2019年4月30日 (火)

平成の終わり

30年以上続いた平成が今日で終わる。テレビや新聞は平成の振り返り特集で騒がしいが、それが今上天皇の想いに寄り添っているかどうかは微妙かもしれない。とりあえず私自身は、いつものように淡々と平成の終わりを迎えたいと思っている。

今上天皇は、戦後の象徴天皇としての生き方を熟考した上で、日本国憲法の下の天皇としての役割を見事に果たされたのではないかと思う。歴代の総理以上に憲法を守り、国民に寄り添って、しかも政治に口を出すことを謹んで行動された。それは、自らの立場と役割を深く考えた上での行動であり、新しい民主国家の天皇像を国民に示された。それが、あまりにも見事であったがゆえに、今ではそれが当たり前のように受け取っている国民は大多数ではないかと思われる。それゆえに、人々は、象徴天皇制の意味をあまり深く考える必要を感じていない。

けれども、今上天皇が日本国憲法化の象徴天皇として生きる選択を選ばれたがゆえに、皇族は、日本国憲法に保障されている基本的人権の幾許かを犠牲にされている。職業選択の自由やプライバシーの権利など、皇族であるが故の不自由さもあるのだ。それが象徴天皇制である。優れた象徴天皇としてその役割を終えられる今上天皇陛下。その生きざまに甘えることなく、象徴天皇制の意味を問い続けていきたい。

 

 

| | コメント (0)

2019年3月31日 (日)

嘘をつく人

職場に嘘つきが一人いる。業務の内容と関わって、自分のミスを隠蔽するためや自分が仕事をしていると見せるため、あるいは同僚の足を引っ張る目的で、平気で嘘をつく。本人はうまく立ち回っているつもりなのだが、こちらが注意して観察しているとすぐばれる類の論理性や一貫性の乏しい下手な嘘である。当然、他の多くのスタッフたちもそれが分かっているので重要な要件を彼に任せたりはしない。嘘に反論すると感情的に反発して粗い感情的で論理的でない反論を繰り返すだけでウザイので、業務に支障の出ない範囲でその嘘は放置される。だが、普通の業務にあわせて彼の言葉の真偽の判断、それに対する対応を要求される同僚は日常的に業務妨害を受けているようなもので困っている。

臨床心理の知識と経験から考えると、平気で嘘を吐くことやその嘘が周囲にどのような迷惑や悪影響を及ぼすか想像できないことなどから、自己愛性人格か反社会性人格でと言えそうだ。ある疑いを持っている。ただ、本人の困り感はなさそうなので治療の必要な人格障害のレベルとまでは言えないのかな、という感じである。カウンセリングを本人や家族から依頼されれば治療的な対応も必要となるが、もちろんそういう依頼はないので、こちらとしては、その特性を理解しつつの対処ということになる。とりあえず権力や権威に弱いので、そちらに注意を促し、目を光らせてもらいつつ、上からの必要最低限の指示等を引き出しながらコントロールしていかなければならないと考えている。

平気で嘘をつく……ということでは、どこかの国のアホ総理も同様である。論理的に突き詰めれば明らかに矛盾することも平気で言うし、その場さえごまかせれば何をしてもかまわない、と誤解している。そして、マスコミを押さえこんで追及を甘くさせ、芸能人や有名人のスキャンダルを長時間報道させて国民の目をそらし、権力を自分と周りのオトモダチの利益のために行使し、結果としてどれほど国民や官僚が困っても責任は取らない。ネットではサイコパスという言葉がよく見られるが、これは脳科学の用語で、臨床心理学からすれば反社会性人格障害と言えそうだ。こちらの方は、責任ある与党に彼を引きずりおろす見識と力量がなく、マスコミを通じて「野党の追及が甘い」という印象操作をすることで、より責任の重い与党の役割をうやむやにすることに成功している。アホ総理よりも上の権力がないため、日本においてアホ総理の暴走を抑えるのはなかなか難しい。辺野古にしても、より上のアメリカにアプローチする方が有効ではないかと考えている。

