2009年10月16日 (金)

死刑が厳罰にならない!?

無差別殺人の裁判で死刑が求刑されたり、死刑判決が出たりしているのは今までの社会通念からすれば当然…という感じはするが、事件によっては必ずしも死刑が厳罰にならないのではないか、と感じることがある。自我の未熟さゆえに、自らの行為によって自殺をする勇気や決断力を持ちえず、自分よりも「弱い」と感じられる人々を無差別に殺害することで死刑にしてもらおう…という甘えがあるのではないか、と見える例がけっこうあるからである。

本人は、他者の手による「自殺」…つまり死刑を望んで無差別殺人という行動を選択している以上、死刑こそが本人の希望であり、願いなのだ。それに対する死刑判決は、本人の希望を叶えることになるだけで、本人にとっては望んだ通りの結末を迎えられることにもなる。とすれば、死刑判決は本人にとっては罰にはならないし、同じようなことを考える人に対する抑止効果はなく、同じような犯罪を助長することにもなりかねない。

犠牲者の家族の感情からすれば、憎しみゆえに犯人の死を望んだとしても、その憎しみは死を犯人が望む以上復習とはなりえず、返って犯人の望みを叶える結果になって犯人を喜ばしてしまう場合も出てくる。犯人の「苦しみ」を考えるならば、逆に「死」を与えるよりも苦しい「生」の中に縛り付けられる方が辛いと言えないこともない。その意味でも、死刑は憎しみの感情の方向性をズレさせ、思いを拡散させてしまうことにもなりかねない。

江戸時代の逸話で、死刑に相当する重罪を犯した犯人に対して、とある名君がその罪を理解させるに十分な教育を施して罪を自覚させた後死刑に処した、というものを何かで読んだ記憶がある。自らの犯罪に罪悪感を持たずに死刑を望む犯人に対する死刑判決…ということと比較して、いろいろと考えさせられる話である。

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2009年9月30日 (水)

睡眠不足ぎみ!?

ここ数日、睡眠不足ぎみの夜が続いている。しかも、やるべきことをしていてついつい時間が経ってしまい、結果として睡眠時間が少なくなってしまった…というパターンではなく、やるべきことはあるのだが、エンジンがかからないためについついサボってしまって、今日のところは寝て…と布団を敷いたところで、手元にあった本をつい開いてしまい、少し読んでいたらいつの間にか1時間、2時間…と経ってしまって睡眠時間が少なくなってしまった…というパターンである。

たまに、ということであれば、「まあ、そういうこともあるかな」で済むのだが、週の初めからずっと続いてくる…となると、ちょっと心の疲れを意識せざるを得ない。「やるべきこと」に振り回されるのは良くないが、「やるべきこと」をある程度受け入れながら上手に消化していく…というのは大人として当然のことである。ましてや、今の時点でいくつか抱えている「やるべきこと」は、自分としても苦痛ではなく、けっこう興味を持って取り組んでいることなのだから。

あるいは、体力的な疲れが、精神面にも影響を及ぼしているのだろうか。自分の年齢をきちんと受け入れるのも大事なことだし、年齢的にはもうとても「若い」とは言えない以上、体力の衰えは当然である。とりあえず、早く身体を休めることにする方が良いかもしれない。

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2009年8月12日 (水)

依存の背景

押尾学や酒井法子夫婦の事件で、芸能界の薬物依存がクローズ・アップされているが、依存の背景をきちんと分析し、それを生じさせる構造にメスを入れることなく騒ぎ立てるだけでは問題は解決しない。罪を犯した人間を徹底的に排斥するだけでは同じような事件が繰り返されるだけである。

酒井法子らの事件は違法な薬物の所持・使用/あるいは依存が問題となるが、依存は他にもアルコールやセックスなど様々な場合がある。いずれにしも、自我の未熟さや弱さが様々な依存に結びついてしまう例が多い。心の中に広がる虚無感や絶望感をごまかすため、あるいは過大なストレスを処理しきれずにそれに走ってしまう場合、他にも断れずに周りに流されてしまう場合などが考えられる。

では、昔は今日ほど目にしなかったのはどうしてか。日本の社会は「出る杭は打たれる」というような自我の確立を否定するような諺が示すとおり、自我の確立をそれ程重視しなかったが、その分、1人ひとりを支える集団が様々な関係を通して弱い自我を支えていた。けれども、資本主義の進展の中で、集団や社会が解体され、弱い自我を支える関係が弱体化してしまった。

こうした背景に目を向けず、個人に責任を押し付けるだけでは問題は解決しない。「悪」を異化して排除し続けても、社会がそれを再生産する構造になっているのである。マスコミもセンセーショナルに騒ぎ立てるだけでなく、こうした構造の分析やそれを変えていくための手立てを提言するような報道姿勢が必要だろう。

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2009年8月 9日 (日)

酒井法子は重要人物?

酒井法子が薬物法違反で逮捕された。芸能界や大学生の薬物汚染のニュースはこのところ多いし、事実認定が行われ、裁判の後刑が確定すれば、それはそれで憂うべきことではあるが、酒井法子は政治家でも財界の要人でもない。彼女が逮捕されたからといって、国民生活への影響は考えられない。ところが、NHKをはじめとするマスコミの取り上げ方は異常であった。SMAPの草なぎの泥酔全裸事件といい、芸能人の醜聞よりも、もっと重要なことがある。

例えば、同じく薬物違反で問題になった議員がいたが、そのニュースは酒井法子よりもずっと小さかった。同じタレントでも、疑惑の選挙で千葉県知事になり、市民から選挙違反で告発されている森田健作の方が社会的には問題である。けれども、その報道は信じられないほど小さい。芸能界の薬物問題よりも、もっともっと緊急性があり大切なことは山ほどある。

確かに、芸能界の薬物汚染は問題である。ただ、精神的に見れば、常に他者の視線にさらされ「良い人」を演じ続けなければならないストレスは大きい。だから、自我が未成熟な場合は、その精神的な弱さゆえに薬物に手を出してしまう可能性はあり得る。今回の酒井法子の失踪についても、精神的な弱さやもろさ…という可能性を考慮すれば、解離性の逃走である場合もあり得る。幸い、大事には至らなかったが、警察やマスコミの対応を外から見ている限りにおいては、自殺という可能性もあったのではないか。

一方、酒井法子事件の大騒ぎによって、人々の目から逸らされてしまった事件や問題があったのではないだろうか。芸能人は聖人君子ではない以上、間違いも犯すだろう。それは良くないことかもしれないが、大騒ぎして徹底的に糾弾する必要はないのではないか。政治家や大企業、官僚などの言動にこそ、もっともっと注視が必要だろう。

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2009年7月13日 (月)

現実に向き合うこと

教育相談などの場で、相手がきちんと自分の現実に向き合っていないなぁ、と感じることが少なからずある。大変な現実、受け入れがたいと感じられる現実を前にして、それから逃げてしまうパターンである。

子どもであれば、正の数・負の数の計算ができないことに向き合わずに自分をごまかして、「数学の先生の教え方が下手だ」とか「数学なんか何の役に立つんや(現実社会では役に立たない)」等といって強がったり、ごまかしたり、責任転嫁をしたりして、努力をせずにそのまま放置する…といったような例である。

この場合、自分が正の数・負の数の計算ができない…という現実に向き合えば、計算の仕方を教えてもらい、練習を重ねて、きちんとできるようにする、という目標を立ててそれを実行すれば、たいてい出来るようになるし、それを土台にして、文字の式の計算や方程式の計算に進んでいける。けれども、自分をごまかし、現実から逃げている限り問題は解決せず、いつまでたっても計算は出来ないままである。

ただ、子どもの場合はまだ、可愛げもあるし、その後の大人のサポートと本人の自覚によって変わっていける可能性は高い。けれども、大人の場合は本人にとっても、周りにとっても不幸な結果になる。

例えば、麻生首相や自民党なども、現実に向き合うことをおろそかにし、それをごまかし続けた結果、状況は悪化の一途を辿っている。麻生首相には、現実を見つめ、その現実に向かい合う機会は何度もあった。党利党略/将来の自民党のことを考えるならば、昨年秋、補正予算を成立させた直後に衆議院を解散すべきだったのだ。その結果、その時点の選挙で敗北したとしても、傷を最小限に抑えられただろう。

ところが、敗北の予想にビビッてそれをどんどん先延ばしをした結果、事態はどんどん悪化していった。現在、自民党内では不人気の麻生首相の退陣を求めて、新しい首相の下で選挙に臨もうとする動きもあるが、それに対する国民の評価自体も非常に厳しい。これも、現実に向き合うことから逃げた結果といえる。

現実に向き合うことは、時として非常に苦しい。けれども、そこから逃げなければ、先に進むことが出来るのである。

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2009年6月26日 (金)

決断力と自信

麻生内閣の迷走・暴走が続いている。麻生首相率いる自公政権は、完全に政権担当能力を失っているが、麻生首相と自民党には決断力を失ってしまっているのだろう。なぜ、決断できないかと言えば、自信がないからであり、自信がないのはきちんと自分の前にある課題に向き合い、努力を積み重ねていないからである。それは、人生の道のりの中で自分自身に向き合い、課題に立ち向かい、越えてきた努力の積み重ね…というものが無かったからだろう。

そうした意味において、個人的には哀れだと思うが、それによって大いなる迷惑を被っている国民の立場からすれば怒りを覚える。歴史的には、日中・太平洋戦争を主導した東條首相も、人間的にはどうであれ、非常時の首相としての決断力に欠けていたように思われる。非常時に決断力の無い政治指導者に率いられる国民の不幸を思うと悲しくなる。

「若いときの苦労は買ってでもやれ」とか「波風体験は必要だ」という言葉を、見たり聞いたりすることがある。それは、ある面では正しい。シンドイ思いをするのは、自分の人生の中でのいくつかある壁の1つにぶち当たっているからだと考えられるが、その壁を越えられてこそ、苦労や波風体験が意味を持つ。それによって新たな力を得たり、人間的な成長や成熟につながったりするからである。だが、すべての人が自分の前に立ちはだかる人生の壁をうまく越えられるわけではない。逆に、越えられずに傷を負う場合も出てくる。問題は、その時の心の姿勢である。

人生の壁と、自分自身の能力不足にきちんと向き合っていったん諦める場合は良い。壁=自分自身の現在の課題を自覚することになり、それを克服するための努力を積み重ねられるからである。そのため、時を置いて同じ壁(課題)が現れたとき、それまでの努力の積み重ねによって、以前より越えられる可能性は高まっている。そして、壁を越えることができれば、人間としてさらなる成長・成熟することにつながっていくのである。

それに対して、自分の課題に向き合わずに、ごまかしたり、逃げたりする場合は悲惨である。不思議なことに、時を隔てて必ずといって良いくらい、同じ壁/問題に突き当たってしまうのである。そして、その場はごまかしたり逃げたりすることができても、人生において解決しなければならない課題は、少し時を隔てて、また自分の身に降りかかる。逃げたりごまかしたりし続ければ、どんどん自信を失い、決断できなくなっていく。麻生首相の行動はその典型であり、どれほど虚勢を張って自分や周囲をごまかそうとしても、結局は自分の身に返ってきて、より悲惨な状況に陥ってしまうのである。

だからこそ、真摯に自分自身に向き合い、壁を越えようとする努力が必要になる。当然、長い時間を必要とする場合も出てくるが、諦めずに努力を積み重ねることによって何とかなっていくものである。すぐに、うまくいかなくても、失敗が続いても、可能な努力の積み重ねが道を開いていく。無理な目標を設定して、短期間で壁を越えようとしても失敗してしまうことが多い。可能な努力を、自分の現実に応じて時には修正しながらも、続けていくことが「自信」につながり、それが決断力にもつながっていくのである。

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2009年6月 7日 (日)

自我の確立と成熟

不登校やひきこもりの問題と関わっていると、心の問題としての自我の確立と関わらざるを得ない。自我の確立は青年期の課題だが、近代的自我の確立については大人となった日本人を見ていても、「弱さ」を感じる時がある。ましてや、思春期や青年期の子どもや若者を見ているとそうした例はいっそう増える。だが、本来の日本社会の精神的な伝統を考えればそれもまた当然かもしれない。「出る杭は打たれる」という諺があるが、「出る杭」こそ自我の確立の結果であるにも関わらず、現代日本においても、けっこう「打たれる」=周囲から攻撃される場合が少なからずあるからだ。

その意味では、不登校やひきこもりの例の中には自我の確立の課題に取り組んでいる場合が見受けられるのである。もちろん、本人が必ずそれを意識しているとは限らない。いや、意識していない場合の方が多いかもしれない。それでも、不登校やひきこもりという「壁」を乗り越えることで、自我は強くなる。その場合、不登校やひきこもりを経験しない子や若者よりも強い自我を獲得することもある。だから、周囲の大人の立場からすれば、不登校やひきこもりの経験も、そうした自我の確立の試練として乗り越えられるようにサポートできれば良い……と考えれば良いということになる。

ところが、「大人としてのサポート」には、それなりに自我の強さや深まりが必要となる。実は、大人の方が子どもに依存している例があったり、無意識のレベルで子どもの成長と巣立ちを受け入れられずにいたりする場合があるのだ。その意味では、子どもにとっての自我の確立は、周囲の大人に取っては自我の成熟の課題となる。これがまた、思いの外難しかったりもする。自我の問題は、人間の一生の課題とも言えるのである。

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2009年5月18日 (月)

欲望との折り合い

資本主義経済は人間の欲望を肯定しエネルギーにしてここまできた、という見方をしてきたが、特に昨今のグローバル経済の状況は、欲望の暴走がコントロールを失った結果であろう。その結果、世界中の多くの人々が貧困に苦しみ、環境を破壊し続けている。だが、キリスト教をはじめイスラム教、仏教など多くの宗教が欲望の暴走を危惧し、そのコントロールを力説し、他者への博愛や友愛を説いている。資本主義経済も、もともとのルーツを辿ればピューリタンなどのキリスト教文化圏から誕生している。それが、多くの人々を貧困に陥らせ生命の危機すらも感じさせる状況に追い込んでいる。

もちろん、この現実は、様々な偶然や政策、対応のミスが重なって生じたものには違いないのだが、一方でわれわれ自身も欲望のコントロールを怠り、周りに流されてきた部分があった点も見逃せない。周りに流され雰囲気に身を任せ、「これくらいなら…」という積み重ねが「今」をつくってしまったのである。

ただ、現実の社会の中で生きていくにあたって、欲望を完全に消し去ることは不可能だし、また欲望がなさ過ぎると現実社会で生活していく上で様々な不都合も生じてくるだろう。その意味では、現実を生きていくためには欲望を排除することは不可能である。けれども、自分自身の欲望をある程度見つめ直すことが必要になってくるのではないだろうか。特に、コマーシャルや周囲の空気に煽られ、自分の欲望が暴走していないかという点を気にかける必要があるように思う。

もちろん、お金があるにこしたことはないし、美味しいものを食べたり、贅沢をしたりもしたい…という気持ちは誰もが持つだろう。けれども、それを貫くことが、誰かもっと弱い立場の辛さや苦しみにつながっていることはないだろうか。そういうことも少しは考えてみたい。そして、可能であれば、「自分のため」がもっと弱い立場の誰かのためにもつながるような行動にも手を伸ばしたいと思う。

少し考えただけでは、「シンドイ」と感じるかもしれない。けれども「自分のため」だけで動くとだんだん心に余裕を失っていくし、他者との関係も薄れたり切れていったりするので、精神的にギスギスしていっそう余裕がなくなってしまう。他者のことも考えるそのことによって、逆に心に余裕も生まれてくるのである。それに他者のために動くことで他者との関係が生まれたり深まったりもする。それが精神的な余裕につながったり、困ったときのサポートにつながったりもするのである。

結局それは、自分自身の欲望との折り合いをつけるということである。人間である以上、欲望を完全になくすことは無理だろうが、ある程度は欲望との折り合いをつけることで心のゆとりを取り戻したいものだ。

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2009年4月17日 (金)

「虎の威を借る狐」の心もよう

「虎の威を借る狐」ということわざがある。もともとは「戦国策」あたりの古典にあった話だが、虎に襲われた狐が、「自分は神様に動物たちの王となるように命じられた。だから、森の動物たちは自分を畏れ多いと避けて歩く。嘘かどうか、後についてきて確かめてみろ」と言って難を逃れる。もちろん、他の動物たちは、虎の姿を見て恐れた訳だが、虎は本当に狐が偉いのだと誤解したのである。転じて、現在は、実力もないのに他の力や権威のある人の威光を利用して威張ったりする場合のたとえに使われている。

だが、元の話からすれば、狐は明らかに自分自身の非力を自覚している。その上で、生きのびるために、知力を総動員して虎の魔手から逃れたのである。己の非力を自覚した上で、とりあえず他者の力を借りなければならないような状況は、現実社会においてもそれなりにある。ただ、その際に、自覚かあるかどうかはけっこう重要になる。己の非力を自覚していれば、急場をしのいだ後は、後々のために力を蓄えるなどの手を打つこともあるだろうし、何よりも自分の力を錯覚して思い上がったり、弱者を不必要に攻撃するようなこともないだろう。

ところが、自分の非力に対する自覚がないと、自分を過信して能力以上のことをしようとしたりするし、無意識で非力を感じている反動や虚勢のためか、必要もないのに他者を攻撃したりもする。そのような場合、周囲に多大の迷惑をかけたり、周囲から多くの恨みをかったりしているため、「虎の威」がなくなると周囲から叩かれたり攻撃されたりしやすい。その結果として、より多くの人々が傷を負うことにつながったりする。

今の日本を見ていると、自覚なく「虎の威を借る」連中がけっこう目立つように感じられる。世襲議員なども、見ていると明らかに実力不足が見えたりして、自覚のない「虎の威を借る」組が多いように思えて仕方がない。その後の本人の不幸は、因果応報かもしれないが、巻き込まれる周りの人間はたまらない。自覚なく「虎の威を借る」ようなことをしないように気をつけたいと思う。

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2009年3月31日 (火)

降りていく感覚

ここ数日、少しゆとりのある時間を使って、詩を書いている。だが、今ひとつ納得できるところまでいかない。意識の表面的なところで言葉を操っている感覚しかないのだ。そのため、自分の深いところで詩を作ったという実感がない。とりあえず書いてはいるが、もうひとつストンとおちないのはそのためだろうと思う。

小説や童話を真剣に書いている時は、精神的にかなりシンドイ思いもするのだが、集中していく中で、心の深いところまで降りていくような感覚がある。それは、自分として納得できる詩を書いたときも共通するところがあったりする。そんな時は、1つの言葉にも苦しむが、苦しんで苦しんで心の深いところまで降りて言った結果出てきた言葉はストンと胸に落ちる感覚がある。そうやって書いた作品は、詩であれ童話であれ小説であれ、自分としてはけっこう納得のいく作品となる。

ところが今回は、もう1つ集中し切れていない自分を感じている。それでも言葉を操ってとりあえず形にしているのだが、自分として納得できる「作品」になっていない。まあ、まったく書けないよりはましかな……という思いも一方ではあるのだが、それでも、書くからにはやはり深いところまで降りていく感覚を体験したいと考えている。

ここ数日はゆったりしていたが、もう少しすればまた忙しくなってくる。少し環境も変わるので、それが、新しい詩を書くきっかけになってくれると良いのだが……。

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2009年2月11日 (水)

風邪? それとも……

7,8と、研究会で京都まで行っていたためか、2,3日、体調が今1つの状態が続いている。明日で1つ歳を重ねることになるのだが、今年は飲みに出かける元気もない。30代の前半くらいまでは、土日が休めなくても割りと早く回復していたように思うが、近頃は寝不足や遠出による疲れの悪影響が回復しにくくなった。50に手が届こうという年齢からすれば、当然の事かもしれないが……。

