2009年9月14日 (月)

鳥羽みなとまち文学館

所用があって鳥羽市に行ったついでに、鳥羽みなとまち文学館に足を延ばした。館長の岩田氏とは古くからの知り合いで、昨年末に行った時はたまたま年末年始の休業日にかかってしまっていたために入口だけ見て帰ってきたので、遅まきながら、今回が初入館となった。ここは、鳥羽市の生んだ民俗学者・文学者の岩田準一と、彼と交流のあった江戸川乱歩、竹久夢二にまつわるものが展示されている。入場は無料で、火・水が休館日となっている。

岩田準一の名前は中学校の頃から知っていた。彼の鳥羽・志摩の民俗に関する著作を何冊か読んでいたからである。ただ、その岩田準一が、実は江戸川乱歩と交流があったということについては、岩田館長と出会うまでは知らなかった。小中学校の時代には、怪人二十面相/少年探偵団のシリーズを夢中になって読んでいたので、それを知った時にはけっこう驚いたことを記憶している。

さて、鳥羽みなとまち文学館では、岩田準一の乱歩をはじめとする文学者たちとのやりとりの書簡や絵画、当時岩田準一が使っていた日用品などが展示されている。建物の中の雰囲気は、大正から昭和初期にかけての匂いに満ち、その雰囲気を味わいながらゆったりと過ごすにはもってこいの場所となっている。鳥羽駅から徒歩で10分ほど。忙しい日常から逃れるのにはもってこいのちょっとステキなスポットである。

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2009年3月31日 (火)

降りていく感覚

ここ数日、少しゆとりのある時間を使って、詩を書いている。だが、今ひとつ納得できるところまでいかない。意識の表面的なところで言葉を操っている感覚しかないのだ。そのため、自分の深いところで詩を作ったという実感がない。とりあえず書いてはいるが、もうひとつストンとおちないのはそのためだろうと思う。

小説や童話を真剣に書いている時は、精神的にかなりシンドイ思いもするのだが、集中していく中で、心の深いところまで降りていくような感覚がある。それは、自分として納得できる詩を書いたときも共通するところがあったりする。そんな時は、1つの言葉にも苦しむが、苦しんで苦しんで心の深いところまで降りて言った結果出てきた言葉はストンと胸に落ちる感覚がある。そうやって書いた作品は、詩であれ童話であれ小説であれ、自分としてはけっこう納得のいく作品となる。

ところが今回は、もう1つ集中し切れていない自分を感じている。それでも言葉を操ってとりあえず形にしているのだが、自分として納得できる「作品」になっていない。まあ、まったく書けないよりはましかな……という思いも一方ではあるのだが、それでも、書くからにはやはり深いところまで降りていく感覚を体験したいと考えている。

ここ数日はゆったりしていたが、もう少しすればまた忙しくなってくる。少し環境も変わるので、それが、新しい詩を書くきっかけになってくれると良いのだが……。

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2008年12月15日 (月)

2つの【私をとめて】

シャンソン歌手の北岡樹(みき)さんが歌う「ぶたないで」という歌を、先日の津への行き帰りに車の運転をしながら聞いていた。この歌は、幼児虐待をテーマに作詞したもので、北岡さんは、それをシングル・カットして無料で配布したり、そのシングルへのカンパの一部を寄付したり…という活動を続けている。先月は、久しぶりに生で「ぶたないで」を聞く機会もあったが、作詞者としては久しぶりに聞くと、どうも恥ずかしさが先に立ってしまって、何となく居心地が悪かったのを覚えている。

さて、そのアンサー・ソングという形ではないが、北岡さんのライブでの意見の中に、虐待をしてしまう方の側からの歌が作れないか…という話があり、「私をとめて」という詞を書いてみた。実は、この「私をとめて」だが、現時点では2つのバージョンがある。2つ目の方がより深刻なバージョンになっているが、背景に、母親や家族を追い込む社会や政策の貧困がある。OECD諸国で最低の教育予算、母子家庭で、まじめに働く母親が貧困から抜け出せない唯一の国、日本……。子どもを安心して育てられない国や社会で、少子化が進むのは当然なのである。幼児虐待は、もちろん止めなければならない。けれども、そのためにしなければならない最低限の手立てがある。その現実/日本の中で進んでいる子どもの貧困の実態を、私たちは知らなければならない。

 

私をとめて

 

仕事が始まる 時間がせまる なのに この子はぐずってばかり

言う事きかず 甘えているの それとも 私を困らせたいの

 

この子をなぐる 手がとまらない しつけをしているつもりなのに

私の心が疲れ果てて 壊れ始めているのだろうか

 

 

隣の子どもは 聞き分け良くて いつも ニコニコ愛想がいい

だけどこの子は オドオドしてて 私の 困ることしかできない

 

この子に向ける 目がきつくなる 私が望んだ子どもなのに

悩みを相談できないまま 心の闇に呑み込まれそう

 

 

子どもはおまえに まかせたからな おれは 仕事が忙しいから

困っていても 相談できず 毎日 ストレスたまってくだけ

 

しつけをしてる そう思っても 何かが違うと感じている

早く私をとめてください どうか私をとめてください

 

 

 

私をとめて Ⅱ

 

私がこんなに 世話してるのに この子は ニコリともしない

泣いてぐずって 言う事きかず いつも私を困らせる

 

この子を何とか しつけなければ 可愛くないけど 私の子ども

心が壊れ始めているの? この子をなぐる手が止まらない

 

 

私が愛する あの人が言う この子は いつもオドオドしてて

言うこと聞かず 不器用すぎる こんな子どもは 好きじゃない

 

この子を何とか しつけなければ 私はきっと 捨てられちゃうわ

心に憎しみ生まれ始める この子はなぐるだけじゃダメなの?

 

 

子どもは愛するものだと言うけど 私も いつも殴られていた

だけど私も 母親だから 可愛くなくても 育てなければ

 

この子を何とか しつけなければ どなって殴って 蹴ってそれから…

私の心はどうなってるの? 誰でもいいから私をとめて

 

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2008年5月22日 (木)

そろそろ編集を…

文芸同人誌の編集を引き継いでいる関係で、そろそろ原稿が届き始めた。前号の発行が遅れに遅れてこの3月だったので、メンバーも今ひとつ締め切りの意識が薄いようだが、実は、先月末が次号の原稿締め切りだったのである。

昨年度は、今までになく多忙を極めた為に、編集自体が夏ごろまでずれ込んだが、原稿そのものも集まりも悪く、結局、夏の号を出せずにいた。それで冬の号…といく筈が《春》の号となってしまったのである。

ただ、今年度は、昨年度よりも少し余裕がある。自分自身も、いくつか詩の新作を書いているし、今日は少し時間もあったので、一時間半ほど仮眠してから簡単にできるものから手をつけ始めた。本格的には、また何人かの原稿が届いてから進めたいと思うが、とりあえず、5月のうちに編集を始められたのは喜ばしい限りである。

何とか、《夏》の号として発行したいと思うが、原稿が集まらなければずれ込むし、仕事が忙しくなる時期との調整がうまくいかなくなれば、これまた遅れることになる。ただ、昨年と比べると、時間的にも精神的にも多少余裕はある。一昨年までのペースを取り戻し、何とか、年2回発行…に戻したいものである。

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2008年4月12日 (土)

詩を書くこと

先月、ようやく同人誌の編集と発送を終えたが、別の詩の同人誌の原稿締切が近づいている。前回と前々回は、忙しい毎日の中で、どうしても詩が書けずに苦労したが、今回は、とりあえず書いてみた。いつも車で通る道を、たまたま歩いたことで見えてきたものや感じたことが、感性を刺激してくれたようである。これを、そのまま送るかどうかはともかく、とりあえず書けたことで気分的にはかなり楽になった。

   市道の春

 

いっぽ にほ さんぽ

いっぽ にほ さんぽ

 

小さな子どもと歩く道に

小さな春が顔を出す

風にゆれるタンポポ

カラスノエンドウ

ヒメジョオン

 

菜の花の間を

モンシロチョウが飛びまわり

ナナホシテントウが

葉っぱの先へと歩いていく

 

車で通り過ぎるときは

目に入らない春の息吹が

子どもの手をつなぎながら歩くと

とても身近に感じられる

 

春の嵐に散った桜の枝から

緑の葉が顔をのぞかせ

雨上がりの青空に

葉桜の枝が揺れる

 

いっぽ にほ さんぽ

いっぽ にほ さんぽ

 

小さな手がヨモギをつかむ

黄緑色の若葉から

春の匂いがこぼれる

 

この作品を出すかどうかは、まだ決めていない。明日も1日予定が空きそうなので、場合によっては、もう1つか2つ書いてみようか・・・とも思うからである。とりあえず、出来なければ出せる詩はあるし、できれば何か書いてもみたい。この心のゆとりがうれしい。明日の天気はどうだろうか?