臨床心理的に見れば、嘘が100%悪いとは考えていない。自分よりも弱い立場の人を守るために自分が不利益をこうむっても突き通すような嘘は悪いとは思わないし、弱くて未熟な人間が自我を守るためにつく嘘もある程度は仕方がないことだと思う。ただ、自分の利益のだけに周囲やより弱い人々に迷惑をかける嘘は許してはならない。そして、大人としてそんな不純な嘘が許され、まかり通る社会を作ってはいけない。まともな大人としての責任である。

| | コメント (0)

2018年8月30日 (木)

正直と公正

「正直」や「公正」などというものは、普遍的な徳目で、国家や宗教を問わず求められるべきもの、その実現のために努力すべきものである、というのが、普通の道徳心を持つ一般的な人々の感覚であると個人的には信じてきた。もちろん、大人としてあるいは臨床心理に関わるものとして、それが現実の場において実現できないケースはそれなりにあることも知っている。ただ、社会におけるその構成員の責任として、「正直」や「公正」は実現されるべき努力目標であり、社会を維持し構成員に信頼されるためには必要だと考えていた。

ところが、某アホ政権を支持する、国家や社会に対して責任ある国会議員から、「正直」や「公正」という言葉がアホ総理への攻撃であるという趣旨の批判がなされたらしい。あまりにも愚かすぎて本人の見識や能力を疑う話だが、カウンセリング的にその裏を読めば、某アホ政権はウソツキで不公正であると言っているに等しい。支持する責任ある国会議員がこんなことをのたまうのであれば、今の政権は正直でなく公正でもないと支持する国会議員たちも認めているのだろう。
 
けれども、それで国家や社会が成り立つだろうか。経済も怪しいものである。正直さや公正さは、1人の人間や1つの集団に対する信頼感を維持するのに必要不可欠のものである。そして、様々な活動も経済的な分業も信頼感を持てない相手と行うには、あまりにもリスクが大きい。要は、日本の信頼に関わる話なのである。与党議員の少なくない人数がアホ首相を支持しているという。そのことは確実に諸外国の日本に対する信頼を失わせ、経済に対してもかなりの悪影響を及ぼしかねないことが理解できないのだろう。
 
目先の利益しか考えられない連中がトップに居座れば、やがて組織は疲弊し、集団は弱体化して滅亡への道を歩むしかない。それを理解しない偽右翼売国奴たちが日本を破壊している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月29日 (金)

リスクと器量

社会が不安定化する中、上に立つ者の器量が問われる時代となった。「リスクがとれるか」という言葉をよく耳にしたり目にしたりするが、リスクをとるということは、アホ総理やアホウ財務相のように、ミスを下に押し付けてごまかしたりウソを重ねたりすることではない。上に立つものとして、部下のミスも含めて結果の責任を取るということである。

そしてそれは、ほとんどの場合、短いスパンで判断するものではない。短期的には減収減益などがあっても、長期的にみれば増益や成長につながればよい、という判断になる。それを考えれば、今の日本に蔓延する短期的な利益至上主義で「リスク」を考えれば大きなチャレンジは無理ということになり、成長を阻む大きな要因となる。
 
例えば、原子力発電でも、短期的に見れば事故の確率は低いが、長期のスパンで考えればひとたび事故が起これば、ヨーロッパ諸国において脱原発の流れが加速しているのは、そうした経営判断による部分も多い。それを教えたのは、東日本大震災におけるフクシマの事故である。
 
リスクの判断には、現実をリアルに分析する力も必要となる。その場合、耳触りのよいイエスマンや太鼓持ちのおべんちゃらばかりでなく、耳の痛い苦言や反論にもきちんと耳を傾ける度量や、自分の最初の意見に固執せず、明らかに問題があるとわかったところは大胆に変更する柔軟さも必要となる。「君子豹変」はそれを表している。
 
そうした点を併せ持つ優れた器量が大きな組織のトップには必要である。しかし、アホ政権の上層部にそうした器量を持つ人物はいない。日本は迷走を続け、国益は流失するばかりである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月22日 (水)

品格?