昨夜は9時半頃から布団に入ったが、今朝は10時半頃まで布団から出なかった。半日以上も布団の中だったのも最近では珍しい。若い頃は平気で2度、3度と寝られたものが最近は無理して2度寝がせいぜいで、とても半日は持たない。寝るにも体力がいるのだ、と実感している。にも関わらず、今回はほぼ寝ていた…ということで、疲労が極限まできていたのかも知れない。

体調としては、喉はすっきりとしないが、咳が出るわけではないし、鼻もつまっていない。当然、特にくしゃみが続くわけでもない。熱もほぼ平熱である。ただ、少し背中の辺りと奥歯に痛みを感じる。熱も咳やくしゃみもないので、インフルエンザではないと思うのだが、喉に少しひっかかりがあり、身体のだるさも抜けないので、風邪なのかなぁ……という感じである。幸い、日中の仕事はなかったので、今日は安心してゆっくり寝ていた。

風邪は、身体からの声だと考えている。毎日が忙し過ぎると、なかなか身体の声に耳を傾けられないのだが、それが体調をさらに悪化させる原因にもなる。そして、忙しさは身体だけでなく心にも余裕を失わせ、徐々に精神の健康をも蝕み始める。その意味では、風邪を軽視せずに、じっくりと身体の声に耳を傾けるべきなのだ。

さすがに半日以上も寝たので、身体は少し楽になったようだ。といっても、まだまだ無理はしないほうが良さそうだ。今日も、日付けが変わらないうちに、早めに布団に入ろうと思う。

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2009年1月23日 (金)

現実理解の難しさ

人間は誰もが、好むと好まざるとに係わらず、現実の中で生きていかなければならない。けれども、実は、自分を取り巻く現実をリアルに認識する事はけっこう難しい。自分にとって都合の悪い現実から目をそらす場合、あるいは都合の悪い現実そのものを見ようとしない場合が少なからずあるからだ。

けれども、人間として主体的に、生の実感を持って生きていこうとすれば、たとえ自分にとって都合の悪いものであっても、きちんと現実を見つめる必要がある。現実を見つめ、現実から出発しなければ、問題の本質を捉え、状況を改善していくための手立てを見つけられないからである。

ところが、それができない人間は意外と多い。なぜなら、都合の悪い現実を見つめるには勇気が必要だし、そうした現実から出発して状況を改善する努力を積み重ねていくためには、強い意志も必要とされる場合が出てくるからである。その過程で、今までの「自分」を変えていくための努力も必要だが、それにはかなりの痛みも伴う。人間は、なかなか自分を変えられないのである。

例えば、麻生首相なども、現実をきちんと見つめられない人間の1人である。だからこそ、支持率の低下に対して根本的な対策を出し得ず、虚勢を張り、ごまかし、居直っているのだろう。現状を見れば、解散すれば、自民党の敗北は必至である。「現実」を受け入れてそこから出発する覚悟ができず、そこから逃げ続けることによって、その「現実」はより大きくのしかかってくる。放置すればするほど、自民党の敗北はより大きくなるばかりでなく、崩壊の危機すら出てくる。問題から逃げ、解決を先送りすればするほど、問題はより大きくなって再び、あるいは何度も繰り返し自分の行く手をふさぐのである。

もちろん、現実の問題が大き過ぎて現在の自分の手に余る場合もあるだろう。そういう現実認識の場合は、現時点では逃げる…というのも1つの選択肢となる。けれども、そこで大事なのは、「今、自分の手に余るから逃げるのだ」という認識をきちんと持っておくことだろう。当然、現時点で逃げる以上、後々それは形を変えて自分の行く手をふさぐ事になる。だからこそ、その時に備えて力を蓄える努力をするのだ。その場合は、形の上では「逃げ」であっても、大きな視点から見れば「現実」を見据えた対応となる。その場合は、将来的には何らかの解決策が見出せる場合も少なくない。それを知っておく事が大切だろう。

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2008年10月27日 (月)

風邪をひいたかも……

昨日、三重大のシンポジウムのパネラーをして帰って来て夕食を食べた後、すぐに寝てしまった。前日の夜は夜中に何度か目が覚めて、熟睡…という感覚があまりなかったことと、長時間の車の運転で疲れたせいかな? と軽く考えていたのだが、昼ごろから頭がすっきりせず、夕方には頭痛がひどくなって珍しく頭痛薬を飲んでしまった。

結婚していた頃に、元嫁が買った頭痛薬がまだ残っていて、辛うじて使用期限内だったことが幸いしたのだが、逆に言えば、そんな薬が残っているほど、めったに頭痛薬を飲まないということである。頭痛ばかりでなく、少し肌寒い感じもあった。気温自体も今日は先週までと比べて高くなかったが、たまっていた疲れと気温の低下が災いしたのかもしれない。

だが、もうあまり無理がきくほどの年齢ではない。風邪は、「休みなさい」という身体からのメッセージであることも少なくない。そう言えば、先週までは十分な睡眠をとったとは言いがたい日が多かったようだ。素直に身体の声に耳を傾けて、早く寝た方が良さそうである。頭痛も、薬が効いたのか、今は治まっている。ついつい、無理をしてしまいそうな自分を抑え、今日はおとなしく眠りにつこう。

年齢を重ねて、身体のあちこちからは若い頃の強さやしなやかさや粘りが失われ、ガタが来ているところも出ている。長生きをして幸せになりそうな政治が行われていない国だが、それでも大事に使えば、もう少し他の人の役に立つこともできるかも知れない。長生きしたくなるような国ではないが、長生きしたくなる国になるように、やれることから手をつけていくことも大切だろう。そのために、もう少し自分の身体を大切にしても良いかもしれない。

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2008年10月19日 (日)

インプットとアウトプット

最近は、なかなかblogの記事を書こうという気にならない。けっこう忙しくて、疲れがたまっていることも1つの要因なのだろうが、ゆったりとした時間枠の中で、じっくりと集中するまとまった時間がとれないことが大きいように思う。

加えて、細切れの時間の中で「原稿」としてまとめる必要があるものがいくつかあって、そちらを優先することで、低下しつつあるアウトプットのための集中力を使い果たしてしまっているからなのだろう。

人間が人間として生活し、生きていくためには、インプットとアウトプットがバランスよく行われることが大切である。細切れの時間の中で、それでも毎日何らかの本を読み、インプットは心がけているが、このところそれで精一杯で、なかなか自由なアウトプットが出来ない。それが、blogの更新が少なくなる理由なのだろう。

とは言っても、書きたいことが見つからない訳ではない。瞬間・瞬間においては、書きたいことがパシッと突然頭の中にひらめくことも少なくない。ただ、10年ほど前とは異なり、そのイメージに集中して文章にまとめ表現する…ための時間がなかなか確保できないのである。こうした状況はストレスとなり、精神衛生上あまりよろしくない。インプットの充実とアウトプットに気をつけていきたいと思う。

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2008年8月 2日 (土)

友という存在

今日は、松阪に住む大学時代の友を訪ねた。フォルクローレを愛するちょっと変わった男だったが、自分自身がかなり変わっているという自覚があるので、彼の存在を非常に心地よく感じていた大学時代。そして、それは今も変わらない。

大勢でワイワイと騒ぐのが得意なキャラクターではないのだが、それでも大学時代のこの友人をはじめ、高校時代、中学時代のそれぞれで多分親友と呼んで良い友人たちは何人かいる。歳を重ねるにつれてそれぞれの立場で忙しさが増し、そうたびたび会うこともないが、長い間あっていなくてもほぼ無条件に信頼できる。そういう友人がけっこういる…ということは、もしかしたら幸せなのかも知れない。

今日の午後、彼を訪ねた時も、それ程長くいるつもりはなかったのだが、気がついたら2時間が過ぎていた。彼の奥さんも交えて、3人で仕事のことや教育のことを雑然と話していただけなのだが、穏やかで楽しく、そして心休まる時間だった。その時間も、彼という存在があったからこそ味わえたのであり、特に何かを話したいという訳ではないのに、話しているとお互いに通じ合っているという感覚がある。基本的に相手を信頼しているからだろう。

ただ、若い人を含め、いろいろな人の話を聴いていると、必ずしもこうした基本的に信頼しあっている人がいない場合が少なからずある。そして、それが精神的に不安定になったり、心に闇を抱えたりしていることと重なっていたりもする。お互いに信頼し合える関係を結びきれていないのだろう。

関係を結び、深めていくためには、お互いが自分自身をそれなりに出し合い、共感を重ねていく体験が必要である。けれども、自分自身を出せずに仮面をかぶり続けていると、自分を出すことに恐怖を感じ始め、それが積み重なっていくと、自分を出せなくなってしまうことが少なくない。その意味で、「キャラ化」する現在の風潮は、けっこう危険な部分もあるといえるだろう。

けれども、思い切って自分を出してみると、きちんと受け止めてくれる相手もそれなりにいる。結局、その1歩を踏み出すのは、自分自身の意思や決断にかかっているのである。もちろん、周りのすべての人が自分をきちんと受け止めてくれる…とは限らない。けれども、探してみれば、自分を受け止めてくれる人は多少なりとも存在する。それは、家族かもしれないし、配偶者かもしれないし、友人かもしれない。関係を結び、関係を深めることには今までの「自分」を変えなければ知れないかも知れない…という怖さを感じたりもするかも知れない。けれども、その怖さに打ち勝って1歩踏み出したとき、自分自身の人生が広がる可能性がある。今日の午後のひとときは、そのことをあらためて実感させてくれた時間だった。

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2008年7月17日 (木)

体調不良は…

体調が今ひとつよろしくない。暑さのせいか、年齢のせいか、はたまたその両方か……。いずれにしても夏風邪を引いたようで、熱を出して寝込む程までにはいたっていないが、のどが不調で、咳や痰が完全には収まらない。疲れがたまっているのかもしれない。

そう言えば、この2年ほどは土日にもけっこう予定が入っていて、ゆっくりした週末を過ごした記憶はほとんどない。風邪は言葉にはならない自分の身体からの声ではないかと感じるときがある。今回もそんな感触がある。加えて、体調の不良は、心からのSOSである場合もあるし、今回についてはそちらの傾向もありそうだ。

無理をせず、睡眠時間が短くならないように気をつけているが、それでは身体は休められても心の方の休息とまではいかないように感じられる。つまりは、それくらい忙しくしすぎていたのではないか…という自覚が多少はあるということである。

もう少しすれば、お金の方は心もとないにしても、多少は時間が取れそうである。完全にひきこもって文学三昧とまではいかないだろうが、多少余裕ができるであろう時間を使って読み残している本を読んだり、文芸創作に取り組んだりしたい。そう考えると、心の疲れの方も何とかなりそうである。

身体も心も、大切に使えば一生(!?)使える。今はやりのアンチ・エイジングなどという若作りに時間をかけたりせずに、ゆったりとした時間を過ごしたいと思う。

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2008年6月28日 (土)

心の闇を考える

心の闇を考える
 
一般の感覚からすれば、一見、不可解な「凶悪犯罪」のニュース報道が続いている。その象徴的な事件の1つだったM死刑囚の死刑は先日執行されたがその頃からの報道に登場していた【心の闇】に対するマスコミの扱い方については、かねてから不満を感じていた。

私自身も【心の闇】ということについては良く考えるし、他者との話の中で使ったりもする。が、そのスタンスは「まだまだ明らかにはならない部分もあるから、それを考え続けていくために、とりあえず【心の闇】という言葉を使っていこう」というものであり、今後とも追及の努力を続けていかなければならない、という前提がある。
 
ところが、昨今のマスコミの報道においては《心の闇》という言葉によってそれ以降の追及をうやむやにし、「不可解」な罪を犯した青少年を、「自分たちとは異なる異世界人」とすることによって問題の背景や本質に迫る取材や報道をごまかそうとしているように感じられる。そのスタンスは、ある意味では「大人たち」にとっては非常に都合が良い。事件が「異世界人」の手によって起こされているのなら、「私たちとは違う存在」のせいだから、私たちは「異世界人」さえ排除すれば、私たちの社会の安定は守る事ができるし、私たち「大人」に何の責任もないことになる。それは、「今、ここにある現実」から目を逸らすのには非常に都合のいい理論である。

けれども、その「異世界人」たちは、確かに私たちの世界に存在しているし、なおかつ、私たちの社会のシステムが、まともな環境の下では開花せずにすんだかもしれない不都合な心の因子を開花させてしまった可能性があるのだ。だからこそ【心の闇】は思考停止のためのブラックボックスではなく、問題に取り組むための出発点にしなければならない。社会の矛盾は、もっとも弱い存在にもっとも強烈な形で襲いかかる。その過程にこそ、大人の責任で解明していかなければならない【心の闇】が存在する。真実というものが本当に存在するかどうかは分からないが、少なくとも、真実に迫ろうとする意思と努力は、大人としての責任を果たし、人間として誠実に生きていこうとするのであれば絶対に必要であろう。

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2008年6月 9日 (月)

厳罰化よりも絶望への手立てが大切

秋葉原で無差別に多くの人々が殺傷される痛ましい事件が起きた。犠牲になった人々の痛みや無念さを思うと言葉がない。理不尽にも亡くなった人たちの冥福と傷ついた人々の回復を心から祈りたいと思う。

だが、無差別殺人が繰り返される日本社会の病理を、個人的な「心の闇」という言葉で片付けて厳罰化を進めても問題は解決しない。ある意味では、自分では自殺できないが大量殺人をすれば死刑にしてもらえる…という思いが、この種の事件を引き起こしているようにも見える。もちろん、そうした発想が正常ではない…と言える訳だが、厳罰化が歯止めになるどころか無差別殺人を助長しているのではないかと思われるのである。

もちろん、被害者の家族として極刑を望む心情は良くわかる。だが、加害者が死刑を望んで事件を起こしたのだとすれば、その願いを適えることは加害者に対する歯止めの意味をなさないことにつながるのではないだろうか。その意味では、終身刑などを設定し、加害者が逃げたがっている「現実世界の生」につなぎとめ、償わせることの方が、加害者にとって厳しい対処ではないかと考えられなくもない。

それに加えて気になるのは、加害者を絶望に追い込む日本社会の病理の問題も気になるところである。これは、年間の自殺者がこのちところずっと年間3万人を超えて高止まりをしていることと同根のものであろう。一部の金持ちだけが潤い、多くの人の生活環境を悪化させて、弱者が疲れ果て絶望しなければならないような状況に追い込もうとする社会。そこの部分の手立てをどうにかしていかなければならないだろう。

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2008年5月28日 (水)

睡眠時間が…

土日にいろいろと予定が入り、忙しくなってきている。そのため、ここ数日も、睡眠時間が少なめだ。もともと、徹夜するほどの体力はなかったが、最近は歳のせいもあってか、睡眠時間が6時間をきる日が続くとけっこう辛い。その意味では、この辺りである程度睡眠時間を確保しないと、週の後半が辛くなりそうである。

特に、この土日は、続けて津まで出て行かなければならない予定になっている。車を使っても、往復で4時間を越える道のりを2日続けてだから、注意しないと疲れがたまり、来月にも尾を引きそうな感じがする。完全に休むことは難しいにしても、無理をして体のバランスを壊さないように注意したいところである。

体調が悪くなると、感覚や感性も鈍ってくる。久しぶりに新作の詩を何本か続けて書くだけのゆとりを確保できた4月~5月の状態を維持するのは難しいかも知れないが、月に1本程度でも、何かの形でまとまった「作品」を書けたら良いと思う。

だが、心と身体はつながっている部分がある。忙しさのために睡眠不足を削る、などの無理を重ねれば、身体のストレスが確実に心にも悪影響を及ぼしてくる。そうなってしまうと、小説や童話どころかエッセイや詩も書けなくなってしまうに違いない。歳相応に身体を労わりながら、何とか、創作することが可能な程度に心の状態を落ち着けておきたいと思う。

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2008年4月14日 (月)

眠れない夜をどうしよう

昨夜は、日が変わる前に布団に入ったのだが、なかなか熟睡…という感じにはならず、夜中に何度も目が覚めた。久しぶりに朝仕事がない日曜日で、起きるのが遅かったのと、車で片道1時間の映画館に映画を見にいって目が疲れたので、夕食を食べてから2時間ほど仮眠をとったのがまずかったのではないかと思っている。

その意味では、夜中に寝られなくても睡眠不足というほどではなく、日中の仕事も大過なく終わることが出来た。あまり、寝不足という感覚がなかったこともあり、多少寝られなくても気にせずに、そのまま布団の中で目を閉じていた。それだけでも、目や身体は休めることができるし、それなりにウトウトとしてしまったりもするので、気にし過ぎて下手にあがくよりも精神的にもストレスはたまらない。それがまた、ウトウトとするのにはプラスとなる。気にしない…ということで、それなりに心身の休息にはなるのだ。

加えて、ウトウトとしている時間の間に頭の中を駆け抜けるイメージは、けっこう楽しかったりもする。それ自体を味わい、楽しむことも出来るが、詩や小説や童話を書くときにベースとなるイメージに発展する…という楽しさを味わえる場合もある。落ち着ける、穏やかな時間の流れは大切にしたいものである。

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2008年3月 3日 (月)

風邪か花粉か

今日は今ひとつ体調が優れず、頭もぼぅ~としている。特に鼻水・くしゃみといった症状がでているので、風邪だろうか、それとも花粉症だろうかと悩んでしまった。ただ、夜の仕事が終わった段階で熱を測ってみたら、37度を少し越えていた。大したことはないのだが、微熱もあるとなれば、風邪の疑いが強い。

風邪は、身体からの「休みなさい」というサインであることも少なくない。今日はもう、早く布団に入ろうと思う。そして、朝の状況によってはいくつかの仕事をキャンセルしなければならない。仕事のキャンセル…ということになると少しひっかからないでもないが、調子が悪いときに無理をして悪化させると、返って迷惑をかける部分もある。あくまでも様子を見てだが、体調管理のためにきちんと休むことも大切だろう。

風邪はともかく、花粉の方も少し気になる。マスクが必要になるほど重い症状にはならないが、それでもくしゃみがとまらなくて困ることはある。そろそろ、いつも飲むウーロン茶に甜茶をブレンドして飲み出そうか…というところである。シジウム茶も良いという話を友人から聞いたが、シジウム茶の方はけっこう癖が強いので、とりあえずは甜茶がメインだろうか。日常生活に大きな支障が出るほどではないので、少し注意して…という程度で今年もやっていければいいと思う。

1つしかない自分の身体だが、丁寧につきあっていけば一生使える。一息つくことも、大切にしなければ……。

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2008年3月 1日 (土)

卒業…1つの区切りとして

3月1日は、例年、県下の高等学校で卒業式か行われる。私も、かなり昔のことになるが、3月1日に伊勢市内の公立高校を卒業した1人である。もちろん、3月末までは、在籍していた高校に籍があるわけだが、卒業式は形式的にだけでなく、精神的にも1つの区切りとして作用していたのではないかと思う。私は、母校の校歌が好きだったし、またいまだに母校の校歌は洒落た校歌だと思っている。けれども、卒業式を最後に、高校生として母校の校歌を歌うことはなくなった。もちろん、正月に行われた同窓会では皆で校歌を歌ったのだが……。

ところで、《卒業》というと、象徴的には、それまで庇護されていた立場から踏み出し、自立していくような形でも使われる。その際には、深く関わってくれた人からの《卒業》であったり、よりどころとなり守り育んでくれた組織やグループからの《卒業》であったりするわけだが、当然、それなりの別れも伴うわけで、辛さや悲しさを感じることも少なくない。それでも、《卒業》である以上、その先には「未来」や「夢」や「希望」が存在する。新しい出会いや関わりがその先には待ち受けていることを、そこはかとない不安と共に感じるからこそ《卒業》という言葉を使いたくなるのだろう。

ただ、《卒業》の場合は、その組織や人と完全に関係が切れてしまう訳ではない。例え、自立への歩みを進めていようとも、時には戻って心を休めたりエネルギーを充電したり出来る「場」として信じられるからこそ《卒業》なのである。卒業生が、時々、母校に遊びに来るのを見かけることがあるが、そこには母校という場への愛着と自分を育んでくれた人々への信頼があるからだろう。