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2007年12月13日 (木)

紅葉の夢…なんとかできた詩

   紅葉の夢

 

鮮やかな紅が

視界につきささる

日一日と深まる秋の道を

色とりどりの葉がにぎわせる

 

十分に生きた夏の日々を終え

その生の終わりを

美しい色彩で装う

最後の祭

 

それを終えれば

後は地面に落ち

土へと帰る

新たな生命を育むために

 

何のために生き

何のために死ぬのか

そんな意識や迷いはなく

ただ

日を浴び風雨に耐え

冷たい空気に終わりの時を知る

 

そして

それぞれの色鮮やかな衣装をまとい

散り逝くために着飾る

役割を果たして

生から解き放たれるために

 

鮮やかないでたちは

苦難の生への挽歌か

あるいは

やがて訪れる死への期待感なのか

 

そんな人の視線を知ろうともせずに

紅葉は

やがて散っていく

その生そのものも

長い長い夢かもしれない

 

 

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2007年12月 6日 (木)

またまた、詩が書けない…

詩を書くのは、シンドイけれどもけっこう楽しい。意識を集中して言葉とイメージを吟味していく作業は、何ともいえない緊張感とおもしろさに満ちている。しかし、そうした創作の世界で遊ぶためには意識を日常とは違う深いレベルで集中させ、心の中に眠っているイメージを引き出そうとする際には日常的な忙しさや意識は返って邪魔になる事も少なくない。だから、忙しい日が続くと、なかなか詩はかけないのである。

その意味においては、詩がなかなか書けずあきらめかけたこの夏の状況とあまりかわりが無い。最初のフレーズが出てくると、突然イメージが広がり始める。だが、その最初のフレーズが出るまでの道のりは長いことも少なくない。パソコンや原稿用紙の前に座り、ただ、時間だけが過ぎていくのである。

それでも、時間・場所を確保して集中していくと、思いがけないような言葉やイメージが浮かんでくることもある。まずは、物理的にまとまった時間を確保して、集中して取り組むことが大切だとは思うのだが……。

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2007年10月21日 (日)

テープおこし

久しぶりにテープ起こしをする事になった。以前やったシンポジウムなどとは違い、たかだか15分程度なのだが、けっこう時間がかかる。録音がそれ程クリアでないからである。

それでも、書き言葉にすれば短くてすむことが、会話の中では澱んだり、つっかえたり、止まったり…となかなか全体像がつかみにくかったりするそれ自体がけっこう面白い。以前、シンポジウムのテープ起こしをやった時には、話の流れからいっても当然肯定すべきところで否定の言葉が出ていた事があった。ただ、話す側も、聞いている側も、その部分は肯定していると判断しながら話が進んでいたので、原稿としては確認の上で肯定の表現となった。そのことから、話し言葉のいいかげんさを知った体験でもあった。

さて、今回のテープ起こしだが、15分と言う短い時間とはいえ、話す側はそれなりに慎重に言葉を選んでいるところがあり、繰り返したりすることはあっても肯定するところで否定の表現が出てくるようなところはなさそうである。それでも、なるべく丁寧にテープ起こしをしようとすると何度もテープを聴いて慎重に進まざるを得ない。それだけに集中できる状況であれば別に文句はないことなのだが、けっこう忙しい中でのテープ起こしであるため集中できる時間を確保することが難問になるかもしれない。

期限は、今週の土曜日。多分出来ると思うのだが……。

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2007年9月27日 (木)

本歌取り狂歌10首

本歌取り狂歌十首

 

アッシーのケイタイの音鳴り響き

        家に送ればひとり寝るだけ

 

若いコは道で会ってもシカトする

        世も末かなとオジンはつぶやく

 

君がため 早く家出てアルバイト

        我がバイト料すぐに消えつつ

 

四の五のと言えど今更我が恋は

        もはやダメかと人の噂す

 

会い見ての後の心を言ったなら

        メル友のままいれば良かった

 

大声で叫ぶ電話の遠ければ

        また会えもせず雨の道端

 

あらし吹く別れの前の修羅場では

        立ち会う者は不運なりけり

 

行かざれば代わりの男訪れて

        車の助手席空き 風ぞふく

 

背は低く金も車も無き我さ

        ふられた末に哀れとぞ思う

 

嘆けとて月のものは来ぬと言う

        ヤッてしまった我が涙かな

 

 

 

元になった百人一首の短歌を当ててみて下さい。

 

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2007年9月 7日 (金)

早すぎた落葉…ようやくできた詩

8月下旬締切の詩がどうしても書けず、悪戦苦闘していた。原因は、忙しさである。例えば、講演の原稿などであれば30分程度まとまった時間があれば、多少なりとも書き進めることは可能である。けれども、こと詩を書くとなると、物理的に1時間とか2時間あれば良いという訳にはいかない。通常とは異なったレベルの集中を必要とするからである。

だから、身体が疲れていたりすると、そこまで深い集中のレベルまでもっていくのは不可能だし、また必要な集中のレベルまで達するまで時間がかかるという事情もある。その結果、最初の1フレーズが浮かばぬまま時間だけが過ぎ、今日まで来てしまったのである。

それでも、少し早い時間に入った風呂の中で最初のフレーズが浮かんだ。その結果、風呂を出て1時間足らずで一気に書き上げることができた。ただ、もう少し集中できれば、また違ったものが出来ただろうという思いはある。しかし、今はこれで精一杯…というのも正直な気持ちだ。もう少し、時間が欲しいと心底思う今日この頃である。

 

   早すぎた落葉

 

残暑の国道バイパスを

一枚の枯葉がよぎる

まだわずかに残る緑色が

命の名残りを伝えている

 

確かに死は

それぞれの命に

平等に与えられている

 

けれども

死というゴールにいたる時間は

一つひとつの生命体によって

すべて

異なっている

 

短くても

充実した時を重ねた

納得のゴールもあれば

 

長くても

決断から逃げ続けた

悔いの残るゴールもある

 

いずれにしろ

他者が決めた運命ではなく

自分の選択が積み重なった結果である

 

短くても

充実した生を重ねたい

そう願いながらも

時は過ぎていく

 

早すぎた落葉は

対向車の風に煽られ

視界から消え去った

 

また

慌しい一日が始まる

 

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2007年9月 5日 (水)

母語を大切に

教育行政の揺れと混乱の中で小学校での英語の時間が問題になっているが、関わっているいくつかの教育現場の実態から考えれば、母語の重視をもっと考えるべきだと感じている。日本の学校現場の教科でいえば国語の充実ということになろう。

少し考えれば分かることだが、私たちは自分の母語によって考え、認識し、判断して、意見や思いを表現している。その意味で、社会認識の深まりやコミュニケーション能力の向上には母語を自由自在に操れることが必要不可欠である。ところが、例えば中学3年生でも句読点の扱いや助詞の使い方があやしい子どもたちが身近にいるが、彼らは、成績からいえば必ずしも下というわけではない。そういう現実の中では、相手の話の中身や文章が的確に理解できなかったり、言葉の使い方のミスで自分の思いを正確に伝えることができなかったりすることが少なくない。これは、考えている以上に大きな問題なのである。

また、母語を自由自在に使いこなせる力をきちんとつけておくことは、外国語の習得のベースともなる。先月参加した研究会でお茶の水大学の先生が講演していた内容によれば、母語を習得する重要な時期に外国で生活していた子どもたちは、必ずしもその国の言葉をきちんと身に付けておらず、逆に母語を習得した後に外国で生活していた子どもたちの方が母語も外国語も自由に使いこなせる例が多いということをデータを示して説明してくれた。これは、私自身の実感とも重なっている。

結局、国際化の時代であっても…というよりも、国際化の時代だからこそ、母語の獲得と母語を自由自在に使いこなす能力の向上を図ることが大切になる。それによって自分自身を確立すると同時に、自分の考えや思いを表現することが可能となるし、外国の人とコミュニケーションをとるときも、それが重要になってくるのである。

ところで、母語は必ずしも「国語」と同じではないことも同時に意識しておく必要があるだろう。宮澤賢治の詩には、岩手の方言をそのまま使うことによって作品にリズムと深みを出しているものがいくつもある。あるいは、旧友とのお喋りでも方言がからむと一気に時間を飛び越えて親密な雰囲気ができる。言葉は文化でもある以上、方言はその地域の歴史と文化の土台となっているのである。

確かに、国際化の時代にあって、英語を使いこなせると非常に便利である。だが、英語で話すためには、会話を展開できる自分自身の知識や思想がそれなりにあることが大前提である。小さい頃から英語に馴染んだとしても、思いや考えのベースとなる母語を十分に使いこなせていない人間は自分自身はもちろん、「日本」を伝えていく能力がない。伝えていく内容としての「自分」や知識・文化を持っていないからである。

だからこそ、母語を大切にしなければならない。必用なのは、英語をどうこうという以前に、国語そのものをおろそかにしてはいないか、あるいは地域をおろそかにしていないか、という視点である。

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2007年8月23日 (木)

