2009年10月10日 (土)

見直しは当然 ! 学力テスト

異論があり、問題点も多く指摘されていた全国一斉学力テストが、今回の政権交代で見直される可能性が強まっている。全国の公立学校では、犬山市教育委員会がきちんと反論して参加に強い抵抗をしめしたが、文部科学省や自公政権はそれに対するきちんとした説明は行いえず、かつ私立学校の離脱や裏に隠した競争至上主義に過剰反応を示す自治体が現れるに至り、矛盾は明らかであった。

それでも、自公政権の意思を組んで市教育委つぶしに動いた現市長により参加せざるを得ない状況に追い込まれたが、独自の対応を加えることで一定の筋を通した。その市教委を支えていた前市長が民主党の衆議院議員として当選し、民主党政権になったこともあり、見直しの流れは、かなり可能性が高まっている。市教委つぶしに動いた現犬山市長は沈黙している辺りが、その行動の愚かさを示している、といったところか。

それにしても、全員に受けさせるということ自体が、大いなる税金の無駄遣いであった。サンプルとしては統計学的にも抽出方式で十分であり、それによっておかしな競争至上主義は駆逐されるだろう。データをきちんと分析した上で、学力の低い地域には逆に教育予算を手厚くして、子どもたちの教育を受ける権利を守って欲しいものである。

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2009年8月20日 (木)

政権評価とマニフェスト

名古屋にある新聞社の記者から取材を受けた。選挙を間近に控えて、市井の教育関係者に対しての取材…ということだったのだが、マニフェスト以前に現政権の評価が必要である、という立場からまず話を始めた。

こと、教育に関して言えば、自公政権の今までやったことは、評価に値しないと考えている。OECD諸国の教育予算の割合を比較しても、日本は先進国レベルに達しないどころか、下位を低迷している。教育が充実していて問題も少ないがゆえに教育予算を削減した、というのであればまだ話は分かるが、学力、子どもの貧困、高校中退の増加、不登校、就労など、教育の場は問題が山積している。にも関わらず現政権は教育予算を削り続けてきたのである。もちろん、お金だけの問題ではないが、例えば、先進国並みに20人(30人ではない)学級を実現するための予算を組むだけでも状況はかなり改善される。事実、犬山市は、独自に30人学級を完全実施することによって、それなりに成果を挙げていた。お金が総てではないけれども、予算の問題はそれなりに重いのである。

少子化の問題も、実はこの教育行政の貧困の影響は少なくないと考えられる。子どもを産んでも、十分な教育を受けられなければ将来的に不利になるだろう、という判断が働けば、子どもの将来の幸せを考えれば、十分に子どもに教育を受けさせることの出来る範囲の子どもしか育てられない…という判断をする人は少なくないだろう。そうした意識は、当然、子どもを産むことへの抑制につながっていく。実際、今の日本では、大学進学まで考えると相当なお金がかかり、家庭が豊かでなければ進学を断念せざるを得ない場合も多いのである。

格差社会は子どもの貧困を産み、ちょっとしたアクシデントで家計の収入のバランスが崩れて、払う意思はあっても給食費を払えなくなるような家庭も増えている。国家としての将来を考えるのであれば、子どもが貧困ゆえに十分な教育を受けられず、才能を開花させられないまま崩れていく、という場合が増えるようでは大いなる損失である。

その意味で、1人ひとりの子どもに焦点を当てて、少なくとも高校卒業まではきちんと支援していこう、という発想は正しい。その意味において、民主党のマニフェストは多少なりとも評価できるが、乳幼児の段階までで支援を打ち切ってしまうという自民党のそれは、現在までの失政の反省がまったくなく、評価できないと言えよう。

財源の裏づけ…などという反論が自民党辺りから聞こえてきそうだが、確かに民主党の財源も分かりにくさが伴うが、少なくとも、増税と赤字国債を「財源の裏づけ」とは認められないし、自民党の言う「財源」は、これまでのところ、「赤字国債」に多くを頼ってきている事実からすれば、民主党を攻撃できるほど確かなものであるとは判断できない。国民の1人としては、「どの口でそれを言うのか」というところである。

また、教育の荒廃は、子どもを支える家庭や地域の荒廃とも関わっているが、その元凶は、安易な金融資本主義化によって賃金や労働環境を悪化させ、家計から経済的ゆとりを奪うと同時に、家族から子どもと関わる時間を奪い、地域の人々と関わることのできる共通のゆとりのある時間を奪っていった経済政策にある。人々はつながりを失い、経済的・時間的なゆとりを失ってしまったのである。

関係がバラバラになっている状況で、「集団」に支援を入れても、個々人にまでは行き渡らない。実感の伴わなかった「景気回復」はそのためなのだが、自民党はその失敗を省みることなく、相変わらず「集団」を支援しようとしている。支援は、現状を考えれば「個別」に行う方が正しいと言えるだろう。

取材の中では、就労の問題や学習指導の問題、現在の特別支援教育の問題などについても具体的な事例をあげながら話をしたが、結論としては、失政を省みることなく相も変わらず同じレールを強いて間違いを正そうという姿勢をまったく見せない現政権にだけは絶対に政権を渡してはならない、ということで話を締めくくった。月末には、投票である。

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2009年4月22日 (水)

今一度問う、何のための学力テストか

全国一斉学力テストが今年も行われた。市長の異常な圧力のせいもあって、今年は犬山市も学力テストに参加したが、犬山市の教育委員会は、この学力テストを少しでも犬山市の教育に生かすために迅速に「どのように使うか」を決めて公表した。その姿勢は、教育を知る者にとっては、やる以上は犬山市の子どもたちの教育の改善のために直接生かそうとする強い意思が感じられた。逆に、犬山市長のコメントは、教育に対する乏しい知見と犬山市の教育に対する無責任で感情的な考え方を露呈することになった。

一方、私立学校の受験率は連続して下がり続け、3回目の今回は60%台にまで落ち込んだ。これは私立学校が「この学力テストに意味はない」とシビアに判断した結果である。私立学校といえども、憲法・教育基本法・学校教育法等に定める基準を満たしているので、広い意味においては《公教育》の一環を担っている。それが、「不参加」を選択する学校が年々増加する……ということの意味は決して小さくない。

ある意味においては、不参加を決めた私立学校の増加と、犬山市教育委員会の対応は、文部科学省が推し進めた全国一斉学力テストの教育政策的な意味を突きつけているのである。問題の内容がころころ変わって定点観測の意味もなくなっているし、何よりも、なぜ、全員に受けさせるのか……ということの説明は3回目を数える現時点においても十分に説明されたとはいえない。そして、採点やデータ処理に費やす時間とその生かし方についても、すっきりとした説明がされているとは言いがたいし、何よりもここに使う予算を特別支援教育や学校カウンセラーの常設、30人学級の実現等に当てた方が、ずっと子どもたちの現状の改善に直結するだろう。

現状の形でズルズルと学力テストを続けるのは時間と予算の無駄である。文部科学省は、学力対策のアリバイ作りと一部の企業を設けさせるだけで大して意味のない全国一斉学力テストを取りやめ、せめて先進国並みの20人学級(30人学級ではない、念のため)を実現するための努力と予算の重点配分を優先すべきだろう。

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2009年3月 2日 (月)

市岐商問題の底にある教育行政の貧困

ローカルニュースで、市立岐阜商業高校の存続問題を取り上げていた。「存続させて欲しい」という生徒たちや卒業生、保護者たちの思いは純粋で、感情面でもよく分かる。では、市長は、本当に存続を望んでいないのだろうか。存続させるには、経済的・予算上の問題が大きい事を知っているからこそ、あのような選択をせざるを得なかったのだろう……ということを報道を見ていて感じた。

その意味において、市長に反対する議員の行動は、冷静に見ているとあまりにも不十分である。なぜなら、対案を示さずに感情的な反対の声に押されて、そのまま反対に動いてしまっているようにしか見えないからである。少なくとも、議会で反対をした以上、市長選の際には対立候補を擁立すべきであったし、それが出来なかった以上、経済的・予算上の対案を市長と市民の前に示すべきだろう。例えば、耐震工事に必要な資金を寄付によってきちんとまかなう目処を示すとか、市岐商存続のために、他の予算をきちんと削減してその予算上の費用を確保するなど、いくつかのやり方がある筈である。そしてマスコミも感情的な取材だけではなく、そうした面にも光を当てるのがその役割だと思われる。

ただ、問題の本質は、別のところにある。それは、日本の教育行政の貧困さに起因するからである。日本政府は経済大国を自認するが、その日本の教育予算は、先進国ばかりではないOECD諸国の最低レベルである。だから、政府が、せめて他の先進国並に教育予算を充実させていれば、多くの教育現場で起こっている事件の何割かは防げたのではないかと思われる。市岐阜商の存続問題も、結局はまともに教育環境を整えることなく、教育や福祉の予算を安易に削り続けた結果であろう。私たちは、感情的な部分のみに目を奪われることなく、その背景に流れているものをしっかりと見据えていく必要がある。

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2008年10月28日 (火)

シンポジウムを終えて

10月26日に三重大学で開催された不登校のシンポジウムにパネラーの1人として参加した。親の会の世話人を代表しての参加であったが、エンカウンター・グループとしての親の会は、ある意味では、公的機関による設立は難しい(本人や親が学校などに不信感を持っていたりすると、逆に公的機関が設立すると不信を覚える場合がある)ような部分もある。民間グループとしての「距離」は必要なのだが、一方で、存在を知っていただき、お互いに協力しあえれば、問題に対処していく際に大きな力となる。そうした意味において、「三重県・考える会」という親の会の存在を県内外の関係者に知っていただく機会を得たことは、これからの活動にプラスになると感謝している。

さて、今回は「不登校シンポジウム」ということで、ひきこもりの問題や就労の問題については触れられることはなかった。けれども、それらが不登校問題と地続きの大変深刻な問題であることも確かであり、加えて、LDやADHD、アスペルガーなどの特別支援教育と不登校問題についても、まったく触れることができなかったことは残念だった。この問題については、不登校とのかかわりも含め、医療機関との連携の必要性や、とりあえず「診断」をしてもらうと「療育」のルートに乗せやすくなり、それによる接し方の変化によって不登校へといたらずにすむ場合が出てくることもあるので、その辺りも、今後の課題となるだろう。

ところで、指定討論について、4つのうち3つも指名していただいたが、時間の関係で急いで1つを答えることしかできなかったので、この場で3つの答えを述べておこう。

1)不登校、引きこもりの方と向き合った時、元気を出して笑顔を見せてもらうためのコツは何でしょうか?

・あれば、ぜひこちらが教えていただきたいところですが、好きなことや得意なこと、興味を持っていることからアクセスを試みるということが大切だと思っています。そこから、様々な「表現」(言葉に限定しない)を引き出し、それを受け止めながら、みんなで可能性を探っていくことでしょう。ただ、「好きなことがない」といった場合はいっそうやっかいです。その場合は、詩などの文学や音楽、美術表現や手仕事、作業など、こちらがある程度一緒に関われて表現を受け止められるような「場」に誘ってみるような手立てをとって見るのも1つの方法だと思います。ただ、その際には「私が好きだから一緒にどう?」というスタンスが大切で、「あなたのためだから」という【欲】を出してやるのはNGでしょうね。

2)家庭教育力を向上させるためには、どうしたら良いでしょうか。良いアイディアをお示し下さい。

・企業の都合最優先の悪質な労働環境を是正し、サービス残業には厳罰を処し、6時以降の残業は3倍の時給を保障するなどして社会システムとして家族と過ごす時間を確保する事が大切でしょう。それと、一般の「先進国」並みの20人学級を実現しOECD諸国のトップクラス並みの教育予算を使えば、普通に家庭生活を営むだけで十分だと思います。が、今の現実の中で可能な事は、できる範囲で、子どもたちと一緒に過ごす時間を少しでも増やし、理解が可能かどうかは別として、子どもたちが好きなもの(マンガでもゲームでも音楽でも)にも接してみて、感覚や感性の波長を合わす努力をしてみると同時に、親自身も大人として自立/成熟していくことが大切だと思います。

4)学校のない教育制度をご提案下さい。

・これには反対します。日本国憲法の子どもの権利としての【義務】教育と改悪前の教育基本法の精神を実現すれば、「学校以外の選択肢であっても、社会の中で人間として自立し生活する力を身に付けられればO.K.とする」という複数のルートを認めて良い…という
ことになるでしょうし、学校をなくしてしまうことは、必ずしも良いことばかりとは思えませんので。それに、日本国憲法の精神や子どもの権利条約の精神とかけ離れている今の日本の学校制度を是正するだけで、不登校やひきこもりの問題はかなり改善すると思われるからです。とりあえず、十分な予算と人員を配した特別支援教育の充実、20人学級の実現だけでも、けっこう効果はあがるはずです。唯一、学力テストを拒否した犬山市教育委員会は、市独自で予算をつけて、30人学級を完全実施しそれなりの効果をあげていました。ただ、現行の一般学校とは別のルートとして、夜間中学のような形やフリースクールのような形は柔軟に認めていく必要はあるでしょうし、中学卒業資格認定試験や大検などの制度を改変・充実させて、独自の判断で学習し自立していける複数のルートを保障することも必要だと思います。

