちにギャグがちりばめられ、非常に楽しい作品に仕上がっている。そのギャグシーンの背景にさりげなく登場する【今週の御言葉】が、なかなかブラック・ユーモアに富んでいて、今、読み直してもとても面白い。いくつかあげてみよう。

 

強いものにはへつらおう 弱いものはいたぶろう

わいろできめよう 人のあつかい

つっぱるな しょせんあなたは三級品

ごますろう 金のあるやつ 強いやつ

みかえり期待し いつも親切

金になるならへつらおう 金は正義だ真実だ

われときて あせれやとりえのない女

はりあおう あなたは上役わたしは下っ端 同じ米くってどこちがう

みやげ持ちには笑顔で接待 もってこんやつぁ涙で抗議 しゃぶりつくそう骨までも

こだわろうひとつの善行 わすれよう百の悪行

 

ただ、これはあくまでも、風刺、ギャグとして面白いのであって、これを地で行く人が増えれば増えるほど、世の中は暮らしにくくなる。最近の社会が暮らしにくいのは、これを地で行く連中が、例えば政府や行政の中枢にいたり、大企業のトップにいたりするからではないだろうか。

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2008年9月20日 (土)

「銀河英雄伝説」から【国民のための政治】を考える

リンカーンは、ゲティスバーグの演説で【民主政治】を「人民の、人民による、人民のための政治」だと定義したという。ところで、今の社会を見た時、特に「人民のための政治」という部分がなおざりにされているように感じられる。二代続けて、途中で政権を投げ出すような党首/首相をえらび、国民の職の安全を軽く考えて、けっきょくたかだか5日前に「辞任」するような無責任大臣を選んで何の反省もないような政権与党にとって、一般の国民などは利用して水から甘い汁を吸うための道具としか考えられないのかも知れない。

そうした状況に多くの人が苛立ちを覚えているだろうが、「改革」は遅々として進まず、「改革」という名を冠した「改悪」が国民の生活を破壊し続けている。そうした現実を見ていると、独裁でもいいから…という思いが頭を掠めることがある。そしてその後で「銀河英雄伝説」を思い出してしまう。「銀河英雄伝説」のラインハルトは、戦争の中でその優れた知略と才能を発揮して武勲を重ね、銀河帝国ゴールデンバーム王朝を倒して、新銀河帝国ローエングラム王朝を樹立する。

ラインハルトは独裁者だが、彼は旧王朝の貴族特権を廃止し次々と行財政改革を推し進める。だが、それは一般国民にとって旧帝国と比較して公平・公正な方向への上からの改革であり、ラインハルトは国民の支持と敬愛を一身に集める。兵士達は歓喜と尊敬をこめて「マイン・カイザー/我が皇帝」と呼ぶのである。

一方、銀河帝国と敵対する自由惑星同盟のヤン・ウェンリーは、腐敗した政府に足を引っ張られながらその知略と詭計で何度となく帝国軍を撃破・撃退するが、最後には自由惑星同盟政府に裏切られて命の危険にさらされ、仕方なく流浪の身となる。ヤンは、腐敗した民主政治を守るために、最後まで国民のための専制政治と戦うことになる。国民にとっての幸福はどちらなのか……という思いを胸に抱きながら。それでもヤンは、民主主義の理想を捨てず、ラインハルトとの停戦の交渉の途上で暗殺者の手によって命を落とす。

さて、独裁者と呼ばれる政治家は現代も存在しているが、中には国民の絶大な支持を得ている政治家もいる。反対派に「人気取り」と非難されても、その政策の結果、一般国民の生活がそれなりに改善された事実が存在するからである。生活を改善された国民が支持している独裁者は、一般国民の生活の困窮に目をつぶり「民主主義」を自称して結果として国民生活を破壊する「改革」という失政のツケを国民に押し付けている政治屋たちよりも、ずっと「国民のための政治」を行っていると見えなくもない。

ある意味では、民主政治は、国民に厳しい政治システムである。それは、国民の一人ひとりが自立し、自覚的に自らの代表としての政治家を選出する能力を試されるからである。ただ、その支えとしてはきちんとした情報公開が前提となる。逆に、腐敗した政権ほどメディア・コントロールを強めて、事実を国民に知られることを恐れる。戦争中の「大本営発表」などはその最たる例だが、現在の日本のマスコミは、それを笑えない状況に陥りつつあるように思われる。国民の1人として忸怩たる思いである。

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2008年8月20日 (水)

リューズとクレア…映画「銀河鉄道999」より

映画「銀河鉄道999」で、主人公の鉄郎のために命を落とす2人の女がいる。1人は、鉄郎の母の敵(かたき)である機械伯爵の愛人リューズ、そしてもう1人は999の食堂車でウェイトレスをしているクレアである。共に、原作のマンガやTVシリーズにも登場するが、それぞれに魅力のあるキャラクターである。