横綱の暴力事件で、マスコミがにぎわっている。確かに、相撲界にとっては大問題であり、加害者が横綱ということで、「品格」という言葉が飛び交っても不思議ではない。だが、連日のニュースで大騒ぎをしなければならないほどの大問題なのだろうか。
 
「品格」ということであれば、もっと問われなければならない重大事が今の日本には存在する。モリカケ問題は、首相が同じような言い訳や説明を繰り返すだけで時間が重ねられても、真相解明には至っていない。古来から「李下に冠を正さず」という諺があるが、政治家の「品格」という点からすれば、疑われるような行動を重ねた時点で、首相としての「品格」が問われる大問題である。もっとも、国会内で野党議員の質問中であるにも関わらず、事実無根の内容であるヤジを飛ばすこと時点で、その「品格」はなかったと言うしかない。だが、アベシンゾウなる男は、その辺のオッサンではなく、日本の内閣総理大臣であり、与党の党首である。このような「品格」のない男が首相の職にあること自体、日本の政治、自民党の品格」が問われる大問題だと言えよう。
 
ただ、問題は「品格」のレベルではなく、「汚職の疑い」である。忖度やオトモダチによる証拠隠しがまかり通り、マスコミは総理の「品格」を問題にしないばかりか「横綱の品格」報道に熱中している。まるでそれは、「総理の品格」「総理の汚職」から国民の目をそらす手助けをしているようにすら見える。日本のマスコミの「品格」が問われている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月16日 (月)

国を守るって?

自画自賛のみで検証や反省の能力に欠けた某首相によると、今回の衆議院解散は国難突破のための解散だとか。主に北朝鮮を念頭に置いての発言だと思うが、この男が首相の座にあって、しかも、野党ばかりでなく、与党もマスコミもその無能と愚かさを批判し切れない、愚かな男を責任ある首相の座から引きずり降ろせないことこそが最大の国難であろう。
 
しかも、その国難はこの男自らが招いたものばかりである。例えば、北朝鮮の核・ミサイル問題にしても発言だけは勇ましいが事態は悪化している。この男は、自分の無能を棚に上げてオバマ前大統領の北朝鮮政策を批判し、強硬姿勢を説き続けているが、その結果として核実験やミサイル発射実験の回数は減ったであろうか。本人と彼の政権は強硬な発言を繰り返して悦に入ってるかもしれないが、現実問題として実験回数は急増している。民主党政権時代と比較しても明らかに増加し、政策としての失敗は明らかである。
 
本当に言葉通りの強硬姿勢を貫くのであれば、実験のミサイルを実際に撃ち落とせば、それこそが何の効果もない高飛車な非難の繰り返しよりもずっとキム政権に対してのリアルな圧力となるだろう。それもせずに勇ましい言葉を繰り返しても何の圧力にもならず、かえってキム政権になめられて相手を図に乗らせる結果となっている。また、「勇ましい発言」は対話や交渉の機会を失わせるため、明らかに拉致問題の解決を遅らせることにもつながっている。
 
かつて、大日本帝国の松岡外相は、国際連盟の場で侵略行為を責められ、勇ましい言葉で国際連盟を脱退した。本人はその時、啖呵を切って爽快だったかもしれないが、重要な外交チャンネルの一つを失わせ、亡国の要因の一つとなった。アホ政権は金と恫喝以外のまともな外交能力が欠け、先の大戦の失敗を繰り返そうとしているように見える。「勇ましい言葉」は【負け犬の遠吠え】か【虎の威を借る狐】の類でしかないだろう。この程度の外交力で、本当に国を守れるだろうか。否である。
 
また、この政権は原子力発電所の再開に前のめりだが、【国防】を考えるなら、とんでもない話である。別に核でなくても通常弾頭で運転中の原発を攻撃すれば事足りる。それは、図らずもフクシマが証明してしまった事実なのだ。そうした軍事的な常識も理解できない政権に本当に【国防】を託せるだろうか。否である。
 
「国難」と言うのであれば、それこそ国難の時期に、この政権にだけは絶対にわが祖国の未来は託せない。いいや、託してはいけない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月28日 (水)

平和への誓い

首相が真珠湾での慰霊から帰国した。真珠湾攻撃の犠牲者に思いをはせ祈るとともに平和への誓いを新たにする……というのは良いことだと思う。ただ、真珠湾攻撃の犠牲者の多くは戦闘員(軍人とその関係者)であり、平和への道を開くのであれば、非戦闘員…つまり一般の人々に対する犠牲について、より謙虚な言動が望まれる。いわゆるアジア諸国における民間人の犠牲者である。
 
