2014年7月31日 (木)

女性が先に死ぬ物語

ジブリの「風立ちぬ」のDVDを見た。主人公の堀越二郎の婚約者菜穂子は、途中、結核で亡くなる。主人公に恋人がいて、物語が進み、どちらか一方が亡くなってしまう時、亡くなるのは女性であるケースはかなり多い。
それを最初に意識したのは、新井素子の小説『グリーン・レクイエム』の明日香だった。他にも立原あゆみの『本気!』の久美子やアニメ『さらば宇宙戦艦ヤマト』の森雪やマンガ『ピグマリオ』のオリエ、マンガ・アニメ・映画の『デビルマン』の美樹などもそうである。恋人ではないが『ポーの一族』でもメリーベルは兄のエドガーよりも早く消滅してしまう。ざっと部屋を見渡しただけでも、これだけの女性が先に死ぬ物語がある。
逆に、男性が先に死ぬ物語は、というとなかなか思い当たらない。せいぜい『銀河英雄伝説』でラインハルトやヤン・ウェンリーがヒルダやフレデリカよりにも先に死ぬのを思い出した程度である。それくらい、男性が先に死ぬ物語は少ない、ということなのだろうか。
だが、現実はどうか。生物学的には女性の方が生命力は強いようである。平均寿命も、だいたい、女性の方が長い。夫婦でも、女性が年下であることが多いのもあって女性の方が男性よりも早くなくなる場合は少ない。どうも物語の傾向と現実は正反対だと言えそうである。

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2009年11月22日 (日)

何とか書いた詩

来週の日曜は詩の同人の合評会がある。そしてその日は、次の号のための詩の締切日でもある。そのことは、ずっと前から分かっていたし、先月末頃から、何とか書きたいと思っていた。ところが、どうしても詩が書けない日が続いていた。さすがに、先週末にはかなり焦っていた。ところが、いくら焦っても、最初の1行が出てこない。その1行を書けるかどうかが、個人的には、詩を書く際の最も重要なポイントになっている。

別の雑誌の同人仲間の1人は、「降りてこないと書けない」と良く口にする。彼女は小説を書いているのだが、その感覚はよく分かる。エッセイや論文はともかく、小説や童話をきちんと書こうとすれば日常レベルの精神状態ではダメで、意識を集中して深いところまで【降りて】いきながらイメージを汲み出してこないとなかなか進んでいかないのだ。歌詞や詩はそこまでの感覚は無いが、それでもベースとなるイメージが必要で、そのイメージが脳裏にきらめいてはじめて最初の1行が出てくる、というのが私の創作パターンである。

ところが、そんな瞬間は、突然訪れる。今回の場合は、ブランチを終えて離れの玄関先に歩いてきた際に見たアキアカネがイメージを引き出してくれた。お陰で、その夕方、最初の1行を書き始めることが出来た。けれども20行目に近づいた辺りで、言葉が止まってしまった。その日は、結局、諦めて中断したが、今日の夕食を終えて外に出た時、不意に続きがひらめいた。何とか書き上げることが出来たのは、ほんの数時間ほど前のことだった。若い頃は、イメージももっとすらすら広がったのだが、これも歳のせいだろうか。まあ、とりあえず書けたことで今夜のところは良しとしよう。

 

 

陽だまりの秋アカネ

 

木枯らしの音が耳を射す

十一月の晴れた朝

一匹の秋アカネが

陽だまりにとまっている

 

ピンと伸びた長い尾は

紅葉よりも鮮やかに染まり

網模様の付いた透明な羽を静止させて

大きな眼で晴れた南天を見つめている

 

周りには仲間の姿もなく

小さな畑を隔てた家の陰を

冷たい風が吹き抜ける

 

それでも

玄関先の陽だまりは

北風が遮られ

温かな光が満ちている

 

そこに近づく足音に

赤とんぼは羽ばたき

収穫を終えた畑を抜けて

西へと飛び去った

 

気象情報は

寒気の南下を告げていた

明日の天気は下り坂

冬の足音は

一層近づいている

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2009年9月14日 (月)

