2009年10月 3日 (土)

ウルトラマン印象記…果てしなき逆襲

科学特捜隊インド支部から休暇で日本に訪れたパティ隊員。ところが、灼熱怪獣ザンボラーが現れて、パティ隊員の休暇は散々なことに……。けれども、彼女は言う、「私はもう、日本の名物を三つも見ました。地震、怪獣、ウルトラマン」と。40年以上も前に放映されたものであるにも関わらず、今でも印象深く覚えているそのシーン。それは、パティ隊員を演じた真里アンヌのエキゾチックな美貌にも因るのだろう。そして多分、ウルトラセブンのアンヌ隊員のネーミング/由里アンヌにも、彼女の存在は大きく関わっているのに違いない。

印象としては、圧倒的にパティ隊員の存在感が強いが、森林や丘陵を開いて、工場や宅地が作られていくことに対する自然の怒りの象徴が、灼熱怪獣ザンボラーである。ザンボラーは山を割って出現し、宅地造成中の工事現場を襲い、周辺を火の海にして、さらに近代的な大工場も破壊する。ザンボラーの発する高熱は、自然破壊に対する怒りの炎なのである。だから、自然破壊を進める人間社会にたいしての「果てしなき逆襲」ということになる。それは、40年以上もの時を隔てた今は、「空想特撮」の《怪獣》ではなく、地球温暖化の影響の1つとしてささやかれる大型台風/ハリケーンや洪水の頻繁な発生という形になっているのではないだろうか。

ザンボラーは工事現場や工場を破壊し、周辺一帯を焼き尽くしたが、結局、ウルトラマンによって倒された。だが、ザンボラーに代わる巨大台風/ハリケーンや大洪水の頻発を前にして、その問題を解決してくれる《ウルトラマン》は現実の私たち人類の前にはいないのである。

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2009年8月15日 (土)

今年も「ビルマの竪琴」

毎年、終戦記念日の頃になると、「ビルマの竪琴」が見たくなる。昨年はビデオデッキが壊れていて見ることができなかったが、今年は、古いVHFのテープを取り出して夕方から見出した。何度も見ている映画だが、何度見ても胸を打たれる。若き頃の中井貴一が多感で純真な水島上等兵を好演し、石坂浩二が隊長の役を演じて全体の雰囲気を支えている。

第一のエピソードは、歌による和解である。水島たちがタイへの脱出の途中、ビルマ(現ミャンマー)国境近くの村でイギリス軍に囲まれる。それに気付いた部隊は、広場に置きっぱなしだった弾薬を積んだ荷車の回収と、戦闘準備の時間を稼ぐために歌を歌い、騒ぐ。包囲に気付いてないとイギリス軍に思わせ、油断させるための作戦だった。ところが、たまたま歌った「埴生の宿」が状況を一変させる。その歌に、イギリス軍も声を合わせて歌いだし、結局それが停戦を知り、武装解除して生きながらえることになるのである。

映画ではこの辺りはさらりと流れていくだけだが、原作では、「埴生の宿」はもともとはスコットランド民謡で、その歌詞も遠い地から故郷を思うものであったことが書かれている。だから、両方の部隊がメロディーを知っていて、英語と日本で歌いだす…という場面の説得力が生まれる。もちろん、現実の近代戦争ではこのような牧歌的なことは起こり得ないだろうが、それゆえに一層胸に染みる。

次のエピソードは三角山で抵抗を続ける日本軍の部隊に水島が説得に向かうところから始まる。水島は必死に説得するが、指揮官はそれを受け入れず総攻撃が始まってしまう。戦闘に巻き込まれた水島はビルマの僧に助けられる。水島は、ビルマ僧の服を盗んで、ムドンに移動した隊に合流しようとするが、途中で、山や川に放置されているたくさんの日本兵の遺体を目にして、彼らの埋葬と鎮魂のためにビルマに残る決意をする。

それを知らない部隊の戦友たちは、水島がビルマ僧に化けて近くにいると察し、水島に一緒に日本に帰ろうと呼びかけるために歌を歌い続ける。その行動に、水島の心も揺れるが、部隊が日本に帰る直前に戦友たちの前に姿を見せ、別れの曲として「仰げば尊し」を演奏して姿を消す。翌日、水島から彼の思いと決意を述べた手紙が隊長宛に届く。帰国の船上で、隊長は水島の手紙をみんなに読んで聞かせる。

後半は、犠牲者への鎮魂である。近代以降の戦争は敵・味方に関係なく、多くの犠牲者を出している。それは、戦闘員(軍人)・非戦闘員(一般市民)を問わずに…である。そして、多くの犠牲者がそのまま放置されることもまれではない。そうした人々への鎮魂の思いをこの映画はいつも思い出させてくれる。太平洋戦争は終わったが、世界全体を見渡せば、まだまだ戦火や紛争は続いている。終戦記念日の今日、鎮魂の思いを新たにすると共に、不戦への努力を続けていきたいものである。

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2009年6月16日 (火)

優駿/ORASION…決断と祈り

先日、久しぶりに20年ほど前の映画のVTRを見た。緒方拳と緒方直人の親子が競演している映画で、宮本輝の同名小説が原作の「優駿/ORASION」(1988年・日本/フジテレビ開局30周年記念作品)。仲代達矢や田中邦衛、石坂浩二などの名優や吉岡秀隆なども出演し、それぞれの持ち味を生かして好演している。

出演者の中で違和感を覚えるのは、和具工業の社長令嬢を演じる斉藤由貴だ。映画によっては持ち味を出しているのだが、この作品に関しては、ところどころで好演は見せるものの、全体のイメージとしては原作の物語と比較して少し泥臭さを感じさせる。私なら、同年代の渡辺典子か原田知世辺りをキャスティングしたかった。もう少し都会的に洗練された感じと意思の強さを併せ持つ味わいを出せれば、より一層面白い映画になったと思う。

ただ、物語としてはしっかりしている。風の強い日に北海道の小さな牧場・渡海ファームで生まれた一頭の仔馬。それは、牧場の息子・渡海博正(緒方直人)が初めて責任を持って世話をした仔馬である。和具工業の社長・和具平八郎(仲代)がこれを買い、オラシオン(スペイン語で《祈り》の意味)と名付けられる。だが、家族の中での様々な事情によって、その所有権は娘の久美子(斉藤)に、そしてさらには久美子の母親の違う弟であり腎臓に障害を抱えて病院から外に出ることすら出来ない田野誠(吉岡)へと移る。

運搬中の交通事故で前足に故障の危機という「爆弾」を抱えたオラシオン。けれども、渡海親子(拳・直人)や、久美子や誠、砂田調教師(田中)たちの思いを乗せてオラシオンは走り続ける。その背後で様々な運命が渦巻く。誠の死、平八郎の社長解任、渡海千造(緒方拳)の癌……。1800までは抜群の速さを誇るが2000以上では勝てなかった母親の戦績と前足の爆弾。それを思ってダービー出走を躊躇する博正や砂田。だが、久美子の決断と説得で、人々は日本ダービーへオラシオンを送り込む。ダービーの日を前に千造は亡くなるが、千造の、そして久美子や博正、砂田たちの想いを乗せてオラシオンは疾走する。そして……。

原作では、騎手の想いも丁寧に描かれているが、映画という枠の中では十分に寝られた作品であり、緒方親子をはじめとする俳優たちの熱演も光っている。政治の世界では「世襲」が問題になっているが、実力と才能があれば不満は出ないだろう。給付金の問題でも郵政の問題でも、麻生首相に久美子のような決断力があれば、また異なった結果となっただろう。能力のない人間が「世襲」しているから、「決断」が先送りされて状況が改善されずに悪化していくのである。映画を楽しむ心の隅で、そんな考えが頭を過った。

疾走するサラブレッド、そして北海道の美しい風景。2時間8分という時間を長いと感じさせない映画である。

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2009年6月 2日 (火)

ウルトラマン印象記…侵略者を撃て

ウルトラマンのシリーズでもっとも有名かつ人気のある宇宙人をあげるとすれば、多分、バルタン星人だろう。バルタン星人は「ウルトラマン」以外にも、「帰ってきたウルトラマン」や「ウルトラマン・パワード」等のシリーズにも登場するが、最初に登場するのがこの「ウルトラマン」の第2話である。

バルタン星人は、マッド・サイエンティストの核実験によって母星を破壊され宇宙を放浪している。地球の近くで宇宙船が故障して、その修理のために必要なダイオードを求めて地球に立ち寄るが、地球の環境が彼らにとって住みやすいということで地球を侵略しようとする。

この設定は、「宇宙船艦ヤマト」のガミラスとも似ている。ガミラスも、母星ガミラスが惑星としての寿命がつきかけていて海が強酸化して生存環境が悪化しているため移住の地を求めて侵略の手を他の星に伸ばしていた。その意味では、ガミラス人にとってデスラー総統は偉大な指導者であり、英雄であった。

もし、地球人がバルタン星人やガミラスと同じ立場に立たされたらどうだろう。多分、他の星を侵略をしてでも生き延びようとする選択に異を唱えない人の方が多数を占めるのではないだろうか。なぜなら、我々の地球は、もっと些細な理由で戦争を繰り返しているからである。

さて、バルタン星人の登場に際し、科学特捜隊のムラマツ隊長の慎重論に対して新兵器ハゲタカ(核ミサイル!?)の威力に絶大の自信を持ち攻撃を主張する声が上がる。そして侵略宣言とバルタン星人の巨大化に対しハゲタカを発射するが、バルタン星人には何のダメージも与えることは出来なかった。戦後21年目の昭和41年の夏から放映されているウルトラマンでのこうした《核》の扱いはなかなか感慨深い。核兵器は惑星をも簡単に滅ぼす一方で、侵略者に対して必ずしも絶対的な抑止効果は持たない……というメッセージあるいは製作者たちの思いがわずかなエピソードの中から見えてくるようである。

この回では、バルタン星人はウルトラマンのスペシウム光線によって倒され、バルタンの宇宙船もウルトラマンによって宇宙に運ばれ爆発する。そのセミをモチーフにしたインパクトの強い形状や分身・静止光線など多彩な武器で人気の高いバルタン星人だが、「核実験」のニュースが世界を駆け巡る今日において、いろいろと考えさせてくれるエピソードである。

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2009年5月25日 (月)

ウルトラQ印象記…ゴメスを倒せ !

久しぶりに古いビデオを見た。「ウルトラQ」である。「ウルトラマン」以前の円谷プロダクションの作品でデジタルどころか白黒映像である。けれども、白黒写真が独特の味わいを持つように、意外と奥行きを感じる面白い映像となっている。そして、ウルトラマンでフジ隊員を演じた桜井浩子も若々しい動きも魅力的である。また舞台となったトンネル工事現場の風景も、妙に懐かしい感じがする。さて、最初にテレビで見た子どもの頃には気づかなかったが、ゴメスの着ぐるみは、ゴジラを改造して作られたことが顔や手足や尻尾から良く分かる。そういうところも、久しぶりに見ると楽しい。

さて、物語は東京と大阪を結ぶ弾丸道路のトンネル工事現場で、アル中の男がトンネルの奥から出てきた穴の中に光る眼を見る。実はそれがゴメスだったのだが、発見者がアル中だったためにその言葉は信頼されなかった。ただ、その現場から隕石とも化石とも見えるような謎の物体も出てくる。工事現場に出入りしていたジロウ少年は記者と共に神社の古文書を見て、工事現場の光る眼の正体がゴメスであり、謎の物体がリトラのサナギ(!?)ではないか、と予想する。ゴメスによって工事は停止し、桜井浩子が演じるカメラマンは洞窟に閉じ込められてしまう。

ゴメスは洞窟の奥からトンネル工事現場に出現して暴れ出す。一方、ジロウ少年はリトラのサナギを温め、中からリトラが出てくる。サナギから出たばかりのリトラは最初動かなかったが、ゴメスの出現とジロウ少年の必死の呼びかけの中で大空に羽ばたき、ゴメスと戦う。ゴメスの鋭い爪やしっぽに痛めつけられながらもリトラは鋭いくちばしでゴメスの眼を突き、口から溶解液を出してゴメスを倒す。だが、リトラも戦いに力尽き、死んだゴメスの上に折り重なるように倒れ絶命するのである。

わずか30分にも満たない時間に多くのエピソードを詰め込んでしまっているきらいは無きにしも非ずだが、その映像そのものが何ともいえず懐かしい。

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2009年2月 5日 (木)

コスモタイガーⅡ…ヤマトの艦載機

宇宙戦艦ヤマトの艦載機と言えば、すぐ、コスモタイガーⅡが頭に浮かぶ。実は、コスモゼロ、ブラックタイガー、新コスモゼロなど、ヤマトにもいくつかの艦載機が登場するのだが、もっとも好きなのが、コスモタイガーⅡである。コスモタイガーⅡは、映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」から登場し、その後のTVシリーズのすべてと映画の「完結編」までヤマトの主力艦載機となるが、実は、単座タイプ(1人乗り)と3座タイプ(3人乗り)があり、登場回数は圧倒的に単座タイプが多いが、3座タイプは白色彗星帝国との戦いの際、空間騎兵隊を乗せてその内部に突入する際に使われている。

艦載機としては、銀河英雄伝説に登場するワルキューレやスパルタニアン、キャプテンハーロックのアルカディア号のスペースウルフ、マクロスのバトロイド・バリキリー、宇宙空母ジャスダムの巨大艦載機でダンガードAに変形するサテライザーなども思い浮かぶが、そのシャープなイメージの割には曲線も多い洗練されたフォルムと、大気圏/宇宙空間と場所を選ばず使用可能な汎用性、機銃で敵艦を破壊する攻撃力(?)、なかなか撃墜されない強さ(?)など、突っ込みどころも多いトップクラスの高性能は相当魅力的だと言えよう。

同じヤマトの艦載機でも、最初のブラックタイガーはどこかしらやぼったいデザインであったし、初代コスモゼロは、松本メカとしては納得できる仕上がりだったが、それゆえにごつごつした感じもあってシャープさという点では今ひとつという印象だった。が、コスモタイガーⅡは、松本メカのエッセンスを持ちながらシャープで洗練されたデザインであり、それを見た瞬間、プラモデルを作りたくなった。当時はいくつかの事情があってその夢は適わなかったが、現在my roomには4機のコスモタイガーⅡがブラックタイガーや宇宙戦艦アンドロメダなどとともに並んでいる。うち2機は、アフターバーナーのカラーリングが異なる山本機(単座タイプと3座タイプ)である。

このコスモタイガーⅡに乗って宇宙を飛行することは絶対に叶わないが、それでも、コスモタイガーⅡに乗って宇宙や大気圏を飛行する事を想像すると心が躍る。多分、その速度に耐えられるほどの力はこの肉体にはないだろうが、そのスピード感は、そのデザインを見ているだけで味わう事ができる。メカとして、ヤマトに次ぐ登場回数を誇るのもうなずける戦闘機である。

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2009年1月 9日 (金)

再び【DAVE】…完全雇用を目指して

昨年の1月にも取り上げた映画だが、この社会・経済情勢の中でもう一度取り上げたい映画、それが【DAVE】である。伊勢にある個性的で良質の映画を上映している進富座という映画館で何気なく見て感動し、LDとDVDを買ってしまった映画である。1993年製作、監督はアイバン・ライトマン、主演はケビン・クライン、シガーニー・ウィーバーも大統領夫人エレン役で共演している。

ストリーは、大統領の物まねと仕事の紹介で生計を立てているDAVEが脳溢血で倒れた大統領の替え玉として首席補佐官ボブに操られていたのが、持ち前の優しさと大統領夫人エレンへの想いの中で目覚め、ボブと対立した後、人々の為に完全雇用法案を提出するが、ボブの逆襲にあって彼と刺し違える形で元の生活に戻るが、ナンス副大統領がその意志を受け継ぎ、DAVE自身も人々の生活を守るために政治家としてのスタートラインに立つためにDAVEとして地方議員に立候補をする……というものである。

ヒスパニックなどの弱者の側に立って仕事を斡旋するDAVEは、どこかの国の悪質な人材派遣会社とは違って、それだけでは生計は立てられないので、大統領のモノマネ・ショーで収入を補っている。だからこそ、雇用の大切さを痛感している。ボブとの決裂の後、完全雇用法案の提案の演説をするDAVEの姿は、しんみりとした中に深い思いやりを感じさせながら、説得力があり、取材陣の中からも「Thank you Mr. President !」という声が上がる。個人のレベルでも、社会的なレベルでも、雇用の大切さを再認識させてくれる、地味だが感動的なシーンである。

ホームレスの子どもたちの施設を訪問した後、ボブの画策したホームレス施設への予算削減を撤回する閣議のシーン、国会での演説の途中で倒れて大統領の影武者を降りた後、ひっそりと去っていくシーンなど、胸を打つシーンは多い。その意味において、難しいことを考えなくても映画として楽しめる作品である。けれども、ただ楽しいだけではなく、後の余韻も深い映画である。

その余韻の1つに、「完全雇用政策」がある。働く意志と能力を持った人々が、失業によって生活を脅かされることなく、安心して働くことのできる社会は健全であり、モラルも治安も税収も安定してくる。普通の人が普通に働けば普通に生活でき、家族との交流を深めながらもボランティアもできる社会こそが目指されるべきなのだ。小泉「改革」後の日本やブッシュ政権下のアメリカで軽視され、ないがしろにされていった理想である。けれども、その結果がどうなったか。多くの人々が実感していることだろう。