話すことと伝えること

「言ったやん」

「聞いてないよ」

時々、こんなやり取りを耳にすることがある。本人は言ったつもりでも、相手にはきちんと伝わっていない。日常生活の中でよくあることだ。どうも、人間というものは、面と向かって相手に発言した内容は、それで伝わったと誤解することが多いようである。けれども、よく考えてみると、自分が言ったからといって、相手がそれを100%理解することなどまずない。音声として耳の鼓膜を震動させてはいても、それが必ずしも「意味のある大切な内容」として相手に伝わっているとは言えない。考え事をしていて、適当に相槌をうっている事だってあるし、声が小さいなどの条件できちんと聞き取れなかったが、自分にとって大切な内容だという判断をしなければ、あえて聞き返しもしないし当然、何を聞いたのかも覚えておらず、数日経てば完全に忘れてしまうことなど日常茶飯事だからである。

だから、きちんと伝えたいと思っていることならば、相手の反応をよく観察し、話に集中しているかどうかを見極め、必要に応じて確認をしたりすることも大切になってくる。それをせずに《言いっ放し》でいても、話した側の都合にいつも相手が合わしてくれる訳はないので、結局、きちんと伝わらないことになっても、ある意味では当然なのである。

では、どうすれば伝わるか。相手にとって自分が《大切な存在》となっている時は、ちょっとした言葉や軽いお喋りであっても、割りと真剣に聞いてくれる。利害関係の問題で《大切な存在》となる場合ばかりでなく、利害を超えた《大切な存在》である場合もある訳で、特に両方の条件があれば、話は丁寧に聞いてくれるだろうし、理解できなかった部分は質問したり確認したりしてくるだろう。

忙しい時などは、「話した」=「伝わった」と誤解してしまうことが多いが、話すことと伝えることは決してイコールではない。そして、話したからと言ってそれが確実に相手に伝わったと考えること自体が判断として甘いし、ある意味では「分かってくれて当然」というような相手に対する甘えや誤解が存在していると考えた方が良いだろう。

特に身近な人や、相手との関係において自分が優位に立っている場合は、きちんと伝わっているかを吟味しないまま話しっ放し、「伝えた」気になっていることは多い。それが後になってトラブルの原因となったり、相手との関係をギクシャクしたものにしてしまったりする。話すことは伝えることとイコールではないということを意識して会話や対話や議論を楽しみたいものである。

 

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2007年7月 4日 (水)

防衛相は辞任したが

原爆に対する「しょうがない」発言が問題になり、防衛相が辞任した。世論の怒りに抗えず…ということだが、当初の本人の居直りと首相の擁護姿勢を考えれば、単なるトカゲの尻尾切りに過ぎないし、国会議員は辞任していないことも合わせて、問題の本質を無視してごまかそうとする姿勢だけが明らかになったに過ぎない。

田中芳樹の書いた小説『銀河英雄伝説』の3巻(徳間書店)において、主要人物のヤン・ウェンリーは、戦争を賛美する御用学者オリベイラ自治大学長やネグロポンティー国防委員長に対して、次のような言葉を投げつける。〔p.153~154〕

 

すばらしいご意見です。戦争で生命を落としたり肉親を失ったりしたことのない人であれば、信じたくなるかもしれませんね。まして、戦争を利用して、他人の犠牲の上に自らの利益をきずこうとする人々にとっては、魅力的な考えでしょう。ありもしない祖国愛をあると見せかけて他人をあざむくような人々にとってもね。…あなたがたか、口で言うほどに祖国の防衛や犠牲心が必要だとお思いなら、他人にどうしろこうしろと命令する前に、自分たちで実行なさったらいかがですか…………人間の行為のなかで、何がもっとも卑劣で恥知らずか。それは、権力を持った人間、権力に媚を売る人間が、安全な場所に隠れて戦争を賛美し、他人には愛国心や犠牲精神を強調して戦場に送り出すことです。

 

この批判は、そのまま安倍総理や小泉前総理、久間前防衛相に対してもあてはまる。今も生きている被爆者の痛みや将来起こり得るかも知れない核戦争の被害者の痛みに鈍感だからこそあのような「失言」が出てくるし、任命権者もそれを安易に擁護してしまう。それは、彼らがヤン・ウェンリーの言う【もっとも卑劣で恥知らずな人間】だからである。

『銀河英雄伝説』は今から20年以上も前に書かれた小説である。だが、ここにおいて展開されている腐敗した民主政治への批判の言葉は、今なお輝きと有効性を失ってはいない。そして、ヤンの言葉によれば、民主政治の腐敗は国民の責任なのである。

月末には、参議院選挙が予定されている。そして、私は日本の国民である。一国民の責任として【もっとも卑劣で恥知らずな人間】たちを喜ばせるような選択は避けたいと考えている。

 

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2007年5月21日 (月)

The eldest tree / 樹…英語と日本語の感触

作詞をする際に、言葉によって微妙に感覚が異なってくる。ジャス・ボーカルの山下みさ子さんとの交流の中で、結局、英語と日本語の二つを作ることになった作品がいくつかあるが、やはり言葉が違うと、書いていても感触が微妙に違う。それを意識できたのは、実際に作ってみたからである。やってみることで初めてわかる事がある。その違いを楽しんだ詞を、ここに上げておきたい。

   THE ELDEST TREE

 

 LIVING IS TOO HARD

 SOMETIMES I FEEL THAT WAY

 THEN I GO TO THE ELDEST TREE, AND TALK WITH HIM

 HE ASKS NOTHING, THEREFORE I SPEAK EVERYTHING

 

 WHEN YOU FEEL LONELY, STY HERE, HAVE A REST HERE,

  AND WATCH YOUR WORLD

 THEN YOU'LL KNOW THAT YOU ARE NOT ALONE

 THERE ARE A LOT OF PEOPLE NEAR WHO AGREE

 YOU CAN BE THE WORLD WHERE MANY PEOPLE LIVE

 

 

 LIVING IS TOO SAD

 FREQUENTRY I THINK SO

 THEN I MEET THE ELDEST TREE, AND FEEL WITH HIM

 HE SPEAKS NOTHING, THEREFORE HE SPEAKS EVERYTHING

 

 WHEN YOU FEEL LONELY,

 STY HERE, HAVE A REST HERE, AND WATCH YOUR WORLD

 THEN YOU'LL KNOW THAT YOU ARE NOT ALONE

 THERE ARE A LOT OF LIVES NERE YOUR MIND

 YOU CAN BE THE WORLD WHERE MANY LIVES LIVE

 

 WHEN YOU FEEL LONELY,

 STY HERE, HAVE A REST HERE, AND WATCH THE EARTH

 THEN YOU'LL KNOW THAT YOU ARE NOT ALONE

 THERE ARE A LOT OF LIVES ON THE EARTH

 YOU CAN BE THE EARTH WHERE MANY LIVES LIVE

 

   

 

 生きることは辛すぎる 時々わたしはそう思う

 そんな時には大樹の下で自分のことを話してみる

 樹は何も尋ねないが それゆえすべてを打ち明けられる

 

 孤独を感じるその時は ここにきなさい休みなさい

 そして世界を見つめなさい

 その時あなたは知るでしょう 自分が一人でないことを

 あなたの心のすぐそばに 多くの人が生きている

 あなたも生きていける 人々が生きるこの世界で

 

 

 生きることは悲しすぎる 度々わたしは考える

 そんな時には大樹に会って 自分の心を重ねてみる

 樹は何も語らないが それゆえすべてを語ってくれる

 

 孤独を感じるその時は ここにきなさい休みなさい

 そして世界を見つめなさい

 その時あなたは知るでしょう 自分が一人でないことを

 あなたの心のすぐそばに 多くの命が生きている

 あなたも生きていける 生命が生きるこの世界で

 

 孤独を感じるその時は ここにきなさい休みなさい

 そして地球を見つめなさい

 その時あなたは知るでしょう 自分が一人でないことを

 母なる地球のその上で 多くの命が生きている

 あなたも生きていける 生命が生きるこの地球で

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2007年3月29日 (木)

私をとめて…新しい詞

シャンソン歌手/北岡樹さんに提供した「ぶたないで」という幼児虐待をテーマにした歌のことを以前にも取り上げたが、北岡さんとの話やhpで「虐待をする側の歌も…」という声があったことを知り、仕事が一段落したこの時期に、それを作ってみた。

幼児虐待の背景には、母親や家族が孤立し、追い詰められている現実がある。以前にも書いたが、例えば正月から子どもを親に預けて両親が働かなければならない現実がある。企業の側の都合や効率のみを優先し、家計の収入や子育て・家族のための時間を徹底的に削ってきた政府・与党の「子育てをし難い国づくり」の「成果」であろう。だから、「産む機械」などの発言が出てしまうのだろうし、少子化対策が遅々として進まないのである。この詞が、ある意味では意外と簡単に出来てしまったのは、政府・与党の圧政・悪政があるからである。

 

私をとめて

               作詞 TAC

仕事が始まる 時間がせまる

なのに この子はぐずってばかり

言う事きかず 甘えているの

それとも 私を困らせたいの

 

