2009年10月16日 (金)

死刑が厳罰にならない!?

無差別殺人の裁判で死刑が求刑されたり、死刑判決が出たりしているのは今までの社会通念からすれば当然…という感じはするが、事件によっては必ずしも死刑が厳罰にならないのではないか、と感じることがある。自我の未熟さゆえに、自らの行為によって自殺をする勇気や決断力を持ちえず、自分よりも「弱い」と感じられる人々を無差別に殺害することで死刑にしてもらおう…という甘えがあるのではないか、と見える例がけっこうあるからである。

本人は、他者の手による「自殺」…つまり死刑を望んで無差別殺人という行動を選択している以上、死刑こそが本人の希望であり、願いなのだ。それに対する死刑判決は、本人の希望を叶えることになるだけで、本人にとっては望んだ通りの結末を迎えられることにもなる。とすれば、死刑判決は本人にとっては罰にはならないし、同じようなことを考える人に対する抑止効果はなく、同じような犯罪を助長することにもなりかねない。

犠牲者の家族の感情からすれば、憎しみゆえに犯人の死を望んだとしても、その憎しみは死を犯人が望む以上復習とはなりえず、返って犯人の望みを叶える結果になって犯人を喜ばしてしまう場合も出てくる。犯人の「苦しみ」を考えるならば、逆に「死」を与えるよりも苦しい「生」の中に縛り付けられる方が辛いと言えないこともない。その意味でも、死刑は憎しみの感情の方向性をズレさせ、思いを拡散させてしまうことにもなりかねない。

江戸時代の逸話で、死刑に相当する重罪を犯した犯人に対して、とある名君がその罪を理解させるに十分な教育を施して罪を自覚させた後死刑に処した、というものを何かで読んだ記憶がある。自らの犯罪に罪悪感を持たずに死刑を望む犯人に対する死刑判決…ということと比較して、いろいろと考えさせられる話である。

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2009年9月30日 (水)

睡眠不足ぎみ!?

ここ数日、睡眠不足ぎみの夜が続いている。しかも、やるべきことをしていてついつい時間が経ってしまい、結果として睡眠時間が少なくなってしまった…というパターンではなく、やるべきことはあるのだが、エンジンがかからないためについついサボってしまって、今日のところは寝て…と布団を敷いたところで、手元にあった本をつい開いてしまい、少し読んでいたらいつの間にか1時間、2時間…と経ってしまって睡眠時間が少なくなってしまった…というパターンである。

たまに、ということであれば、「まあ、そういうこともあるかな」で済むのだが、週の初めからずっと続いてくる…となると、ちょっと心の疲れを意識せざるを得ない。「やるべきこと」に振り回されるのは良くないが、「やるべきこと」をある程度受け入れながら上手に消化していく…というのは大人として当然のことである。ましてや、今の時点でいくつか抱えている「やるべきこと」は、自分としても苦痛ではなく、けっこう興味を持って取り組んでいることなのだから。

あるいは、体力的な疲れが、精神面にも影響を及ぼしているのだろうか。自分の年齢をきちんと受け入れるのも大事なことだし、年齢的にはもうとても「若い」とは言えない以上、体力の衰えは当然である。とりあえず、早く身体を休めることにする方が良いかもしれない。

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2009年8月12日 (水)

依存の背景

押尾学や酒井法子夫婦の事件で、芸能界の薬物依存がクローズ・アップされているが、依存の背景をきちんと分析し、それを生じさせる構造にメスを入れることなく騒ぎ立てるだけでは問題は解決しない。罪を犯した人間を徹底的に排斥するだけでは同じような事件が繰り返されるだけである。

酒井法子らの事件は違法な薬物の所持・使用/あるいは依存が問題となるが、依存は他にもアルコールやセックスなど様々な場合がある。いずれにしも、自我の未熟さや弱さが様々な依存に結びついてしまう例が多い。心の中に広がる虚無感や絶望感をごまかすため、あるいは過大なストレスを処理しきれずにそれに走ってしまう場合、他にも断れずに周りに流されてしまう場合などが考えられる。