映画【DAVE】はフィクションである。けれども、そこには求められるべき社会の姿も描かれている。この映画からのメッセージをきちんと受け止め、多くの人々が幸せに暮らせるような未来につながる決断や選択をしていきたいと思う。

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2009年1月 3日 (土)

ウルトラセブン印象記…北へ帰れ

いつになく穏やかな年末年始の休みに、久しぶりにゆったりとTVやDVDを見ることができた。サッカー天皇杯や高校サッカー、映画、そしてウルトラセブン……。今回は、フルハシ隊員がドラマの中心となる「北へ帰れ」について書いてみよう。

お母さんが病気だという知らせを受けて実家へと急ぐフルハシ。妹の話でそれが彼に牧場を継がせようとしてお母さんがついた嘘だと知ったフルハシは、結局、家には帰らず地球防衛軍の基地へと戻っていく。おりしも、北極上空で謎の飛行機衝突事故が発生する。フルハシはその原因を突き止めるべく、北極上空に向う。が、フルハシの乗るホーク3号が突然、操縦不能に陥る。同じように、前方からは、操縦不能になった旅客機が迫る。

ほのぼのとしたシーンが一変して緊迫したドラマになるが、実は、この話の中では、カプセル怪獣ウィンダムが敵のカナン星人に操られてウルトラセブンと戦うシーンも出てくる。その戦闘シーンはけっこうユーモラスでもあるが、フルハシを中心としたドラマは緊迫感と温かな家族愛にあふれ、なかなか見ごたえがある。

フルハシの機体の異常と旅客機の接近を知ったキリヤマ隊長は、フルハシを脱出させてホークを自爆させ、旅客機を救おうとするが、脱出装置も作動しない。そんな中、フルハシのお母さんがフルハシを説得しようと北海道からやってくる。本来は家族といえども民間人は司令部には入れないのだが、キリヤマ隊長は、せめても…とフルハシと母親を交信させるべく、彼女を司令室に招く。

旅客機を救うためには…という思いで、苦悩の選択をしようとするキリヤマ隊長とフルハシ。何も知らない母親とフルハシの何気ない会話は、フルハシの覚悟と彼の母に対する思いを伝えてくれる。結局、間一髪のところでカナン星人はセブンに倒され、フルハシの機体のコントロールは回復し、彼は無事に帰還する。その間に、フルハシの真剣な姿を目の当たりにした彼のお母さんは、何も告げずに北海道へと帰っていく。

奇跡の生還を果たしたフルハシが司令室に帰ってくると、キリヤマ隊長は即座にパトロールを命じる。最初は、「疲れているのに…」という顔をしたフルハシだったが、場所が北海道上空と聞いて、笑顔でパトロールへと向うのだった。

たった30分弱のドラマの中に、家族への思いや責任感について考えさせられるシーンがたくさん詰まっている。戦闘シーン/アクション・シーンは派手ではないが、じっくりと見せてくれるなかなかの小品となっている。

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2008年10月23日 (木)

ウルトラセブン印象記…宇宙囚人303

ウルトラ警備隊の超兵器と言われてまず頭に浮かぶのは3つに分かれての攻撃ができ、地球上ばかりでなく宇宙空間をも飛行する能力を持つウルトラホーク1号である。「宇宙囚人303」については、このウルトラホーク1号の印象が強いストリーとなっている。

冒頭、狩猟に来ていたハンターが謎の怪物に襲われる。その頃、地球防衛軍の宇宙ステーションV3が冥王星外からの謎の電波をキャッチする。それは、キュラソ星から、囚人の脱走を知らせる通信であったことが判明し、ハンターはその囚人によって襲われた地球人の最初の犠牲者だったのである。ウルトラ警備隊はガソリンスタンドからの急報を受けて出動し、囚人303号が乗ってきた宇宙船を破壊するが、警戒中にアンヌ隊員が捉えられて操られホーク1号β号を奪われる。

この事態に際し、ダンはホーク1号をドッキングさせてβ号に乗り移る作戦を進言する。その進言は作戦として実行に移され、β号を追ってα号とγ号が出撃する。後ろから回り込んでドッキングしたα号とγ号は、苦心の末にβ号とのドッキングに成功する。そして、アンヌ隊員の救出に成功するが、囚人303号の反撃でβ号が燃え始める。ダンはβ号を切り離させるとウルトラセブンに変身し、墜落していくβ号から脱出する。囚人303号は体内のガソリンに火がついて自爆してしまう。ダンは、地球でも多くの人を殺害した囚人303号に、「逃げ場は無い」「宇宙でも地球でも正義は1つなのだ」と叫ぶ。

だが、ブッシュの始めた「テロとの戦い」によって、今の地球上においては必ずしも「正義」が1つではないことを私たちは知ってしまった。例えば、ブッシュ政権によって「敵」とされたアフガニスタンのタリバンは、学校の建設などの日常活動によって多くの民衆の支持を得ていた。アフガニスタンでタリバンがまた勢力を伸ばしているのは、ブッシュ政権の言う「正義」がアフガニスタンの民衆には「正義」ではないからである。もしかしたら、利害や欲望を超えたところに地球の多くの人々が納得できる「正義」を打ち立てることは時間をかければできるかも知れないが、少なくとも今は無理である現実が存在する。

それを考えると、ウルトラホーク1号のアクションを楽しめるが、少しほろ苦い感じの残る話である。

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2008年9月22日 (月)

学校…夜間中学の姿

山田洋次監督の映画【学校】は15年ほど前の1993年の映画である。15年の構想、しっかりと地に足の着いた取材の末に完成したしたこの映画は、夜間中学を舞台にしたすばらしい作品である。若い頃からけっこう映画を見ているが、大抵、映画館に見に行くのは1度だけである。が、この【学校】だけは違っていた。自分でそのためだけにお金を払って2度も映画館に見に行った唯一の映画がこの【学校】なのである。

個人的には、夜間中学には思い入れがある。大学の卒論のテーマに選んだのが夜間中学であり、3年生の時には2週間に1度は大阪の夜間中学に通い、東京やその他の夜間中学の作文集なども手に入れて読んでいた。そのため、映画のエピソードの中には元のエピソードが特定できるものもある。田中邦衛が演じたイノさんなどは特にそうである。

ただ、現実の夜間中学の現場は過酷である。40年ほど前から登校拒否/不登校や在日外国人の問題、識字教育、就労問題など、壮絶な問題を山ほど抱えていた。それに接した経験があったから、登校拒否・不登校の問題や外国人の識字教育の現場でたじろがずにすんだのかも知れない。あるいは逆に、夜間中学に接したからこそ不登校問題や外国人の識字問題に関わったのかも知れない。

それゆえに、中途半端な作品であれば、怒りを覚えただろう。けれども、丁寧に作られたこの映画は、過酷な現場を知る者にとって納得のいくものであったと同時に、深い感動を与えてくれるものであった。50歳を超えてから夜間中学に入学し底辺で働きながら学校に通い続け、学校生活を精一杯楽しみながら卒業を前に癌で亡くなったイノさんの人生、不登校から夜間中学に通い出し、将来への夢を見出した江利子の決断、鑑別所を出て、昼間の学校にはじき出されたみどりの出会い……それぞれの生徒達のひたむきさ、迷いながらも生徒達に必死に向き合おうとする先生達の姿。その1つひとつが胸を打つ。

今夜は、久しぶりにTVで放映されていたので、あらためて【学校】を見た。何度見ても、1つひとつのシーンが心に切なさとほんのりとした温かさを残し、希望を紡いでくれる。冨田勲のほのぼのと音楽に抱かれ、優しい時間が過ぎていった。

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2008年9月14日 (日)

久しぶりの映画

8月にもとうとう映画に行きそびれてしまったので、昨日は、カウンセリング演習の帰りに、何が何でも……という思いで伊勢の映画館に寄った。進富座は、派手な宣伝の超大作を持ってくることは少ないが、良質の良い作品をいつも上映しているので、忙しい時期には「この映画を見に行く」という形で行くのではなく、「上映時間が良いタイミングで始まる」という選択肢だけで行くことが多い。それでも、まず「外れ」はない。このような映画館が、いまだに残っているのがうれしい。

で、今回見た映画だが、もちろん、「外れ」ではなかった。だが、カウンセリング演習の帰りに寄って見る映画としては生々しすぎるところもあった。たまたま、実際に起こった事件を映画化した作品で、その事件とは、母親殺しであった。

人間が、大人として自立する際には、精神的に「親殺し」あるいは「親離れ」の葛藤を超えていく必要がある。それができないと、どうなるのか……。「不幸な事件」が起きるのである。この映画を見ていて、精神分析的な視点からすれば、母親が殺されなければならない事情が非常に良く分かった。この息子は、確かに母親を殺すしかなかったのである。

子どもの成長にあたって、母性の存在は不可欠である。けれども、母性は必ずしも良い面ばかりでなく、子どもを母の枠内に閉じ込めて飲み込んでしまいかねない暗黒面をも併せ持っている。両親が離婚し、母親と共に暮らす息子は、不安定な母親のために「物分りの良い息子」、「自慢の息子」であり続けるしかなかった。そこに「自分」という存在が育ちきれないまま抑圧されていけば、当然、精神的に追い詰められていく。そこから開放される唯一の選択は、もはや「母親殺し」しかなかったのである。

心の動きとしては非常に納得できた作品だが、途中で、半分「精神分析の勉強」のような感覚に陥ってしまったところがあった。「映画」としては満足のいくレベルの作品だったし、また、久しぶりの映画を楽しむことも出来た。だが、別の「選択」でも良かったのではないか……という思いも少し残ってしまった。ただ、それも含めて楽しいひとときだった。

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2008年8月20日 (水)

リューズとクレア…映画「銀河鉄道999」より

映画「銀河鉄道999」で、主人公の鉄郎のために命を落とす2人の女がいる。1人は、鉄郎の母の敵(かたき)である機械伯爵の愛人リューズ、そしてもう1人は999の食堂車でウェイトレスをしているクレアである。共に、原作のマンガやTVシリーズにも登場するが、それぞれに魅力のあるキャラクターである。

前回の記事のコメントで、リューズを《いい女》、クレアを《かわいい女》に分類した。リューズは、愛する男の命じるままに機械の身体を改造し、やがて時間を自由に操れる力を身に付けてしまった。「男の言いなりになる」という面では、一見、男にとって《かわいい女》と見えなくもないが、その結果として「時間を自由に操る」という【毒】を身に付けてしまった。そうした生き方にリューズ自身の心に満たされない想いがくすぶり続け、鉄郎との出会いによってそれを自覚したリューズは、自分の男である機械伯爵の絶体絶命の危機において彼を裏切るという選択をする。

クレアは、見栄っ張りの母親によって、自分の身体をクリスタル・ガラスにされてしまい、冥王星に眠っている自分の身体を買い戻して生身に戻るために999で働いている。999での旅の過程で、クレアは鉄郎に対しほのかな恋心を抱いており、惑星メーテルの崩壊から脱出して999に乗り込み、鉄郎を殺そうとした機械帝国の女王プロメシウムから鉄郎を守るために砕け散ってしまう。

リューズの選択は、自我の確立に失敗して流されながら時を重ねてしまった自分自身の虚しさから解放され、自分を取り戻すための決断だったが、機械伯爵への情に殉じて、自らは時間城の崩壊を前にしながら脱出をせずに、機械伯爵のなきがらと共に時間城の中で錆びて崩れ落ちていく。その最期には女の哀しさが漂っている。

クレアの選択は、「ロミオとジュリエット」のジュリエットのような若さゆえの真っ直ぐな想いが感じられ、この映画を映画館で初めて見た若い頃には、そのけなげさに胸を打たれたものだった。若い頃であれば、恋人としての理想像の1つであったろう。ただ、歳を重ねた今は、また少し違った感覚もあるのだが……。

「銀河鉄道999」の女性を考えるとき、まず頭に浮かぶのはメーテルであり、次にエメラルダスを思い浮かべることが多いが、リューズやクレア、メタルメナなど、メーテルやエメラルダスの他にも、けっこう魅力ある女性たちが登場する。それを楽しむのも、999の楽しみ方の1つだろう。

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2008年7月 3日 (木)

ブラザーサン・シスタームーン…心の平安を求めて

1人の若者が、十字軍に参加して傷病のために帰還した。生死の境をさまよった後に回復したとき、彼は、鳥の声や風の音、太陽の光の中に神の声を聴いた。そして彼は、豊かな生活を捨て、家を捨て、家族と別れを告げて、荒野の崩れかけた教会の再建のためにたった1人で動き始める。【ブラザーサン・シスタームーン】は、フランチェスコ派修道院の誕生を描いた美しい映画である。

今まで、何本も映画を見ている。多い時には、週に数回は映画館に通った時期もあった。そんな中で、最も心に残る映画の1つである。そのため、最初の携帯電話を買った時から現在に至るまで、着信音は、この映画のテーマを使っている。監督は、オリビア・ハッセーの「ロミオとジュリエット」を撮ったフランコ・ゼフェレッリ。四季に移り変わる美しい自然の映像を背景にしながら、富や地位や権力や欲望がいかに心の自由を蝕んでいるかを突きつけつつ、信仰と愛に生きる生活の貧しいけれども豊かな時間を鮮やかに描ききっている。

それ程多くの稼ぎはないので、贅沢をしているつもりはないが、それでも、今、生活を送っている部屋を見渡してみると様々なモノで溢れている。このモノで溢れた生活を維持するために、私たちは金を追い求め、自由な時間を削って、心の豊かさを売り渡している。もし、フランチェスコのようにすべてを捨てる強さがあったら、私たちも自由と心の豊かさを手に入れられるのだろうか。

町の裕福な市民たちが通う華やかな衣装に身を包み宝石をちりばめた王冠を被ったキリスト像。フランチェスコの行動と言葉に触発された人々が力を合わせて再建した小さな教会にある、聖書の言葉通りの十字架のキリスト像。町の教会は沈黙が支配し、フランチェスコの教会には自然な歌声と喜びの歌声が溢れる。自然の美しさと、神の言葉を素直に受け止められる澄んだ瞳の美しさが心を洗ってくれる。

この映画は、それ程名の売れている映画ではない。それでも、フランチェスコの語る言葉の1つひとつが深く心に染み込んでくる。何度見直しても、その都度、大切なものを思い出させてくれる珠玉の作品である。

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2008年4月16日 (水)

ウルトラマン印象記…バラージの青い石

多くの航空機が次々と墜落する事件の調査のために科学特捜隊は日本を離れる。そして、ヒマラヤを過ぎた辺りの砂漠にある古い町バラージで航空機の事故の原因がアントラーという怪獣のせいであることを知る。アントラーはバラージの神殿にある青い石を恐れ、町を壊滅させるまでには至っていないが、アントラーのために旅人も商人も寄り付けず、バラージは忘れられた町となっていた。

科学特捜隊はテレパシーの超能力を持つバラージの神殿の巫女チャータムにその事実を教えられる。神殿には、ウルトラマンとそっくりの像があり、ノアの神と呼ばれていた。その像は手に青い石を持っていた。ウルトラマンの仲間が過去に、この地を訪れたのか、という思いをハヤタや科学特捜隊のメンバーは持つ。

やがて、アントラーがバラージを襲う。科学特捜隊の攻撃もまったく効かないアントラーを前にしてハヤタはウルトラマンに変身する。ところが、ウルトラマンのスペシウム光線もアントラーには効かず、砂に隠れ、磁力光線や巨大な顎を武器にウルトラマンを攻撃し続けるアントラーにウルトラマンも押され気味である。

ウルトラマンが苦戦を続けるその時、バラージの神殿の巫女チャータムが、青い石を投げるようにとノアの神のお告げがあったと言う。ムラマツ隊長は、チャータムから青い石を受け取ってアントラーに向かって投げると、アントラーは大爆発を起こして死んでしまう。

昆虫を模したアントラーの造形や、スペシウム光線を封じる能力など怪獣としても印象深いが、ストリーも最後まで語られなかった多くの謎を残しつつも、一風変わった結末によって幕を閉じる、なかなか印象深い作品であった。

 

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2008年3月24日 (月)

NHKの間違い

NHKの番組で「とことん石ノ森章太郎」を見ていた。昨夜の《仮面ライダー》に続く《キカイダー》や《ロボット刑事》はいずれも夢中になって読んでいたマンガであり、当然、我がコレクションにもすべて揃っている。

だが、マンガ版のキカイダーを紹介しているナレーションで、プロフェッサー・ギルがシャドーの一員のような言い方をしていた。ファンをなめてはいけない。ギルはダークの首領であり、シャドーとは別の組織である。しばらく考えたが、インターネットでアクセスして、それを怒りと共に指摘した。その後の放送で訂正をするかと思ったが、そのまま終わってしまった。原作者の石ノ森先生にも、またファンにもふざけた態度である。

加えて、アシスタントのアイドルが良くない。とちったり言い間違えたりで、しかもそれ程石ノ森作品に詳しい訳でもない。ファンとしてはどうもスッキリしない。結局、放映される過去のVTRが楽しみで辛うじて見続けたという感じになってしまった。期待していた分だけ、落胆もまた大きかった。

ただ、改めて見直してみると、やはり「石ノ森ワールド」は面白い。技術がそこまで追いついていなかった…という部分もあるが、そのギャップを埋めようと努力していた人々の息遣いが映像からも伝わってくる部分がある。逆に、技術は進んでいるにも関わらず、熱気の方が以前のものよりも劣っているのではないかと思われるものもあったりして、その辺りもまた面白い。それらもすべて含めて、石ノ森章太郎という存在の大きさを再確認したことはこの番組そのものの出来はともかくとして、大きな収穫なのかもしれない。

