2017年12月30日 (土)

聴くということ

先日、「3月のライオン」というアニメのDVDを見ました。このアニメの原作マンガを図書館で借りて面白かったから借りてきたのですが、この作品はアニメばかりではなく実写映画も制作されるほどの人気です。中学生で将棋の棋士となった桐山零が主人公ですが、ある時、彼と家族のように接してくれている川上家の次女ひなたちゃんが、いじめを受けた友達をかばったことがきっかけになっていじめのターゲットとなります。それを自分の高校のよく関わってくれる将棋好きの先生に相談したところ、よく話を聞いてやるようにとのアドバイスを受け、とにかく、聞くという努力を粘り強く続けます。

 
いじめはエスカレートし、担任が倒れて休職したことにより学校側も本格的な介入をしていく中で状況は改善しますが、その間、桐山くんは、本当によくひなたちゃんの話に耳を傾けます。川上家で、将棋を教えながら、川のほとりで、ひなたちゃんの修学旅行の時は、対局を終えてから京都に向かって彼女を見つけ出し、話を聞いたこともありました。

 
クラスでの孤立やいじめがなくなって、問題が解決したとき、直接的には何もできなかった桐山くんは「ぼくは何もできなかった」と口にしますが、ひなたちゃんの答えは「そんなことはない」でした。ずっと時間をかけて話を聞き続けた桐山くん、思いや感情によりそってくれた桐山くんと、彼女を肯定して守ろうと努力したおじいちゃんやお姉ちゃんの存在がひなたちゃんの心を支えたのでした。

 
この話を読んでいて、私は「傾聴」という言葉を思い出しました。桐山くんは、「聞く」というよりも「傾聴」/「聴く」ということを自然に行っていたのです。


「聴く」という言葉で思い出すのは、ミヒャエル・エンデの傑作『モモ』という童話です。『モモ』は、『はてしない物語』と共にのちに映画化されましたが、『はてしない物語』を映画化した「ネバー・エンディング・ストリー」とは異なり原作童話を忠実に映像化しているため、原作者のエンデ自身も少しだけ出演しています。エンデは
1995年に亡くなりましたが、その作品は今でも世界中の多くの人々を魅了し続けています。この作品の主人公モモには不思議な力が備わっています。それは、他の人の話を聞くのがとても上手いことです。町の人は、困っている仲間にこんなふうに声をかけます。「モモのところへ行ってごらん」と。 


子どもに過ぎないモモは、お金を持っているわけでも、アドバイスをしてくれる訳でもありません。ただ、素直に、そして一生懸命に聞くだけです。けれども、モモに話し終わる頃には、何か良い考えが浮かんできたり、気持ちが楽になったりするのです。だから、聞き上手のモモは、人々にとってとても大切な存在なのです。

 
さてここで、私たち自身の生活を振り返ってみましょう。自分に、安心して話をすることの出来る家族や友達はいるでしょうか。この人なら、安心して何でも話せる。この人といるだけで、ほっとする。そんな家族や友達や先輩や仲間が一人でもいる人は、もしかすると、とても幸福な人かも知れません。

 
別にアドバイスを受けなくても良いのです。というよりも、下手なアドバイスは、聞いていて腹が立つことだってあります。「そんなことは、分かってる。でも、出来ないから困ってるんだ」と心の中でつぶやきながら、相手の得意そうに始めた「正論」や「自慢話」や「体験」を聞くなどという展開になってしまって、返って不愉快になったり、落ち込んだり……。そんな場合も、結構少なくないのではないでしょうか。そう考えると、ちゃんと話を聞いてくれる人の存在は、とても貴重で得がたいものだということが分かるのです。

 
では、私たちは、自分の大切な家族の、あるいは友達や仲間の話をちゃんと聞くことができているでしょうか。少し話を聞いただけで分かったつもりになって、その「理解」の上に立ち、自分に都合のいい考えを無意識の内に押し付けていることが結構多いのではないかと思われます。いいえ、もっとひどい場合は、相手の話をさえぎり、こちらの意見や都合をまくし立てることもあるのではないでしょうか。

