2008年8月17日 (日)

かわいい女・いい女・パートナー

8月上旬に参加した研究会の夕食の時、近くにいた関西の若い女性や関東の若い男性と話していた雑談の中で、かわいい女といい女とパートナーの話に花が咲いた。多少アルコールも入っていたが、×一の男の言葉に対する妙に素直な反応が、なぜかおかしかった。

まず、「かわいい女」だが、アイドルやお人形的な、現実感の乏しさが1つの条件であろうか。ただ、自分の弱さを自覚した上でのズルさはある程度許容範囲で、それは、素直でけなげなところに通じている。アニメ「エヴァンゲリオン」の桂木ミサトなどを「かわいい女」の例に挙げたら、妙に納得されてしまった。

つぎに、「いい女」について。若い女性は、「米倉涼子などはどうか?」と言ったが、即座に却下。理由は、「毒が足りない」ということで、「ルパンⅢ世」の峯不二子や小沢真珠などを例に挙げたら納得されてしまった。毒を持ち、宿命の匂いのする大人の女性…そんな印象なので、モローの絵「オイディプスとスフィンクス」のスフィンクスなども「いい女」の条件にピッタリかも知れない。ついでに、北条司のマンガも話題になったので、「キャッツ・アイ」の長女/泪(るい)や「シティー・ハンター」の冴子などが「いい女」で、「キャッツ・アイ」の愛は「かわいい女」だ…という話は3人で大いに盛り上がった。

そして、「パートナー」。恋人や夫婦の場合は相手がもちろん「パートナー」だが、仕事やさまざまな活動の場面でも、相手を信頼して重要なことを任せられ、もしそれが失敗したら、その結果はどれほど酷いものでも甘んじて受け入れる覚悟ができる相手である。夫婦や恋人の場合は、特に、一緒に日常を積み重ねられる相手であると同時に、異性を感じられる相手でもなければならない。これも、かなり納得されてしまった。

現実を生きていく際には、「パートナー」の存在は大きい。だが、文学・芸術の感受性を刺激するのは「パートナー」よりも「いい女」の方である。すでに人生の後半に差し掛かった今、どのような出会いが待っているのだろうか。

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2008年7月 7日 (月)

七夕の夜に

601番目の記事は、七夕の夜である。現在、いくつか星は見えるが空は雲が多く、すっきりと晴れ渡ってはいない。織女と牽牛は、今夜は残念ながら逢瀬を楽しめないということか。七夕伝説の起源は、もともとは中国らしいが、年に一度の逢瀬とはなかなかロマンチックである。ただ、それがずっと続いているということになれば、距離を隔てていても、お互いの心は深い信頼で結ばれているということである。

ところが、人間たちの世界ではなかなかそれが難しい。例えば、若い世代の携帯メールのやり取りなどの様子を見ていると、メールが来るとすぐに返信しなければならないような様子が伺える。お互いに信頼しあっていればそんな必要はなく、それぞれの都合のいい時間に呼んで返事を返せば良いと思うのだが、やりとりの行為そのものによって関係を維持しているから、それができないのだろう。

これは、ある意味では極端な例かもしれないが、人間の恋人同士の場合は、当然、それぞれの人間関係もある訳で、やはり、同じ時間の積み重ねがお互いの想いを育むのに対し、時間的なすれ違いは、度重なれば誤解や不信感を生むことにつながりかねない。さびしい話だが、それが「現実」の姿でもある。

ただ、誤解や不信感は、きちんと向き合うことで、返ってお互いをより深く理解し合い関係を深めるチャンスにもなり得る。…もちろん、お互いへの強い想いが維持されている場合に限ってのことだが。ただ、時間をかけず、苦労をせずにそれができるわけではない。やはり、理解を深めるにはお互いに2人の時間をきちんと積み重ねる努力が必要である。

織女や牽牛は、そういう努力を積み重ねたのだろうか。それとも、人間ではないから、嫉妬や誤解に苦しむことはなく、それゆえに信頼していられるということなのだろうか。まあ、大気圏を越えてしまえば、2人の逢瀬を邪魔する無粋な雲は存在しなくなる。ただ、光速で進んでも1年や2年ではたどり着けない距離が横たわっているのだが……。

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2008年2月14日 (木)

信頼と嫉妬

離婚してしまった元妻と「遠距離結婚」をしていた頃、電話の会話の中で「遊んでもいいよ」などという発言が飛び出し、「それは違うぞ!!」と怒った事があった。このように一見「もの分かりの良い」元妻は、結局、自分のことしか考えていなくて、離婚となった。

その後、別の新しい相手と遠距離恋愛を楽しむ羽目になったが、けっこうヤキモチ焼きで疲れてしまったことが何度かあった。ある意味では、嫉妬をしてしまうという感情は相手を信じきれていないということでもあるのだが、相手に対して強い執着がなければ逆に嫉妬されることもない。そうした点からすれば、嫉妬が恋愛のスパイスとして働くのも大いに納得できる。その意味では、多少の嫉妬は、時としてカワイイと感じられたりもするものである。あくまでも、日常生活や仕事に大きな支障が出なければ…であるが。

相手を心底信頼できれば、嫉妬はしなくて済む。だが、相手に執着していなくても嫉妬はしない。その辺りが難しいところだが、時には嫉妬を感じることがあっても、基本的には相手を信頼していられる…というスタンスが恋愛でも結婚生活でも一番良いのかも知れない。

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2007年9月27日 (木)