 

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2008年3月20日 (木)

ウルトラセブン印象記…セブン暗殺計画

ウルトラセブンの強敵としてキングジョーと共に双璧をなすのは、やはりガッツ星人だろう。地球侵略の心理的影響も含めて、ウルトラセブンを地球人の前で処刑する、という作戦を立て、セブンの能力をさぐるために、まず怪獣アロンを送り込み、セブンの能力を調べ、その対抗策を練る。そして、万全の準備をした上でセブンを捕えてしまう。そして、夜明けと共にセブンを処刑すると宣言するのである。

エネルギーの尽きたセブンは、宇宙ステーションの回線を使ってウルトラ警備隊にエネルギーの補給を求める通信を送る。それを解読したウルトラ警備隊と地球防衛軍の戦いが開始される。まず、セブンの求めるマグネリウムエネルギーの合成、そしてセブンの居場所の特定と、セブンへのエネルギー補給を12時間ほどの時間で完了しなければならない。ウルトラ警備隊の必死の努力が始まる。

マグナリウムエネルギーの合成に必要なダイモード鉱石を持つのはフルハシ隊員と、彼の幼馴染の女性。危うく、ガッツ星人に妨害されそうになるが、幸運と努力でマグナリウムエネルギーの合成に成功したウルトラ警備隊は、空中に見えていたセブンが幻影であったことを知り、セブンの捜索を続ける。セブンに頼るのではなく、人間の力を結集して事態を打開する努力を続ける。この展開は、「零下140度の対決」を彷彿させる。そして、見事セブンのエネルギー補給に成功し、セブンは危機を脱するのである。

危機を脱したセブンは、ガッツ星人の円盤群と母船に反撃を開始し、一気にそれを破壊する。ウルトラ警備隊の活躍に焦点をあてた前編・後編にまたがる展開は、手に汗にぎる面白さで、実に見ごたえのあるエピソードとなっている。怪獣や宇宙人をヒーローが倒す…というだけではなく、それに関わる人間の描き方の深さが、ウルトラセブンの色あせない魅力の1つだろう。

 

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2008年2月24日 (日)

日本の青空…憲法の真実

2月23日から月末まで、伊勢市の映画館で「日本の青空」という映画が上映されている。日本国憲法制定の際に、GHQ原案の元となった憲法私案を作った鈴木安蔵を中心とした憲法研究会の苦労を描いた地味な映画である。けれども、憲法研究会の存在も、憲法九条の平和主義を幣原が先に口にしているという点も、「改憲論者」たちが、口を閉ざしている歴史的な事実なのだ。この映画は、その歴史的事実を元にして作られた作品である。

ある小さな出版社で働く派遣社員が、憲法の取材をしていく過程で、偶然、鈴木安蔵の存在を知る。そして、取材を続けていく過程で憲法研究会の存在を知り、さらにはGHQの文書も目にして、日本国憲法制定の真実へと迫っていく。

その過程で、過去の鈴木安蔵の姿が明らかになっていく。映画は、現在と過去を行きつ戻りつしながら、淡々と憲法の制定過程を描いていく。鈴木安蔵は、植木枝盛らの自由民権運動家たちの憲法草案をしっかりと研究し、十分に理解した上で、憲法研究会の仲間たちと草案を作っていく。その過程で、鈴木安蔵の苦労と、それを支えた妻・俊子の苦悩と悲しみが描かれ、家族と仲間たちに支えられて完成した憲法草案は、日本政府とGHQに届けられる。

日本政府の対応はおざなりであったが、GHQのスタッフは憲法研究会の草案を高く評価し、政府の提出しようとする原案(松本試案)の後進性に対して、憲法研究会の作った憲法草案からGHQ案が作られていく。民主化を進めたい憲法研究会のメンバーとGHQスタッフの努力、日本政府の対応・抵抗……。地味だが、淡々と流れていく映像には、リアルな歴史の息吹が感じられる。

これは、決して派手な映画ではない。けれども、押し付けられた「押し付け憲法改正論」が幅を利かせる昨今の政治状況の中で、日本人として見ておきたい映画である。

 

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2008年2月 8日 (金)

タレントよりも政治家の言葉を追求すべき

若い女優や若い歌手の「失言」が問題になっているが、逆に、政治家や大企業の経営者たちなどの、より社会に大きな影響を与える人々の問題発言については、けっこううやむやにされてしまっていることが少なくない。これは、どういうことだろう。

確かに、売れている歌手や女優はTVなどの露出度は高いし、ファンも多いだろう。けれども、その発言によって制度や法律が変わることはまったくないし、その意味において、彼女たちが「A」と言おうが「B」と発言しようが、多くの国民の日常生活には直接的な影響はほとんどない。

それに対して、総理大臣や大企業の重鎮の発言は、それによって国民の日常生活や社会の方向性が変わる事もあり、「公約」などをいいかげんに扱われては国民は大いに迷惑をする。

にも関わらず、政治家や大企業の経営者の発言・失言に対する追及は、信じられないほど甘い。芸能人のスキャンダルを追う半分の情熱と経費と人手と時間をかければ、今よりももっと政府や企業へのチェックが厳しくなり、国民を無視した強行採決や再可決などは絶対に出来なくなるのではないだろうか。何を取材し、何を報道するのか。日本のマスコミは、力点の置き方を根本的に間違えていないだろうか。

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2008年2月 6日 (水)

走れ!! サイクロン

仮面ライダーの乗るスーパー・バイク、それがサイクロンである。仮面ライダー1号・本郷猛がショッカーと戦い始めた当初は、サイクロンはライダーに変身する為にベルトに風を受けなければならず、サイクロンはその際に重要な役割を担っていた。ライダー1号の変身に必要なだけの風をサイクロンで疾走する事によって得ていたのである。

ところが、ライダー2号・一文字隼人の登場によって状況は変わった。一文字隼人は、変身のポーズのあとジャンプをして変身したので、サイクロン自体は変身に必要不可欠なものではなくなっていた。それでも、ライダーがショッカーと闘う時には、サイクロンは大切なパートナーだった。敵を追跡し、敵をけちらし、縦横無尽に駆け回る。サイクロンがなければ、サイクロンなしでも変身できた一文字隼人と言えども、その戦闘力は明らかに低下しただろう。

ところで一文字ライダーの乗るサイクロンだが、最初、一文字ライダーが登場した時、彼はショッカーの怪人サボテグロンとの戦いにおいて、本郷ライダーの乗っていたサイクロンを駈ってサボテグロンと闘っていた。ところが、途中、一文字ライダーの愛車は変わる。改造サイクロンの登場である。個人的には、サイクロンというとこの改造サイクロンの印象が強い。後ろから見たフォルムもなかなかカッコよく、まさにライダーの乗るスーパー・マシンという印象と共に、バイクらしいマシンでもある。

その後、パワーアップし、サイクロンなしで変身できるようになった新1号ライダー本郷が再登場するが、やがて彼は別のサイクロンに乗る。新サイクロンの登場である。それから、ライダー1号と2号のマシンは新サイクロンになる。止まる時にはパラシュートなどもついているので、いかにも性能のアップしたニュー・マシンという印象である。けれども、「バイク」という感じは、改造サイクロンの方があったように感じられた。

ただ、いずれにしても、サイクロンなくしてライダー1号と2号を語ることはできないし、サイクロンがあってこそライダーのアクションも一層輝きを増す。サイクロンは、仮面ライダーの影の主役だったのかもしれない。

 

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2008年1月29日 (火)

ウルトラセブン印象記…700キロを突っ走れ!

ラリーを利用して、新兵器スパイナーを運搬する、謎の敵の執拗な妨害にも関わらず、ダンとアマギは他のウルトラ警備隊の隊員たちのサポートを受けて、その任務を無事に果たす。ところが、その作戦は、おとりで、別のルートで本物は輸送されて無事に実験場に届く。そこへ敵が送り込んだのが恐竜戦車だった。

ウルトラセブンに登場する怪獣たちの中でもユニークなのが、この恐竜戦車である。巨大な戦車の台座に恐竜を乗せ砂塵を巻き上げながら動き回る。目から発射される破壊光線、セブンを苦しめるシッポチョップ台座前方に設置された3門の大砲……。そのパワーと重量感溢れる動きは魅力いっぱいである。

戦争は絶対反対だが、それでも子どもの頃はゼロ戦や隼、雷電や飛燕などの戦闘機と共に戦艦大和や武蔵、長門などの戦艦、そして4号戦車やパンサーなどのプラモデルをよく作っていたものだった。戦闘機や戦艦は日本軍のものが好きだったが、戦車はタイガーをはじめ、4号戦車やエレファント、パンサーなどのドイツ戦車のフォルムに魅力を感じていた。

そうしたドイツ戦車の重量感溢れるイメージに、恐竜戦車のイメージは重なる。セブンとの戦闘でもケガをした作業員を救おうとするセブンを翻弄する恐竜戦車の動きは圧巻である。セブンは片腕を轢かれ、さらにシッポによる打撃を受けて苦しみながら、一瞬の隙をついてスパイナーにビームを発射し、恐竜戦車を破壊する。少年の心をくすぐるストリー展開で楽しませてくれる作品である。

 

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2008年1月14日 (月)

ポインター…U警備隊の超メカ

ウルトラセブンでウルトラ警備隊の隊員が乗っていた自動車、それがポインターである。ウルトラ警備隊の乗り物と言えば、まずウルトラホーク、そしてマグマライザーなどが思い浮かぶ。だが、シークレット・ハイウェイを疾走するポインターの姿はとてもカッコよかった。最初のTVシリーズでの話である。

その後、ウルトラセブンは「太陽エネルギー作戦」や「地球星人の大地」などのTV特番やカザモリ隊員の変身する3部作、1999シリーズ、evolutionシリーズが製作されるが、ホーク1号やホーク3号がかつての勇姿を再び見せてくれたのに対し、ポインターは名前が残っているだけで、普通の乗用車になってしまった。

最初のTVシリーズでのポインターと言えば、レーザーやミサイルを敵に発射したり、水上を移動したりする優秀な車両で、まさにウルトラ警備隊の超メカの1つという印象だった。けれども、後のシリーズでは、設定として通常のものよりも改造されているという形であっても、敵を攻撃したり水上を移動したりというシーンはなく、一般の乗用車と一線を画する超メカという印象はなくなってしまった。まあ、ホーク1号やホーク3号も登場することだし長期のテレビシリーズでもなかったので仕方がない部分もあったのだろうが、ちょっと残念な感じである。

だから、ポインターと言えば、ウルトラセブンでは最初のTVシリーズでの印象を大事にしたい。合体・分離するホーク1号や3号、宇宙へ飛び立つホーク2号、地底戦車マグマライザーなど、ウルトラ警備隊のメカのデザインは直線や平面を基本にしたスッキリとしたデザインになっていてそれゆえにスピード感も感じられた。最初のTVシリーズにおけるポインターも、その枠内にあり、科学特捜隊やMAT、TACの乗用車と比較しても非常に未来的なデザインだったように思う。あのポインターも、1度は乗ってみたい車である。

 

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2007年12月14日 (金)

忠臣蔵…討ち入りの日に

12月14日という日付は、忠臣蔵の赤穂浪士討ち入りの日である。もっとも、深夜から未明の事だし、当時は太陰暦を使っていたので、厳密に言えば来年の1月22日未明が討ち入りの日(旧暦12月15日)…ということになるようだが。

この話を初めて知ったのはひょんなことから三船敏郎主演の「大忠臣蔵」見てからだった。浅野と吉良の対立の原因を藩の特産物としての塩の製法の問題ということで設定したリアルさや三船敏郎をはじめとする俳優たちの熱演に魅了され、以後、眠いのをガマンして毎週10時まで寝ないで見ていたのを覚えている。その後、いくつかの忠臣蔵のドラマや映画を見たが、個人的には大石内蔵助を三船敏郎が演じた「大忠臣蔵」が一番好きである。今、ちょうどテレビ愛知でお昼の時間にこの「大忠臣蔵」を放映しているが、見る時間がないのがとても残念である。

さて、忠臣蔵というのは元禄時代に起きた「赤穂事件」を題材にして作られた物語だが、早くから浄瑠璃や歌舞伎で上映され、何度も何度も映画化やドラマ化されている大ヒット作品である。物語の上では浅野家側が善、吉良家側が悪という事になるが、史実として検証すると必ずしもそうとは言えないところもある。吉良上野介は、地元では善政をしいた名君だったようだし、また武断政治から文治政治への転換期という元禄時代の状況を考えれば、浅野家側はそうした空気を読めなかった時代おくれの連中…という評価もあり得る。しかし、赤穂浪士の行動が、当時の人々の琴線に触れたからこそ「仮名手本忠臣蔵」が書かれ、人々の圧倒的な支持を受けて現代に至っているのだろう。

今日は、久しぶりに泡盛でも飲みながら、『大忠臣蔵』を読み直してみよう。

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2007年11月18日 (日)

ALWAYS

先日「ALWAYS 続・三丁目の夕日」を見た。前作は以前から気になっていった映画だったにもかかわらず、見そびれていたところ、少し前にTVで「ALWAYS 三丁目の夕日」を放映していたのを見て、見にいく気になったのである。

前作でも、しっかりとしたシナリオと茶川竜之介(ブンガク)を演じる吉岡秀隆や鈴木オート夫婦(堤真一/薬師丸ひろ子)、六ちゃん(掘北真希)、淳之介(須賀健太)らの熱演に魅了されたが、大画面で見る続編は、期待に違わぬ出来だった。

冒頭の【ゴジラ】をはじめ、あちこちで笑わせてもらったが、さまざまな問題を抱えながらも、基本的には前向きに生きようとする1人ひとりの姿勢と、お互いに寄り添い、助け合う姿には胸をうたれた。茶川にしろ、この作品での鈴木家にしろ、困っているとはいえ他人の子をあっさり預かって面倒をみてしまう温かさがあるし、子どもたちも家族のために文句を言ったり悪態をついたりしながらも家事を分担して自然に働く日常がある。モノは必ずしも十分とはいえないが、その中での生活はゆとりと温かさで満ちている。

だが、もちろんそれなりに辛さやしんどさも抱えていて、困ったり迷ったり悩んだりしながら、それでも「今」を肯定していける温かさと希望がそこにはある。時には笑い転げ、時にはしんみりとして、そして見終わった後、じんわりとした温かさが残る。こういう、体温を感じられる日本映画は、最近はあまり見ていない。その点については映画ファンとしては少し悔しい気もするが、それでも日本映画にこういう作品を作り上げる力があることがうれしくも感じられる。

この映画の時代…昭和は【昔】となってしまったが、それを懐かしんで嘆くのではなく、その中にある日本人としての感覚と体温を見失わずに生きていきたいものである。

 

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2007年10月20日 (土)

やさしくしないで…リューズの歌

映画「銀河鉄道999」で、機械伯爵の愛人である時間を自由に操る機械化人の女リューズが、惑星ヘビーメルダの酒場で歌を歌うシーンがある。その際にリューズが歌っているのが【やさしくしないで】という歌である。

 

何が欲しいというの 私 それとも愛 つばさいやす鳥たちも 私を欲しいとさわがしい

こわれたおもちゃ箱を 子供みたいに 抱えこんで 涙ぐんで それでどうなるの

何が欲しいというの 私 それとも愛 疲れはてた心には やさしくしないで させないで

誰でも昔話 ひとつやふたつ 大事そうに 語るけれど それでどうなるの

 

若さゆえに出来るチャレンジがある。それを諦め、また諦めして歳をとってしまうと、わずかな思い出を抱えこんで後悔の涙を流すだけなのか。そんな大人たちを尻目に、鉄郎は先へ進もうとする。リューズが最後の最後の土壇場で機械伯爵を裏切るのは、鉄郎の熱い意志に深く心を動かされるものがあったからなのだろう。けれども、自らの時間を戻して人生をやり直すことはできないし、機械伯爵との時間もまた彼女自身の選択の結果でもあった。そして、機械伯爵と共に滅ぶ時間城と運命を共にするリューズ。そんなリューズの哀しさを歌い上げるように、【やさしくしないで】のメロディーが流れる中、リューズの身体が錆びて崩壊していく。忘れられないシーンである。

だが、30年ほどの時を経た今、リューズの歌に涙を流すような齢の取り方をしていないだろうか。少し気になるところである。

 

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2007年10月 2日 (火)

ライダーを改造したのは…

石ノ森章太郎が原作の仮面ライダー。現在のシリーズは原作者の石ノ森が亡くなってから作られたものだが、平成の「仮面ライダーBlack」までのシリーズは、石ノ森が関わっていた作品である。

そのうち、ライダーの敵である悪の組織が改造し、ライダーがその組織を裏切る形になったのが仮面ライダー1号と2号(ともにショッカー)、仮面ライダーストロンガー(ブラックサタン)、そしてスカイライダー(ネオショッカー)にZX(バダン)、仮面ライダーBlack(ゴルゴム)…ということになる。

では、その他のライダーはというと、ライダーV3は1号と2号の手で改造されている。そして、Xライダーは父親によって、アマゾンライダーは一族の長老バゴーによって改造されている。そしてスーパー1は、アメリカ国際宇宙開発局による改造という事になる。ライダーマンは、自ら開発した義手を装着する。

ブラックゴーストに改造されたサイボーグ009たちのように悪の組織に改造されたイメージの強いライダーたちだが、実際に見てみると、必ずしもそうとは言えないことがわかる。もちろん、V3とXは悪の組織のデストロンやゴッドによって瀕死の重傷を負わされた風見志郎や神敬介の命を救うためにWライダーや父親が改造手術を施す…という形だし、アマゾンもゲドンという悪の組織がなければ改造される事はなかっただろう。