では、昔は今日ほど目にしなかったのはどうしてか。日本の社会は「出る杭は打たれる」というような自我の確立を否定するような諺が示すとおり、自我の確立をそれ程重視しなかったが、その分、1人ひとりを支える集団が様々な関係を通して弱い自我を支えていた。けれども、資本主義の進展の中で、集団や社会が解体され、弱い自我を支える関係が弱体化してしまった。

こうした背景に目を向けず、個人に責任を押し付けるだけでは問題は解決しない。「悪」を異化して排除し続けても、社会がそれを再生産する構造になっているのである。マスコミもセンセーショナルに騒ぎ立てるだけでなく、こうした構造の分析やそれを変えていくための手立てを提言するような報道姿勢が必要だろう。

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2009年8月 9日 (日)

酒井法子は重要人物?

酒井法子が薬物法違反で逮捕された。芸能界や大学生の薬物汚染のニュースはこのところ多いし、事実認定が行われ、裁判の後刑が確定すれば、それはそれで憂うべきことではあるが、酒井法子は政治家でも財界の要人でもない。彼女が逮捕されたからといって、国民生活への影響は考えられない。ところが、NHKをはじめとするマスコミの取り上げ方は異常であった。SMAPの草なぎの泥酔全裸事件といい、芸能人の醜聞よりも、もっと重要なことがある。

例えば、同じく薬物違反で問題になった議員がいたが、そのニュースは酒井法子よりもずっと小さかった。同じタレントでも、疑惑の選挙で千葉県知事になり、市民から選挙違反で告発されている森田健作の方が社会的には問題である。けれども、その報道は信じられないほど小さい。芸能界の薬物問題よりも、もっともっと緊急性があり大切なことは山ほどある。

確かに、芸能界の薬物汚染は問題である。ただ、精神的に見れば、常に他者の視線にさらされ「良い人」を演じ続けなければならないストレスは大きい。だから、自我が未成熟な場合は、その精神的な弱さゆえに薬物に手を出してしまう可能性はあり得る。今回の酒井法子の失踪についても、精神的な弱さやもろさ…という可能性を考慮すれば、解離性の逃走である場合もあり得る。幸い、大事には至らなかったが、警察やマスコミの対応を外から見ている限りにおいては、自殺という可能性もあったのではないか。

一方、酒井法子事件の大騒ぎによって、人々の目から逸らされてしまった事件や問題があったのではないだろうか。芸能人は聖人君子ではない以上、間違いも犯すだろう。それは良くないことかもしれないが、大騒ぎして徹底的に糾弾する必要はないのではないか。政治家や大企業、官僚などの言動にこそ、もっともっと注視が必要だろう。

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2009年7月13日 (月)

現実に向き合うこと

教育相談などの場で、相手がきちんと自分の現実に向き合っていないなぁ、と感じることが少なからずある。大変な現実、受け入れがたいと感じられる現実を前にして、それから逃げてしまうパターンである。

子どもであれば、正の数・負の数の計算ができないことに向き合わずに自分をごまかして、「数学の先生の教え方が下手だ」とか「数学なんか何の役に立つんや(現実社会では役に立たない)」等といって強がったり、ごまかしたり、責任転嫁をしたりして、努力をせずにそのまま放置する…といったような例である。

この場合、自分が正の数・負の数の計算ができない…という現実に向き合えば、計算の仕方を教えてもらい、練習を重ねて、きちんとできるようにする、という目標を立ててそれを実行すれば、たいてい出来るようになるし、それを土台にして、文字の式の計算や方程式の計算に進んでいける。けれども、自分をごまかし、現実から逃げている限り問題は解決せず、いつまでたっても計算は出来ないままである。

ただ、子どもの場合はまだ、可愛げもあるし、その後の大人のサポートと本人の自覚によって変わっていける可能性は高い。けれども、大人の場合は本人にとっても、周りにとっても不幸な結果になる。