《卒業》していく者にとって、それは「新たな出発」である。が、そこに、自分を育んでくれたと信じることの出来る人々や場の存在があってこそ《卒業》できるのである。送り出す側としては、その信頼感に愛情を持って応えながら、背中を押してやりたい。それは、《卒業》していく者を信頼し、より深く愛することでもある。胸に、少しの寂しさや悲しみを抱えながらも、心から卒業を喜べる人間/大人になれると良いと思う。

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2008年2月22日 (金)

中高年の危機と成熟

もう、30代の前半までのようにはやれない…と感じ始めるのはいつ頃だろう。それは人によって多少なりとも異なるが、体力や気力の衰えを実感し、それを認めてその変化を引き受けることから中年期のアイデンティティの再確認は始まる。

特に、先端技術と情報化の急速な変化が日々更新される現代社会において、適応能力の衰え始める中高年は自信を失って、自分自身のアイデンティティを見失ってしまうことも少なくない。けれども、人生の後半にさしかかったところで、今までの自分の生き方を見つめ直し、これからの自分の生き方を考えていく作業は、ある意味ではとても大切である。

先端技術の変化と情報化の流れは、精神や肉体が柔軟さを失って年老いていく自分の現実とすり合わせたとき、確かに適応するのに時間がかかるし、若い頃のようにはいかない。けれども、そうした流れを見ながら距離を置き、その上で、今までの人生の中で自分自身が積み上げてきたものを土台にして活かしながら、これからの人生を渡っていけるように自分を変えていくことは、自分の人生を豊かなものとして終えるために必要だろう。

ただ、これは口で言うほど簡単なことではないし、それに失敗すれば精神的なダメージも大きいだろうし、そのダメージによって鬱になったりすれば、自殺などという道を選んでしまうこともあり得る。だからこそ、人はある程度生きていればそういった道を通るのだと知ることの意味は大きい。そして、それを知った上で、歳を重ねていく自分とそれなりに折り合いをつけながら、豊かな後半生を送れるように自分を変えていく努力が大切になってくる。それはもちろん簡単ではないし、若い頃とは異なり、自分を変えるのにもずっと時間はかかるだろう。けれども、人はいくつになっても自分を変えることはできる。

若い頃の変化は、【成長】のための変化である。それに対して、中高年の変化は、【成熟】のための変化だと言えるだろう。中高年の危機を【成熟】のための肥やしとして受け止め、活かし、死の瞬間にはそれなりに納得できるような人生を送りたいと思う。

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2008年2月14日 (木)

信頼と嫉妬

離婚してしまった元妻と「遠距離結婚」をしていた頃、電話の会話の中で「遊んでもいいよ」などという発言が飛び出し、「それは違うぞ!!」と怒った事があった。このように一見「もの分かりの良い」元妻は、結局、自分のことしか考えていなくて、離婚となった。

その後、別の新しい相手と遠距離恋愛を楽しむ羽目になったが、けっこうヤキモチ焼きで疲れてしまったことが何度かあった。ある意味では、嫉妬をしてしまうという感情は相手を信じきれていないということでもあるのだが、相手に対して強い執着がなければ逆に嫉妬されることもない。そうした点からすれば、嫉妬が恋愛のスパイスとして働くのも大いに納得できる。その意味では、多少の嫉妬は、時としてカワイイと感じられたりもするものである。あくまでも、日常生活や仕事に大きな支障が出なければ…であるが。

相手を心底信頼できれば、嫉妬はしなくて済む。だが、相手に執着していなくても嫉妬はしない。その辺りが難しいところだが、時には嫉妬を感じることがあっても、基本的には相手を信頼していられる…というスタンスが恋愛でも結婚生活でも一番良いのかも知れない。

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2008年1月28日 (月)

歳の重ね方

しばらく、純粋に休みとなる土日がなく、昨夜はある程度睡眠時間を確保したにも拘らず、どんよりとした疲れが心身に残っているようだ。20代から30代半ば頃までは、一晩寝れば回復したのだが、今はそうもいかない。歳をとったということなのだろう。

若くはないな、と感じるのは、他にも集中力の低下を実感した時や集中が長時間持続しない時などもそうである。体力が衰えれば、精神力もその影響を受けるので、これもまあ、仕方がないことである。

ただ、そのこと自体が悪いと思っているわけではない。歳を重ねる中で身についてきた知恵や経験によって、若い頃には見えなかったものが見えてきたり、感じられなかったものが感じられるようになったことも多いからである。歳をとることで深く味わい、楽しむことができるようになったものも多いのである。

巷ではアンチ・エイジングが流行っているようである。けれども、何を無理に若作りする必要があるのか…という思いもある。落ち着きや品格などは、上手に歳を重ねることによって身についてくるものだし、歳相応の落ち着きや品格を身につけられずに若作りをしてもがいているような姿は、見苦しいばかりでなく、見ていて哀しい。無理をして老け込む必要はないが、自分の年齢を素直に受け入れ、かつそれを楽しみたいと思う。その前提にたっての【年齢不詳】はおもしろいと思う。そういう【アンチ・エイジング】なら大賛成である。

800歳の宇宙人を自称する私だが、誕生日の13月43日も近づいている。もう少しすれば、1つ歳をとることになる。歳をとった分だけ経験や知恵も重なり、若い時のように体力勝負に持ち込まなくても知恵と経験である程度勝負はできるようになった。上手に手を抜けるようになったとも言えるのだが……。それによって節約した時間を、年齢に相応しい形でものごとを深く味わうための時間にしたいと思う。

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2008年1月15日 (火)

自分流・ストレスとの付き合い

年末に、エンカウンター・グループの合宿に参加した。カウンセリング関係の実習の1つで、何人かが長時間にわたっていろいろと話をする中で、自分を見つめなおそうというものである。その中で、小説や童話を書いていないことが、思っていた以上に自分のストレスになっていることに気付いた。

きちんと童話や小説を書こうとすれば、かなりの深さで集中し、自分との対話をしていかなければそれなりに納得できるものができない。けれども、それだけ集中するためには、それなりにまとまった時間が必要となる。ところが、そのまとまった時間がなかなか取れないのである。

だから、作詞や詩を書いてお茶を濁していた。もちろん、詩や作詞でも、それなりのレベルの集中は必要なのだが、それでも、小説や童話を書いていた時ほどではない。まとまって数日とか1週間とかの時間が取れなかったので、1日に数時間取れれば何とかなる場合もある詩や作詞、エッセイなどで多少のバランスをとっていたのである。

ところが、昨年の夏と秋の詩の締切では本当に苦労した。もしかすると、それも1つのサインだったのかもしれない。だが、何やかやと忙しさに追われ、そのサインに気付かない振りをしていたのである。だが、気付き、意識化いてしまった以上何とか工夫する必要がある。ただ、仕事やいろいろな場での立場上、今の時点で忙しさを極端に減らすことは難しい。それでも、心と身体のために、何とか工夫しなければと思っている。

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2007年11月20日 (火)

聴いてくれる人

ストレスがたまったり、精神が不安定になったりすることは誰にでもあるが、そういう時に、【聴いてくれる人】を身近に持っている場合は幸せだ。聴いてもらう事によって、割と自分の心をスッキリさせる事が出来るからである。

ところが、この【聴く】ということがけっこう難しい。あまり注意せずに【聞いて】、ついつい「解決策」を言ってしまう事が多いからである。愚痴の場合は、「解決策」など必要ない。ただ、その心の内にある負の感情に対して共感してくれればそれで十分だし、一見、「相談」しているようでも本人の中にそれなりの「答え」がある場合はそれを相手の口から言ってほしいので別の「解決策」を提示されると返って一層イライラがつのったりする場合だって少なくない。そうした点で、【聞く】ことはできても【聴く】ことはなかなか難しい。カウンセリングに訓練が必要で、商売になる所以である。

ただ、自分の心の中にイライラやストレスや負の感情を溜め込み過ぎるのは良くない。それなりに外に出さないと爆発したりする事だってある。だから、仲の良い友人や家族など身近な人々の中に、日頃から、安心して【聴いて】もらえる人を作る努力も大切となる。当然、場合によっては自分が【聴く】ことが出来るように心がける。「お説教」などしたりせずに、相手の心に寄り添う。それが、【聴く】ことであり、ちゃんと【聴く】ということは、その瞬間、瞬間において相手の存在を大切にしているという事でもある。

相手を大切にしていれば、たいていはその相手も自分を大切にしてくれる。では、【聴いてくれる】人がいる、ということは……。少し心の中で、その顔を思い浮かべてみようか。

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2007年10月23日 (火)

少しウツっぽい?

ここ数日、朝起きたときに、今ひとつ気分が乗らず仕事へ向かう意欲が弱くなっている感じがしている。blogの文章なども、どうも気分が乗らず集中力に欠ける感じもあるので、多少、ウツ傾向が出てきたのではないかという感じがしないでもない。

確かに、今日たまたま車でかけていたCDの中に森田童子の歌が何曲か入っていたのだが、それが心地よく感じられたこともウツ傾向を疑う理由の一つとなった。やはり、様々なところで忙しい毎日が続いていて、何も考えずにゆったりと寝ていたり、気ままに映画などにいけないこともあり、心がそろそろ休憩を欲しがっているのだろう。そういう意味では、ウツ傾向も心からのメッセージである。ここ数日は肩の凝りも感じているので、ついでに身体からのメッセージも出ているということだろう。

もちろん、こういう時にジタバタしても良くないので、日常と折り合いながら可能な限り休みやストレス発散の機会を入れて地味にやっていくだけである。この程度であれば、数年前も経験しているので、多分何とかなるだろう。

ただ、きちんと心の声に従うならば、本来、ちゃんと休むべきなのだろう。知識があるから、ある程度だましだましやっていける部分もあるが、逆にそれゆえにきちんと休むことができないでそれなりに時間がかかるという事もありそうだ。それでも、他でもない自分自身の心なので、たまにはジックリとワガママに付き合ってやりたいと思っている。

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2007年10月19日 (金)

背の高さの災い

数日前から頭痛が取れない。…と言っても、原因は分かっている。頭にできたこぶである。庭の物干し竿が、いつもよりも少し低く渡してあったので、それをくぐる時何度か頭をうってしまったのだ。その結果がこの頭痛(!?)である。

一応、身長は180cmを越えているので、高いところのものを取ったりするには便利なのだが、時々こうして頭をうつ。今回のように、何度も…というバカは珍しいのだが。週の半ばまで忙しく、少し寝不足気味だったこともあるのだろうが、こういう時は、背の高さが多少は恨めしくもなる。だが、それを言っても始まらないし、重宝することもあるので、良い事もあれば悪いこともある…と受け入れるしかない。

それにしても、今回のこぶは痛かった。まあ、昨日よりは痛みもひいたので善しとしておこう。

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2007年10月 6日 (土)

加害者と被害者

自分自身の罪ときちんと向き合い、それを認めた加害者は、意識や考え方が大きく変わるので、再び同じような罪を犯すことは少なくなる。彼らはまた、被害者に対してもきちんと向き合おうと努力をする。一方、自らの罪と向き合わずに目を背け続ける加害者は、その罪をごまかしたり、矮小化したりして、なかなか本心から認めようとはしない。したがって、意識や考え方は変化していないので、2度3度と同じ罪を犯すことがある。当然、被害者の訴えには目を逸らし、被害を矮小化しようとして返って被害者の怒りと反発を買う。

被害者の方は、簡単に被害を忘れることはない。たとえ、加害者の事を許したとしても……。日本人は、広島・長崎の原爆投下を忘れない。それは被害者だからである。では、沖縄のことはどうか。集団自決の記述に対しての教科書検定で、沖縄の怒りが爆発した。当然のことだと思う。命令書や「個人の命令」の有無といった問題ではなく、相せざるを得ないような状況に日本と日本軍が追い込んだのである。だから、沖縄戦においては、日本と日本軍も加害者である。

個人的な命令の有無、は確かに裁判でも争われている。だが、それを根拠に記述を削除するのは、明らかに罪・問題の矮小化を図っている。罪にきちんと向き合えない加害者の心理としてはあり得る反応だが、それが根本的な解決にはつながらないのは自明である。それでは、被害者である沖縄は許す事はできない。当然の事だろう。

沖縄だけではない。従軍慰安婦問題をはじめとする第二次世界大戦/日中、太平洋戦争に際しての日本の罪と、政府は…そして国民はきちんと向き合ってきただろうか。人間としての存在の質が問われている。

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2007年9月28日 (金)

夜更かしのツケ

昨日は、偏頭痛で調子が悪かった。と言っても、原因不明という訳ではない。週末に買った本を読んでいて夜更かしをしてしまったからだ。パソコンに向かう時間も少し長くなっていたりして、目の方も酷使している。目の疲れが頭痛の原因なのは明白である。

とは言っても、仕事に支障をきたしてはいけないので、目薬を何回かさしながら目の周りや首筋を押さえる。押さえてみて、かなり目を酷使していた事がいっそう良く分かる。それが、気付いていなかった肩のこりにもつながっていた。

目の四隅を押さえ首筋や耳たぶの下などのツボも押さえほぐしてやると痛みも多少は楽になる。ということは、自己診断が間違っていなかったという事でもあるだろう。目が楽になると肩こりが気になった。昨夜は、ある程度睡眠をとったので偏頭痛の方は楽になった。だが、肩こりの方はまだ解消してはいない。もう1人自分がいれば、いつもの腕を発揮すれば1時間ほどで楽になるのだが、残念ながら分身の術は使えないので、手の届く範囲のポイントを押さえるだけである。肩こりの解消は、どうやらもう少しかかりそうだ。

 

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2007年9月26日 (水)

【痛み】を越えて

受け入れたくない現実を目の前につきつけられた時、多くの人間は混乱すると同時に、「なぜ私がこのような目に遭わなければならないのか」とか「なぜ私がこのような運命に見舞われなければならないのか」と嘆き悲しみ怒り狂う。それは、それ程までに当人にとって受け入れる事が困難な「現実」だからである。

失恋や離婚、あるいは身近な人や家族の病気や死などの喪失体験は、深い傷となって人の心をえぐる。その【痛み】は他者には簡単に理解してもらえるものではないから、いっそう苦しく、また辛い。

けれども、その【痛み】とおりあいをつけながら生きる努力もまた大切である。自分自身の人生は終わった…と感じるほどの痛い体験であっても、そう感じている「今」「この瞬間」、人は生きている。生きているからこそ【痛い】のだとも言えるだろう。

それは、心を殺してしまうほどの激しい痛みかも知れない。けれども、神は…あるいは仏は…あるいは天は…何のためにそれを与えたのか、という事を考えてみると、その【痛み】ゆえに自分自身を真剣に振り返り、深いレベルで自分自身と向き合う可能性を与えてくれる…という部分もある。けれども、【痛み】が激しいほど、それとおりあいをつけ、それを見つめ、やがてはそれを心にとどめながら越えていく作業は大変であり、それは全身全霊をかけた営みとなる。

けれども、その【痛み】を超えた時、人はもっと強く、もっと優しくなれる。そして、【痛み】を抱えて苦しんでいる他者に手を差し伸べ、支え、【痛み】を越えるためのサポートができるようになるのではないだろうか。

それなりに齢を重ねた今、いろいろな【痛み】を経験してきた。まだ、おりあいをつけきれていないものもあれば、多少は越えるところに近づいているのかな? と思えるものもある。まだまだ、足りないところはたくさんある(あり過ぎる!?)が、少しでも多く【優しさ】の持てる人間となって一生を終えたいものである。

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2007年9月18日 (火)

呼吸を整えて

9月初めに津駅前で不登校やひきこもりについての講演をした時、少し、呼吸を整える事の大切さについての話もした。当事者が、悪い方へ悪い方へとものごとを考えている時、それを止めるようにアドバイスしてもなかなか悪い考えの堂々巡りから抜け出せない事がある。そんな時、深く息を吐いて深呼吸をし、腹式呼吸をしてみるように意識してみると、感情に意識が流されている状態から少し距離をおくきっかけになったりする。感情から自分の行動に意識を向けることで、結果として悪い考えの堂々巡りから距離を置いてみようというのである。

ところが、そればかりではない。少し観察してみると、精神的に不安定になっている時は呼吸が早くなったり乱れていたりする事が多く、ゆったりと呼吸をしているような例はほとんど見られない。あがったり、緊張していたりしている人に、深呼吸をするようにアドバイスをするシーンを時々見かけるが、そうした事からも、呼吸を整える事は精神的な安定につながるのだと推察できる。

スポーツや武道でも力を発揮する際に呼吸法はけっこう大切だし、歌を歌う際にも、しっかりとした腹式呼吸は安定した豊かな声を出すための必要条件である。だが、実は座禅の際の呼吸法も腹式呼吸なのである。

20代の頃、京都の大徳寺の中にある枯山水の庭の前で結跏趺坐をしていたところ、奥から和尚さんが出てきて、「それだけきちんと足を組めるなら…」ということで正式な座禅を教わった。肩の力を抜いて、背筋を伸ばし、4本の指を重ねて親指の先端をくっつけ、軽く膝のところに置く。こうした事はすっと出来たのだが、緊張した事もあり腹式呼吸がなかなか出来なかった。それでも、何とか呼吸を整え、それからしばらくその場で座禅を続けた。他に人がいなかったこともあり、和尚さんは「帰る時には、声をかけなさい」と言い残してその場を去った。そして、帰る前に抹茶を御馳走になったのである。

そんな経験もあったので「腹式呼吸」と言っても、簡単に出来ない場合がある。そこで、最近は「どうしてもガマンできなくなるまで息を吐き、ガマンできなくなったところで息を吸うと自然に深く息を吸い込む事ができるよ。それを続けると腹式呼吸になっているはずだ」というようにアドバイスをする事が多い。小さい子どもには少し難しいかも知れないが、ある程度大きくなってくれば、だいたいこのアドバイスでゆったりと呼吸ができるようになる。

この方法、実は、シャックリを止める時にもけっこう威力を発揮する。シャックリは横隔膜のけいれんのために起きるので、安定した腹式呼吸でそれが治まってしまうのである。先日、行きつけの喫茶店のマスターがシャックリが止まらずに困っていた時にこれを教えたら、なかなか止まらなかったシャックリが面白いようにピタリと止まってしまった。彼が驚くと同時に大変喜んだのは言うまでもない。

普段は意外と注目していない呼吸だが、呼吸を整えることが心の安定にもつながる場合がある。イライラしたりネガティブな気持ちから抜け出せないような時には、呼吸に気をつけてみるというのも1つの方法である。

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2007年9月 4日 (火)

夏の疲れは?

