2013年1月18日 (金)

「体罰事件」報道の底の浅さ

大阪での「体罰事件」の報道を見聞きしていると、日本のマスコミ報道は、体罰をしていた教師の「個人的責任」の方向で進めているように感じられる。確かに、教育現場での体罰自体は良くないことだし、それは法律でも禁止されているわけだが、法律ができて何十年も経っているのに、体罰事件は繰り返し報道されている。今回の場合は、高校生の尊い命が失われたために大きく取り上げられたわけだが、日本の教育の現場でこの教師以外に体罰が行われていないわけでは決してない。繰り返されるということは、教師一個人の問題ではなく、体罰が繰り返される構造がある。にも拘らず、マスコミは、そこまで突っ込んだ報道から逃げているように思われる。つまり、繰り返される体罰事件は、底の浅い報道を繰り返し続けているマスコミにもその責任の一端はあると言えなくもない。
ところで、なぜ体罰事件が繰り返されるのだろうか。ほとんどの教師や教育関係者は、学校現場において体罰は法律で禁止されていることをよく知っているし、体罰そのものに本当の意味での教育的効果は期待できないということを知っている教師や教育関係者は多い。だから、マスコミ報道がそれを繰り返してもほとんど意味はない。事件が起きると声高く当事者のみを批判する政治家やマスコミ関係者、評論家は多いが、彼らが荒れた学校で生徒を指導する立場に立った時、その事件や当事者を批判した言葉に責任を持てるだけの力量を持っている人はそれほど多くはないだろう。体罰事件が起きる構造を解き明かし、効果のある具体的な指導法を提示することもなく、「攻撃」だけを目的とした「批判」を繰り返すのは非常に無責任である。
例えば、小泉改革以降、福祉予算とともに教育予算は削られ続けている。今や、OECD諸国の最低ラインという恥ずかしいレベルである。一方、発達障がいの問題や家庭の貧困からくる子どもの様々な問題など、学校現場は多くの困難を抱えている。まともな政治家やジャーナリストならば、「現場」でできることとは別に、「教育行政」として教育環境を整えるための予算措置や制度改革の提言や実現への努力を口にしてしかるべきではないだろうか。30人学級の実現も、特別支援教育のための予算の充実も、スクールカウンセラーの常設も遅々として進まず、非正規の教職員を増やして正規職員を減らすような無責任体制を拡大させてきた教育行政。政治家も、マスコミも、現場をバッシングして責任をごまかすのではなく、やるべきことをきちんとやらなければならないと思うのだが……。

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2012年10月 4日 (木)

いじめ雑考

また、「いじめ」事件がマスコミを賑わしている。以前、県内のとある郡PTA連合会に呼ばれ、いじめの問題について講演したことがあるが、マスコミの報道の仕方では「いじめ」は決してなくならないと感じている。なぜなら、数年、もしくは4,5年に一度くらいのサイクルで「いじめ」事件がセンセーショナルに報道されてはいても、事件そのものは何度も繰り返されているからである。報道は、決して「いじめ」が起きる構造に踏み込むことはほとんどなく、精神論を繰り返すだけである。精神論で実際に減少したりなくなったりするならば本人たちの意識の問題で解決できるが、何度も繰り返されている以上、精神論では通用しない。本気でなくそうと考えるのであれば、その構造に深く切り込んだ報道によって、環境や構造そのものを変えていくきっかけを作っていく必要がある。
さて、いじめ事件が起こると「精神論」を振りかざして解決できる気になる無知で愚かな連中に出くわすことが少なくないが、ここでちょっと考えてみよう。学校の教師や職員で「いじめはいけないことである」と考えている人はまずほとんどいないだろう。同じように、子どもたちに尋ねてみてもほとんどの子が「いじめはいけない」と答えるだろう。そして、子どもたちの親や家族も「いじめは絶対にいけない」と答えるに違いない。だから、誰もが「いじめはいけない」「いじめは悪いことだ」と知っているのである。
知っているにも関わらず、「いじめ」事件が繰り返されるのはなぜだろうか。『龍』という村上もとかのマンガで、主人公が記憶を失って世話になっている家の子どもがいじめられているシーンがあり、「やっている子どもにとっては【遊び】…」というセリフが出てくる。「いじめは悪い」と知っていても自分がやっていることが【遊び】やストレス解消の【気晴らし】だと感じているとしたら、「いじめ」は止まらない。そして、もう一つ、そのように陰湿な【遊び】や【気晴らし】をしなければならないほど深刻なストレスや苦痛を【やっている子ども】がどこかで感じている可能性もけっこう高い。そうだとすると、やはり「いじめ」は止まらない。ターゲットが移動するだけである。
とすれば、「いじめ」を減らすには、学校や親に「精神論」を押し付けても無駄で、それよりも子どもたちがストレスを溜めないように丁寧にケアできる環境を整えることが重要となる。その前提条件として、大人が心にゆとりをもって丁寧に子どもたちに接する時間を増やすことが必要になる。小泉改革以降、教育予算を減らし続けてきたことや、人件費を削って家計収入を低下させる政策を導入し福祉予算を削って家庭から経済的・時間的余裕を奪ってきたことは、それに反する正反対のことを行ってきたことになる。「精神論」にごまかされないで、そうした構造にメスを入れ、改善していく努力をしていくことが我々大人に必要であろう。