 
どうしてそうなってしまうのか。きっと、親しいから、分かっているから、という無意識の甘えを背景に、あるいは相手との上下関係などを背景にして、相手の気持ちに十分に応えずに、つい自分を主張してしまうのでしょう。特に男たちは、相談をされていると思うと、「現実的」な「解決策」を提示しなければならない、と感じて、相手に対する《感情的な共感》ということを考えず、話を遮って「解決策」を一方的に押し付けようとする傾向が少なからず見られます。けれども、特に不登校やひきこもりの対応に置いて、《感情的な共感》の持つ意味はかなり大きいのです。

 
もちろん、「現実的」な「解決策」も大切です。しかし、本人にその準備ができていない段階でそれを提示しても反発されるだけで先に進めません。特に「押し付け」と本人が感じてしまい、感情的にそれを拒否してしまっては、もしかすると【最善】かもしれない「解決策」を採ることができなくなってしまうかもしれないのです。感情的にこじれてしまっている段階では、「現実」も「正論」も決して相手の心には届きません。それを回避するために、感情的な部分も含めて、耳をすませ、心を寄り添わせていくことが、まずは大切なのです。

 
「現実的」な話や「正論」は、相手が普通の状態
(精神的にも、状況的にも)であるならば、ある程度素直に聞けるでしょうし、多少の感情的なしこりを感じたとしても、そうした部分はお互い様だから、何事も無く過ぎていきます。しかし、相手が切羽詰っていて余裕の無い状態であれば、そうした「普通の何気ない対応」が相手の心を深く傷つけてしまうことが少なくないのです。

 
だからまず、相手が「現実的」な話や「正論」をも含めて、冷静な判断力を発揮できるような状態になるまで、「現実」や「正論」は封じた方が良い場合もあるということです。「機が熟す」という言葉がありますが、環境を整えながらそれを待つ。「感情的な部分の共感」も含めて耳をすます……というのは、その第一歩なのです。自分の子どもや家族というのは、自分の人生の中で特に大切な存在ですから、普通の状態でない場合は、特別に注意を払った丁寧な対応を心掛けたいものです。

 
もちろん、可能であれば、より多くの人に丁寧な対応ができれば素晴らしいと思います。しかし、いつも「特別に注意を払った対応」を全ての人を相手に出来るわけではありません。と言うよりも、人間にそんなことは不可能であり、無理にそうしようと努力すれば確実に自分の心が蝕まれ、おかしくなってしまうでしょう。その意味では「普通の何気ない対応」というのは、そうならないための無意識の安全弁かサーモスタットのようなものなのかも知れません。

 
また、人間誰しも、精神的に余裕のある時には、わりと他の人の話を聞いてあげられるものです。そういう時に、少し「耳をすませてみる」と、「普通」だと思っていた相手が「普通の状態」でないことに気づく場合があります。そして、モモのように誠意を持って真剣に話を聞き出すと、思いもかけなかった事実や悩みや思いが吹き出す事もあります。しかもその内容が聞く側の人にとっては重すぎて何も出来ない事だってあるのです。

 
でも、慌てないで下さい。無理をせずに出来る事……。そう、モモと同じようにただ、真剣に相手の話を聞き続ける事は出来るはずです。心を合わせてそばにいてくれる、そんな人が存在していると実感できる、それだけで楽になる事があります。下手な解釈や場当たり的な解決策を口にしなくても、自分の辛さや苦しさや悩みを理解してくれる人がいると信じられる事が、人に希望を与えるのです。

 
しかし、精神的に追い込まれている度合いが強いと、自分の辛さにしか目が行かなくなり、その中だけで堂々巡りをしてしまい、手を差し伸べようとしてくれる人に対してさえも心を閉ざしてしまったり、イライラや持って行き場の無い怒りをぶつけたりしてしまう場合があります。そんな時には、それでも聞き続けるというのは本当に辛いことかも知れません。特に、不登校やひきこもりになってしまった本人たちは、その状態を自分自身としても簡単に受け入れるのは困難ですから、「普通の状態」だと考えない方が良いでしょう。

