2009年5月 2日 (土)

モローの一角獣

「一角獣」The Unicornsはモローの1885年の作品でモロー美術館にある。3頭のユニコーンが4人の娘たちとともにくつろぐ。右手に横たわる娘は服を身に着けておらず、右手でユニコーンの首に手をかけ、ユニコーンの方も娘の顔を見つめている。左手に立つ娘は細密な刺繍の着いたドレスを身に着けて両脇にユニコーンを寄り添わせている。その少し後方に2人の娘。1人は立ち、1人は座っている。背後にある大木と湖が静けさを漂わせている。娘たちのドレスやアクセサリー、帽子の模様は細密で、さすがはモロー……とうならせる手の込みようである。

伝説と文学的感性を刺激するこの絵は、他のモローの絵画と同じように心を惹きつける。誰もが大人への時間を進んでいく。そしてそれはやがて死へと至る。その意味では、娘たちの静かな時間は幻に過ぎない。けれども、その一瞬が永遠とも感じられる濃密なものであれば、それを体験してみたいとも思う。萩尾望都が「ポーの一族」で少年エドガーの時間を止めてしまったように、モローは一瞬を少女たちとユニコーンに託して絵の中に封じ込めようとしたのだろうか。

考えてみれば、女として花開く前の少女たちの時間は、危うく儚い。リストカットや摂食障害などは深層心理的には、女として成熟することへの抵抗という形で見ることができなくもない。だが、過酷な現実の時間は、少女たちを女へと変化させていく。たとえ本人がそれを望まなくても……。そうした思いを受け止め、支えてくれる存在が周りにあれば、あるいは受け入れられる強さを持つことが出来るような成長がなされれば進み行く時間を受け入れられるのだろう。

たった1枚の絵を見ているだけで、さまざまな思いが心に浮かび、豊かに広がっていく。それが、モローの絵の持つ魅力であり、魔力なのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月14日 (木)

モローのクレオパトラ

最も好きな洋画家は、ギュスターヴ・モローである…ということを以前にも書いたが、久しぶりにゆったりとした時間があったので、何冊かのモローの画集をパラパラと眺めてみた。もっとも好きなのは、やはり「オイディプスとスフィンクス」だが、「出現」で描かれているサロメなどもけっこう惹かれる。スフィンクスの表情にしろ、サロメの表情にしろ、宿命の女たちの存在そのものの重さが、稲妻のように胸に突き刺さってくるからである。

歴史的に見て、そのような意味で男の心をくすぐる女の1人にクレオパトラがいるが、モローは1887年に「クレオパトラ」という絵を描いている。クレオパトラは古代エジプトの女王として知られているが、その時の王朝はプトレマイオス朝であり、アレクサンドロス大王の大帝国が3つに分裂した王国の1つであり、その意味では彼女は生粋のエジプト系ではなく、実はギリシャ系であった。そして、王朝の衰退とローマ帝国の拡大という内憂外患の状況の中、彼女は自分のすべてを捧げてプトレマイオス朝エジプトを守ろうとしていたところもある。

それゆえだろうか、モローの描くクレオパトラは、月の光の中、そのエロティックな肢体にわずかな布をまとい、1人部屋のイスに座って、外を眺めている。その横にはカエサルもアントニウスも存在せず、静かな孤独の空気が漂っている。けれども、モローの描く彼女の表情は妖しい美しさとともに鋭さをも持ち合わせていて、宿命の荒波の中にあっても強い意志を持って生き抜こうとしたクレオパトラの存在感を見事に1枚の絵の中に封じ込めている。

ある意味では、1人の女として平凡に生きた方が楽だったかも知れない。けれども、女王としてエジプトに君臨したクレオパトラは、女としての弱さを、女の武器で補いながら、女王として生きようとした。その矛盾の中にある強さと孤独と哀しさにモローの筆が迫る。宿命の女を描ききるモローの絵の魅力がそこにある。

実在した歴史上の人物としてのクレオパトラ。そして、モローの描いた作品としての「クレオパトラ」それぞれの波動が重なり合い響き合って、感性を揺さぶり続ける。宿命の女の魅力である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月20日 (月)