前回の記事のコメントで、リューズを《いい女》、クレアを《かわいい女》に分類した。リューズは、愛する男の命じるままに機械の身体を改造し、やがて時間を自由に操れる力を身に付けてしまった。「男の言いなりになる」という面では、一見、男にとって《かわいい女》と見えなくもないが、その結果として「時間を自由に操る」という【毒】を身に付けてしまった。そうした生き方にリューズ自身の心に満たされない想いがくすぶり続け、鉄郎との出会いによってそれを自覚したリューズは、自分の男である機械伯爵の絶体絶命の危機において彼を裏切るという選択をする。

クレアは、見栄っ張りの母親によって、自分の身体をクリスタル・ガラスにされてしまい、冥王星に眠っている自分の身体を買い戻して生身に戻るために999で働いている。999での旅の過程で、クレアは鉄郎に対しほのかな恋心を抱いており、惑星メーテルの崩壊から脱出して999に乗り込み、鉄郎を殺そうとした機械帝国の女王プロメシウムから鉄郎を守るために砕け散ってしまう。

リューズの選択は、自我の確立に失敗して流されながら時を重ねてしまった自分自身の虚しさから解放され、自分を取り戻すための決断だったが、機械伯爵への情に殉じて、自らは時間城の崩壊を前にしながら脱出をせずに、機械伯爵のなきがらと共に時間城の中で錆びて崩れ落ちていく。その最期には女の哀しさが漂っている。

クレアの選択は、「ロミオとジュリエット」のジュリエットのような若さゆえの真っ直ぐな想いが感じられ、この映画を映画館で初めて見た若い頃には、そのけなげさに胸を打たれたものだった。若い頃であれば、恋人としての理想像の1つであったろう。ただ、歳を重ねた今は、また少し違った感覚もあるのだが……。

「銀河鉄道999」の女性を考えるとき、まず頭に浮かぶのはメーテルであり、次にエメラルダスを思い浮かべることが多いが、リューズやクレア、メタルメナなど、メーテルやエメラルダスの他にも、けっこう魅力ある女性たちが登場する。それを楽しむのも、999の楽しみ方の1つだろう。

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2008年6月21日 (土)

ダメおやじ…見えない糸

古谷三敏が週間少年サンデーに連載していたマンガ「ダメおやじ」の14巻の6話目に「みえない糸」という話がある。ダメおやじが、大和グループのヒミコにユートピアを作るという夢/課題を託されて旅に出ている途中、ウンチクというバーのある町に滞在して、ウンチクに通いつめていた頃の話である。このウンチクというバーのマスターと常連のメガネさんは、後の古谷三敏の「レモンハート」というマンガの原型になっているが、この話にはメガネさんは登場しない。

ウンチクのマスターが、予定していた金(10万円)が入らず、骨董屋から買うつもりでいた皿を断るところから話は始まる。ところが、骨董屋はその代金を見越して石屋に墓石を注文していて、その代金が入らなかったため、墓石の支払いが出来なくなり、石屋はその代金を見越して買おうとしていた息子の車が買えなくなり、車の持ち主の出版社の社員はハワイ旅行をキャンセルせざるを得なくなって…という形で負の連鎖が広がっていく。

ところが、植木屋が遅れていた金をやっと作ってウンチクのマスターに支払いに来ると、すべてが好転して、結局、そのお金はそのまま植木屋に戻ってくる。八方丸く収まって、みんなはウンチクのカウンターで乾杯をするのだが、その経過をすべて見ていたダメおやじは、最後に「世界の経済ももとをただせばこれと同じなんじゃないのかな……」とつぶやく。ある意味では、分かりやすいが地味な話である。

とは言うものの、今あらためて読んでみると、けっこう含蓄の深い内容となっている。この関係の取引が丸く収まったのは、すべてが実際のモノやサービスをお金を介して取引する実体経済のレベルの話だからである。だが、ここに投機マネーが絡まってくると、取引額は増加するだろうが、欲望が疑心暗鬼をも生じさせて取引そのものが崩れてしまう可能性が生じてくる。それが、「今」の世界経済の状態である。

追加証拠金制度などを見ても、株などの投機の取引においては実際の紙幣が動くわけではなく、「情報」が行き交っているだけである。だからこそ、手元にある「紙幣」以上の取引が可能になり経済が拡大するわけだが、投機経済はその意味において虚構経済であり、「情報」の信頼性が失われれば「実体」を得られなくなりかねない不安定さをその奥に抱え込んでいる。だからこそ、実体経済と投機経済の乖離の幅が拡大し続ければ、地球レベルで、人々の生活を圧迫しかねないのである。

例えば、先物取引は、もともとは生産者のための価格安定の機能を持っていたために、生産者を守る働きもあった。ところが、買う側が主導権を握っている現在では、価格の高騰が必ずしも生産者の利益には結びつかず、実体経済を圧迫し続けている。ところが、「情報」はあくまでも「情報」に過ぎず、ハッカーなどの攻撃によって情報が破壊されたり、実体経済の側が「情報」とのリンクを拒否したりすれば、モノもサービスも失ってしまうことにもなりかねない。その意味において、現代の状況は危険なのである。国のレベルを超えてこの問題に取り組む必要があるだろう。

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