 

だけど、少し考えてみて下さい。他の人には出来ないかもしれないけれど、信頼している相手になら、自分の弱い部分を見せることが出来るし、無理を言ったりして甘えることも出来る……ということが人間にはあるからです。

 
そうした事が少し分かっていると、大切な人が自分にとって辛い言動をしても、何とか受け止められる場合があります。必ず受け止められるとは言いませんが、知識として知っていることで、わずかずつでも許容範囲が広がるという事はあるのです。

 
もちろん、何もかもを自分ひとりで背負えるという訳ではありません。と言うよりも、あまり自分ひとりで背負い込んでしまうと、その許容範囲を超えたときの反動が大きく、返って周囲の人に多大の迷惑を及ぼす場合だってあるのです。だから、問題が自分の手に余る場合は、絶対に一人で抱え込まないようにすることが大切です。精神的に余裕がないと周りが見えにくくなるものですが、それでも、落ち着いて周りを見回し、耳を澄ませてみた時、意外なところで、実は手を差し伸べようとしている人の存在に気づくことがあります。そういう意味でも「耳をすましてみる」ことは大切なのかもしれません。

 
逆に、「耳をすます」という意識のない人はどうなるか。日々のニュースで、その典型と言える人達が新聞やテレビのニュース、雑誌の記事などに毎日のように登場しています。そう、安倍総理と与党の中心にいて、違憲・売国の
TPPや戦争法案を成立させ、自らとオトモダチの利益追求のみにやっきになっている人々です。他者の意見に耳を貸さず、嘘と詭弁に満ちた言い逃れやごまかしでまともな議論から逃げ、自分勝手な主張を繰り返す人々。その姿がどれほど醜く恥知らずに映るかは、説明する必要すらないでしょう。普通の人なら、まあ、そういった人間もいる……ですむのですが、一国の首相ともなるとわれわれ国民が被るリスクは大変大きなものとなります。東京オリンピック誘致の際の原発事故の「アンダー・コントロール」という大嘘は、ドイツ辺りではかなり問題になっていて、放射能汚染の拡大と対策についての無策と嘘が東京オリンピックの中止につながる可能性も出てきています。また、マスコミの弾圧は、ドイツばかりではなくアメリカやイギリスのマスコミにも取り上げられています。憲法や法治主義をないがしろにする言動は、日本が近代国家ではなく軍国主義独裁国家になりつつあると見られ、テロを呼び込む危険性も高まっています。

 
おっと、話がそれてしまったようです。「耳をすます」ということに話を戻すと、安倍総理と自公政権、そして与党の国会議員たちは、その反面教師と言えるでしょう。あそこまでひどくなくても、相手の話をきちんと聞く姿勢を忘れていないか……と振り返ってみることもできるでしょう。相手の質問や疑問に真摯に応えているか…ということを考えてみてもいいかも知れません。相手の発言中にヤジを飛ばすように、小学生レベルでもまともな子ならしない礼儀作法はほとんどの人はわきまえていると思いますが、相手の発言中に自分勝手な発言をして相手の話を遮るようなことは、ついしてしまっているかも知れません。彼らの言動を反面教師にして、ちょっと自分の「聴き方」を振り返ってみるといいのではないかと思われます。

 
もちろん、知っているすべての人々に対して、すべての時間で「耳をすます」ということは物理的にも精神的にも無理なことです。しかし、せめて自分の身の周りにいる本当に大切な人の話には、毎回は無理としても、それなりに時間を取って、耳をすませたいと思います。毎日の暮らしの中で私の身の周りに大切な人もそれなりにいます。けれども、私自身も聖人君子ではありませんので、精神的に余裕の無いときにはバカなこともしますし、他の人の心情にまで思い至らずに無神経な言動をとったりもします。ただ、そういう場合でも、なるべく自分の心に「耳をすませて」心の余裕を失っていないかどうかを確かめるように心がけようと考えています。