鳥羽みなとまち文学館

所用があって鳥羽市に行ったついでに、鳥羽みなとまち文学館に足を延ばした。館長の岩田氏とは古くからの知り合いで、昨年末に行った時はたまたま年末年始の休業日にかかってしまっていたために入口だけ見て帰ってきたので、遅まきながら、今回が初入館となった。ここは、鳥羽市の生んだ民俗学者・文学者の岩田準一と、彼と交流のあった江戸川乱歩、竹久夢二にまつわるものが展示されている。入場は無料で、火・水が休館日となっている。

岩田準一の名前は中学校の頃から知っていた。彼の鳥羽・志摩の民俗に関する著作を何冊か読んでいたからである。ただ、その岩田準一が、実は江戸川乱歩と交流があったということについては、岩田館長と出会うまでは知らなかった。小中学校の時代には、怪人二十面相/少年探偵団のシリーズを夢中になって読んでいたので、それを知った時にはけっこう驚いたことを記憶している。

さて、鳥羽みなとまち文学館では、岩田準一の乱歩をはじめとする文学者たちとのやりとりの書簡や絵画、当時岩田準一が使っていた日用品などが展示されている。建物の中の雰囲気は、大正から昭和初期にかけての匂いに満ち、その雰囲気を味わいながらゆったりと過ごすにはもってこいの場所となっている。鳥羽駅から徒歩で10分ほど。忙しい日常から逃れるのにはもってこいのちょっとステキなスポットである。

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2009年3月31日 (火)

降りていく感覚

ここ数日、少しゆとりのある時間を使って、詩を書いている。だが、今ひとつ納得できるところまでいかない。意識の表面的なところで言葉を操っている感覚しかないのだ。そのため、自分の深いところで詩を作ったという実感がない。とりあえず書いてはいるが、もうひとつストンとおちないのはそのためだろうと思う。

小説や童話を真剣に書いている時は、精神的にかなりシンドイ思いもするのだが、集中していく中で、心の深いところまで降りていくような感覚がある。それは、自分として納得できる詩を書いたときも共通するところがあったりする。そんな時は、1つの言葉にも苦しむが、苦しんで苦しんで心の深いところまで降りて言った結果出てきた言葉はストンと胸に落ちる感覚がある。そうやって書いた作品は、詩であれ童話であれ小説であれ、自分としてはけっこう納得のいく作品となる。

ところが今回は、もう1つ集中し切れていない自分を感じている。それでも言葉を操ってとりあえず形にしているのだが、自分として納得できる「作品」になっていない。まあ、まったく書けないよりはましかな……という思いも一方ではあるのだが、それでも、書くからにはやはり深いところまで降りていく感覚を体験したいと考えている。

ここ数日はゆったりしていたが、もう少しすればまた忙しくなってくる。少し環境も変わるので、それが、新しい詩を書くきっかけになってくれると良いのだが……。

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2008年12月15日 (月)

2つの【私をとめて】

シャンソン歌手の北岡樹(みき)さんが歌う「ぶたないで」という歌を、先日の津への行き帰りに車の運転をしながら聞いていた。この歌は、幼児虐待をテーマに作詞したもので、北岡さんは、それをシングル・カットして無料で配布したり、そのシングルへのカンパの一部を寄付したり…という活動を続けている。先月は、久しぶりに生で「ぶたないで」を聞く機会もあったが、作詞者としては久しぶりに聞くと、どうも恥ずかしさが先に立ってしまって、何となく居心地が悪かったのを覚えている。

さて、そのアンサー・ソングという形ではないが、北岡さんのライブでの意見の中に、虐待をしてしまう方の側からの歌が作れないか…という話があり、「私をとめて」という詞を書いてみた。実は、この「私をとめて」だが、現時点では2つのバージョンがある。2つ目の方がより深刻なバージョンになっているが、背景に、母親や家族を追い込む社会や政策の貧困がある。OECD諸国で最低の教育予算、母子家庭で、まじめに働く母親が貧困から抜け出せない唯一の国、日本……。子どもを安心して育てられない国や社会で、少子化が進むのは当然なのである。幼児虐待は、もちろん止めなければならない。けれども、そのためにしなければならない最低限の手立てがある。その現実/日本の中で進んでいる子どもの貧困の実態を、私たちは知らなければならない。