本歌取り狂歌10首

本歌取り狂歌十首

 

アッシーのケイタイの音鳴り響き

        家に送ればひとり寝るだけ

 

若いコは道で会ってもシカトする

        世も末かなとオジンはつぶやく

 

君がため 早く家出てアルバイト

        我がバイト料すぐに消えつつ

 

四の五のと言えど今更我が恋は

        もはやダメかと人の噂す

 

会い見ての後の心を言ったなら

        メル友のままいれば良かった

 

大声で叫ぶ電話の遠ければ

        また会えもせず雨の道端

 

あらし吹く別れの前の修羅場では

        立ち会う者は不運なりけり

 

行かざれば代わりの男訪れて

        車の助手席空き 風ぞふく

 

背は低く金も車も無き我さ

        ふられた末に哀れとぞ思う

 

嘆けとて月のものは来ぬと言う

        ヤッてしまった我が涙かな

 

 

 

元になった百人一首の短歌を当ててみて下さい。

 

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2007年8月28日 (火)

やさしさとして想い出として…変わったのは?

【ふきのとう】の最後のアルバム「ever last」の冒頭を飾っている歌が、この「やさしさとして想い出として」である。その歌詞を生かした編集が心憎いが、この歌自体はもともと「風待茶房」という初めの頃のアルバムにも入っているきれいな歌であり、9月前のこの時期にカラオケに行くとついつい歌いたくなる歌である。

もうあなたと逢えなくなる 2人で夢に見た 手さぐりの 

青春は通りすぎた 昨日の風のように

もう あなたは冗談も云わずに 九月のことにかかりきりみたいで

夜の街は 淋しすぎて その上 冷たすぎて

爪の伸びた小指をかみながら こぼれる涙に言い訳していた

知らないこととはいえ 短すぎた ぼくが1年離れて いるうちに

あなたが あなただけが こんなに変わるなんて

解散に際してのアルバムで「もうあなたと遭えなくなる…」というフレーズの歌を冒頭に置き、最後の「山のロープウェイ」という歌の終わりのフレーズ「…いつかまた会えたらと思います」で結んでいるところに、【ふきのとう】の思いを感じる。

それはそれとして、この歌に描かれている別れのシーンで、男の方が女の変化を悲しんでいるが、1年も会わなければ、お互い、変わっていて当然であろう。一年分の体験・経験が人間を変えていくのだから「あなただけが」「変わる」というのはおかしい。でも、変わって欲しくない部分の変化が心の距離を開き、別れへとつながっていったのだろう。

そうした別れのシーンの心情を澄んだ声で歌い上げているこの歌は、高音の伸びが特に美しく、聞いているとしっとりとした思いを味わえるが、その音の高さと音域の変化の巾の大きさゆえに、歌い上げるのは難しい。それでも、上質の小説の一部を読むような感じがあって、残暑も忘れさせてくれるような歌である。

 

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2007年7月 7日 (土)

七夕の夜に

今日は7月7日、七夕である。だが、雨こそ降っていないものの空はどんよりとした雲に覆われている。残念ながら、牽牛と織女の年に一度のデートは天の川の増水のためにお流れ…となりそうである。

ただし、これって元々は中国に起源を持つ日本の伝承なので、太陽暦で考えるのはおかしい気がする。旧暦で考えれば、今年の七夕は8月19日である。これくらいの時期なら梅雨も明けているし、秋の長雨にも間がある。年に1度のデートも楽しめるのではないかと思う。

以前、TVドラマに週末婚を扱ったものがあったように記憶しているが、年に1度とまではいかないにしても、離れている期間がそれなりにあれば、自分のアラをつくろいやすくもなるし、トキメキもけっこう持続しやすいのではないか……という気がしないでもない。それに、自分の時間…もそれなりに確保することが出来る。1対1の異性関係であれば、恋愛感情は持続しやすいかもしれない。

ただ、アラをつくろっている間は、自分自身をさらけ出しているわけではないので、当然、不安も心の隅にくすぶっていることだろう。ある意味では、安心して自分のすべて(嫌な部分や欠点など)をさらけ出せるということは、それだけ相手を深く信頼しているという証でもある。となれば、安心して側にいることが出来る相手…ということになろう。

恋人としての関係、家族としての関係…。それぞれに魅力があるし、また味わい深いものもある。その両方を感じることのできるパートナーを持っている人はとても幸運な人である。けれども、その一方だけでも実感できるパートナーのある人もそれはそれで幸せである。身近にいる幸せの青い鳥を大切にしたいと思う。

 

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2007年2月26日 (月)

サボテンの花…チューリップの歌より

ここ数日、少し寒い日が続いているが、風が穏やかで晴れている日は、目に見えて温かくなってきている。地域によっては、まだ雪が残っているところもあるようだが、春はもうそこまできているようだ。

そんなことを考えているうちに、「サボテンの花」を連想してしまった。2番にある「春は もうすぐそこまで 恋はいま 終わった」というフレーズである。そう言えば、去年の今頃は、離婚して1月あまりしかたってなかったし、家族の入院も重なっていて、心身ともに大変な時期だったのを覚えている。

そういう時には、「サボテンの花」のようなバラード調の歌がフィーリングにピッタリなので、よく車の中で聞いたり、カラオケで歌ったりする。去年の2月もそうだった。

チューリップの歌は、若い頃よく「心の旅」をギターで弾いて歌っていたが、カラオケでは「サボテンの花」や「悲しきレイン・トレイン」を歌うことが多い。割と高い声が出る(裏声/カウンター・テナーで「もののけ姫」を歌える…そして時にはリクエストもされるというレベル)方なので、カラオケで歌っていても、「サボテンの花」はけっこうウケル方だ。