例えば、麻生首相や自民党なども、現実に向き合うことをおろそかにし、それをごまかし続けた結果、状況は悪化の一途を辿っている。麻生首相には、現実を見つめ、その現実に向かい合う機会は何度もあった。党利党略/将来の自民党のことを考えるならば、昨年秋、補正予算を成立させた直後に衆議院を解散すべきだったのだ。その結果、その時点の選挙で敗北したとしても、傷を最小限に抑えられただろう。

ところが、敗北の予想にビビッてそれをどんどん先延ばしをした結果、事態はどんどん悪化していった。現在、自民党内では不人気の麻生首相の退陣を求めて、新しい首相の下で選挙に臨もうとする動きもあるが、それに対する国民の評価自体も非常に厳しい。これも、現実に向き合うことから逃げた結果といえる。

現実に向き合うことは、時として非常に苦しい。けれども、そこから逃げなければ、先に進むことが出来るのである。

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2009年6月26日 (金)

決断力と自信

麻生内閣の迷走・暴走が続いている。麻生首相率いる自公政権は、完全に政権担当能力を失っているが、麻生首相と自民党には決断力を失ってしまっているのだろう。なぜ、決断できないかと言えば、自信がないからであり、自信がないのはきちんと自分の前にある課題に向き合い、努力を積み重ねていないからである。それは、人生の道のりの中で自分自身に向き合い、課題に立ち向かい、越えてきた努力の積み重ね…というものが無かったからだろう。

そうした意味において、個人的には哀れだと思うが、それによって大いなる迷惑を被っている国民の立場からすれば怒りを覚える。歴史的には、日中・太平洋戦争を主導した東條首相も、人間的にはどうであれ、非常時の首相としての決断力に欠けていたように思われる。非常時に決断力の無い政治指導者に率いられる国民の不幸を思うと悲しくなる。

「若いときの苦労は買ってでもやれ」とか「波風体験は必要だ」という言葉を、見たり聞いたりすることがある。それは、ある面では正しい。シンドイ思いをするのは、自分の人生の中でのいくつかある壁の1つにぶち当たっているからだと考えられるが、その壁を越えられてこそ、苦労や波風体験が意味を持つ。それによって新たな力を得たり、人間的な成長や成熟につながったりするからである。だが、すべての人が自分の前に立ちはだかる人生の壁をうまく越えられるわけではない。逆に、越えられずに傷を負う場合も出てくる。問題は、その時の心の姿勢である。

人生の壁と、自分自身の能力不足にきちんと向き合っていったん諦める場合は良い。壁=自分自身の現在の課題を自覚することになり、それを克服するための努力を積み重ねられるからである。そのため、時を置いて同じ壁(課題)が現れたとき、それまでの努力の積み重ねによって、以前より越えられる可能性は高まっている。そして、壁を越えることができれば、人間としてさらなる成長・成熟することにつながっていくのである。

それに対して、自分の課題に向き合わずに、ごまかしたり、逃げたりする場合は悲惨である。不思議なことに、時を隔てて必ずといって良いくらい、同じ壁/問題に突き当たってしまうのである。そして、その場はごまかしたり逃げたりすることができても、人生において解決しなければならない課題は、少し時を隔てて、また自分の身に降りかかる。逃げたりごまかしたりし続ければ、どんどん自信を失い、決断できなくなっていく。麻生首相の行動はその典型であり、どれほど虚勢を張って自分や周囲をごまかそうとしても、結局は自分の身に返ってきて、より悲惨な状況に陥ってしまうのである。

だからこそ、真摯に自分自身に向き合い、壁を越えようとする努力が必要になる。当然、長い時間を必要とする場合も出てくるが、諦めずに努力を積み重ねることによって何とかなっていくものである。すぐに、うまくいかなくても、失敗が続いても、可能な努力の積み重ねが道を開いていく。無理な目標を設定して、短期間で壁を越えようとしても失敗してしまうことが多い。可能な努力を、自分の現実に応じて時には修正しながらも、続けていくことが「自信」につながり、それが決断力にもつながっていくのである。