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2010年3月16日 (火)

子ども手当てと高校無償化

曲りなりに…という印象はあるが、子ども手当てと高校授業料無償化が何とか進みだそうとしている。前政権政党によるバラマキ批判はあるが、失政に失政を重ねて家計の収入を奪い、低賃金化わ許して生活のために残業を余儀なくさせられて子どもや地域の活動に割くための時間を無くする政策を推し進めて地域と家庭の教育力を崩壊させてしまった政党の、どの口がそれを言うのか、と呆れてしまう。すべては、前政権の失政と悪政のツケであり、その尻拭いのために暴走資本主義によってバラバラにされ集団としてのパワーを失ってしまった様々な組織に個人が頼れなくなってしまったからこその個別保障の一環と言えるだろう。

社会主義的な視点から見ても、本来の意味での保守的な視点から見ても、家庭や地域の教育力や相互扶助のパワーが減少している現実は、危機的である。これは、「国際競争力」を口実にした大企業の人件費削減要求に無批判・安易に乗った旧政権の責任が大きく、十分な収入を得られなくなったからこそ長時間労動や不安定就労を強いられて国民の多くが家族のための時間や地域のための時間を安心してとれなくなった結果、子どもも含めた周囲の人々との関わりを薄くせざるを得なくなってしまった事による。そのため、集団として資金を還元しても集団の中で適正に配分される可能性が著しく減少したからこその家庭・個別への保障をせざるを得ないのである。

ある意味では、家族に子どもを支え関わることのできる十分な時間と収入があれば、子ども手当ても、高校無償化も不要である。が、それが困難な現実にあって、焼け石に水という感じはしても、間違った現状認識とゴマカシの上に立って何もしなかった今までよりも1歩前進しようとしているように感じられるだけの事である。したがって、子ども手当ても、高校無償化も第1歩に過ぎず、家族や地域のために割く時間を確保しつつ、生活が出来る収入を確保するための税制改革・財政改革も必要となるし、家族や地域の立て直しを進める政策も必要になってくる。

国会での議決は第1歩に過ぎない。国民として、これから何をしていくのかを注意深く、そして厳しく見守っていく必要があるだろう。

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2009年10月10日 (土)

見直しは当然 ! 学力テスト

異論があり、問題点も多く指摘されていた全国一斉学力テストが、今回の政権交代で見直される可能性が強まっている。全国の公立学校では、犬山市教育委員会がきちんと反論して参加に強い抵抗をしめしたが、文部科学省や自公政権はそれに対するきちんとした説明は行いえず、かつ私立学校の離脱や裏に隠した競争至上主義に過剰反応を示す自治体が現れるに至り、矛盾は明らかであった。

それでも、自公政権の意思を組んで市教育委つぶしに動いた現市長により参加せざるを得ない状況に追い込まれたが、独自の対応を加えることで一定の筋を通した。その市教委を支えていた前市長が民主党の衆議院議員として当選し、民主党政権になったこともあり、見直しの流れは、かなり可能性が高まっている。市教委つぶしに動いた現犬山市長は沈黙している辺りが、その行動の愚かさを示している、といったところか。