ただ、去年の2月については離婚したばかりでもあり、「恋は今 終わった」のフレーズはそれなりに感慨深かったのを覚えている。元妻は、初めての大ゲンカで家を飛び出し、そのまま帰国してしまった。そして、結局、離婚と相成ったわけである。さすがに編み掛けの手袋や、洗いかけの洗濯物などはなかったが……。

それにしても、「感慨深い」で済んだのは、自分なりにできることはやった、それで終わってしまった以上、仕方がない……と納得できたからである。だからこそ、冬が終わった後、図らずも新しい出会いがあった。自分としては【長い冬】は、思っていたよりも短くて済んだということであろうか。

思いの外、昨年の自分と重なるイメージのある「サボテンの花」だが、相変わらず好きな歌の1つで、車でもよく聞いているし、カラオケでも時々歌っている。多分、これからも聞き続け、また歌い続けていくことだろう。

 

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2007年1月26日 (金)

「煙草」…岡村孝子の1stアルバムより

岡村孝子の1stアルバム【夢の樹】の中に「煙草」という歌がある。シングル・カットされた歌ではないし、特に目立つ歌でもない。それでも、初めて耳にしたとき、女性のリアルな本音を垣間見たような気がして、妙に心に残ったのを覚えている。

アルバムとしても歌としても20年以上も前のものだが、当時の世相なども垣間見える。この歌の頃は、煙草を吸う女性の姿も見かけるような時代で、自立を志向するようなタイプの人がアクセサリーの一つのように煙草を扱っていたように記憶している。だから、男に「可愛い」と見られ、その庇護を受けるような旧来のジェンダーの枠組みから抜け出る意思を持たない女性は、まず煙草を手にしなかったのを記憶している。その意味では、この歌は自立に揺れる女性の心を素直に描いているのである。

だからこそ「煙草をとりあげて」とか「名前を呼び捨てて」といったフレーズが出てくる。社会的・歴史的なジェンダーの枠組みと自立志向、そして嫉妬の中で揺れる感情が時折り混じる不安定な和音と響き合いリアルに伝わってくるように思われる。

名前を呼び捨てる…という行為の中に含まれる様々なもの…愛着、親しさ、そして上下関係などが複雑に絡み合う。それをする側、そして受け入れる側の感情の流れ……。もちろんそれは恋する男女の間に限定することはないのだが、このような小品からもそのようなものを感じ取ることが出来る。歌というのも、なかなかおもしろいものである。

 

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2007年1月10日 (水)

破局の肖像…「君は人形」ふきのとう's Song

高校時代から聞いていた《ふきのとう》の【風待茶房】というアルバムの中に「君は人形」という歌がある。恋愛の破局にあって、お互いに相手をなじりあうことは多いが、ワガママな女に対する男の最後の言葉を歌にしたものである。

男は女に対して、君の「愛する」という意味は「愛される」ということだとなじる。つまり、男は「愛されていない」し、女はただ自分を大事にしているだけだというのである。男と女の立場が入れ替わっていても、相手のことを考え、相手をどれほど大切にしても、相手は自分のことしか考えていないなぁ…と感じられる場合は少なくない。そこでどうするのか、という問題が当然出てくることになる。

片思いの段階ならともかく、それなりに相手がパートナーであると考えている、あるいは周りからもそう認識されている場合において、お互いに相手を大切にしようとしているし、大切に思われていると感じられるのであれば、その言動に多少のズレや勘違いがあってもやっていけるだろう。まあ、男と女は感性や考え方も違うわけだし、そうしたズレや勘違いを楽しむのも恋愛の醍醐味だとも言える。

けれども、相手の思いや誠意が感じられず、利用されているだけだということになれば、当然、情熱は冷める。そうした実感が度重なれば、破局…ということもあるだろう。個人的にも、そういう経験はある。意外に、男の立場からそれを歌っている歌は少ないように思われる。実際、そのような歌はこの「君は人形」の他には知らないので、時々、聞きたくなることがある。

パートナーの自己チュウ・ワガママが目に余る時にどうするか。その背景を理解できた上で、それが許せるならば、まだ恋愛は続けられるだろうし、もしかするとその情熱が相手を変えていくかも知れない。けれども、理解できなくて許せなくなったら、自分が納得いくように「別れ」という決断もあってよい。きちんと、自分なりに努力した結果であれば、別れた直後は辛く苦しくても長い目で見れば、自分の人生を豊かにする良い経験だったと言える日が必ず来るだろう。

もしかすると、自分の経験が浅く、愛する能力が不足していたために見えなかった…ということもあるかも知れない。けれども、それを次の恋愛に生かすことができるように経験を重ねて、豊かな人間になれれば…と思う。

 

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2006年12月29日 (金)

意外と楽しい遠距離恋愛

帰国している彼女から3日ぶりにメールが届いた。1通目は「メリー・クリスマス」が遅い!! と怒り気味だったが、例の台湾での地震の影響で電話回線やメールがつながりにくくなったり遅くなったりしていることを理解したためか、2通目と3通目は「愛してる」「仕事が終わったら電話下さい」という内容になっていた。