その意味で、悪の組織が存在したからこそ改造人間という宿命を背負う事になったわけだが、直接、悪の組織に改造されたわけではない。人間とは異なる存在になってしまった苦悩はそれぞれに背負っているのだが、こうした誕生にまつわる微妙な違いは、それぞれのライダーたちの個性を考える上でけっこう興味深い。

 

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2007年9月23日 (日)

私たちの幸せな時間

昨日、久しぶりに映画館で韓国映画を見た。題名は「私たちの幸せな時間」。死刑囚の男と自殺未遂を繰り返す自殺願望の元歌手の女の恋を描いた傑作である。実は、2人とも最初は死を望んでいたのだ。母親に捨てられ、弟も失って寂しい境遇の中で大人になり、やっとできた恋人の手術費用のために犯罪に誘われて、殺人を犯してしまった男。生きる事に絶望していたために、仲間の分まで罪を背負い死刑判決を受けていた。一方、女の方も15歳で従兄にレイプされ助けを求めた時に母がそれを隠そうとした事に深く傷つき、死を望んでいた。

だが、女がシスターの伯母に連れられて刑務所に行った時に2人は出会う。お互いにどこかしら似ているところがあると感じ取った出会いから運命の歯車は回りだし、やがて少しずつ心を開き始める。そして、被害者の母親がシスターと共に面会に来て「許す」ことを伝えた時、男の目から涙が溢れる。人間としての感情を取り戻し、繰り返し誤り続ける男。その日を境に、男は「人間」に戻っていく。

繰り返される母との衝突と葛藤の中で生きる事に絶望していた女。だが、男に面会した時レイプされた秘密を語ってしまい、それをきっかけにして女も変わり始める。木曜日の面会室で2人は心を通わせ、お互いの距離を縮めていく。弟を失った過去とその弟が好きだったという女が歌った愛国歌。弟への思いが愛国歌へのこだわりとなって2人を出会わせた事。絶望ゆえに共犯者たちの分まで殺人の罪を背負い死刑…つまり死を望んでいたという事。女は共犯者たちに会いに出かけ、何とか死刑判決を覆そうとするがそれもかなわぬまま時が過ぎていく。

限りある命を大切に生きる事の意味、そして一瞬一瞬を大切に生きるからこそ訪れる幸福な時間、それを感動的に描ききったこの映画は、見ていて幸福になり、ラストでは切なく、それでも生きる事を大切にしたいという思いを心に燃え上がらせてくれる素敵な作品である。

 

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2007年9月15日 (土)

8月のクリスマス…たとえばぼくが死んだら

自分が余命いくばくもない、と知ったとき、最後までの時間をどのように過ごすか…あるいは過ごす事ができるのか。山崎まさよしが演じる寿俊は、父親から引き継いだ古い写真館で働きながら平凡な毎日を送っていたが、不治の病で残された時間がわずかであることを告げられる。最初は混乱し、荒れもしたが、やがて年老いた父親や周囲の人々のことを思い、静かに消えていこうと決意し、少しずつその準備を始めた。

そんなある日、突然の出会いが飛び込んでくる。小学校の臨時教員をしていた由紀子が偶然写真館に来て、年若い由紀子との関わりの中で寿俊の日常が生き生きとした輝きを放ち始める。由紀子のまっすぐな想いと、そんな彼女を愛している事に気付いたゆえにいっそう自分の気持ちを言葉にできなくなっていく寿俊……。由紀子を演じる関めぐみの爽やかで自然な表情や動きと山崎まさよしの静かで温かな視線が胸をうつ。

限られた時間でも、年齢は離れていても、愛を育むことはできる。だが、その愛はどこへ向かうのか。残された、けれども投函されなかった手紙に込められた深くゆるぎない想い。「君は神様がくれた最高のプレゼントでした」という言葉が心に響く。死を迎える時にこのような言葉を残せるような相手にめぐりたいものである。

淡々と流れる時間の中に込められた深く熱い想い。それをすっきりと表現したステキな映画。それが、この【8月のクリスマス】である。一人で見るのも悪くはないが、できれば好きな人と一緒に映画館で見たい映画である。

 

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2007年9月 6日 (木)

シュピーゲル号…三つに分かれる宇宙船

「ウルトラマン」の放映が終わった後、その時間帯に放映されたのが「キャプテンウルトラ」である。キャプテンウルトラが仲間たちと共に宇宙に飛び出す時、彼らを乗せて宇宙ステーション・シルバースターから発進するのがシュピーゲル号。時として、三つに分離して敵と戦うことも可能な宇宙船である。

当時、ロケットと言えばアポロの宇宙船のように鉛筆型のようなイメージがあった。それが、このシュピーゲル号は四角い形で、さらに自由に分離もする。「カッコいい」、当時としてはそのヒトコトにつきる機体であった。

この宇宙船、50メートル程の大きさだが、バンデラーやガルバンをはじめとする巨大な怪獣たちとの戦いを繰り広げるかと思えば、最後には道の宇宙へと目指して飛び出していく。すばらしい性能である。

その後、「ウルトラセブン」に登場するウルトラホーク1号や「ミラーマン」のジャンボフェニックスなど、機体を三つに分離して戦う戦闘機が次々と登場するが、そのアイディアの先駆がこのシュピーゲル号と言えるだろう。

今でこそ、原子力エンジンで50メートル規模では太陽系を自由自在に飛び回るのも大変ではないか? などとツッコミを入れたくなるが、放映された当時は、宇宙への夢をかきたてるスマートな宇宙船だった。シュピーゲル号に乗って、宇宙へと飛び出したい…そんな気持ちにさせてくれた最初の宇宙船である。

 

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2007年8月25日 (土)

ウルトラセブン印象記…悪魔の住む花

ウルトラセブンと言えば、身長40メートルの赤い巨人ということになっているが、実は小さくなって人間の体内で戦う話もある。ウルトラシリーズ全体で見ても非常に珍しいパターンだが、ウルトラセブン31話の「悪魔の住む花」は、人間の体内で宇宙細菌ダリーと戦う話である。ちなみに、この時、宇宙細菌ダリーに侵された少女を演じているのは、後の大女優、松坂慶子である。

色とりどりの花が咲き乱れる花畑で、突然、1人の少女が倒れる。少女は宇宙細菌ダリーに操られて、深夜、血を求めて彷徨う。地球の医学ではなす術もない宇宙細菌ダリー。セブンは、身体をミクロ化させ、少女の体内に突入する。人間の体内を視覚化し、そこを舞台に戦うウルトラセブン。非常に珍しい試みである。

人間の体内の視覚化。ダリーは肺の中に潜んでいる設定なので、セブンは鼻から気管を通って体内に入り込む。体内の拒否反応を突破するも、ダリーの攻撃によって危機に陥るセブン。一方、体外でも医師たちの努力は続く。そして、エネルギーが尽きる寸前で、セブンはダリーを倒すことに成功する。

もはや40年も前の作品となるウルトラセブンだが、巨大な怪獣や等身大の宇宙人を相手に戦うばかりでなく、ミクロの世界にも挑む。それは、セブンにとっての冒険であると同時に、製作の側にとっても大冒険であったに違いない。日本では初の試みだったであろう人間の体内の表現も、材料を工夫しながら美しく表現しているセンスは、ストリーや戦闘シーン以外にも多くの見所を提供してくれている。このような冒険に勇気を持って乗り出した当時の円谷プロの工夫のすばらしさと熱意が感じられる作品であると言えよう。

 

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2007年8月14日 (火)

ビルマの竪琴…鎮魂と平和への願い

8月になるとどうしても見たくなる映画がある。「ビルマの竪琴」である。市川監督が2度映画化しているが、私にとってなじみの深いものは水島上等兵を中井貴一が演じたものである。もちろん、原作は小学校の頃から読んでいたが、イギリス民謡を効果的に使った原作の感動を映画はそのまま伝えてくれている。

「埴生の宿」「庭の千草」「故郷の空」「蛍の光」など、明治や大正の頃から日本人に愛唱されてきたイギリス民謡は多い。敵味方の枠を超えてそうしたイギリス民謡を歌うことで話し合いが可能となり、停戦の情報を知って石坂浩二演じる隊長が降伏を決断する前半の山場は本当に感動的である。そこで一心に「埴生の宿」を伴奏する水島の姿はその歌と共に強く心に残っている。

だが、物語はそれで終わらない。三角山に立てこもって抵抗を続ける日本軍部隊の説得を依頼された隊長は、その任を果たすべく水島を三角山に送る。だが、部隊の指揮官は降伏を受け入れず、わずかの生存者を残して部隊は壊滅する。たまたま死を免れた水島であったが、三角山の死者たちをはじめ、多くの日本兵の亡骸が放置されている現実と、現地の人々やイギリス人たちが日本人の死者をも弔おうとしている姿を目の当たりにして戦争で亡くなり野ざらしになっている多くの日本軍兵士の弔いと鎮魂のためにビルマに残ることを決意する。

それを知らない、部隊の戦友たちの「一緒に日本へ帰ろう」という温かな思い。それが、歌となって水島に届いた時、水島は思わず竪琴を手にして演奏を始めるのであった。だが、水島との再会に喜ぶ戦友たちの前で、水島は「仰げば尊し」の演奏を始める。戦友たちの思いを胸に、水島は、その曲によって彼らに別れを告げるのだった。

戦争さえなければ、水島たちはビルマに来る事はなかったろう。いや、水島ばかりではない。三角山で戦死した兵士たちも、ビルマの森や川岸で亡くなった兵士たちも、戦争さえなければ、そしてインパール作戦など軍上層部の間違った作戦計画さえなければ、命を落とすことはなかったのである。この物語は「史実」ではないのだが、アジア各地にうち捨てられた多くの日本人兵士の屍の存在はまぎれもない事実である。そして、その兵士たち以上に多くの一般の人々が敵味方を問わず命を落としている。

このような悲劇をくり返さないように、日本が行うべきこと、行わなければならないことがある。それは、決して戦いを支援するために自衛隊を海外に送ることではない。それを改めて考えるために毎年「ビルマの竪琴」を見たくなる。風化させてはならない「歴史」が、二本にはある。「ビルマの竪琴」は、それを改めて確認させてくれる映画である。

 

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2007年7月27日 (金)

月光の夏

特攻を前にして鳥栖国民学校のグランドピアノで『月光』を弾いて行った特効隊員がいた。その事実がラジオで紹介され、その反響が1つの映画となって結実した。それが、この『月光の夏』という映画である。その制作費の40%が市民の募金によって集められ、名優、仲代達矢の重厚な演技によってすばらしい作品となった。

事実を元にして作られたこの映画は、特攻を前にわざわざピアノを弾くだけのために小学校を訪れた2人の青年たちの思いを描き出す。もし、戦争がなければ、彼らは特攻することなどなかっただろう。しかし、特攻という運命を受け入れた時、家族よりもピアノを選んだ青年たちの思いが胸を打つ。平和な時代に生まれていたら、彼らは音楽家となる夢を追い続けていたことだろうと。

だが、そのうちの1人が、エンジンの不調のために引き返した時、純粋な青年たちの思いを信じない…というよりも自分たちがそうした純粋な思いを持っていないがゆえに邪推をして不運なパイロットたちの心を傷つけた愚かな上官たちが彼の心に深い傷を与える。

若者たちの純粋な思いを利用して特攻へと追い込みながら、敗戦に際しては自ら責任を取ることがほとんどなかった上層部の軍人たち。その卑劣さをも、この映画は暴き出す。一方で、心に傷を負いながらも敗戦と戦後の混乱を生き続けた残されたパイロット。仲代達矢は、その老人を好演している。

現場で一生懸命働く人々の思いを無視して理解しようとせず、自らが卑怯で恥知らずな言動しか取れない連中が多くの人を苦しめる安倍内閣の姿を見ていると、時代は変わっても、こうした卑怯で恥知らずな輩はのさばっているなぁと感じることが少なくない。「月光の夏」の悲劇をくり返してはならない。

 

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2007年7月24日 (火)

華氏911…いて欲しくない政治家

この映画はドキュメンタリーである。ニュース映像や取材で撮影した映像を編集したものである。USA人民と世界の人々にとって、これがヤラセであったり、フィクションであれば、多分、もう少し幸福であったであろう。しかし、不幸なことにこれはドキュメンタリーである。元になる事実や映像がなければ作れない映画なのである。もちろん、編集によってある事実や出来事を印象的にしたり強調したりすることは技術的には可能である。だが、元になる事実がまったくないなどと言う事はありえない。

その意味で、この映像をある程度信じるとしたら、J.ブッシュ大統領はアメリカの大統領としての資格と資質に欠けるのでないかという疑問が生じる。こんなにも愚かで判断力と決断力のない大統領がトップで良いのか。

確かに、御輿(みこし)に担いでおく人物は、あまり利口でない方が良いかもしれない。その方が、影で操るのは容易だからである。だが、御輿に担いだトップが最低限の判断力や常識や決断力がなければ、陰で操る人々(あるいは企業やグループ)の期待する「演技」にさえ齟齬をきたし、不正や犯罪の尻尾が見えてしまうのではないか。けれども、それをメディア・コントロールによって隠蔽すれば多少はごまかせるだろう。

だが、一般の人民は……。

アメリカ大統領の映画と言えば、【DAVE】を思い出す。大統領は人民の幸福を増進するために雇われた臨時雇い、と大統領の影武者Daveは語り、議会での発言の途中で倒れる。その後、Daveは地方議員の選挙に立候補し、人民のために政治の世界に身を投じようとする。このような大統領ならば……と思えるような人物、それがDaveだった。だが、Daveはフィクション、架空の人物である。

さて、我が祖国日本において、「愛国心」を広げることに熱心なA首相。アメリカ人民と日本の国民のいったいどちらが多少なりともマシだろうか。なかなかの難問である。悩まずにすむように、A首相は1日も早く退場願いたいと思う。

 

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2007年7月15日 (日)

ウルトラセブン印象記…U警備隊西へ

発端は、観測ロケットだった。知的生命体の存在を知らぬまま発射した地球の観測ロケットを侵略と受け取ったぺダン星人は、その報復としてスーパーロボット・キングジョーを地球に送り込む。そして、このキングジョーは、TVシリーズにおいて、最初から最後までセブンが勝つことの出来なかった唯一の敵である。

最初は、スパイ戦の緊迫感でドラマは進む。ワシントンの頭脳の異名を持つ女性科学者ドロシー・アンダーソンが謎の男に狙われてウルトラ警備隊に助けを求める。ところが、彼女こそがペダン星人のスパイであり、謎の男は本物のドロシー・アンダーソンのボディー・ガードだったのだ。

セブンはキングジョーと2度戦うことになるが、エメリウム光線は体表のバリアーに阻まれ、アイスラッガーも跳ね返されてしまう。そして、格闘もキングジョーの圧倒的なパワーによって押され気味である。ちなみに1999シリーズにおける戦い(「模造された男」)では、必殺のワイドショットも一瞬の分離合体でかわされる。その時は、アイスラッガの連続攻撃によって胸部を破壊し、キングジョーⅡを倒すことになるのだが……。

とにかく、最初のキングジョーとの戦いの後、偽ドロシーは、ダンに手を出さないように、と忠告する。最初に侵略したのは地球人じであり、これは報復だと。ダンは、それは誤解であり、観測ロケットだったと説明するが、「観測」も利用するためだから、侵略ではないか…と反論する。だが、その場ではペダン星人も折れ、ペダン星攻撃の研究を中止すれば本物のドロシー・アンダーソンを返すと約束する。

その後、本物のドロシー・アンダーソンは解放されたが、彼女は記憶を失っていた。さらに、ペダン星からは地球攻撃のための戦闘機群が発進し、キングジョーも再び港を襲う。セブンは、身体を張ってキングジョーの進攻を止めようとする。その間にアンヌ隊員の努力で記憶を取り戻したドロシー・アンダーソンがライトンR30爆弾を完成し、それによってキングジョーは破壊される。

セブンとキングジョーの戦いやウルトラ警備隊の活躍など、様々な見所が満載のストリーだが、観測・開発と戦争についてや、外交についても色々と考えさせられる。身内や周囲の利益だけを考えるのではなく、大局的な目でものごとをとらえることが本当の意味での平和や発展につながっていくのだろう。現首相をはじめとする多くの政治家に欠けている資質ではあるが……。

 

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2007年7月 6日 (金)

ウルトラセブンTVスペシャル版印象記…地球星人の大地

94年の春と秋に2つのウルトラセブンのTVスペシャル版が放映された。1つ目がエレキングとピット星人が登場する「太陽エネルギー作戦」そして2つ目がメトロン星人の登場する「地球星人の大地」である。この時のウルトラ警備隊は、フルハシが隊長を務め、彼の下でカジ、トーゴー、リサの若い3人の隊員がウルトラセブンと共に奮戦する。

この2つともに、環境についての問題定義がある。「太陽エネルギー作戦」では地球温暖化の問題が取り上げられ、エレキングが二酸化炭素を放出して温暖化を加速させようと企てたりもしている。一方、「地球星人の大地」では、ゴミを原料にしてメトロン星人が地下都市を作り、環境破壊を続ける地球人をゴミとしてオゾン層破壊のミサイルで人類抹殺を企てる。

ウルトラセブンに登場する怪獣や宇宙人の中でもっとも人気の高いエレキングとメトロン星人の登場するTVスペシャル版だが、この成功が後の3部作~1999シリーズ~EVOLUTIONシリーズへとつながっていくことになる。

