2009年11月28日 (土)

累進課税「見直し」の見直しを

経済状況がなかなか好転しない中、税収の大幅な落ち込みによる影響への懸念が問題視されている。政権交代によって様々な見直しが行われている様子が連日テレビや新聞を賑わしているが、ダムや教育、農業支援や子どもの支援については聞こえてきても、累進課税の見直しについてはまったく聞こえてこない。

アメリカ・ブッシュ政権の利益を国民の利益よりも優先した小泉政権以降の自公政権において、高額所得者の税率を下げる累進課税制度の見直しが行われ、貧困層の増大をもたらしたが、アメリカ・ブッシュ政権に見習ったその政策は、当事国のアメリカにおいても問題になっている。

実際、アメリカにおいても高額所得者の税率が高く所得の再分配が機能していた頃の方が生活や国家財政は堅調であったし、それは日本の場合も同じだった。そうした点を考えれば、累進課税の「見直し」が財政政策としては失敗であった可能性は高い。ならば当然、累進課税の「見直し」の見直しも検討されるべきである。

にも関わらず、テレビも新聞もその点についての言及が見当たらない。マスコミは大丈夫なのだろうか。

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2009年10月27日 (火)

道なかば

鳩山首相の所信表明演説も終わり、いよいよ国会の論戦も始まる。8月末の総選挙からおよそ2ヶ月、自民党を中心とした政権がこれ以上続いたら日本は終わる、という思いはあったが、選挙で民主党が勝ったとしてもそれ程変化は無いだろう、というのが正直な気持ちだった。国民生活を徹底的に破壊した小泉「改革」から考えても10年ほどかけて変えてきたもの、そしてそれ以前からずっと自民党を中心として続けてきたものをそんなに簡単に変えられるなら苦労はしない。せいぜい、4年かけて3分の1か4分の1でも変えられればうまくいった方ではないか、と予想していたが、このスタートの2ヶ月を見た限りでは、思いの外よくやっているという感じである。

もちろん、問題は山積しているし、早急に手を打たなければ問題はさらにこじれる、というものも多い。けれども、マスコミの報道を見る限りでは短絡的で底の浅い批判が多いように感じられる。例えば、「子ども手当て」よりも「保育所を増やして待機児童を無くする」方が先ではないか、というように聞こえるような編集をされたニュースがあったが、その双方が必要であって、一方が不要と言うわけではない。前政権では双方共に後回しにされて少子化を招いたのである。その解決が一朝一夕でできるものなのか。マスコミ報道の底の浅さが感じられる例である。

同様に、酒井法子報道の加熱ぶりも異常である。薬物汚染は大きな問題だが、たかが1タレントの不法行為で死人が出ているわけでもない。薬物依存から立ち直ることが出来るかどうかは、道なかばというよりも努力が始められたに過ぎないだけのことで、鳩山首相の所信表明演説の解説を削って長時間をとるほどの必要はまったくない事件/裁判である。そうした判断すらまともに出来ないような程度のマスコミの力量で、本当に政治権力のチェックができるのか心配になる。

いずれにしても、道なかば。自民党やみんなの党のように、対案も出せずに揚げ足取り的な批判をまくし立てても、まともなチェックは出来ない。何を、どのような形で、どうステップを積み上げながら変えていくのか。それを丁寧に見ていきたいと思う。

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2009年9月 8日 (火)

財界の責任は?

国民生活を破壊して、リーマンショック以降も適切な手を打てずに居直り続けた麻生/自公政権は8月末の総選挙で大敗し、今月中にも民主党を中心とした新政権が発足する。自公政権の崩壊・退場は、国民の生活破壊や生存権を侵害するほどの格差を間違った政策によって作り出し、その反省もないまま居直り続けた結果責任を選挙結果によって取らされたということになろう。

だが、小泉政権から麻生政権までの自公政権は、常に国民や労働者の意見に耳を貸さず、ブッシュ政権と財界の意見に沿った政策を続け、結果として世界レベルの経済危機に対応できず、多くの国民の生活を破壊してしまった。それは正しく、自公政権の失敗なのだが、自公政権の政策が財界の意向に沿ったものであったという事実を考えれば、当然、財界の責任についても、検証・追及する必要があるのではないだろうか。