仕事場で、1人、体調を崩したのか、午後から休みを取ったようである。特に忙しかった8月は何とか乗り切ったものの、みんなかなり疲れがたまっていたようで、週末にマッサージに行ったというような話も耳にしている。もちろん、私自身も例外ではない。特に、先週の金曜の夜はダウン寸前だったように思う。

若い頃はそれでも、一晩ぐっすりと眠れば疲れは取れた。だが、今はさすがにそうはいかない。逆に、疲れがピークを越えると長時間寝られなかったりもする。それでも、毎朝早起きしなくても良くなったことが精神的な負担を軽くしたのか、何とか土曜日から月曜の朝までの睡眠である程度体調が戻りつつあるようだ。

とはいっても、まだ完全という訳ではない。職場の仲間からグチを聞かされるような時間も時々あって、みんな心身ともにハードな8月であったことがうかがえる。ただ、他者のグチを聞いてあげられる程度には精神的な余裕は残っていたようで、幸いだと思う。

本当に大変な場合は、身体の不調が心にも悪影響を及ぼすし、また逆に心の不調が体に悪影響を及ぼすこともあるので、悪いスパイラルに入ってしまうと心身の状態は恐ろしい勢いで悪化してしまう。そこまでには至らなかったのは幸いなことだと思う。

ただ、こうした状況では、詩は書けない。秋に発行する雑誌の締め切りは終わっているのだが、どうしても詩を書けるまでの集中が得られない。週末までには何とかしたいのだが……。

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2007年8月23日 (木)

話すことと伝えること

「言ったやん」

「聞いてないよ」

時々、こんなやり取りを耳にすることがある。本人は言ったつもりでも、相手にはきちんと伝わっていない。日常生活の中でよくあることだ。どうも、人間というものは、面と向かって相手に発言した内容は、それで伝わったと誤解することが多いようである。けれども、よく考えてみると、自分が言ったからといって、相手がそれを100%理解することなどまずない。音声として耳の鼓膜を震動させてはいても、それが必ずしも「意味のある大切な内容」として相手に伝わっているとは言えない。考え事をしていて、適当に相槌をうっている事だってあるし、声が小さいなどの条件できちんと聞き取れなかったが、自分にとって大切な内容だという判断をしなければ、あえて聞き返しもしないし当然、何を聞いたのかも覚えておらず、数日経てば完全に忘れてしまうことなど日常茶飯事だからである。

だから、きちんと伝えたいと思っていることならば、相手の反応をよく観察し、話に集中しているかどうかを見極め、必要に応じて確認をしたりすることも大切になってくる。それをせずに《言いっ放し》でいても、話した側の都合にいつも相手が合わしてくれる訳はないので、結局、きちんと伝わらないことになっても、ある意味では当然なのである。

では、どうすれば伝わるか。相手にとって自分が《大切な存在》となっている時は、ちょっとした言葉や軽いお喋りであっても、割りと真剣に聞いてくれる。利害関係の問題で《大切な存在》となる場合ばかりでなく、利害を超えた《大切な存在》である場合もある訳で、特に両方の条件があれば、話は丁寧に聞いてくれるだろうし、理解できなかった部分は質問したり確認したりしてくるだろう。

忙しい時などは、「話した」=「伝わった」と誤解してしまうことが多いが、話すことと伝えることは決してイコールではない。そして、話したからと言ってそれが確実に相手に伝わったと考えること自体が判断として甘いし、ある意味では「分かってくれて当然」というような相手に対する甘えや誤解が存在していると考えた方が良いだろう。

特に身近な人や、相手との関係において自分が優位に立っている場合は、きちんと伝わっているかを吟味しないまま話しっ放し、「伝えた」気になっていることは多い。それが後になってトラブルの原因となったり、相手との関係をギクシャクしたものにしてしまったりする。話すことは伝えることとイコールではないということを意識して会話や対話や議論を楽しみたいものである。

 

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2007年7月28日 (土)

印象的な夢

あまり夢を記憶している方ではないのだが、いくつか、時間がたっても覚えている印象的な夢がある。特に強烈だったのは、たった1人で宇宙空間を漂っている夢である。そこは、宇宙空間だと分かるのだが、もちろん、宇宙服など着ている訳ではない。でも、体内の血液が沸騰する訳でもないし、大気圧の圧迫を失った体表が膨れ上がるわけでもない。それが、夢たる所以である。

さて、宇宙空間にたった1人で投げ出されてしまったら、どのように感じるだろうか。我々はこの地球上に生を受け、何の疑問もなく地表で暮らしているが、地球や太陽から、そして周囲の人々から様々な恩恵を受けて生きている。だから、本当に宇宙空間にたった1人で投げ出されてしまったら、我々は一瞬のうちに死んでしまうのである。

当然、夢とはいえ、1人で宇宙空間に投げ出されてしまっているのだから、生命が終わってしまう怖さは感じた。それと併せて、重力を感じない心細さ…というのもあった。足の裏に地面があることの安心感・安定感は、普段、まったく感じることはないが、考えてみればこれは大変な奇跡なのではないだろうか。もし、重力によって地表にくっつけられていなければ、我々はいつの間にか大気圏を越え、酸素を失い、オゾン層を越えて強力な紫外線や電磁波の雨を全身に受けて死んでしまうだろう。その意味では、重力は私たちを守ってくれるゆりかごのような存在なのかも知れない。

だが、その一方で、まったく重力に縛られない開放感をも私は味わっていた。あらゆる視界を闇が包み、彼方の星星は見ることはおろか、近づくことも出来ないほどの遠くにある。だがそれは、星の影響をほとんど受けないという事でもある。その意味では、本当に自由なのである。

ただ、自由には、必ず責任が伴う。そのことも、夢の中では当然意識されていた。好き勝手なことをするのは別にかまわないが、その結果他者に酷い損害を与えたり多大の迷惑をかけるようなことになるのなら、それは自由ではなくワガママなのである。

ところで、夢は、無意識からのメッセージでもある。それを上手く解読して、日常生活に役立てることが出来ればよいのだが……。

 

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2007年7月23日 (月)

仲間の信頼、他者からの信頼

人間である以上、誰もが欠点を持っているし、失敗もする。それは当たり前のことである。だが、そうした欠点や失敗を受け止め、フォローし、守ってくれるような相手は、仲間や友人として本当に信頼できる。辛い時、苦しい時にこそ守り、支えてくれるような仲間や友人がいたら、それはまさしくかけがえのない仲間であり、得がたい親友と言える存在だろう。

大切な仲間や友人のために身を挺して動けるような人は素晴らしいし、本当に大変な時に逃げずに側にいてくれるような人なら、ぜひとも損得を越えた仲間や友人として末永く続く関係を作っていきたいと思う。けれども、なかなかそういう相手にめぐり合う機会はない。ある程度人生経験を積んでくると、その事が分かってくる。特に、仕事やお金が絡んでくると、なかなか損得を越えて動けなくなる。だからこそ、損得を越えて付き合える学生時代の仲間が大切な友人となることが多いのだろう。

さて、仲間の失敗を受け止め、それを守ろうとする…というと、例えば、安倍晋三がやっていることもそれではないか、と見えるかも知れない。だが、我が売国総理は、「仲間」はかばっても自ら責任は取っていない。自らを犠牲にして仲間をかばっているのであれば、安倍晋三は総理としての資質は欠けるにしても、友とするには良い存在と言えるかもしれない。だが我が売国総理は、「仲間」をかばっても、その責任は取らず、全てをうやむやにしようとするだけである。そのことから、この連中は身内の損得だけしか考えておらず、逆に、身内であっても結局は自分に損害を与えるならば切り捨てるだろう…と思われる。修羅場で踏み止まる覚悟がないのである。

その意味では、自殺した前農相は、政治家としてはともかく、友人にするのには良い男だったのかもしれない。彼は少なくとも、自らの死によってそれなりの責任を取ろうとしたのかもしれないし、永遠に口を閉じたことで救われた「仲間」が確かに存在するのだろうから。だが、その「仲間」は、その信頼に足るような人間だったのだろうか。安倍売国総理のその後の言動を見聞きしていると、とてもそうは思えない。そうした意味では、信頼に値する「仲間」にめぐり合えなかった前農相は哀しい男なのかもしれない。

利害が絡む間は、たいていの人間は行動を共にする。それは、大人として生き、生活していく以上仕方のない選択だろう。だが、嘘やゴマカシで自分達の利益だけを追求していては他者からの信頼は得られない。安倍政権にとって、国民の多くは「仲間」ではなく、どれほど苦しんでも関係のない「赤の他人」に過ぎないのだろう。そうした行動は、見る人が見れば、どれ程空虚な言葉で言いつくろっても、心の内や人間としての小ささを見抜かれてしまう。当然、様々な交渉の場においてその言葉を軽んじられ、信頼を得られないから余計な譲歩をしなければならなくなるだろう。

他者からの信頼を得られないような人物が首相である国・国民の不幸や損失は、もしかしたらマスコミ等が報道している以上に深刻かもしれない。少しでも早く、資質に欠ける我が売国総理にダメ出しをしたいものだが……。

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2007年7月19日 (木)

少し頭痛が…

昼間の仕事の始まりが早くなった。この6月からの新しい仕事だが、今までは早くても11時過ぎに出勤すればよかったので、ついつい遅くまで起きているパターンが続き、夜型の生活が定着していた。しかし、明日は9時、来週からは8時半の出勤となる。8月いっぱいという予定だが、今までのように深夜の時間を満喫できなくなるのが痛いところである。

昨夜もそうだったのだが、寝るのが午前3時前後になってしまうと、最低でも9時までは寝ていたい。身体の状態という事で限定すれば、あまり強くて体力がある方ではないので、7~8時間は寝る方が調子はいい。6時間を切る日が続くと、偏頭痛が始まり、胃が何か思い感じになって、身体も動きが悪くなる。

感性的には6時間くらいだとけっこう敏感になっていることもあるのだが、偏頭痛が始まるとそちらも鈍ってくる。そうしたことから、たまの6時間睡眠くらいは良いが、それが続くと心身ともに調子が悪くなってくるということになる。

昨夜は、ウィスキーを数杯飲んだ後、少し本を読んでいたら寝るのが午前3時を過ぎてしまったので、少し睡眠時間が少な目である。偏頭痛の前兆の感覚もあるので、今日は夜更かしはなるべく避けたい。今のところは無理をする立場や状況でもないので、「身体の声」に耳を傾け、それに従いたいと思う。まずは、早く早起きに身体を慣らさなければ……。

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2007年7月 2日 (月)

加害者は忘れても…

加害者は忘れても、被害者は忘れない。それゆえに、日本人は「広島・長崎」を訴え続ける。だが、首相や防衛相は、【加害者】なのだろう。だから、従軍慰安婦や沖縄の歴史を矮小化して葬り去ろうと画策する。日本の歴史から真摯に学ぼうとしない彼等に日本の政治家たる資格はない。特に、長崎から選出されたにも拘らず原爆投下を容認できるような発言ができる防衛相は、長崎県民ですらないのだろう。

心理的には、加害者は自らの罪を矮小化したり忘却したりする傾向がある。だが、被害者は違う。やられた仕打ちを簡単に忘れることなど出来ない。心や身体に深い傷を負い、それゆえにさらに辛く悲しい出来事に耐えねばならないことも少なくないからである。そうした拘り/執着が、さらに被害者を追い詰めてしまう場合もあるが、人間である以上、理性では抑えきれない思いも存在する。だからこそ、加害者の真摯に罪に向き合う態度が、被害者の心を多少なりとも鎮める。

だが、加害者が自らの罪を矮小化したりごまかしたりする態度に終始すれば、被害者の怒りはさらに燃え上がる。「歴史問題」を生み出すのは、与党為政者の愚かな行動なのである。重慶無差別爆撃や南京大虐殺、従軍慰安婦や強制連行、そして沖縄での自決強制など、安倍首相や久間防衛相は直接関わっていない。けれども、それを矮小化したり姑息にごまかそうとしたりする言動をすること自体が「加害者」と言われても仕方の無い行動である。

日本の現在の国益のためにも、そして未来の「美しい国」を守るためにも、加害者としての首相や防衛相はいらない。「美しい国」を作るというのであれば、武士道の精神からすれば切腹しても不思議ではないのだが、恐怖を煽り戦争を賛美する偽善者にはその勇気も無いのだろう。日本の国民が悪夢の未来を望まないのなら、次の参議院選挙でそれなりの結果を出すだろう。もちろん、私は与党にだけは絶対に投票しない。

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2007年6月29日 (金)

変わることのしんどさ

ある程度歳をとってくると、ついつい惰性で日々を過ごしてしまうことが少なくない。今までの経験をそのまま生かせばいいし、観察し、判断し、対応を変えていく苦労をしなくて済むので楽なのである。だから、ついつい惰性で繰り返してしまう。

けれども、その背景には、「変える事への恐怖感」が存在していることが少なくない。特に年齢を重ねているほど、それなりに「経験」でその場をごまかせる場合もけっこうあるので、心の奥でうごめいている「変える事への恐怖感」に気付かないまま進んでしまうのである。

けれども、時代は刻々と変わり続けているし、人間の身体も1秒1秒のレベルで見れば、ある細胞が死んで、別の細胞が作られており、厳密に言えば必ずしも「同じ存在」とは言えない。仏教流に言えば【諸行無常】…あらゆる存在やものごとで変化しないものはないのである。だから、変わらないことを願うのは無意味であると同時に無駄な抵抗でもある。変わることを容認することによって、周りの変化を受け入れることが出来るし、周りの変化をありのままに受け入れることが出来れば自分自身をも受け入れられるのである。

とは言っても、なかなか変化を受け入れることは難しい。新しい事を学んでいるつもりでいても、自分の既成概念で理解できるものだけを受け入れている場合がけっこう多い。それは、自分が「変わるふり」をしている(それによって、周囲と自分自身をだましている)に過ぎないのである。本当に、新しい事を受け入れようとすれば、自分の今までの既成概念がバラバラになってしまうことにつながってしまうように感じたりすることも少なくない。だが、それを恐れず進めば、新しいことと今までの自分が再統合され、理解も進むし、自分自身も大きく成長することにつながっていくのである。

だが、1度、自分をバラバラにするのは、とてつもなく怖く感じられる。だからこそ、自分の既成概念の枠内におさめて、実質的な変化を忌避してしまうことが少なくないのである。だが、変化から逃げることで、後々、そのぶり返しによってもっと苦しい事態に直面してしまう場合は多い。それを考えても、「変化」を受け入れることは重要なのである。

とは言っても、私の心の中にも、確かに変化を恐れる「自分」は存在している。それを認めた上で、何とか折り合いをつけて、変化を受け入れると同時に、自分自身を変えていく強さを持ちたいものである。

 

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2007年6月22日 (金)

ひとねむりのつもりが

少し遅い夕食の後パソコンを開いたが、眠気を感じたので、1時間ほど仮眠をしようとした。ところが、1時間のつもりが、目が覚めると2時間以上が過ぎていた。どうやら、思っていた以上に疲れていたらしい。

眠気を感じた時、特に支障がない場合はそのまま寝るのが一番良い。身体かも知れないし、目かもしれない。あるいは心が疲れている場合もある。いずれにしろ、身体なり、目なり、心なりが疲れを感じており、休むことを欲しているのだ。疲れ切ってしまう前に、休めるならば休むのが一番である。その方が、疲れから早く開放される。だが、現代人は、身体の「声」に耳を傾けることが簡単に出来ないことが少なくない。忙し過ぎるからである。

それでも、身体の疲れだけならまだましである。十分な睡眠をとることが出来れば、身体の疲れは回復する。だが、いくら睡眠をとっても眠気が襲う場合は、心の疲れである可能性がある。心の疲れの場合は、他の身体症状が出る場合もある。それに無理をすれば悪化することもある。その意味で、心の疲れである可能性があれば、一層、慎重でなければならない。

幸い、予定よりも寝入ってしまったようだが、いくら寝ても…という症状ではないので、身体、特に目の疲れだったようだ。明日も、朝から晩まで複数の予定がある。特に、夜は、高校時代の仲の良い友人たちと、酒を飲み、歌い、語り合うという楽しい「予定」である。少々夜は遅くなるに違いないが、時間を忘れる夜になることは確実だろう。ささやかな時間を精一杯楽しみたいものである。

 

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2007年5月26日 (土)

入浴の時間

遅くまで本を読んでいたりビデオを見ていたりして朝が近くなってしまったときだけは少々億劫にはなるが、基本的に入浴は好きである。熱いお湯は、身体の細胞を目覚めさせてくれるように感じるし、お湯がぬるめの時は、心をゆったりとほぐしてくれるような感じになってすぐに眠くなる。どちらも、それなりに心地良い。

深夜から早朝にかけての仕事に就いていた時、まずは夜の仕事に出る前に入浴し、早朝、仕事が終わってからもう一度湯船に使って、その後、まとまった睡眠をとっていたことがある。ほとんど立ちっ放しの仕事だったのだが、寝る前のぬるい湯船の中で足の指先を広げたり軽くふくらはぎをマッサージして眠っていたら、翌日まで足の痛みが残ることはほとんどなかった。お湯とマッサージの相乗効果が、回復を早めてくれたのだろう。

一方、ぼんやりと湯船に使っている時に、詞や詩のフレーズやメロディーが浮かんできたことも少なくない。そんな時は、風呂を出てからノートやパソコン(ワープロ)を開いたり、ギターと五線紙を取り出して浮かんできたメロディーを楽譜化したりしたものである。特に、作曲の場合は、ポイントとなる重要なメロディーの50%以上は湯船に使っている時に浮かんだものではないか……と思われる。

そうした意味でも、入浴の時間は大切である。けれども、忙しかったりすると、ゆったりと湯船の中で時間を過ごすことなく、「カラスの行水」になってしまうことも少なくない。心身のリラックスのためにも、ゆったりと入浴を楽しめる余裕が欲しいと思うのだが……。

 

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2007年5月14日 (月)

『怒らないこと』を読む

最近の日本社会を見ていると〈怒り〉が蔓延しているように感じられることがある。すぐキレル若者や中学生・高校生……。大人たちも少しのことで声を荒げる。そして、幼児虐待や暴力……。いったい、どうしてこうなってしまったのだろうか。

 

基本的に、人々の心に余裕やゆとりが失われつつあると感じる場面は多い。そうした背景の中で、「怒り」や「暴力」がことさら目に付くのかもしれない。

 

仕事やボランティアで教育相談などにも関わっていることもあり、ここ数年、心のゆとりや安定について考える機会は多い。そんな中で、一時期はキリスト教との比較の目的で読んでいた仏教関係の書物に再び目を通したり、新しい本を買ったりすることが多くなった。この本も、そうした流れの中で手に取った1冊である。

著者のアルボムッレ・スマナサーラはスリランカのテーラワーダ仏教の長老であり、NHK教育テレビの「こころの時代」などにも出演しているらしい。タイやスリランカなどは、東アジアの大乗仏教圏とは異なり、上座仏教圏に属している。上座仏教は、同じ仏教でも、一般の日本人の知る「仏教」とは違っていることも少なくない。けれども、ブッダが創始した頃の言動をまとめた経典を基にしていることもあり、その言葉にはいろいろと心惹かれるものは多い。

 

さて、《怒り》についてだが、個人的にはもう何年も、心の底から怒りを覚え感情のコントロールも出来なくなって暴走したというような経験はほとんどない。自分の心を見つめ、相手の思いや感情の流れ、立場などを理解してしまうと、なかなか心の底から怒れなくなってしまう…という事情による。

 

だが、一般的にそのような人間は少数派である。身近な人間関係の中でも、すぐ怒る人たちはそれなりにいるからである。

しかし、この著者のいう《怒り》は、嫉妬や反抗、後悔なども《怒り》と密接に関連しているということなので、ほとんどの人がその範疇に関わってしまうだろう。もちろん、私もそうである。

著者に言わせれば、確かに様々な怒りたくなる状況はあっても、その中で敢えて「怒らない」という選択をすることで、心の平安は保たれる……ということになるらしい。

確かに、怒らなければ、嫉妬や後悔などをしなければ、心は平安に保たれるだろう…という感覚は持っている。ある意味では、《怒り》はそれを引き起こしたものに対する執着の裏返しだからである。ものも人も、様々な関係も、すべては変わり変遷していく。だから、「かわらないもの」を信じ、それに執着することはある意味では愚かで、不幸なことなのである。

けれども、執着の背後には人間の欲望があり、そして人間の欲望こそ資本主義経済に欠くことのできない大切なものでもある。CMなどを見ても分かるように、企業は、欲望を刺激することによって、必要不可欠でないものでも買わそうとするが、ものやサービスの売り買いという経済活動によって人々は収入を得て、生計を支えているからである。

しかし、過剰な欲望は、自分自身ばかりでなく周りをも追い詰め、破壊していく。それを考えれば、欲望を消し去ることが出来ないまでも、ある程度制御するような知恵は欲望にまみれた現代人にも確かに必要である。

その知恵が、ブッダの言葉にはある。そのすべてを理解し、実行することは不可能かもしれないが、今の自分にでも、何とかできそうなことはある。

 

自分を見つめ直し、世の中を見つめ直すための指針の1つとして、ぜひ手元においておきたい本である。               〔完〕

【TEXT】

  『怒らないこと』

  A・スマナサーラ 作 2006年  サンガ新書

 

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2007年4月27日 (金)

歩こう! 歩こう!!