心身がしんどい時には側にいて欲しいとも思うが、忙しいときやこちらの付き合いがある時には相手が出来なくなることもある。そういう時には、近くにいると怒ったり拗ねたり嫉妬したりして後始末に苦労するが、離れていると、信じあわなければ終わってしまうという危機感もあってか、逆に、側にいるときよりも理解がある…と感じられる場合も少なくない。それとも、重ねた時間が「理解」につながっているのだろうか。

その意味で、それぞれが自分の時間を重ねながらも、お互いを信頼しつつ再会を待つ時間はけっこう楽しい。今頃、働いているな…とか、ごはんは何を食べているだろうか…とかを想像しつつ、メールを送る。あるいは、仕事が終わってから電話を入れる。少し、疲れているときでも、電話の声を聞けばほっとして、心なしか元気が出てくることも多い。

さりげなく、自由を謳歌しながらも、信頼する相手のいる立場は心地よい。相手への想いと信頼が続く限り、遠距離恋愛も悪い面ばかりではないと思う。

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2006年11月20日 (月)

哀しさや辛さを胸に…

突然、知人から四字熟語を2回続けて聞かれたことがあった。まず、起承転結、そして諸行無常と答えた。後で解説を聞くと、1つ目が人生観を2つ目が恋愛観を表すという。起承転結については、もっとカッコいい言葉を言えばよかった、とも思ったが、諸行無常については思わず苦笑してしまった。何となく納得してしまったからである。

一応、中年と呼ばれる範疇の年齢なので、それなりに恋愛経験はある。まあ、バツイチでもあることだし、それなりにシンドイ恋愛も経験している。それでも、基本的に後悔に満ちた恋愛の記憶はない。

確かに、あの時ああしておけば、とか、あそこであんなことを言わなければ…と思ったことはたくさんある。けれども、そうした言動のすべてが、その時点の「自分」の精一杯だったのではないか…と思えるからである。

どんなに努力をしても、哀しさや辛さ、苦しみを感じないですむ恋愛など存在しない。恋愛が、他の関係よりも深い人間関係を新しく作っていくものである以上、それは仕方のないことなのである。

だから、今の自分の精一杯が相手に対して出来ているか…ということを自分自身の心に問う。精一杯であれば、辛いことも苦しいこともある。そして、それでも力が及ばないときは哀しい。けれども、その辛さや苦しさや哀しみは、きちんと自分の心で受け止めていかなければならない。それは、相手を受け止めることと同じなのだから。

その上で、別れが来るのなら、それも運命なのだろう。精一杯努力をしたという実感があれば、多少時間は必要になるだろうが、それはそれとして受け入れられるだろうし、また新しい人生を歩いていけるだろう。これまでもそうだったのだから、これからもそうであると信じて生きたいものである。

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2006年10月28日 (土)

ケンカは怖くない

恋愛関係や夫婦関係にケンカはつきものであり、ケンカをしてしまったこと自体を必ずしも怖がる必要はない。それは、逆に、お互いをもっとよく知るチャンスになるからである。このことについて、もう少し考えてみよう。

なぜ、ケンカになるのだろうか。それは相手の言動に腹が立つからだ。では、なぜ腹が立つのか。それは、相手が自分の思いや感情を分かってくれない、と感じたからである。けれども、自分が大切だと感じていない他人が自分のことを理解していなくても別に腹が立つわけではない。相手が自分にとって大切な人であり、自分のことをある程度理解してくれている…という信頼感があり、分かってくれるに違いない…という甘えがあるから、自分を理解していない、と感じる言動に対して怒りを感じるのである。

それを考えれば、相手が怒っている…というのは、自分という存在を大切に思い信頼してくれているという前提がその怒りの背後には存在することになる。相手に信頼され、大切に思われているのであれば、「怒り」を受け止めることはそれ程苦痛ではないはずである。加えて、その怒りそのものが誤解や錯覚であるならば、それを訂正することで相手により深く理解してもらえることになる。

それから、「怒る」ということは、感情を安心してさらけ出している…という事でもある。つまり、「この人なら安心して感情をさらけ出せる、さらけ出しても良いのだ」という信頼がその背後には存在している。

ということを考えれば、これらの点から、ケンカができることそのものに大きな意味がある。感情をぶつけられるようなケンカができる…ということは、お互いの深い信頼関係に支えられているのである。

ケンカは、確かに不快な出来事である。けれども、それは逆に二人がお互いをより深く理解するチャンスでもある。だから、ケンカをすること自体を恐れる必要はない。大切なのは、そのケンカをどう生かしていくか。そのことが二人に問われていると言えよう。

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2006年10月25日 (水)

悪女といい女

恋愛の視線から【いい女】考えると、最近は「若い」という条件はそれほど重要ではなくなった。と言うよりも、20代前半やそれよりも若い女は子どもっぽく感じてしまい、恋愛…というよりもこちらの方が大人として合わせてあげている…というように感じられ、恋愛の対象にはならない。恋愛、ということであれば、心と心の結びつきが大切だと考えているし、そのためにはある程度の楽しい会話が必要だからである。

その意味では、悪女…はけっこう【いい女】かもしれない。こちらが振り回されることはあっても、その過程そのものをけっこう楽しめる部分はあるからである。何よりもちょっとした会話でのやり取りや駆け引きがおもしろい。ただ、深みにはまってしまったら、そんな悠長なことを言ってられないと思うし、なにぶん、恋愛の修羅場をそれ程多く体験しているわけではないので、下手に悪女には近づかない方が良いかも知れないが…。