実際、年越し派遣村の報道によって明らかになった多くの派遣労働者たちの、生存権すら危うくなっている現実は、派遣労働に対する規制緩和(それに対するセーフティー・ネットの未整備)が原因である。そして、その規制緩和は、目先の人件費の削減による短期的な利益の獲得を目的とする財界の意思が背後にあった。財界/大企業は、先に大企業が業績を回復することで労働者や下請けにもその効果が及ぶと説いたが、現実は、国際競争を口実にして労働者や中小企業に恩恵が及ぶことはなかった。それが、実感なき景気回復の正体である。そのため、内需は回復せず、企業は外需頼みの体質になってしまった。そして、未曾有の大不況に対してさらに労働者や国民に負担を押し付けようとしたのである。

結局、セーフティーネットを整備せずに雇用の流動化を推し進めた政策は失敗だったわけだが、それを推し進めた政権は責任を取っても、それを推し進めさせた財界/大企業は、その責任をうやむやにしたまま相変わらず我がまま放題の発言を続けている。一企業の経営というレベルで考えても、労働者の賃金を抑えて内需を先細らせ、外需の依存度の高い企業体質にしてしまった経営責任は当然、問われなければならない。そしてそうした大企業の意見を集約して自公政権にアプローチを行い、国政を誤らせてしまった責任も当然追及されるべきだろう。

だが、自公政権に対する責任追及の報道はあっても、財界の責任に対する報道はほとんどなされていない。おかしな話である。

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2009年9月 3日 (木)

鳩山論文とアメリカの反応

鳩山論文がアメリカのマスコミに出て、日米関係について懸念する発言が色々と出ているらしい。まあ、鳩山氏自身の説明不足…というところは大きいようだが、これも小泉以降の自公政権が取った、日本国民の思いや利益よりもブッシュ政権の対日要求に無思慮無批判に従い続けた隷属外交の負の遺産ではないか、と思えなくもない。

ブッシュ政権の独善外交や金融資本主義がどれだけ世界をズタズタにしたか、を考えれば、日本国益や日本国民の利益をアメリカ企業や政府の要求よりも重視するのは国家指導者としては当然だし、ブッシュ政権のポチに終始した小泉・安倍・福田・麻生政権は、愛国心を持つものからすれば、対米売国外交以外の何者でもなかった以上、見直しは当然である。

現実的に見て、日本にとって対米関係の重要度は現在も未来も決して小さいものではないだろうが、日本にとっての利益、日本国民にとっての利益もきちんと主張した上でお互いの着地点を探すのが本来の外交であろう。その意味においては、アメリカの要求を無批判に受け入れ続けた自公政権のやり方は外交というにはあまりにも稚拙なものであった。だから、これをきっかけにして、アメリカとの間できちんと議論を重ね、本当の意味での外交を展開するきっかけにしていけるのであれば、今回のことも良い機会といえるかもしれない。

問題は、そうした「外交」ができるか、ということである。その点に注目しながら、今後の鳩山氏や民主党の対応を見ていきたいと思っている。

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2009年8月20日 (木)

政権評価とマニフェスト

名古屋にある新聞社の記者から取材を受けた。選挙を間近に控えて、市井の教育関係者に対しての取材…ということだったのだが、マニフェスト以前に現政権の評価が必要である、という立場からまず話を始めた。

こと、教育に関して言えば、自公政権の今までやったことは、評価に値しないと考えている。OECD諸国の教育予算の割合を比較しても、日本は先進国レベルに達しないどころか、下位を低迷している。教育が充実していて問題も少ないがゆえに教育予算を削減した、というのであればまだ話は分かるが、学力、子どもの貧困、高校中退の増加、不登校、就労など、教育の場は問題が山積している。にも関わらず現政権は教育予算を削り続けてきたのである。もちろん、お金だけの問題ではないが、例えば、先進国並みに20人(30人ではない)学級を実現するための予算を組むだけでも状況はかなり改善される。事実、犬山市は、独自に30人学級を完全実施することによって、それなりに成果を挙げていた。お金が総てではないけれども、予算の問題はそれなりに重いのである。

少子化の問題も、実はこの教育行政の貧困の影響は少なくないと考えられる。子どもを産んでも、十分な教育を受けられなければ将来的に不利になるだろう、という判断が働けば、子どもの将来の幸せを考えれば、十分に子どもに教育を受けさせることの出来る範囲の子どもしか育てられない…という判断をする人は少なくないだろう。そうした意識は、当然、子どもを産むことへの抑制につながっていく。実際、今の日本では、大学進学まで考えると相当なお金がかかり、家庭が豊かでなければ進学を断念せざるを得ない場合も多いのである。

