2007年5月14日 (月)

『怒らないこと』を読む

最近の日本社会を見ていると〈怒り〉が蔓延しているように感じられることがある。すぐキレル若者や中学生・高校生……。大人たちも少しのことで声を荒げる。そして、幼児虐待や暴力……。いったい、どうしてこうなってしまったのだろうか。

 

基本的に、人々の心に余裕やゆとりが失われつつあると感じる場面は多い。そうした背景の中で、「怒り」や「暴力」がことさら目に付くのかもしれない。

 

仕事やボランティアで教育相談などにも関わっていることもあり、ここ数年、心のゆとりや安定について考える機会は多い。そんな中で、一時期はキリスト教との比較の目的で読んでいた仏教関係の書物に再び目を通したり、新しい本を買ったりすることが多くなった。この本も、そうした流れの中で手に取った1冊である。

著者のアルボムッレ・スマナサーラはスリランカのテーラワーダ仏教の長老であり、NHK教育テレビの「こころの時代」などにも出演しているらしい。タイやスリランカなどは、東アジアの大乗仏教圏とは異なり、上座仏教圏に属している。上座仏教は、同じ仏教でも、一般の日本人の知る「仏教」とは違っていることも少なくない。けれども、ブッダが創始した頃の言動をまとめた経典を基にしていることもあり、その言葉にはいろいろと心惹かれるものは多い。

 

さて、《怒り》についてだが、個人的にはもう何年も、心の底から怒りを覚え感情のコントロールも出来なくなって暴走したというような経験はほとんどない。自分の心を見つめ、相手の思いや感情の流れ、立場などを理解してしまうと、なかなか心の底から怒れなくなってしまう…という事情による。

 

だが、一般的にそのような人間は少数派である。身近な人間関係の中でも、すぐ怒る人たちはそれなりにいるからである。

しかし、この著者のいう《怒り》は、嫉妬や反抗、後悔なども《怒り》と密接に関連しているということなので、ほとんどの人がその範疇に関わってしまうだろう。もちろん、私もそうである。

著者に言わせれば、確かに様々な怒りたくなる状況はあっても、その中で敢えて「怒らない」という選択をすることで、心の平安は保たれる……ということになるらしい。

確かに、怒らなければ、嫉妬や後悔などをしなければ、心は平安に保たれるだろう…という感覚は持っている。ある意味では、《怒り》はそれを引き起こしたものに対する執着の裏返しだからである。ものも人も、様々な関係も、すべては変わり変遷していく。だから、「かわらないもの」を信じ、それに執着することはある意味では愚かで、不幸なことなのである。

けれども、執着の背後には人間の欲望があり、そして人間の欲望こそ資本主義経済に欠くことのできない大切なものでもある。CMなどを見ても分かるように、企業は、欲望を刺激することによって、必要不可欠でないものでも買わそうとするが、ものやサービスの売り買いという経済活動によって人々は収入を得て、生計を支えているからである。

しかし、過剰な欲望は、自分自身ばかりでなく周りをも追い詰め、破壊していく。それを考えれば、欲望を消し去ることが出来ないまでも、ある程度制御するような知恵は欲望にまみれた現代人にも確かに必要である。

その知恵が、ブッダの言葉にはある。そのすべてを理解し、実行することは不可能かもしれないが、今の自分にでも、何とかできそうなことはある。

 

自分を見つめ直し、世の中を見つめ直すための指針の1つとして、ぜひ手元においておきたい本である。               〔完〕

【TEXT】

  『怒らないこと』

  A・スマナサーラ 作 2006年  サンガ新書

 

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2007年5月 2日 (水)

『羞恥心はどこへ消えた?』を読む

ジベタリアン、車内化粧など、高校生を見ていて目に入る行動が書かれてある帯を見て手に取ったのがこの本との出会いだった。実際に、二つほどの高校の講師をした経験からすれば、そうした行動が《今までの常識》とは大きくかけ離れている(と、少なくとも教師をはじめとする多くの大人は見ている)ことは理解できる。が、その一方で、高校生の側も、それほどの悪意や考えもなくやっている行動であることも感じられた。そのギャップを理論的に埋めてくれたのがこの本である。

 

大学時代に教育社会学を専攻した経験から、社会学的なフィールド調査やその論的な展開はある程度理解できる。その意味では、本の中に出てくる豊富な実例には、「多分、けっこう回答者も答え難いだろうに、よく調べたなあ」と感心させられた。

 