 

私をとめて

 

仕事が始まる 時間がせまる なのに この子はぐずってばかり

言う事きかず 甘えているの それとも 私を困らせたいの

 

この子をなぐる 手がとまらない しつけをしているつもりなのに

私の心が疲れ果てて 壊れ始めているのだろうか

 

 

隣の子どもは 聞き分け良くて いつも ニコニコ愛想がいい

だけどこの子は オドオドしてて 私の 困ることしかできない

 

この子に向ける 目がきつくなる 私が望んだ子どもなのに

悩みを相談できないまま 心の闇に呑み込まれそう

 

 

子どもはおまえに まかせたからな おれは 仕事が忙しいから

困っていても 相談できず 毎日 ストレスたまってくだけ

 

しつけをしてる そう思っても 何かが違うと感じている

早く私をとめてください どうか私をとめてください

 

 

 

私をとめて Ⅱ

 

私がこんなに 世話してるのに この子は ニコリともしない

泣いてぐずって 言う事きかず いつも私を困らせる

 

この子を何とか しつけなければ 可愛くないけど 私の子ども

心が壊れ始めているの? この子をなぐる手が止まらない

 

 

私が愛する あの人が言う この子は いつもオドオドしてて

言うこと聞かず 不器用すぎる こんな子どもは 好きじゃない

 

この子を何とか しつけなければ 私はきっと 捨てられちゃうわ

心に憎しみ生まれ始める この子はなぐるだけじゃダメなの?

 

 

子どもは愛するものだと言うけど 私も いつも殴られていた

だけど私も 母親だから 可愛くなくても 育てなければ

 

この子を何とか しつけなければ どなって殴って 蹴ってそれから…

私の心はどうなってるの? 誰でもいいから私をとめて

 

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2008年5月22日 (木)

そろそろ編集を…

文芸同人誌の編集を引き継いでいる関係で、そろそろ原稿が届き始めた。前号の発行が遅れに遅れてこの3月だったので、メンバーも今ひとつ締め切りの意識が薄いようだが、実は、先月末が次号の原稿締め切りだったのである。

昨年度は、今までになく多忙を極めた為に、編集自体が夏ごろまでずれ込んだが、原稿そのものも集まりも悪く、結局、夏の号を出せずにいた。それで冬の号…といく筈が《春》の号となってしまったのである。

ただ、今年度は、昨年度よりも少し余裕がある。自分自身も、いくつか詩の新作を書いているし、今日は少し時間もあったので、一時間半ほど仮眠してから簡単にできるものから手をつけ始めた。本格的には、また何人かの原稿が届いてから進めたいと思うが、とりあえず、5月のうちに編集を始められたのは喜ばしい限りである。

何とか、《夏》の号として発行したいと思うが、原稿が集まらなければずれ込むし、仕事が忙しくなる時期との調整がうまくいかなくなれば、これまた遅れることになる。ただ、昨年と比べると、時間的にも精神的にも多少余裕はある。一昨年までのペースを取り戻し、何とか、年2回発行…に戻したいものである。

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2008年4月12日 (土)

詩を書くこと

先月、ようやく同人誌の編集と発送を終えたが、別の詩の同人誌の原稿締切が近づいている。前回と前々回は、忙しい毎日の中で、どうしても詩が書けずに苦労したが、今回は、とりあえず書いてみた。いつも車で通る道を、たまたま歩いたことで見えてきたものや感じたことが、感性を刺激してくれたようである。これを、そのまま送るかどうかはともかく、とりあえず書けたことで気分的にはかなり楽になった。

   市道の春

 

いっぽ にほ さんぽ

いっぽ にほ さんぽ

 

小さな子どもと歩く道に

小さな春が顔を出す

風にゆれるタンポポ

カラスノエンドウ

ヒメジョオン

 

菜の花の間を

モンシロチョウが飛びまわり

ナナホシテントウが

葉っぱの先へと歩いていく

 

車で通り過ぎるときは

目に入らない春の息吹が

子どもの手をつなぎながら歩くと

とても身近に感じられる

 