格差社会は子どもの貧困を産み、ちょっとしたアクシデントで家計の収入のバランスが崩れて、払う意思はあっても給食費を払えなくなるような家庭も増えている。国家としての将来を考えるのであれば、子どもが貧困ゆえに十分な教育を受けられず、才能を開花させられないまま崩れていく、という場合が増えるようでは大いなる損失である。

その意味で、1人ひとりの子どもに焦点を当てて、少なくとも高校卒業まではきちんと支援していこう、という発想は正しい。その意味において、民主党のマニフェストは多少なりとも評価できるが、乳幼児の段階までで支援を打ち切ってしまうという自民党のそれは、現在までの失政の反省がまったくなく、評価できないと言えよう。

財源の裏づけ…などという反論が自民党辺りから聞こえてきそうだが、確かに民主党の財源も分かりにくさが伴うが、少なくとも、増税と赤字国債を「財源の裏づけ」とは認められないし、自民党の言う「財源」は、これまでのところ、「赤字国債」に多くを頼ってきている事実からすれば、民主党を攻撃できるほど確かなものであるとは判断できない。国民の1人としては、「どの口でそれを言うのか」というところである。

また、教育の荒廃は、子どもを支える家庭や地域の荒廃とも関わっているが、その元凶は、安易な金融資本主義化によって賃金や労働環境を悪化させ、家計から経済的ゆとりを奪うと同時に、家族から子どもと関わる時間を奪い、地域の人々と関わることのできる共通のゆとりのある時間を奪っていった経済政策にある。人々はつながりを失い、経済的・時間的なゆとりを失ってしまったのである。

関係がバラバラになっている状況で、「集団」に支援を入れても、個々人にまでは行き渡らない。実感の伴わなかった「景気回復」はそのためなのだが、自民党はその失敗を省みることなく、相変わらず「集団」を支援しようとしている。支援は、現状を考えれば「個別」に行う方が正しいと言えるだろう。

取材の中では、就労の問題や学習指導の問題、現在の特別支援教育の問題などについても具体的な事例をあげながら話をしたが、結論としては、失政を省みることなく相も変わらず同じレールを強いて間違いを正そうという姿勢をまったく見せない現政権にだけは絶対に政権を渡してはならない、ということで話を締めくくった。月末には、投票である。

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2009年8月 4日 (火)

裁判員裁判は始まったが…

先日から裁判員裁判が開始され、夕方のニュースでも、毎日、それが取り上げられている。市民感覚を裁判に生かすとの理由がしきりに喧伝されているが、少なくとも報道を見た限りでは、単なるパフォーマンスに過ぎず、やはり廃止か全面的な制度改定を早急にする必要がある、との印象である。

まず、最初に選ばれた裁判員のうち4名が女性だったが、これは意見や質問が出にくいのではないか、と思われる男女比である。たった1人の男性という立場では、公的な場で意見を言いなれているならともかく、心情的にはプレッシャーは大きいだろうし、女性が多いということも公的な発言の経験はたいていの場合少ないだろうから、やはり意見や質問も出にくいだろう。男女同数にするかどちらが多くてもかまわないから、せめて4人と2人にした方が意見や質問は出やすいだろうし、バランスとしても良いのではないかと思った。

それから、実際に始まってから知ったことだが、控訴審では裁判員裁判は行われないという。とすれば、市民感覚による裁判も、控訴審以降で「専門家」による判断によってひっくり返されてしまう機会が2度もある…ということである。けっきょく、裁判に市民感覚を導入する…というのは口先だけのことだし、イギリスなどでは完全実施されている取調べの完全録画も行われていない事実などからも、批判をかわす為のパフォーマンスに過ぎないということなのだろう。

これも、小泉政権以降の「改革」の中で行われた「実績」の1つである。閣僚の中には、前回のマニフェストに対する評価について「厳しすぎる」との声もあったようだが、裁判員裁判1つを例にとって見ても、平均すると40点台後半という評価は、どうみても甘過ぎる。この評価に「厳しい」との声が出るようでは、現実認識能力がない、と言われても当然だし、それ自体が政権担当能力の欠如の現れである。

だが、政権が変わったとしても、自公政権によって行われた「改悪」はあまりにも多岐にわたっている。裁判員制度をはじめ、多くの見直しが必要だろう。

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2009年7月28日 (火)

どちらが野党?

