2016年4月30日 (土)

卑怯な連中

小さい頃から、TVやマンガ、アニメが好きだった。仮面の忍者赤影、サイボーグ009、仮面ライダー、ウルトラマン、レインボーマン、キカイダー、マジンガーZ、ライディーン、キューティーハニー、月光仮面、ジャイアントロボ、バロム1……。少し考えるだけで数多くのタイトルが思い浮かぶ。そして、それらの作品にはたくさんのヒーローたちがいた。その一方で、ヒーローに敵対する悪の組織も存在した。金目教、ブラックゴースト、死ね死ね団、ショーカー、デストロン、ダーク、パンサークロー、サタンの爪、BF団、ギドロン……。様々な悪の組織があったが、そうした連中は様々な卑怯な行い、卑劣なことをして人々を苦しめ、社会を破壊した。嘘や不正、殺人、誘拐、破壊工作、テロ……。嘘をつくなど平気、弱い者いじめは当たり前、影に隠れて悪行の限りをつくし、私利私欲をむさぼる。子ども心にその行為の醜さを嫌悪した。そして、そうした行いをせぬようにと心に誓い、卑怯を嫌悪したものだった。
 
そうした意味において、たくさんのマンガやアニメ、特撮は私たちの道徳の先生ともなった。大人になって学校で生徒たちに教えたときに、「ウルトラセブン」や「帰ってきたウルトラマン」を見せて子どもたちに感想を書かせ、話し合いをさせるようなこともした。教科書を説明するよりも熱心に文章を書き、真剣に発言する子どもたちの姿があった。
 
だが、最近の社会を見ていると、卑怯な連中が幅をきかしている姿が目に余る。公約というものは破るのが当たり前と考えている政府与党。政治献金をなくすための政党助成金をもらいながら政治献金を受け取るなど卑怯千万である。丁寧に説明すると言いながら審議に応じなかったり、重要事項を隠した真っ黒な資料を渡して審議そのものを妨害するような行為もあった。今回の熊本周辺の震災に関わっても、何故か鹿児島県の震度が出てこない。距離的に見れば明らかに情報の隠蔽であろう。また、パナマ文書で「合法的」…というよりも法律の不備をついて税金逃れをする一方で減税を求める財界。これも卑怯で不誠実な行動である。
 
このように見てみると、フィクションであった悪の組織が社会のあちこちで実体化しているかのようである。しかし、現実の社会にはウルトラマンも仮面ライダーもそんざいしない。私たち一人ひとりが卑怯を許さない態度を貫く必要がある。

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2014年10月31日 (金)

大魔神怒る

大映特撮の大魔神シリーズの2作目、「大魔神怒る」を見た。「大魔神」「大魔神逆襲」は以前見た記憶はあるが、この「大魔神怒る」は記憶がない。大学時代はレポートの参考文献を借りに来た友人にすべてカバーをかけていた本棚の何段目の何冊目のどの本の何ページごろに書いてある…とまで言えた記憶力も今は昔のこと、1年に1曲くらいしか新しい歌が覚えられない今の記憶力を考えれば、もしかすると見たことがあるのかも知れないのだが、とにかく覚えがない。その意味では、楽しみながら見ることが出来た。
さて、大魔神シリーズは、だいたい、穏やかで優しい領主の治める領地を悪逆非道な連中が奪い、領民たちに悪政を布いて苦しめるが、やがて傲りから神をも恐れぬふるまいをして怒りを買い、最後は大魔神の手で殺され、人々は救われる…というパターンで終わる。大魔神が葵の印籠に変われば、「水戸黄門」とよく似たストリー展開であり、非道の悪人どもが手ひどいしっぺ返しをくらって滅びていく様は爽快感もあり、安心して見ていられる。ある意味では、この「大魔神怒る」が、その1作目の「大魔神」や3作目の「大魔神逆襲」よりもその傾向がもっとも明確に出ている作品かも知れない。
平和な八雲の湖の両岸にある千草と名越の支配する領国は平和で、圧政から逃れてきた農民たちを千草の領主は税を免除して悔恨に当たらせている。その恩義に少しでも報いたいと、開墾地の人々は米を出し合って「納めさせてくれ」と懇願する。現代の北欧の選挙でも、増税を掲げて社会保障の再編を公約した党が選挙に勝利をして政権を取った例があるが、増税とは本来、そうした形で行うべきものだろう。
侵略者・御子柴弾正は、圧政を重ね、最後には人々の信仰する神の像を火薬で破壊してしまう。が、そうした行為が神の怒りに触れ、大波と強風によってからみついた縄で張付けられたように身動きが取れなくなって、雷と炎の中で絶命する。悪は滅びるのである。
さて、嘘とゴマカシで、どこかの国のインチキ政権が、増税や危険な原発の再稼働、米軍基地の沖縄集中を継続、福祉の縮小と時代遅れの軍国主義の復活を目論んで暴走している。けれども、今の日本の社会に、悪を滅ぼす大魔神はいない。