問題からして、時間的には十分とはいえなかったが、それでも意味のあるシンポジウムだったと思う。

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2008年4月22日 (火)

何の為の学力テストか

昨年に引き続いて全国一斉学力テストが行われたが、再開して1年も経つというのに、その目的が見えてこない。そもそも、旭川学力テスト裁判などの経緯を経て、1度は中止したものである。私立学校の参加率が前年よりも低下していることなども含めて、なぜ、今、学力テストが必要で、それをどのように使っていくのか…という点がまったく見えてこない。だから、《予想問題》をさせる…などということも起こってくる訳である。

その点、犬山市教育委員会の主張は一貫しているし、納得もできる。例えば、学力テストの結果、点数の悪い地域・学校に重点的に教育予算を増やし、子どもたちの教育環境を整えるための資料として利用するような使い方をするならば、独自の工夫や予算で子どもたちの教育環境を整える努力を続けている犬山市教育委員会も参加するだろうし、《予想問題》など作ったりもしないだろう。

そう考えてみると、多くの予算を使って全国一斉に行われる学力テストの意味も見えてこないし、そんなことよりもその予算を使って教員の数を増やし、30人学級の完全実施や学校カウンセラー、あるいは学校図書館司書等の常設を実現する方がずっと有益である。「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」という意識で学力テスト参加を求める犬山市長や文部科学省は、犬山市教育委員会が突きつけている疑問に答える責任がある。

何の為の学力テストなのか。それをどのように使うのか。そして、それが本当に子どもの学力を高める有効な手立てとなっているのか。そして、その為に使われる予算の額と効果はどうなのか。それらの問いに答えられない全国一斉学力テストであれば、税金の無駄遣いであり、やる必要はないだろう。

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2008年3月28日 (金)

国民を愛してこそ愛国心を語れる

今回の学習指導要領の改訂で、密室の中から突然「愛国心」がらみの強制が追加され、中教審の委員からも不満や不信の声があがったという記事を新聞で読んだ。無責任かつ国民を無視した反民主的な話である。小泉内閣から安倍内閣、そして福田内閣と続いた自公政権が、どれだけ一般の国民を無視し、苦しめる政策を推し進めて国民生活を破壊してきたかは、年金崩壊、医療崩壊、生活破壊、自殺者数の高止まりなどの現実を見れば明らかである。

ある意味では、政府が国民を愛し、大切にしていれば、国民の誰もが自然に国を誇りに思い、愛し、大切にするだろう。「愛国心」など強制する必要はない。けれども、それをしていないからこそ、国民に対し「愛国心」を強制しなければならなくなる。何度も書いていることである。つまり、ここまで「強制」が進んできたのは、それだけ国民無視の政策を続けてきたという証拠なのだろう。

ガソリン税の問題にしても、明らかになってきた本来の使途に関係ない使われ方をきちんと調査・説明し、不正な部分はその責任を明確にして、関係者にそれを返還させた上でないと、税の一般財源化や税率の議論はできない。それが、まっとうな手続きである。福田内閣のやり方は、そうした基本を無視して、ただゴリ押しをしようとしているだけである。学習指導要領の「愛国心」の問題も、ある意味では、そうしたやり方をそのまま続けているだけ、と言える。

だが、そんなことをしていて、日本の未来が開けるのか。答は否である。「君が代」を無理に歌わせるよりも未来の日本を背負う子どもたちにつけなければならない大切な力がある。例えば、コミュニケーション能力、例えば他者に共感し、対話できる力…もっとも、首相をはじめ与野党の国会議員の中にもこれらの能力に欠けている人は多いが……。

まずは、国民が安心して生活できる社会/国を作ってから、愛国心を語るべきであり、それを無視し、現場の声を無視しても、現場が混乱するだけだろう。そして現場が混乱すれば、結局は、そのツケは子どもたちに回り、日本の未来にもマイナスとなる。本当の愛国心は強制では育たない。

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2008年3月 1日 (土)

卒業…1つの区切りとして

3月1日は、例年、県下の高等学校で卒業式か行われる。私も、かなり昔のことになるが、3月1日に伊勢市内の公立高校を卒業した1人である。もちろん、3月末までは、在籍していた高校に籍があるわけだが、卒業式は形式的にだけでなく、精神的にも1つの区切りとして作用していたのではないかと思う。私は、母校の校歌が好きだったし、またいまだに母校の校歌は洒落た校歌だと思っている。けれども、卒業式を最後に、高校生として母校の校歌を歌うことはなくなった。もちろん、正月に行われた同窓会では皆で校歌を歌ったのだが……。

ところで、《卒業》というと、象徴的には、それまで庇護されていた立場から踏み出し、自立していくような形でも使われる。その際には、深く関わってくれた人からの《卒業》であったり、よりどころとなり守り育んでくれた組織やグループからの《卒業》であったりするわけだが、当然、それなりの別れも伴うわけで、辛さや悲しさを感じることも少なくない。それでも、《卒業》である以上、その先には「未来」や「夢」や「希望」が存在する。新しい出会いや関わりがその先には待ち受けていることを、そこはかとない不安と共に感じるからこそ《卒業》という言葉を使いたくなるのだろう。

ただ、《卒業》の場合は、その組織や人と完全に関係が切れてしまう訳ではない。例え、自立への歩みを進めていようとも、時には戻って心を休めたりエネルギーを充電したり出来る「場」として信じられるからこそ《卒業》なのである。卒業生が、時々、母校に遊びに来るのを見かけることがあるが、そこには母校という場への愛着と自分を育んでくれた人々への信頼があるからだろう。

《卒業》していく者にとって、それは「新たな出発」である。が、そこに、自分を育んでくれたと信じることの出来る人々や場の存在があってこそ《卒業》できるのである。送り出す側としては、その信頼感に愛情を持って応えながら、背中を押してやりたい。それは、《卒業》していく者を信頼し、より深く愛することでもある。胸に、少しの寂しさや悲しみを抱えながらも、心から卒業を喜べる人間/大人になれると良いと思う。

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2008年1月10日 (木)

地図遊び

中学生の頃、クラスメイトと地図帳を広げて、交代で地名を言って探し合う遊びをした時期があった。最初のうちは、ページの端の方や折り目の近くにある小さな都市などが探しにくいだろうと思っていたが、やってみると間を置いて書いてある大きな字もけっこう探すのに時間がかかったりした。ただ、こうした地図遊びによって、けっこう楽しみながら、いろいろな地名を覚えていったようなところもあった。

他にも、座標を利用して爆撃ゲームなどをしたり、グラフ用紙で五目並べをしたりするなど、けっこう、学習に使うものを利用して休憩時間や昼休みに遊んだ記憶がある。遊ぶことによって、それに馴染み、親しむ。その過程で学習に生かせるような知識が身についたり、理解が深まったりしていたのではないか、と思う。

今日、中学1年生の子どもたちと地図帳を使って地名探しをした。ところが、最近の中学校の地理は以前ほど細かく各地の地誌を扱わない。ペルーやチリ、コロンビアなどは、まともに教科書を使って授業をしていると目にする機会もないような編集になっているのだ。そこで、地図帳では南アメリカ大陸のページを開いて【勝負】とあいなった。

ところが、セルバやパンパやマゼラン海峡を探すのに手間取ったりする。昔は必死になって覚えた記憶のある場所も、今の教科書では意識的に取り上げていないところなので、割りと知らなかったりするのだ。それでも、地名探しで地図帳を眺めるので、後になる程「あっどこかにあったなぁ」という声が漏れ、探す時間が早くなってくる。使って遊ぶことで地図に親しみ、探すのもうまくなって来たということなのだろう。

初めのうちは、遊びとしてでも良い。楽しみながら触れることでそれなりに、土台が育ち、それが学習の場面でも生きてくるのである。

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2007年10月28日 (日)

検定議論の公開を

社会科の教科書で、偏向した検定意見によって一度は削られた沖縄の集団自決への日本軍の関与の記述がおおむね復活する方向だというニュースがあった。11万人もの人々が集まったという沖縄の怒りが、厚顔無恥な「歴史の隠蔽」を画策しようとする勢力の意図を砕いたということになろうか。民衆の立場に立てば当然の話なのだが、ある意味では呆れた話でもある。こんなことが起きるのは、家永教科書裁判の時代から、権力におもねる偏向した教科書検定がまかり通っているからだろう。

単純な正誤訂正…というレベルでの検定は、「教科書」という事を考えればあっても許容できる。だが、検定の現場で時の権力におもねる偏向の方向での書き換えが日常化すれば、国の未来を損ないかねない。それは、太平洋戦争の歴史を振り返れば明確である。だから、検定の議論を公開し、それを学会などの専門家集団でチェックして、不適切な「偏向検定」があれば、検定審査官を罷免する制度を確立すれば良いのである。議論公開の段階ではA,あるいB審査官などの匿名でよい。文部科学省や政府の影響を受けない第三者機関でチェックして、不適切な審査官は罷免する権限も持たせればよいだけの話である。

ここ一週間ほどのニュースでも、国の機関や政府、社会保険庁などの公務員の不祥事や不法行為が連日のように報道されている。結局、チェック体制の甘さと責任逃れの醜さが国民の信頼を損なっているのである。警察の取調べをすべて録画する話も出ているが、チェック体制を確立することで不祥事は減少するだろうし、仕事もより慎重かつ丁寧になることも期待できる。

人間は、誰しも間違いを犯す可能性を持つし、また知らず知らずに自分あるいは自分の属する集団に有利な一面的な視点で物事を判断してしまうこともある。だが、それを公開して謝罪し、きちんと国民が納得できる形で責任を取った上で修正していけば、信頼感は損なわれない。かえって隠蔽したり、責任逃れをしたりする方が信頼を損ね、傷を大きくする。

今回の事で、「検定制度」の偏向性は明らかになり、制度への信頼感は大きく損なわれてしまった。「検定制度」の維持を考えるなら、きちんとした分析をした上で方向転換をすることが信頼を解決する近道である。まずは、議論を公開して偏向があれば第三者機関によってチェックされ、場合によっては無効や罷免もある、そういう緊張感の中できちんと仕事をしてもらいたいと思う。

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2007年10月 9日 (火)

テストの役割

関わっている複数の子どもたちによれば、市内のいくつかの中学校では中間テストのテスト期間に入っているらしい。テストと言えば、成績をつけるためのもの…という見方が一般的だが、必ずしもそれだけではない。10年以上前の話になるが、ある中学校で数学を教えていた時、生徒たちにテストについての話をしたことがあった。その内容は、だいたい次のようなことである。

テストには、三つの意味がある。1つは、みんなが知っているように成績をつけるための参考にする。けれども、その他にも、1人ひとりが学習内容をどこまで理解できているか、ということを自分で確認する意味もある。それから、先生が1人ひとりがどこまで理解できているかを知ってそれをこれからの授業の参考にする、そんな意味もあるのだ。

こうした話と共に、単元ごとに【単元テスト】を実施し、中間テストや期末テストには単元テストからも問題を出すという事を宣言し、それを実行した。また、授業中に練習問題が早くできた子に対して【問題カード】を作ったり、友達の作った【問題カード】を自由にしたりする…という活動を組織し、教科委員を中心にテスト前に【問題カード】などを参考にして【予想問題】を作らせ、その一部はテストの問題にも採用する…という形をとった。

こうした形で、テストを学習に利用した結果、数学への学習意欲は高まり、テスト反省もおざなりではなく真剣に取り組む子どもたちが増えていった。きちんと復習すれば、それがテストの点のアップにもつながる、という実感がさらに学習意欲をたかめ、学習に積極的に取り組もうとする姿勢は理解を深める。日を重ねるにつれて子どもたちの中にそうした実感が広がっていった。そして、年度の初めには「数学が苦手」「数学がきらい」と言う反応がけっこう多かった子どもたちの苦手意識や嫌悪感は年度末にはかなり改善されていたのである。

確かに、テストと成績は切っても切り離せない関係にある。それは否定できない。けれども、テストを成績をつける道具に限定してしまうのは勿体ない。テストも、学習に利用できる有効な道具にできるのである。テストの意味や役割を【成績】のためだけに限定せずにうまく利用していくことは可能である。そして、少しでも1人ひとりの学習につなげていければ……と思うのだが。

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2007年9月 5日 (水)

母語を大切に

教育行政の揺れと混乱の中で小学校での英語の時間が問題になっているが、関わっているいくつかの教育現場の実態から考えれば、母語の重視をもっと考えるべきだと感じている。日本の学校現場の教科でいえば国語の充実ということになろう。

少し考えれば分かることだが、私たちは自分の母語によって考え、認識し、判断して、意見や思いを表現している。その意味で、社会認識の深まりやコミュニケーション能力の向上には母語を自由自在に操れることが必要不可欠である。ところが、例えば中学3年生でも句読点の扱いや助詞の使い方があやしい子どもたちが身近にいるが、彼らは、成績からいえば必ずしも下というわけではない。そういう現実の中では、相手の話の中身や文章が的確に理解できなかったり、言葉の使い方のミスで自分の思いを正確に伝えることができなかったりすることが少なくない。これは、考えている以上に大きな問題なのである。

また、母語を自由自在に使いこなせる力をきちんとつけておくことは、外国語の習得のベースともなる。先月参加した研究会でお茶の水大学の先生が講演していた内容によれば、母語を習得する重要な時期に外国で生活していた子どもたちは、必ずしもその国の言葉をきちんと身に付けておらず、逆に母語を習得した後に外国で生活していた子どもたちの方が母語も外国語も自由に使いこなせる例が多いということをデータを示して説明してくれた。これは、私自身の実感とも重なっている。

結局、国際化の時代であっても…というよりも、国際化の時代だからこそ、母語の獲得と母語を自由自在に使いこなす能力の向上を図ることが大切になる。それによって自分自身を確立すると同時に、自分の考えや思いを表現することが可能となるし、外国の人とコミュニケーションをとるときも、それが重要になってくるのである。

ところで、母語は必ずしも「国語」と同じではないことも同時に意識しておく必要があるだろう。宮澤賢治の詩には、岩手の方言をそのまま使うことによって作品にリズムと深みを出しているものがいくつもある。あるいは、旧友とのお喋りでも方言がからむと一気に時間を飛び越えて親密な雰囲気ができる。言葉は文化でもある以上、方言はその地域の歴史と文化の土台となっているのである。

確かに、国際化の時代にあって、英語を使いこなせると非常に便利である。だが、英語で話すためには、会話を展開できる自分自身の知識や思想がそれなりにあることが大前提である。小さい頃から英語に馴染んだとしても、思いや考えのベースとなる母語を十分に使いこなせていない人間は自分自身はもちろん、「日本」を伝えていく能力がない。伝えていく内容としての「自分」や知識・文化を持っていないからである。

だからこそ、母語を大切にしなければならない。必用なのは、英語をどうこうという以前に、国語そのものをおろそかにしてはいないか、あるいは地域をおろそかにしていないか、という視点である。

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2007年8月26日 (日)

講師を使い捨て?