来月末の衆議院選挙に向けて、野党の民主党がマニフェストを発表した。それに対する閣僚のコメントがニュースで報道されていたが、批判のための批判にしか聞こえない、あきれ果ててしまうものばかりだった。責任ある政権与党であれば、批判よりもより建設的で魅力ある政策を提言するのが本来の姿であろう。それはせずに、批判だけを口にしてとにかく足を引っ張ろうとする。またまた政権担当能力の無さを曝け出したというところだろう。

確かに、民主党のマニフェストは様々な点で分かりにくいところや心配なところがある。だが、少なくとも苦しくなるばかりの一般国民の生活に目を向けず、多くの問題点の指摘に耳を塞いで、ビジョンもないままアメリカ盲従の売国政策を続けてきた自公政権の「成果」よりも多少はマシである。

ある意味では、共産党が政権を取るのでもない限り、それ程急激な変化は考えられない。与党の能力を失った自民党が批判する「防衛問題の現実路線」などでも、国際関係を考えれば別におかしな対応とは言えない。少なくとも、国民生活ではなくアメリカの都合を優先してまともな外交を展開できていない現政権よりはアメリカとの距離をとって国民1人ひとりの生活に目を向けようとする姿勢は感じられる。それが、口先だけで実行できなければ、次の選挙で政権から引き摺り下ろせば済むだけの話である。

与党の反応は醜態以外の何者でもないが、NHKをはじめとするTV報道も沈みかけた泥舟である与党よりのバイアスが感じられる。本来の不偏不党の原則に立ち返らないとマスコミ各社も与党に続いて醜態をさらすことになりかねないと思うのだが。

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2009年7月10日 (金)

普通郵便より遅い速達

月曜の朝、9時過ぎ、市内のかつては集配局だった郵便局から、県内宛に簡易書留速達の郵便物を出した。車で移動すれば約2時間の距離で、通常郵便で出せば大抵翌日には届いているところである。昨日の木曜日に、その送り先を訪問したのだが、まだ届いていないという。呆れた話である。

何のための速達なのか、ということで、今日の夕方、投函した郵便局に電話をした。配達記録から、今日の夕方届いたことが分かったのだが、月曜日の5時頃のあて先の市内の集配局に届き、その夜2回訪問したが2回とも不在だったので、木曜日まで預かっていたのだ、という。宛先には、事業所名も入れてある。一般の家庭なら、夜居る確率は高いだろうが、事業所を午後5時以降に何度訪れても留守だろう、と考えるのは常識だろう。速達である以上、夜訪問して不在だったとしても、事業所である以上、翌日の日中に訪れるのが当然の配慮であり、サービスでもあると思うのだが。

こんなことは、民営化以前の、集配局が市内に5箇所はあった頃の郵便事情では考えられない。地方の郵便局/郵便屋さんはとても親切で、番地や宛名が間違っていてもちゃんと届いたし、番地がなくても父親や母親の名前で子どもの葉書が届いていた。なかなか郵便局までいけない老人が、配達に来た人に貯金を預けたりするようなこともあったと聞く。「サービス向上」を謳い文句に進められてきた「民営化」以後、すべて失われてしまった「サービス」である。

小泉改革の「目玉」であった郵政改革。だが、かんぽの宿の売却に関わっての疑惑は解明されたとは言えず、法律に基づいて強行にそれにNoをつきつけた前総務大臣は、逆に辞職に追い込まれ、疑惑を晴らさないままの社長は居座っている。加えて、このサービスの低下の例を見ても、郵政「改革」がペテンであったことは良く分かる。

郵政改革ばかりではない。医療制度改革によって、多くの公立病院も危機に瀕している。市内の県立病院も、医師不足のために、改革以前にはほぼ受け入れていた救急医療が困難になり、隣の市に救急車が走る例が激増している。国立大学の独立行政法人化も、一部の有名大学を除いて収支が悪化し、半世紀前の古い設備を使って授業をしなくならないような悲惨な現実がある。

確かに、【改革】は必要だっただろう。けれども、小泉「改革」以降の一連の流れは、弱い立場の人々に過度な負担を押し付け、社会の土台を支える部分を破壊し、荒廃させた。疲弊する地方、崩壊する労働環境、悪化する家計……。こうした結果を見れば小泉「改革」の失敗は明らかである。