今回の職場での最後の仕事が遠足のつきそいだった。幸い、朝から良い天気で、子どもたちも時間通りに集まり、予定より少し早く出発した。ここでは、春の遠足は、しっかり歩かそうという形をとっている。そして、個人的にも子どもの頃から歩くのは好きだった。ただ、メンバー構成の関係で、車係と相成った。

それでも、出発駅で子どもを見送った後、目的地の最寄の駅まで車を先回りさせ、駅のすぐ近くの交差点に向かう。実は、この駅の交差点が一番交通量も多く、道も変形5叉路になっていて危険な箇所である。子どもたちは70名を少しわる程度の人数でつきそいは4人。信号や車に注意して子どもたちを渡らせ、2つ目の信号交差点まで横を歩き、全員を安全な歩道まで渡らせてから、最初の目的地まで先回りする。そして、そこから迎えに歩き出す。…こんな具合だったので、車係であるにも関わらず、けっこう良く歩いた。

最初の目的地から、次の目的地の展望台へと移動するときには、さすがに歩きつかれて進むのか遅くなった子どもたちが7,8人、最後尾を歩いている。くじけそうになるのを励ましたり、横道に逸れそうになるのを引き戻したり、少し笑わせたりして元気付けたりで何とか展望台まで送り届ける。

「歩こう 歩こう」と少しふしをつけて言うと、「トトロでしょう?」と笑う。続いて「歩くのキライ」などというので「じゃあ、走りな」と切り返す。少し太り気味で足取りが重かった子どもたちも何人かいたが、とにかく全員を展望台に移動させて休憩をとる。休憩時間になると、足取りの重かった子たちも元気に走り回るのがおかしい。

その後、徒歩で次の目的地に向かう子どもたちの出発を見送った後、ボールやなわとびなども積んである車に戻り、別の道から次の目的地の芝生公園に向かう。そこで、弁当と休憩。子どもたちは楽しそうに遊び回っている。だが、歩く時になると元気がなくなったりするのがおかしい。帰りも、先に交差点まで車を回し、迎えに戻る。そして、全員が駅のホームに入った後、解散予定の出発駅に車を回す。歩く距離もそれなりに多い1日だった。

遠足のつきそいも20年ぶりくらいになるので多少疲れたが、やはり歩くのは気持ちが良い。忙しさの中で忘れかけていた心地よい足の筋肉の疲れの感覚を今夜はじっくりと味わいたいと思う。明日の朝、体中が痛くならなければいいのだが……

 

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2007年4月 6日 (金)

一緒に食べること

4月から、新しい職場に変わった。しばらくは、食事の時間は同じグループの人たちと一緒に外食…という展開になった。交代で車を出し合って食事に行くのだが、前の職場がすぐ近くだったこともあり、ほとんど、こちらが提案する店に行って食事をした。

そのせいか、グループの人たちと、とても話しやすくなった。お互いに初めてなので、協力して仕事を進めるにはなるべく早く心を許せる関係になった方が良い。そんな時、一緒に食事を取るのはとてもプラスになる。仕事の話ももちろん出るが、リラックスして話もするので趣味や家族のことなども話題に上る。そして、何か共通することがあると、一気に関係は近くなる。

今日は、1人が早めに帰って後の準備をする必要があった事情もあり、徒歩5分でも行ける店に車で行って食事を取った。ジャイアンツもホークスも負けたので、野球の話題は今ひとつ盛り上がりに欠けたが、仕事についてのアイディアの交換や手順の確認、そしてマージャンやマンガの話をしながらの食事だった。お互いにかなりうちとけているという感覚があり、仕事も、協力しながらそれなりに楽しくやっていけそうな雰囲気になっている。まだまだ身体が慣れていないのでシンドサはあるが、仕事自体への不安はほとんどなくなった。協力してやっていけるなら、多少のことはあっても何とかなるだろう。

同じように、恋人や夫婦、家族の間においても、一緒に食べることの意味は大きい。食卓を囲みながら、いろいろな話をする。子どもの茶碗に好きなものをのせてやったり、キライなものでも口に運んで食べさせたり……笑顔がこぼれる食卓が、関係を温かいものにし心の交流を深めていく。

確かに、1人で食べる気楽さはある。けれども気の合う人たちと食べる食事は楽しいし、また一緒に食事をする機会を重ねる中で深まっていく関係もある。小さなことだが、「一緒に食事をする」ということを大切にしたいと思う。

 

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2007年3月27日 (火)

身体の不調と心の不調

体調が今ひとつの日が続いている。花粉症がらみなのか、風邪なのか、判断が難しいところである。ただ、仕事自体は今週は忙しくないので、「春眠暁を覚えず…」を決め込んでいる。来週から、また忙しくなることもあり、身体の不調も「休みなさい」との声なのかもしれない。

もっとも、相談でかかってくる電話の中には、体調不良が多少なりとも心の不調につながっていないかを疑わせるものもあり、それをも意識するようにアドバイスしている。心と身体は、わりと密接に関係している部分もあり、体調不良がそのまま良くない感じ方や考え方の悪循環を呼び、その事によって体調の方もなかなか回復しない…ということも十分あり得るからである。

相談などを受けていると、少し見方や感じ方を変えるだけでまったく別のものが見えてくることが少なくないのだが、本人がそれに気付いていないことが少なくない。それを意識化させていく事で、状況はかなり変わってくる。といっても、時間はかかるのだが……。

いずれにしろ、心の状態と身体の状態を意識することで、一方の不調が他方になるべく悪影響を及ぼさないように気をつけることは大切だ。とりあえず、自分自身は身体の不調と付き合いながらある程度心を休め、4月からの仕事に備えたいと思っている。

 

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2007年3月 3日 (土)

目の疲れと花粉症

目に疲れが出ているらしく、どうも眠い。また、視力の方も低下している。ついでに、花粉症の影響もあってか、少し違和感もある。…ということで、今日は何をする気も起こらず、午後はほとんど本を読むか、寝ているかしていた。

目の疲れによる眠気は、頭や身体の疲れとは異なり、なかなか取れない。心もち目薬をさす回数を増やし、両目の周り(上下左右)と耳たぶの裏側あたりにあるツボを反対側の目の方に押してマッサージをしてやる。ここは、目の疲れがひどいと痛みを感じるので、ある程度その時の状態も判断できる。

もちろん、帳簿の整理や研究会の案内作りなど、やっておきたい仕事はいくつかあるのだが、とりあえず明日には完成していないとマズイ…というほどの急を要するものはないので、この際、サボることに決め込んだ。がんばり過ぎて集中力を欠けば、かえって時間がかかるので、結局、休むことがBetterだろうという判断である。

それにしても、今年の花粉症は早い。今のところそれほどひどくはないので、別にマスクもつけていないし、軽く、市販の薬を飲む程度で過ごせている。ただ、姉はけっこう重症のようで、マスクが状態になっている。ひどくなれば、医者にいくことも考えなければ…と思う。幸い、かかりつけのお医者さんは、内科ばかりでなく花粉症も大丈夫だと評判なので、あまり心配はしていない。

そろそろ、毎日飲むウーロン茶に甜茶をブレンドする時期がきたようだ。調子が悪い事に対してイライラするよりも、どうやって症状と付き合っていくかを考えた方が精神的にも楽だし、落ち着いた対処ができる。何も、完全に健康体である必要はないのである。

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2007年2月27日 (火)

怒りと暴力

怒りの暴走は暴力を生み、暴力は新たな怒りを生じさせ、さらなる暴力の連鎖へとつながっていく。人間の心を見つめ、社会を見つめていると、そんなことを感じる場合がある。

なぜ「怒り」が生じるのかを考えたとき、その前提には「不当に扱われた」とか「酷い目にあわされた」といったように感じられるような事実があったりする。それが度重なれば、ある程度温厚な人であっても、怒りが爆発する。その結果、感情のコントロールを失ってしまえば暴力に発展するだろう。さらに暴力が常態化してしまえば感覚は麻痺し、されにエスカレートしていく。まさに、負の連鎖・闇のスパイラルである。

どうして、このようなことを書いているか…というと、幼児虐待やいじめなどの問題に取り組むときには、加害者の現実や思いにも迫らなければ、問題は根本的に解決しないからである。例えば、いじめている側、暴力をふるってしまう側の心には、抑えきれない怒りが存在している場合が少なくない。それ以前の生活の様々な場で、いじめられたり、辛い思いをしたり、無視されたりされ続けた結果、他者を信頼したり、愛情を持って接したりすることができなくなっている可能性がそれなりにあるからなのだ。

だから、ある意味では、加害者を責めるだけで問題は解決しない。それよりも、安心して辛い思いを告白したり、共感してもらえたり、愛されたりする関係や「場」の存在を保障してやることによって、自分を愛し、自分を見つめ直し、他者を愛情を持って受け入れられるような環境を準備してやることが解決へとつながっていくのである。

幼児虐待の加害者の周囲を見たとき、関係が切れ孤立しているような状況はないだろうか。あるいは仕事や収入の面で酷い扱いを受け、怒りを溜め込んでいるような状況はないだろうか。また、いじめの場合は、安心して自分でいられる家族関係や友人関係があるだろうか。そんなことも見直してみる必要がある。

もちろん、まずは被害者の保護と救済は最優先の課題であるし、それを否定するつもりはない。けれども、「加害者」をその立場に追いやってしまう環境も確かに存在する。「加害者が悪い」と一方的に決め付け、安心してしまうような対応ではなく、それを生み出している環境に目を向け、そこの部分を変えていく努力をする必要もあるだろう。

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2007年2月13日 (火)

「怒り」を見つめること

心が「怒り」でいっぱいの人がいる。怒る理由は、それぞれにあるだろう。けれども、それを他者に撒き散らすことしかできない人は不幸である。結果として、他者から嫌われ孤立を余儀なくされてしまうからである。

以前、「自己チュー雑考」という記事を書いたことがあるが、他者に嫌われるから相手を攻撃し、いっそう他者に嫌われる…という悪循環に陥ってしまう。なぜ、病的なまでに、そして必要以上に他者を攻撃するのか。多分、その人は意識をしていなくても無意識のレベルで自分に自信がなく、自分を受け入れることができず、当然、他者を受け入れることもできないから孤立し、砂を噛むような寂しさや辛さを持っているのだろう。

けれども、原因の根本にある「自分」を見つめ直し、弱点をも含めたありのままの自分を受け入れる強さを持てないから、原因を他者に被せ「怒り」や害毒を撒き散らして、いっそう自分自身を追い詰めてしまうのであろう。今まで、そうした悪循環のスパイラルに陥ってしまっている人々を何人か見てきた。可能な場合は、アドバイスを続けたこともあったが、それでも本人がまず「自分の弱さ」を自覚し、自らの決断によって「ありのままの自分」を受け入れ、他者を受け入れる努力を続けるしかない。

それは、本当に、血の滲むような努力が必要となる場合もある。特に、ある程度以上の年齢になってしまってからはそうである。それでも、「気づく」ことから逃げ、悪循環のスパイラルの中をのた打ち回り時間を経過するにつれていっそう不幸を増幅させるよりはずっとましである。

だから、機会があればそういう話・アドバイスをすることもある。そして、努力を続ける相手に対しては自分自身の能力の範囲で可能な限りのサポートができるように……と考えてもいる。けれども、自分の限界もある程度判っている以上、無限にサポートができる訳ではない。相手との関係や自分自身の生活の中で、続けられるサポートしかできないのである。ただ、あくまでもささやかなサポートが可能となるだけで、結局は本人の自覚にかかっている。

「怒り」を見つめられず、自らの弱さに目が向けられない人々は哀しい。自分自身が不幸のブラックホールと化していくからである。だからこそ、願わずにはいられない。一日も早く、自覚することを……。そして、自らの決意を持って、努力の第一歩を踏み出すことを……。「人を呪わば穴2つ」と言う。「怒り」を見つめ直し、その暴走から一歩引くことからすべては始まる。1人でも多くの人が、そのことに気づいてほしいと思う。

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2007年2月 3日 (土)

「ピグマリオ」の味わい

幼児虐待、家庭内暴力、そしてドメスティク・バイオレンス…。家族や親と子の関係が不安定になり、時として破壊的な様相を示す現代社会。胸を痛める様々な事件は、自立に至るまでの苦難に負けてしまった人間たちの姿なのかも知れない。

 

自立とは何か。心理学の世界では、西洋的自我の確立の過程を英雄譚になぞらえながら以下のようなステップでまとめている。旅立ち、そして旅の途上で怪物と出会い、それを倒して美女を救出し、最後に彼女と結婚する。ここで怪物とはあらゆるものを飲み込もうとする悪しき意味での母性と重なる部分があり、その繋がりを断ち切る強さこそ自我の確立にとって重要となる。が、母性…あるいは女性原理を失ってはバランスが崩れるので、新たな出会い、すなわち結婚によってそれを補完するのである。

 

もっとも、このまとめ方はかなり大ざっぱで乱暴だが、ユングや河合隼雄の著作などを丁寧に読んでいくと、それなりに説得力を持っている。そうした事を意識しながら、この『ピグマリオ』という作品のストリーに目を向けてみよう。

 

主人公のクルトは、ルーンという小さな国の皇子だった。父王や周囲の人々に慈しみ育てられていたが、クルトには母親がいなかった。理由は注意深く隠されていた。が、悪神エルゾの娘メデューサによって石像に変えられてしまったのである。

 

その母ガラティアを元の姿に戻すには、母を石にした悪神エルゾの娘メデューサを倒さなければならない。石にされた人々と母のために、メデューサを求めてクルトは旅立つ。母ガラティアの妹である精霊オリエや大地の女神ユリアナに見守られながら。その旅の途上でクルトは、多くの人間や神々、そしてメデューサのしもべ・使徒の妖魔たちと出会う。そして、後にクルトの妃となるはずの星占いの少女オリエとも…。

 

次々と襲いかかるメデューサのしもべ・使徒を、女神ユリアナに借りた大地の剣で倒しながらメデューサ城を目指すクルト。だが、クルトは単にメデューサに近付くために妖魔たちと戦っているのではない。人々と語り、行動を共にしながら、妖魔や悪政に虐げられている人々の願いを背負って戦い、旅を続けるのである。

 

人々と語り、その苦痛や悲しみを背負い、共に生きようとするクルトの額に星が光る。それは、神々から時代を引き継ぎ、人々を導く『創世王ピグマリオ』の証である。共に苦しみ悲しみを背負いながら先へ進むクルトだからこそ、人々は心を動かされて共に生き、戦おうとする。そして、自らの時代の終わりを告げるクルトに、神々も力を貸そうと動きだす。そしてその力を結集してクルトはメデューサの前に立ち、クルトの剣は戦いの中でクルトを育てた闇の母メデューサの胸を貫くのである。

 

翻って、現代の日本の姿に目を向けてみよう。弱者に寄り添い、人々と苦難を共にしながら未来を切り開こうとする政治家や官僚の姿は無く、特権にしがみつき弱者を苦しめ未来を閉ざすようなことしか出来ない族と、国や国民の利益よりも外国と身内の利益を大事にして恥じない売国奴が日本を徘徊する。自ら血を流す勇気もなく、責任の取り方を知らない口先だけの指導者に、国難に対処する当事者能力はない。

 

困難は、それを乗り越えてこそ豊かな実りとなって当事者と周囲の人々に降り注ぐ。様々な妖魔との戦いを越えて、人々の心をつないでいくクルトの旅は、その物語に接する読者に深い感動と、生きる力と、困難に立ち向かう勇気とを与えてくれる。それは、本来、様々な神話が与えてくれたものであり、現在でも優れたファンタジーが私たちに示してくれるものである。

 

ファンタジー作品としての『ピグマリオ』(和田慎二/私は見ていないがTVアニメでも放映されていた)。その中に内包されたイメージには、多くのかぎが隠されている。政治の問題、親子の関係、自立の課題、愛というもの…。いくつもの読み方ができるこのマンガを読みながら、そうしたことに思いを巡らし、未来に立ち向かっていくきっかけを探るのも良いかも知れない。

 

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2007年1月18日 (木)

不調とのつきあい

ここしばらく、体調が今ひとつの日が続いている。ただ、心の方はそれ程悪い状態ではないので、何とか毎日が過ぎている感じである。もともと、あまり健康に自信がある方ではないし、最近は、運動不足や睡眠不足も気になっている。また、体調が良くないと、精神的にも悪影響が出ることも少なくない。あまり、無理はしたくないものである。

ただ、人間、いつも良い状態が続く訳ではない。それに、ある程度よくある不調については、けっこう自分なりに付き合い方を知っているものもある。偏頭痛などは、もちろん睡眠が大切だが、指先で頭に触れてみて少し熱を持っているところを押さえる…とか、腸の具合が思わしくない時には、背骨の少し外側の辺りやへその下の方を圧迫してやるとか、落ち込みがひどい時には、森田童子などを集中的に聞く…といったようなことをして、それなりに調整している。

その結果…外から見ると、けっこう元気に見えるようだ。個人的には、「無病息災」よりも「数病息災(?)」のタイプではないかと思っている。不調にとらわれず、上手に付き合いながら、それなりにやっていければ良い。そんな考え方が【元気!!】の秘訣かも知れない。

 

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2007年1月11日 (木)

眠れない夜

昨日は何故か熟睡をしたという感覚があまりなく、ウトウトとしてはすぐに目が覚める…というような時間が続いた。毎日だと困るが、たまにはこういう時もある。ただ、焦って無理に眠ろうとすると返って消耗してしまうので、こんな時には、「まあ、こんな夜もあるさ」というような感じで軽く考え、布団の中で目を閉じながらとりとめもないことを考えるのが一番である。その方が、短い時間でもウトウトすることが出来るからだ。

確かに、それで前日の疲れが取れるわけではない。実際、今日の日中は何となくぼうぅぅぅぅ…としていて、ときどきあくびも出たが、一応、身体と目は休めているので、そう心身ともに堪えるという状態ではなかった。夕方、少し眠ろうとしたが、修理に出していた車が直ったとの連絡が入り、結局、その時間も奪われてしまった。少し仕事も残っているのだが、今日は、無理をせずに早く寝た方が良いかも知れない。

眠れないときは、眠れないというありのままの自分をそのまま受け入れてしまえば、「不眠」に対する精神的ストレスはそれほどたまらない。そんな時には、ゆったりとした音楽でも流したりしてぼんやり聞くのも良い。谷山浩子の「眠れない夜のために」というアルバムなどは、その名のごとくピッタリの一枚である。温かいココアやホット・ミルク、あるいはホット・カルピスなどもけっこう良い。意外と不便なのがホット・ウイスキーで、酔いがさめるとまた目が覚めてしまうことがある。

そんなことを考えると、眠れない夜も、それなりに楽しみ方がある。毎日だとある程度心身が消耗していくことになるので困るが、たまには、それを楽しんでしまうというのも面白いかもしれない。でも、今日は早く寝ることにしよう。

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2006年12月 5日 (火)

他者を思いやれる豊かさ

「情けは人のためならず」という言葉がある。一部に「情けをかけると相手のためにならない」と誤解している人もいるようだが、本来は「他者に情けをかけると巡りめぐって結局は自分にも恩恵がくるので、相手のためではなく自分のためになる」という意味である。まあマンガ『はいからさんが通る』(大和和紀)に出ていた〈今週の御言葉〉の1つにある「見返り期待し、いつも親切」という部分も含めた諺と言えば良いだろうか。

だが、心理的・仏教的な視点から見れば、より直接的に自分自身に返ってくる部分もある。具体的に例を挙げて説明してみよう。

まず精神的な面から考えれば、「他者に情けをかける」などという行為自体が、他者を見つめることの出来る時間的・精神的な余裕を必要とするので、それだけの余裕・ゆとりを持った状態に今の自分がいる…という証拠・証明となるからである。実際、その余裕・ゆとりのない人は、自分のことで精一杯である。それは、それだけ精神的に追い詰められているということなのである。