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2014年7月31日 (木)

女性が先に死ぬ物語

ジブリの「風立ちぬ」のDVDを見た。主人公の堀越二郎の婚約者菜穂子は、途中、結核で亡くなる。主人公に恋人がいて、物語が進み、どちらか一方が亡くなってしまう時、亡くなるのは女性であるケースはかなり多い。
それを最初に意識したのは、新井素子の小説『グリーン・レクイエム』の明日香だった。他にも立原あゆみの『本気!』の久美子やアニメ『さらば宇宙戦艦ヤマト』の森雪やマンガ『ピグマリオ』のオリエ、マンガ・アニメ・映画の『デビルマン』の美樹などもそうである。恋人ではないが『ポーの一族』でもメリーベルは兄のエドガーよりも早く消滅してしまう。ざっと部屋を見渡しただけでも、これだけの女性が先に死ぬ物語がある。
逆に、男性が先に死ぬ物語は、というとなかなか思い当たらない。せいぜい『銀河英雄伝説』でラインハルトやヤン・ウェンリーがヒルダやフレデリカよりにも先に死ぬのを思い出した程度である。それくらい、男性が先に死ぬ物語は少ない、ということなのだろうか。
だが、現実はどうか。生物学的には女性の方が生命力は強いようである。平均寿命も、だいたい、女性の方が長い。夫婦でも、女性が年下であることが多いのもあって女性の方が男性よりも早くなくなる場合は少ない。どうも物語の傾向と現実は正反対だと言えそうである。

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2014年6月19日 (木)

世界の果ての通学路

先週末、カウンセリングの後が久々に空いていたので、伊勢市内にある小さな映画館に出かけた。進富座は、派手にTVなどで宣伝される映画はあまり持ってこないが、色々な国の良質の映画をよく持ってくる。伊勢や津に出かけた時に、ぽっかり数時間開いたりすると、上映時間だけ確認して(つまり、映画そのものを確認せずに)出かけても、「外れだった」と思ったことは1度もない。今回はさすがに映画の題名は確認して出かけたのだが、なかなか心にしみるドキュメントだった。
On The Way To School…世界の果ての通学路(邦題)フランスのパスカル・プリッソン監督の手によるドキュメンタリー映画だ。ケニヤ、インド、モロッコ、アルゼンチンの4つの国の子どもたちが、片道4km~22kmの道のりを1時間15分から4時間をかけて通うところを映している。
中学校の頃、片道1.5km弱の道のりを15分ほど歩いて通っていたが、舗装された道を鞄を持って通っただけであり、途中で象に襲われる危険もなかったし、兄弟の車いすを押していたわけでもなく、落石や滑り落ちる危険もない。幼い妹の落馬を警戒しながら馬を操って山や荒れ地を走る訳でもない。通学距離としては自分の学年でも長い方だったが、この子たちに比べたら、比較にならないくらい楽な通学だった。
逆に言えば、子どもたちは様々な困難のある長い通学路を長い時間かけて毎朝学校に通っている。子どもたちはもちろん、家族のみんなもそうした苦難を超えて学校に通うことに大きな意味を感じていて、夢に向かって進む子どもたちを応援している。
ただ、淡々と子どもたちが通学をする姿を追っている映画なのだが、子どもたちのひたむきな姿と困難を前にして乗り越えていく知恵にすがすがしさを感じる素敵な映画だった。

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2011年10月13日 (木)

100,000年後の安全

久しぶりに映画館に足を運んだ。見たのはドキュメンタリー映画【100,000年後の安全】。フィンランドに作られている世界最初の放射性廃棄物最終処分場の映像とその関係者へのインタビューをまとめた映画である。原子力発電所を稼動させれば、必ず、放射性廃棄物が出てしまう。兵器を含め、人類が原子力エネルギーの利用に手を付け始めてから半世紀以上が経つ。が、放射性廃棄物の最終処分場の第一号が、アメリカでもフランスでもイギリスでもなく、フィンランドに、第二次世界大戦が終わって半世紀以上経った今、ようやく作られているという事実。呆れると共に恐ろしい事である。
 