 

 
私の好きなシンガーソングライター、谷山浩子さんが
1990年代に発売したアルバム「銀の記憶」の中に「ひとりでお帰り」という歌があります。その一節には、こんなフレーズが並んでいます。『3月のライオン』の主人公、桐山零くんも、小さい頃に両親と妹を事故で亡くして、お父さんの友人であった棋士に引き取られ、養父の実の子どもたちとのトラブルの中で長く孤独な日々を過ごしていました。その経験があってのひなたちゃんへのかかわり方は、ちょうどこのフレーズと重なりあってきます。

 

きみの今のその淋しさが遠い街の見知らぬ人の

孤独な夜を照らすささやかな灯に変わるだろう

 

自分の辛さや淋しさや苦しみを見つめ、それを超えて生きていこうとする体験が、いつしか出会う誰かの辛さや淋しさや苦しみを和らげる力となるかも知れない。そう考えると、まず自分自身の心に「耳をすませる」勇気が湧いてきます。

 
もう一つ、こんなフレーズもあります。

 

 たとえば夜が深く暗がりに足が怯えても

 まっすぐに顔を上げて心の闇に沈まないで

 

この歌を聴いていると、自分が辛いときでも、他の誰かのために何かをしてあげられる強さを持ちたい……と思います。まあ、なかなかそれが出来ないから、そう思うのでしょうけれど。でも、自分の心に「耳をすませ」、周りの人々の言葉に「耳をすませて」、今よりも少し強く、今よりも少しだけ優しい自分になりたいと思います。

 
3月のライオン』読みながら、エンデの『モモ』を思い出し、それから、こんなことを考えていました。今の自分の力ではまたまだ無理ですが、いつの日か、桐山零くんやモモのように、いつでも、自分も含めたあらゆる存在に対して「耳をすませる」ことができる人間になれたら良いと思いませんか? 少なくとも私は、そう思います。

 

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2016年10月31日 (月)

足の痛み

10月になってから、仕事の忙しい毎日が続いた。そのせいか、先週辺りから、足の鈍痛が続いている。立ちっぱなしの仕事が年老いつつある身体に堪えているのだろうが、風呂で丁寧にマッサージをして寝ると、けっこう楽になる。マッサージについては何人かのファン(?!)がいる程度の素人だが、中には「マッサージ屋には触らさないけど、TACさんなら良いよ」と言ってくれる方もいる。たぶん、指先の触覚が鋭い事から、痛めている部分を探ってピン・ポイントで押さえていくのが功を奏しているのだと、自分では思っている。
 
その触覚で自分の足を触ってみると、足の裏から太ももまで、意外なところが張っていたり熱を持っていたりするのがわかった。その部分を丁寧に抑え、ほぐしていくと、痛いような心地よいような微妙の感覚が患部以外のところにもつながっていく。これ程丁寧に足のあちこちを触ったことはなかったので、こんなところと関係しているのか……という「発見」もけっこうあり、それがまた、どこかしら興味深くて面白い。
 
今日は久々に昼仕事が休みになったので、足は結構休ませたつもりだが、まだ、鈍い痛みが右ひざを中心に残っている。風呂の中でのマッサージは今日も忘れずにしておいたので、少し足を高めにして寝ようと思う。感触からすれば、機能的な不調というよりも、年齢による回復力の衰えと疲労の蓄積が原因と思われるので、マッサージを続けて丁寧に対応したい。ある程度時間はかかりそうだが、自分の年齢を考えれば仕方がないという気がしないでもないので、大事に自分の体と付き合っていきたいと思う。

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2016年7月31日 (日)