さて、若い世代の「気になる行動」についての問題だが、それを読み解くキーワードは「関係性」である。羞恥心の問題は、実は他者との関係性の維持や修復などと深く関わっており、それはベネディクトによって「恥の文化」という分析をされた日本以外の欧米や他のアジア文化圏にも共通するものである。

 

関係性の視点から身の周りの現実を見つめ直してみると、「大切な他者」と「関係ない他者」の存在感が浮かび上がってくる。そして、それぞれとの関係をどうしていくのか、という問題で、実は「気になる行動」をしている若い世代ばかりでなく大人たちもけっこう悩んでいる人々が少なくないのである。

 

心に余裕のある人間は、「関係ない他者」であっても、困っていれば救いの手を差し延べることができる。が、その余裕がなければ、「関係ない他者」は無視するか攻撃するかの行動に出ることが少なくない。ジベタリアンや車内化粧などは、その意味では前者であると言えよう。

 

この辺りまでは、著者である菅原の分析を私なりに理解したものをまとめた形だが、その視点をさらに自分なりに広げてみると、少しばかり背筋が寒くなるようなものが見えてくる。例えば、アメリカのイラク侵略や小泉政権の国民生活破壊政策、そして安倍政権の口先政策などがそれである。

 

アメリカ人民の意識はともかく、ブッシュ政権やアメリカの石油メジャーにとってイラク国民は「関係ない他者」に過ぎず、彼らがどんなに苦しんでも自分達さえ金が儲かれば良いからこそ、「関係ない世界各国の政府や民衆」の反対を無視して侵略行為を進めることが出来たのだろう。

 

ただ、日本をはじめとする「同盟国」を巻き込んだのは、さすがにブッシュ政権だけで嘘で塗り固めた侵略戦争を進められるほど厚顔無恥ではなかったということかも知れない。その意味では、ポチ小泉も負けてはいない。論理的にも実証的にも破綻している「非戦闘地域」という言い逃れによって「関係ない他者」である自衛隊を、ロケット弾が飛び、旅行者が誘拐されたり殺されたりする危険な戦場へと送り込んで開き直っていたのだから……。

小泉政権から安倍政権へとつながる日本の政治状況については、外交ばかりでなく内政も非常に悪質な展開になっている。小泉「改革」も、年金制度や地方の郵便システムや、一般の人々の生活が壊滅的な打撃を受け、「関係ない他者である国民」が苦しみ、不便になっても、自分達は痛みを感じずに「豊か」な生活ができるからこそ、国民生活破壊の政策を臆面もなく続けられたのに違いない。安倍政権の強行採決の連続による暴走に至ってはもはやコメントにすら値しない。政治家としての矜持と羞恥心があるのなら、衆議院を解散して信を問うべきことを、その自信がないから、ゴマカシを続けながら民意を無視して、数の暴力を使えるうちに、可能な限り国民主権破壊の政策を強行しようというものである。

 

だが、少なくとも我々は、そのような人間でありたくないし、そんな人間にはなりたくない。多少苦しくても、「関係ない他者」にも手を差し延べられる心の余裕と人間としての優しさを持ち続けていきたいと思う。 〔完〕

【TEXT】

  『羞恥心はどこへ消えた?』

  菅原健介 作  2005年  光文社新書

 

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2007年4月29日 (日)

『なんとなく、日本人』を読む

この本は、対米売国小泉「改革」によって日本社会の持っていたセーフティ・ネットが次々と壊され、「改革」の欺瞞や英米式「グローバル・スタンダード」の嘘が、強力なメディア・コントロール(あるいはメディアの自殺)にも関わらず、徐々に見え始めた昨今の政治・経済情勢の中で、色々と納得できる提言も書かれているけっこう面白い「日本人論」である。

 

例えば、日本語そのものの特性からのアプローチは、外国人のための日本語教育に関わる立場からも非常に納得できる記述があり、楽しいばかりでなく興味深く読むことが出来た。また、若い世代に対する分析も、表面的な差異に目を奪われずに、歴史的な事実とも比較しながら見ていく語り口には納得できることが多かった。

 

そうした記述も楽しかったが、何よりも興味深く読むことが出来たのは「場」という視点だった。

以前、フレネ教育研究会のレポートで何度か「場」の問題を取り上げたことがあったが、教育の現場にあっても、安定したお互いの共感が成立する「場」が形成されていれば、学習、精神の安定や自立、成長の面で大きな効果が上がることを指摘したものだった。この著者の分析は、教育の場ではなく社会や製造の現場でのことを取り上げているのだが、その分析や指摘は、私自身の考えていたことと共通する部分を多く持っているように感じられた。