東日本大震災の後の福島原発の事故。その大惨事の後でも、電力会社や大企業、政府の中には原発を推進しようとする連中がいる。連中は、原発が最も経済効率が良いとうそぶくが、事故が起きた時の被害と保障の大きさや廃棄物の処理にかかる研究や実費はそのコスト計算の中には入っていない。実は、それをプラスすれば原発の発電コストは跳ね上がり、とても効率が良いとは言えない。加えて、現在の日本の技術の総力を上げてもフィンランドほど安全な処分場は作れないのである。
 

放射能廃棄物が人体や他の生物に害を及ぼさなくなるまで最低でも10万年が必要という試算の元、オンカロと呼ばれるフィンランドの最終処分場は作られている。ロケットで太陽に廃棄物を打ち上げるとしても打ち上げの際に事故が起これば大惨事になる。海底に沈めても海が汚染される可能性を0には出来ない。だから、安定した地層の奥深くに何重にも密閉して埋める。2,100年にはこの処分場の入口をもコンクリートで密閉してしまうという。
 

だが、日本では同じ事は出来ない。環太平洋造山帯の上にあり、地震や火山活動の頻発する日本には10万年以上も安定しているような地層・土地は考えられないからである。それでも、日本の原子力発電所は止まらず、稼動を続けている。という事は、放射性廃棄物が、今、この瞬間にも作られ続けているという事である。そしてその多くは原発の近くに保管されていたりする。直下型地震が原発を襲ったら…、あるいはテロ攻撃やミサイル攻撃のターゲートとして原発を狙われたら…。3.11フクシマ以上の甚大な被害が生じる可能性は高い。
 

実際の現地の映像と関係者へのインタビューだけで構成されたこの映画はとても地味なドキュメンタリーである。けれども、そこに見える現実は、深く重い。

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2011年8月 1日 (月)

映画「コクリコ坂から」と宮崎吾朗監督

月末に、久しぶりに映画を見に行った。ジブリのアニメ「コクリコ坂から」である。宮崎駿ではなく息子の吾朗が監督ということで最初は迷っていたのだが、主題歌がかつて森山良子が歌っていた「さよならの夏」だったので、その懐かしさに惹かれて行くことにした。

ジブリのアニメはけっこう見ているのだが、「ゲド戦記」については宮崎吾朗監督の強い思い入れがマイナスに作用したというような印象で、「金を返せ」というほどの駄作ではなかったが、掘り下げが甘く、あれでは原作者のグインは怒るだろう、と思った。ちょうど、映画「ネバー・エンディング・ストリー」を見た「果てしない物語」の作者エンデが怒ったと伝えられる話と共通するような感じである。ただ、「ゲド戦記」で使われた歌を宮崎吾朗が作詞していて、その詞を見る限りでは、彼の創作者としての繊細な部分は感じられた。それをうまく活かせるような作品に仕上がっていれば…という期待もあった。

そして、実際に見て、なかなか満足のいく映画だ、という感想を持った。「ゲド戦記」では詞にしか感じられなかった繊細な部分が作品の随所にちりばめられていた。この仕上がりを見て同じくジブリ・アニメではあるが宮崎駿が監督ではなく夭折した若手が作った映画「耳をすませば」を思い出した。

時は1960年代前半、女子高校生のスカートの丈は膝下で、高校2年生の主人公の海は1人で弟や妹、祖母といった家族ばかりでなく、下宿の住人たちの朝食や夕食の準備をしている。ガスコンロに火を点けてご飯を炊き、おかずを作り、妹たちを起こし…。かつては目にしていた「あたり前の日常風景」を見かけることは今はない。けれども、そうした何気ないシーンが丁寧に作られていることが物語に深みを持たせ、抑え気味の台詞の中に込められた登場人物たちそれぞれの思いが胸を打つ。

出会いと共に過す時間の中で感じるときめきや育まれる想い、そして「出生の秘密」に揺れる恋。懐かしさを感じる街の風景や人々の動き、高校生たちのまっすぐな思いと行動…それらの1つひとつが心の琴線を揺らす。その中で、ああ宮崎吾朗もこれだけの力を持っていたんだ、という思いも抱いた。「ゲド戦記」の歌詞に感じた豊かな感受性は、やはり本物だったのだと。映画館でもう一度…とまでの切実さはないが、もう一度見てみたい映画である。

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2011年6月19日 (日)