この子をなぐる 手がとまらない

しつけをしているつもりなのに

私の心が疲れ果てて 壊れ始めているのだろうか

 

 

隣の子どもは 聞き分け良くて

いつも ニコニコ愛想がいい

だけどこの子は オドオドしてて

私の 困ることしかできない

 

この子に向ける 目がきつくなる

私が望んだ子どもなのに

悩みを相談できないまま 心の闇に呑み込まれそう

 

 

子どもはおまえに まかせたからな

おれは 仕事が忙しいから

困っていても 相談できず

毎日 ストレスたまってくだけ

 

しつけをしてる そう思っても

何かが違うと感じている

早く私をとめてください どうか私をとめてください

 

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2007年2月24日 (土)

あらためて…《ぶたないで》

10月にも書いた、大阪在住のシャンソン歌手北岡樹さんから、シングル・カットされた《ぶたないで》が送られてきた。当初、できあがった時には、北岡さんの言葉によれば「あまりにストレートすぎて、悲しすぎて…封印していた」けれども、多発する幼児虐待の報道に、シングルカットする気になったという。確かに、重い歌である。けれども、私たちは大人として、子どもたちが虐待を受けずにすむような社会、子育てに迷ったり悩んだりする若い父親や母親が、思わず虐待してしまう前に踏みとどまれるような地域をつくっていく責任があると思う。《ぶたないで》の歌詞をこちらのblogにも掲載しておこう。

   DON´T SPANK

                        作詞/TAC

 PLEASE DON'T SPANK ME  

 PLEASE DON'T HIT ME

 I PROMIS YOU, DADDY  

 I'LL BE A GOOD CHILD

 

 BUT I CAN'T UNDERSTAND

 WHY I AM WRONG

 

 DO I HAVE TO OBEY EVERYTIME?

 DO I HAVE TO SAY NOTHING?

 DO I HAVE TO WANT NOTHING TO PLAY?

 

 IF I AM HATED, I CAN'T LIVE HERE

 GET ON YOUR BACK TENDERLY

 LISTEN TO MY HEART

 AND LOVE ME PLEASE

 IF YOU ALWAYS LOVE ME, I WILL BE MYSELF

 CAN I DO THAT, DADDY?

 COULD YOU KEEP ME ALIVE?

 

 

 PLEASE DON'T SPANK ME

 PLEASE DON'T HIT ME

 I PROMIS YOU, MAMMA

 I'LL BE A CLEVER CHILD

 BUT I CAN'T UNDERSTAND

 WHY I AM WRONG

 DO I HAVE TO STUDY ALL THE TIME?

 DO I HAVE TO BE QUIET?

 SHOULDN'T I WANT TO PLAY WITH KIDS?

 

 IF I AM HATED, I CAN'T LIVE HERE

 HOLD ME IN YOUR ARMS TENDERLY

 AWAKEN MY HEART

 AND LOVE ME PLEASE

 IF YOU ALWAYS LOVE ME, I WILL BE MYSELF

 CAN I DO THAT, MAMMA?

 COULD YOU KEEP ME ALIVE?

 

 IF WE ARE HATED, WE CAN'T LIVE HERE

 HOLD US IN YOUR ARMS TENDERLY

 LISTEN TO OUR HEARTS

 AND LOVE US PLEASE

 IF YOU ALWAYS LOVE US, WE WILL BE OURSELVES

 CAN WE DO THAT, PAIRENTS?

 COULD YOU KEEP US ALIVE?

 

   ぶたないで 

 

 おねがいだからぶたないで パパ

 きっといい子になるって約束するから

 でもボクどうしてもわからない ボクの何が悪いのか

 いつも言いつけ守るの? 何も言ってはいけないの?

 おもちゃも欲しがっちゃダメなの?

 

 もし嫌われているのなら ボクは生きてはいけやしない

 やさしくおんぶをして欲しい ボクの気持ちを聞いて欲しい

 そしてボクに愛を下さい

 もしも愛してくれるなら ボクはボクでいられるよ

 そうして良い? パパ ボク生きていて良いの?

 

 

 おねがいだからぶたないで ママ

 きっとかしこくなるって約束するから

 でも私どうしてもわからない 私の何が悪いのか

 いつも勉強つづけるの? 静かにしてなきゃいけないの?

 みんなと遊ぶのもダメなの?

 

 もし嫌われているのなら 私生きてはいけやしない

 やさしく抱きしめて欲しい 私の気持ちを見つめて欲しい

 そして私に愛を下さい

 もしも愛してくれるなら 私は私でいられるの

 そうして良い? ママ 私生きていて良いの?

 

 もし嫌われているのなら ボクたち生きてはいけやしない

 パパやママを信じていたい こんな気持ちをわかって欲しい

 そしてボクらに愛を下さい

 もしも愛してくれるなら ありのままでいられるよ

 そうして良い? ねえ ボクたち生きていて良いの?

 

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2007年2月 4日 (日)

新しいblog

今日から、もう1つ、新しいblogを始めた。【TAC文芸樹】(http://tac-bungeiju.cocolog-nifty.com/)という名前で、こちらの方は童話や詩や小説を発表する予定でいる。

とりあえずはきのうが節分だったこともあり、以前、友人と始めた別のblogに発表した童話をupした。そちらが個人blogのような状況になってしまたのと、今ひとつ使い勝手が悪いので、新しいblogを開設したのだが、しばらくは両方に載せる作品が多くなることと思う。

が、少し時間をおいて新しい方だけを残し、古い方は閉めるつもりでいる。とりあえず、「もっちゃんのタクシー」という童話のシリーズが終わってから、新作もupする予定でいるので、多少なりとも文学が好きな方は、そちらの方ものぞいていただきたい。今upしてある童話は、編集事務局をしている文芸同人誌に掲載してそれなりに反響があり、また小さいながらもささやかな賞をいただいた作品でもある。その意味では、一応の形はそれなりに整っていると思う。

結婚や離婚のゴタゴタでペンが止まり、その後の多忙な毎日の中で文芸創作に関わる時間が物理的に激減している今、どうしても完成したいSF小説はまだ中断したままである。これを機会に、そちらの方も少しずつ再開していきたいものである。

だが、まだ研究会や確定申告など、多忙な毎日が続く。前途は多難で、先は長い。それでも、あきらめずに少しずつ続けられれば……と思う。

 

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2007年1月16日 (火)

英語の詞と日本語の詞

少し前に、大阪在住のジャス・ボーカル山下みさ子さんに作詞を頼まれたことがあった。軽い気持ちで引き受けていくつか渡したが、その中に、最初は英語で作ったものを後で「訳も欲しい」と言われ、ついでに日本語バージョンも作ったものがいくつかある。

作り比べるとよく分かるのだが、言葉が違うと、当然リズムが異なってくる。それぞれ「作詞」はしたが、同じ曲で歌うのは難しいかもしれない…と思った。それでも、作詞の過程はそれぞれの言葉の違いや特徴が実感できて、けっこう楽しかった。

最近は、忙しくてなかなか時間が取れず、英語の作詞まではちょっと手が回らない。日本語のものは、かろうじて1年間で2つ作った程度である。数的には大いに不満が残るが、それでも、創作活動は楽しい。一週間ぐらい、ゆっくりと詞や詩や童話や小説を書くのを楽しみたいものだが、そんなささやかな夢は、今年も多分実現しないだろう。だが、創作を止めるわけではない。少しでも時間を作って、一作でも多く創作を楽しみたい。

その願いを込めて、英語/日本語の詞をupしておこう。

 

   THE ELDEST TREE 

 

 LIVING IS TOO HARD

 SOMETIMES I FEEL THAT WAY

 THEN I GO TO THE ELDEST TREE, AND TALK WITH HIM

 HE ASKS NOTHING, THEREFORE I SPEAK EVERYTHING

 

 WHEN YOU FEEL LONELY,

 STY HERE, HAVE A REST HERE, AND WATCH YOUR WORLD

 THEN YOU'LL KNOW THAT YOU ARE NOT ALONE

 THERE ARE A

LOT

OF PEOPLE NEAR WHO AGREE

 YOU CAN BE THE WORLD WHERE MANY PEOPLE LIVE

 

 

 LIVING IS TOO SAD

 FREQUENTRY I THINK SO

 THEN I MEET THE ELDEST TREE, AND FEEL WITH HIM

 HE SPEAKS NOTHING, THEREFORE HE SPEAKS EVERYTHING

 

 WHEN YOU FEEL LONELY,

 STY HERE, HAVE A REST HERE, AND WATCH YOUR WORLD

 THEN YOU'LL KNOW THAT YOU ARE NOT ALONE

 THERE ARE A LOT OF LIVES NERE YOUR MIND

 YOU CAN BE THE WORLD WHERE MANY LIVES LIVE

 