それでも、一応はまだ男である以上、悪女系のいい女にも当然興味はある。身を破滅させるかどうかのギリギリの体験が、文学を書くのにはけっこう良い肥やしになるかも…などと考える部分がどこかにあるからである。実際に今まで出会った中に「悪女」はいたかどうかは定かではない。深みにはまる前に終わってしまったこともけっこうあるので、もしかしたらいたかも知れないが、幸いと言うべきか、残念だがと言うべきか、今も何とか平穏な生活を送っている次第である。

ただ、【文学】にはけっこう入れあげ、お金を使い、時間を費やして、今なお振り回されている。それ自体がけっこう楽しい部分もあるが、腐れ縁と言うべきか何と言うべきか、離婚をすることは出来たが、【文学】と完全に縁を切ることには成功していない。その意味では【文学】そのものが、究極の【いい女】かもしれない。

バツイチ不良中年の、ささやかな戯言だろうか。

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2006年10月13日 (金)

異文化交流としての恋愛・結婚

バツイチの結婚相手が実は外国人だったこともあり、結婚生活というのは、つくづく、異文化交流だなぁ、と思う。けれども、別に相手が外国人でなくても、そして恋愛関係であっても、それは同じではないかと最近では思っている。

例え、相手が同じ国、地方の人間だったとしても、生まれ育った家庭やそれまで生きてきた経験はそれぞれ違う。だから、一緒に過ごす時間を長くしようとすれば、それぞれが生まれ育った文化・生活経験がぶつかるところが少なからず存在しているのである。

もちろん、それほど関係が深まらない間はお互いに猫をかぶりつつ相手の様子を探り合っている。だから、好意を持つ相手ほど自分から譲って波風を立てないように努力するだろうし、相手に合わすことで「優しい人」だと思わせようとする部分もある。

けれども、関係が深まり、お互いのことが分かってくると、当然、ちょっとしたことで波風が立つようになる。それはお互いに自己主張をし始めるという部分と安心して甘え始めるという部分があるのではないかと思う。そうした場合の「波風」は1つひとつが異文化戦争の色合いすら帯びる。「うちはこうだった」「私はいつもこうしている」などなど……。

けれども、本当に相手のことを考えれば、けっこう「譲れる」ことは多い。けれども、譲ってばかりではこちらが消耗するので、自分が大切にしている部分に関してはまず理解してもらい、その上で譲ってもらいたい、と誰もが思うだろう。それらのバランスの上で新しいものも生まれる。それが2人で創造するオリジナルのものとなっていくのなら、そうした恋愛や結婚は楽しいものになるだろうし、また幸せなものとなるだろう。

良い結婚はこの先できるかどうかは分からないが、良い恋愛はこれからもしていきたいものである。

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2006年9月 5日 (火)

かけひきと愛情

相手との関係が深まっていく中で、「自分はこれだけのことをしているのだから、当然、相手の方も…」と思うときは、多分誰でも、それなりにあるのではないかと思う。人と人との関係において、それは当然である。特に、仕事やお金が関係している場合は、自分が努力した分にみあうだけの見返りが期待できないとなると、当然、相手との関係は考えざるを得なくなるし、こちらの努力に比較して相手からの見返りが極端に少ないのであれば、自己防衛のためにも、相手との関係を清算する必要が出てくる。

けれども、信頼や愛情が絡まってくると、そうした割り切りだけで考えることはできないし、損得ばかりを気にしていては、信頼や愛情は育たない。恋愛の重要な部分には、相手への信頼と愛情が不可欠である。したがって、当然損得だけで判断するわけではないのだが、それでも「自分はこれだけやってあげているのに……」と不満に思うことはそれなりにある。

この時に、少し、自分自身を振り返ってみよう。自分は「相手のため」と思ってやったことであっても必ずしも相手のためになっていない場合もある。

例えば、甘いものが苦手な相手のために手作りのケーキを持っていったら……。相手は、自分への思いやりから、初めのうちは「喜んで食べてくれる」場合がある。でも、それを何度も続けたら、相手は自分のことを理解せずに、好意だけを押しつけ続ける人を次第にこころよく思わなくなるに違いない。

それから、自分は相手のためにと思って色々やっているが、相手はそれを利用して好き勝手にふるまうばかりで、こちらの状況や感情を理解しようとしないまま個人的な都合を押しつけ続けるような場合もある。こうした場合は、相手はこちらの信頼に応えていないということにもつながって来るので、パートナーとして選んで本当に大丈夫か? という疑問を抱かずにいられない。そして、それが重なっていけば、こちらとしてもそれなりの決断をする時が遠からずおとずれるだろう。

ただ、恋愛である以上、多少の駆け引きはあっても、まず《自分から愛する》ということに拘りたい。そしてそれは、一方的にこちらの好意を押しつけるのではなく、相手を理解し、相手がして欲しいことばかりでなく、その時点では相手が嫌がるとしても長期的見れば必ず相手のためになるであろうことをしてあげられる強さを持つ《愛》である。

が、相手がこちらの信頼に応えようとしないのであれば、それに足る人ではなかったという判断もまた出てくることもあるだろう。それでも、相手に媚びるのではなくきちんと愛することによって得られるものがある。それを大切にしながら、次の愛へと歩き出せば良い。

それもまた運命…と考えても良いのではないか、と思う。

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2006年8月31日 (木)