それにしても、全員に受けさせるということ自体が、大いなる税金の無駄遣いであった。サンプルとしては統計学的にも抽出方式で十分であり、それによっておかしな競争至上主義は駆逐されるだろう。データをきちんと分析した上で、学力の低い地域には逆に教育予算を手厚くして、子どもたちの教育を受ける権利を守って欲しいものである。

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2009年8月20日 (木)

政権評価とマニフェスト

名古屋にある新聞社の記者から取材を受けた。選挙を間近に控えて、市井の教育関係者に対しての取材…ということだったのだが、マニフェスト以前に現政権の評価が必要である、という立場からまず話を始めた。

こと、教育に関して言えば、自公政権の今までやったことは、評価に値しないと考えている。OECD諸国の教育予算の割合を比較しても、日本は先進国レベルに達しないどころか、下位を低迷している。教育が充実していて問題も少ないがゆえに教育予算を削減した、というのであればまだ話は分かるが、学力、子どもの貧困、高校中退の増加、不登校、就労など、教育の場は問題が山積している。にも関わらず現政権は教育予算を削り続けてきたのである。もちろん、お金だけの問題ではないが、例えば、先進国並みに20人(30人ではない)学級を実現するための予算を組むだけでも状況はかなり改善される。事実、犬山市は、独自に30人学級を完全実施することによって、それなりに成果を挙げていた。お金が総てではないけれども、予算の問題はそれなりに重いのである。

少子化の問題も、実はこの教育行政の貧困の影響は少なくないと考えられる。子どもを産んでも、十分な教育を受けられなければ将来的に不利になるだろう、という判断が働けば、子どもの将来の幸せを考えれば、十分に子どもに教育を受けさせることの出来る範囲の子どもしか育てられない…という判断をする人は少なくないだろう。そうした意識は、当然、子どもを産むことへの抑制につながっていく。実際、今の日本では、大学進学まで考えると相当なお金がかかり、家庭が豊かでなければ進学を断念せざるを得ない場合も多いのである。

格差社会は子どもの貧困を産み、ちょっとしたアクシデントで家計の収入のバランスが崩れて、払う意思はあっても給食費を払えなくなるような家庭も増えている。国家としての将来を考えるのであれば、子どもが貧困ゆえに十分な教育を受けられず、才能を開花させられないまま崩れていく、という場合が増えるようでは大いなる損失である。

その意味で、1人ひとりの子どもに焦点を当てて、少なくとも高校卒業まではきちんと支援していこう、という発想は正しい。その意味において、民主党のマニフェストは多少なりとも評価できるが、乳幼児の段階までで支援を打ち切ってしまうという自民党のそれは、現在までの失政の反省がまったくなく、評価できないと言えよう。

財源の裏づけ…などという反論が自民党辺りから聞こえてきそうだが、確かに民主党の財源も分かりにくさが伴うが、少なくとも、増税と赤字国債を「財源の裏づけ」とは認められないし、自民党の言う「財源」は、これまでのところ、「赤字国債」に多くを頼ってきている事実からすれば、民主党を攻撃できるほど確かなものであるとは判断できない。国民の1人としては、「どの口でそれを言うのか」というところである。

また、教育の荒廃は、子どもを支える家庭や地域の荒廃とも関わっているが、その元凶は、安易な金融資本主義化によって賃金や労働環境を悪化させ、家計から経済的ゆとりを奪うと同時に、家族から子どもと関わる時間を奪い、地域の人々と関わることのできる共通のゆとりのある時間を奪っていった経済政策にある。人々はつながりを失い、経済的・時間的なゆとりを失ってしまったのである。

関係がバラバラになっている状況で、「集団」に支援を入れても、個々人にまでは行き渡らない。実感の伴わなかった「景気回復」はそのためなのだが、自民党はその失敗を省みることなく、相変わらず「集団」を支援しようとしている。支援は、現状を考えれば「個別」に行う方が正しいと言えるだろう。