知人の非常勤講師が、1学期で学校を辞めることになったという話を聞いた。能力のあるベテランの講師であり、私が学校長か市教委の管理主事ならば、現場にとって大いなる損失ではないか…と考えるところである。

その人以外にも、能力のあるベテランの講師に「辞めろということなのか」という思いを抱かせているような扱いをしている例を幾つか聞いている。長い間【期限付き講師】としてがんばってくれた人に対し、年度が変わった途端に掌を返すような形で講師採用の話を切り、学校長の尽力にも関わらず学校現場を去らなければならなかったという高校での事例…その講師は、今はコンビニで働いているという。

派遣やパートなどの非正規雇用について、様々な問題点が指摘されるようになったが、実は、教育現場にも古くから非正規雇用の労働形態がある。一般の教諭とほとんど同じ仕事をしていて厚生年金などの社会保障がある程度はある【期限付き講師】、厚生年金などの社会保障は十分ではないが毎日学校に出勤して担任を持つようなこともある【臨時講師】、社会保障はなく契約している時間で授業を担当したりする【非常勤講師】……。最長でも1年契約…ということだが、それを続けて何年もくり返す人も少なくない。ある意味では、現場での指導に熱心なあまり十分な勉強時間が確保できず、何度も教員採用試験を受験しながらも合格できないような、能力のある講師も多数いる。

だが、社会保障や収入の面から考えると基本的には、いつ切られてもおかしくないような雇用形態であり、東京の【非常勤講師】の中には生活保護の対象になるような収入しか得られないような例もニュースで取り上げられたりしている。同じ仕事には、同じ賃金を、そして連続している非正規雇用については本人が望むならば正規雇用への道を開く、というのが格差が社会問題化した中で進められている労働環境改善の方向である。にも関わらず、まったく同質の問題を抱えている教育現場での非正規雇用問題がなかなか表に出てこないのはなぜだろう。公的機関こそが、率先して労働環境改善の実例を示すべきだと思うのだが……。

教育現場での荒廃が進む中、政府や文部科学省のミスを教職員組合や現場に押し付けて責任転嫁し、間違った教育改革を推し進めても状況が改善しないのは明らかである。それに加えて、力量のあるベテラン講師という人材を邪険に扱えは、ベテラン講師たちが現場に見切りをつけて次々に学校から去っていくだろう。そうした中で、様々な問題が深く静かに進行していく。日本全体から見ればほんの一部に過ぎない大企業の利益や党利党略、目先の収支に目を奪われて愚かな選択を続ければ、やがて大きな問題となって爆発する時が来る。そうなる前に、方向転換をすることを願うばかりである。

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2007年7月17日 (火)

学力テストの不正

足立区の小学校で学力テストの不正が行われていたらしい。新聞報道によれば、校長が指示し、複数の教師が関わっていたようだが、背景にはテストの点数(学校の順位)が教育予算の増減に関係するシステムがあったようだ。教育に市場主義の競争原理を持ち込みたい人々がこうした現実を生み出した訳だが、子どもたちにとっては迷惑な話である。

いや、迷惑だけではすまない。法理論からすれば、公権力による人権侵害の疑いも濃厚である。というのは、日本国憲法26条の規定は、義務教育を受ける側の子どもたちにとっては権利であり、保護者や公的機関の側に子どもたちの義務教育を受ける権利を保障する義務がある。だから、点数の悪い学校の予算を大幅に増やして教育環境を改善するというならわかるが、逆にそれを削るなどという行為は、悪質な人権侵害なのである。加えて、公務員には【憲法を遵守する義務】がある。教育基本法は強行採決によって改悪されても日本国憲法は改正されていない以上、足立区/東京都のシステムそのものに欠陥があると言えるだろう。

この事件によって、逆に犬山市教育委員会の慧眼と、勇気ある決断が正しかったことが一層ハッキリしてきたのではないかと思う。学力テストはかつて旭川学力テスト裁判で問題になり、最高裁の判決も出たこともあって、一度は廃止された経緯がある。それを十分に吟味もしないまま政府与党/文部科学省が全国一斉学力テストを復活させたが、それについて様々な疑問や意見があるにも拘らず、政府与党/文部科学省は十分な説明をせずにごまかし続けている。この事件を見れば、文部科学省と犬山市教育委員会のどちらの主張に説得力があるかは明らかだろう。

教育環境を改善すれば、子どもたちの可能性はさらに広がる。そのためには、口を出す前に予算をしっかり保障すべきなのである。予算を削って、現場を無視した命令を押し付ければ教育現場はますます荒廃し、子どもたちの未来を圧迫する。政府・与党が強行採決を繰り返して行ってきたことは、26条違反、義務教育を受ける権利の公権力による侵害につながりかねないのである。

日本の未来を思えば、こうした現実を放置することは出来ない。とりあえず、選挙権を行使して「NO」の意志を伝えなければならないと思う。それが、子どもたちの未来を守る大人としての責任である。

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2007年6月21日 (木)

教育3法案の強行採決…現場無視の愚行

またまた政府・与党の暴走・愚行が重ねられた。教育3法案の強行採決である。確かに、教育現場は荒廃している。けれども、教育予算は削られ続け、教師は子どもへの対応や自主研修にあてる時間を削られ続けている…という、現場ではいかんともし難い環境整備の責任(それは当然、文部科学省や政府・与党に帰するものなのだが…)には無反省のままである。

不登校・ひきこもり問題との関わりで家族に対してよく「先進国で20人学級を実現していないのは日本だけであり、30人学級を実現すれば状況はかなり変わる」ということを口にする。実際、犬山市は教育委員会の努力で30人学級を実現し、それなりに効果をあげているのである。逆に言えば、文部科学省や政府・与党は、その責任をごまかすために教育基本法や教育3法案を強行採決しているようにしか見えない。

教員免許制度の更新制に関わっては、不名誉なことにILOからも調査が入っているし、政府の言うやり方…例えばわずか30時間ほどの研修…で指導力がつくのかという疑問や、研修期間中の子どもに対するケアの問題など、現時点でも明らかになっている問題点も少なくない。それに十分答えぬままの強行採決である以上、無責任のそしりは免れない。

民間企業の現場でも、団塊の世代の退職による現場での技術の継続が問題となっている。同様に教育現場での職場の教育力や民間教育研究会での研究が生かせるようにする方がずっと効果が上がるだろう。実際、ヨーロッパの事例では官製の研修も民間研究会の研修も同じように参加する教員に支援している。日本では、民間の研究会の参加に際して、わざわざ休暇を取らなければならない現実がある。利用できる民間の力を、なぜ教育に限っては利用しないのか? 矛盾した話である。

なぜ、教育の現場がここまで荒廃したのか。教育予算の削減という事実を見ても、政府・与党の責任は大きい。責任をごまかすために愚行を重ねては、いっそう教育の荒廃が進むだけである。国家の未来を閉ざしかねない政府・与党の愚行を許してはならない。

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2007年6月 2日 (土)

多すぎる宿題

小学校3年生の男の子の母親から相談を受けた。宿題が多すぎるというのだ。親が側にいてさせても午後10時までかかることがあるという。本読みや計算プリント、そして漢字練習にテスト直し……。確かに、9歳という年齢を考えれば、出す方が異常ではないかという量である。

家庭での学習の習慣をつけるのは大事だし、またそのための手段として宿題を出すというのも悪い事ではない。ただ、9歳前後という年齢の子どもの生活の中においては「遊び」も勉強に勝るとも劣らないほど大切だし、その意味において普通の子が普通にやって30分程度で終わる量なら小3くらいの宿題としてはまあまあ…といったところだろうか。出来の良くない子が30分のところを1時間かかってしまった……という形なら、ある程度は仕方が無いだろう。

けれども、ただ、机の前に座らせて漢字の練習を必要以上にさせるような「宿題」や忘れたら極端に増えるような「罰としての宿題」は、1回や2回ならともかく、毎日続けさせれば、子どもにとってはマイナスとなる。集中せずにいやいや長時間やるような宿題は、労力の割に効率は悪く、あまり子どもの身につくものではないし、逆に子どもの学習意欲を殺ぎ、ストレスをため、勉強嫌いにさせるし、最悪の場合は学級崩壊を招きかねない。実際に、宿題のメモに嘘を書いたりするようなこともして来たので、母親が相談してきた訳だが「子どもに嘘をつかせるようなやり方は問題だ」とするこの母親の感性は正しい。

最大の問題は、宿題を出している担任の教師が、1人ひとりの子どもの現実を見ようとしていないことである。方法論的には、子どもが少し努力すれば出来る宿題を積み重ね、「できた」という達成感を味わっていけるように仕向けることで、努力を続けることが苦痛ではなくなり、学習意欲も高まってくる。そのためには、今、目の前にいる子どもが、何分ぐらいでどれだけの量の宿題が出来るか把握しておく必要があるし、出来ない子にたいしては休み時間や放課後にきちんと「やり方」を教えたり、わからないところを様々なやり方で説明したり、子どもたちの間にやり方を教えあうような雰囲気を作ったりしていく必用がある。それをしないで宿題だけ大量に出しても、教師の自己満足と外へのパフォーマンス以外の意味は無い。効果をあげようとすれば、現場での現実をきちんと見据え、それを改善するのに必要な手立てを細かく、きちんと取ることが必要となるのである。

その意味において「教育再生会議」や政府・与党も現場の現実を見ずに暴走している点では、この愚かな担任教師とあまり変わらない。現実だけを見ていては、それに流されることも少なくないが、現実を無視すれば、混乱と荒廃の未来が待っていいるだけである。それすら気付かない愚かな人々ばかりしかいないのだろうか?