聞くということ

話をちゃんと聞こうとするとき、それは話の内容を理解しようとしているのだろうか、それとも相手を理解しようとしているのだろうか。

別に恋愛関係だけに限らないのだが、これってけっこう興味深い問題である。恋愛関係において、男が良くやるミスは、恋人や妻の話の内容を理解しようとして、途中で問題点を整理し、相手の話をさえぎって解決策を提示してしまう事であろう。

すると男の考えに反して相手は怒り出したりすることがある。この対応の悪いところは、相手の話を最後までキチンと聞かず、途中でさえぎってしまうことに尽きるだろう。女の立場からすれば、解決策よりも何よりも、まずちゃんと聞いて欲しいし、感情に共感して欲しいのだ。けれども、男の思考回路からすれば、すぐに「結果」すなわち問題の解決策を探ろうとしてしまう。1つひとつの場面では小さなすれ違いに過ぎないが、度重なると大きな溝になってしまうこともある。気を付けたいものである。

そう言えば、最近、人の話をちゃんと聞くことの出来る人が少なくなっているような感じがしないでもない。話をちゃんと聞こうとすることは、相手を尊重し相手を深く理解しようとすることにつながっている。

仕事の「効率化」が進む中、忙しさに追い立てられ心の余裕を失ってしまいがちだが、せめて大切な相手との時間では、きちんと話を聞いてあげられる余裕と優しさを失いたくないものである。

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2006年8月29日 (火)

「めんどうくさい」と思う時

若い頃はそうでもなかった事が、オジサン年齢になるとメンドウになったり鬱陶(うっとう)しくなったりする事がある。恋愛なども、ある意味ではそうである。

もともと男と女は肉体的にも精神的にもけっこう異質な存在である。(もちろん、同性でも1人ひとりはけっこう違っていたりする)だからこそ、ある程度お互いをわかり合い、共感し合うためには、それなりの時間が必要になる。例えば、一緒にいて他愛のないことを話したり、メールや電話での会話、手紙のやり取りなどでも、「効率」という面では大いなる無駄、と思われることも少なからずあったりする。けれども、お互いの関係を深めていくためには、この【大いなる無駄】が非常に大きな役割を果たす。それに手を抜けば、恋愛などすぐに終わってしまうと言っても言い過ぎではないだろう。

ただ、恋愛の初めの頃や若い時代には、この無駄な時間がとても楽しく感じられる。けれども、オジサン年齢になると、それなりに様々な仕事や責任があったりするので、それらとの関係上、この大切な【無駄な時間】を面倒くさがったり、うっとうしく感じたりすることがある。それが言葉や行動の端にポロリと出てしまったりすると恋愛は危険信号、そこから心の距離が生まれたり、あるいは広がっていったりする。

もちろん、よほど深く愛されている場合はその限りではないが、その恋愛を大切にしようと思っている場合には気を付けたいところである。とは言っても、もちろん、人生において100%の人が「恋愛がすべて」と考えているわけではないし、同じ人間であっても時と場合によっては、恋愛以上に大切なものがあると感じる場合もあるだろう。その場合は、潔く恋愛以外の選択をすれば良い。それもまた人生である。

ただ、関係を大切にしたい、と考えるならば【無駄な時間】も「めんどうくさい」などと思わずに大切にいく必要があるだろう。もちろん、いつもそう出来る訳ではないのだが……。

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2006年7月22日 (土)

ジェラシーの向こう側

嫉妬/ジェラシーは恋愛の過程ではつきものだが、その内実を考えてみると、けっこう奥深いものがある。

まず、ジェラシーの感情がおこるということは、口では「キライ」などと言っていたりしても、普通以上に好きだからこそジェラシーを感じるのだということを指摘できる。だから、ジェラシーを感じてもらえないとしたら、それは、それほど激しい感情は持たれていないということになる。身も蓋もない表現をすれば、どうでもいい相手に対してはジェラシーを感じないのである。

が、その一方で、自分自身がジェラシーを感じるのは、自分の心の中に相手を信頼しきれていない部分もしくは相手に愛されていると自信を持てない部分がある、という場合が考えられる。とすれば、ジェラシーは、ある意味では哀しい。自分の愛する人がジェラシーに苦しんでいるのであれば、その心の深い部分までも強く抱きしめてあげたいと思う。あなたは、存在するだけで私にとって意味がある。あなたは、確かに愛されているのだ、そのことをきちんと伝えてあげたい。

けれども、普通の人間はテレパシー能力を持っているわけではないので、想いを100%伝える、あるいは100%理解することは不可能である。それに、ある意味ではジェラシーは、本人の心の中の問題なので、どれ程愛し合っていても、パートナーが相手の心から完全に嫉妬の感情を消すことは不可能である。けっきょく本人が自分の心ときちんと向き合いながら、自分の中の嫉妬心とも付き合っていくしかないのだ。

そういった意味では、真実の恋愛は哀しい。そして哀しいがゆえに深い。人間の心が不完全である以上、ジェラシーに苦しまなければならない…というのは自然であり、当然ともいえる。しかし、その苦しさやつらさと向き合ってこそ、深い喜びも得られる。そして、お互いの関係も、心の交流も深まっていくのである。

ジェラシーを暴走させて簡単に関係を壊してしまうのは、ある意味では、とても楽である。けれども、それでは深い実感や体験が経験できないままに終わってしまう。ジェラシーの苦しさや辛さから逃げずに、深い恋愛を味わいたいものである。

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2006年7月14日 (金)

言葉にすること

女はどうかわからないが、特に中年以上の日本の男どもは、本当に心底好きな愛する相手に対して「愛してる」とか「好きだ」とかは面と向かっては言いにくい。口にしようとするとどうしても照れてしまい、言えなくなってしまうのである。