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2009年6月 7日 (日)

自我の確立と成熟

不登校やひきこもりの問題と関わっていると、心の問題としての自我の確立と関わらざるを得ない。自我の確立は青年期の課題だが、近代的自我の確立については大人となった日本人を見ていても、「弱さ」を感じる時がある。ましてや、思春期や青年期の子どもや若者を見ているとそうした例はいっそう増える。だが、本来の日本社会の精神的な伝統を考えればそれもまた当然かもしれない。「出る杭は打たれる」という諺があるが、「出る杭」こそ自我の確立の結果であるにも関わらず、現代日本においても、けっこう「打たれる」=周囲から攻撃される場合が少なからずあるからだ。

その意味では、不登校やひきこもりの例の中には自我の確立の課題に取り組んでいる場合が見受けられるのである。もちろん、本人が必ずそれを意識しているとは限らない。いや、意識していない場合の方が多いかもしれない。それでも、不登校やひきこもりという「壁」を乗り越えることで、自我は強くなる。その場合、不登校やひきこもりを経験しない子や若者よりも強い自我を獲得することもある。だから、周囲の大人の立場からすれば、不登校やひきこもりの経験も、そうした自我の確立の試練として乗り越えられるようにサポートできれば良い……と考えれば良いということになる。

ところが、「大人としてのサポート」には、それなりに自我の強さや深まりが必要となる。実は、大人の方が子どもに依存している例があったり、無意識のレベルで子どもの成長と巣立ちを受け入れられずにいたりする場合があるのだ。その意味では、子どもにとっての自我の確立は、周囲の大人に取っては自我の成熟の課題となる。これがまた、思いの外難しかったりもする。自我の問題は、人間の一生の課題とも言えるのである。

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2009年5月18日 (月)

欲望との折り合い

資本主義経済は人間の欲望を肯定しエネルギーにしてここまできた、という見方をしてきたが、特に昨今のグローバル経済の状況は、欲望の暴走がコントロールを失った結果であろう。その結果、世界中の多くの人々が貧困に苦しみ、環境を破壊し続けている。だが、キリスト教をはじめイスラム教、仏教など多くの宗教が欲望の暴走を危惧し、そのコントロールを力説し、他者への博愛や友愛を説いている。資本主義経済も、もともとのルーツを辿ればピューリタンなどのキリスト教文化圏から誕生している。それが、多くの人々を貧困に陥らせ生命の危機すらも感じさせる状況に追い込んでいる。

もちろん、この現実は、様々な偶然や政策、対応のミスが重なって生じたものには違いないのだが、一方でわれわれ自身も欲望のコントロールを怠り、周りに流されてきた部分があった点も見逃せない。周りに流され雰囲気に身を任せ、「これくらいなら…」という積み重ねが「今」をつくってしまったのである。

ただ、現実の社会の中で生きていくにあたって、欲望を完全に消し去ることは不可能だし、また欲望がなさ過ぎると現実社会で生活していく上で様々な不都合も生じてくるだろう。その意味では、現実を生きていくためには欲望を排除することは不可能である。けれども、自分自身の欲望をある程度見つめ直すことが必要になってくるのではないだろうか。特に、コマーシャルや周囲の空気に煽られ、自分の欲望が暴走していないかという点を気にかける必要があるように思う。

もちろん、お金があるにこしたことはないし、美味しいものを食べたり、贅沢をしたりもしたい…という気持ちは誰もが持つだろう。けれども、それを貫くことが、誰かもっと弱い立場の辛さや苦しみにつながっていることはないだろうか。そういうことも少しは考えてみたい。そして、可能であれば、「自分のため」がもっと弱い立場の誰かのためにもつながるような行動にも手を伸ばしたいと思う。