「アバター」と「もののけ姫」

先日、借りてきた「アバター」のDVDを見た。上映当時の鳴り物入りでの宣伝を覚えていたのであまり期待していなかったのだが、けっこう楽しむことができた。そして、見終わった後、「もののけ姫」を思いだした。

近代西洋の意識では「自然」とは征服するものだが、日本神話などの多神教の世界では「自然」とは、本来は畏怖し共存を願うものだった。だが、人間の活動が広がる中で欲望が拡大し、森を切り開き、自然と神々の世界を侵犯しようとする。「もののけ姫」では鉄と薪だったか、「アバター」ではレアメタルという違いはあっても、その構造は共通している。そして、欲望に駆られた人々が、かけがえのないものを破壊していくのである。

ただ、結末は少し異なっていた。「もののけ姫」では大きな矛盾を抱えながらも生きようとする。共存は困難かもしれないが…という含みを持たせながらの灰色決着である。一方、「アバター」では徹底的に敵と対決し、相手が死ぬまで戦いは終わらない。白か黒かの決着となる。見た時は多少はすっきりするにしろ、そんな決着の付け方では問題は絶対に解決しないだろうと思う。ただ、その辺りに欧米の文化的な背景や無意識と、日本の文化的な背景や無意識が感じられる。

そんなことをちょっと考えてしまった。

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2011年4月29日 (金)

「がんばれ日本」への違和感

震災後、テレビをつけていると「がんばれ日本」という言葉が目につく。未曾有の大災害の後、それでも生き、復興を目指すためには確かにがんばることは大切なのだが、一方で、被災者の方々、現場でそれこそ命懸けで働く技術者や作業員、自衛隊や外国からの支援の方々、ボランティアの方々は十分にがんばっていると感じられる。仲の良い友人の中にも、この連休を利用してボランティアに行こうと動いている者もいる。それは、すばらしいことだと思う。

だが、その一方で、政府首脳や東電の経営陣たちの「がんばり」はほとんど伝わってこない。それこそ現地の人々や一般の国民に「がんばれ」を押付けて、自らは責任回避に動いているようにしか見えない。これは、いかがなものだろうか。

これだけの大災害である。どのように動いても、批判は必ず出る。それはある程度仕方のないことである。それでも、その中で少しでも早くしかも被災者の方々の生活の立て直しの支援体制をどれだけ整えられるかが大切である。

私自身、それなりに歳をとっているので、阪神淡路大震災の記憶はある。被災地域は今回ほどの広範囲ではなかったし原発事故もなかったが、親戚や交流の深かった先生なども神戸住んでいたので後で話も聞いた。当然、村山政権への不満や批判も耳に入ったが、今回の政府や東電のトップの対応と比較して、ずっと真剣さは勝っていたなあ、と感じている。

現地の人々は、十分にがんばっている。それは、遠く離れていても十分に伝わってくる。その人たちに対して、これ以上「がんばれ」という言葉はとても言えない。けれども、もっとがんばらなければならない人がいる。その人たちの責任を「がんばれ日本」の言葉の中にうずめ、ごまかしてしまってはいけない。責任回避に走っている連中よ、あなたたちこそがんばれ !! そして、ごまかすな !! 「がんばれ日本」の言葉に接する度に、そんなことを感じる今日この頃である。

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2010年11月 1日 (月)

ダブルライダーの遺言状…仮面ライダーV3より

台風の影響でいくつかの予定が中止になり、思いがけず週末をゆっくり過ごすことが出来た。そこで、久しぶりに『仮面ライダーSpirits』『新 仮面ライダーSpirits』を通して読んでしまった。そうしたら、仮面ライダーV3が見たくなり、1話と2話を見た。V3は2話で物語に1つの区切りがつく形がけっこう多いが、第1話と2話が敵の新組織デストロンの登場と仮面ライダーV3の誕生から最初の戦いを描いている。V3の第1話は1973年2月17日に放映された「ライダー3号 その名はV3」であり、それの続編が翌週放映の「ダブルライダーの遺言状」である。この2話は映画用に編集され、映画館でも上映されている。

本郷猛と一文字隼人のWライダーは、ゲルショッカーの大幹部ブラック将軍を倒し、ショッカーの首領にも肉薄して倒し、ゲルショッカーは滅びた。ところが、倒したと思われていた首領は実は生きており、新たな悪の組織デストロンを組織し、暗躍を始めた。その目撃者である珠純子を助けて家にかくまった風見志郎は、そのためにデストロンの改造人間ハサミジャガーに両親と妹を殺されてしまう。志郎は、最初、復讐のために自分を改造してくれるようにWライダーに頼むが、復讐には手を貸せないと断られる。