だが、好意は持っているにしても、それほど深く愛してるとまでは言えない相手に対しては意外と軽く口に出てきたりする。軽く言ってしまうから「愛してる」とか「好き」という言葉の重みもなく、当然、軽くいなされることになる。

けれども、よく観察してみると、軽く言われてるとわかっていても、言われた方はけっこうまんざらでもなさそうな表情をする。「嘘ばっかり」とか「冗談でしょ?」などと言いつつも、目が笑っている。本気でない、と思っていてもうれしいのだろう。

ということから考えれば、日本の男も、大切な相手に対しては「愛している」とか「好きだ」という言葉をきちんと口にするべきなのである。「言わなくてもわかるだろう」などと言うのは、結局、男の甘えに過ぎない。ある意味では「言わなくてもわかる」までの状況にするためには、きちんと相手との時間を大切にし、少しでも一緒にいる努力を続けていなければならない。その実績があってこそ「言わなくてもわかる」ということになる。が、それがないから、「言わないから怒る」になってしまうのだろう。

当たり前のことかも知れないが、意外と気付かない男は多い。私も、外国人と付き合った経験からそう感じるようになったのである。日本人が相手だと「多分、わかってもらえる」という甘えが出るが、相手が日本人でなければ、育ってきた文化や生活環境が違うので、言葉にしなければ理解できない。というよりも言葉にしたからといってきちんと伝わるとは限らないのである。だから、詳しく伝えること、繰り返し伝えることが大事になる。黙っていては絶対に伝わらないので、まず言葉にすることが大前提なのである。

だが、言葉にすると言っても「日本語」である必要はない。相手が理解できれば、中国語でもタイ語でもドイツ語でもかまわないのである。そして、おもしろい発見だったのだが、日本語で「愛している」と言うのは照れてしまって言いにくくても英語で「I love you」と言ったりタイ語で「PM RAK KUN」と言ったりする方が照れは少なくてすむ。日本人にとっては母語である日本語よりも、他の言語で言った方が言いやすいのである。

とすれば、日本語でなくても、相手に伝わる言葉でしっかり言う方が良い。「I love you」などは結構使い勝手が良いかもしれない。たとえ長年連れ添った相手でも、甘えたり照れたりせずに、きちんと愛の言葉を口にすることが大切だろう。

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2006年7月 8日 (土)

信じることと愛すること

愛している人とケンカをする。どんな恋愛にも、よくあること……というよりも、愛しているし、信じている相手だからケンカができる、とも言える。

もし、こちらが恋しているだけで相手が自分をどう思っているかわからない時や、相手に愛されている自信がない時には、関係が壊れてしまうのが怖くて、とてもケンカなんかできない。もし、誤解や理不尽な理由で相手がケンカを売ってきても、愛されている自信がないから、ほとんどの場合、自分の方に非がなくても、相手の言い分や要求を受け入れてしまうのではないかと思う。

けれども、小さなケンカぐらいで壊れる関係ではない、相手に愛されているという実感があれば、安心してケンカができる。お互いが信頼しあっているならば、それはお互いの理解を深めるためにも大切な(けれどもあまりうれしくはない)ことである。…ただし、自分が相手を特に大切に思っていない場合でも、相手に愛されていると判断できる場合は、その弱みに付け込んで、相手を利用するためにケンカをふっかけたり、無理なことを要求したりする場合(こういったやり方は私の趣味ではない)もあるが。

やっかいなのは、ジェラシーである。愛されていなければ、ヤキモチは焼かれない。でも、ジェラシーというのは、本当に相手を信じているのだろうか。相手を信じ、自分が相手に愛されていると信じられ実感できるならば、多分ジェラシーは感じない、と思う。けれども、愛してはいても相手や自分が信じられなければ、ジェラシーの炎に身を焦がすことになってしまう。

もちろん、完璧な人間はいないので、恋愛をしているときにまったくジェラシーを感じたことのない人間はまずいないだろう。だからこそ、時にはジェラシーは恋愛を味わい深くするスパイスとなってお互いの関係を深める形で作用する。けれども、過度のジェラシーは、逆に関係を壊し、自分や相手を滅ぼしてしまうほどの怖さも持ち合わせている。映画やドラマ、文学などで飽きることなく取り上げられ続ける所以である。

このように、愛し合い信じあうことは難しい。けれども、難しいからおもしろいという部分もある。多少の苦しみはあっても、良い恋愛がしたい。

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2006年7月 6日 (木)

身体の距離・心の距離

またまた遠距離恋愛をしている。すぐに行って会える距離ではないので、もっぱら、メールと電話のやりとりが関係を支えている。

恋愛関係の基本は、お互いを感じあうこととお互いを信じあうことだと思う。お互いが近くにいれば、感じあうことはけっこう楽だと思うかもしれない。けれども、単純にはそうとは言い切れないところがある。近くにいるということで安心してしまい、きちんと相手を見ようとしないで時間を過ごしてしまうことが少なからずあるのではないだろうか。

高校生や大学生のメールのやりとりを見ていると、メールが来るとすぐに返さなければならないと思い込んでるように感じられることがある。けれども、それはお互いを信頼し切れていないことの裏返しである。信頼しあっている関係ならば、少しくらい時間を置いても、すぐに共感し合えるからである。……もっとも、その信頼を逆手にとって裏切るような人間もそれなりに存在しているが。