マイノリティーの排除という弱さ

障がい者の大量殺人という痛ましい事件が起きた。報道によれば、加害者の考えの中にマイノリティーの排除があるらしい。だが、その思想は、実は安倍政権や政権与党の中にも色濃く存在する。もちろん、首相も与党議員も露骨な形でそれを出しているわけではない。けれども、沖縄や介護、障がい者への政策的な対応や行動を見れば、安倍首相をはじめとする政権与党が、明らかにマイノリティーの側に対する抑圧に大きく舵を切っているのがわかる。特に第二次安倍政権以降にその傾向は強く出ている。従って、加害者の衆議院議長への手紙は非常に象徴的でもある。現政権が進めたマイノリティーへの弾圧・抑圧をより凄惨な形で実行したのが今回の事件だという分析もできるのである。
 
表面に出ているのは、暴力と残虐性ということになるが、個人的には、それが凄惨であるほど、加害者側の心の弱さや狭さが浮かび上がる。「弱い犬ほどよく吠える」ということわざがあるが、本当に強い心を持っていれば他者に寛容で弱者にやさしくできるし、マイノリティーを排除する必要はない。マイノリティーの排除をするということは、そうした暴力的な姿勢をとることで自らの「弱さ」を隠蔽し、「強さ」を誇示したいという心の表れであろう。
 
それに気づき、自らの弱さを自覚して、改善のための努力をしようとするのであれば、まだ救われる可能性がある。けれどもそうした自分の弱さから目を背け、ごまかそうとする限り、結局は自ら不幸を呼び込むことになるだろう。
 
 

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2015年9月30日 (水)

ねむい…

ここ何日か、この時間帯になるととても眠気を感じる。昼間外で働いて体力を使っていることもあり、ある意味では当然で健康的な話なのだが、長い間夜型人間を続けていたので、気持ち的にはどこか釈然としないものがある。
それとともに、これも仕事の影響なのだが、基本的に早起きになった。平日は6時前に起きることが多いので、これもまた健康的な話なのだが、一方で、睡眠時間を平均すると、だいたい6時間弱ということだろうか。昼間の仕事のことを考えると、もう少し睡眠時間を長くしたいのだが、どうも長時間寝ることができない。
以前に、「寝るのにも体力が必要」という話を聞いたことがあるが、年齢的なものを考えれば、若いころのように休みの日は10時間とか12時間などということは最近では考えられない。せいぜい8時間で精いっぱいというところだ。
べつに「アンチ・エイジング」などという若作りはしたいとも思わないので、歳を重ねることが悪いとは考えていないし、逆に、年齢に応じた成熟を醸し出すような歳の取り方が理想なので、良い形で歳を取りたいと思う。それでも、体力の衰えは少しさびしさを感じる。この眠さも、その辺りのことが絡んで、気分的にすっきりしないのだろうか。

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2015年7月31日 (金)

嘘について

子どもの頃は「嘘は絶対にダメ」と教えられてきたが、臨床心理学をそれなりに学んだ今、嘘を全面的に否定する気はない。弱い自分を何とか守り、自我の崩壊を防ぐためについてしまうような嘘は、ある意味では人間として仕方がない部分もあるからだ。また、誰かを守るために自分を犠牲にしてつく嘘もある。弱い立場の人々を守るための防波堤となり、自分が傷ついたり損害を被ったりするような嘘ならば、心情的には許せるように思う。
ただ、悪質で許せないと感じる嘘もある。自分の失敗やミスをごまかし、その責任回避を図り、結果として他の人やより弱い人たちを傷つけるような嘘である。あるいは、その嘘によって他人をだまし、自分が利益を得ようとする嘘。嘘というよりも詐欺だろう。
今、日本の政治には嘘が満ち溢れている。かつての政権もたくさん嘘を重ねてきたが、現在の政権ほどのウソツキは多分存在しないだろう。戦争法案の審議で安倍政権の支持率が急落しているが、これは「理解が進んでいない」のではなく「理解が進んだ」からこそ、政権の嘘まみれの発言に怒りを覚える国民が急増しているからだろう。
ハワイでのTPP交渉にしても、自民党は「TPP反対」を公約に掲げていた。つまり、国の運命を左右するような重要事を嘘をついてあっさりひっくり返し、国民の安全や富をアメリカ多国籍大企業に売り渡して恥じないことを進めているのである。
個人の嘘のレベルなら、ある程度仕方のない部分もそれなりにある。けれども、政権与党の嘘は、多くの国民や国の富を巻き込み、国民と日本を不幸にしていく。こういう類の嘘は、絶対に許してはならない。