 WHEN YOU FEEL LONELY,

 STY HERE, HAVE A REST HERE, AND WATCH THE EARTH

 THEN YOU'LL KNOW THAT YOU ARE NOT ALONE

 THERE ARE A

LOT

OF LIVES ON THE EARTH

 YOU CAN BE THE EARTH WHERE MANY LIVES LIVE

    

 

 生きることは辛すぎる 時々わたしはそう思う

 そんな時には大樹の下で自分のことを話してみる

 樹は何も尋ねないが それゆえすべてを打ち明けられる

 

 孤独を感じるその時は ここにきなさい休みなさい

 そして世界を見つめなさい

 その時あなたは知るでしょう 自分が一人でないことを

 あなたの心のすぐそばに 多くの人が生きている

 あなたも生きていける 人々が生きるこの世界で

 

 

 生きることは悲しすぎる 度々わたしは考える

 そんな時には大樹に会って 自分の心を重ねてみる

 樹は何も語らないが それゆえすべてを語ってくれる

 

 孤独を感じるその時は ここにきなさい休みなさい

 そして世界を見つめなさい

 その時あなたは知るでしょう 自分が一人でないことを

 あなたの心のすぐそばに 多くの命が生きている

 あなたも生きていける 生命が生きるこの世界で

 

 孤独を感じるその時は ここにきなさい休みなさい

 そして地球を見つめなさい

 その時あなたは知るでしょう 自分が一人でないことを

 母なる地球のその上で 多くの命が生きている

 あなたも生きていける 生命が生きるこの地球で

 

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2006年12月25日 (月)

コメントではない「コメント」

コメント…つまりは何らかの文章なり発言なり作品なりに対する、自分自身の思いや感想や意見を率直に語ったもの…それがあるからこそ、関係が生まれる。従って、コメントを口にするなり書くなりするためには、それなりに相手の言葉や作品にきちんと向き合うことが必要になる。

ところが、そうしたことを勝手に省略して、エゴを押し付けてくるものが混じっている。SPM業者のものは、その最たるものである。インターネットの性質上、そうしたコメントではない「コメント」が混じるのは仕方がないことである。それは分かっているが、不愉快でもあるので、最初は、公開設定で気づいたときにいちいち削除していた。けれども、公開を保留して確認した上で公開した方が、不愉快なSPMコメントは一掃出来ることに気づいた。

本当の意味でのコメントをいただいている方には、こちらが確認するまでのタイムラグは申し訳ないが、基本的には24時間の間に公開しているので、言葉を大切にする私自身のポリシーに付き合っていただけるようご理解いただければ…と思う。

お互いの言葉や作品を真摯に受け止めることから人と人との関係が生まれ、深まっていく。インターネット環境を、人と人とをつなぐものとして利用していければ…と思う。

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2006年12月20日 (水)

意識の集中をめざして…

文芸同人誌に長く関わっているので、小説をはじめ、童話、詩、短歌、俳句、エッセイ、シナリオ、作詞など一通り書いて発表した経験はある。その中で、小説や詩などは、けっこう集中した状態でないと作品が書けない。ここ2週間くらいは非常に忙しく、睡眠時間も少ない状態であったので、特に新作の詩が難産になっている。

昨年だったか、次にあげたような詩を書き上げた。今年はまだ、この詩のレベルの集中の体験がなく、この詩と比較すると自分なりに納得できるような詩は書き上げていない。今年も残すところあとわずかになった。ゆったりとした時間を確保し、意識を集中して、何とか、それなりに満足できるレベルの詩を書き上げたいのだが……。

ぬれ落ち葉

                                 

さく さく とん

さく さく とん

晩秋の雨にたたかれて

落ち葉が土に佇んでいる

灰色の雲におおわれた

静かな夕暮れのひととき

からだいっぱいに光を浴び

柔らかな風に揺れた春の日々

眩しい陽光から樹下の命を守り

力強く空をにらんだ夏の午後

そして

命の役割を終え

枝先を離れて舞い落ち

鈍い土色に変わっていく

冷たい雨が肉を削り

細胞を崩していく

再び土にかえり

新たな命を育むために

アスファルトではなく

コンクリートでもなく

土の上に落ちた

ささやかな幸福がそこにある

さく さく とん とん とん

さく さく とん とん とん

雨粒が

ひとつ またひとつ

からだに染み込んでいく

命をつなぐ死が

世界をだきしめる

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2006年12月17日 (日)

言葉を大切に

国会の議論などでも感じることだが、最近は、言葉を大切にしていない人が増えているようだ。相手が子どもだろうと、自分よりも若い人であろうと、老人であろうと、一人前の人間であれば、自ら口にした言葉に責任を持つべきだろう。

間違ったことを口にしたら素直に謝ればいいし、知らないことは「知らないので教えて欲しい」とか「知らないから、また調べてくる」という形で対応すれば良い。それは、決して恥ずかしいことではないし、またそれによって本当の意味での権威や信頼感がなくなる訳ではない。返って、嘘を言う人ではない…と印象を持たれるようになり、発する言葉への信頼感が増すことにもつながるのである。

そして、口にしたことはきちんと実行する。あるいは、実行できなくても、最低限、実現のために最大限の努力をする。それが大切だろう。それによって、発する言葉に重みが加わり、尊敬や信頼を集めることにもなる。

ところが、最近の国会の様子や政府・与党の答弁、首相をはじめとする人々の言動はどうだろう。嘘とごまかしばかりで、権威や信頼感は感じられない。本人たちにとっても不幸なことだが、一般の国民はもっと不幸である。

やろうとすることを発言しなかったり、訊ねられたことに対してきちんと答えず沈黙したりごまかしたりするようでは、言霊という形で言葉を大切にしてきた美しい日本の伝統にも反する。上に立つものが率先して、言葉を大切にするべきだろう。

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2006年10月 4日 (水)

鬼への想い

今、鬼が主人公の童話を連載している【まい・ぺん・らい】(http://maipenrai.noblog.net/)のアクセス数が今日の時点で5,000を越えた。特に、この一週間くらいはアクセスも多いので、この童話がけっこう好評なのかも知れない。

が、この作品に限らず、詩や他の童話でも鬼を扱った作品はけっこうある。文学に関わっていく中で、その異質性・異形性に心惹かれるものがあるからだ。本を読むだけでは飽き足らず、詩や童話や小説を書き始めて20年ほど経つが、その過程で感性が磨かれて、少し他の人と違って視点を持てたり、他の人が気づかないことに目がいったりするようになってきた。これも、1つの異質性である。

だから、いろいろな集団の中で活動しているが、基本的に異質であること、周辺部にいることができる場合は、けっこう居心地が良かったりする。そして、異質性を許容できる深さを持つ集団は信頼できるし、安心もできる。そうした自分自身の感覚が、鬼への想いを生み出しているのかもしれない。

が、最近、周りを見回してみると、異質な存在に対してすぐに排除の方向に走りたがる傾向が強まっているように感じられる。それは、そうした集団の余裕のなさや力量不足、暴走の危険性を見るバロメーターになるのだが、当然、当事者たちはそれに気づかない。例えば、日本の社会……。とても、危険な兆候だと思う。

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2006年8月23日 (水)

私たちのユートピア

彼岸、天国、桃源郷、竜宮城にエルドラド。伝説や宗教の世界を散策すれば、様々な名前のユートピアが現れる。それだけではない。小説や童話、絵画にイラストあるいは映画などの場面にもユートピアは登場する。また、哲学書を紐解いたりしても、ユートピアを見つけることが出来る。それ程までに、ユートピアは、人々の心を引き付ける。ユートピアは、人間の心の内にある様々な時空を越えて至る所に存在しているのである。

 

美しいユートピア…素晴らしいユートピア。ユートピアは人々の憧れだ。しかし、その姿を正確に描こうとすると、何故か輪郭がぼやけ、幻想の彼方へと去って行ってしまう。ユートピアというのは、単なる幻にすぎないのだろうか。その甘美な言葉の響きは人の心を惑わす麻薬のようなものでしかないのだろうか。否。そう言って諦めてしまうには私の心は若すぎる。今一度、私もユートピアというものを考えてみよう。

 

私には、「ユートピア」という言葉を聞くと、つい、頭に浮かんでしまう本がある。古谷三敏氏の描いた漫画『ダメおやじ』がそれだ。昭和52年から57年にかけて、とある少年誌に連載していた作品なのだが、何故か、その後半でユートピアがテーマになってくるのである。

 

作品の中でプラトンの『国家論』が語られる。また、一方では、「酒が好きな人にとっては、酒のあるところがユートピアだ。」という意見も出てくる。遊園地、家事をしなくて済む世界、そして、人間が1人もいない世界…。様々な人がユートピアを語っていく。どれも、一面では「なるほど…」と思うのだが、どこか、違和感を感じてしまう。

 