取材の中では、就労の問題や学習指導の問題、現在の特別支援教育の問題などについても具体的な事例をあげながら話をしたが、結論としては、失政を省みることなく相も変わらず同じレールを強いて間違いを正そうという姿勢をまったく見せない現政権にだけは絶対に政権を渡してはならない、ということで話を締めくくった。月末には、投票である。

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2009年4月22日 (水)

今一度問う、何のための学力テストか

全国一斉学力テストが今年も行われた。市長の異常な圧力のせいもあって、今年は犬山市も学力テストに参加したが、犬山市の教育委員会は、この学力テストを少しでも犬山市の教育に生かすために迅速に「どのように使うか」を決めて公表した。その姿勢は、教育を知る者にとっては、やる以上は犬山市の子どもたちの教育の改善のために直接生かそうとする強い意思が感じられた。逆に、犬山市長のコメントは、教育に対する乏しい知見と犬山市の教育に対する無責任で感情的な考え方を露呈することになった。

一方、私立学校の受験率は連続して下がり続け、3回目の今回は60%台にまで落ち込んだ。これは私立学校が「この学力テストに意味はない」とシビアに判断した結果である。私立学校といえども、憲法・教育基本法・学校教育法等に定める基準を満たしているので、広い意味においては《公教育》の一環を担っている。それが、「不参加」を選択する学校が年々増加する……ということの意味は決して小さくない。

ある意味においては、不参加を決めた私立学校の増加と、犬山市教育委員会の対応は、文部科学省が推し進めた全国一斉学力テストの教育政策的な意味を突きつけているのである。問題の内容がころころ変わって定点観測の意味もなくなっているし、何よりも、なぜ、全員に受けさせるのか……ということの説明は3回目を数える現時点においても十分に説明されたとはいえない。そして、採点やデータ処理に費やす時間とその生かし方についても、すっきりとした説明がされているとは言いがたいし、何よりもここに使う予算を特別支援教育や学校カウンセラーの常設、30人学級の実現等に当てた方が、ずっと子どもたちの現状の改善に直結するだろう。

現状の形でズルズルと学力テストを続けるのは時間と予算の無駄である。文部科学省は、学力対策のアリバイ作りと一部の企業を設けさせるだけで大して意味のない全国一斉学力テストを取りやめ、せめて先進国並みの20人学級(30人学級ではない、念のため)を実現するための努力と予算の重点配分を優先すべきだろう。

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2009年3月 2日 (月)

市岐商問題の底にある教育行政の貧困

ローカルニュースで、市立岐阜商業高校の存続問題を取り上げていた。「存続させて欲しい」という生徒たちや卒業生、保護者たちの思いは純粋で、感情面でもよく分かる。では、市長は、本当に存続を望んでいないのだろうか。存続させるには、経済的・予算上の問題が大きい事を知っているからこそ、あのような選択をせざるを得なかったのだろう……ということを報道を見ていて感じた。

その意味において、市長に反対する議員の行動は、冷静に見ているとあまりにも不十分である。なぜなら、対案を示さずに感情的な反対の声に押されて、そのまま反対に動いてしまっているようにしか見えないからである。少なくとも、議会で反対をした以上、市長選の際には対立候補を擁立すべきであったし、それが出来なかった以上、経済的・予算上の対案を市長と市民の前に示すべきだろう。例えば、耐震工事に必要な資金を寄付によってきちんとまかなう目処を示すとか、市岐商存続のために、他の予算をきちんと削減してその予算上の費用を確保するなど、いくつかのやり方がある筈である。そしてマスコミも感情的な取材だけではなく、そうした面にも光を当てるのがその役割だと思われる。

ただ、問題の本質は、別のところにある。それは、日本の教育行政の貧困さに起因するからである。日本政府は経済大国を自認するが、その日本の教育予算は、先進国ばかりではないOECD諸国の最低レベルである。だから、政府が、せめて他の先進国並に教育予算を充実させていれば、多くの教育現場で起こっている事件の何割かは防げたのではないかと思われる。市岐阜商の存続問題も、結局はまともに教育環境を整えることなく、教育や福祉の予算を安易に削り続けた結果であろう。私たちは、感情的な部分のみに目を奪われることなく、その背景に流れているものをしっかりと見据えていく必要がある。