例えば、日本はアメリカ軍による空襲や原爆投下、沖縄地上戦によって、多大の民間人の犠牲者を出している。だから、国民はヒロシマ、ナガサキ、沖縄、や東京や名古屋などへの大空襲を忘れていない。被害者・犠牲者は忘れないのである。そして、非戦闘員に対する無差別攻撃は、決して忘れてはならないと思う。
 
だが、日本の歴代の為政者や政治家の少なからぬ人々が、日本軍による加害責任を軽視したり矮小化したりする言動を取ることが度重なっていた。特に安倍信三のそれは、歴史修正主義として侵略の事実を捻じ曲げようとしているかのように多くの人々の目に写った。そのため、内外から何度となく非難を浴びている。
 
今回の行為が、それに対する反省の上に立ち、本当に平和を志向する出発点であるならば、真摯に歴史的事実に向き合わなければならない。それは、民間の犠牲に対して、真珠湾での言動以上に謝罪と鎮魂の姿を内外に示すことである。
 
例えば、無差別爆撃を言うのなら、日本軍は渡洋爆撃という形で長距離爆撃を南京や重慶に対して行っている。零式艦上戦闘機11型の初陣でもあったため、私はその事実を中学生の頃から知っていたが、高校はもちろん中学の社会科でもそれを学習した記憶はない。これはもちろん、民間人が犠牲になることも想定した無差別爆撃である。
 
そうした民間の犠牲に対して、これから首相が謝罪と鎮魂の旅をして回るのであれば、今回の平和への誓いは今までのそれとは異なり、口先だけの言葉ではなく真摯な思いであるかもしれない。だが、真珠湾だけにとどまるならば、それは日本の軍事化を進めるためのアメリカの人々に向けた単なるパフォーマンスに過ぎず、いつものウソとほとんど同じ対外的美辞麗句に過ぎないだろう。そしてそれは、私が見抜くぐらいであるから内外の心ある人々にとっても簡単に見抜けることである。首相がこれから、平和に向けてどのような言動を取るのか注目していきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月26日 (月)

依存症ビジネスに甘い国

ギャンブル依存症対策をきちんと作らないままカジノ法案が成立した。ひどい話だが、この国・政権は、依存症ビジネスに激甘で、それによって人々を食い物にするビジネスを野放しにしてきている。その結果、少なくない国民が苦しんでいても、まともな対策も立てようともせず、知らん顔である。その辺りを徹底的に追及できない野党やマスメディアにも困ったものだが、そうした野党やマスメディアの弱さに乗じて暴走する現政権は、犯罪的ですらあるといえよう。
 
臨床心理的に言えば、ギャンブル依存症に限らず、多くの依存症がある。古くは「中毒」などとも言われたアルコール依存症やパチンコ依存症(ギャンブル依存症…の一つではあるが)、タバコ依存症に薬物依存症、新しいところでは携帯電話やスマホの依存症などもある。
 
依存症は病気である。麻薬や覚せい剤使用で逮捕されたり名前が上がったりしている芸能人や有名人は毎年のように出てくるが、犯罪の側面と同時に病の側面がある。ヨーロッパなどでは、その「病」という面により意識を注ぎ、治療のルートに乗せるシステムがある。だが、「犯罪」として摘発するだけで治療のための制度を確立しないまま放置すれば、「犯罪」は減らないだろうし、逆に、それを悪用する「闇経済」を太らせるだけだろう。
 
また、依存症から抜け出すためには、本人の心のケアが大切となる。忙しさや充実感を奪われた生活が心のスキマを広げ、そこに依存症の原因となる「毒」が入り込む。仕事に押しつぶされずに家庭生活や趣味、地域の活動や生きがいに割ける十分な時間とお金があり、親密に関わり心を許せる家族やパートナーや仲間がいる充実した暮らしが多くの人に保障されていれば、依存症のリスクは小さくなるし、立ち直りも早くなる。そして、そうした社会であれば、生産性も独創性ももっともっと出てくることだろう。
 

言わば、現政権の推し進めることと正反対の道が、まさしく依存症対策となり、依存症ビジネスを縮小させ、真っ当な経済を回復する道である。それから目を背け、どこまで国民生活を破壊すれば気が済むのだろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月31日 (日)