さて、「太陽エネルギー作戦」では登場しなかったダンだが、「地球星人の大地」では、TVシリーズの第1話と同じ黄色いブルゾンを着て登場し、メトロン星人の暗躍に挑む。そして、ゴミを原料にエコ・シティーを作り上げたことでトネザキ教授を魅了して味方につけるメトロン星人の陰謀を暴き、メトロン星人と対決する。だが、最後にエコ・シティーとミサイルの爆発に巻き込まれたセブンは、生死不明となってしまうのである。

10年以上も前に作られた作品だが、今、深刻さを増す地球の温暖化やゴミの問題を取り上げ、人類そのものが地球のゴミではないかとするメトロン星人の問いかけはいろいろと考えさせられてしまう。その意味では、楽しむだけでは終われない作品である。

 

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2007年6月13日 (水)

ウルトラセブン印象記…湖のひみつ

ウルトラセブンに登場する怪獣の中でもっとも印象深く人気も高いのがエレキングだろう。エレキングは第3話「湖のひみつ」に登場する。エレキングを操るのはかわいい女の子に化けたピット星人。後に1994年に放映されたTVスペシャル「太陽エネルギー作戦」にも同じコンビで登場し、セブンやフルハシ隊長の率いるウルトラ警備隊と戦っている。これも、エレキングの人気ゆえのことだろう。

デザインとしてのエレキングも非常に優れている。白を地肌に黒い文様をあしらった体表、レーダーのように回転する頭部触覚、破壊光線を発する開かない透明な口……。宇宙怪獣としてスマートで洗練されたイメージである。

さて、この「湖のひみつ」だが、ダンが途中でウルトラ・アイを盗まれて変身不能になる最初の話であると同時に、カプセル怪獣ミクラスが登場する最初の話でもある。女の子に化けたピット星人が、地球防衛軍極東基地からウルトラホーク2号を盗み出すエピソードもあるし、娯楽性という面では非常にサービス精神に富んだ仕上がりになっている。

盗まれるウルトラ・アイ、エレキングの登場、ミクラス対エレキング、ホーク1号対エレキング、そして、セブンとエレキングの戦い……。長い尻尾を駆使したエレキングの攻撃に当初はセブンも苦しめられるが、エメリウム光線の2段攻撃で頭部触覚を破壊し、アイスラッガーでトドメをさす。さらに、逃げるピット星人の円盤を追っていき、再びエメリウム光線を使って破壊する。何も考えずにただひたすらウルトラセブンの活躍を堪能できるストリー展開と言える。

そんな訳で、今夜は久米仙を飲みながら、久しぶりにウルトラセブンを満喫している。

 

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2007年6月 8日 (金)

ウルトラセブン印象記…狙われた街

ウルトラセブンに登場する宇宙人の中で、特に人気の高い宇宙人の1つが、この「狙われた街」に登場するメトロン星人である。赤と黄色の頭部、そして青いボディー、流線型を基調とするスッキリとしたデザイン……。その姿は、非常に印象深いものであったし、ウルトラマンAやウルトラセブンの94年秋の特番「地球星人の大地」にも登場することからもメトロン星人の人気の高さはうかがえるだろう。

だが、このメトロン星人は、特に初めて登場する第8話「狙われた街」において、強烈なアクションを展開するわけではなく、自動販売機の煙草に特殊な赤い結晶を仕込んでおいて人間の持つ攻撃性を暴走させて事件を起こさせる。そして、中盤では「同じ宇宙人」としてウルトラセブンと対話をしたりもする。

赤い結晶の影響で青年がライフルを乱射するシーンでは、フルハシ隊員の突撃とソガ隊員の射撃の腕で青年を取り押さえることに成功するシーンがあるが、愛知県で起こった拳銃の乱射事件を思い起こす。現場の判断で素早く対応できたら、愛知県での事件はもっと違った形で終わったのではないかという気がしないでもない。上層部が、現場を信頼せずに自己の保身のみを考えて状況を悪化させるような例が最近は目立つが、メトロン星人の狙いは、ルールと信頼関係で支えられている人間社会を分断することで争いを煽り、自滅させることであった。

それを考えれば、われわれは、「赤い結晶」の助けを借りる必要もないほどに他者との信頼関係を失いつつあるのではないだろうか。特に、権力を持つ者や上の立場にいる者が自分の利益と保身を目的として、現場の人々や弱者を無視したり切り捨てたりする傾向が強まっており、それが人々の信頼感を大きく傷つけている。

メトロン星人は、もちろん架空の宇宙生命体である。その悪意に満ちた計画にそって作ろうとした地球の姿を、われわれが実現してしまってはいけない。ウルトラセブンが現実には存在しない以上、1人ひとりの心のうちにウルトラセブンを持って行動しなければならない。状況の悪化を押しとどめ、人々の信頼感を育んで、社会を守っていく責任はセブンにではなく、私たち1人ひとりにあるのだから。

 

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2007年5月28日 (月)

バトロイド・バリキリーの魅力

【超時空要塞マクロス】に登場する地球の主力戦闘機がバリキリーである。一応、戦闘機と書いたが、ロボット・フォルムのバトロイド、両者の中間フォルムのガウォークに状況に応じて変形する。

戦闘機タイプのフォルムは、その可変後退翼も含めて、アメリカ軍のF14トムキャットによく似ている。速度に応じて主翼の角度を変えるという発想は非常に魅力的であり、また、他のフォルムへの変形機能との整合性も含めて説得力を持つ。

ガウォークのフォルムは、短距離もしくは垂直の離着陸が可能であり、離着陸時の機動性は非常に高い。そして、バトロイドのフォルムは、敵ゼントラーディー軍の巨人たちとの戦いに際して不可欠である。

その変形能力とそれぞれのフォルムに付随して高まる様々な機能……。可能であれば、ぜひ1機欲しいと願う夢の戦闘機である。もっとも、搭載されるミサイルなどの武器まで入らないが…。

 

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2007年5月22日 (火)

天空の城ラピュタ…少年の夢と国家の欲望

《天空の城ラピュタ》は、スタジオ・ジブリ/宮崎駿監督作品の中でも三本の指に入る大好きな作品である。だが、早いもので、もう20年も前の作品になっている。それほど以前の作品ではあるが、何度見ても古さを感じさせない楽しい作品である。

ラピュタが楽しいのは、少年の夢と冒険を素直に描いているところにある。主人公パズーは少女シータと出会い、冒険の旅に出る。ところが、シータの持つ飛行石のペンダントを狙って海賊ドーラ一家と軍が動き出す。ドーラ一家の方は、海賊としてまじめに宝物を狙っての行動だが、軍、特に情報部のムスカの方は、古代ラピュタ帝国の超化学兵器が目的だった。

最初、パズーは単純にラピュタの実在を確かめることが冒険の目的だった。だが、シータと関わりの中で、ラピュタの様々な秘密に触れてしまい、ムスカや国家の欲望からラピュタを守るためにシータと行動を共にする。結果としてムスカの野望は粉砕され、最大の秘密、巨大な飛行石は大樹と共に大空に消えていく。

軍事力は、決して幸福につながる訳ではない。心底楽しめる冒険アニメの中にも、そんなささやかな思いが込められている。だが、現在の世界は未だ戦禍が絶えず、日本でも、「愛国心」を他者に強要する「売国奴」が、戦争の準備に余念がない。素直に、少年の夢を楽しめるような日本を守れるように、少しでもやれることを重ねて行きたいと思う。

 

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2007年5月12日 (土)

トトロの季節

5月もそろそろ半ば、と言えば思い出すのが映画【となりのトトロ】である。サツキとメイ…2人の姉妹は共に5月生まれなのだろう、サツキは、日本の5月を呼ぶもう1つの呼び方《皐月/さつき》から、メイはもちろん英語の5月《May/メイ》から名付けたのだろう。つまり、5月はトトロの季節なのである。

稲作のスケジュールからすれば、場所によっては田植えも始まる。今は、学校が最優先だが、50年代から60年代始めのころは田植え休みを取る学校もあっただろう。家族や近所の人、地域の人たちとのつながりが子どもたちを支え、子どもたちも家の仕事や小さい弟妹の世話を自然に行い、家族が一緒に過ごす時間を今よりもたくさん確保できていた時代。【となりのトトロ】は、そんな中にあった大切な何か…今の私たちが日常生活の中で失いつつあるもの…のことも考えさせてくれる。

けれども、【となりのトトロ】は何度見ても楽しい。オープニングのテーマ「さんぽ」という歌も、10歳の子どもたちでも良く知っている。「歩こう 歩こう」と繰り返すだけですぐに「トトロ!!」という声が上がるくらいである。映画が作られた年数から考えれば、すごいことでもある。確かに、自然の中を歩くのは気持ちが良い。後に残る疲れすらも、心地よい疲れである。自然と、周りの人々との濃密な時間があることの温かさ…楽しみながらも、そんなことを自然に考えさせてくれるのが【となりのトトロ】の良さである。

久しぶりに、ゆったりとした時間の中で【となりのトトロ】を見ようと思う。

 

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2007年5月10日 (木)

ウルトラマンの造形

日本を代表するヒーローと言えば、ウルトラマンの名前を挙げるのに異論を唱える日本人はそれほど多くないだろう。最初のウルトラマンから始まり、オーストラリアとの合作であるウルトラマン・グレートやアメリカで作られた青い目のウルトラマン・パワード、それに最近ではウルトラマン・マックスやウルトラマン・メビウスなど、今までに数多くのウルトラマンが作られているが、そのデザインは、最初のウルトラマンと次のウルトラセブンがベースになっている。

ところで、その最初のウルトラマンだが、その顔のデザインを見ていると連想されるものが2つある。1つは能面、そしてもう1つは仏像である。例えば、永井郷のデビルマンやマジンガーZ、獣神ライガーなどは「怒り」の表情がモチーフになっているように思われるが、ウルトラマンは非常に温和な印象を与える。顔自体は動かないのに、見ていて冷たさではなく温かさを感じるのである。

同じような印象を与えるものを探すと、仏像がある。特に、細面の観音像などの印象はどこかしら、ウルトラマンの顔のイメージと重なる。それから、光を当てる方向によって微妙に印象の変わる能面なども、同じようにその見る方向で微妙に印象が変わるウルトラマンの顔とイメージが重なってくる。

怪獣たちが人間の欲望が生んだ様々な矛盾の象徴だとすれば、仏教的に言えば煩悩の化身である。だからこそ、欲望の暴走…都市や自然の破壊という行動を取るのだろう。それを止めるには、仏教的には悟りを開き、涅槃の境地に達しなければならない。ウルトラマンは、それを導くための存在なのだろうか。そう考えれば、ウルトラマンの造形は非常に良くできているように思われる。

怒りを含まない温和な表情。それなのに、人々のために怪獣と戦い続けるウルトラマン。その造形デザインについて考え始めたら、仏教にまで行き着いてしまった。こんなところにもウルトラマンの魅力があるのかもしれない。

 

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2007年5月 5日 (土)

W3(ワンダー・スリー)…平和への思い

手塚治虫のマンガに【W3/ワンダー・スリー】という作品がある。白黒の時代にアニメ化もされたが、ジャズ・テイストの主題歌はとても印象深く、今でも口ずさむことができる。ウサギとカモと馬に化けた宇宙人ボッコ、ブッコ、ノッコの3人が、地球の1人の少年星真一と共に、日本の小さな村から世界中をまたにかけて様々な冒険をする話である。TVを見ていた頃の記憶では、馬のノッコがその辺のガラクタをもとに作ってしまう巨大なタイヤの乗り物《ビッグ・ローリー》が特に印象に残っている。

このW3は、実は、銀河連盟から派遣された優秀なパトロール隊員であり、その使命は、地球を調査し、その結果地球が好戦的で危険な星であると判断されたら、持参した反陽子爆弾で地球を破壊することであった。だが、W3の報告を検討した銀河連盟が地球は好戦的でありは解すべきだと判断したにもかかわらず、W3は地球を破壊せずに帰ってしまう。真一との交流の中で、人間に希望を感じたからである。

その際に、W3は、宇宙人が反陽子爆弾を地球の中心に置いていった…と嘘をつくように真一にアドバイスする。その結果、世界の国々は、反陽子爆弾を取り除くために協力しようとして争いを止める…という結末である。何とも、頼りない結末である。爆弾に脅されなければ、平和は達成できない…ということが哀しい。

だが、今の世界はどうだろう。W3は1960年代の世界という設定である。それから40年は経過しているにも関わらず、世界平和は実現されておらず、戦火と貧困の中で、多くの人々が命を落としている。手塚治虫の平和への願いは、未だに実現されていない。

 

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2007年5月 4日 (金)

ヒーローの色…スパイダーマンとスーパーマン

スパイダーマン3を見たが、映画のシーンの中に、スパイダーマンが星条旗の前を横切る瞬間があった。スパイダーマンの赤と青が星条旗の赤と青に重なり、あらためて、これがアメリカの映画なんだなぁ…と思った。

スパイダーマンだけではない。スーパーマンもやはり赤と青である。アメリカ映画のヒーローはその身体の色彩からもアメリカを象徴しているのだなあと思った。もっとも、屈折した部分を持つバットマンはその限りではない。基本的に若々しく、明るいヒーローであるスパイダーマンとスーパーマンは、ストレートに若さとパワーのアメリカのイメージを前面に押し立てているのだろう。

そうした点から考えると、今回のスパイダーマン3はなかなか興味深いストリー展開だったように思える。順風満帆の日々の中で、スパイダーマンはついつい慢心してしまい、身近な恋人の心の揺れを感じ取れなくなってしまう。それをヴェノムにつけ込まれ、自信に満ちているがゆえに弱い立場の人々の心を理解しようとせず力で押し切ろうという行動をとってしまう。それを象徴するように、スーツも黒く染まっていく。

慢心と力によるゴリ押し…その行動は、冷戦終結後のアメリカの姿とどこかしら重なってくる。ただ、スパイダーマンはそのことに気付き、ヴェノムを引き離すことで本来の自分を取り戻す。だが、アメリカはどうだろう? イラクなどの状況、牛肉の輸出、環境問題へのアプローチなど、映画のスパイダーマンのようにその過ちに気付き、軌道を修正していこうとする意識はまだまだ弱いようだが……。

ところで、色とヒーローの関係を考えた時、日本はどうだろう? そう言えば、ウルトラマンはウルトラマンAなども含めて赤と銀(白)が基調となっている。ウルトラセブンやウルトラマンタロウ、ウルトラマンレオなどは赤が基調だがそれ以外の頭部や胸部は銀、身体のラインは白である。ただ、仮面ライダーは黒や緑が基調となっている場合が多く、赤と白(もしくは銀)が中心のライダーはテレビで毎週放映される形を取れなかったZX(ゼクロス…スーパー1の後の10人目のライダー)くらいである。日本の場合、マイナスのイメージもある国旗の色彩をヒーローが背負う意識はそれ程強くないのかも知れない。

アメリカは背景となる文化の異なる移民が集まって作る国だからこそ、何としても1つにまとまる象徴が欲しい。その1つが国旗であるがゆえに、ヒーローが意識的に国旗の色を背負うのかも知れない。

 

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2007年4月25日 (水)

心に残るラストシーン/アニメ編

以前、特撮のラストについて書いたが、今回はアニメで考えてみよう。その際に、すぐ頭に浮かぶのは映画「銀河鉄道999」のラストシーンである。機械化母星を破壊して地球に帰ってきた鉄郎とメーテルの別れ……。唇の柔らかさやぬくもりまで伝わってくるようなメーテルのキスと走り出す999を、メーテルの名を呼びながら追いかける鉄郎…そして宇宙へと遠ざかっていく999……。何度でも見たいシーンである。

それから、TV版「宇宙戦艦ヤマト」の最終回の地球到着を前に「地球か…何もかも懐かしい」という言葉を最後に息を引き取る沖田艦長…それを知らせようと艦橋に向かった佐渡先生の前で何も知らずに喜びに沸き立つ艦橋と古代の胸で息をふき返した森雪…ちょうど沖田艦長の魂が、雪の魂を呼び戻したかのように、喜びと悲しみが交錯するラストも心に残っている。

また、「もののけ姫」の矛盾を抱えながらもそれと向き合い、森とタタラ場に別れて生きていく選択をしたサンとアシタカの思い…それに対比するように明るくしたたかに生きる人間たちの姿と変わってしまった森の姿……このラストも印象深い。

あるいは、「海のトリトン」で海の仲間たちに支えられてポセイドン族の刺客を次々に退け、オリハルコンの短剣をかざしてポセイドン族の本拠地に飛び込んだトリトンを待っていたポセイドン族の滅亡……。知らないで進んできた道を過酷な運命が待っていたという衝撃のラストは深く心に刻まれている。

他にも、「天空の城ラピュタ」や「紅の豚」、「機動戦士ガンダム」「闘将ダイモス」「惑星ロボ ダンガードA」「ジャイアントロボ~地球が静止する日」や「タイガーマスク」「ペリーヌ物語」映画「1000年女王」など、ラストシーンが蘇ってくるアニメはいろいろある。その中でも999やヤマト、もののけ姫、トリトンなどは特に印象深い作品である。

 

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2007年4月16日 (月)

ウルトラセブン1999印象記…私は地球人

ウルトラセブン1999の6部作は1つひとつの物語にいろいろと興味深いものが流れている。例えば、先制攻撃の思想が、逆に侵略を呼び込む…などもその1つだが、その最終話「私は地球人」において歴史の改ざんの問題が提起されている。