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2015年5月31日 (日)

加害者の意識

被害者は忘れない、ただ許すだけだ。そして、加害者の真摯な謝罪が積み重なってこそ、それを許そうという気になれるのだろう。けれども、加害者が自らの罪と真摯に向き合おうとしなければ、さらにはその罪をごまかそうとしていたら、被害者は加害者を許すことはできないだろう。様々な事件の報道で、真摯に謝罪しない加害者に対して我々がどんな気持ちになるかを考えれば、それは容易に想像できる。
だが、それを理解できない…あるいは理解しようとしない者もいる。太平洋戦争において、原爆や東京大空襲などのことを考えれば、日本国民は被害者という面があることは否定しない。どちらも、抵抗できない一般の民衆を無差別に爆撃したものだから。けれども、実はその前に南京や重慶といった都市を無差別に爆撃したのは日本帝国軍である。だから、被害にあった民衆にとって、日本は大日本帝国軍は明らかに加害者なのである。では、加害者である日本は真摯に自らの罪に向き合った犯罪加害者のようにきちんと謝罪したと言えるだろうか。戦後70年という節目にあって、村山談話と河野談話という二つで謝罪は十分なのだろうか。戦犯を合祀した靖国神社に多くの大臣や国会議員が参拝する姿は真摯な謝罪と被害者の目に映るだろうか。そうではないだろう。
最初の「宇宙戦艦ヤマト」においてヤマトはガミラス本星での戦いで、鉱脈を波動砲で打ち抜き、ガミラスの都市を滅ぼす加害者となる。古代進は「我々に必要だったのは戦うことではない。愛し合うことだった」と叫ぶ。リメイクされた2199では、ガミラスに対する加害者としての姿は描かれておらず、落下する大要塞を波動砲で打ち抜く。これによって多くのガミラス人が救われる。物語としては受け入れやすい形に変わったが、それでいいのか…という思いもある。
人は生きていく中で多くの人と出会い、かかわっていく。その過程で、それぞれが他者によって傷つき、また他者を意識せずに傷つけたりもする。我々は、自分の加害者の部分にも意識を向けることも必要だと思う。

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2015年4月30日 (木)

罪や間違いを認めること

日本と日本人の国益をアメリカに売り渡そうとする売国総理がアメリカ議会で演説した。が、侵略に対しての直接の謝罪と反省は言葉にすることはできなかったようだ。結局彼は、自らの未熟さや心の狭さを全世界に向けてアピールしたことになる。個人レベルの話であれば、自業自得だが、問題は、彼が日本の政治家のトップである首相を務めていることにある。彼が首相であるということが、日本の国会にとって恥であるばかりでなく、国益面からも大きなマイナスであろうし、日本人として、本当に恥ずかしい。
まともな大人であれば、自らのミスは率直に認め、それに対する被害や損害にはきちんと謝罪し、その反省の上に立って関係の改善に努めるものである。それは、国家としても当然必要なことであり、どのように誤魔化そうとしても日本がアジア諸国を侵略して欧米に代わって利権を得ようとしたことは歴史的事実として消すことはできない。言葉よりも、大日本帝国と日本軍が行った行動がその事実を示している。それを真摯に反省し、その謝罪も兼ねた援助や協力事業によって、我が国は諸国の信頼を得てきたのである。
侵略しなければ、ほかの帝国主義諸国の侵略されていたかもしれない…という言い方も聞くが、それは侵略され被害をこうむった国の人々に対しての言い訳にすらならない。被害者がどれだけ不利益を受けて人権を侵害されたか…という問題を前にして、侵略する側の心情や事情は意味がない。それを「わかってほしい」というのは【甘え】であって、未熟な国家であればまだしも、成熟した先進国・民主国家を自認するなら、口が裂けても言えないことなのである。
だがそれは、売国首相と彼を中心とした政権は理解できないようだ。その結果、日本という国の評判は泥にまみれ、多くの国民がそのツケを償わなければならなくなる。他者の言葉を聞かず、力で自分の思いを押し通そうとする権力者がテロを呼び込み、暗殺されることも少なくないのは歴史が証明している。が、巻き添えになる国民はたまったものではない。