死の天使…死者を導くものは

オラース・ヴェルネという画家がいる。1789年にパリで生まれ1863年に亡くなっている画家である。一般の人々にはそれ程馴染み深い画家ではないだろうし、私自身も、「死の天使」という1851年の作品以外の絵は知らない。けれども、この「死の天使」という作品が強く心に残っている。

死の瞬間を迎え、天に召されようとする若い娘。そのベッドの側でうつむき、絶望している男。彼は、この娘の父親なのだろうか。それとも婚約者だろうか。そして、娘の背後にいるのは黒いフードを被り猛禽の翼を持つ存在。天使というイメージはないが、娘は穏やかな顔で目を閉じ、右手の人差し指を天に向けているし、娘の頭上には彼女を導くように一筋の光がさしている。

愛する者を失う、残された者の悲しみと絶望は深い。その視線から見れば、死という形で愛する者を奪っていく存在は、光に満ちた神々しい存在とは必ずしも思えないだろう。けれども、現世の苦しみを離れて天に召されていく者を導く存在は、導かれる者にとっては、やはり天使なのだろう。

そう信じることが、残される者の悲しみを和らげるだろうし、死を前にした者の恐怖を薄れさせてくれるのだろう。その意味で、【死】は人間という存在にとってとてつもなく重い。その重さから逃げることなく、今の生の瞬間を大切に過ごしたいものである。

 

人気ブログランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spamではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年5月25日 (金)

枝…優しいシャガールの青

三重県立美術館に一枚のシャガールの絵がある。《枝》というその作品は青を基調に描かれた美しく優しい1枚である。

蒼い夜の中でウェディング・ドレスを着た若い女性とそのパートナーが寄り添っている。そして2人を祝福するように真紅の花が囲んでいる。そして、右上で光を放つ月のすぐ横で笛を吹いているのはキューピットだろうか。見ているだけで、優しい気持ちになれる。

他にも《ブーケと恋人たち》や《愛と花(夏の夜)》、《幻想》、《テーブルの愛の花》などの作品も同じように青を基調として若い2人が描かれている。いずれも、見ているだけで優しい気持ちになれる作品である。

三重県立美術館では、現在、2度めのシャガール展を開催中である。前回の展示との違いをも楽しみながら、あらためてシャガールの世界を満喫したいと思っている。

 

人気ブログランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2007年5月17日 (木)

グランド・ジャット島の日曜日の午後…スーラの緻密さ

一見すると柔らかな印象を与える一枚の絵《グランド・ジャット島の日曜日の午後》。印象派の作品が好きな人は、その題名だけで絵を思い浮かべられるだろうし、それほど詳しくなくても絵を眺めるのが好きな人なら、それを見れば「ああ、この絵か」と思い当たるような作品である。

見る者には優しい印象を与えてくれる絵だが、描く側からすれば、非常に過酷な1枚である。なぜなら、この絵は分割描法によって描かれている。遠くから見れば人物になり、イヌになり、樹木になり、舟になるのだが、近づいて詳細に見ると、注意深く選んだ純粋色の小さな斑点を組み合わせている。それによって様々な色を表現し、人物や動物、物体を描いている。知識と時間、それに多大の集中力が要求される技法であり、ここまでの作品に仕上げるには魂を削るような思いをして描き続けなければならなかったであろう。

スーラの分割描法による作品は、もちろんこれ一枚ではない。分割描法を完成させるまでの努力とその後の作品への情熱……。それが、スーラの寿命を縮めてしまったのだろうか。スーラは31歳の若さでこの世を去っている。

 

人気ブログランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年5月10日 (木)

ウルトラマンの造形

日本を代表するヒーローと言えば、ウルトラマンの名前を挙げるのに異論を唱える日本人はそれほど多くないだろう。最初のウルトラマンから始まり、オーストラリアとの合作であるウルトラマン・グレートやアメリカで作られた青い目のウルトラマン・パワード、それに最近ではウルトラマン・マックスやウルトラマン・メビウスなど、今までに数多くのウルトラマンが作られているが、そのデザインは、最初のウルトラマンと次のウルトラセブンがベースになっている。