仏教的には、布施、喜捨などがあるが、相手に施しを与えることで優越感に浸る…ということではなく、相手に受け取ってもらうことによって自分自身の心に豊かさを与えてもらう…という発想になる。それを考えれば、受け取ってもらうことに感謝の念も芽生える。そういうことから考えれば、直接自分に返ってくる行為…と言うことになるのである。

さて、現代の日本社会を振り返ってみよう。自分が得をするためならば他者が苦しもうが悲しもうが何とも思わない…という人が増えていないだろうか。それは、その人自身が心の余裕・ゆとりを失っている、ということでもある。確かに、心身ともに追い立てられて疲れ、安心して安らげる居場所を持てないような状況では、なかなか他者には目が向かないかもしれない。

けれども、そこで敢えて他者に目を向けてみる必要があるのではないだろうか。自分より辛い人や苦しんでいる人、あるいは悲しみの中にのた打ち回っている人がいるかもしれない。そんな人に手を差し伸べる事ができたとき、同時に自分の中に何かを受け取ることが出来る筈である。シンドイ中でも、そんな部分を持ち続けていられれば…と思う。

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2006年12月 3日 (日)

心身の疲れ

最近の忙しさで、疲れがたまっているようだ。まず、身体だが、朝9時過ぎに起きるつもりだったのが、11時前になってしまった。非常に分かりやすいパターンだが、もともと身体はそれ程丈夫ではないので、この種のサインや頭痛、あちこちの痛みといったサインには注意したいと思っている。

それに加えて、今日は昨日家族に頼まれていたことを完全に忘れていた。併せて、すぐに謝れずすっと言い訳の言葉が出ていたことに気づいた。これは、精神的にも疲れがたまっているサインだろう。余裕がないから忘れるし、イライラする。そういう時は、素直に謝れなかったり、愚痴を言い続けたり、間違いや過ちを認められなかったりするものだ。心の方も大分疲れているようである。

こういうサインに気づけば、ある程度、休むことを優先しなければ…と思う。無理をしても長い目で見れば能率は上がらないばかりかどんどん低下する一方だし、病気やウツになればあらゆることに悪影響が出てしまう。それよりも、ある程度腹をくくって休んだ方が、結局は集中力や体力も回復して心にもゆとりが生まれ、能率も上がってくるのだ。

時には、多少無理をするのも良い。けれども、無理をし続けると、自分自身はもちろん、家族にとっても、仕事の面でもマイナスになる。サインに気づく余裕がないと、ついつい無理をし続けてしまうのだから、最低限、サインに気づく余裕は失わずにいたいものである。

日本社会は、大丈夫だろうか。働き過ぎの人が増えていないだろうか。目先のことに追われ、ゆとりと長期的な展望が失われつつあるような気がするのだが……。

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2006年11月22日 (水)

自分であること

日常のボランティア活動に取材が入り、新聞に出てから、色々と新しい接触が入ってきている。結果として、日頃の活動で支えている人々のプラスになれば…と思っているので、少しでもSOSを受け止める機会が増えれば良いと思う。

人間として当たり前と思うこと、例えば、自分よりも弱い立場や苦しい状況にいる人々に手を差し伸べるのは当然だと思うのだが、最近のニュースを見聞きしていると、それが「当然」ではなく、弱者の生き血を吸って贅沢三昧…という卑劣な例が以前よりも目に付く。嘆かわしい限りである。

ただ、結局、そういう人たちは自分に自信がないのかもしれない。自信がないから、心にゆとりが持てず、感性も鈍化して、他者の痛みが分からなくなってしまったのだろう。そして、そのような自分をごまかすために、暴力や権力の鎧を被り、他者の目と自分自身の目を眩ましているのかも知れない。

他者から注目を浴び、一目置かれる…というのは、虚栄心をくすぐられる。けれども、その甘美さに浸るうちに自分を見失ってしまうことも多い。今、自分は、きちんと「自分」のままでいるのだろうか。他者の痛みに鈍感になっていないだろうか。時々は、わが身を振り返ってみる必要があると思う。

特に、忙しい時はそのような余裕を失ってしまうことがある。明日は、勤労感謝の日。少し時間的な余裕をもらえそうなので、ゆっくり休んで、今の自分を見つめ直してみようか。

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2006年11月11日 (土)

指先の感覚

お酒を飲みに行ったときに、時々、マッサージをしてあげることがある。店のスタッフや常連さんに頼まれたときに限るが、割と評判は良い。というよりも、ファンがいるほどで、大阪在住のベーシストに「マッサージ師には触らせへんけど、TACさんならええわ」と言われ、気持ち良さそうに商売道具の「肩」をあずけられたこともある。

自分の身体が痛むときもそうだが、指先で触っていくと少し熱をもっていたり、妙に硬くなっていたりするところがあり、そこをほぐしていくことで痛みやコリが和らいだり、楽になったりする。それを他の人の身体にもしてあげるだけなのだが、それがとても気持ちが良いようだ。ある時など、店のスタッフの話の流れで1人のお客さんの肩を揉んであげたら、とても良かったらしく、本気で財布からお金を出してきたこともあった。

結局、指先が柔らかくて敏感であることがプラスに作用しているのだろうが、もしかすると他の人は必ずしも指先の感覚が敏感でないのかもしれない。あくまでも自分の感覚だけで素直にやっているだけなのだが、それが良いのだろう。

相手が気持ち良さそうにしていると、こちらも嬉しいが、きれいな女性だと、それとは別の楽しみもある。まあ、酒の席でも不埒なことはしないが、凝った背中や肩や腰であっても、女性の肌の感触はそれなりに心地よい。その辺りは、【役得】として素直に受け入れている程度である。その辺りの自制心が、「TACちゃん、お願い」と、臨時マッサージ屋さんが続く理由なのかもしれない。もちろん、無料の……。

それが果たして得なのか、損なのか……。けっこう微妙かもしれない。まあ、自分として不快ではないので、良いことにしておこう。

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2006年11月 7日 (火)

唯足るを知る

今日の夕方、財布の中に2,000円しかお金がなくなった。夕食の買い物を終えた後だったが、財布の中身を思うと、寒さが一層身にしみた。その後、30,000円ほどの入金があったので多少は落ち着いた。特にお金が入用な予定もないので、一段落…という感じである。

もちろん、お金はあるに越したことはない。けれども、お金に執着し過ぎれば、返って時間がなくなり心も貧しくなる。贅沢が出来なくても、普通に暮らしていく事が出来れば、今の生活はそれなりに充実している部分もあり、大きな不満はない。

もちろん、新しいDVDレコーダーが欲しい…とか、パソコンがもう1台あれば…とか、もう一回り大きい新しい車が欲しい…といったような事を思うことはある。その意味で、物欲をはじめとする欲望を持っていない訳ではない。けれども、どうしてもそれが絶対に必要か…と自分に問いかけてみると「あれば便利・楽しい」という程度で、なければ困る訳ではない。というよりも、なくても生きていけるものが多いのである。

現代資本主義社会は、欲望を煽ることで物を売り、富を蓄積しようとしている。そして一部の人々は、自らの富の蓄積のためには弱い立場の人々の生活の悪化や生存についてはどうなっても良いと考えているふしがある。モノやサービスを生産して流通・売買する過程で富を得るのが現代の経済システムである以上、欲望のエネルギーはそれなりに大切である。けれども、欲望の暴走は、当事者ばかりでなく関係のない多くの人々をも不幸にすることが少なくない。

時には、一息ついて自分の内にある欲望を見つめ直してみよう。「欲しい」と思っていたモノが、実はそれほどではなかった場合も出てくるかも知れない。そうした目で、日々の生活を再検討してみると、結構、幸せな場合もある。時には「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」という言葉をかみしめてみると、思わぬ心の平安が得られるかも知れない。

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2006年11月 2日 (木)

風邪…

深夜、突然寒気がして、熱を測ってみたら38℃を越えていた。久々の風邪である。通常は細心の注意を払っているので、11月の段階で高熱が出るような風邪をひくことはないのだが、今回はひいてしまった。やはり、風邪っぽい女とのkissは慎むべきであったのだろう。もちろん、自分の身体を第一に考えればの話だが……。

それでも、午前中ゆっくり寝ていられたお陰で熱も下がり、一応は医者に行った後、午後からは普通に仕事をしていた。合間に、時々布団に入ってはいたが……。

日ごろ忙しくしていることもあり、風邪をひいてしまった時は、素直に「身体を休めなさい」という天の声だと思うことにしている。寝ているのか起きているのか分からないぼんやりとした頭で布団の中に入っているのはなかなか心地よい。詩などの面白いフレーズや印象的なイメージが心の中に浮かぶこともある。そういう面では、風邪もまた楽しい。

とは言うものの貧乏暇なしの身に、ゆっくりと休める時間はそれ程与えられていない。多分、月曜日には、完全に忙しい日常の中に戻っていることだろう。それもまた良し。基本的に、日常の生活の中にそれ程不満はない。忙しいということはあっても、自分のやりたい事ややらなければいけないと納得できる事はきちんと出来ているのだから……。

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2006年11月 1日 (水)

大切な相手を待つ時間

相談を受ける現場で、時々、待つことの大切さを話す事がある。聞いている相手は、だいたい「なるほど」という顔でうなずくことが多いが、実際にそのように行動できるかどうかはまた別問題である。一見、簡単に思える「待つ」ということだが、その時間が長くなるほど相手への不審や不満が芽生え始める。言うことは簡単だが、実際に「待つ」ということはけっこう難しかったりするのである。

「待つ」という時間は、相手への信頼を試される時間である。本当の意味で信じていればある程度待てるが、実は相手を軽く見ていたりあまり信頼していなかったりすると、それ程待つことは出来ない。あえて相手を待たせるなどは良くないが、どうにもならない事情がある場合もあるので、相手が待っていてくれるということは自分を信頼してくれているというメッセージであり、相手を待てるということは相手への信頼があるということである。

それでも、待つ時間が長くなれば苦しい。まして、いつまで待ったらいいのか分からないときは、より一層辛い。5分や10分なら、まだ簡単に待つこともできようが、5年、10年となると待つのも大変である。特に1人では、悪い考えの堂々巡りになることもあるので、出来れば、理解のある複数の人と待つことが出来ると良い。

それなりに生きてきて、ある程度は待つことも出来るようになったが、それでも時には心が揺れ、イラついたりすることもある。それでも、きちんと待ったことによって相手が良い方向に変わっていくのを見るのはうれしい。

まだまだ不十分なところもあるが、これからも「待つ」ということを大切にしたいと思う。

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2006年10月16日 (月)

頭痛との折り合い

最近、ちょっとした頭痛に悩まされることが多い。原因はだいたい睡眠不足である。仕事ばかりでなく様々な活動に関わっている関係もあって、毎日が結構忙しい。好きな映画も2ヶ月以上見に行っておらず、ビデオを借りてきても見る暇もない。そんな中で、ちょっと何かがあるとすぐに睡眠不足になってしまうのである。

そんな訳で頭痛の原因は分かっているし、薬に頼らなくてもポイントを指先で力を加減しながら押すことによって結構頭痛は楽にもなる。それにあまりにも酷いときは数分から30分程度でも横になって目を閉じるだけでも多少マシになるので、何とか頭痛と折り合いながら毎日を過ごしている。

そういう意味では、対処法が分かっているために慌てない……ということになるのだが、原因としての忙しさと睡眠不足を何とかしない限り、やがては折り合いをつけることも難しくなって来るだろう。とすれば、身体からのメッセージである頭痛も大切にしなければならないと思う。あまり若作りをして無理するキャラクターではないが、それでもつい、歳を忘れてがんばってしまうこともある。もう若くはないのだから気をつけなければ…と思う。

きょうも、少しこめかみの辺りに痛みがある。いろいろと仕事も多いが、そろそろ身体が悲鳴を上げ始めているというサインなので、今日はなるべく早く寝なければ……と思っている。

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2006年10月10日 (火)

自立ということ…

最近の日本社会は、付和雷同の傾向が強くなっているように感じられる。これは、自分自身をきちんと精神的に確立していない人間が増えている、と云うことから来るのではないだろうか。その意味で、自立や自己主張の必要性を叫びながらも、それに反する押し付け行為が行われているからこそ、精神的に自立できず声の大きい人の言うことを何も考えずに繰り返すことを「自己主張」と勘違いしている人間が増えているのではないか、と思われる。

まず、自分というものを確立することは確かに大事だが、そのためには土台となる知識や判断力が必要であり、それをもとにじっくりと考えることが次のステップとして大切である。けれども、考えるだけでは不十分で、その考えを真摯に表現し、また自分の行動を通して確認してみることも重要となってくる。そうした積み重ねと、その過程の中での他者との関わりにおいて「自分」というものが次第に形成されてくるのではないか、と思われる。

ところが、考えることや自分の考えや言葉に基づいて行動することを疎かにしている人々が多い。それなりに責任のある立場の人々、権力を持った大人たちでもそうである。つまり、責任ある立場にいても、それなりに権力を持っていても、自立している人間は思いのほか少ないようなのである。

自立していない人間にとって、本当に自立している人間の存在は邪魔で、また怖くもある。自分の弱さや虚偽性を見透かされてしまうからであろう。だから、実力も伴わないくせに高圧的にでたり、その身にそぐわない権力を使って他者の批判を押しつぶし、小さな自分の考えや判断の枠内にその言動を押し込めてしまおうとする。そういう大人が、本当にイヤになるほど増え続けているように思われる。

だから、まず自立を促したい。たとえ苦しくても、実際に苦労して自分の頭で考えることを進めたい。そして、自分の言葉に責任を持つことを……。もちろん、私自身、それがきちんとできている訳ではない。けれども、なるべく多くの時間それが出来るように……と心がけている。そして、それを理解し、共に努力をしてくれる仲間や友人もいる。そういう輪を、少しでも広げて生きたいものである。

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2006年10月 3日 (火)

壁から逃げないで…

生きていると、いろいろな「壁」につきあたる。個人的には、離婚などもその1つである。けれども、大切なことは、問題から目をそらさずにきちんとそれに向き合うことであろう。

きょう、久しぶりに読書会のメンバーと昼食をとっていたが、そんなことがいろいろと話された。子育てを終えて子どもたちが自立している人も多く、中には、ご主人が定年退職をされたような方もみえるのだが、それぞれの経験なども交えながら、そんな話をしていた。

とは言っても、「壁」を越える力がまだまだ身についていない場合は、その瞬間に限っては「逃げる」というのもアリだと思っている。ただ、その際に大事なのは、「今の時点で自分は逃げた」ということをきちんと意識しておくことであろう。メンバーの1人も、「逃げると、問題がもっと大きくなってまた返ってくる」と言っていた。同感である。だから、「逃げる」自分から目を背け、ごまかそうとするのは最悪の対応である…ということになる。問題を意識し、力が足りないことを認識して逃げるのであれば、力を蓄える努力につながり、次のチャレンジができる。そういう意識が大切なのである。

「それは、ちゃんと問題を見つめることで、本当の意味で逃げることではない」というような発言をしたメンバーもいた。1人ひとり、それなりの山や谷を経験してきた上での発言には実感がこもっていて、言葉そのものも重い。

自分としても、そういう意識を持ち続けていたいと思う。

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2006年9月29日 (金)

聞く度量

他のブログを見ていたら、コメントの中に1人自分の感情的な意見をぶつけるだけで、他の人たちの意見を丁寧に読まない人を見つけた。自分は強気のつもりなのだろうが、返って度量が狭く、流行や既成の権威に依存しているだけの自分のない人であることが見てとれた。結局、自分という存在を精神的に確立できていないから、それがばれたり不安定な今の自分が崩れてしまうのが怖くて、他者の意見を自分の中に取り込めないのだろう。

けれども、よく考えてみると、有名、無名を問わず、そういう人を見かけることが最近多くなったように思う。つまりそれは、自分というものを確立できていない、自分が精神的に自立できていない人が増えているということなのだろう。青少年については、成長途上であるということを考えればある程度仕方がないことだし、それに上手に関わりながら自立を促していくことが周りにいる大人の度量だし、また役割でもある。

しかし、いい歳をした大人のそんな姿を見てしまうと、情けないなあ…と思うし、また可哀相だとも思う。多分、これから先、多くの人々とぶつかり、嫌われ、寂しい人生を送るのだろうから。

他者の意見を丁寧に聞く、もしくは読む、という行為は、大人としての度量だし、また自分の精神をより大きくしたり深めたりするチャンスでもある。その関わりを通して、人間として大きくなる機会かも知れないのだ。

確かに、それまでの自分の発想や見方とは異なる場合は、最初は理解しにくいだろう。けれども、それを理解する過程で、何か新しいものが見えてくるかも知れない。それをきっかけにして、自分のミスや欠点を修正できるようになるかも知れない。だから、他人を受け入れようとする姿勢は自分を変えるチャレンジでもあるのだ。

他者の言葉に耳を傾けられる度量を、いつも持っていられたら……と思う。

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2006年9月20日 (水)

耳をすませて

市立図書館の読書会で、久しぶりに『モモ』(エンデ/岩波書店)を読んだ。作者のエンデは1995年に亡くなったが、その作品は今も世界中の多くの人々を魅了し続けている。

 

映画化もされ、エンデ自身も少しだけ映画にも出演しているというこの作品の主人公モモには不思議な力が備わっている。それは、他の人の話を聞くのがとても上手いことだ。町の人は、困っている仲間にこんなふうに声をかる。「モモのところへ行ってごらん」と。 

 

子どもに過ぎないモモは、お金を持っているわけでも、アドバイスをしてくれる訳でもない。ただ、素直に、そして一生懸命に聞くだけだ。けれども、モモに話し終わる頃には、何か良い考えが浮かんできたり、気持ちが楽になったりする。だから、聞き上手のモモは、人々にとってとても大切な存在なのだ。

 

さてここで、私たち自身の生活を振り返ってみよう。自分に、安心して話をすることの出来る家族や友達はいるだろうか。この人なら、安心して何でも話せる。この人といるだけで、ほっとする。そんな家族や友達や先輩や仲間が一人でもいる人は、もしかすると、とても幸福な人かも知れない。

 

別にアドバイスを受けなくても良い。というよりも、下手なアドバイスは、聞いていて腹が立つことだってある。「そんなことは、分かってる。でも、出来ないから困ってるんだ」と心の中でつぶやきながら、相手の得意そうに始めた「正論」や「自慢話」や「体験」を聞くなどという展開になってしまって、返って不愉快になったり、落ち込んだり…。そんな場合も、結構少なくないのではないだろうか。そう考えると、ちゃんと話を聞いてくれる人の存在は、とても貴重で得がたいものだということが分かる。

 

では、私たちは、自分の大切な家族の、あるいは友達や仲間の話をちゃんと聞くことができているだろうか。少し話を聞いただけで分かったつもりになって、その「理解」の上に立ち、自分に都合のいい考えを無意識の内に押し付けていることが結構多いのではないかと思われる。いや、もっとひどい場合は、相手の話をさえぎり、こちらの意見や都合をまくし立てることもあるのではないだろうか。

 

どうしてそうなってしまうのか。きっと、親しいから、分かっているから、という無意識の甘えを背景に、あるいは相手との上下関係などを背景にして、相手の気持ちに十分に応えずに、つい自分を主張してしまうのだろう。

 

ただ、相手が普通の状態(精神的にも、状況的にも)であるならば、そうした部分はお互い様だから、何事も無く過ぎていく。しかし、相手が切羽詰っていて余裕の無い状態であれば、そうした「普通の何気ない対応」が相手の心を深く傷つけてしまうこともあるのだ。

 

もちろん、いつも「特別に注意を払った対応」を全ての人を相手に出来るわけではない。と言うよりも、人間にそんなことは不可能であり、無理にそうしようと努力すれば確実に自分の心が蝕まれ、おかしくなってしまうだろう。その意味では「普通の何気ない対応」というのは、そうならないための無意識の安全弁かサーモスタットのようなものなのかも知れない。

 