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2007年5月18日 (金)

教育3法案の衆院通過

教育3法案が衆議院を通過した。現場の実情を無視し、慎重な審議を求める専門家や国民の声を無視しての拙速な議決である。安倍内閣になってから特にそうだが、現場を無視してまともな議論もしないまま、無理やりに不十分・不完全な法律を強行採決を多用しても通そうとする姿勢が目立つ。

そうした姿勢を変えないのは、法案の不備を、政府・与党自らが自覚しているのかもしれない。だから、異論が噴出する公聴会やタウンミーティングは、ひっそりと、慎重に反対意見を目立たせないようにメディア・コントロールを駆使して行っているのだろう。きちんと時間をかけて、丁寧に作られ、問題点も整理されたものであるなら、議論や反対意見を恐れる必要はない。それが出来ないのが、その証拠であると言えよう。

だが、実際問題として、現状で教育3法案が施行され、現場において実施されるようになれば、現場は一層混乱し、教育の荒廃に拍車がかかる可能性は高い。教員免許状の更新にしても、わずか30時間の研修でその資質の向上がかなうなどと考えるのは甘いし、現実的に考えれば、ヨーロッパの例に倣って、民間の研究会への参加を積極的に支援・援助をすれば、30時間以上の充実した支援が可能になるだろうし、教員の資質の向上にもつながる。戦前からの歴史を持つ民間研究会や40年以上の長い歴史を持つ民間研究会も存在している。暦教協、日生連、日作の会、全生研、フレネ研など、その現場で培われたノウハウを積極的に活用すると同時に、削減し続けている教育予算を増加させることの方が、教育の荒廃に歯止めをかける近道である。

だが、それをすれば、政府・与党や文部科学省の失敗が明らかになる。だからこそ、議論をせず、質問に対する答えをはぐらかせ、現実をきちんと認めようとせずに、教育基本法をはじめとする関係教育法規を変えるというパフォーマンスによってごまかし、日本の未来を支える教育の向上よりも自分達のメンツに拘っているのだろう。

だが、国家の未来、教育の未来を考えるならば、何もせずに見過ごすことは出来ない。とりあえずは参議院選挙での選択、そして日常の活動を通じて、間違った方向に進むことを少しでも押しとどめたいと思う。

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2007年5月 8日 (火)

特待生と高野連

野球の特待生の問題で、大きな混乱が生じている。だが、学習の面での特待生や、その他のスポーツでの特待生の存在を考えれば、それが経済的に苦しい家庭においても進学が可能となるチャンスであることを考えるならば、入学金や授業料の免除はあっても良いのではないだろうか。そういう意味において、規約の見直しもせずに現状を放置しておいて、突然、こんなことを騒ぎ出す高野連の関係者はおかしい…というか、今まで何をしていたのか、という事になる。

子どもたちの将来を考えるならば、入学金や授業料の免除はあっても良いし、特に地元や隣の府県などに限ってのことなら、下宿や寮生活のサポートもあって良いと思う。ただ、監督や家族といった、大人への金品の受け渡しこそを厳しく監視し、それに対する厳しい罰則をも設けるべきだろう。

今回のゴタゴタは、大人の欲望によって歪めた制度を、大人のメンツと保身のために子どもを巻き込んだ愚かな対応によって、混乱させ、結果として、いっそう子どもたちを傷つけている構図であろう。その意味で、子どもたちは被害者であり、高野連の役員も、事件に区切りをつけたら、全員が責任をとって辞任すべきであろう。

未来を食い物にする大人たちの欲望は、醜く、汚い。巻き込まれた子どもたちの方がいい迷惑である。その視点に立って高野連の言動や、マスコミの報道を注視していかなければ……と思う。

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2007年4月30日 (月)

厳罰化よりも必用なこと

少年法が「改正」され厳罰化が進む見通しとなった。確かに、日本のマスコミによる現在のニュース報道を見ていると、厳罰化もある程度仕方が無いのかな…という思いは否定しきれない。しかし、過去のデータを詳細に見てみると、戦争前の一時期や戦後の一時期においても現在以上に凶悪な犯罪が起こっていたし、件数も現在を上回っていたという事実が確認できる。ということは、今までの「少年法」においても、それなりの効果は上がっていたという結論になる。

「厳罰化」というのは、ある意味では「脅し」だが、脅しが通用しない相手も存在する。1つは《無知》。その事実を知らなければ、歯止めにはならない。そして、犯罪を犯す青少年の生活環境を考えれば、十分に法律の知識を持たない場合が少なからずある。もう1つ、知っていても実感していない場合。これも、脅しは通用しない。

結局、「厳罰化」というのは、対処療法の一つに過ぎないのである。それよりも、戦後の混乱期から徐々に青少年の犯罪が減少していった背景を考えた方が実りのある議論ができるのではないだろうか。戦後の混乱の中で青少年を支える家族や地域社会の機能が低下していたが生活の安定と共に家族や地域の支える力が強まり、それが犯罪の減少につながっていったのだと考えるのが自然だろう。

翻って、今の現実を考えてみよう。家庭や地域の青少年を支える力の弱まりが指摘されて久しいが、なぜそうなったのか。大企業優遇政策が人々の競争を過度に煽ってつながりを弱め、長時間あるいはぶつ切りの労働時間によって、人々の生活時間を奪っている現実があるではないか。それを放置して「厳罰化」を進めても、根本の背景が改まらない以上、問題は解決しないのである。

教育再生会議もそうだが、今の政府・与党は、口先あるいは表面的な対処療法をパフォーマンスとして表に出すだけで、問題の根本を分析してその解決に努力しようとする強い意思と粘り強い努力に欠けている。それに手を着ける決断から逃げ続ける限り、状況は好転せず、さらに悪化する危険性をはらんでいる。上に立つものが現実を真摯に見つめ、率先して自らの衿を正し、問題に向き合っていくことが大切だろう。

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2007年4月24日 (火)

全国一斉学力テストは行われたが…

教育委員会がポリシーを持って反対した犬山市をのぞいて、全国一斉学力テストが行われた。教育学を専門とする立場からすれば、犬山市教育委員会の対応は言動一致の一貫したものであり納得できる。

逆に文部科学省の説明は多くの課題や問題点に対して十分に答えないまま強行しているため、その説明すらも納得しきれないものであるし、「君が代」を国歌にした時に「強制はしない」と答弁しながら東京都の「国旗・国歌」の強制的な押し付け政策に行政指導のかけらも行っていない事実からすれば、言行不一致も甚だしく、信頼が置けない。

犬山市教育委員会は、実際にこれまで進めてきて実績も上げてきている市教委独自の教育改革の延長線上に今回の【保留】がある訳で、例えば、データとして全国レベルより低い平均点の出た都道府県に対し、日本国憲法26条に規定されている子どもが義務教育を受ける権利を平等に保障するために、優先的に教育予算を増額して教育の質を向上させる…というような使い方をするのであれば、多分、犬山市の進めている教育改革の理念にも合致するので、参加を検討する方向に変わるに違いない。

ところが、競争を煽ることになってしまわないかという危惧に対し、文部科学省は具体的に手立てを示していない。なぜ、長きに渡って中断したのか……という理由が、競争原理を煽って教育を荒廃させるという批判が高まったからなのだが、その対策を示さないまま強行された以上、文部科学省のこれからの動きには十分に注意する必用がある。

教育の荒廃が語られる中、金を出さずに口先だけで「改革」をアピールしようとする政府と文部科学省。全国一斉学力テストも、そのための言い訳に悪用される危険もある。そして、現場を無視した的外れの「口先改革」が返って教育現場を混乱させ、教育を荒廃する危険性もはらんでいる。

犬山市教委が主張するように、未来を考えれば教育予算を福祉予算とともに削るのではなく、もっともっと教育に金をかける必要がある。そして、犬山市教委は、実際に全国に先駆けて30人学級を実現しており、その言葉は、政府・文部科学省の主張とは異なり、口先だけではないのである。議員宿舎などの無駄な金を徹底的に削って、学力テストの結果を生かすような教育予算を組むかどうか。今回の学力テストが「口先改革」のパフォーマンスに悪用されないかどうか、注視していきたいものである。

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2007年3月31日 (土)

歴史から逃げずに

新聞報道によると、沖縄戦での集団自決に軍の「強制」があったことについて矮小化もしくは否定しようとする教科書検定があったらしい。従軍慰安婦の問題にしろ、政府・与党にとって都合の良くない事実を隠蔽し、ごまかし、なかったものにしようとする動きが目に余る。

だが、そうした動きは、歴史に学ぶ目を閉ざし、国の未来を閉ざし、長年にわたって人々が形作ってきた日本に対する他国からの信用を失墜させる愚かな行為である。歴史を紐解いてみればよくわかる事だが、同じようなミスの積み重ねが大きな失敗を招く。その意味で、例え都合の悪い真実であろうと、それを認め、それが起こった構造を明らかにすることによって、同じような失敗を重ねずに済むようになる。

ところが、現在の日本の政府・与党の動きは、まったく正反対である。根本的な部分でアメリカ追従を優先するあまり、戦前と同じようなことを繰り返そうとしている。従軍慰安婦の問題にしろ、この沖縄戦の教科書検定の問題にしろ、学問・教育に対する不当な介入を行って歴史をゆがめ、構造を分析してミスを見出す芽を自らの手で摘もうとしている。

本当に精神的に強い人間は、自らのミスや弱さを見つめて改善していこうとする努力を怠らない。だから、間違いは素直に認める。だが、弱い人間は、虚勢をはっているために自分のミスを認めず結果として修正するチャンスを失って自ら泥沼にはまり込んでしまう。

今の政府・与党のやり方は、弱い人間のやり方と同じである。彼らだけが滅ぶのは自業自得だが、このまま進めば、われわれ国民の生活に多大な悪影響を及ぼすことが予想できる。いい加減に、愚かな暴走を止めないと、どんどん泥沼にはまっていくだけなのだが……。

 

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2007年3月22日 (木)

がんばれ!! 犬山市教育委員会

犬山市教育委員会が、全国学力テストを現行のままでは拒否する姿勢を貫いた。何のための学力テスト? プライバシーの保護は? どのような形で生かしていくの? など、現行のシステムでは疑問が多く、例によって政府・文部科学省はまともで丁寧な説明を怠ったまま、勝手に強行しようとしている以上、犬山市教委の対応は筋が通っているし、十分に納得できるものである。

例えば、学力テストの点数が悪かった学校・地域に、国の責任において教育予算を増額し、設備を整えて、教職員を多く配置していくのを目的とした「調査」であるならば、大いにやるべきだ。だが、競争を煽り、「費用対効果」という経済原則を無理やりに教育に当てはめて教育予算を削る口実にしてはならないし、ましてや、平均点をコントロールするような問題を作って「低学力」に対する批判をかわすデータを作成する目的であれば、言語道断である。

競争至上主義によって家庭での安定した時間と収入を奪い続ける経済政策のために、家庭や地域の教育力は低下し、荒廃が進んでいる。その実態を見ないで学校の中に過度の競争原理を導入し、子どもたちに心理的圧力を与え続けた結果が過度のストレスを生み、陰湿ないじめをはびこらせているという分析もある。

そうしたことを考えた上で学力テスト問題を見てみれば、文部科学省や政府の説明よりも犬山市教育委員会の主張の方が納得できるものは多い。逆に、なぜ他の教育委員会は安易に文部科学省の押し付けに従ってしまうのか。それが、本当に自分達の地域の子どもたちのためになる決定なのか? 大いに疑問である。

 

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2007年3月15日 (木)

現場を見ない教育再生会議

新聞報道によると、教育再生会議の中で、7時間授業や春・夏休みの一週間短縮の話が出ているらしい。今の子どもたちの集中力の実態を考慮したとき、机上の空論・単なる数字合わせではないか…という思いにかられた。

別に、教育再生会議ばかりではない。……審議会や……委員会といったもののメンバーに、どれだけ現場の人間が参加しているのかを考えたとき、政府・与党の政策に都合の良い意見を持つ人々による多数派を形成して「審議」を行い、結局、矛盾や問題点が発見されないまま強行(時には強行採決までも使って)され、現場の矛盾や混乱ばかりを拡大し、国民の活力と幸福を奪っていくパターンの繰り返しである。

学力の低下の可能性に対する処方箋は、地域・家庭の安定とそれらによる教育力の回復が1つのポイントであるが、それには「競争」を煽り過ぎる形で大企業を甘やかし、労働時間の生活時間に対していびつにアンバランスになる形での拡大やサービス残業と呼ばれる不法な賃金不払い労働を減少させる必要がある。そのためには、生活のために使えるまとまった時間を保障できる十分な家計収入が必要であり、そのためには時給の大幅な底上げに政策として取り組む必要がある。

もう1つのポイントとして、子どもたちの生活習慣の乱れと学習に対する集中力の低下も意識しなければならない。それを考えずに、学習時間を物理的に増やすだけの話をしても意味はない。現場の実態を熟知していない御用学者や企業家で議論すれば、そういった点が疎かになるのは当然なのであろう。確かに、現場では近すぎて見えないこともあるので、現場の意見だけで決めるのは危険が伴う。だからといって、現場の実態を無視した議論を続けて結論を出しても、有効な提言とはならず、的外れな提言による「改革」は「改悪」と化し、現場をさらに混乱させ荒廃させる可能性が高くなる。

教育は、国家百年の計である。メンツや企業の利益のみを考えただけの提言では、返って国力を低下させ、国民を不幸にしてしまう。現場の実態に真摯に学び、本当の意味で国民と日本全体のためになる「提言」をまとめて欲しいのだが……。

 

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2007年2月23日 (金)

育てる場としての職場

職場で人を育てる……という視点が弱くなっている。人を育てるためには手間も金もかかる。終身雇用制の時代には、それを各企業・職場が当然のごとく負担していた。けれども、【競争】を煽り性急に【結果】を重視するあまり、それが弱くなってしまっている。

ある意味では、それは当然の結果である。【自己責任】ということで、今まで企業職場での人材育成から手を引き、競争を煽れば、新人の育成に手を貸せば競争相手を育てることにもつながりかねないことになる。それは技術面だけでなく、人間関係の面でもそうである。相互の関係性が弱まれば、職場環境はさらに悪化する。いっそう、育てる力は弱体化するわけである。

そうした視点から、教員免許更新制度の議論を見てみると、大きな問題点が浮かび上がってくる。教員の力量をあくまでも個人の問題に矮小化しているのである。例えば、職員室での若い先生たちへのサポート環境は明らかに弱体化している。研究会で、何人かの若い教師たちと話をしたことがあるが、ちょっとした技術や指導方法など、明らかに前の世代との間の断絶があるのだ。

ただ、その先生たちは、民間研究会に参加したことでそれを知る機会を得た。当然、その先生たちは行政主導の研修会には参加している。にも関わらず、知らなかった……ということは、そうしたことは伝えられていないという現実があるのだ。とすれば、免許更新にどういう【研修】をするのか、その効果がどの程度期待できるのか、その期間の学校現場でのサポート体制はどうなるのか、といった問題点が浮かび上がってくる。