デストロンは、Wライダーの抹殺と東京の壊滅のためにハサミジャガーとカメバズーカを暗躍させ、Wライダーを絶体絶命の危機に追い詰める。その時、風見志郎が現れて2人を助けるが、その時に瀕死の重傷を負ってしまう。Wライダーは風見志郎の命を救うために彼を改造することを決意する。その手術が終わったその時、カメバズーカの砲撃が3人を襲うがWライダーは脱出に成功し、志郎もV3として立ち上がる。ここまでが第1話である。

続く第2話は、ハサミジャガーの暗躍を追って風見志郎が動き出すが、志郎はV3としての自分の能力を把握しておらず、手探りの戦いが続く。V3をハサミジャガーがひきつけている間に、カメバズーカによる東京で原爆を爆発させる計画が着々と進められていく。戦闘中のハサミジャガーの言葉によってそれを知ったV3は、ライダー同士の超能力でそれをWライダーにそれを伝え、本郷ライダーと一文字ライダーがサイクロンを駆って新宿のカメバズーカのもとへと急行する。原爆はカメバズーカの体内にあり、タイムリミットが迫るが、Wライダーはカメバズーカの砲撃に阻まれ、なかなか近づけない。

爆発まで1分と迫ったその時、Wライダーは一瞬の隙をついてエネルギーを放出し、カメバズーカの動きを止めると、東京を離れ海の彼方へとカメバズーカを運んでいく。それは、V3という後継者を得たが故の決断だった。ハサミジャガーを倒し駆けつけたV3の視界の彼方で原爆は爆発し、Wライダーの最後の言葉がV3に届く。V3はWライダーの正義の意志を受け継ぎ、デストロンと戦い続ける決意を新たにするのである。

「仮面ライダー」や「仮面ライダーV3」は、ストリー展開としては強引でツッコミどころもけっこうあるのだが、そのアクションの迫力は、今のきれいで洗練された映像を遥かに凌ぐ。それはアクションを担当した大野剣友会の力が大きいのだろうが、V3の1,2話については、ストリー的にもけっこう納得できる仕上がりとなっている。新しいスタートということで、製作者の側にも気合と力が入ったことが出来上がった作品にも反映されているのだろう。

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2010年8月15日 (日)

映画「ビルマの竪琴」と〈埴生の宿〉

終戦記念日の前後になると、よく「ビルマの竪琴」を見る。平和への祈りを感じさせてくれる映画だからだ。この物語の前提の1つは、たまたま水島上等兵のいた部隊の隊長が音楽学校の出で、隊員たちが日常的に合唱をしていたことだが、もう1つ、スコットランド民謡が数多く日本の唱歌に取り入れられていたこともある。その2つの前提で、特に映画の様々な場面で重要な役割を果たす歌が〈埴生の宿〉である。

水島の属する部隊が映画の中で歌っていた歌をリストアップすると、〈旅愁〉〈おぼろ月夜〉〈嗚呼玉杯に花うけて〉〈埴生の宿〉〈椰子の実〉〈荒城の月〉〈箱根八里〉…(登場順)である。一方で、日本でもよく歌われたスコットランド民謡と言えば〔埴生の宿〕〔庭の千草〕〔蛍の光〕〔故郷の空〕〔ダニー・ボーイ〕〔グリーンスリーヴス〕〔春の日の花と輝く〕といったあたりだろう。その中で【埴生の宿】は特に望郷の思いを感じさせる歌であるがゆえに隊でもよく歌われたのだろうし、またその歌が聞こえてきたからこそイギリス軍としても話し合いの余地があるということで戦闘が回避されるというストリーの流れになったのだろう。

そして、水島が1人、戦闘回避の説得の任務を果たすべく隊から別れ傷を負って行方不明になったあと、彼が現地の少年に教えた独特の竪琴の奏法が隊長や隊員たちに水島の生存を確信させるにいたったのも【埴生の宿】がきっかけだった。さらに水島が別れの挨拶に代えて「仰げば尊し」を弾く前に、隊のメンバーの合唱に合わせて思わず竪琴をとってしまう場面でも、きっかけになったのは【埴生の宿】だった。

今年は、そんなことを考えながら「ビルマの竪琴」を見ていた。戦後65年。けれども、まだ多くの問題が残されている。それらが、1日も早く解決することを願って、今年も、鎮魂の祈りを捧げたい。

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