 

この「場」との関わりでおもしろかったのは、「自我」の問題である。

著者は「自我」を「場」との深い関わりの中で安定する「日本的自我」と「西洋的自我」(旧来の意味での「自我」)を対比させ、必ずしも「西洋的自我」を「確立」させなければならない必然性があるのか、という主張を展開している。

私自身も自我の確立については自分自身もけっこう悩んだし、また教育相談などの現場でも問題とせざるを得ない場面を何度も経験した関係上深く考えてきた方だが、個人的には、「自我を確立し、さらにその自我さえも自由自在に捨てられるようになる事が理想ではないか」と考えていた。が、「自我」そのものが実は「西洋的自我」であり、日本では日本の歴史的背景や社会の状況にあった「日本的自我」の確立で良いし、「西洋的自我」の特徴や発想を理解した上でならば、真の意味でのグローバル化にもプラスになる、という考えにはけっこううなずけるものがあった。

自分の属する「場」での安定が「日本的自我」の安定につながり、それが能力を発揮させたり開花させたりすることにつながっていく。またそればかりでなく、それがお互いの共感を育て豊かにしていくのであれば、そうした面は大切にしていくことが、確かにグローバル化の進展という歩みの中でも大切になるだろう。けれども、「個」の弱さは、ある意味では弱点にもつながりかねない部分を持っている事もまた事実である。要は、それぞれの違い・長所・欠点を意識しながら付き合っていくしかないし、それさえきちんと出来れば、グローバル化の中でもやっていけると思われる。これは、ある意味では今後の方向性をも示唆してくれている本だといえよう。

ただ、具体的にはセーフティー・ネットをどのような形で再構築し、様々な「場」での安定性を回復していくかが政治的にも経済的にも社会的にも大きな課題となってくる。外国人労働者や移民に関しての考えでは相違点もあるが、当面の課題は大いに共感できる形でまとめられている。

一市民の立場として出来ることは少ないにしても、読んでいて希望が膨らんでくる一冊であったと思う。            〔完〕

 【TEXT】

  『なんとなく、日本人』

        小笠原 泰 作 

            2006年  PHP新書

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2007年4月28日 (土)

『オニババ化する女たち』を読む

そのショッキングな表題と「女性の身体性を取り戻す」という副題に興味をそそられてこの本を購入したのは2004年の秋のことだった。

 

私の、どこか不純な期待は完全に裏切られたが、それ以上におもしろく、興味ぶかく、そして考えさせる内容だったので、仕事が詰まっている時期であるにも関わらず、この本を読み終わるまで数日とはかからなかった。そして、読み終わった後、妻を大切にして幸せな生活を育もう、そして子どもを産んでもらう時には、可能であれば病院ではなく助産婦さんに頼みたいものだ……などという訳のわからない結論に達してしまった。

 

そうした意味では、期待を裏切る非常におもしろい1冊であり、この本に出会えたことを心から感謝したいと思う。

 

詳しい内容を要約するつもりはないし、それはぜひ自分自身で確かめてもらった方が良いと思うが、これを読みながら感じたり考えたりしたことを述べてみよう。

 

この本では女性の「身体性」について生理や妊娠やセックス、出産などを手がかりにしながら作者の国際協力活動の体験を通して得られた知識や実感を交えて色々な視点から記述してある。

 

そうした「女性の身体性」については女でも両性具有でもない以上、実際に体験し実感する事は不可能だが、「身体性」については、それなりに自分の体験からも何となく頷ける部分がある。

 

実は、私のマッサージには隠れファンがけっこういて、元妻はもちろん、行きつけの飲み屋などでも時々マッサージをする羽目になることが少なからずある。その際に、指先で身体に触れていると、硬くなっていたり熱を持っていたりするところがある。そこは、大抵悪いところなので、「今日はここが悪いね」などと言いながらソフトにその辺りをほぐしていく。

 

ある関西で活躍している友人のベーシストなどは「マッサージは力まかせみたいなとこが嫌いやで行かんけど、拓さんにしてもらうのは気持ちええわ」などと言いながら商売道具の肩を揉ませる。自分自身についてでも偏頭痛や歯痛の時にちょっと熱を持った部分を押さえることで楽になったりする。その際のポイントは接している指先の触感であろう。微妙な温度や硬さの違いが「異常」を教えてくれるのである。

 