フランスなどの制度では、民間研究会でもきちんと【研修】として位置づける体制は整っているが、日本の現場では行政主導のもの以外は【研修】として位置づけない事例も少なくない。例えば「学級崩壊」に対しての効果もそれなりに上がっているような有意義な研究発表であっても、「民間」というだけで「年休」を取らなければ参加できないような状況であったりもする。「愛国心」議論でもそうだが、現場を無視して勝手に押し付けるだけでの【研修】では、返って教育現場の混乱や指導能力の低下は避けられないだろう。

【育てる】には、手間もお金も必要である。それを軽視したり、ごまかしたりしていては将来の日本の発展は望めない。職場での【育てる】という役割について、再度、検討する必要があるだろう。

 

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2007年2月17日 (土)

大人の「忙しさ」といじめ

「なぜ、《いじめ》に気づかないのか」という問題について、ある新聞の記事に「教師の忙しさ」の問題と、母親「教師だけが忙しいわけではない」という思いが書かれていた。それぞれが、本心からの言葉だと思う。だが、問題の根本にあるのは「大人の忙しさ」ではないだろうか。

豊かな環境(物質的に…という意味ではない)で子どもを育てることができるなら、子どもの多くは健全に育つだろう。しかし、その「豊かさ」を奪われている現実がある。大人が仕事に追われて忙しいのである。だから、直接子どもに接する時間が減少してしまい、丁寧なケアができないし、当然、接する時間が物理的に減少しているから、サインを見落としてしまうことにもつながっていくのである。

その意味では、《教育再生会議》の提言は、今のところ外部から評論的に言うことのできる単なる対処療法に過ぎず、しかも、現場の現実を無視しているために実行すれば返って現場を混乱させてしまう可能性が少なくない。だからこそ、教育委員会などの反発も強まっているのであろう。

結局、【…諮問会議】や【…諮問委員会】のメンバーの中に、ほとんど現場の声や政府と反対の立場や考え方の人々を入れようとしない政府のご都合主義が、本当の意味で本質的な提言や有効な提言を出せなくさせてしまうのであろう。

現状を変え、いじめを減少させるために、政府がまず取り組めば確実に成果が出ることをここで2つあげよう。1つは、教育予算を他の先進国のようにもっともっと増やすことである。そして、もう1つは大人に「生活賃金」という思想を導入し、最低賃金のレベルでも、充分に子どもたちと共に過ごせる時間を保障することである。

この2つを確実にやってこそ、責任を学校現場や家庭に問う資格を持つ。それをしないで「学校が」「教育委員会が」「家庭が」などと口にするのは明らかに責任逃れの口実であり、責任を果たしていない税金泥棒の犯罪行為である。

冒頭の記事の例に戻れば、家庭としては「忙しいのは教師ばかりではない」からこそ子どもを育てるために「教師も親も、もっともっと子どもに関わることのできる時間を保障するのが政府の役割であり、そのためにも最低賃金をもっともっと上げ、大企業過保護の経済政策を白紙撤回する必要がある」と言うべきなのだ。

日本の農業の「保護」政策が、結局は日本の農業の競争力を弱めてしまったという現代史から学べば、今の大企業過保護の経済政策は、結局は長期的に見て大企業の国際競争力を弱めてしまう危険性も秘めている。政府は、もっと長期的なビジョンを持って動くべきであろう。

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2007年1月25日 (木)

教育再生会議というヤラセ

教育再生会議の中間報告が発表されたが、今のところ安倍首相の「方針」に沿ったものばかりであり、【想定外】の内容はほとんど見受けられない。つまりは、直接言っただけでは説得力を持たないので、「方針」通りの結論をごまかすために、議論のパフォーマンスを演じただけ……ということになる。アメリカ産牛肉の再開に関わっての【審議会の答申】と同じで、「はじめに結論ありき」の議論なのだということを図らずも露呈したものと言える。

その意味では、教育基本法の改悪の際のタウン・ミーティングも根本的な構造は同じであり、基本的に国民や専門家の声に真摯に耳を傾けようとする姿勢が相変わらず見られない。したがって、本来であればきちんと反省した上で責任を取り、方向転換すべきことが改められず、矛盾をさらに拡大させる結果となる。

例えば、《不適格教員》の問題にしても、問題になるのは教員だけなのか? という疑問がある。資格というならば、弁護士や医者もそうであり、官僚にしても例えば飲酒運転で事故を起こし現地の人を2人死に至らしめた外務省の職員が、大した処分も受けずに他の部署で仕事を続けている事例などを考えれば、《不適格官僚》なども、同列に5年ごとの見直し制度を設けるべきであろう。

いじめの問題も、被害者はもちろん、加害者にも周囲にいる子どもたちにも丁寧なケアが必要となる。「サインを見逃さないように」などと言っても、そのためには大人たちが子どもと関わるための時間を物理的に保障しない限り無理である。つまり、大人たちにきちんと家族で過ごすことのできる時間を保障する必要があり、そのためには最低賃金を上げ、時間外労働を減らす政策を採らなければならないのだ。その前提があって、子どもたちとの時間を積み重ねられてこそ「サイン」に大人が気づくことが出来るようになるのである。

本当の意味で《教育の再生》を求めて知恵を結集するならば、当然、【想定外】の内容がそれなりに出てくるだろうし、それを実現するためには文部科学省や厚生労働省も組織改革や方向転換なども必要となるはずである。だが、そんな兆候はほとんど見られない。これは、この教育再生会議が単なるパフォーマンスに過ぎないことの証拠ではないだろうか。

本当の意味での改革を考えるならば、みんなで痛みを分かち合う必要がある。さらに言うならば、上の立場に立つ人間、指導者たる人間は、その責任からしても、下の者よりも多くの血や汗を流す必要がある。それを現状のように回避している限り、矛盾は決して解決されないだろう。

 

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2007年1月14日 (日)

「いじめ」の講演会を終えて

12月に依頼された「いじめ」についての講演が昨日無事に終わった。被害者・加害者・周囲の子どもたちについての詳しい分析からはじめ、次に、どのようにそれぞれに関わっていくのかという方向性を話したが、分かりやすかったかどうかは定かではない。役員さんたちは「よく分かった」と言ってくれてはいたが……。

ところで、政治家のコメントなどで「サインに気をつける」という話が良く出るが、様々な教育現場に関わっている立場からすれば、非常にいい加減なコメントだと思う。問題は、サインに気づくためにどうすればいいのか…ということなのだ。

サインに気づくためには、ある程度しっかりと当事者に関わる必要がある。そのためには、最低限、物理的に一緒にいる時間をきちんと長く取る必要があるのだ。その時間を、実は、日本の政治や社会は十分に保障していない。

非正規雇用の増加による賃金の抑制と家計収入の悪化にともない、父親はもちろん時には母親も、家計収入を支える仕事のために長時間働かなければならない現実がある。特に、パートや派遣労働者は、時給など手取りも低く抑えられているために、【かけもち】でもしなければそれなりの収入にはならない。そんな中では、しっかりと子どもたちに関わる物理的な時間や精神的な余裕が十分には持ち得ない。

だから、サインに気づくには家族の時間を保障する必要があるが、そのためには労働者の権利をきちんと保障せずにいては不可能なのである。子どものいじめ問題をどうにか改善して行こうとするためには、家族の時間を保障しなければならない。そのためには、労働者の時給を上げ、8時間以上働かなくても家庭に帰れるようにしてやることが前提となる。それをしないで、いくら美辞麗句を並べ立てても問題は解決しないのである。

講演会では、「いじめ」は子どもの問題には留まらず、大人の問題でもあることを指摘しておいた。子どもたちをきちんと育てるために、大人も努力する必要がある。特に、政治に関わる政治家や官僚、企業のトップの責任は重い。目先の利害だけにとらわれるのではなく、広い視野で賃金の問題なども考えていく必要があるだろう。

 

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2006年12月23日 (土)

もう施行!? 改悪・教育基本法

改悪・教育基本法が22日に早々と施行された。憲法に規定されている教育を受ける側の権利としての義務教育の思想との齟齬、旭川学テ判決の国の教育権の制限、子どもの権利条約との齟齬は放置されたままである。もっとも、現状では関連法案の整備がなされていないので、直接現場に変化を強要する手立てに乏しい現実はあるのだが……。

ただ、強行採決をしたとしても、国民への周知徹底の義務を当然のことながら政府・与党は持つことになる。機会のある毎に矛盾を追及し、教育基本法の「再改正」の環境づくりをしていく必要があるだろう。それは、強行採決を許してしまった野党の責任でもある。特に社民党などは、平和を守る政策戦略の一環として教育基本法の「再改正」を考え、試案を準備することは党勢の巻き返しのためにはそれなりに有効に機能するのではないか…という気がしないでもない。攻めの姿勢はやはりものごとを動かす。その意味では、教育基本法に対しては、攻守が逆転しているのだ。それをチャンスとして活かすことが出来るように力を結集していけると良いと思う。

政府・与党の拙速は、この改悪・教育基本法の問題点を良く知っているからだと思う。だから、なるべくこの問題を早く忘れてもらいたいと考えているに違いない。だからこそ、ひっそりと、けれども素早く施行したのだろう。最近の政府・与党や官僚たちは、相手が法律を知らない…と判断すると、平気で人権侵害や不法行為をする。このブログでも以前に入管や検察の悪行を紹介しているが、今回の改悪・教育基本法がらみでも、今後、多くの問題が起きてくるに違いない。我々は、主権者である国民として、それを注意深く見つめていかなければならないと思う。

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2006年12月22日 (金)

教育行政の放漫

教育再生会議の中間報告の作成過程で、各委員からの反発が出ているらしい。「事務局」の側が勝手に議論の内容を削ったり、主張を弱めた表現に書き直したりしていることが原因だという。各種「審議会」などもそうだが、現場や本当の意味での「有識者」を無視して、自らの偏狭な知識のみでやり過ごそうという姿勢が図らずも露呈してしまった、ということだろう。

本当の意味で改革・再生を考えるのであれば、現場を含めた様々な視点・立場からの知恵や意見を結集し、十分に議論する時間を取ると共に、その提言には真摯に耳を傾ける必要がある。けれども、ヤラセのタウン・ミーティング事件が示すように反対意見を謀殺・黙殺してアリバイ的に「意見を聞くイベント」を開催し、実態を無視して勝手に事を進めようとするから問題は解決せず、矛盾が新たな問題を生じさせる。

教育基本法の「改正」という改悪についても、教育行政の中で意図的に教育基本法の精神を踏みにじり実現への努力を文部省・文部科学省・政府・与党自体が怠ってきた事実(例えば学校司書や司書教諭の設置を法律に掲げながら、何十年も完全実施を怠ってきたなどの事例は、明らかに改正前教育基本法10条違反であろう。)をごまかして、強行採決をしている。審議をしていけば、ボロが出るからであろうが、そのような拙速なやり方では問題山積の教育現場を正常化できないだろう。

複雑に変化する現代社会において、党派的な硬直した考え方で教育行政を進めようとすれば、様々な問題を生じさせるばかりでなく、国の未来を損なってしまう。未履修事件についても、国会で決められてないにも関わらず法的拘束力を持つとされている学習指導要領の矛盾が問題の背景にあるにも関わらず、現場に責任を押し付けて文部科学省や政府・与党の責任をごまかしたために、高校生は迷惑し、現場では自殺する校長も出た。責任の一端は現場にあるかも知れないが、そもそも現場を無視して勝手に押し付けられた実施困難な学習指導要領を作った責任は誰がとったのか。誰もとっていないのである。

これ以上、教育行政の放漫な姿勢を許せば、教育はさらに荒廃していく。未来の世代に美しい日本を残すためには、責任ある大人としてこうした教育行政の現実を容認することはできない。声をあげ、声を集めていかなければ……と思う。

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2006年12月15日 (金)

教育基本法「再改正」を目指して

なぜに議論ができないのか。問題点は、どんどん噴出しているにも拘らず…。一連の茶番劇を見ていてそう疑問に思っていたが、議論をすればするほど問題点やゴマカシが明らかになってしまうから、それから逃げているのだと理解できた。つまり、与党・現政権は、国会での議論に耐えられないほど無能なのである。

そうした無能な連中によって決められた新しい「教育基本法」は、当然、現行憲法との間での矛盾が出てくるであろう。まず、明らかな勘違いなのだが、義務教育は国家・現政権の権利ではなく、それを受ける国民の側の権利である。従って、次の課題としては、出来るだけ早く、教育基本法を再改正する準備を整えることであろう。

現場の荒廃を無視した拙速な「改正」によって、教育の荒廃に歯止めがかかるとは思われない。改めて、教育現場の「現実」を直視し、茶番のタウン・ミーティングではない広く国民や様々な立場の人々の意見を集約する場を組織し、その議論を持ち寄りながら国会で十分な審議を尽くす……つまり、今回の経過と反対のことをすれば、本当の意味での「教育の憲法」を再制定しなおすことができる。それが、未来の国民としての子どもたちのために、大人である私たちがしなければならないことであろうと思う。