この話のベースには、ウルトラセブン42話「ノンマルトの使者」がある。テレビ放映時において、オカリナを使ったノンマルトのテーマ音楽がとても印象的だったが、地球人は、先住民のノンマルトを侵略して海に追いやった侵略者ではないのか? という疑問が提示された異色作であった「ノンマルトの使者」。「私は地球人」においては、それが事実であり、その証拠が発掘されたのを知った地球防衛軍の首脳は、侵略の事実を隠蔽しようと画策する。ノンマルトは、「侵略者の地球人をどうするのか? しかも、侵略の事実を隠蔽しようとしている地球人を」とセブンに問いかける。

この問いかけは、日本政府への問いかけであるとともに、私たち1人ひとりへの問いかけとも重なっている。従軍慰安婦の問題や沖縄戦での教科書検定において、現政権は、従軍慰安婦問題や沖縄戦で沖縄の人々を守らずに自決に追いやった軍部の責任を矮小化しようと試みている。だが、そうした歴史の真実に目を向けず、歴史から学ぼうとしない態度を北朝鮮に利用され、拉致問題の解決を困難にしている。

同じ第二次世界大戦の敗戦国でありながら、侵略の歴史的事実に真摯に向き合い、周辺の国々からの信頼を勝ち取ったドイツと、重慶への無差別爆撃や従軍慰安婦などの問題を矮小化しようとして、未だに「歴史認識」という外交カードに周辺諸国から利用され、周辺国から常任理事国になるのを反対される日本。ウルトラセブン1999の地球防衛軍首脳と同じまちがいを日本は侵そうとしているのだ。

「私は地球人」では、殉職したフルハシ参謀に育てられたウルトラ警備隊の隊員たちが侵略の事実を宇宙に向かって公表しようとし、セブンは、最終的にその時間を稼ぐためにノンマルトの守護怪獣ザバンギを足止めしようと戦う。その結果、地球防衛軍が隠蔽しようとした地球人の侵略の事実は宇宙に公開され、地球人は、その反省に立って新たな道を歩む可能性を残せたのである。だが、地球人という「侵略者」を助けてしまったセブンは……。

もう、8年も前に作られた作品なのだが、今の世界や日本の情勢とからまって私たちにいろいろなことを考えさせてくれる上質の作品である。

 

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2007年4月10日 (火)

ウルトラセブン印象記…零下140度の対決

ウルトラセブンは寒さに弱い…その印象を決定付けたのが、25話「零下140度の対決」である。ポール星人が地球防衛軍/ウルトラ警備隊の極東基地の周辺に強烈な寒波を送り込み、さらに怪獣ガンダーを使って基地の原子炉を破壊する。

基地の人々による必死の復旧作業が続くが、寒さの中で隊員たちは次々と倒れていく。パトロールの最中に寒波に見舞われポインターを捨てて徒歩で基地に戻ろうとするモロボシ・ダンも、途中でセブンに変身するためのウルトラ・アイを紛失してしまう。

そんな危機の中、カプセル怪獣ミクラスは必死にガンダーと戦うが、冷凍光線を吐くガンダーに翻弄されるばかりである。犠牲が増える中、キリヤマ隊長は撤退を決める。その時、原子炉の修理が終わりウルトラホークがガンダーと戦うために発進する。そして、太陽エネルギーを補給したセブンも…地球に帰還し、最後は必殺のアイ・スラッガーがガンダーを倒す。

ハラハラどきどきするストリー展開、そして三つに分かれたホーク1号とホーク3号がガンダーと戦うシーン、人間の命の大切さと使命感の問題など、セブンの戦闘シーンはわずかだが見所の多い話である。個人的には「史上最大の侵略」「セブン暗殺計画」「ノンマルトの使者」などとともに、特にお気に入りの話である。

 

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2007年4月 3日 (火)

ふたり…越えていくさびしさ

大林宣彦の映画は割と好きだが、「ふたり」はその中でも特に好きな映画である。妹の実加訳の石田ひかりも悪くないが、特に、姉・千鶴子を演じた中嶋朋子の演技が強く印象に残っている。

「北の国から」の可愛い蛍ちゃん…の印象が強かった中嶋朋子だが、「四月怪談」「時計」などでも、味わいのある役をこなしており、「ふたり」は、実はとても楽しみにしていた映画だった。そして、期待にたがわず、中嶋朋子は見事な千鶴子を演じてくれた。

何でもできる優秀でしっかりした姉・千鶴子。妹としてはとても頼りになる反面、周りからいつも比較されてしまううっとうしい存在でもあっただろう。けれども、千鶴子は事故でなくなってしまう。その千鶴子の幽霊が実加の前に現れ、実加に寄り添ってくれる。その支えによって、実加も成長し、やがて、姉・千鶴子を追い抜いていく。

「お姉ちゃんなんか、どこかへ行っちゃえ !」

それは、千鶴子を越えていかなければならない実加が、千鶴子に言い放った決別宣言である。そして、千鶴子は、実加の前から姿を消してしまう。そう、千鶴子にとっても、そのままでは先には進めないのだ。と言って、高校生の幽霊のままで妹の側に留まることもできない。実加も千鶴子がいつまでも側にいれば、成長できなくなってしまう。本当の意味で実加を愛していればこそ、千鶴子は消えたのである。

実加は、千鶴子との日々を書き綴ろうとペンを取る。ふたりの時間をかみしめることで、実加は多くのことに気付き、さらに成長していくだろう。だが、もう千鶴子はいない。年齢も経験も、実加が千鶴子を追い抜き、先へ進んでいく。事故で、そして幽霊としての千鶴子を失って、そのさびしさを抱き締めながら実加は未来へ向かって生きていく。

寂しさの中に、温かさが溢れるしっとりとした映画である。

 

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2007年3月26日 (月)

蒼き狼の伝説…冨田勲の躍動

「蒼き狼の伝説」というCDがある。作曲・シンセサイザーは、冨田勲。10年ほど前のNHKスペシャル「大モンゴル」のサントラである。「大モンゴル」自体も非常におもしろい作品だったが、この冨田勲の音楽がまた魅力的であった。そのテーマを聞くだけで大草原を疾走する騎馬軍団のイメージが浮かび、冒険心を刺激された。

冨田勲との出会いは、「ジャングル大帝」の主題歌だった。今から考えれば、短いという気がしないでもないけれども、その数分にも満たないわずかな時間の中にアフリカのサバンナの広がりを感じさせる雄大なイメージが凝縮されていた。「惑星」「宇宙幻想」「展覧会の絵」「風の又三郎~ガラスのマント」など、冨田勲のCDは10枚近く持っているが、この「蒼き狼の伝説」はその中でもお気に入りの1枚である。

音のイメージに包まれていると、狭苦しい日常から心が羽ばたき、広大な草原を駆け巡り始める。激しさ、猛々しさ、命の輝き、生と死、そして永遠への夢……。わずか一時間ほどのアルバムの中に様々なものがちりばめられ、心を揺さぶる。そして、その揺れが音楽と共鳴し、繰り返しの退屈な日常に疲れた感性を解き放ってくれる。

「蒼き狼の伝説」…10年あまりの歳月を重ねても、色あせることなく輝きを放ち続ける珠玉の1枚である。

 

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2007年3月24日 (土)

赤影を呼んだのは…

子どもの頃、《仮面の忍者赤影》に熱中していた。テレビを見、マンガを読み、忍者マーチに胸を躍らせた。ひたすらカッコよく、また楽しい…という印象が強く残っている。

ところで、赤影は飛騨忍群の次期頭領であり、その赤影は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の軍師・竹中半兵衛に呼び出され、藤吉郎や信長のために戦っている。

飛騨と言えば今の岐阜県である。

竹中半兵衛はもともと美濃を中心とした戦国大名斉藤氏の家臣で知略に優れていたが、後に豊臣秀吉に仕えている。1人で稲葉山城(岐阜城)を落として、主君に諫言した…などという話も伝わっている。個人的には楠木正成や上杉鷹山らとともに好きな人物の1人である。病弱であったため秀吉の全国統一を見ることなく亡くなったが、秀吉にとって、この竹中半兵衛と播磨出身の黒田官兵衛という2人の優秀な軍師を得たことが全国統一の大きな力となったことだろう。

この竹中半兵衛を演じていたのは、実は里見浩太郎である。里見浩太郎と言えば東野「水戸黄門」の助さんというイメージが強い。現在は、水戸黄門も演じているが、その里見浩太郎が竹中半兵衛を演じていた…という事実はなかなか興味深い。

TVの「仮面の忍者赤影」自体は、怪獣や巨大なメカ、超小型の銃、空飛ぶ円盤なども登場(つまり時代考証は完全に無視して楽しさのみを追求している。)するハチャメチャなストリー展開が楽しかったが、竹中半兵衛が呼んで織田軍団とつながっていくなどという隠し味は、なかなか興味深い。ツッコミどころも多いが、今見てもけっこう楽しい作品である。

 

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2007年3月18日 (日)

ウルトラセブン印象記…盗まれたウルトラ・アイ

最初のウルトラセブンのシリーズの中に、怪獣や異形の宇宙人などが登場しない話がある。それが、今回とりあげる「盗まれたウルトラ・アイ」である。モロボシ・ダンがウルトラ・アイを盗まれたり紛失したりする話はいくつかある。例えば、エレキングと戦う「湖のひみつ」ではピット星人に盗まれるし、ポール星人とガンダーの登場する「零下140度の対決」では基地へ帰還する途中で雪の中にウルトラ・アイを落としてしまう。

だが、「盗まれたウルトラ・アイ」で、ダンからウルトラ・アイを盗むのは、地球人と同じ姿をしたマゼラン星人のマヤであり、彼女を支援する怪獣なども登場しない。マゼラン星人たちはマヤから送られた連絡によって地球を「狂った星」と判断し、恒星間弾道弾を発射して地球を破壊しようとする。

マヤは母星からの迎えを信じて「迎えはまだか」と連絡し続けるが、その返事は「迎えは出せない」だった。母なる星に裏切られた少女は、ダンにウルトラ・アイを返し、ウルトラセブンが恒星間弾道弾を破壊に行っている間に自殺してしまう。

信じていたものに裏切られる辛さや悲しみはよくわかる。だが、今の地球の現実と人類の歴史を考えれば、時として、国は国民を裏切る事件は少なくない。その意味で、国を信じることができたマヤは純粋なのかもしれない。だが、その信頼を裏切られた時、マヤの純粋さは弱さへと変わってしまった。それがまた哀しい。

セブンのアクションシーンはないが、しっとりと胸に残るエピソードである。

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2007年3月11日 (日)

世界最速のインディアン…映画の楽しさ

およそ4ヵ月ぶり…つまり、今年になって初めて映画館で見た映画は「世界最速のインディアン」だった。たまたま、時間がちょうど良いということで入った映画ではあるが、実話をもとにして丁寧に作られたその映画は1シーン、1シーンがおもしろく、また感動的でもあった。

ニュージーランドのインバカーギルという小さな町で暮らす主人公のバート。インディアンという古いバイクを自分で改造して、ひたすらスピードを追及し、アメリカのボンヌブルで世界記録を出すことを夢見ている年金暮らしの元気な老人である。だが、心臓の発作で病院に運ばれた後、一念発起をして、家を抵当に入れて借金をしバイク仲間たちのカンパにも助けられて渡米する。

ところが、ロスに上陸してからボンヌブルにたどり着くまでトラブルの連続。けれども、陽気なバイク一筋のこの老人に、次々に協力者が現れて、彼を助けてくれる。彼の人当たりの良さと、バイクの技術、そして様々なものを利用し、工夫をし、精一杯努力をして目的を達しようとするバイタリティーに、出会った人々が魅力を感じ、ついつい手助けをしてしまうという感じなのである。バートは、まさしく愛すべきバイク狂である。

このバートを演じるのはアンソニー・ポプキンス。「羊たちの沈黙」でのハンニバル・レクター役は印象深いが、このバート・マンロー役は、心底楽しんでいるような印象を受ける。そしてまた、見ていて楽しい。

だが、ボンヌブルにたどり着いたバートは……。そこでバートは事前申し込みをしてなかったことや古いバイクのためにパラシュートの装備といったような安全基準が出場条件を満たしていないことを理由に出場そのものを拒否される、という最大のトラブルに巻き込まれる。が、彼の人柄と真摯な取り組みの姿勢はボンヌブルに集まった人々の心をとらえ、多くの人々の支持と支援を受けて出場を果たし、最速の記録を樹立する。胸をうつ感動の映画であり、見ていて楽しく、見終わった後元気になる。この映画は、そんな珠玉の名作である。

 

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2007年3月 8日 (木)

青春デンデケデケデケ…音楽も楽しい青春映画

ベンチャーズのパイプラインから始まる楽しい映画、それが大林宣彦監督の《青春デンデケデケデケ》である。ラジオから流れるベンチャーズのパイプラインに啓示を受けた1人の高校生が、ロックに捧げた高校時代の3年間を描いた名作である。

主人公のチックンと親友白井と出会い、ロックバンドを組み、仲間を集め、アルバイトで楽器を揃え……。中学・高校時代はギターを毎日のように触っていたこともあり、チックンの思いが自分自身の中学・高校時代の思い出とオーバーラップしてくる。

もちろん、私自身はビートルズやベンチャーズよりもカーペンターズやジョン・デンバーが好きだったし、エレキではなくフォークギターを手にグレープやかぐや姫の歌を弾いていた方だったので音楽の趣味はチックンとは異なるが、ギターへの思いはよく分かる。そして、バンドの仲間を集め、楽器をそろえ、練習場所に苦しみながらお寺やお墓で練習をしたり、合宿をしたり……。学校での仲間たちとのやりとりや先生との交流も楽しい。また、ベースを担当する寺の息子・合田も絶妙の味わいである。

とにかく、何度見ても楽しく、高校時代のことを思い出して気分も明るくなってくる。まさに、時間を忘れて見入ってしまう映画である。

 

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2007年3月 2日 (金)

Flashdance…夢を追って

久しぶりに夜の時間がとれた夜、DVDプレイヤーにセットした映画は「Flashdance」だった。1983年の映画だが、魅力的な音楽とダンス、そして夢に溢れている。主人公のアレックス(アレクサンドラ)を好演するのはジェニファー・ビールス。昼は鉄工所で働き、夜はバーの舞台でダンスを踊りながら、バレエの舞台に立つことを夢見ている。

仲間たちとの交流、そして恋、様々な経験をしながらも、なかなか大事な一歩を踏み出せないアレックス。それを励まし、支える老プリマ・ハンナ、恋人・ニック、そして友人たち…。迷いや不安の中でもがき続ける日々。そんな日々をダンスと音楽が彩る。

一流のアーティストたちが集う、この映画のサウンド・トラックは、映画と離れて一枚のアルバムとして聞いても納得できる歌で満ちている。アイリーン・キャラ、ドナ・サマー、マイケル・センベロなどの実力派がこの映画の歌/音楽を支えているのである。

そして、舞踏学院のオーディションの場に立つアレックス。アイリーン・キャラの歌に乗せて踊るアレックスのダンスは見ているだけで身体がリズムを刻みだす。そして、合格の喜びをニックと二人で分かち合うラスト…。ダンスと音楽と、アレックスを演じたジェニファー・ビールスの生き生きとした表情が愛おしくなる。そして、見ているだけで元気が出てくる映画である。

最近は、忙しい毎日が続いていて、映画どころかテレビやDVDを見る時間もあまりない。が、この【Flashdance】は、何度でも見たくなる映画の1つである。

 

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2007年2月21日 (水)

心に残るラストシーン/特撮ドラマ編

心に残るラストシーンについて記憶の糸をたどったとき、その双璧が「ウルトラセブン」と「ジャイアントロボ」である。

ウルトラセブンの最終回。数多くの戦いによって身体の不調を感じながらもゴース星人の基地に囚われているアマギ隊員を救うべく、アンヌ隊員の目の前でセブンに変身してアマギ隊員を救い出し、改造されたパンドンを倒して地球を去っていくウルトラセブン。傷付いた体・消耗しているエネルギーゆえに戦うための変身を止められていたにも関わらず命を懸けて戦い、途中で力尽きて死ぬかもしれない帰還の旅へと飛び立つセブンをすべてを知ったウルトラ警備隊が見送るシーンには胸をうたれたのを思い出す。

そしてジャイアントロボの最終回では、心を通わせた大作少年の制止を振り切って、大作少年と地球を守るためにギロチン帝王をかかえて宇宙へと飛び去っていったジャイアントロボ。それまでに、いくつもの大作少年との心の交流のエピソードが重ねられていたこともあり、目頭が熱くなったのを覚えている。

2つのラストシーンには、共に自己犠牲…という底流が流れている。愛するものを守るために何の打算もなく自分を犠牲にする姿は見ていて美しいし、ある意味では、そういう自分でありたいとも思う。

けれども、その一方で、他者には自己犠牲を説きながら自らは安全なところでのうのうと生きていたり、私腹を肥やしたりしている醜い人々も存在する。例えば、太平洋戦争末期に特攻のために飛び立っていった若いパイロットたちの覚悟は美しいが、特攻などというとても「作戦」とは呼べない作戦を立案して実行させた人々はどうか。聖戦や愛国を説く人々の中には、自らの欲望のために他者に死を強いる人々が確かに存在する。

そうした偽善者の言葉に踊らされないような目は持っていたいと思う。その一方で、本当の意味での自己犠牲を実践する人々に感動し、賞賛できる素直な心は、いつまでも持ち続けていたいものである。

 

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2007年1月28日 (日)