ところで、その最初のウルトラマンだが、その顔のデザインを見ていると連想されるものが2つある。1つは能面、そしてもう1つは仏像である。例えば、永井郷のデビルマンやマジンガーZ、獣神ライガーなどは「怒り」の表情がモチーフになっているように思われるが、ウルトラマンは非常に温和な印象を与える。顔自体は動かないのに、見ていて冷たさではなく温かさを感じるのである。

同じような印象を与えるものを探すと、仏像がある。特に、細面の観音像などの印象はどこかしら、ウルトラマンの顔のイメージと重なる。それから、光を当てる方向によって微妙に印象の変わる能面なども、同じようにその見る方向で微妙に印象が変わるウルトラマンの顔とイメージが重なってくる。

怪獣たちが人間の欲望が生んだ様々な矛盾の象徴だとすれば、仏教的に言えば煩悩の化身である。だからこそ、欲望の暴走…都市や自然の破壊という行動を取るのだろう。それを止めるには、仏教的には悟りを開き、涅槃の境地に達しなければならない。ウルトラマンは、それを導くための存在なのだろうか。そう考えれば、ウルトラマンの造形は非常に良くできているように思われる。

怒りを含まない温和な表情。それなのに、人々のために怪獣と戦い続けるウルトラマン。その造形デザインについて考え始めたら、仏教にまで行き着いてしまった。こんなところにもウルトラマンの魅力があるのかもしれない。

 

人気ブログランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月 8日 (木)

『ABYSS』…野波浩の幻想写真

写真にも、こんなことが可能なのか…それが、最初見たときの率直な感想だった。確かにそれは写真なのだが、一枚一枚が、まるで象徴主義の絵画のような印象を受ける。下手なヘア・ヌードよりもセクシーで、しかも見ていて飽きない。『ABYSS』に集められた写真は様々なイマジネーションをかきたててくれる。

本来、写真は目に見えるものをそのまま写し撮るものだ…という固定観念がある。だが、シーンをどのように切り取るか、によって見え方がまったく異なってくるのを知っている人間は少ない。少なくとも、自分の撮影技術はともかく、切り取り方によって見る人への伝わり方は変わってくる…ということは分かっているつもりだった。だが、意識の中に、写真そのものも加工ができるし、それによってまったく作品が変わってくるのだ…ということまでは知らなかった。それを教えてくれたのが野波浩であり、彼の写真集『ABYSS』である。

初めて本物のモローの絵を見たとき、こういう表現は絵画にしか出来ないものだ、と思ったし写真の《写実》に対抗せずに絵画しかできない表現を追及していけば良いのだ、と考えたものだった。だが、《写実》だけではない写真の可能性を、この『ABYSS』はおしえてくれた。同じ野波の『EUREKA』とともに、ゆっくり見ていると様々な物語が湧き出し、幻想の中を漂う楽しさを味わうことができる。

手元において、時々、ゆっくりとひたっていたい写真集である。

 

人気ブログランキング … よろしければクリックをお願いします。

コメント・TBの主要言語は日本語…でお願いします。spmではないことを確認の上で24時間以内に公開します。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年12月31日 (日)

松園の【焔】をめぐって

上村松園といえば【花がたみ】と共に忘れられない作品がある。能『葵の上』を題材にした作品とされている【焔】(ほのお)である。能の元になっているのが『源氏物語』だが、六条の御息所の嫉妬の凄まじさとそれゆえの哀しさが胸を打つ。それを、平安風ではなく桃山風の女性の姿で描いているところに松園の感性が感じられる。

とは言うものの、【蛍】にしろ【楊貴妃】にしろ【序の舞】にしろ、松園の描く女性の表情には穏やかなものや優しいものが少なくない。その意味では【花がたみ】や【焔】の表情は特異なものと言えるかも知れない。けれども、逆に言えば【花がたみ】や【焔】の表情が描ける松園だからこそ穏やかな表情や優しい表情にも深みを感じられるのかも知れない。

それにしても、【焔】の表情は何とも言えない凄みを感じさせる。背景にある『源氏物語』を知らなくても嫉妬の感情の凄まじさと哀しさは伝わってくる。そして、女の匂い立つような色気も……。これ程までに女性に愛されたいと思うと同時に、そこまで愛されることが怖くもある。二律背反の感情ではあるが、理解してもらえる男性は少なくないと思われる。