間違いを改むるに憚る事無かれ、という諺がある。小泉以降の自公政権が推し進めた改革は、国会論議の中で問題点が浮き彫りになっていたものも少なからずあった。けれども、歴代政権は強行採決や再議決によって矛盾に目をつぶり、問題点を改めずに人々の生活を荒廃させてしまった。改めるべき間違いを改められなかったのである。それは、政権担当能力の無さを示している。居座りは、国民生活に対するテロに等しい。

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2009年7月 1日 (水)

No More 《未来》の浪費

麻生首相と自公政権の迷走と混乱にはもはやコメントする値打ちすらないが、小泉〔改革〕以降の《未来》に対する浪費のツケはもはや隠蔽すら不可能な事態に陥ってしまっている。確かに、行政改革と財政改革は必要であり、改革は行わなければならなかった。けれども、あまりにも教育と福祉の予算を安易に削りすぎた。これは、自民党/自公政権と官僚による日本の《未来》に対する浪費であり、国会議員や上級官僚の退職金や給与、軍事費など、削るべき予算の順位を間違えている。

なぜ、教育と福祉予算の削減が《未来》に対する浪費なのか。小泉元首相が口にした「米百俵」の故事は、それを教育の振興に回すことで現在の結果としての未来を大切にしようとしたのである。けれども、教育予算の削減は、現在の利害のために未来の可能性を犠牲にし続けている。例えば、益川さんや小林さん、小柴さんなどのノーベル賞を受賞した研究は、直接産業に寄与するものではなく、理論研究・基礎研究の分野だが、大学の独立行政法人化によって産業と直接結びつく研究以外は軽視され、半世紀も前の設備をいまだに使わざるを得ない国立大学まで出てきている現実がある。つまり、未来のノーベル賞の芽を教育予算の削減が摘んでしまっているのである。

福祉予算の削減も、セーフティー・ネットの破壊につながり、未来を考えれば安心してお金を使えない状況に国民を追い込んで、内需拡大の足を引っ張っている。同じように雇用の流動性を志向しても、その闇の部分にも目を向けて、様々な形でセーフティー・ネットを整備したドイツやオランダと比較すれば、日本は短期的な利潤の追求に走る財界の要求にのみ耳を傾け、消費者でもある労働者にのみ負担を押し付けた結果、格差の拡大とネット難民、派遣村などを生み出してしまった。労働者の賃金を抑えれば、家計の収入も減少して所得税の税収が伸び悩み、家計が逼迫して逆に生活保護などの社会保障支出の増大をもたらすと共に、内需の足を引っ張ってしまう。それが、現在の経済情勢である。

結局、教育と福祉の財政支出の安易な抑制は、《未来》の浪費につながっていくのである。確かに、未来のための制度改革は必要である。けれども、それは安易な支出の抑制にしてはいけないのである。

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2009年6月11日 (木)

負担増のためには格差の是正が必要

国民の選択を受けていない自公政権の、現実認識能力に欠ける首相が、CO2削減目標として15%なる数字を発表した。だが、実は一般国民の家計への負担が一番重い。加えて、行財政の無駄遣いを放置した上で増税までぶち上げている。国民の懐は打ち出の小槌だと勘違いしているらしい。

だが、「小泉改革」以来、多くの国民は十分に苦難に耐えた。多くの国民が貯蓄を失い、仕事を失い、住居を失って路頭に迷う。頼るべきセーフティー・ネットは「財政再建」の名の下に縮小され当てにはならず、生活保護を打ち切られて餓死する人まで出る始末である。この上、さらなる負担に耐える余力があると、首相や政府与党が考えるのは勝手だが、負担に耐えられる余力があると考えるのはチョコレートの砂糖漬けよりも甘い「現実認識」ではないだろうか。

一般国民の家計を考えれば、それだけの負担増に耐えるためには、十分な家計収入が必要である。大企業が潤えば徐々に中小企業や一般家計にもその効果が現れるという「神話」は既に90年代以降崩壊し、その欺瞞は暴かれてしまっている。従って、国民に負担増を求めるからには、国民の家計の増収が必要なのである。

そのためには、格差の是正とセーフティー・ネットの再構築が急務である。首相と自公政権に、政権を担当する責任政党としての自覚と能力があれば、そうした現実を理解することはそれほど難しくないだろう。当然、今までの政策の失敗を認めて方向を招請する必要も出てくる。ところが、それが出来ないから国民生活の破壊と困窮がある。無責任な首相と無能政権はいつまで居座り続けるのだろうか。

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