星の子守唄…SF西遊記スタージンガーより

松本零士の関わったTVアニメの一つに【SF西遊記スタージンガー】という作品がある。1978年4月から79年6月にかけて放映されたものでオーロラ姫を守って、ジャン・クーゴ、ドン・ハッカ、サー・ジョーゴの3人のサイボーグが宇宙を旅をする話である。そのアニメの後半のエンディングが増山江威子の歌う「星の子守唄」である。

松本アニメの子守唄では、【宇宙海賊キャプテンハーロック】の挿入歌の一つ「銀河子守唄」も好きだが、「銀河子守唄」が父親が娘のために歌う子守唄として心優しく聞いていられる歌だとすれば、この「星の子守唄」は母性溢れる安らぎの歌…ということになろうか。

スタージンガーのオーロラ姫が、本来の『西遊記』における三蔵法師の立場になるわけだが、このオーロラ姫はメーテルやスターシャ、雪野弥生(1000年女王)、霧野リサ(惑星ロボ・ダンガードA)などの松本作品における主人公を見守る母性的な女性キャラクターの系譜に入る存在となっている。だが、メーテルのような陰のイメージをほとんど持っていないために良い意味での母性の塊のような印象を受けるが、その分、キャラクターとしての存在感には弱さがある。しかし、この「星の子守唄」は、まさしくそのオーロラ姫の存在そのものをまるごと歌にしているような作品に仕上がっているので、聞いていてとても心地良いのである。

だから、疲れているときに聞くと、とても心が休まる。もはや30年近くも前の歌であり、覚えている人もそれ程多くはないだろうが、何とも言えず好きな歌の一つである。

 

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2007年1月24日 (水)

「責任」をどうとるのか

納豆のデータ捏造問題で一つの番組が姿を消す。だが、その責任の取り方が、経営側の減俸程度で終わりそうな気配である。データ捏造やヤラセの責任をその程度でとったことに出来るのであれば、何のことはない、必ず事件は再発するだろう。

問題の構造からすれば、まず、事件の背景の解明と再発防止への取り組みが先であり、それを一般の人々を納得させるまで行った上でトップが本当に身を切るような責任の取り方…例えば、再発防止のシステムが構築できるまで最低賃金以上の給与を返上し、退職金は当然辞退するというような…をする必要がある。

下請けに対してまともなチェックをしないまま視聴率至上主義で圧力をかけ、失敗したら下に責任を押し付けて自分は地位や特権を享受し続けるようなことを許していては、そしてそれで「責任をとった」ことにしていては、根本的な問題は解決されぬまま放置されることになる。しばらく時間が経てば、また同じことが繰り返されるだけである。

この構造は、そもそも教育基本法改悪に関わってのタウン・ミーティングのヤラセ事件でも同じである。世論を捏造し、誘導しようとした責任が、給与の返上ですむのか。それが許されるなら、日本の「民主主義」は権力者の恣意的なプロパガンダの押し付け放題である……と認めるのと同じである。当然、それが民主主義の名に値しない恥ずかしいことである、と知識や教養のある人なら誰でも思うだろう。

日本の社会は今、本来、責任をとらなければならないトップや経営側が責任から逃げ、それを現場の弱い立場の人々に押し付ける風潮が強まっている。それなりに報酬が高いのは、いざという時にきちんと責任を取る立場であるからの筈なのだが、そうした自覚のない欲深で無責任な連中が経済や政治の場にはびこっている。

一般の人々に対して「自己責任」を口にする連中が、どのような「責任」をとっているのか……。私たちはきちんと見極める必要がある。

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2007年1月21日 (日)

心躍るライダー・キック

先日、何気なくつけたTVで少し前に公開された忍者映画を見た。その時に感じたのだが、アクションの映像がとてもきれいだった。きれいだったのだが、もう一つ力強さを感じられない。その時に、ふと頭に浮かんだのが、子どもの頃に見た「仮面ライダー」だった。

「仮面ライダー」および「仮面ライダーV3」あたりまでは、TVにかじりついて見ていた記憶がある。電光ライダーキック(1号)やライダー卍キック(2号)V3反転キックやV3マッハキックなどは、現在の映像技術でとったらとてもきれいになるだろうと思う。

が、それによって当時感じた力強さはどうなるだろう。当時の仮面ライダーのアクションは大野剣友会が取り仕切っていたが、まさに肉体を極限まで使うことと情熱によって、少ない予算と映像技術の制約を跳ね返したあの迫力が生まれていたのではないだろうか。ある種の泥臭さはあったが、それも含めて、アクションシーンの力強さや迫力につながっていたのではないかと思う。

現在の映像技術は確かに美しい。けれども、あまり現在の仮面ライダー・シリーズを見たいとは思わない。が、当時のライダー・キックは、たとえ泥臭いアクションであっても、ついついビデオを取り出したくなる。ストリー展開や小道具、台詞の中にはツッコミを入れたくなるものもあるが、心躍るライダー・キックを見るだけで満足なのである。

 

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2007年1月19日 (金)

「銀河英雄伝説」から読む民主主義

「銀河英雄伝説」はもともと田中芳樹原作の小説だが、その後オリジナル・アニメ・ビデオのシリーズとして制作され、テレビでも放映された。原作も非常に面白く、10巻をわずか数日で一気に読んでしまったが、その原作に忠実に作られているアニメも、よく出来た作品である。

個人的には、「宇宙戦艦ヤマト」の古代進の声を担当した故・富山敬が自由惑星同盟のヤン・ウェンリー役をしていた事もあり、そちらの興味もあって何度となく楽しんでいる作品の一つである。特に、作品の中でヤン・ウェンリーが亡くなった後、富山敬も後を追うように亡くなっているので、特に印象が強い。

そのヤン・ウェンリーは、よく民主主義や民主政治について自らの考えを周囲の仲間や家族に口にする。それは、歴史的に見ても、法学や政治学の視点から見ても、けっこううなずける内容が多い。政府の上層部にいる人々が「愛国心」を口にして戦争を煽るにも関わらず、自らはもちろん、その家族をも戦場には送っていないことへの批判は特に手厳しい。そして、現在のアメリカの姿を見ていると、それは大いに納得できる。

自由惑星同盟が、民主主義の制度疲労によって衆愚政治に堕し、銀河帝国のローエングラム候による清潔な独裁制によって滅ぼされる辺りは、何とも考えさせられる。民主主義がきちんと機能するためには、自立した個人やマスコミによるきちんとした情報開示や情報公開が必要であり、逆に、公正な税制や国民を大切にする政策があれば、独裁体制でも国民に支持される……などなど。

例えば、ヤン・ウェンリーは考える。国民としては、清潔な独裁政治と極度に腐敗した民主政治とでは、どちらの国民がより幸福なのか……と。そして、改革を進めるには、独裁制の方が効率的であるとも……。それでも、ヤン・ウェンリーは最後まで民主主義を守るために戦い、死んでいった。だが、彼は、自分の作戦によって失われた敵と味方双方の命についても考え、狂信的に「民主主義」のドグマを信じるようなこともなかった。

翻って、現在の日本の姿や世界の姿を見てみよう。「民主主義」の名の下に多くの人々を殺したり苦しめたりしている権力者たちがいる。国民を苦しめる政策を立て続けに実行し続けて恥じない「民主国家」の政治家たちもいる。日本や世界を、自由惑星同盟のようにはしたくはないと思うのだが……。

 

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2007年1月13日 (土)

夢への道しるべ…オードリー・ヘプバーンの輝き

激動する時代の中で、あるいは長い時を隔ててもその輝きを失わないものがある。「モナ・リザ」、『ロミオとジュリエット』、『源氏物語』、ビートルズ…。私の意識の中では『ローマの休日』という映画もそうした存在の一つである。『ローマの休日』と聞けば、ほとんどの人があのアン王女の愛らしく清楚で気品のある笑顔をイメージするだろう。この「マドンナ・えっせい」の最後のページは、アン王女を演じたオードリー・ヘプバーンを鍵にして文章を綴っていきたい。

 

存在自体の輝き。TVや映画のスター、あるいは歌手を見てそれを感じる人は少なくない。しかし、最近の日本を見渡してみると、オードリーほど長く、またオードリーほど気品に満ちた存在感を感じられる歌手やスターはみられない。もちろん、一瞬、あるいは一定の時期に渡って輝く存在はみられても、その持続は難しいのである。

 

その理由の一つに、気品の欠如がある。お金や生まれではなく、背後に存在そのものの重みを感じさせる何か。それは、人生の闇を真摯に見つめながらも、欲望に流されず、そして希望を捨てずに生き続ける姿勢から滲み出して来るものではないだろうか。戦争の影、父親との別れ、結婚の光と闇…。オードリー・ヘプバーンの人生にも、様々な幸福と不幸がちりばめられていただろう。しかし、彼女はスクリーンではいつも輝き続けた。いや、彼女がこの世を去った今も、その作品は輝き続けているのである。

 

今、日本は不況の中に喘いでいる。中高年男性の自殺は急増し、その数は、交通事故死のそれを上回っているという。子どもたちは将来に対する夢を失い、空ろな心をモノとイメージの消費で埋めながらもがいている。世界恐慌の始まった一九二九年、ベルギーに生まれたオードリーは、当然、あの第二次世界大戦を体験している世代であり、戦争が彼女と父親を引き裂いていくのだが、その不幸と、今の日本の不幸とはどちらが深いだろうか。それを考えた時、オードリーのあの輝きには意味深いものを感じてしまう。

 

いくつか、オードリーの作品を挙げてみよう。『ローマの休日』『パリの恋人』『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディー』…。それらを思い浮かべてみれば、多くの作品が「夢」であることが分かる。現実の生活はともかく、彼女は、多くのスタッフとともに真摯な姿勢で「夢」を作り続けた。そしてそれは、映画を見る多くの人々の夢や希望を紡ぎ、心を満たしていった。スクリーン上の彼女は、プロとして自らの内にある影を微塵も見せず、輝き続けた。彼女の気品は、そうした姿勢やそれを支えた彼女自身の芯の強さの中から生まれたのではないかと思われる。

 

翻って、私達自身を眺めてみよう。

 

人間は、ある意味では、一人ひとりが様々な不幸を背負っている。しかし、そうした現実を見つめ、立ち向かう強さも、人間は持ち得ている。その一方で、それを妨げる弱さもまた、人間は自身の心の内に持っている。例えば、身勝手な欲望や甘えがそれである。暴走する欲望や甘えは人との関係をぶち壊し、自分自身の生活を荒らし、どれほどモノで埋めても埋めることのできない空洞を心の内に作り出す。その空洞をモノや快楽でごまかそうとするからこそ、私達は、夢や希望を見失ってしまうのかも知れない。

 

構造改革と財政再建を旗印に小泉内閣が誕生し安倍内閣へと変わったが、僅かながら持っていた期待はすでに失望へと変わっている。強者が自らの利権を守ることに汲々とし、結果として弱者により多くの痛みを押しつけながら、その現実に目を向けず保身と責任回避に走るだけの政治姿勢に全く変化が見られないからだ。ゼロ金利政策や、労働者の首を切り中小企業をつぶすような「リストラ」を続けても「景気回復」を口にしても家計収入は回復には程遠い状態が続く。普通の人々が安心してお金を使える気持ちにならない限り消費は伸びず、安定した形での景気は上向くことはないからである。

 

終身雇用と年功序列というセーフティ・ネットが崩壊する中で、国民の負担のみを増やし将来を不安にさせるような年金制度の改悪と不完全で利用しにくい介護保険の導入が進む。いずれも、未来のビジョンを失わせ、夢を奪ってしまう悪政である。

 

その根底には、自分自身の一握りの「身内」の利益のみを優先し、現実から目を逸らして身勝手な言動を続ける指導者たちの存在がある。もちろん、彼等を選んだ国民一人ひとりの責任もあるのだか。

 

こうした現実を打開するためには、「夢」の力が必要である。自分の欲望や甘えに流されずに、辛さや苦しみの現実を見つめ、その上に立って自分とより多くの人々の幸福のために何ができるのか。狭い視野で眺めていると見えないことが、広い視野で見つめ直すことで見えてくる。私のためでなく、私と家族のため…。家族や親戚のためではなく、町や国のため…。そして単に日本という国のためではなく、アジアやアフリカを含めた多くの人々のために…。そうした視点を持てば、身勝手な欲望から自由になり、埋めることのできない心の空洞も小さくなって「未来へのビジョン」=「夢」が見えてくる。

 

晩年、ユニセフの大使として活動したオードリー…。私達も、そんな「夢」を持てるような生き方をしていきたいものである。

 

 

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2007年1月 9日 (火)

まず自分から愛さなければ…「ペリーヌ物語」より

風邪のために寝正月を決め込んだ年末から三が日の休みの間に見ていたビデオの一つに「ペリーヌ物語」がある。「アルプスの少女ハイジ」や「あらいぐまラスカル」、「ムーミン」などで有名なフジTV系列の《世界名作劇場》シリーズの一つで、1978年の1月1日から12月31日まで放映された作品である。

 

原作はエクトル・マロの『アン・ファミーユ』、日本では『家なき娘』という題名で訳されたりもしているが、同じ作者の『家なき子』ほど有名ではない。けれども、まじめに、そして正直でけなげに生きていくうちに周りの人々に愛されて幸せになる、という筋立ては共通しているかも知れない。

 

現代社会では、何が「幸せ」かということ、つまり幸せの質や中身が問題になってきている。が、このシリーズが最初にTVで放映されていた30年ほど前の時代であれば、経済的・物質的豊かさが大きな意味を持つと感じられていた。

 

確かに、それらがなければ、必ずしも「幸せ」とは感じられない人は少なくないかも知れない。けれども、お金持ちで物質的に豊かであっても「幸せ」だとは限らない。この物語の主人公であるペリーヌの祖父ビルフランも、ペリーヌが現われるまではそうだった。

 

ビルフランは、マロクール村でフランス一の織物工場を経営し、多くの使用人に囲まれて大きな家で生活していても、たった一人の息子(つまりペリーヌの父親)とは結婚をめぐって対立したために音信不通となっていた。周りの人々から「ビルフランさま」と呼ばれ、傅かれたり、羨望されたりしていても、ビルフラン自身は、本当に心を許し、愛することのできる人を周囲に持っていなかったのである。

 

その孤独な心を開かせたのは、ペリーヌだった。ペリーヌは最初、オーレリーと名乗ってビルフランの工場でトロッコ押しをして働いていた。けれども英語ができたことから通訳に抜擢され、さらにビルフランの個人秘書として信頼を得て、一緒に屋敷で暮らし始めていた。

 

マロクールへ向かう旅の途中、パリで亡くなったペリーヌの母マリは、死ぬ間際にパリでペリーヌに、人から愛されるにはまず自分から人を愛さなければならない、と言い残した。

 

ペリーヌはその言葉を守り、母マリのことを誤解し憎んでいるビルフランを心から愛した。そして父エドモンの死を知って悲しむ祖父ビルフランを一晩中看病した。

 

そんなペリーヌの思いは次第にビルフランにも伝わり、やがてビルフランはオーレリ―と名乗る少女が自分の孫ではないかと思い至る。そして、弁護士に息子が死んでからの足取りを調べてもらい、オーレリ―=ペリーヌが孫であることを確かめる。ビルフランは、孫のペリーヌの存在が新たな生きがいとなって生きる意欲を取り戻し、目の手術にも耐えてペリーヌと共に幸せになる。

 

だが、ペリーヌやビルフランがすばらしいのは、自分たちの幸せだけではなく、保育所や労働者住宅なども整備して、みんなの幸せを考えて生きていこうとするところである。

 

確かに、誰もが愛されたいと思うだろう。けれども、誰もが深く愛されるとは限らない。ただ、これまで出会った多くの人々のことを考えると、多くの人を愛している人ほど周囲から愛されているように思われる。愛とは、与えれば与えるほど返ってくるものなのかも知れない。

 

例えば、「愛国心」を強制しようとする人々がある。けれども、政治家や官僚がまず国民を愛し、大切にしていれば、愛国心など勝手に育まれるだろう。自分を愛してくれる存在を愛せない人間などいないのだから……。

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2007年1月 6日 (土)

DAVE…あるべき政治の姿

年末年始の間、久しぶりにゆったりとした時間が取れたのでDVDを見た。けっこう地味な作品だが、大好きな映画の一つ「DAVE…デーヴ」である。1993年の作品だから、もう10年以上昔の映画ということになる。行きつけの映画館でたまたま見たのだがとても気に入ってしまい、LDを買い、DVDも買ってしまった。その意味で、本当に気に入っている映画ということになる。

大統領にそっくり…ということを芸にしながら、仕事の紹介もやっているデーヴは、ある日、シークレットから「安全上の配慮」を理由に大統領の代役を一度だけの約束で依頼される。ところが、途中、本物の大統領が脳卒中で倒れ、主席大統領補佐官ボブの思惑もあって、そのまま代役を続ける羽目になる。実際にホームレスの施設を訪問して子どもたちとも触れあったデーヴは、スタッフが削ろうとしたホームレスの支援を復活させ、国民の失業をゼロにする取り組みに着手しようとするが…。

派手なアクションがある訳ではない。エキサイトするようなシーンがある訳でもない。ある意味では、淡々と物語は進んでいく。けれども、見ている間に心はとてもあったかくなる。そんな映画である。特にデーヴのさりげない優しさは胸を打つ。ホームレス、仕事のない人々…。社会的な弱者である。アメリカでも日本でも社会的な弱者を切り捨てて恥じない政治家が非常に目立つ。けれども、民主政治における政治家とは、国民の福利の増進を依頼された臨時雇いではないのか…とデーヴは議会で演説し、倒れる。