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2008年10月28日 (火)

シンポジウムを終えて

10月26日に三重大学で開催された不登校のシンポジウムにパネラーの1人として参加した。親の会の世話人を代表しての参加であったが、エンカウンター・グループとしての親の会は、ある意味では、公的機関による設立は難しい(本人や親が学校などに不信感を持っていたりすると、逆に公的機関が設立すると不信を覚える場合がある)ような部分もある。民間グループとしての「距離」は必要なのだが、一方で、存在を知っていただき、お互いに協力しあえれば、問題に対処していく際に大きな力となる。そうした意味において、「三重県・考える会」という親の会の存在を県内外の関係者に知っていただく機会を得たことは、これからの活動にプラスになると感謝している。

さて、今回は「不登校シンポジウム」ということで、ひきこもりの問題や就労の問題については触れられることはなかった。けれども、それらが不登校問題と地続きの大変深刻な問題であることも確かであり、加えて、LDやADHD、アスペルガーなどの特別支援教育と不登校問題についても、まったく触れることができなかったことは残念だった。この問題については、不登校とのかかわりも含め、医療機関との連携の必要性や、とりあえず「診断」をしてもらうと「療育」のルートに乗せやすくなり、それによる接し方の変化によって不登校へといたらずにすむ場合が出てくることもあるので、その辺りも、今後の課題となるだろう。

ところで、指定討論について、4つのうち3つも指名していただいたが、時間の関係で急いで1つを答えることしかできなかったので、この場で3つの答えを述べておこう。

1)不登校、引きこもりの方と向き合った時、元気を出して笑顔を見せてもらうためのコツは何でしょうか?

・あれば、ぜひこちらが教えていただきたいところですが、好きなことや得意なこと、興味を持っていることからアクセスを試みるということが大切だと思っています。そこから、様々な「表現」(言葉に限定しない)を引き出し、それを受け止めながら、みんなで可能性を探っていくことでしょう。ただ、「好きなことがない」といった場合はいっそうやっかいです。その場合は、詩などの文学や音楽、美術表現や手仕事、作業など、こちらがある程度一緒に関われて表現を受け止められるような「場」に誘ってみるような手立てをとって見るのも1つの方法だと思います。ただ、その際には「私が好きだから一緒にどう?」というスタンスが大切で、「あなたのためだから」という【欲】を出してやるのはNGでしょうね。

2)家庭教育力を向上させるためには、どうしたら良いでしょうか。良いアイディアをお示し下さい。

・企業の都合最優先の悪質な労働環境を是正し、サービス残業には厳罰を処し、6時以降の残業は3倍の時給を保障するなどして社会システムとして家族と過ごす時間を確保する事が大切でしょう。それと、一般の「先進国」並みの20人学級を実現しOECD諸国のトップクラス並みの教育予算を使えば、普通に家庭生活を営むだけで十分だと思います。が、今の現実の中で可能な事は、できる範囲で、子どもたちと一緒に過ごす時間を少しでも増やし、理解が可能かどうかは別として、子どもたちが好きなもの(マンガでもゲームでも音楽でも)にも接してみて、感覚や感性の波長を合わす努力をしてみると同時に、親自身も大人として自立/成熟していくことが大切だと思います。

4)学校のない教育制度をご提案下さい。

・これには反対します。日本国憲法の子どもの権利としての【義務】教育と改悪前の教育基本法の精神を実現すれば、「学校以外の選択肢であっても、社会の中で人間として自立し生活する力を身に付けられればO.K.とする」という複数のルートを認めて良い…という
ことになるでしょうし、学校をなくしてしまうことは、必ずしも良いことばかりとは思えませんので。それに、日本国憲法の精神や子どもの権利条約の精神とかけ離れている今の日本の学校制度を是正するだけで、不登校やひきこもりの問題はかなり改善すると思われるからです。とりあえず、十分な予算と人員を配した特別支援教育の充実、20人学級の実現だけでも、けっこう効果はあがるはずです。唯一、学力テストを拒否した犬山市教育委員会は、市独自で予算をつけて、30人学級を完全実施しそれなりの効果をあげていました。ただ、現行の一般学校とは別のルートとして、夜間中学のような形やフリースクールのような形は柔軟に認めていく必要はあるでしょうし、中学卒業資格認定試験や大検などの制度を改変・充実させて、独自の判断で学習し自立していける複数のルートを保障することも必要だと思います。