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2015年3月30日 (月)

内政の失敗と外敵

歴史を紐解くとき、内政に失政を重ねた政権は、外部に「敵」を作ってそれをあおり、失政への批判から人々の目をそらそうとするケースが多い。日本を敵視する言動を繰り広げてきた韓国の朴政権や中国なども内政の矛盾の拡大と政治腐敗の状況を見るにつけ、それを感じる。が、それはわが日本も同じである。
相手に口実を与えないように冷静に対応しながら、批判をうまくかわしつつ、経済やその他の活動で日本人がより動きやすくなるように相手に「貸し」を作っておく、そうした大人の対応によって、長期的に多くの国益を手にすることができるだろう。そして、戦後の日本は、なんだかんだと言いながらも、わりあい冷戦状況や平和憲法を上手に利用しながら、うまく立ち回ってきたのではないかと思う。
だが、安倍政権は多くの失政を積み重ね、マスコミのコントロールも思うに任せず、批判を真摯に受け止めたうえで落としどころを探っていく大人の対応ができないため、中国や韓国を敵視して、一部の夢想右翼にだけは支持されているようだが、結果としてアメリカへの隷属に終始しつつ、そのストレスを東アジアの国々やイスラム圏への「強気」の姿勢での対応によってごまかそうとしている。
「弱い犬ほどよく吠える」という言葉があるが、安倍政権の姿は、まさしくその典型と言えよう。自らが精神的に未熟で実際は弱いと、相手の話を聞いたり、反対意見を含めた話し合いの中で譲るところは譲りつつ、最低限の主張はきちんと認めさせる形で落としどころを探る……という余裕を持った対応をすることができない。実は、「譲れる」ことこそが「強さ」の証なのだが、「弱い」からこそ「譲れない」のである。そしてそれは、ある程度成熟した相手には見透かされて、交渉の中で多くの利益を失ってしまう。一個人の話であれば、「自己責任」だが、一国の中心的政治家ということになると、政権の失敗がごまかされて積み重なっていくと、多くの国益が損なわれ、現在の国民ばかりでなく、未来の国民にも多大な不利益をもたらすことになる。
嘘と感情的な言葉によってごまかそうとしているが、政権の姿勢は「聞く耳を持たない」「暴力でことを進める」ということに終始する。これは、テロリストの心情と非常に近い。近代以降の先進国において、話し合いによって落としどころを探り、ことを進め、失敗したらその都度修正していく…という姿勢は「常識」である。けれども、問答無用で嘘と暴力によってことを進めるのであれば、対立する側は話し合いをしても意味がないと考えるようになる。これは、テロを呼び込む土壌となる。
弱くて、聞く耳も受け止める懐の深さもない最悪のリーダーが国のかじ取りを続けている。日本という船が山に登ってしまい身動きが取れなくなる危険が一層深まっている。

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2014年2月28日 (金)

メカが好き!?