春の嵐に散った桜の枝から

緑の葉が顔をのぞかせ

雨上がりの青空に

葉桜の枝が揺れる

 

いっぽ にほ さんぽ

いっぽ にほ さんぽ

 

小さな手がヨモギをつかむ

黄緑色の若葉から

春の匂いがこぼれる

 

この作品を出すかどうかは、まだ決めていない。明日も1日予定が空きそうなので、場合によっては、もう1つか2つ書いてみようか・・・とも思うからである。とりあえず、出来なければ出せる詩はあるし、できれば何か書いてもみたい。この心のゆとりがうれしい。明日の天気はどうだろうか?

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2007年12月13日 (木)

紅葉の夢…なんとかできた詩

   紅葉の夢

 

鮮やかな紅が

視界につきささる

日一日と深まる秋の道を

色とりどりの葉がにぎわせる

 

十分に生きた夏の日々を終え

その生の終わりを

美しい色彩で装う

最後の祭

 

それを終えれば

後は地面に落ち

土へと帰る

新たな生命を育むために

 

何のために生き

何のために死ぬのか

そんな意識や迷いはなく

ただ

日を浴び風雨に耐え

冷たい空気に終わりの時を知る

 

そして

それぞれの色鮮やかな衣装をまとい

散り逝くために着飾る

役割を果たして

生から解き放たれるために

 

鮮やかないでたちは

苦難の生への挽歌か

あるいは

やがて訪れる死への期待感なのか

 

そんな人の視線を知ろうともせずに

紅葉は

やがて散っていく

その生そのものも

長い長い夢かもしれない

 

 

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2007年12月 6日 (木)

またまた、詩が書けない…

詩を書くのは、シンドイけれどもけっこう楽しい。意識を集中して言葉とイメージを吟味していく作業は、何ともいえない緊張感とおもしろさに満ちている。しかし、そうした創作の世界で遊ぶためには意識を日常とは違う深いレベルで集中させ、心の中に眠っているイメージを引き出そうとする際には日常的な忙しさや意識は返って邪魔になる事も少なくない。だから、忙しい日が続くと、なかなか詩はかけないのである。

その意味においては、詩がなかなか書けずあきらめかけたこの夏の状況とあまりかわりが無い。最初のフレーズが出てくると、突然イメージが広がり始める。だが、その最初のフレーズが出るまでの道のりは長いことも少なくない。パソコンや原稿用紙の前に座り、ただ、時間だけが過ぎていくのである。

それでも、時間・場所を確保して集中していくと、思いがけないような言葉やイメージが浮かんでくることもある。まずは、物理的にまとまった時間を確保して、集中して取り組むことが大切だとは思うのだが……。

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2007年10月21日 (日)

テープおこし

久しぶりにテープ起こしをする事になった。以前やったシンポジウムなどとは違い、たかだか15分程度なのだが、けっこう時間がかかる。録音がそれ程クリアでないからである。

それでも、書き言葉にすれば短くてすむことが、会話の中では澱んだり、つっかえたり、止まったり…となかなか全体像がつかみにくかったりするそれ自体がけっこう面白い。以前、シンポジウムのテープ起こしをやった時には、話の流れからいっても当然肯定すべきところで否定の言葉が出ていた事があった。ただ、話す側も、聞いている側も、その部分は肯定していると判断しながら話が進んでいたので、原稿としては確認の上で肯定の表現となった。そのことから、話し言葉のいいかげんさを知った体験でもあった。

さて、今回のテープ起こしだが、15分と言う短い時間とはいえ、話す側はそれなりに慎重に言葉を選んでいるところがあり、繰り返したりすることはあっても肯定するところで否定の表現が出てくるようなところはなさそうである。それでも、なるべく丁寧にテープ起こしをしようとすると何度もテープを聴いて慎重に進まざるを得ない。それだけに集中できる状況であれば別に文句はないことなのだが、けっこう忙しい中でのテープ起こしであるため集中できる時間を確保することが難問になるかもしれない。

期限は、今週の土曜日。多分出来ると思うのだが……。

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