マイノリティーの排除という弱さ

障がい者の大量殺人という痛ましい事件が起きた。報道によれば、加害者の考えの中にマイノリティーの排除があるらしい。だが、その思想は、実は安倍政権や政権与党の中にも色濃く存在する。もちろん、首相も与党議員も露骨な形でそれを出しているわけではない。けれども、沖縄や介護、障がい者への政策的な対応や行動を見れば、安倍首相をはじめとする政権与党が、明らかにマイノリティーの側に対する抑圧に大きく舵を切っているのがわかる。特に第二次安倍政権以降にその傾向は強く出ている。従って、加害者の衆議院議長への手紙は非常に象徴的でもある。現政権が進めたマイノリティーへの弾圧・抑圧をより凄惨な形で実行したのが今回の事件だという分析もできるのである。
 
表面に出ているのは、暴力と残虐性ということになるが、個人的には、それが凄惨であるほど、加害者側の心の弱さや狭さが浮かび上がる。「弱い犬ほどよく吠える」ということわざがあるが、本当に強い心を持っていれば他者に寛容で弱者にやさしくできるし、マイノリティーを排除する必要はない。マイノリティーの排除をするということは、そうした暴力的な姿勢をとることで自らの「弱さ」を隠蔽し、「強さ」を誇示したいという心の表れであろう。
 
それに気づき、自らの弱さを自覚して、改善のための努力をしようとするのであれば、まだ救われる可能性がある。けれどもそうした自分の弱さから目を背け、ごまかそうとする限り、結局は自ら不幸を呼び込むことになるだろう。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月23日 (木)

守るべきもの

沖縄慰霊の日、ニュースでは安倍首相も出席していたようだが、どの面を下げてのことだろう。昨年の安保法制の改悪に際し、安倍首相は国民を守るため…との説明をした。だが、その安保法制の下で、沖縄の若い女性の命が奪われた。その後、米兵による飲酒ひき逃げ事件も起こった。沖縄はもちろん日本の一部だし、沖縄県民は当然のことながら日本国民である。安保法案の強行採決の際の首相の説明では、日本国民は誰一人として殺させないのではなかったか。首相の言葉が正しいならば、安倍氏はアメリカに喧嘩を売ってもおかしくないと思うのだが、逆に、この事件をもみ消そうという圧力が捜査陣に働いていたという話も聞こえてくる。それに危機感を持って、情報が沖縄の新聞に流れ、事件が明るみに出たとのことである。
このような国民軽視と人権侵害を続ける政府に対し、冷静で客観的な判断をしたとき、もともと琉球王朝として大和朝廷とは別の歴史を歩んでいた沖縄があえて日本の一員であり続けることがBestの選択なのか、という考えも出てくる。県民(国民)を本当の意味で守るための沖縄の独立という考えである。そして、沖縄が独立したとき、差別と人権侵害を続けた日米にそのまま基地の設置を許すことはありえない。とすれば、外交的に中国やロシアとの交流を重視するという外交的選択の可能性も当然出てくる。
そうなった時、沖縄の地政学的な位置は日米の安全保障や外交にとって脅威となる。
安倍政権の沖縄への対応は、安全保障の名の下、安全保障をかえって危うくする危険性をはらむ愚かなものなのである。普天間基地の移設は、確かに様々な問題を抱えているし、一週間や一か月で解決できる種類のものでもない。それは、沖縄県民であっても複雑な思いを抱えつつも、それなりの努力を続ければ理解はしてくれるだろう。だが、問題解決への努力をせずに負担を押し付けるだけでは理解は得られない。たとえば、地位協定でも日本ほど米軍に譲歩した卑屈なものは、同じ敗戦国のイタリアやドイツでも結んでいないし、フィリピンでも、もっとフィリピン国民側に譲歩する形での改定を行っている。それらの国にできることが日本にできないなどありえない。政府の外交的無能、あるいは怠慢と言う以外にないだろう。
安倍政権は、安保法の強行採決時に「国民を守るため」と主張したが、それにも拘わらず、国民の命が奪われている。安倍政権の言葉が、いかに行動を伴わない空虚なものであるかが、この事件でも明らかになったのである。守るべきは国民…安全保障においてこれは大前提である。だが、安倍政権はそうした行動をとらなかった。来月には参議院議員の選挙がある。これは、判断をする上で大切なポイントの一つとなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