今月の夢分析ゼミで、夢の中で戦闘機などのプラモデルを物色した話をしたところ、参加した女性陣の反応が鈍かった。もちろん、戦争には反対なのだが、小さいころからゼロ戦や隼、疾風、飛燕などの旧日本軍の戦闘機が好きで、そういった戦闘機や大和、武蔵、長門などの戦艦といったいわゆる【兵器】のプラモデルをたくさん作ったものだった。特にゼロ戦は21型、32型、52型、52型丙、54型と各種そろえていて、シルエットと塗装を一目見ただけで型を理解するほどだった。だから「パールハーバー」の映画を見ていて、何故21型ではなく52型が飛んでいるのか…とツッコミを入れたくなったくらいである。
こうした「メカが好き」の感覚は男性諸氏にはおおむね理解されるが、多くの女性には理解がし難いらしく、中には「兵器」というだけで拒否反応を示す方もある。それは、わからなくもないが、やっぱり「メカが好き」という感覚はいかんともし難い。それが、シュピーゲル号(キャプテンウルトラ)やウルトラホーク(ウルトラセブン)、マイティージャック号、改造サイクロン号(仮面ライダー)、宇宙戦艦ヤマト、海賊戦艦アルカディア号(キャプテンハーロック)、サンダーバート……等の熱狂にもつながっていたのだと思う。
もちろん、こうした「兵器」を実際に使われて攻撃されてはたまらないし、戦争に向かうような風潮は危惧するし、戦争には反対である。しかし、「メカが好き!!」という感覚は如何ともしがたい。男の性……というか、女性に比べて精神的にいつまでも「ガキ」の部分を捨てきれない幼さなのかも知れない。別に、理解はしてもらわなくてもいいし、理解してもらえるとも思っていない。ただ、大切なパートナーにはあきらめてもらって野放しにして放置しておいてほしい部分である。プラモデルやフィギアなど、何の役に立つわけでもないが、下手に酒や賭博にに溺れたり浮気や酒に走ったりするようなことに比べて、ずっと問題は少ないし、結局は安上がりになることだろう。男の持つ「ガキ」の部分を大目に見てやる寛容性は、相手との関係を円満に保つ秘訣の一つかもしれない。

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2013年7月31日 (水)

努力と自信

自分に自信を持てない人が増えているようだ。カウンセリングや相談の現場ばかりでなく、日常生活の中でも、アジア諸国に差別発言を繰り返しながらアメリカの要求には反対できない政治屋たちの言動の中にもそれを感じることがある。
特に問題となるのは、自尊心が保てないほどの自信の無さだろう。差別発言やいじめ、セクハラ、パワハラなども、その背景には、そうした言動に寄って虚勢を張り、周囲に対して自分を「強い存在」に見せようとしているように感じられるケースは多い。本当に強い人間であれば、虚勢を張る必要はないから、差別やいじめ、パワハラなどをする必要がない。逆に言えば、差別やいじめ、パワハラなどをする人間は、本当の意味では力の無い弱い人間であると言えるだろう。
では、本当の意味での自信を持つにはどうしたら良いのか。まず、自分自身の「現実」をきちんと見つめ、「弱い部分」を自覚する。そして、現状を改善するためや、「弱い部分」を克服するために、今の自分が続けられる努力を考え、実行していくのである。現実からきちんと出発した具体的な努力は、やがて、必ずそれなりの結果が伴ってくる。そうした「結果」と努力を続けた「時間」そのものが、本当の意味での「自信」を育てていくのである。
そうした努力を続けていく過程で、周囲にその努力を正しく評価してくれる人がいると、努力は続けられやすい。意味のない出まかせの褒め言葉ではなく、現実の言動をベースにした具体的な評価である。特に、本人が気付いていなかった「良い点」を具体的に賞賛してやることには大きな意味がある。山本五十六は「して見せて、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かず」という言葉を口にしたと言われているが、正しく褒めることがポイントである。ただ、「させてみた」時に能力の高い人は逆にアラが目に付いてしまい「小言」を重ねる場合がある。これは、本人のやる気を削ぐ効果の方が大きいので、注意をした方が良いと思う。あくまでも、「正しく褒める」ことが大切なのである。

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