また、人間誰しも、精神的に余裕のある時には、わりと他の人の話を聞いてあげられるものだ。そういう時に、少し「耳をすませてみる」と、「普通」だと思っていた相手が「普通の状態」でないことに気づく場合がある。そして、モモのように誠意を持って真剣に話を聞き出すと、思いもかけなかった事実や悩みや思いが吹き出す事もある。しかもその内容が聞く側の人にとっては重すぎて何も出来ない事だってあるのだ。

 

しかし、慌ててはいけない。無理をせずに出来る事……。そう、モモと同じようにただ、真剣に相手の話を聞き続ける事は出来るはずである。心を合わせてそばにいてくれる、そんな人が存在していると実感できる、それだけで楽になる事があるのだ。下手な解釈や場当たり的な解決策を口にしなくても、自分の辛さや苦しさや悩みを理解してくれる人がいると信じられる事が、人に希望を与えるのである。

 

けれども、精神的に追い込まれている度合いが強いと、自分の辛さにしか目が行かなくなり、その中だけで堂々巡りをしてしまい、手を差し伸べようとしてくれる人に対してさえも心を閉ざしてしまったり、イライラや持って行き場の無い怒りをぶつけたりしてしまう場合がある。そんな時には、それでもあえて聞き続けるというのは本当に辛いことかも知れない。

 

でも、少し考えてみよう。他の人には出来ないかもしれないけれど、信頼している相手になら、自分の弱い部分を見せることが出来るし、無理を言ったりして甘えることも出来る……ということが人間にはあるからだ。

 

そうした事が少し分かっていると、大切な人が自分にとって辛い言動をしても、何とか受け止められる場合がある。必ず受け止められるとは言えないが、知識として知っていることで、わずかずつでも許容範囲が広がるという事はあるのだ。

 

もちろん、何もかもを自分ひとりで背負えるという訳ではない。と言うよりも、あまり自分ひとりで背負い込んでしまうと、その許容範囲を超えたときの反動が大きく、返って周囲の人に多大の迷惑を及ぼす場合だってある。

 

私の愛する女は、わりと優しいところがあるが、とても気が強く、何もかも自分ひとりで背負い込んでしまう傾向が見受けられる。身近で接している時はそれが分かっているから、なるべく一人で背負い込んでしまうことがないように、と気をつけているが、大事なところで自分の中に溜め込んでいるうちに許容範囲を超えてしまって暴走し、すべてをぶち壊してしまいかねない言動を取ったことも何度かある。それでも、彼女のすべてに「耳をすませて」いると、後始末の際に「バカ…」とつぶやくぐらいのことはあるとしても、どうしてそうなったか、ということも含めて理解できるから、変わらずに彼女を受け入れ続けることが可能となる。(今だけ……でないことを祈りたいものだが。)

 

それに、私自身も聖人君子ではないので、精神的に余裕の無いときにはバカなこともするし、他の人の心情にまで思い至らずに無神経な言動をとったりもしてしまう。ただ、そういう場合でも、なるべく自分の心に「耳をすませて」心の余裕を失っていないかどうかを確かめるように心がけようとしている。

 

今までの自分自身の経験からすると、自分の辛さや淋しさや苦しみを見つめ、それを超えて生きていこうとする体験が、いつしか出会う誰かの辛さや淋しさや苦しみを和らげる力となる事だってあるかも知れない。そう考えると、まず自分自身の心に「耳をすませる」勇気が湧いてくる。

 

そろそろ40代の後半に差し掛かっていてそれなりの経験も積んでいるが、それでも、未だに自分の未熟さを痛感することは少なくない。しかし、自分が辛いときでも、他の誰かのために何かをしてあげられる強さを持ちたい…と思う。まあ、なかなかそれが出来ないから、そう思うのだろうけれど。しかし、自分の心に「耳をすませ」、周りの人々の言葉に「耳をすませて」、今よりも少し強く、今よりも少しだけ優しい自分になりたいものである。モモのように、いつでも、自分も含めたあらゆる存在に対して「耳をすませる」ことができたら良いと思わないだろうか?。私は、そう思う。

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2006年9月17日 (日)

売り言葉には…

子どもたちの相談を受けていると、けっこう人間関係で苦労している例が見られる。その際に、ちょっとした言葉が関係をこじらせていることが少なくない。だから、相手の気持ちや状況を考えてあげて【売り言葉に買い言葉】という対応ではなく、言葉の奥にあるイラダチなどを上手に受け止めてあげられるといいね、というような話をしている。

実はこれは、子どもたちばかりでなく、大人にも言えることである。「あなたなんかキライ!」という言葉に対して「ああ、キライで良いさ! 勝手にしろ!」と返せば、完全に【売り言葉に買い言葉】になってしまうが、「どうしてそんなに怒るの?」と返せば、反応は違ってくる。「あなたなんか…」という言葉の裏には「あなたにだけは分かって欲しい、共感して欲しい」という思いがあり、分かってもらえないから苛立ち、怒ってしまう……という場合がけっこうあるからだ。

相手が【売り言葉】を発する背景には、それなりに追い詰められて状況があり、心に余裕がない、という心理状態に陥っていたりする。その相手と、この場限りで決裂してもかまわない、というのであれば【買い言葉】も1つの選択だが、ケンカしてばかりいては信頼できる相手を次々に失い、人間として孤立してしまう。だから、相手の感情に巻き込まれずに、ある程度の心の余裕を持って、【買い言葉】とは異なる対応をすれば良い。そうする事で関係はつながり、深まっていく…という事になる。これは、決して損な話ではない。

何も、周りのすべての人々に対して、いつもいい顔をする必要はないが、少し、心に余裕を持つことで、落ち着いた対応ができる。【売り言葉】に対して【買い言葉】とは違う対応ができるだけの余裕を心に持ちたいものである。

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2006年9月 7日 (木)

ひとやすみ

昨日、一昨日と仕事の関係で睡眠時間が4~5時間という夜が続いた。あまり身体が丈夫な方ではなかったので若い頃から徹夜はほとんどしていないが、40代後半の中年ともなるとさらに体力が落ち、頭や目や身体に疲れが出てきている。特に、夜型人間なので、明日は起きるのが少し辛くなりそうだ。

こんな日は、美味しいウイスキーでも飲んでさっさと寝る方がいい。そう思いつつも、こうしてブログのためにパソコンを開いてしまっている。まあ、仕事ではないのだし、少しは心の骨休めになるかもしれない。

たまには、仕事が追いかけてこないところで数日のんびりと過ごしたい。特に、好きな女が傍にいて、ゆったりと美味しいウイスキーか泡盛の古酒でもあればいうことない。それほど贅沢な夢とは思えないのだが、これがまたなかなか難しい。金にはならないけれどそれなりに責任のあることを色々とやっていることもあり、仕事も含めてスケジュールを考えると、「数日」という自由時間が奇跡のような存在である。

それでも、ストレスをあまりためることなくそれなりにやっていられるのは、けっこう好きなように出来る環境をさりげなく整えているからだろう。とは言っても今日のところは、まず睡眠……。ゆっくりと身体の方の「ひとやすみ」を心がけようと思う。

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2006年8月30日 (水)

「自己チュー」雑考

最近、以前ほどには「自己チュー」という言葉は聞かれなくなった。にも関わらず、ニュースや雑誌・本などで取り上げられる事件を見聞きしていると「自己チュー」は以前にも増して増殖しているように感じられる。そこで、あらためて「自己チュー」について考えてみようと思う。

自分では基本的には穏やかな性格だと思っているので、あまり他の人と喧嘩をする事はない。それでも、天使や仏ではない人間の身である以上、まったく……という事はない。やはり、何人かとは喧嘩をしてしまった経験はある。本来、「来る者は拒まず、去る者は追わず」のポリシーなので誰とでも割と軽いノリで仲良くなるが、こちらから喧嘩別れのような形で精算するような関係は今までほとんど記憶にない。が、それでも幾人かの例外はある。

そうした事例における原因のほとんどは、あまりにも「自己チュー」で他人の言葉に耳を傾けず、自分勝手に解釈・行動して、関係者のみならずその周囲の人間にまで多大な迷惑を及ぼし続ける人間に対してホトホト愛想が尽きるという状況に陥った事による。が、こうした体験をエッセイのネタにしようとしているこちらも、ある意味では結構「自己チュー」である。皆さん、文芸創作者との付き合いには気をつけましょう。

 

さて56年前から、巷でよく聞かれるようになった「自己チュー」だが、自分勝手で自己中心的な人間をそう呼んでいる。その姿や背景について少し素描してみよう。

 

彼ら「自己チュー」は、他者からみて自分勝手でワガママと写る訳だから、彼もしくは彼女のことを「自己チュー」だと考えている人間が周囲に多いという事になる。つまり彼らのほとんどが人間関係に問題を抱えている人物であると言えるだろう。

 

人間関係の問題、平たく言えば他人とのつきあいだが、人間が11人オリジナルであり感じ方や考え方が異なっている以上、それは結構難しい。自分の都合や意見を主張し過ぎれば「自己チュー」と言われて関係が壊れるし、相手の都合や意見に合わせ続けていれば自分に無理が生じて精神的にストレスが溜まり、おかしくなってしまう事もある。

 

だから、「自己チュー」がすべて「悪」であると言える訳ではないが、結局、適当な頻度でコントロールできるかどうかにかかってくると言っても過言ではない。しかし、実際問題としてそのコントロールが難しいために有史以前から人類が長きに亘って悩み続けているのである。

 

おっと、大風呂敷を広げ過ぎたので、少し話を小さくしよう。

 

人間はお互いが掛け替えのない大切な存在であるとしても、実は、ある人にとって他の人達との心の距離は1人ひとりがすべて異なるものである。恋人・家族・配偶者・親友・友人・知人……。ある人には話せるが、別の人には話せないことがある。ある人に対しては損得を越えて協力することでも、他の人に対しては邪魔をする側に回ることすらある。

自分のとっての大切さの度合いは、周囲にいる1人ひとりの存在がすべて異なっているし、相手に対する言動も、自分にとっての大切さによって当然違ってくる。それが「人との距離」である。

 

例えば、私が以前喧嘩した男の1人を例にとって考えてみよう。彼は、人との距離の取り方が致命的に下手だった。何かのきっかけで少し親切にされるとすぐにその相手が「友達」(それも「親友」のレベル)になったと思い込み、彼が考え得る限りの「好意」を示し始める。どこかに旅行をしたり帰省したりするとお土産を買ってくるし、酒の席などで話題になった商品についてインターネットで調べ上げ、それを買ってきたりもする。「好意」を示された方は、それ程彼と「親しい」という認識はないのでそうした行動に対して違和感を覚えるが、変に波風を立てることもないと判断して、取りあえずは彼に対する「好意」として受け取る。当然、本当に受け取った側に必要かどうかは別問題であり、返って後で困惑したりするような場合もある。

 

そのような「勝手な好意」の積み重ねによって、本人は「自分がこれだけのことをしているのだから、相手も自分を大切にしてくれて当然」と考えるようになる。ところが、相手の都合を考えない「勝手な好意」であるために返って相手に困らせている場合もあったりする。また、何かを頼まれた場合でも、本当の意味で相手の身になって考えていないために、どうでも良い時でも余計な言動で気分を患わせる程度は序の口、時として本当に大事な場面でとんでもないポカをやらかして周囲に多大な迷惑をかけたりする事がある。

 

そうした事件の積み重ねが、やがては相手を怒らせ、関係をこじらせて、それでも自己弁護に終止して責任を取ろうとしないので、喧嘩別れという結果になってしまう。だからこそ、自分に対して優しい言葉を掛けてくれたり、穏やかに接してくれたりする人が現れると、すぐにその人を勝手に自分の「友達」と感じて、小さい子どもが母親にくっついて離れないように、その人にまとわりつき、自分の「勝手な好意」を押しつける。

 

けれども、それはまた相手に疎ましがられ、嫌われることにつながり、ちょっとした事でお決まりの喧嘩別れに終わってしまうことになる。その繰り返しの中で、心に寂しさを感じ続けながらも、次々に新しい人と「友達」になっては喧嘩別れをする事を繰り返し、人との関係に苦しみながらもその中を彷徨い続けている。

 

人間というものは基本的に弱い存在である。特に、最近の日本人は、子どもも大人もそうであると、様々な場面や機会を通じて実感することが多い。もちろんそれは自分自身も含めてなのだが……。

だが、「弱さ」が必ずしも「自己チュー」につながる訳ではない。最低限、そうした自分の弱さを直視し、自覚する覚悟があれば良い。そしてその弱点を直すべく努力を続けていれば、必ず周囲から損得や立場を越えたサポートが入る。周囲の視線や好意がその人を支えてくれる訳である。このように、損得を越えて支援してくれる人がいるという事実が、好意を受ける側の人物が「自己チュー」ではない証でもある。

 

それに対して「自己チュー」はどうか。その人の言動が周囲の損失や迷惑につながると見られる範囲において、そのマイナスを最小限に抑えるためのサポートはあるだろうが、彼や彼女自身に対するサポートは本人にとって大切な時ほど受けられなくなる場合が多い。そのような現実から考えれば、「自己チュー」は本当に哀れで悲惨である。しかし、それは彼もしくは彼女自身が招いた事なのである。

 

それでも、「自己チュー」は自分の行動ややり方を変えず、相変わらず「自己チュー」であり続ける場合が多かったりする。そうした姿勢や言動を非難することは簡単で、噂話や酒の肴にしてうっぷんを晴らせば、多少なりともその「被害」を受けている人々の精神衛生には良いだろう。だが、その背景をさらに深く掘り下げることの方がより建設的だと思うので、その辺りについて考えてみよう。

 

彼もしくは彼女たちが「自己チュー」であり続ける理由……。それは、自分の心の深い部分で自分自身の存在に対する自信がなく、また自分自身の「弱さ」にきちんと目を向け、認める強さを持ち合わせていないことによるのではないだろうか。例えば、学歴や地位を前面に出して、直接・間接の形で「特別扱い」を要求する輩がいる。けれども、そうした人間ほど実力や人間的魅力がない場合が多い。従って、彼らは学歴や地位といったものにすがりつき、さらに醜態を晒すことになるのである。だが、それは彼もしくは彼女たちが自分の「弱さ」を安心して出せる機会のないまま、そこまで年齢を重ねてきた結果なのかも知れない。

 

自信は、その字の示すごとく自分自身への信頼によって育まれるものであり、その自分自身に対する信頼は周りの他者に対する信頼と表裏一体のものである。自分の弱さを認められない背景には、周囲に対する不信がある。失敗や弱さが自分への虐待や攻撃につながる体験を小さい時から数多く経てくれば、周囲に対する信頼は育まれず、自信を持てない人間になる。

 

その自信のなさをカバーするのに彼等は外からの権威を借りてくる。自分の言動ではなく権威者の言葉や行い、あるいは知人の業績や言動を利用して、自分を攻撃してくる(と信じ込んでいる/誤解である場合も少なくない)相手を攻撃し、優位に立とうとする。あるいは弱い立場の人々を攻撃する事で自分の「強さ」(もちろん錯覚に過ぎず、これがいじめや差別となる)をアピールして不安を紛らわせようとする。ガードする必要のない「弱さ」を自分と他人の目からごまかすために過剰に反応し、結果として関係をぶち壊してしまうのである。

 

結局、「弱さ」がウィーク・ポイントとなって自分が攻撃の対象となると信じているので、外に対して失敗や弱さを認めず、虚勢をはって自分の小さなプライドだけを守ろうとするようになるのであろう。だが、そうした姿勢は、多くの人々の心に敵意を生じさせると同時に、好意を持って近付いてくる相手に対しては、拒否や攻撃の壁となってしまう。その結果、彼や彼女たちは本当に自分を慈しみ守ってくれるかも知れない相手に対してさえも牙を剥き、爪を立ててしまうのである。

 

これは何も一般人だけではない。政治家や公務員の中にも、自分のミスや失敗を認めずに強弁と言い逃れと情報操作を繰り返してそれをごまかそうとする心の弱い輩は多い。小泉首相、パロマの経営陣、「自己チュー」と見受けられる人々は多いが、彼らの「自己チュー」によって多くの人々が苦しみ、命さえ失われている悲惨な現実がある。彼らに自分の失敗を認める「強さ」があれば、事態が悪化する以前に改善できたであろうと思われる事は多い。権力を持つ人々は、間違いを認める「強さ」を持つ事が最低限の「自己責任」だろう。

 

最後に、こうした分析・考察の上に立った「自己チュー」に対する接し方について述べておこう。自分に、守るべき人々や仲間がいて、「自己チュー」が自分や大切な人々に関わってくる場合は、自分自身の力量の範囲で対処が可能である限り、あまり深く関わりを持たない関係で止どめておくのが利口だろう。

自分の力量の範囲で対処が不可能と思える場合は、彼や彼女たちと喧嘩してでも自分の守りたい人々をガードした方が良いだろう。こちらが強い意志でガードを固めて対処していれば、自分に自信のない彼等は、敢えてそれ以上の侵入を試みないと推測できるからである。その場合は、安易な妥協や思いやりは返って「自己チュウ」の甘えや暴走を引き出してしまう場合があるので、毅然とした態度で臨むよう心がけると良いだろう。

それに対して、「自己チュウ」である彼や彼女たちが守らなければならない大切な相手であるならばどうだろうか。意外な事かも知れないが、「自己チュウ」の精神的背景には自分自身の存在に対する自信のなさ・不信感が存在している場合が少なくない。ワガママで自分勝手にふるまっているようでも、裏を返せば、自信のない弱い自分を強く見せようと無理を重ね、注目を集める事で自分に対する「真実の愛」を確かめたいともがいている哀しい存在であったりする。だから、そのような背景を意識しながら優しく丁寧に彼もしくは彼女に対応していくような大きく深い「愛」が必要だろう。

また、自分自身が「自己チュウ」ではないかという自覚、もしくは疑いを持っている場合は、欠点をも含めて自分自身を見つめ直し、許す努力から始めてみよう。そうすれば、本当の意味で自分を愛する事が出来るようになり、無理に強がる必要も他者からの攻撃を恐れる事もなくなる。そして、自分を許し、愛する事が出来るようになると、不思議な事に他の人々も心から愛せるようになるものである。自分を愛し、周囲に深い愛情を持って接する努力を続けていけば、やがては「自己チュウ」も卒業できるだろう。

結局、すべては愛と努力の積み重ねによる。深い愛と信頼に基づく正しい努力と、家族や友人や周囲の仲間の協力によって、どれ程の高い壁でも越えることができる。人生とは、そんなものである。

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2006年8月27日 (日)

いじめ・暴力の裏側

中学生に「どうして【いじめ】はあるんですか」と聞かれたことがある。即座に「いじめる本人の心が弱いからだよ」と答えた。続けて「本当に強い人はいじめない。その必要がないんだ。でも、本当は弱い人というのは、それをごまかすために力を周りに誇示しようとする。だから、自分より弱い人にしか向かっていかないんだ。つまり、分かっている人から見れば、【いじめ】をする人は自分が弱虫だと行動で示しているのと同じなんだ」と説明してやった。聞いてきた中学生は、それで納得したようだった。

現在、【いじめ】や【暴力】が非常に増えてきている印象がある。被害者に対するケアはもちろん最優先でやる必要があるが、【いじめ】や【暴力】を減らしていくためには加害者やその予備軍に対するケアも必要となる。周囲を信頼できずに孤立し、ストレスをためて爆発したり、過剰に圧力を感じて【力】を示さなければならないと誤解したりした結果が【いじめ】や【暴力】につながっていると考えられる場合が少なからずある以上、彼らを孤立させずに共感し、「弱い自分」をそのまま認めて強くなるよう努力していくことをサポートしていけば、【いじめ】や【暴力】は減少していくだろう。学校においても、社会生活においても、まず、そういうことを考える必要があるように思われる。