郵政民営化については、確かに国民の意思が示されたかもしれない。けれども、それは労働条件の悪化を許容したり、一般国民に対する増税を許容したり、教育基本法を議論もまともにせぬまま強行採決を続けたりするのを許容した訳ではない。約束もしてないことを議論せぬまま勝手に決めることしか出来ないのは、議論をすれば嘘や矛盾がバレるという政府・与党の判断があるからなのだろう。

自分たちは骨身を削らずに、一般の国民・労働者にばかり負担を押し付け続ける「改革」は、もはやいらない。その事を忘れずに、【準備】をしていかなければ…と思う。

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2006年11月28日 (火)

いじめ…どうケアをするのか

いじめに関わる事件が連日報道されている。それぞれが、胸の痛む話ではあるが、こと子どもの問題については、大人の責任としてきちんとケアをする必要がある。そのことを少し考えてみよう。

まず、いじめられている側の子どもについてだが、まず何よりも早急に、その「いじめ」の現場から保護する必要がある。学校でいじめがあるなら、学校を休ませる…というのも1つの選択肢である。「現場」から引き離して保護し、落ち着かせるのである。

次に、いじめられ続けていると、自分の存在に対して自信を失い、「いても仕方がない」「生きていても仕方がない」などという自己否定感につながる思いに取り付かれてしまっている場合が少なくない。だから、周囲が、「あなたはかけがえのない存在なのだ」ということをきちんと伝え、自信を回復させていく手立てを取る必要がある。それも、早急に取り掛かることが要求される。けれども、いじめられている期間が長いほど、自信や自己肯定感を回復させるのは大変で、時間もかかる。けれども、愛情を持って辛抱強く接していくことが大切であろう。

それから、加害者のケアも大切である。1つは、いじめだと気づいていないケース……。遊びのつもりでからかい続けていることが「いじめ」になってしまっていると本人たちが気づいていない場合は、それを教える必要がある。友達関係の中でお互いにからかい合うのは時々見かけられることだが、それが一方向で続いてしまっている場合は「いじめ」になるのだと認識させなければならない。自分がからかい続けられる立場だったらどんな気持ちになるかをきちんと考えさせ、相手への共感を育てていく。同時に、からかい続けている背景には、何らかのストレスの発散である場合も少なくないので、その原因を見つめ直し、改善できることは改善していけるようにサポートしてあげることも必要であろう。

が、「いじめ」だと知っていながらやっている場合は、それでは済まない。場合によっては法的な介入も含めて、まず強制的に停止させる手立てが必要になる。ただ、子どもである以上そこまで精神的に荒廃してしまっている背景に目を向け、立ち直っていけるようなサポートも必要だろう。時には、心から信頼している人間が周囲にいないこともあるので、他者との関係作りや、その子の居場所作りから始めていかなければならないだろう。

もう1つ、周囲の子どもたちに対するケアも大事である。「いじめ」そのものを許さない雰囲気を作ることによって、関係は豊かになっていく。確かに、1人で行動を起こすのは大変かも知れない…ということは共感しつつ、それならば他の子どもたちと一緒になって「いじめ」を止めるアクションを起こせるようにする、という方向に導いていくことが大切だろう。具体的には、他者、特に止めてもらえそうな相手に事実を伝えることから始め、やがては、その「場」でも、「いじめ」を制止できる仲間や関係を育てていく……ということになろう。もちろん、時間をかけて丁寧にやっていかなければならない事だが、そのように努力することが大人としての責任だろう。

だが、こうした「いじめ」の背景には、大人の心の荒廃やゆとりの喪失、「いじめ」の蔓延が考えられる。実際に、そういう相談も受けた事があるし、ニュースなどでも職場での悪質な事例が報道されたりもしている。

自分自身が「いじめ」に関わっていないか、「いじめ」を許していないか……ということも大人自身がきちんと見つめ直し、自らの行動を修正し、社会を変えていく努力を続ける必要があるだろう。

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2006年11月26日 (日)

ステップを刻んで

午後、何人かの人々と教育に関わる話をした。一度、大きくつまづいて動けなくなったときどうするか。最近は、よくある話である。まじめな性格だと、すべてを一気に取り戻そうと焦り、やらなければならないことの多さに途方にくれ、絶望してしまう…といった例も少なくない。けれども、そこで小さくステップを刻み、続けていけるようにサポートしてやると少しずつ進んでいきやすくなる。

これは何も勉強だけの話に限らない。そして、子どもたちだけではなく大人も同じである。怪我や病気で長く休んでしまった場合、取り戻さなければならない勉強の全量ばかりに注目してしまうと気力がなえてしまうかもしれない。が、とりあえず今出来そうなことから始め、毎日(あるいは毎週)きちんと続けていくことに意識を集中して努力を重ねていくと、しばらくして振り返れば、けっこうやれるようになった事実に気づいたりする。そこから自信も生まれてくるし、その自信に支えられてさらに努力も続けやすくなる。

まずは、ステップを刻もう。続かなければ、計画したステップが高すぎたということだから、少しステップを低くして、もう一度刻みなおしてみよう。当事者も、周りでサポートする人々もこう意識するだけで、少しずつ現実を変化させていくことが出来る。

最初、その変化は本当にわずかなものかもしれない。けれども、続けることで、時間を重ねることで変化は目に見えるようになってくる。そして、その過程で自信と実力も育っていく。信じて続けること…これが大切なのである。

まずは、続けられそうなステップをイメージし、それを少しずつ刻んでいこう。変化は、そこから生まれる。

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2006年11月19日 (日)

いじめの奥にあるもの

いじめニュースが続いている。教育相談の現場でそうした問題とも関わった経験があるが、まず最初に手を打たなければならないのは、いじめられた側については緊急に心身の安全と安定の確保である。学校の中でのことなら、緊急避難の選択としては「不登校」もその1つである。

個人的な体験や、関わってきた事例なども含めて考えれば、いじめられた側の自己肯定感はその期間が長いほど著しく傷ついているので、まず、その回復が急務である。被害者のケアに最優先で取り組まなければならない、ということである。

けれども、それだけでは問題は解決しない。加害者の側や周囲に再発防止の手立てを打つ必要がある。

大きなポイントの1つは周囲の傍観者の意識を変えることである。いじめを見過ごすことは、共犯者である…という意識をつけ、阻止できる力をつけさせることである。もちろん、必ずしも1人でやらなければならない…という事ではない。仲の良い、信頼できる仲間と共に阻止する方向に動けるようになれば……と考えられれば良いだろう。

もちろん、最大の課題は加害者の意識と行動を変えさせることである。特に、加害者が「いじめ」ではなく遊びの延長として「からかい」続けているだけ、と考えているだけの場合は、それが「いじめ」になっていることを意識させることで、被害者はもちろん、加害者自身も救われることになる。「からかい」そのものが無意識的なストレス発散として出ている場合も少なくないので、そうした場合はそのストレスの原因を掘り下げ、生活を改善していく道筋をつけていけば、再発防止の効果はさらに大きくなるだろう。

けれども、そうしたレベルで済まない場合は、それなりに強権的な手立てを使うしかない。警察や裁判なども視野に入れた対応を考えざるを得ないだろう。特に大人の社会での場合は、裁判なども視野に入れながら対応するしかない場合もある。そうした覚悟が必要なほど、実は、大人社会にもいじめや差別、弱者切捨てが横行しているのである。

ある意味では、「いじめ」を子どもの問題に矮小化してはいけない。現実社会の矛盾が、弱い立場の子どもたちに投影され、事件となって噴出しているのである。もちろん、具体的な事件としての「子どものいじめ」は、大人として対処してあげなければならない。が、おかしくなってしまった大人社会も、大人の責任で共生と弱い立場の存在への共感に満ちた社会へと変えていく努力が必要だろう。

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2006年11月18日 (土)

競争よりも大切なもの

衆議院における教育基本法の改悪に、心ある人々は憂い、怒り、悲しんでいる。が、様々な教育現場を知るものとしては、それだけでは済まされない憂慮がある。この教育基本法改悪の流れをそのまま進めれば、確実に教育現場の混乱と荒廃に拍車がかかると予想できるからである。

問題の1つに、「競争」の名の下に学力の二極化、特に経済的・家庭環境的に学習を十分に保障されない子どもたちへのサポートが弱体化し、結果として新・教育基本法体制の学校でより多くの「おちこぼれ」を量産する可能性が高まってくるからである。

1人も「おちこぼれ」を出さないで教育の底辺を底上げしようとして教育改革に取り組んだスウェーデンは、そのような形での人材育成が功を奏して、経済を上向かせることに成功した。「グローバリズム」の荒波の中で、日本には「アメリカ・モデル」ではなく「スウェーデン・モデル」に学ぶ選択肢が、実は90年代後半には存在していたのである。

けれども、マスコミは「スウェーデン・モデル」はほとんど取り上げず、小泉政権に迎合して「アメリカ・モデル」だけを垂れ流し続けた。そして、国民は多くのものを失い、そこにあった富をアメリカの一部の企業に持っていかれてしまったのである。

安倍政権は、そうした日本国民の利益よりもアメリカの一部企業の利益に即した政策を「改革」という名目で行う小泉路線を追求し、教育にも「競争原理」を持ち込もうとしている。だが、現場の現実からすれば、競争を煽って子どもたちを孤立させるよりも、子どもたちに教え合い・助け合いを促し、共に学ばせる環境を作った方が効果は上がる。教える側も理解した内容を整理し、確認するというプラス効果が生じるからである。

教育には「競争原理」よりも大切なものがたくさんある。目先の経済的利害で「競争」を煽ってはいけないのである。

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2006年11月12日 (日)

教育を荒廃させる教育行政

教育基本法の「改正」と併せて、教員免許の更新が議論されてきている。その際の比較の対象が、何故か運転免許である。制度的に言うのであれば、同様に医師や弁護士なども比較されて叱るべきであり、何よりも公務員、とくに官僚が比較の対象でなければおかしい。

それについて言及できないマスコミの無能も問題だが、「問題教師」がいるのと同様に、「問題医師」や「問題弁護士」、「問題官僚」も十分に事件を起こしているではないか。それに言及しないで、「教員」だけを議論しようとしているのは、現行教育基本法に規定されている「教育への不当な支配」に当たらないのか? 今日の時点で、現行教育基本法は廃止も改正もされていないのだが……。

議論の問題点は、力量のない教師の資格剥奪を判定する立場のものの恣意性を制限する条件が整っておらず、将来的に国家の不利益になっても、現行政府・与党の利益に適うならば、それだけであらゆる「教育」への支配が強化されることを可能とする流れの中に「教員免許の更新」制度が利用される危険が高い、ということである。共謀罪の文脈も同じ流れの中にあり、「今の政府・与党」の利益のために、国民の利益や未来の利益が削られ続けていこうとしているのだ。

未履修問題における「学習指導要領」の問題点の議論も進んでいない。現場の状況を無視した「学習指導要領」の押し付け(法律ではないものの【法的拘束力】の問題、しかも現場の実態を無視している)が問題の背景にあり、それをきちんと是正しなければならないのに、「現場」に責任をおしつけて言い訳とゴマカシに終始して、現実を見ないようでは、教育行政がさらに教育現場を荒廃させていくことにもなりかねない。

いや、戦争へと至った歴史の真摯な反省の上に立っていたからこそ、政府の教育への不当な支配を制限し子どもたちの能力の開花と成長を実現するために、教育基本法が作られたのである。それを空洞化し続けた結果としての教育の荒廃は、現場を無視して教育を政府の都合のいい形で捻じ曲げ続けてきた教育行政に、それなりの大きな責任がある。教育基本法の「改正」を議論しようとする最中に、いじめ自殺の事件や未履修事件が表面化したのもある意味では当然なのかも知れない。

教育は「国家百年の計」である。未来の日本のことを真剣に考えれば、反省もないまま目先の小さな利害を目的とした教育行政をこのまま継続しては絶対にいけない。それは、日本の未来を閉ざしてしまうことにもつながってしまう。机上の空論をもてあそんでいる時間はない。現場の問題点をきちんと見据えて、教育行政を転換しなければならない時期に来ている。

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2006年11月 6日 (月)

教育の現実を直視しなければ…

いじめ事件や未履修問題で騒然としている教育現場を無視して、教育基本法を変えようとしている愚か者たちがいる。ここまで現場の問題が噴出してきている以上、まずはその背景をきちんと洗い直し、それに対処する手立てを講じることがまず必要なはずである。今は「教育基本法改正ごっこ」をして遊んでいる暇はない。

実際問題として、「愛国心」を法律の条文に入れて、いじめが無くなるのか? 否である。未履修問題の背景となっている学習指導要領と受験システムの矛盾が解消するのか? 否である。

政府与党は、ケガ人の手当てもせずに、病気にかからない方法を論じようとしているが如き愚かなことを進めている。問題に対する緊急のケア及び原因究明の調査を放置して、何をしたいのか。明らかに、責任の放棄である。ここまで教育現場での問題が吹き出てきた以上、それに対する対処法を早急に明らかにして実行すると共に、再発しないように教育行政の矛盾や問題点を洗い直し、現実から出発した多くの人々のためになる教育の再構築をはかる必要がある。

にも関わらず、何を遊んでいるのか。まさしく税金泥棒の所業であろう。

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2006年10月27日 (金)