決して悲しい映画ではない。でも、夢である。それが実現可能な夢になるのか、それとも、実現不可能な夢なのか。それは、私たち1人ひとりの選択にかかっている。

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2006年12月26日 (火)

ウルトラセブン1999印象記…模造された男

ウルトラセブンはテレビシリーズの他に、いくつかのオリジナル・ビデオ・シリーズがある。その中の一つ「ウルトラセブン1999」は、《フレンド・シップ計画》という名の先制攻撃思想を実現しようとする計画にノンマルトなどの思惑もからみ、フルハシ参謀(このシリーズの前に隊員からウルトラ警備隊隊長に、さらに参謀に出世…時代を感じさせる)の生死と絡みながら物語は進んでいく。

シリーズ全体としても良くできているが、その中でも往年のファンにはキングジョーⅡが登場する「模造された男」が面白いのではないか…と思う。実は、後にグラビア・アイドルとしてブレイクする原史奈が、鍵を握る女子高生役で出ているとか、セブンとキングジョーⅡの死闘など様々なシーンで見所が満載である。

ただ、物語のストリーの中で「侵略されるからより強力に武装する」という思いが、逆に侵略を呼び込んでいるのではないか…という思想が語られる。アメリカの「先制攻撃」理論との類似性、そして現在の方向転換と併せて考えれば、TV版ウルトラセブンの流れを受け継ぎながら、現代の日本や世界を俯瞰しつつ作られたこの作品は、非常に興味深い存在である。祈るだけで平和は実現しないが、過剰な恐れと不信は戦乱を呼び込む。個々の人間関係においても国際関係においても、信頼の構築はきわめて重要だろう。

そうしたストリーの流れとは別に、感動のアクション・シーンもある。セブンのワイドショットを素早い分離合体で避け、圧倒的なパワーで迫るキングジョーⅡに、セブンは不退転の決意でアイ・スラッガーを胸部に何度も何度も叩き込む。そして、キングジョーⅡが倒れた瞬間、驚異の硬度を誇るアイ・スラッガーがポロリと欠けるシーンは、映像としても素晴らしかった。

大きな壁を前にしても、ひるまずに立ち向かう強い意志を持ちたいものである。

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2006年12月12日 (火)

帰ってきたウルトラマン印象記…怪獣使いと少年

「帰ってきたウルトラマン」のエピソードの一つに「怪獣使いと少年」という話がある。

宇宙人に助けられて一緒に暮らし始めた身寄りのない少年が、他の子どもたちや地域の大人にいじめられ「宇宙人」と言われて差別され続ける。けれども少年は、地球の大気汚染などによって身体を蝕まれ健康を害した宇宙人を守って、必死に生きようとする。

ウルトラマンに変身するMATの郷隊員は少年に寄り添おうとするが、町の人たちの偏見が、少年をリンチにかけようとするまで暴走し、それを救おうとした宇宙人は、結局命を落としてしまう。その結果、宇宙人の力によって地中に封じ込められていた怪獣が、封印を解かれて暴れだし、町を襲い始める。郷隊員は、結果として宇宙人を死に追いやった町の人々を助けることに迷いを持つが……。

ストリーを追っていくとこのような流れになる。子ども番組という形を一応取っているわけだが、見ていると、人間の醜い部分を突きつけられて辛くなり、ウルトラマンが登場する場面では「ほっ」とするような感じになる。

シナリオは沖縄出身のライター上原正三。非常に、印象深い作品である。

初めてこの作品を見たときには、ここまでの現実はもう日本では姿を消しただろう…と信じたかった。けれども、外国人と関わる中で、日本の法務省や入管、あるいは政治家たちの差別意識の酷さを目の当たりにすることがたくさんあった。

そして、小泉「改革」から安倍政権の流れの中で、人権侵害の状況はどんどん悪化しているように感じられる。子どものいじめ問題も、大人の社会に蔓延しているもっと悪質ないじめが強い影響を与えているのではないか。そう思わずにはいられない現実が、あちこちに存在している。最近の「自立」を口実にした弱者の生存権を奪う法改正は、政府・与党によるいじめ以外の何ものでもない。

しかし、我々の現実にはウルトラマンは存在しない。我々自身の手で矛盾を正していかなければならないのである。

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2006年12月 7日 (木)

祈り…交響組曲・宇宙戦艦ヤマトを聞きながら

昨夜は、久しぶりに〈交響組曲・宇宙戦艦ヤマト〉を聞いた。①序曲、および⑪明日への希望のところに川島かず子のスキャットが入るが、その透き通った祈りのような歌声は、砂浜に染みていくさざ波のように心を包んでくれる。テープを買い、レコードを買い、CDまでも買ってしまった理由である。

そう言えば、〈宇宙戦艦ヤマト〉のドラマの中にはそこかしこに祈りがあったような印象がある。ガミラスの遊星爆弾に攻撃され、滅亡の危機にあえぐ地球、本土決戦の結果死の惑星となってしまったガミラスを見つめる古代進や森雪の心、そして人々の死に絶えたイスカンダルで1人生きようとするスターシャ……。それらのイメージの中に鎮魂の祈りが漂っている。

鎮魂の祈り、それは私たちが持っていた「美しい日本」の伝統の1つではなかっただろうか。原作者の1人である松本零士は、戦場マンガシリーズとして分類される多くの作品を描いているが、その作品の多くの鎮魂の思いを感じることが出来る。辛く哀しい戦争の歴史を経てきた日本という国の歴史を深く知れば知るほど、今の日本の政治や社会に失われようとしている本当の意味での「美しい日本」の姿が浮かび上がってくるが、それは某首相の著作の中身とは似ても似つかぬものである。

この鎮魂の祈りの音楽イメージは映画〈さらば宇宙戦艦ヤマト〉にも引き継がれている。流れゆく音楽の中に漂いながら、忙しさの中で見失っていたものを思い出したい。

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2006年12月 1日 (金)

ウルトラセブン印象記…超兵器R1号

数々のウルトラシリーズの中でも、もっとも好きなのは「ウルトラセブン」である。その中でもいくつかの特に印象深いエピソードがあるが、世界に戦禍が広がり続ける現実の中、「超兵器R1号」のエピソードを思い出さずにはいられない。いわゆる〈ギエロン星獣〉の登場するエピソードである。

日々、侵略の危機にさらされ続ける地球で、惑星も1発で破壊できる〈超兵器R1号〉が完成する。そして、その実験に、観測の結果生物がいないという結論にいたったギエロン星を使うことが決定される。そして、実験は成功しギエロン星は宇宙から消滅するが…。

このエピソードで、モロボシ・ダン(ウルトラセブン)は、兵器開発競争を「血を吐きながら走り続けるマラソン」である、として止めようと説得し続ける。最初はその意見に耳を貸さなかった参謀たちも、〈ギエロン星獣〉の事件を経験した後、「R2号の開発を止めるように進言してみる」と言って負傷したダンが治療を受けている部屋から出て行く。

武力による威圧ではなく、共存できるような外交努力によって共に生きる道を探ろうというのである。そのラストには、小さいながらも本当に心を動かされたし、ぜひそのような世界になって欲しいと思った。

振り返って、今の日本、今の世界はどうだろうか。「血を吐きながら走り続けるマラソン」を今も続けている国がある。そして、私たちの祖国……。戦争の歴史に学ぶことなく、再び「血を吐きながら走り続けるマラソン」に参加しようとしていないだろうか。未来の世代のためにR2号の開発を止めるように進言できるような大人でありたいと思うのだが……。

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2006年11月25日 (土)

Birth…記憶の棘(とげ)

忙しい時間の合間を縫って、久しぶりに映画館に行った。ニコール・キッドマン主演のその映画は「Birth」邦題は「記憶の棘」である。2時間ほどの上映時間を、まったく時間のことを忘れて見入ってしまった。久しぶりの味わい深い時間であった。

再婚を間近にひかえたアナ(ニコール・キッドマン)の前に1人の少年が現れる。彼は、アナの死んだ夫であると主張し、二人しか知らない事実を次々に語り始める。彼は、本当に死んだ夫の生まれ変わりなのか…。最初はイタズラだと思っていたアナの心は揺れはじめ、やがて……。

作品のストリーを語るのはこの程度にしておきたいが、永遠の愛を信じたいと思う人はけっこう多いだろう。けれども、それがはかない夢や幻想であると現実の恋愛の中で嫌と言うほど思い知らされる人もまた、それに劣らずたくさんいるに違いない。それでも、永遠の愛を信じたい。私自身も、時々そう思うことがある。だが、諸行無常は世の習い。その一瞬は永遠と感じる想いも、時として移ろい、消えてしまうこともある。それでも、永遠を感じる一瞬は、真実の想いなのだろう。

そして、輪廻転生。もう一度生まれ変わって愛する人の前に…というのはいかにもご都合主義だが、相手への想いが強ければ強いほどそう願わずにいられない部分もあるだろう。仏教的な考え方から見れば、それは悪い意味での執着につながりかねない想いでもある。しかし、それも含めて人間の強さであり、また弱さでもあるのだと思う。

そうした強さと弱さを抱えながら、人は生きていく。どうすることも出来ない想い、そして、いやそれゆえにお互いを支えようとする愛がある。それを信じて生きていきたい…そんな気持ちになったひとときであった。

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2006年9月 8日 (金)

仮面ライダーのすたるじい

子どもの頃、毎週テレビの前にかじりつき見ていた「仮面ライダー」……。そしてそろばん教室での待ち時間にむさぼるように読んでいた「仮面ライダー」……。その当時はそれ程意識していなかったが、今思い返してみると、テレビ版とマンガ版との作品世界は微妙に違っている。テレビ版、特にサボテグロンの襲来と仮面ライダー2号/一文字隼人の登場以降のシリーズではテンポのいいアクションとライダーのヒーロー性に魅せられて毎週見ていたが、マンガ版を後で読み返してみるとところどころに見える社会への視線が物語への深みを与えているのが理解できた。

なぜ、仮面ライダーは風をエネルギーとするのか、それは仮面ライダーが「自然」の使者でもあるからだ。そして、彼が戦い続けるショッカーとは……。例えば、マンガ版で出てくるコブラ男は、公害反対運動のリーダーたちの暗殺を行っている。高度経済成長期の社会の闇とアクセスしている存在、そうした面も持っているのだ。

そして、仮面ライダーがサイボーグであることの異人性も、マンガ版ではより強調されることになる。それは、激しい怒りを覚えると顔に改造手術の傷跡が浮かび上がるといった場面から象徴的に読み取ることができる。だからこそ、普通の人々との距離を感じざるを得ず、孤独を胸に戦い続けるのである。

しかし、テレビ版では、そうした部分を描ききれぬまま終わってしまったところがある。以降のシリーズにしてもヒーロー性を追及するあまり、社会への視線が弱かったのかなあ、と思う。もちろん、それゆえに繰り返し制作され、平成の今でも続くほどの大ヒット作品となったのだろう。それはそれで悪くはないのだが、マンガ版に描かれていた背景や異人性は、大人になった今でも充分に楽しめる深みを持っている。さすがに、平成の新しい仮面ライダーまでは見ていないが、時には古いビデオやフィギアの存在を楽しみたい今日この頃である。

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2006年9月 2日 (土)

愛しのメーテル

好きな映画を考えたときに、この数十年ベスト10から抜けずに不動の位置を誇るのが「銀河鉄道999」と「さよなら銀河鉄道999」である。最近は忙しくて見に行く回数が少なくなったが、映画はかなり映画館で見ている方なので、新しい映画の中でも良いものは良い。にも関わらず、この二つの999はすばらしい出来だと思っている。

999のシリーズは、雑誌・単行本・TV・映画、そして最近はインターネット連載までしているようなので、実に幅広いメディア展開となっている。そして、それぞれのメディアによって微妙に質感が違ってくるのだが……。

映画999について言えば、星野鉄郎の年齢設定がマンガやテレビよりも少し上げられていて、年齢感覚としても少年の成長と自立をメーテルとの間に流れる感情を絡ませながら見事に描ききっている。そして「銀河鉄道999」が母からの自立であり「さよなら銀河鉄道999」が父の存在を超えていくことにテーマ設定がなされているために、2つ併せて見るといろいろと考えさせてくれることが多い。

さらに両方の映画が「機械化人」という設定によって永遠の命と限りある命、すなわち生と死についても考えさせてくれる。限りある命だから、一瞬一瞬がかけがえのないものとなり、だからこそ命そのものを大切にしなければならない、という思いを何度見ても感じさせてくれるのである。

また、細かいシーンでも情感溢れるところが多い。「銀河鉄道999」のラストの別れのシーンでは、メーテルの唇の感触まで伝わってくるような映像になっている。母性の部分と恋人の部分をあわせもつメーテルの存在は作品全体にわたって大きな意味を持ってくるし、そうした意味でも、何度でも見たくなる映画である。

そう言えば、好きになった女たちの中で、髪の毛の長さと脚の線の美しさをあわせもつ割合はけっこう高いように思う。もしかするとメーテルの《悪影響》なのかも知れない。フィギアがあるとつい手を出してしまう(display collection 参照)ほどに、バツイチの今でもメーテルは好きである。

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2006年9月 1日 (金)

原作と映画

先週「ゲド戦記」を見に行った。最初は迷ったのだが、先月、挿入歌の「テルーの唄」を谷山浩子が作曲しているのを知り、急きょ見に行くことにしたものである。

原作を読んでいなかったので、映画としてはまあまあ楽しめた。けれども、多分、原作を読んでいたら不満に感じたのではないかと思う。ル=グインは高校生くらいの時に『辺境の惑星』というSF作品を読んでいて、当然『ゲド戦記』の存在も知っていた。けれども、長いのも知っていたので、なかなか読もうというところまではいかなかったのである。

原作と映画の関係では、本から先に入った場合は、読んだ時の自分の強い印象やイメージがあり、それが映像との間に距離を感じると幻滅することが時々ある。その最初の例は、中学時代に何度も熟読した新田次郎の『アラスカ物語』を高校時代に映画で見たときだった。思い入れが強かった分、映画を見た後「金を返せ!」と叫びたくなった。

原作との距離感で、どうも今ひとつ…と感じたのは「ネバー・エンディング・ストリー」などもそうである。やはり原作の『はてしない物語』の深さに映像が追いつけない…という感じであった。「百聞は一見にしかず」という諺があるが、視覚はイメージを固定する作用が強いので、原作の深みを表現しきれないと返って陳腐化してしまうのである。その意味では、同じエンデ原作の「モモ」はイメージを裏切らなかった作品であった。

逆に、原作は原作、映画は映画という感じでそれぞれ別の良さがあり、二重に楽しめたものもある。角野栄子原作の「魔女の宅急便」と宗田理原作の「ぼくらの七日間戦争」である。先に原作を読んでいたが、途中で思い切りよくストリー展開を変えてしまったので、それがそれぞれの面白さにつながったのではないかと思われる。

それでも、映画を見ることで、原作に触れてみようという気になる場合も少なくない。とりあえずは、『ゲド戦記』もほとぼりが冷めた頃にゆっくりと読んでみよう。

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2006年8月 3日 (木)

ウルトラセブンとアメリカ

子ども時代に夢中になった円谷プロダクション制作の特撮の1つに「ウルトラセブン」がある。その42話に「ノンマルトの使者」というものがあった。

海底開発のための基地が爆発する。その原因はノンマルトという海底にすむ人々が自らの生存権を確保しようとして基地を破壊したためであった。ところが、そのノンマルトは人類が地球に来る以前から住んでいた先住民で、人類が地球を侵略して定着し、侵略の記憶をなくした…という可能性が高まり、ウルトラセブンが怪獣を倒し、ウルトラ警備隊がノンマルトの海底都市を破壊して事件は終結する。

この話のシナリオを書いたのは沖縄出身のライター金城哲夫である。そして、沖縄の視点でこの物語を見ていくと、ノンマルトが沖縄人、人類が日本人、ウルトラ警備隊が自衛隊、そしてウルトラセブンがアメリカ軍の存在と重なってくるということを切通理作が『怪獣使いと少年』という本で指摘している。

その後「ウルトラセブン」はいくつかの新しいシリーズが作られたが、その中でセブンは人類を愛し、人類のために戦い続けた。けれども、「ノンマルトの使者」において怪獣と戦って人類を守ったウルトラセブンに重ねられたアメリカ軍はどうか。特に最近の動きは、自国の一部の人々や企業の利益のためにあちこちを脅し、武力を行使する侵略者の様相を強めているように見える。アメリカ軍ばかりではない。アメリカの押し付ける経済政策は他国の人々の安全や暮らしを脅かし、環境破壊に対する配慮もほとんどしないでいる。

その中で、実はアメリカの国民も様々な不利益を被っている事実は、マイケル・ムーアやチョムスキーなども指摘している。そうした行動が世界に不幸を撒き散らすばかりでなく、それほど遠くない将来において自らの首も絞めかねないことにアメリカの権力者は気付いているのだろうか。

そして一部の人々はアメリカがウルトラセブンのように無条件に日本を愛し、日本のために動いていないことに気付いている。けれども、政府・与党や官僚はどうか。それを知っていながら国民の財産や幸福をアメリカの一部の利益のために売り渡そうとしている【売国奴】なのだろうか。それとも、そんな事にすら気付かない無能な人間の集まりなのだろうか。

少なくとも私たちには「ウルトラセブン」はいない。とすれば、自らの手でしなければならないことがある。意見を発信していくこと、そして次の選挙での賢明な選択である。

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