少し考えただけでは、「シンドイ」と感じるかもしれない。けれども「自分のため」だけで動くとだんだん心に余裕を失っていくし、他者との関係も薄れたり切れていったりするので、精神的にギスギスしていっそう余裕がなくなってしまう。他者のことも考えるそのことによって、逆に心に余裕も生まれてくるのである。それに他者のために動くことで他者との関係が生まれたり深まったりもする。それが精神的な余裕につながったり、困ったときのサポートにつながったりもするのである。

結局それは、自分自身の欲望との折り合いをつけるということである。人間である以上、欲望を完全になくすことは無理だろうが、ある程度は欲望との折り合いをつけることで心のゆとりを取り戻したいものだ。

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2009年4月17日 (金)

「虎の威を借る狐」の心もよう

「虎の威を借る狐」ということわざがある。もともとは「戦国策」あたりの古典にあった話だが、虎に襲われた狐が、「自分は神様に動物たちの王となるように命じられた。だから、森の動物たちは自分を畏れ多いと避けて歩く。嘘かどうか、後についてきて確かめてみろ」と言って難を逃れる。もちろん、他の動物たちは、虎の姿を見て恐れた訳だが、虎は本当に狐が偉いのだと誤解したのである。転じて、現在は、実力もないのに他の力や権威のある人の威光を利用して威張ったりする場合のたとえに使われている。

だが、元の話からすれば、狐は明らかに自分自身の非力を自覚している。その上で、生きのびるために、知力を総動員して虎の魔手から逃れたのである。己の非力を自覚した上で、とりあえず他者の力を借りなければならないような状況は、現実社会においてもそれなりにある。ただ、その際に、自覚かあるかどうかはけっこう重要になる。己の非力を自覚していれば、急場をしのいだ後は、後々のために力を蓄えるなどの手を打つこともあるだろうし、何よりも自分の力を錯覚して思い上がったり、弱者を不必要に攻撃するようなこともないだろう。

ところが、自分の非力に対する自覚がないと、自分を過信して能力以上のことをしようとしたりするし、無意識で非力を感じている反動や虚勢のためか、必要もないのに他者を攻撃したりもする。そのような場合、周囲に多大の迷惑をかけたり、周囲から多くの恨みをかったりしているため、「虎の威」がなくなると周囲から叩かれたり攻撃されたりしやすい。その結果として、より多くの人々が傷を負うことにつながったりする。

今の日本を見ていると、自覚なく「虎の威を借る」連中がけっこう目立つように感じられる。世襲議員なども、見ていると明らかに実力不足が見えたりして、自覚のない「虎の威を借る」組が多いように思えて仕方がない。その後の本人の不幸は、因果応報かもしれないが、巻き込まれる周りの人間はたまらない。自覚なく「虎の威を借る」ようなことをしないように気をつけたいと思う。

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2009年3月31日 (火)

降りていく感覚

ここ数日、少しゆとりのある時間を使って、詩を書いている。だが、今ひとつ納得できるところまでいかない。意識の表面的なところで言葉を操っている感覚しかないのだ。そのため、自分の深いところで詩を作ったという実感がない。とりあえず書いてはいるが、もうひとつストンとおちないのはそのためだろうと思う。

小説や童話を真剣に書いている時は、精神的にかなりシンドイ思いもするのだが、集中していく中で、心の深いところまで降りていくような感覚がある。それは、自分として納得できる詩を書いたときも共通するところがあったりする。そんな時は、1つの言葉にも苦しむが、苦しんで苦しんで心の深いところまで降りて言った結果出てきた言葉はストンと胸に落ちる感覚がある。そうやって書いた作品は、詩であれ童話であれ小説であれ、自分としてはけっこう納得のいく作品となる。

ところが今回は、もう1つ集中し切れていない自分を感じている。それでも言葉を操ってとりあえず形にしているのだが、自分として納得できる「作品」になっていない。まあ、まったく書けないよりはましかな……という思いも一方ではあるのだが、それでも、書くからにはやはり深いところまで降りていく感覚を体験したいと考えている。

ここ数日はゆったりしていたが、もう少しすればまた忙しくなってくる。少し環境も変わるので、それが、新しい詩を書くきっかけになってくれると良いのだが……。

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