未履修事件の背景

各地の高校で、世界史等の教科を履修した形にしていた事件が発覚した。悪意ではなかったとは言え、最大の被害者である高校生たちの被る不利益が最小限になって欲しいと願うが、現状のまま推移すれば3年生たちの時間的・精神的な負担は、けっこう大きなものになりそうである。

時間だけを削ればよしとする「ゆとり教育」を推進したのは誰か…、あるいは、そもそも学習指導要領の法的拘束力そのものに問題があるのではないか…など、事件の背景には、現場を無視した教育行政を押し付け続けた政府・与党・文部科学省の姿勢がある。

例えば、週休二日の完全実施によって、授業や行事における学校現場のゆとりはなくなり、教師も生徒も慌しく時間に追われるようになった。学習指導要領は、当初、法的拘束力など持ってはいなかったのは教育史を学んでいるものにとっては常識であり、歴史的な事実でもある。

審議会や諮問委員会で、それなりの「提言」が出たとして、では実際に官僚やそれぞれの委員が学校現場で活動して、その「提言」にそった形での指導上の効果を上げられるのか。多分、多くの官僚や委員にその能力はないだろう。

確かに、現場の視点だけでは未来への方向性は見えにくいだろう。その意味では、さまざまな立場からの意見に耳を傾けることは大切である。けれども、現場の声や実態を無視して強権的に効果を上げようとしても無理である。

その意味では、これだけ多くの学校ぐるみによる未履修の実態があった、ということが現在の受験システム・教育システムの現実の姿なのである。それに対して「学習指導要領違反」ということで上から圧力をかけるだけでは問題は解決しない。もちろん、教育基本法を「改正」しても問題解決に結びつく力とはならないだろう。すべては、現場の声・現実を無視して恣意的に国民の権利としての教育を捻じ曲げてきた結果なのである。

ただ、さまざまな教育現場で実際に子どもや生徒、家族に関わっている立場からすれば、少しでも「現実」を改善するための努力や工夫を続けるしかない。私たちは、日本の未来と最前線の現場で関わっているのである。それは、大人としての未来の世代に対する責任だと思っている。政府・与党や文部科学省も、教育基本法改正などというパフォーマンスに終始していないで、もっと教育の現実に目を向け、未来の世代に対する責任をきちんと果たして欲しいものである。

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2006年10月26日 (木)

教育は誰のため?

教育基本法「改正」の審議が、審議の体をすらなしていない。与党が、立法府の場において、その仕事を完全に放棄し、「非自由」「反民主」の行動ここに極まれる…としかコメントできないような現状は、一国民として非常に恥ずかしいし、情けない。民主国家・先進国を自任したいのであれば、それに見合うだけの言動で本当の意味での「愛国心」を示して欲しいものだが、他者に「愛国心」を押し付けようとしている人々が一番「愛国心」を持っていないようである。

そもそも、現行憲法において、教育は受ける側にとって【権利】である。そして、憲法を改正していない以上、国会議員はもちろんすべての官僚はそれを遵守する義務がある。ところが、ニュースなどで報じられている内容からすれば、政府・与党の側に「受ける側の【権利】としての教育」という視点は欠如していると言うしかない。

だいたい、法律をなし崩し的に無視したり破ったりした上で、「法律」そのものが「現状」に合わないから変える…などというのは、法治国家の政治家や官僚のするべきことではない。けれども、教育基本法に関しては、まさしくそれが行われてきたのである。

教育基本法を守ってきちんと条件整備をしていれば、すべての学校図書館に専任司書と司書教諭が何十年も前に置かれていただろうし、子どもたちの問題行動に対して、例えば犬山市のような少人数学級の導入をもっと早期から検討していなければならなかった筈である。それらを放置して教育予算を削り続けた結果が、現在の教育の荒廃を招いている。

必要なことは、そうした現実をきちんと見つめ直し、それに対する責任ある対応を取ることであり、「教育基本法・改正」などのパフォーマンスで対応の不備をごまかすことではない。教育は「国家百年の計」である。私利私欲ではなく、1人1人の子どもと未来の日本のために、責任ある国会論議と財政的な配慮をしていくことの方が急務であろう。

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2006年10月15日 (日)

生活者としての「学力」

「学力」について考える際、私たちには様々なアプローチの仕方がある。それは、東京大学の佐藤学が指摘するように、「学力」という言葉が情緒的に、あるいは多様なイメージで語られているからであり、同じ場で議論しながらも、話し手の使う「学力」という言葉のイメージが微妙にずれているためである。従って、学問的に整理するならば、厳密にその言葉の意味を定義した上で論を進めることが望ましい。しかし、それを意識してしまうと「学力」について私が語ろうとする思いに無意識的に制限が加えられる恐れがあるので、この場ではそこまで厳密に取り扱わず、私の思いを述べることを優先したい。

私は、ボランティアの日本語教室や塾などの場において外国の人たちに教えた経験があり、その一部は現在も続いている。そこから得る実感を手がかりにしながら「学力」について考えてみたい。

 

まず、塾について。少し前に私の塾にJというブラジル人の女の子が通っていた。日本語の会話と読み書きは普通の日本人の子どもたちと同じようにできたが、特に数学が悪かった。分数の計算と割り算の筆算が出来ず、当然、中学の数学も苦労していた。そこで、そうした点も含めて対応できる私の塾に通い始めたのである。2カ月近くのやり取りの中で、日本では当たり前となっている掛け算九九を彼女は書いて覚えたということや、基本的な理解力はあるし数学のセンスも良さそうなので、少しずつ丁寧に学習を積み上げていけば年度末ぐらいには中1の数学ぐらいには進めることなどを本人に話し、本人もそのつもりで学習に取り組み、やがては連立方程式なども基本的な問題は解けるようになった。

 

当初、練習問題自体は小学校のものを使用していたが、説明の仕方は微妙に小学校のものとは変えたりする場合もあった。多少間違いもあったが、後で本人が見たらすぐわかるようなケアレスミスがほとんどで、彼女が数学につまずき、それがここまで放置されていたこと自体が不思議なくらいだった。その時点では中学校での数学の授業は少し辛かったかも知れない。しかし、塾の数学の時間を苦にしている様子は見えなかったし、時にはプリントを家でやってきたりするなど、学習意欲も高かった。

 

このようなJの様子を思い出してみると、あらためて「学力」って何だろう? と考えてしまう。分数計算や割り算の筆算が出来るようになることは確かに大事だが、それ以上にその意味を理解することが大切だし、学ぼうとする意識や意欲、学ぶ楽しさがより重要な意味を持つように思われる。

 

次に、日本語教室での事例について述べよう。これも少し前のことだが、週に一度、日本の方と結婚しているフィリピン人のLさんとAさんに、国際交流協会の日本語教室でボランティアの講師として日本語を教えることになった。昼間の日本語教室については、それ以前にもカナダ人や韓国人の方に教えていたのだが、彼らが引っ越して日中の時間の希望者がいなくなったので、一時期休んでいた。が、2人が夜間よりも日中の時間の方が都合が良いということで、再開することになったのである。

 

2人の日本語能力だが、2人ともごくごく基本的なある程度の日常会話はできた。

が、例えば数字の変化(ひとつ・いち・いっこ・いっぷん・など)はかなりあやふやだったし、特にLさんについてはひらがなも読めなかった。だから、テキストをゆっくり進みながら(当初は1ヶ月で4ページ)ひらがなの練習もしていった。これは、ひらがなの読み書きが出来るようになれば、生活の上でも今までよりも便利になるし、日本語教室の授業自体もテキストにそって進められるという判断からである。

 

が、もちろん同じ文字を何度も練習するような形は取らず、しりとりのような形式で言葉を増やす工夫をしたり、本人の名前や住所、家族の名前を書きながら少しずつ使うことで覚えていくという方法などいろいろと工夫しながら進めていった。フィリピン人であるため、英語の説明が可能だったので、日常的な語句の説明は、単語の置き換えや和文英訳などをして発音をしながら進めた。やがてLさんもいくつかのひらがなは書けるようになり、時々乱入してくる2人の子ども(YちゃんとKくん)も日本文の題材にしたりしながら、和気あいあいと授業を進めていった。日本語の授業は基本的にとても楽しそうに参加しており、時間をかけて少しずつ力をつけていった。

 

そして、この例でも考える。「学力」って何だろう? と。

 

彼女たちにとって、かなり日本語が上達した今でも、その習得は本当に切実な問題である。が、小さな子どもたちをかかえ、まったく文法体系も文字も異なる日本語の勉強をするのは本当に大変である。しかし、子どもたちが小学校に通う時点で、一緒に低学年の国語の教科書ぐらいは読めるようになって欲しいと考えていた。それは、彼女たちにとって生活を営む上で母親として意味のあることだと思ったからである。

 

卒業論文で夜間中学に通っていた頃、生きる力としての「学力」について考えた。

いま、日本人以外の人々との交流の中で、あの頃とは異なる実感に支えられながら、《学力》について考え続けている。そこには、「学校」の枠だけで考えてはいけない何かがある。そのことだけは分かっているが、現時点ではまだその先が明確にはなっていない。時間をかけて取り組んでいければ……と思う。

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2006年10月 8日 (日)

手作業のおもしろさ

昨日、教育研究会の実技講座で身近にあるものを使って綿菓子作りをした。準備したものは、ジンジャー・エルの小さなアルミ缶、自転車のスポーク、百円ショップで手に入れられる手持ちのファン(扇風機)、アルコールランプ、作る作業の時に下にしく紙と飛び散り過ぎないように周りを囲む厚紙、それに綿菓子の原料となるざら目の砂糖である。

参加者は学生、小学校の先生など大人ばかりだったが、1つひとつの肯定にとても良い顔をして集中し、実際に綿菓子を作る段にはキャーキャーと大騒ぎ(参加者の3分の2は女性だった)になった。一応、原理を学習するということになると、物質の気化やアモルファスの問題になってくるが、楽しい作業を通じてとなると非常に意欲的に聞こうとする。本来の教育の場において、もっともっとあっても良い姿だろう。

しかし、現場では押し付け構造が大流行である。学校現場の忙しさ(まじめに取り組んでいる先生方は、仕事のために遅くまで残ったり、家庭訪問を繰り返したり、仕事を家に持っていったり、と本当に忙しい。そして、私の周囲で見かけるのは、まじめな先生が圧倒的に多い。)の中で、教育現場を知らない企業のトップや官僚・政治家たちが自分たちの利害のための「教育」を推し進めた結果の教育荒廃の責任をとらず、押し付けをさらに強化しようとしている。「教育基本法の改正」などの動きは、その最たるものである。

国家の将来を支えるための教育に必要なのは、押し付けではなく、実際に作業したり集中したり考えたりする豊かな時間であり、それを支える豊かな環境である。

例えば、綿菓子作りなども、大学生や大人でも夢中になる手作業であり、それと絡ませながら最新のアモルファスの理論などの学習につなげていけば、確実に個々の学力は向上する。先進国で唯一25人学級を実現できない恥さらしな教育行政は、その事実を隠蔽するための「日の丸・君が代の強制」や「教育基本法の改正」などの前に、教育環境を整える条件整備をきちんとするべきだろう。金を出さずに「現場」を知らぬまま口だけ出して、も教育の荒廃は止められない。「教育審議会」のすべての委員は、荒れた学校で一ヶ月、自分の「指導」がきちんと児童・生徒を変える力を持っていることを実証してから発言するべきだろう。実績のない空虚な権威に支えられているだけの無責任な発言は、教育の荒廃に拍車をかけるだけである。

少し話が逸れてしまったようだ。個人的な体験や全国研究会での報告なども含めて検証すれば、今回の例ばかりでなく手作業の教育効果は非常に大きい。そうした時間を取れるだけの教育環境を学校現場の中で整えていく努力が、大人の責任として必要だと思う。

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2006年9月26日 (火)

わからないことのおもしろさ

最近の子どもたちを見ていると、「わからない」ことを楽しめず、イライラしたり、すぐ投げ出してしまったりするように感じられる。いや、子どもばかりでなく、大人もそのような傾向が強まっているかも知れない。

確かに、わからなくて恥ずかしい思いをする、ということは子どもでも大人でもあるだろう。大人の場合は特に、「わからない」と攻撃の対象になったり、評価が下げられたりする、ということもあり得る…という思いから、いかにもわかっているふりをしてその場をしのごうとすることは少なくない。ハツタリでごまかそうとするのである。

けれども、「わからない」を素直に認め、そこから「わかる」ための努力を続けていくと、その問題・課題・テーマが思いがけない広がり・深みを見せはじめ、さらに追及することによって知識や人間関係が深まったり広がったりしていく。そういう展開を経験すると「わからない」の中には、いろいろな「おもしろさ」が隠れていることが理解できてくる。

もちろん、すべての「わからない」を追求していくことができるほど人の一生は長くない。たくさんの「わからない」から、最終的にはいくつかを選び、調べ、考え続けていく形にならざるを得ない。けれども、その過程はとても楽しいし、その過程で関わる人々の何人かとは本当にいい関係をつくっていくことが可能になる。それを考えると、「わからない」は「楽しさ」や「おもしろさ」につながっていくのである。

けれども、周りを見渡してみると、「わからない」の「おもしろさ」を知っている人は、大人も子どもも、本当に少ない。いろいろと関わっていく中で、「わからない」の「おもしろさ」を少しでも多くの人々に伝えていければ……と思う。