確かに、自分の好きなものに囲まれ、好きなことが出来るとしたらそこはユートピアだと言いたくなるに違いない。しかし、酒が好きな人がいれば、大嫌いな人もいる。酒好きの人にとってユートピアである酒に満ち足りた場所は、酒嫌いの人には地獄になってしまうだろう。それではとてもユートピアの名は与えられない。ユートピアというからには、1人の人間だけでなく、全ての人々が幸福を感じられるところではないだろうか。つまり、ユートピアというのは「私の」ではなく、「私たちの」でなくてはならないのである。

 

ということで、今から、「私たちの」ユートピアについて考えてみよう。 ユートピアとはどんなところか。そこは、全ての人が幸福に生きられる世界である。したがって、ユートピアを考えるに当たってのキイ・ワードは、「幸福」である。そこで、まず、「幸福」について考えてみよう。

 

人は、どんな時に幸福を感じるのだろう。好きな物に囲まれている時、好きな人と時間を共有している時、そして、好きなことをしている時…。まず、思い浮かぶのはそのような時だろう。いずれにしろ、「快」を感じるような時とでもまとめられる場面である。もちろん、「快」を感じること自体は決して悪いことではなく、幸福の1つの条件となるだろう。しかし、「快」を感じることが出来ればそれだけで本当に幸福と言えるのだろうか。

 

メーテルリンクの『青い鳥』で、チルチルとミチルが「幸福の花園」に行く場面がある。そこでチルチルの回したダイヤモンドの光に追われて逃げていく「見せかけの幸福」の中身と「快」を感じることの中にどこか重なりあっている部分があるように思われる。「快」を感じることは、人間の欲望と深く結びついている。欲望を完全に否定するつもりはないが、それに振り回されてしまうと、かえって何も得られなくなることも少なくない。つまり、「快」を感じることだけが幸福の条件とは言えないのである。

 

では、いったい何が重要なのだろうか。私は、1人ひとりが「生きがい」を持って、精一杯自分らしく生きられることだと思う。そして、それが保障されるためには、自分の今のちからに応じて働き、他の人々の役に立つと同時に、またその活動が正当に評価されなければならない。それに加えて、必要とあれば、さらに自分の能力を伸ばす機会や環境が与えられなければならない。その鍵を握るのは「教育」である。つまり、「私たちのユートピア」は、「教育のユートピア」でなければならないのだ。国家や一部の人たちのために行われる教育ではなく、1人ひとりの能力をその人の現在のちからや状況に応じて最大限に伸ばすような教育が保障される世界、それが「教育のユートピア」であり、「私たちのユートピア」なのである。

 

この「教育のユートピア」について、もう少し考えてみよう。

 

まず、「教育」の中身である。1人ひとりのさまざまな能力を伸ばすことが目的である以上、選別のための競争原理や効率主義、教育内容の押しつけなどがあってはならない。(しかし残念なことに日本の教育の現状はそれらが我が物顔にのさばっているのである。)そして学習の期間や内容については大幅なゆとりが設けられ、学習者の状態や状況に応じて変更されるようにする。そのためには、当然、旧来の学校とは異なる教育方法が取られることになる。それは、教科書などによって固定された内容を強制的に覚えさせられ、その知識の量や処理能力によって選別させられるような上から押し付けられる教育ではなく、学習者1人ひとりの可能性を認め、それを信じて展開される「対話の教育」である。

 

「対話の教育」では、学習者の可能性に絶対の信頼が置かれ、1人ひとりの学習者の立場に立って教育が展開されていく。それは、学習者の発言、文章・絵画・音楽・身体の動きといった、学習者自身の表現から出発し、学習者と指導者、あるいは学習者相互の対話の中で興味や知識や行動を練り上げていく形で進められる。イメージとして、ソクラテスが若者たちと対話をしながら彼等の内から知識を引き出していったやり方を想像すると分かりやすいかも知れない。それが、1学習者と指導者との間だけで行われるのではなく、学習者相互の間でも対話などを通してお互いに影響を及ぼし合いながら共に高まっていくのである。

 

このような形で1人ひとりが学習を進めていくと、その過程で学習者相互の間に豊かな人間関係が形成されていく。対話を通して、共感や相互理解が得られ、それがさらに深まっていくからである。またその中でお互いに正しく評価する姿勢をも学んでいくだろう。こうして学習者は、お互いの存在を尊重しあい、また、お互いに協力しあいながら、自分の可能性を無限に追及していくことが出来るのである。

 

この教育の前提として、学習をするための条件が国や公共団体を中心にして整備されていなければならない。しかし、それは、あくまでも外的条件であって、内容についてまで口出しすることは許されない。(この点は教育基本法第10条でもはっきりと規定されている筈なのだが、現状はどうだろうか…。)学習内容の強制は、その枠内に学習の展開を閉じ込めることとなり、発達の可能性を制限してしまうからである。学習内容に強制は要らない。個人の興味や関心から出発しても、整えられた条件のもとで学習が展開され、深まっていけば、ごく自然に様々な分野との関連が生まれ、実践的可能性や応用力に富んだ学力が1人ひとりの身についていくのである。

 

また、年齢による制限・制約を排除し、たとえ老人であっても、いわゆる学齢期を越えた人であっても、自分の現在の発達段階や知識の状態に応じた学校で自由に学習出来なければならない。学習者の年齢や理解の速度、学習する場に因る差別は完全に否定されるということも重要な条件である。そして、必要とあれば、仕事を一時休職してでも学習することに社会の理解が得られる状況も必要である。

 

こうして、徹底的に学習を保障する事は、様々な分野での基礎研究や技術の研究・開発の土壌を豊かにし、長期的な展望に立てば、産業のさらなる発展をも約束してくれるものとなるだろう。教育は、まさしく、「国家百年の計」なのだ。1人ひとりの幸福を考えた教育を実現出来れば、それは、1人ひとりが幸福に生きられる社会につながっていくのである。

 

このような形で、教育が1人ひとりの学習を保障する社会が実現すれば、当然、その構成員であるすべての人の能力が高まり、それによって社会も無限に発展していくことになる。常に前進し、発展していく社会…。そこは、希望と活気に満ち、その構成員1人ひとりが「生きがい」を持って生きていくことの出来る社会である。これこそ、まさしくユートピアと言えるだろう。 その社会を、より具体的に描く事は止めておこう。私の限りある想像力で、無限の可能性を持つ世界を思い描くことは不可能だからである。1人の人間の想像力に収まり切れない程の可能性を持った世界、それこそ、「私の」ではなく、「私たちのユートピア」なのである。

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幻のユートピア

人は誰でも、自分だけのインナー・スペースを持っている。そこは、親や友人であっても、また、どれ程の力を持った権力者であっても、侵すことの出来ない場所である。しかし今、その大切な場所が緩やかな侵略の危機に晒されている。マス・コミニュケーションの発達が、大切なイメージの世界を広げると同時に、1人ひとりの独自性を次第に奪おうとしているのである。 情報の洪水。イメージの氾濫。一見、それは人間の内的世界を豊かにするもののように感じられる。しかし、氾濫した河川が全てを飲み込んでしまうように、多すぎる情報の渦の中で、人は、自分自身の感性を鈍化させられ、やがてはそれを見失ってしまうのである。

 

例えば、生活。

 

肥大した鮮やかな(しかし、良く見れば毒々しい色彩を持った)イメージの世界は、一種のユートピアである。自分の精神をその中にまどろませてさえいれば、人は幸福を感じていられるのだから。いや、幸福というよりも、単なる快楽といったほうが正しいだろうか。しかし、その状態は心地好い状態であり、決して不幸を感じないことだけは確かなのである。だから、そこは、ユートピアと言っても差支えがないと思われるのである。

 

だが、そのユートピアからは、日々の生活が抜け落ちてしまっているのが普通である。いや、その中に没入することによって、人は日々の生活を忘れようとすると言った方がいいかもしれない。いずれにしろ、そのユートピアは、日々の生活、つまり日常を否定することによって入ることを許される夢の世界なのである。例えば……。

 

何気なく入れたテレビのスイッチ。次の瞬間、画面は、日常とは別の世界を映し出す。光の中で歌い、踊るアイドルたち。あるいは日常的にはありえない、ハンサムや美人ばかりが出てくるドラマ……。その映像そのものが、美しい夢の世界……ユートピアである。

 

何気なく開いた漫画雑誌。そこにも、一見、日常を装った全く別の幻想世界が潜んでいる。日々の生活の中にそこに登場するような「素晴らしい仲間」や「素敵な恋人」は現れないし、また、自分自身も、主人公のようには行動出来ない……そんな度胸も、優しさも、勇気も、純粋さも持ち合わせていないのだから。そこも、美しい夢の世界……ユートピアなのだ。

 

何気なくスイッチを入れたTVゲーム。そこにも、多様な別世界が広がっている。1度や2度死んでも(ゲーム・オーバー)3度、4度とやり直しの出来る別世界となっている。いくつもの命を持って冒険を楽しめるアドベンチャー・ワールド。ここもまた、楽しい夢の世界……ユートピアと言って良いだろう。

 

いくつかの例をあげてみたが、いずれも大変日常的な、どこにでもある、しかし、日常の生活から遊離することによって入っていくことを許される夢想世界としてのユートピアである。