この分析は、実は、現在の国際政治や国際社会にもつながっている気がしないでもない。アメリカにしろ、イスラエルにしろ、強硬に軍事力を行使しているが、実はそれは政治力や外交力の低下があるからこそ、軍事力に頼っているのではないのか。同じように日本も、憲法を改正して軍事力を増強する道を開こうとする政治家の発言の数が増えているようだが、それは政治力・外交力の低下を軍事力という【暴力】でごまかそうとしている結果ではないのか。私たちは、そういう事も考えてみる必要がありそうだ。

相談をしてきた中学生には「本当に強い人は、実はとても優しい。本当に強い大人になれるといいね」という言葉を最後に贈った。私も、大人として本当に強くなれるように努力を続けたいと思う。そしてそれは、一般の大人にも、そして日本政府にも必要なことではないだろうか。

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2006年8月26日 (土)

自分というリアリティー

「自分」というものについて考えるとき、どうもイメージとして「西洋的な自我」に近いものを思い浮かべるような感触がある。そして、以前はそれに対する違和感はあまり感じなかったように思われる。

けれども、最近は少し違う。西洋的自我は、ギリシャ・ローマやキリスト教の文化的影響を受けた西洋という文明圏の中で発達したものであって、別の伝統や文化・歴史をもったところでは別の「自分」意識があっても良いのではないか、という気持ちが強くなっている。つまり、日本には日本の文化や伝統や精神的風土に根ざした「自分」があったのではないか、いや多分あったのだろう、という思いである。

ただ、それが今の現実世界に適していて、我々の人生を幸福に導くか、というと必ずしもそうとは限らない。「西洋的自我」を知らないままに普通に暮らしていけるような状況であればそれで良かったかも知れないが、今の我々は「西洋的自我」の洗礼を受けており、グローバル化の進展の中では知らない時代に戻ることは不可能だからである。

ただ、もともと主語をなるべく省略して会話の中で「自分」という存在の突出を避けようとする構造を持つ「日本語」という思考形式をベースに生きている日本人にとって、「自分」を実感していく過程での周囲の共感は大きな意味を持つように感じられる。それが実感でき、安心して自分のありのままを出していける「場」を持ち得るか否かが日本人にとっては特に大きな意味があるのではないかと思われるのである。

そのためには、1人の時間も当然必要だが、1人でいるだけでは「場」は作れない。だからこそ、自分のありのままを出していける「場」や仲間を作っていくことが大切になる。そのためには、どうすれば良いか。浅い関わりだけを広く持っていても、自分のありのままを出すことは難しい。時には傷つき、時には疲れ、時には苦しむかも知れないが、そうした感覚と折り合いをつけながらも、関係を深めていく努力が必要となるのである。

ただ、一日のすべての時間でそうする必要はない。何かのときに、安心してありのままにふるまえるところ・関係を1つでも2つでも持っていればいいのである。そうした関係の積み重ねの中で「自分」が徐々に固まっていく。自分とは、探すものではなく、周囲の人々との関係の中で固めていくものではないか……そんな風に思う。

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2006年8月16日 (水)

「わからない」ことの意味

「わからない」ということは、ある意味では幸福である。

人と人との関係において、相手のことがわからなければ、簡単に怒ることができる。けれども、相手のことがある程度以上に理解できるようになると、一見すれば腹の立つ言動であったとしても、その背景にあるものが理解できてそうした言動をとる理由がわかってしまうと、安易に怒りをぶつけることが出来なくなってしまう。特に相手が自分より弱い立場にいる場合は特にそうなる。相手に対する理解や共感が怒りを止めてしまうのである。

つまり、相手との関係において、理解や共感が深まれば深まるほど怒りの爆発・暴走は回避できる可能性が高くなり、悪意や暴力の応酬などという事態は起こりにくくなる。そして、そのような関係が広がれば、多くの人々とおだやかで優しい時間を過ごすことができるようになる。

しかし、相手に対する理解や共感が深まれば、必然的に自分自身のこれまでの見方や考え方を修正する必要も生じてくる。それが、人間を成長・成熟させていくことにつながるのだが、それは実は、今までの自分を変えていくことでもある。自分を変えていくという過程は、実は、辛く苦しい部分も含んでいる。その痛みや苦悩から逃れるのは実は易しい。相手を理解せず、共感もしない、つまり「わからない」ままにしておくことである。

「わからない」ままでいるということは、その時点ではとても楽な選択である。けれども、それをそのまま放置しておくと、後でとんでもないツケを払わされる場合が少なくない。けれども、それは当然かも知れない。「わからない」ままにしておくことは、人間としての成長・成熟の道を自ら閉ざすことであり、後になって問題がより大きな形になって自分の人生に巡ってきても、対処する力がついておらず、結果としてより大きな苦しみや辛さを味わうことになりかねないのである。それが、自分1人の人生だけに降りかかるのであれば、ある意味では自業自得、ということになる。けれども、地位や権力を持つ人がそれをすれば、自分1人だけでなく、周囲の人々にも苦痛を与え、迷惑をかける。

靖国神社参拝の意味をわかろうとしないで勝手気ままに行動する小泉純一郎(神道とは異なる宗教の信者の痛みや侵略戦争によって大きな被害を受けた国の民衆の痛みをわかろうともしないし、共感もできない)という男の行動によって、国民には多大な迷惑がかかっていることを彼は考えもしない。考えることは、これまでの自分を否定することになるかもしれないが同時に成長・成熟させることにもつながる。彼は、(もしかすると無意識に)それを恐れているのかも知れない。

確かに、人間である以上、「わからない」ことがあるのは仕方がない部分もある。それに、「わかる」までにはそれなりに時間がかかる場合も少なくないので、「わからない」ことそのものが悪いわけではない。問題は「わからない」をどうしていくか……ということである。

「わからない」を放置しないで心にとどめ、少しずつでも理解や共感が可能になるように努力を続けること……。そのことが人間としてのステップを1つ進めることにもつながってくる。「わからない」を認めつつも、それがさらなる理解や共感を深めることにつながるようにしていければ……と思う。

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2006年8月 9日 (水)

疑うことと信じること

「仮面ライダーSpirits」というマンガ(講談社マガジンZKC 漫画:村枝賢一)で、滝和也が風見志郎(ライダーV3)にこんな言葉を語るシーンがある。

確かに疑っている間は敵を見抜けるかもしれんがよ 信じてみなきゃ「仲間」は見つかんねえだろ

なかなか興味深いセリフである。

疑うことで見えてくるものは確かにある。「常識」あるいは「権威」を盲信していては、今の世の中、簡単に騙されてしまう。だからこそ、深く考えずに簡単に信じてしまう、という人にとっては、非常にリスクが高い世の中になってしまったように感じられることが多い。困ったことであると同時に哀しいことでもある。

けれども逆に、信じなければ見えてこないものもある。教育やカウンセリングの現場では、そういう事例をたくさん見ることができる。信じることでお互いの心がつながる。信じられている、という実感の中で新しい一歩を踏み出すことが可能になる。そういうことも世の中にはあるのだ。

信じる、特に、腹をくくって信じきるというのは結構難しいし、エネルギーのいることでもある。それは、信頼を裏切られるという結果をも含めて、すべてを受け止めようとすることだからだ。だが、そうした信頼が、信頼を寄せられた相手の心の中で希望の光になったり、心の支えになったりする場合も少なくない。その信頼の根底には深い愛情が存在するからである。

そして、自分を信じ相手を信じきることで見えてくるものが、人間を成長させ、成熟させてくれる。ある意味では、「信じたけれど、裏切られた」と言って逃げ出すことは易しい。そして、自分自身に十分な力が備わっていない時点では、「逃げる」ことはその時に限っては正しい場合もある。けれども、「逃げた」ということを意識して「この次」のために力をたくわえる努力を続けることは必要となる。そうした努力を重ねた上で、人を「信じる」ことのできる人間は、優しく、そして強い。

最近は、そのような優しくて強い人間が少なくなったように思われるが、今より少しでも優しく強い人間になれたら……と思う。

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2006年8月 5日 (土)

弱さの暴力

本当は弱いものほど、虚勢を張って強がろうとする。いじめや差別などの背景には、そうした構造がある。いわゆる「弱い犬ほどよくほえる」というやつである。

そう言えば、最近は弱者に暴力をふるう事件が多発している。幼児虐待、ドメスティック・バイオレンス、中には相手の命を奪ってしまうような場合もある。

けれども、本当に力があるのなら、暴力をふるう必要はない。力を誇示するのはエネルギーの浪費であり、かえって本当に力のある人には、その弱さを見透かされてしまう。力は、本当に必要なときに使えば良いのである。

そのように考えれば、本当に力を持っている人は優しい。そして、本当に強い人が多ければ世界は優しさに満ちているはずである。けれども、今の現実を見渡してみるとどうもそうではない。逆に、余裕のない、暴力的な世の中になりつつある、と感じられる。それが多くの人の実感であるならば、それは人々が弱くなり、けれどもゆとりも無いために、虚勢を張って生きている人が増えているからだろう。

けれども、本当の強さは、そのような虚勢からは生まれないし、育ってもいかない。本当に強くなりたいのであれば、まず自分の弱さを認めることである。自分は「弱い」ということを認めることによって虚勢をはる必要がなくなると同時に、堂々と強くなる努力を重ねられるようになる。そして、その努力の積み重ねが、弱い自分を強い自分に変えていく。

そうした意味で、自分自身、強くなりたいと思うし、また多くの人々に本当の意味で強くなって欲しい。強い人が多くなれば、理不尽な暴力事件は明らかに減少していくだろう。そして、その強さが国境を越えて広がれば……。私は、そんな世界を見てみたいと思う。

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2006年8月 1日 (火)

心のバランス

先日、いろいろと別々の「場」での仕事が重なり《I want to do nothing./何もしたくない》状態になった。たまにこういう精神状態になることがあるのはよく知っているので、とりあえず、あまり悪化させないように気をつける……ということになる。

まずは、十分な睡眠。そして、やりたくないことはなるべくやらない。楽しい、と多少なりとも感じられることだけをやる。こんなところだが、ある程度の年齢である以上、様々な「場」でそれなりの役割を演じており、きちんと責任を取って動かなければ進まないものもあるので、けっきょく、のばせるものだけは極力のばして、最低限のことだけをやる……という判断になる。軽い状態なら、これで何とかコントロール可能な場合も多い。

実際、今回は明日ぐらいには通常レベルに復帰できそうである。

とは言っても、いつも簡単に出来るわけではないし、誰もが同じように出来るわけでもない。ある程度、自分の心を見つめることが出来るようになってようやく可能になってくるやり方である。そして、それが出来ていると多少のゆれはあっても、長いスパンで見れば割と心の平静は保てる。

とは言うものの、いつもいつも静かな湖の水面のように平静でいられるわけではない。短い期間や時間で見れば、心はいつもゆれているし、かなりバランスがくずれかける時もある。ただ、心はもともとそういうものなのだ、ということを知っていれば、それほど慌てないでいられる。

バランスは別にくずれても良い。立て直せばすむのである。怒り、哀しみ、苦しみ……様々な心のゆれを、まず認め受け入れる。それを繰り返しているうちに、少しずつ自分の心が見えてくる。そういう段階からスタートし、慌てたり投げ出したりせずに、根気よく自分の心とつきあっていければ……と思う。

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2006年7月20日 (木)

心に良いことは…

数日間続いた真夏日の後、雨が降り続いている。暑さにはあまり強くないので、それほど気温が上がらないこの二、三日はいくらか過ごしやすく、少しは文章が書きやすい。たまには早く寝れば良いのだが、文章が書きやすいことがパソコンを開かせてしまう。体調の維持を考えれば、困った性格である。

ただ、個人的な経験からすれば、大抵の場合、身体に良いことは心には必ずしも良いとは限らず、逆に身体に悪いことが心には良いという場合がままある。例えば、タバコは身体に悪いということだが、タバコの好きな人が無理をしてタバコを短期間で止めようとしても、結局、そのストレスでイライラがつのったりする。ダイエットなども、そうした部分があったりするので、無理は禁物である。

さて、自分としてはどうだろうか。身体に悪いから…といってウィスキーをずっと飲まないとかえってストレスがたまる。だから、個人的には「身体」よりも心を大切に考えている感じがあり、結局、身体的に負担がかかっている場合が少なくない。ただ、それはそれである程度仕方が無い事かも知れない。

だが、とりあえず朝早くの仕事はとりあえず休みになっているので、しばらくはゆっくり寝て、この数ヶ月ほどの身体の疲れを多少なりとも回復したいと思う。

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2006年7月 4日 (火)

表現することの意味

自分の思いを表現することが大切だ、という話をときどきすることがある。

昔、仕事に行き詰まって転職を決意したとき、周囲に迷惑をかけないように辞めるまで心のバランスを保っていられたのは、小説を書き続けていたからだった。その時の小説は、まだ完結していない。原稿用紙に換算すれば軽く500枚を超える量になっているが、五年ほど前に中断したまま、いまだに再開していないのである。

けれども趣味で他の小説や童話は書いているし、プロの歌手である友達のために作詞をするようなこともある。自分の作品が、全国区のレベルだとは思わないが、書き続ける中で自分の心を細かく見つめ、整理することができるようになった。それが何よりの財産である。

その経験から、ときどき、さまざまな人から相談を受けてアドバイスをすることがある。深刻なものも少なくないが、本人が文章や詩、あるいは絵画や造形、音楽やダンスなどの表現手段(必ずしも上手い必要はない)を持っている場合は、立ち直るための支援やアドバイスはわりとしやすい。言葉でなくても、表現に自分のさまざまな思いを乗せることが出来るからである。

そうした表現の結果として生まれてきた「作品」は、最初は、荒々しかったり、まとまりを欠いていたりする場合も少なくない。けれども表現し続けることによって「作品」が落ち着き始め、やがてその心も安定し、成長していくステップを踏む場合が少なからず見受けられる。特に、その表現を理解し、受け止めてくれる人の存在が、その傾向を助けてくれる。

そうした意味において、表現することの意味は大きい。けれども、最近の深刻な相談の中には、当事者が、そうした表現手段すらも持っていないことがある。そうした場合の支援は本当に大変だが、気長にさまざまな表現にチャレンジしてもらい、自分にあった表現を見つけるしかない。

絶望しなければ、それなりに人生は長い。今の苦しみも、心の持ち方によって、乗り越えられることも少なくない。そして、苦しみを超えていく過程で、人は力をつけ、成長・成熟していく。そのちからは、ぜひ他の苦しんでいる弱い人々のために使いたいものである。それが、自分自身の心にゆとりを与えてくれるから……。

意外と、「自分ひとり」ではなく、みんなで幸せになる道は、たくさんあるのかもしれない。

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2006年7月 2日 (日)

忙しさに埋もれないように

せっかくの土・日だったが、相変わらず一日ゆっくり休む……というような時間は取れなかった。多少なりとも休日めいた感覚は、今日、仕事が一段落した三時から二時間ほど昼寝が出来たことだろうか。

今年は特に時間が細切れで、ゆっくりと小説や詩に集中できる時間が取れない。けれども、それなりの充足感はある。ただ、ボランティアなど様々な活動をしているので、収入と言う面では、今ひとつだが…それでも食うに困っていないし、週に一度くらいは飲み歩けるのだから、それほどの不安や不満はない。吾・唯・足るを知るという感じである。

いろいろと相談を受けることがあるが、その時のアドバイスの一つとして、「ほかの困っている人を助けて上げられるような余裕を持てると良いですね」という言葉を口にすることがある。自分が大変だ、と思うあまり、そればかりを考え続けているとどんどん視野が狭くなり、広い視野で見れば簡単に見つかる解決策などもまったく見えなくなってしまうことが結構多いからである。そこで、いったん自分のことを考えるのを止めて、他者に目を向けてみる。そうすれば、自分と同じくらいに大変な人や、多分自分よりも大変であろう人の存在が浮かび上がってくる。その過程で自分自身の思考のどうどう巡りから心が救われる。「情けはひとのためならず」(「情けをかけるとその人のためにならない」という間違った意味ではなく「情けをかけたつもりが、けっきょく巡り巡って自分が助けられる」という本来の意味)、まさしく自分の心を救ってくれるのである。

忙しいという漢字は、【心】を【亡くす】と書く。他者を気遣う余裕を持てている間は、多分大丈夫なのだ。他者を支えさせてもらっている余裕に感謝しながら、忙しい毎日に負けないで、心のゆとりを失わずにやっていきたいと思う。

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2006年6月30日 (金)

二つの怒り

最近は、本気で怒ることは本当に少なくなったが、それでも時には怒りを感じることがある。ただ、それを分析してみると、虐げられたことに対する怒りと、期待を裏切られたことに対する怒りに大別できるように思われる。

虐げられたことに対する怒りは、他者の悪意や暴力、いじめなどが背景にあり、それに対する反抗・抵抗・プロテストである。虐げられた事実があれば、それは当然の結果であり、誰に恥じることもない。そのことが周囲の理解に支えられるような状況になれば、力関係を組み換えることにもつながっていく。言わば、客観的に見ても正当な怒りだろう。

期待を裏切られたことに対する怒りは、その背景には相手への思いや想いがある。相手を大切な存在だと感じているからこそ期待するのであり、その期待に応えてもらえなかったと感じると、その思いが怒りへと変わるのである。ある意味では、こちらの怒りは哀しい。お互いの思いのすれ違いがあるからだ。そうしたことが重なっていくと、次第に、相手に期待しなくなり、やがては怒ることもなくなってしまう。その相手が大切な存在ではなくなるからである。

それは、関係の変化・関係の消滅を意味する。人は、一生の間に様々な人と出会い、また別れ、関係を結んでは壊していく。それは、それぞれの人生ではあるが、できるならば良い出会いに恵まれ、豊かな関係に包まれた人生を送りたいものである。

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心の弱さ・心の強さ

いじめの相談を受けることがある。とても深刻な状況である場合も少なくないが、構造的には、いじめる側の心の弱さの問題に目を向けることが少なくない。ある意味では、本当に強い心を持った人はいじめをする必要も必然性もない。本当に強い人は、実は優しいのである。

が、弱い人間は、実は、その弱さを隠蔽するために、自分より弱い人間に圧力をかけ、いじめようとする。それによってその瞬間だけは憂さが晴れ、自分が強いと錯覚できるからである。けれども、そんなことを繰り返しても本当に強くはなれないし、返って周囲の信頼をなくし、本当に大切な人から嫌われてしまうことにもなりかねない。

だからこそ、自分のためにも、弱い立場の人をいじめるのではなく支える選択をできるようになることが大切なのだと思う。

しかし、日本の現実を見ていると、そうした視点からすれば、心が弱い(そのくせにそれをごまかし虚勢を張っている)人間が増えているように感じられる。例えば、私はボランティア活動を通じて多くの外国人と関わりを持ってきたが、意外と公務員(それもそれなりの立場にある公務員)のいじめや差別を目にしたり耳にしたりする機会が多い。入国管理局や地方検察庁での事例などは、呆れてコメントすら出てこないほどである。

もちろん、自分自身の心を見つめてみると、弱い部分はたくさんある。しかし、弱者をいじめて虚勢を張らなければならないほど落ちぶれてはいない。ただ、なかなか常に声に出していける程には強くなっていない部分があるかも知れない。けれども、強さなども自分自身で意識して育てていくものだろう。

日本には、アジア諸国には虚勢を張るくせに、アメリカに対してはどれ程非論理的で非科学的で理不尽な要求であっても、ほとんど丸呑みするような形で受け入れ続けている弱い政治指導者がけっこういる。アメリカに対して強く出られないからこそアジアや他の国々に虚勢をはってバランスをとろうとしているのかも知れないが、見ていて見苦しいし、情けない。国を愛する心を本当に持っている人間であれば、怒りさえ覚えるだろう。

100%強い人間は多分いないし、同時に100%弱い人間もいないに違いない。けれども、自分が意識して変えようとすることで、少しずつ自分を強くしていくことは出来る。弱者をいじめる形で虚構の強さを求めるのではなく、弱者に手を差し伸べられる優しさイコール本当の強さを持った人間に少しでも近づいていければ……と思う。

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