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2006年9月25日 (月)

「学力」って…

子どもたちの「学力」問題が問題になって久しいが、学校・塾・外国人教育・不登校などの様々な教育の現場での経験からすれば、確かに「学力」が問題であることに異存はないが、その中身の議論が非常に浅いのではないか…という思いがある。

確かに、以前に比べて、例えば文章を読み取る力や自分の思いを言葉で表現する力の弱体化を感じるが、それ以上に、考え、判断する力の低下の問題が大きいような気がする。もちろん、分数の計算ができない大学生や助詞の使い方がおかしい高校生の存在を実際に知っているし、それらを放置して良いとは思わないが、情報が氾濫する中で分析し、考え、判断する力が低下すれば、自分を成長させ、周囲の人々と協力し、未来を創造する上で大きな支障をきたし、周囲の雰囲気に流されて不幸になる未来が待ちかまえている。

その意味で、昨今、巷で論議されている「学力」の中身は非常に狭い範囲に限られ、個としての成長や周囲との共感・協力、社会の変革を担う主体者としての能力…などといった本来もっとも重視されなければ部分に目を向けさせない意思が働いているのではないか…とさえ感じてしまう。

オウム事件をはじめ、様々な事件で、知識はあってもきちんとした判断力の育っていない状況の危険性は明らかである。そして、思考力や判断力を育てるには、考えたり判断したりする体験を積み上げていくことが必要である。けれども、計算練習や漢字練習、知識の暗記を積み重ねても、考えたり判断したりするような体験はなかなか積み重ねられない。

もちろん、知識は必要である。しかし、知識をいくらストックしても意味はない。大切なのはそれをどう使いこなすかである。そうした点も含めた「学力」をしっかりと吟味し、未来の日本のためのになる「教育」を再構築する必要があろう。少なくとも、日の丸や君が代や愛国心を押し付けることでは、まったく問題の解決にはならないことはきちんと認識しておく必要があるだろう。

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2006年9月23日 (土)

誰のための日の丸・君が代

東京地裁で、東京都教育委員会が教師に日の丸・君が代を処分をもって強制した事に対する裁判で、原告側勝訴の判決が出た。象徴天皇制・国民主権の日本にとって日の丸・君が代が国旗・国家として相応しいかを充分な議論や対案なども掘り起こさぬまま国会でなし崩し的に決定し、その際に「強制するものではない」との答弁があったにもかかわらず強制し、天皇陛下にまで「強制」をたしなめられたにも関わらず無反省に押し付け続けた結果がこれである。

だいたい、日本が人民を大切にする素晴らしい国であったならば、強制などしなくても人々は国を愛するだろうし、その延長線上での国旗・国家ならば、強制などする必要はない。アメリカの判例などでも、宗教上の理由から国旗に対して敬礼をしない自由が認められている。

それでも強制しなければならない理由は何なのか。国民が大切にされていなくても、すりこみによって一部の人だけの利益につながる「国策」を強制できるように、何も考えずに従う「臣民」を作りたいだけではないのか。そうした危険な「現実」に対して、司法の独立の立場からストップをかけた、というのが今回の判決だろう。

もちろん、日の丸や君が代を心から愛している人からそれらを奪う、という判決ではない。教師を統制することで児童・生徒を統制し、宗教や国籍、あるいは戦争との関わりで日の丸と君が代を受け入れられない人々が日の丸や君が代に敬意を示さなくてもすむ精神的自由をあらためて確認したということに過ぎないだろう。

逆に、あらためてそんな事を確認しなければならないほどの歪みが、東京都の教育行政にあったということになる。判決では教育基本法の10条の規定にも触れているが、もちろん教育基本法は改正されているわけではなく、制定の経緯からすれば「教育の憲法」としてあらゆる公務員が遵守する義務を負っている。それをせずに、ここまで強行してきたことに、それを推し進めた側の不実と不正義を感じる。

「改正」を議論する以前に、今までごまかしてきたことをきちんと守る義務を果たすことが大切ではないだろうか。そうした視点で学校行事の日の丸・君が代を見たとき、また異なったものが見えてくるのではないと思う。憲法や法律は、まず、政府や公務員が遵守する義務を持つものなのだから……。

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2006年7月30日 (日)

非常勤講師の労働条件

今日、中学や高校の講師を長く経験した人と話をしていた。講師といっても、常勤か非常勤かでも社会保障などの扱いは全然違うし、また非常勤講師もさらにいくつかに分かれているようである。

例えば、条件が悪いものになると、週8~9時間で授業がなければ何も出ないものがある。当然、労災や厚生年金などの社会保障はその仕事としては付いていない。その場合は、1つの学校の講師を引き受けただけでは月にしても10万円を切ってしまうので、それ単独では生活できない。したがって、それだけをあてにして生活をする人には頼めないということになる。

また先生という仕事はその時間だけ授業をすれば良い訳ではなく、当然、教材研究やテストの作成・採点・成績関係の事務なども生じてくるわけだが、憲法や労働関係の法規からまともに考えれば、その時間しか給与が出ないのであれば、教材研究やテストの作成・採点・成績関係の事務はやらなくても良くなってしまう。けれども、それではまともな教育は出来ないので、周りの非常勤講師の話を聞くと、それらは学校に残ったり家に持ち帰ったりしてやっているようである。明らかに「サービス残業」だが、非常勤講師の好意に頼っているこのおかしな状況で、本当に教育の質が保てるのだろうか。ちなみに、これは公立の中学・高校の話であり、講師の雇い主は、「サービス残業」などと呼ばれる賃金未払い労働を無くすように一般の企業に指導しなければならない筈の地方公共団体である。

さらに恐ろしい話を聞いた。特に県の南部の高校で、講師や非常勤講師の割合が増加している。ある高校などは半分近くが講師や非常勤講師で、三分の一ほどが非常勤講師であった。このような体制で、本当に未来の国民を育てる教育が可能なのか。大いに疑問である。

以前にも書いたが、「教育基本法の改正」などを話題にしたり、「愛国心」どうこうを議論する前に国や地方公共団体は「条件整備」の義務を果たす必要がある。少なくとも、教育基本法は現在も廃止されていないのだから、法律を守り、その実現に努力をする責務があるはずなのである。日本の将来を考えるのであれば、ぜひとも教育の体制を(お金をせこくケチったりせずに)早急に整備する必要があるだろう。

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2006年7月23日 (日)

国民のための教育行政を !

今日の新聞をパラパラと見ていたら、愛国心の評価が小学校の通知表に入っていたという記事が目に付いた。一部の地域のことだが、その中で学校によっては子どもたちの学習に馴染まないということで削除したところもあるらしい。当然のことである。

そう言えば、昨日の新聞には教員免許を10年ごとに更新する制度を導入する方向であるとの記事が載っていた。いわゆる「不適格教員」の問題と関わってのことらしいが、それで、教員の質の向上にどれだけ寄与するかは疑わしい。逆に、その制度自体を、その時点の政府や与党に必ずしも賛成し協力的でない教員のパージに悪用する危険性がある。

「愛国心」についてもそうだが、本当の意味で10年先、100年先のことを考えた上での教育行政ではなく、一部の人間(主にその時点での政府・与党・権力者)にとって都合がいいだけの「教育行政」になってしまっている。それによって、子どもたちにどれだけの力をつけることが出来たのか。矛盾を日教組に押し付けて(もちろん、日教組がすべて正しいという気はないが……)自らの政策の矛盾をきちんと分析、方向転換をしないまま放置し、それがさらなる矛盾や問題を生み出している。結局、現行の教育基本法にある「教育への不当な支配」を推し進めた結果としての教育の荒廃だったのではないかと思われる。

そして、その矛盾をごまかし、さらに「不当な支配」を強化するために、現行の教育基本法を変えようとしている。それで、子どもたちの能力が本当に開花するのか。大いに疑わしい。逆に、本当に子どもたちのことを考えたとき、愛知県犬山市の教育行政に心を惹かれるものがある。

教育行政(だけでなく政治全般についても)に必要なことは、本当に未来の国民としての子どもたちの能力をいかにして開花させていくか、それが子どもたち一人ひとりの幸福や国民全体の幸福にどのようにつながっていくかという視点であろう。愛国心など、国が国民や子どもを本当に大切にしていれば、自然に育まれる。それを声高に叫ばなければならないのは、変えようとする側が、一人ひとりの国民や子どもたちを本当の意味で大切にしていないからだろう。

屁理屈はいらない。20人学級を全国で実現するだけで、教育環境はかなり劇的に変化するはずである。少なくとも、そうした努力を見せ、それなりの成果をあげてから、教育基本法の問題に手をつければならないのではないか。そして、あくまでも大切にしなければならないのは、子どもたち一人ひとりの能力の開花と幸福である。それを守り、支えるための教育行政が実現されることを心から願っている。

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2006年7月20日 (木)

まともな教育改革を

この地域では、明日から学校が夏休みに入るようである。が、学校現場では問題が山積みだ。実際問題、「愛国心」どうこうと遊んでいる暇はない。確かに、現行の教育基本法にも不十分な点はあるかもしれないが、それをきちんと実現する努力がなされた上での改正……ということでならば話はわかるが、現行の教育基本法の理念の実現をおろそかにしたり、骨抜きにしたりしながら、それに対する反省をせずに教育の荒廃を現行の教育基本法に押し付ける。おかしな話である。

例えば、現行の教育基本法の10条には、国や地方公共団体の教育条件の整備の義務が書かれてあるが、先進国で20人学級を実現していないのは日本くらいである。この事実だけでも、政府・文部科学省が現行の教育基本法の理念の実現から逃げていることが良く分かる。そして、20人学級を実現するだけで、様々な教育問題はかなり改善される。そうした分析が、ほとんど表に出てこないのはなぜか。政府や文部科学省に都合が悪いからだろう。

また、教育現場で、講師の数は増加傾向にある。ところが、その条件は妙に細かく差別化されていて、中には授業時間のみ…という条件のものもある。けれども、テストや採点、ノートなどの提出がなしでも良いのだろうか。そんな事はない。結局、時間のみの講師の【サービス残業】によって教育が維持されているのである。【サービス残業】と言えば聞こえは良いが、もちろん、賃金未払い労働である。公共機関がそんなものに頼ること自体が不当であり、不法であると言えるだろう。法的な観点から言えば、授業時間のみしか払ってもらえないのであれば、それ以外の仕事は拒否できることになるが、それは決してよい授業にはつながらない。これも、公的機関による条件整備の問題である。

二つほど、ほんの些細なことを挙げたが、これを改善するだけで、教育現場での問題はかなり劇的に改善される。それを疎かにしたままでの不真面目な教育改革論議にはまったく賛同できない。まずは、現行法の枠内で、しなければならないことをきちんと実行してから、あらためて「まともな教育改革」の論議を始めるべきだろう。

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2006年7月18日 (火)

感性の教育

教育の現場から、どんどんゆとりと豊かさが奪われ、失われている。いくつかの教育現場に関わっていて、最近特にそれを感じる。その中でも、特に危機感をおぼえるのは教育における感性の部分である。

お互いの思いや感情を共感し、分かり合えているか……。それを考えながら現場の様子を見ていると、どうも、その辺りがうまく機能しているようには感じられない。コミュニケーション能力の問題もあるのかも知れないが、お互いの共感や理解が弱いように思えてならないのである。

それを、どうすれば良いのか。もちろん、即効性のある特効薬などは存在しない。けれども、キーワードの一つは表現だろう。

例えば、美術の時間を考えてみよう。子どもたちの中に「写真のようにそっくり」であることが上手い、という思い込みはないだろうか。私は、それがけっこう多いのではないかと思っている。そして、それが「自分は写真のように【上手】には描けないから下手だ、下手な絵は恥ずかしい、だから絵はキライだ」などという思いになり、美術表現の可能性を閉ざしてしまっている。そんな風に見える場面が少なからず見受けられるのである。

けれども、写真のような絵が【上手】なら、ムンクもシャガールもミロも下手だと言うことになる。とんでもない話である。

これは、美術の表現技術以上に深刻な問題にも関わってくる。下手だから描かない、またそれを認めるのがいやだから真剣に取り組まない、ということになると、自分自身の手で表現の可能性を一つ閉ざしてしまうことにもつながっていく。

言葉での表現が苦手であっても、他の表現手段があれば、それによって自分の思いが伝わる可能性がある。それどころか、きちんと受け止めてくれる人がいれば、自分の思いにすらなっていない心の中の混沌としたものをも含めて理解してもらえる場合がある。そして、表現を理解してくれる人の存在を実感できることで表現は洗練され、伝達能力を高めていく。

それが、他の人々からの共感をも引き出すと同時に、自分自身の心の安定や成長にもつながっていくのである。そのためにも、【感じる】こと、【感じ取る】ことは、とても重要である。けれども、そのためには、創作や鑑賞の過程に十分な時間をかける必要がある。ところが、学校をはじめとする多くの教育現場において、それが効率の名の下におろそかにされているように思われる。

日の丸や君が代、愛国心などで遊んでいる余裕は、今の日本の教育現場にはない。それよりも、感性の教育を充実させることが、多くの問題を少しでも改善するための土台として必要だと思う。

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