 もちろん、私は、この様な夢想世界を全面的に否定しようと言うのではない。日常とは違う美しい夢の世界もまた必要なのだ。それが人々の新しい活力となって、日常の中にある様々な矛盾を切り開き世界を変えていく出発点となるのであれば……。

 

しかし、現状を見てみると、どうもそうではないらしい。子どもたちや若者たちは、日々の生活を忘れ、幻想のユートピアの中に自分自身の心を閉じ込めていく。他の人々との交流を嫌い、自然や生き生きとした生活を忘れ、一見雑多な色彩を持った、しかし、他の誰かの手による安易な幻想世界に落ち込んでいくのである。

 

溢れるリズムとメロディーの中に、氾濫する色彩と映像の中に、生々しさを失ったケイタイやマイクを通った電子音声の中に、人や自然とのつながりを失った若者たちが漂う。そこは、自分1人だけのユートピア。アクセスしてくる相手は在っても、この閉ざされた世界に土足で踏み込み、花園を蹴散らす者はいない。いや、彼等は、そのような存在は自分の方から拒否してしまうのである。無視、反抗、暴力という言葉を使って…。

 

そうして、彼等は自分だけのユートピアの中に閉じこもる。やがて、現実が見えなくなり、現実に対処し、それを変えていく力を、未来への可能性を放棄してしまう。権利を主張、擁護し、義務を果たす責任と自覚を持った大人になりきれず、シンデレラとして、ピーターパンとして、青い鳥を求めて自らの幻想によって空洞化されてしまった現実を彷徨い歩く。シンデレラ症候群、ピーターパン症候群、青い鳥症候群などがそれである。

 

彼等は、結局、現実の世界ではユートピアに到達することは出来ないのである。自らの幻想の中にあるユートピアを破壊しない限り…。そして、そんな彼等が到達出来るのは、自らの内にある幻想の世界……幻のユートピアだけしかないのである。

 

そこには、確かにユートピアが在る。しかし、それは、何と悲しいユートピアだろう。余りにも不確かな、シャボン玉のように脆い、幻想のユートピア。無数にあるがゆえに、はかなく、淡く、それゆえに美しいのだが、未来への可能性を浪費してしまう仇花として咲き誇るユートピアなのである。

 

こんなユートピアなど要らない。そう、叫ぶことが出来たらどんなに幸福だろう。しかし、私自身、自らの内にある幻のユートピアをどうしても捨て去ることが出来ないでいる。麻薬のような、美しきユートピアを……。

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2006年8月21日 (月)

短歌雑考

十数年前、初めて自分の意思で短歌を作ってみた。というよりも、心に沸き上がる想いを言葉にしてみたら、それが自然に31文字の形をとっていたと言ったほうが正しいかもしれない。それをノートに書いて、あらためて読んだとき私は思いもかけなかった驚きを味わった。凝縮した自分の言葉が、ある人への想いと重なり合ってとてつもなく愛しかった。遥かな過去から日本の中で受け継がれてきた短歌。それを守り、そして作り続けてきた人々の気持ちが、ほんの少しだけ分かったような気がした。

 

遠い遠い昔、言葉には重みが在った。人々の想いが、人々の願いが、そして、人々の祈りが言葉に込められ、それが、1首の歌となって結晶した。それは、単なる作品ではなく、行動を、生き様を、そして未来までも内包したものだった。……言魂信仰である。

 

倭武命(ヤマトタケルノミコト)の古事を見てみると鎮魂のための、そして哀切の感情を込めた歌の存在が確認される。また、柿本人麻呂は壬申の乱の後、近江の都を旅してたくさんの戦死者のために挽歌を詠んでいる。祈りや感情が歌という形に結晶し、それが死んでいった人の魂を鎮める。歌、すなわち言葉の持つ神秘的な力を人々は信じていた。誰もが心の内に持つ願いや祈りを歌にして、祟りなどの不幸から救われることを、希望がかなえられることを望んだ。日々の生活と未知なるものに対する信仰が溶け合っていた時代。1つひとつの言葉が、そしてそれが練り上げられた歌そのものが人々にはとても大切なものだった。

 

このような時代の歌の中で私が好きなものを何首かあげてみよう。

  君が行く道のながてを繰り畳ね焼きほろぼさむ天の火もがも

                        狭野茅上娘子

  我が背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし

                        大伯皇女

狭野茅上娘子の歌には、鎮魂というような意味合いはないが、それでも、恋人の中臣宅守の配流による別れの悲しみ、そしてかなうべくもない願いがひしひしと伝わってくる。はっきり言えば恋の歌である。しかし、その恋は、すべての想いを、そして一生を賭けることをもいとわない程の恋である。今の時代でこそ「たかが恋」かもしれないが、流行りのアイドル歌手の歌とは比べものにならないほどの重みが1つひとつの言葉に感じられる。

 

一方の大伯皇女の歌はもっと重い。何気なく見れば恋の歌の1つというような感じもするが、「我が背子」が謀反の疑いをかけられ大和に帰れば殺されるであろう弟の大津皇子だということを知っていれば、その哀切の想いが挽歌の色彩さえ帯びて悲しく伝わってくる。歌は、このような重みを持った言葉の結晶だった。だからこそ、その神秘の力も信じることが出来たのだろう。

 

その後、時代は下って平安の貴族文化が咲き誇る。そんな中で多くの恋の歌が生まれる。様々な技巧が発達する一方で、真摯なまでの色合いは薄れてはいったが、それでも、歌に託された想いには真実が含まれていたように感じられる。例えば、こんな歌が好きである。

  玉の緒よ絶えなばたえねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

                        式子内親王

やがて新古今の時代が過ぎ、歌はかつての勢いを失っていく。そして明治。近代に入って短歌の勢いを蘇らせた人の1人に与謝野晶子がいる。何気なくこの1首を選んだが、彼女の激しい想いが伝わってくる。その激しさが好きである。

  やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

                        与謝野晶子

そして現在。爆発的に売れていた時はどうしても読みたくなかったのだが、少ししてから読んでみた俵万智。言葉の中に狭野茅上娘子の時代のような重さは感じられないが、それでも、さらりとした素直な想いが伝わってくる。

  母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる

                        俵 万智

世は軽薄短小の時代。政治家の言葉も嘘で塗り固められていて、軽い。そんな中で日常的な言葉も重みを失ってシャボン玉のように漂っている。俵万智の歌のさらりとした感触は、そうした時代の影響かもしれない。それでも、彼女の歌には素直な想いがある。事実とは異なっていても、その中に現実の生活があり、現実の言葉がある。その言葉を詠み込むために、時として五・七・五のリズムが崩れるものもあるがそれに拘らない素直さが彼女にはある。俵万智の歌は、正直な想いの中から生まれる真実の夢である。だから、彼女の歌が嬉しい。

 

8ビート・16ビートのリズム、早口で捲し立てるラジオやテレビ。その中で軽薄な言葉が流れ、漂い、使い捨てられて消えていく。たくさんの嘘によって貶められ、その場限りのイメージと効率だけで寸断され、歪められ……。祈りどころかささやかな願いや想いすら乗せることも儘ならず、シャボン玉のように生まれては消えていく言葉。もはや、そこには言魂信仰の影すら無い。そんな時代だからこそ、1つひとつの言葉に想いを凝縮させた歌を詠みたい。1つひとつの言葉に言魂を結晶させた歌が読みたい。

 

結局、歌とは「想い」の結晶なのだ。1人ひとりの大切な「想い」を吟味された言葉の中に詰め込んだ心の結晶なのだ。「想い」のこもった言葉は、自然に人間の思いや行動と絡み合い、その重みを増していく。そんな過程を通して新しい歌が生まれていくのではないだろうか。時代を越えた新しい歌が…。

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文学、そして宮澤賢治

文学とは何か…。それは、絵の具の代りに言葉を使って描かれた1枚の絵画だ。1つひとつの言葉が、鮮やかにちりばめられ、響き合い、混じり合って、1つに凝縮されたイメージの空間なのだ。詩・短歌・俳句・童話・小説……といった様々なジャンルは、水彩・油彩・版画・イラストなどの違いと同じで、いずれも、1人の人間が自分自身の内にあるものを言葉を使って表現したというだけにすぎない。その人にとって、絵や音楽以上に、言葉がその瞬間の自分の心を表現するのに適していたということだと思う。つまり、文学とは、言葉を使った自己表現なのである。

 

その自己表現を、私たちは『読む』ことによって味わう。作者の思いが様々な感情を引き出し、心の中に何かを刻んでいく。それが、恐怖であっても良い。悲しみであっても良い。優しさであっても良い。嬉しさや喜びであっても良い。読んでいく間に、心の中に新しい何かや、忘れていた何かがイメージ化していく。そして、それが、その後の自分の感じ方や考え方、行動の変化を引き起こす一因となったりする。そんな経験が重ねられて、知らぬ間に今までとは違う自分に変わっていくのである。