この本で述べられているいくつかの例、例えば月経血のコントロール能力なども、かつての女性が自らの身体についての鋭い感覚や自覚によって支えられたものであり、そうした身体感覚を日常生活や地域社会、文化的な面が包み込み大切にしていたことを示してくれている。もちろん、過去の制度や文化には影の部分もあった訳だが、現代の「グローバル化資本主義経済」のように経済効率の観点だけで全てを考え、制度として「女性の身体性」を侵害していくといったような現実はなかった。

 

なぜ、生理中でも通常と同じように働かなければならないのか。少子化の不安を煽りながら、子どもを産み育てることへの支援が遅々として進まないのはなぜなのか。病院での出産によって会陰部切開が増加したのは身体への侵略ではないのか…。

 

女性の人権を口にしても、そうした部分での現実的な後退は、「グローバル化資本主義」の矛盾と虚偽性・陰湿性を浮き上がらせる。「グローバル化」は、その名のもとに様々な「地域」と独自の「風俗・文化」を侵略し、【効率性】によって破壊していったのである。

 

身体性への着目は、自然や人間性を大切にすることにもつながっていく。普通に働き、普通に身体を大切にして、普通に休んで、それでいて普通に暮らしていける文化を私たちは地球のいたるところで持っていたはずである。贅沢はいらない。それを取り戻したいと私は思う。               〔完〕

      

【TEXT】

 『オニババ化する女たち』…女性の身体性を取り戻す

   三砂ちづる 作  2004年  光文社新書

 

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2007年4月23日 (月)

『ぼちぼちいこか』を読む

大学時代、友人の1人から紹介され、今も手元にある1冊の絵本がある。マイク=セイラー作/ロバート=グロスマン絵の『ぼちぼちいこか』というわずか32ページの本である。

 

物語はいたって簡単で、主人公のカバくんが消防士や船乗り、パイロットやピアニストなど様々な職業にチャレンジするのだが、身体の大きさや重さ、微妙な力のコントロールが出来ない事などが原因ですべてに失敗し、ひとやすみをしよう……という流れになっている。今江祥智の関西弁の訳とやわらかな色彩で描かれたカバくんの何ともいえないユーモラスな表情が絶妙で、何度読んでも楽しいし、また、読み終わった後、ほのぼのとした気分になれる本である。

 

その名訳の一部を紹介してみよう。原作本では、「NO」がだんだん大きくなっていくという話だが、「…なれるやろか」―「なれへんかったわ」・「…どうやろか」―「どうもこうもあらへん」・「…になるちからは」―「ありすぎやったな」・「…てをだしてみたら」―「てがでえへんやんか」といった具合に変化していく。それが、グロスマンの絵と訳とは思えないほどマッチして、何度読んでも、ページをめくる度に笑みが零れてしまう。

 

それでも、失敗を繰り返しながらも次々と新しい事にチャレンジするカバくんの姿は微笑ましいし、失敗続きでも落ち込まず、「ま、ぼちぼちいこか」とハンモックでひとやすみを決め込むカバくんにほんのりと温かいものを感じてしまうのはどうやら私1人ではないらしい。

 

大人が手にすれば「癒し系」という事になるだろうが、もちろんこの本を手にした子どもにも人気があるようで、甥や姪が小さい頃に買い与えたら、プレゼントした事を後悔する程、何度も何度も「読んで」と言って近寄って来たし、自分で字が読めるようになっても、時々、思い出したように手にしていたのを記憶している。

 

いずれにしろ、大人にとっても子どもにとっても「良い本」には違いないのだが、最近の日本の世相を見ていると、心のために「必要な本」となりつつあるのではないか……という思いにとらわれる事がある。不況が長引く中、多くの人が職を探し、不安定な労働環境の中で苦しんだ。最近は、多少改善されつつあるが特に若い世代はまだまだ非正規雇用が少なくない……というような話も耳にする。就職ばかりでなく学校や年金など未来を悲観しかねない情報が巷に溢れている。

 

学校や職場でも心のゆとりは失われ、時間や日々の仕事・勉強に追われて心は疲れ、荒れすさみ、穏やかな心でゆとりと優しさを持って周囲の人々に接する事の出来るような人は私の周囲でも少なくなっているように思われる。

 

そうした中で夢や希望を持つ事は難しいかも知れない。しかし、心にゆとりを持って自らを取り巻く現実を見つめ、その上で自分の能力で出来る事を地道に積み重ねていけば、少なくとも絶望せずに生きていく事は可能になる。

 

ある意味では、絶望する事は易しい。しかし、それでは前には進めない。遠過ぎる目標だけを意識せずに、自分や周囲の「現実」をきちんと受け入れながら、それでも今出来る事を積み重ねていくと、少しずつ前に進んでいくことが出来るのではないかと思われる。