そうした作品だから、見ていてほっとするような作品ではないし、長時間見ていたいとはなかなか思えないだろう。けれども、一度見たら、二度と忘れないほどの強烈な印象を見た者の心に深く刻み込んでしまう。その意味では、一度見ただけでも様々なことを語ることの出来る作品である。

決して手元に置いて毎日眺めていたい絵ではない。けれども、女について、恋について、そして生きることについて様々な思いを紡ぎ出すきっかけを与えてくれる。その意味において、忘れることの出来ない印象深い作品である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月27日 (月)

出現…モローの描くサロメ像

ギュスターヴ・モローは、もっとも好きな洋画家である。大学生の頃、県立美術館の「モローと象徴主義の画家たち」展で初めてその作品の実物に出会ったことが私の意識を一変させ、以来、何度となく美術館に通いつめ、いつしか画家や学芸員、版画家、陶芸家といった美術の関係者とも多少なりとも美術の話ができるようになった。

そのきっかけとなった一枚が、以前このblogに書いた「オイディプスとスフィンクス」という作品だが、もちろん、それ以外にも興味深い作品がモローにはある。その1つが、踊るサロメの前に処刑されたヨハネの首が浮いている「出現」という作品である。

もちろん、題材は「聖書」からとっているのだが、その関連作品として「ヘロデ王の前で踊るサロメ」という作品もあり、いずれも1876年にサロンに出品された作品とは異なる未完成のものも残されており、このモチーフに対するモローのこだわりがうかがえる。

描かれているサロメの肉体はふくよかでけっこうエロチックだが、その表情は、以前取り上げたスフィンクスの吸い込まれるような感じはない。サロメの年齢からしても、それほど深い考えや意思がないことが、そのサロメの表情によって描かれているのである。けれども、サロメのしたことは重い。無思慮・無分別であったとしても結果からすれば稀代の悪女…と言うべきだろう。

他にもモローはヘレネやデリダなどの「悪女」を作品の題材に取り上げている。女の持つ魔性(もちろん、男にとってと言う意味だが)は、芸術家の感性に響くものを持ち続けているからなのだろうか。その完成途上で放置された作品も含め、何度となく描かなければならなかったこだわりそのものに強く心をひかれている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月14日 (金)

《花がたみ》の狂気

もっとも好きな洋画を問われれば、躊躇することなくモローの《オイディプスとスフィンクス》をあげるが、同じようにもっとも好きな日本画を問われたとき、これまた躊躇なくあげるのは上村松園の《花がたみ》である。

《花がたみ》は、初めて実物を見るまでは、その作者の名はもちろん、作品の存在すらもしらなかった。それに私は、その当時は洋画が好きだったので、上村松園の名前も知らずに、ただ、美術館で展覧会をしているから……という理由で入っただけだった。

そして、この作品に出会った。美しき狂気…あえて一言で表現すれば、私の乏しい語彙ではそれ以外の言葉は見つからない。けれども、その全存在をかけて恋に狂った女の美しさ・はかなさ・怖さ・哀しさ、そういったものすべてが気品のある華やかな衣装の胸元の乱れと、うつろで一途な表情に描ききられている。

男として、これほどまでに愛されたい。でも、かなり怖いが……。しかし、これほど美しい女となら一緒に落ちていくのも本望かも知れない。半端ではない想いの強さが狂気をはらむ。それが、美しく、また愛おしい。そんな思いを感じる一方で、本気で創作活動に関わる者であれば、これほどまでに存在を描ききった作品を創造したいとも思った。

ただ、幸か不幸か、今のところ私にはそのような体験はない。おかげで、多少退屈で不満の渦巻く日常生活を、日々、繰り返していけるのである。けれども、それに疲れたとき、戻っていきたい瞬間がある。例えば、この《花がたみ》との出会いもその一つである。

幸い、この《花がたみ》は日本にある。松柏美術館はメトロポリタン美術館ほどには遠くない。どうしても、実物に接したくなったときには、いつでも出かけていけるだろう。

私に、日本画の魅力と表現力を教えてくれた作品……。《花がたみ》は、運命の女のような【絵】なのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