 

したがって、この様な実感を与えてくれる、言葉で綴られた作品は、すべて『文学』と呼んでいいと思うし、また、『文学』と呼びたい。たとえ、それが純文学だろうが、詩や短歌・俳句だろうが、SFやミステリーだろうが、漫画だろうが構わない。SFや漫画のように、一昔前までは只の娯楽作品と考えられていた物でも、現在は、質の良い深みを持った作品がたくさん出版されている以上、それはそれとして認めたい。言葉だけで書かれてなくても、言葉を使って綴られ、私の心に、何か新しい感動や印象を心に刻みつけてくれる作品は、私にとっては文学なのだ。

 

こんなふうに書いてしまうと、多くの人々から批判を受けるかもしれない。前に揚げた文学の定義では、1個人の感性のレベルだけに偏っていて、『一般の評価』や『価値』について何も言及していないからである。そして、その事は文学に置ける「社会性」の問題を無視することに通じている。確かに「社会性」の問題に関わる『評価』や『価値』というものは大切だ。しかし、私自身は、文学について考える際には、それ以上に「自分の内なるもの」との関わりを大事にしたいと考えている。それは、この「内なるもの」が、1人ひとりの「生き方」と関わってくると思うからである。

 

そして、「生き方」という一人ひとりの人間のレベルまで降りて考えていくことは、一見、「社会性」の問題を無視するように見えながら、実は、それと深く関わってくるのではないかと考えている。作品というものは、作者の感性と表現力なくしては成立しないが、それに共感し、感動するのは1人ひとりの感性である。別の人間でありながら、そこに共感が生じるのは、感性の深部で人間として共通する何かがあるからだろう。

 

感性の深部での共通性は、各国の神話、伝説の中にも見られる。例えば、日本の神話におけるイザナミの復活の話と、ギリシャ神話のデメテルの話の類似性などもその1つで、共通性があるからこそ、遠く離れた地の神話によく似た物語が現れると考えられるのである。だからこそ、周囲に流されないで、個人の生き方、感性を掘り下げる事こそが重要だと思う。それが、私の「生き方」へのこだわりなのである。

 

このように「生き方」との関わりを重要な視点の一つとして作品を見たときに、どうしても心を引かれてしまうのが宮澤賢治のそれである。「雨ニモマケズ」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」……。詩も童話も、賢治の作品には、賢治の生き様が反映している。それが、一層、作品を深め、読む度に新しい何かを私に語りかけてくれるのである。

 

私が宮澤賢治の作品と出会ったのは、小学校2年生の時だった。姉が暗唱の宿題に出された「雨ニモマケズ」の詩を何故か弟の私が先に覚えてしまうという訳の分からないパターンで知った宮澤賢治。私はそれから30年以上にわたって彼を追い続けている。

 

賢治の詩や童話には、しっかりとした科学的な裏付けと、独特の幻想的なイメージと、人間の慟哭が混在している。それは、まさしく、科学者として地学を研究し、社会教育者としてとして農民と共に苦闘した人間・宮澤賢治の生き様と深く関わっているのである。

 

例えば「作品第1090番」の詩には、兎を飼ったり、グラジオラスを植えたり、マッシュルームを作ったりする様子が描かれている。羅須地人協会を作り、自らも農耕に従事しながら、農民たちの相談にのったりしていた賢治だが、病魔との闘いや、治安当局の取り調べなど、賢治の理想通りにいかないことが多かった。その事実を知ったとき、「何をやつても間に合はない」という詩の1節に込められた賢治の思いが胸をつく。

 

賢治の作品は、心の内から吹き出す想いそのものだったのかもしれない。幻想的イメージは、その理想。それは、美しいイメージで作品化されている。それは、文章によるものだけでなく、花壇であったり、絵であったりもするのだ。しかし、それだけではない。病気をはじめとする重苦しい現実に何度となく叩きのめされた時、魂の叫びが、祈りが、別の色彩を持つ作品を生み出している。その両面の混沌の中に賢治の姿があり、その生き方から芽生えた作品の数々が私を魅了するのである。

結局、文学とは、生きることそのものなのだ。詩人・宮澤賢治、童話作家・宮澤賢治、科学者・宮澤賢治、そして教育者・宮澤賢治。それら全てが賢治の生きる姿だった。そして、その中での体験が、作品の深みを作り出す土壌となって、作品を生み、育てていた。そんな賢治の作品を私は読み、感銘を受けた。そして、今の私がある。私は思う。作者にとって文学は、生きることの表現であるし、読者にとっては、生きることへの共感である。そして、ある意味では、その共感も、読者の消極的な表現方法の1つなのかもしれない。

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2006年8月 6日 (日)

文字と、言葉の表情

あいしてる/愛してる/アイシテル/aishiteru…発音すればすべて同じのように思えるかも知れないが、こうして書き並べてみると、実は、それぞれの印象が微妙に異なっている。日本では、ごく普通に、ひらがな・カタカナ・漢字・アルファベットが使われているので、1つだけを書かれた時にはあまり意識しないかも知れないが、よく考えてみると、書き手がどのような文字を選択するかによって読み手の受ける印象は異なってくるのである。

少し、遊んでみよう…。

《あたしが、「あいしてる」と言ったら、あなたは「アイシテルヨ」と応えた。》

この二人は、愛し合ってると感じられるだろうか。あるいは、二人はどんなキャラクターなのだろうか。…もちろん、この一文だけでは判断は不可能である。けれども、いろいろなパターンを想像することはできる。

【あたし】が日本人で、【あなた】がまだ日本語に堪能ではない外国人ならば、二人は相思相愛である。たどたどしいながらも、せいいっぱい「愛している」ことを伝えようとする【あなた】の行動が【あたし】にはとてもうれしく感じられる。

別れの予感に【あたし】が発した言葉を、もう心が離れている【あなた】が形式的に応じただけなら、【あたし】は、【あなた】の行動を一層腹立たしく感じ、やがては別れる運命にあることを納得してしまう。

もちろん、この他にもいろいろ考えられるだろうが、ひらがなやカタカナ、漢字といったそれぞれの文字の持つ印象を上手に生かすことによって表現力は向上し、様々な意味や感情をよりリアルに伝えることも可能になるのである。

ちょっとしたことには違いないが、文字の選択にも意識的になることで文全体の表情をも豊かにしていければ……と思う。

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2006年8月 5日 (土)

良い嘘と悪い嘘

今日、友人と言葉についての話をした。個人的には嘘はキライだが、小さな子どもではないので「嘘は悪いことだから、絶対に他人に嘘をついてはいけない」などと言うつもりはない。それなりの人生を生きてきて、真実が実は大変な毒を持っているという事実を経験しているからである。

だから、基本的に「嘘」は悪いことだと思っているし、特に、嘘をついて自分の利益や自分の周りの一部の人々だけの利益を求めるのは最悪の犯罪行為だと思っている。現在の日本は政治や経済のトップにこの種のウソツキがゴロゴロいる。この種の嘘は最悪であり、このような嘘を撒き散らす人間の言葉は軽く、信用できない。けれども、今の日本を見渡してみると、首相の小泉を筆頭に、この最悪の嘘を撒き散らし続ける人間の数が増え続けている。だからこそ、世の中が乱れ、暮らしにくくなっているのであろう。

ただ、個人的に許容できる嘘もある。それは、その嘘によって自分より弱い立場にいる人々を守る、という時に使われる嘘であり、そのために自分の身に降りかかるであろう不利益は、甘んじてそれを受けるという覚悟を伴ってのことであれば、それは何ら悪いことはない、と思う。そして、そこまでの判断と覚悟の上での嘘であれば、その嘘は美しく、そして優しい。これは、数少ない「良い嘘」ということになるだろう。

ただ、では絶対に嘘をつかなければ良いのか、というとそうでもない。例えば、家族の誰かが癌であることを告げられたとしよう。本人あるいは家族全員がそれに耐えられるか、というとそうでもない。以前、父が手術をする前、プライベートな場で、執刀する先生に癌の可能性を指摘されたことがあった。先生は私がその真実に耐えられると信頼して告げてくれたのだが、確かに家族を見渡した時、母が父の癌に平静でいられるとは思えなかった。幸いにして手術で患部を切開した結果、癌ではなかったことが判明したので、両親には何も話していない。けれども、本当に癌であったならば、その真実は、たとえ覚悟はしていても、重くのしかかってきたことだろう。

ある意味では真実は劇薬である。その激しい作用を回避し、弱い人々を守るためであれば、嘘も仕方がない場合はあるし、そのような嘘は優しく、美しい。けれども、自分や一部の人間の利益のためにつく嘘は醜く、多くの人々を傷つける。石油資源の豊富なイラクを侵略するのを目的にアメリカがついた嘘、一部の大企業や政治家・官僚の利益を守るために小泉や竹中がついた嘘……。このところ弱い人々を一層苦難の道に追い込む悪質な嘘が多すぎる。それが、少しでも減っていくように行動していきたいと思う。

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