 

苦しいのは自分だけではない。あるいは、状況も悪いかもしれないが、長期戦の覚悟を決めて、ゆっくりと進んでいけば、少しずつ道は開けてくる。「ぼちぼちいこか」という言葉を、苦しんでいる多くの人々に伝えたい。       〔完〕 

  『ぼちぼちいこか』

  マイク=セイラー 作 ロバート=グロスマン 絵

   今江祥智 訳       偕成社   1980年

 

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2007年4月21日 (土)

『水晶の涙』を読む

ファンタジーではあるが、神話や英雄譚ではなく、人魚にまつわる小さな物語である。人生においても日常の生活においても、ほんの些細な事が実はとても大切であったという経験は少なくないが、雄大なストリーばかりがファンタジーではないことを再認識させてくれる逸品として、このあまり人に知られていないであろう作品をあげたい。

 

人魚が登場する物語としてこの作品と比較したいのは、アンデルセン童話の『人魚の姫』(新潮文庫1968年による)である。アンデルセン童話の人魚姫は、魔法の力を借りて人間の姿になるのと引き換えに美しい声(を出す舌)を失う。

 

それに対して、この物語の人魚たちは最初から舌はない。人魚たちは泡と手話で会話をするのである。その際、舌は綺麗な泡(の言葉)を作る邪魔になる。この設定は、おもしろいと感じられる以上に、ある種科学的な説得力を持って、物語世界の人魚たちの種あるいは社会にリアルな存在感をあたえている。

 

また、アンデルセン童話の人魚姫は、人間の姿になってからも歩く度に痛みを味わう身体になる。が、昼間人間に姿を見られて人魚の社会を追放された人魚メルシーナは、最初は足の使い方が分からず、歩けない。幼児が歩行を覚えるように、あるいはリハビリの訓練のように、人魚の彼女を見た耳の不自由な少女ジェスと老いた船乗りキャプテン・Aの助けも借りながら、少しずつ足の使い方を覚えて歩けるようになっていくのである。

 

それから、人魚の少女メルシーナと人間の少女ジェスとの交流は、異文化交流の視点も持ちながら読み進めていくととても興味深い。

 

聾唖者でもある女優マーリー・マトリン主演の「愛は静けさの中に」という映画で健常者の夫と主人公がけんかをするシーンがある。同じ英語文化圏の中で生きていても聾唖者と健常者という違いが距離となって2人の間に横たわる。相手が好意を持つ理解者であっても、完全には理解しあえないからこそ、その努力を続ける姿が見ていて胸を打った。

 

一方、この物語における人魚の少女と2人の人間との間にはそれ以上の距離があった。水や衣服の感触、他のものとのつながり、あらゆるものが違っているからこそお互いの心を通わせるために、その生きてきた背景を理解する努力が必要だった。そしてそれは、今までの自分自身を振り返るきっかけとなり、この出会いを通して水の中で生まれた少女と陸で生まれた少女が成長していくことになる。

 

メルシーナは人魚たちに伝えられていた「3つの知恵」〔①忍耐せよ、海のように②周囲の生命のリズムに合わせてうごけ③すべてのものは他のすべてのものになれ、あらゆる生命は海とふれ合っていることを知れ〕の意味をより深く理解し、自分の犯した過ちに気付くと共に、この「3つの知恵」を陸に伝える役割を自分が持っていたのではないかと考え始める。そして最後には、仲良くなった陸の少女ジェスに自らの思いを込めた水晶の涙を残して海へと帰っていく。

 

また、ジェスは残された水晶の涙をイヤリングにしようというキャプテン・Aの言葉にうなずく強さを身に付ける。それは、他の人の目にも補聴器を付けた耳をさらす事であり、耳の不自由なありのままの自分を受け入れ、そして人々に向かって自分の心を開いていくことにもつながる事でもあった。

 

ストリーに関わっての細かい言及はこの程度にとどめておきたいと思うが、小さな物語の背景にちりばめられた小道具の細密な描写と設定が読む者の成熟度に合わせてイメージの翼をより大きく羽ばたかせ、生きる事に関わる様々な問題にアクセスさせてくれる。例えば「3つの知恵」などは仏教や道教などの東洋思想との関連なども感じさせる内容となっている。この小さなファンタジーは、そういう奥行きの深さを持つ作品である。

 

機会があればぜひ一読していただければと思う。

ジェイン・ヨーレン  『水晶の涙』  (村上博基 訳) 

                ハヤカワ文庫FT54  (1983年 7月  初版発行)

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