問題からして、時間的には十分とはいえなかったが、それでも意味のあるシンポジウムだったと思う。

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2008年4月22日 (火)

何の為の学力テストか

昨年に引き続いて全国一斉学力テストが行われたが、再開して1年も経つというのに、その目的が見えてこない。そもそも、旭川学力テスト裁判などの経緯を経て、1度は中止したものである。私立学校の参加率が前年よりも低下していることなども含めて、なぜ、今、学力テストが必要で、それをどのように使っていくのか…という点がまったく見えてこない。だから、《予想問題》をさせる…などということも起こってくる訳である。

その点、犬山市教育委員会の主張は一貫しているし、納得もできる。例えば、学力テストの結果、点数の悪い地域・学校に重点的に教育予算を増やし、子どもたちの教育環境を整えるための資料として利用するような使い方をするならば、独自の工夫や予算で子どもたちの教育環境を整える努力を続けている犬山市教育委員会も参加するだろうし、《予想問題》など作ったりもしないだろう。

そう考えてみると、多くの予算を使って全国一斉に行われる学力テストの意味も見えてこないし、そんなことよりもその予算を使って教員の数を増やし、30人学級の完全実施や学校カウンセラー、あるいは学校図書館司書等の常設を実現する方がずっと有益である。「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」という意識で学力テスト参加を求める犬山市長や文部科学省は、犬山市教育委員会が突きつけている疑問に答える責任がある。

何の為の学力テストなのか。それをどのように使うのか。そして、それが本当に子どもの学力を高める有効な手立てとなっているのか。そして、その為に使われる予算の額と効果はどうなのか。それらの問いに答えられない全国一斉学力テストであれば、税金の無駄遣いであり、やる必要はないだろう。

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2008年3月28日 (金)

国民を愛してこそ愛国心を語れる

今回の学習指導要領の改訂で、密室の中から突然「愛国心」がらみの強制が追加され、中教審の委員からも不満や不信の声があがったという記事を新聞で読んだ。無責任かつ国民を無視した反民主的な話である。小泉内閣から安倍内閣、そして福田内閣と続いた自公政権が、どれだけ一般の国民を無視し、苦しめる政策を推し進めて国民生活を破壊してきたかは、年金崩壊、医療崩壊、生活破壊、自殺者数の高止まりなどの現実を見れば明らかである。

ある意味では、政府が国民を愛し、大切にしていれば、国民の誰もが自然に国を誇りに思い、愛し、大切にするだろう。「愛国心」など強制する必要はない。けれども、それをしていないからこそ、国民に対し「愛国心」を強制しなければならなくなる。何度も書いていることである。つまり、ここまで「強制」が進んできたのは、それだけ国民無視の政策を続けてきたという証拠なのだろう。

ガソリン税の問題にしても、明らかになってきた本来の使途に関係ない使われ方をきちんと調査・説明し、不正な部分はその責任を明確にして、関係者にそれを返還させた上でないと、税の一般財源化や税率の議論はできない。それが、まっとうな手続きである。福田内閣のやり方は、そうした基本を無視して、ただゴリ押しをしようとしているだけである。学習指導要領の「愛国心」の問題も、ある意味では、そうしたやり方をそのまま続けているだけ、と言える。

だが、そんなことをしていて、日本の未来が開けるのか。答は否である。「君が代」を無理に歌わせるよりも未来の日本を背負う子どもたちにつけなければならない大切な力がある。例えば、コミュニケーション能力、例えば他者に共感し、対話できる力…もっとも、首相をはじめ与野党の国会議員の中にもこれらの能力に欠けている人は多いが……。

まずは、国民が安心して生活できる社会/国を作ってから、愛国心を語るべきであり、それを無視し、現場の声を無視しても、現場が混乱するだけだろう。そして現場が混乱すれば、結局は、そのツケは子どもたちに回り、日本の未来にもマイナスとなる。本当の愛国心は強制では育たない。

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