話を戻そう。遠距離恋愛が可能なのは、相手に対する信頼がある場合のみに限られる。ただ、信頼するということは、いつまでも放置しておけばよいと言うことでもない。何もメッセージを伝えずに放置しているのは、信頼ではなく甘えであろう。信頼を維持するためには、それなりの努力も必要である。何らかの形で、メッセージを送り続けること。そうした努力の前提があってこそ、信頼関係は維持でき、深まっていくのだと思う。

相手を信頼していれば、きちんと待つことが出来る。どんなに距離を隔てても、また時間を隔てても、待ち続けられるのは、それだけの関係があるからだろう。けれども、待つだけでは関係は続かない。距離を縮める努力、時間を重ねる努力もまた必要であろう。

自分がして欲しいこと、そして相手にしてあげたいこと……。今すぐでなくても、待つ努力と実現する努力が関係を支え、深めていく。お互いの努力が実感できれば、身体は離れていても、心はすぐ身近に感じられるだろう。けれども、人間は弱いものである。長い間離れていると、不安になったり不満になったりする。だからこそ、そばにいる時間も大切にしたい。ただ、それを浪費して、心の距離を遠ざけてしまわないようにしたいものである。

お互いが相手を信じられるかぎり、心は近くにある。それを維持し続けられる限り、恋愛は続けられるだろう。維持できなければ……。コメントはひかえておこう。

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2006年6月28日 (水)

ココロとカラダ

若い頃は、恋愛は心の方が大切だと思っていた。だけど、今では必ずしもそうではないことを知っている。心を通わせ、身体を合わせることで想いが深まることも少なくない。人間の心身の構造を考えれば、心だけの恋愛では深みにはまることが出来ないのである。

もちろん、深みにはまることが必ずしも幸福につながるわけではない。しかし、深みにはまることで見えてくるものは確かにある。それは自分自身だったり、人間のサガやゴウだったり、まあいろいろだが、少なくとも波風のほとんど立たない平凡な生活から自分を解放してくれることだけは確かなようである。

が、逆にカラダだけの関係というのも、どうもいけない。古いヤツだからかも知れないが、アウトルックを開いていてウンザリするのが出会い系の迷惑メールだ。山のようなこの情報には多くのサクラや欺瞞が存在するのだが、それでも何パーセントかは確実にカラダだけの出会いがあり、それを楽しむ人間もいるのだろう。確かに、時として性欲が高まってしまうことは、例えバツイチ中年のオジサンにだってある。けれども、愛(相手の想い)を感じられるmake loveを経験していると、刺激だけの関係はむなしいし、わびしいし、空虚である。だからこそ、より一層の刺激を求め、エスカレートしても心の空白は埋めることができず、心を壊してしまうのだろう。

心を通わせるのは確かに大変だし、つらい部分もある。けれどもそれだけでは考え過ぎてそれはまたそれで別の闇にはまり込んでしまう。それから救ってくれるのは相手の感触であり、物理的ないたわりである。心と身体の両方を深く関わらせることで、人生にとって意味深い恋愛を味わうことができるだろうし、それによって「結果」がどのような形になっても、最終的には納得できる恋愛になるのではないだろうか。

少なくとも、このバツイチ中年オジサンはそう思う。

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2006年6月27日 (火)

わかってほしい?

恋愛では(別に恋愛に限らないけれど、自分にとって大切な人には)自分のことをすべてわかって欲しい、と思うことがままある。バツイチの不良中年も、実は、若い頃はそう考えていた。そして、いつかきっと自分のことをわかってくれる運命の相手にめぐり合えるかも知れないと、夢想していたものである。…まだまだずっと若い頃の話だが。

だが、わかると、結構、辛いこともある。そろそろ「若い」を卒業しそうな年齢の頃にした恋愛では、本当に相手のことが良く分かった。それこそ、手に取るようにわかった。彼女が仕事の関係で上司に呼ばれた時に、「こんなことを言われたんと違う?」と尋ねたらその通りであったこともある。自分がいない場でのことまでわかるくらいだから、いっしょの空間にいれば、本当に相手の思っていることや感じていること、思考の流れなどが良く分かったものである。

けれども、わかったからといって、それがプラスになるとは限らない。相手が「こうして欲しい」と思っていることがわかったからと言って、自分がその希望に応じられるとは限らないからである。そして、決定的な瞬間に(もちろん、相手が何を望んでいるかはよくわかっていた。ただ、どうしてもそれができなかった)何も出来なかったことでお互いに気まずくなり、やがてLove Is Overとなってしまった。

その後、このように考えた。俺のような変わったキャラクターのすべてを理解してもらおうと願うのは、どだい無理だ。せめて、二割か三割理解してもらえば、それで十分である……と。加えて、人間の心の中をのぞいてみれば、良い面ばかりでなく嫌な面もたくさんある。それまで伝わってしまうのは、けっこうツライものだ。だから、「わからない」と思うくらいでちょうど良いのだ……と。

その後の恋愛は、なぜか(当然と言うべきか)外国人になり、結婚したのも日本にいたアジア人だった。が、けっきょくイロイロあって入籍から三年ほどで離婚してしまった。お互いに「わからない」部分はあっても、それをうめようとする努力を続けなければダメなようである。ただ、その努力が楽しい……という部分もある。そんな訳で、今の彼女も日本人ではない。……仲の良いツレからは「離婚して3ヶ月で、もうかよ? 意外と…」と突っ込まれてしまった。

あなたは、わかってほしい?

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