2009年12月 8日 (火)

零式艦上戦闘機・ゼロ戦の型

1941年の12月8日、日本海軍の手によるハワイ・オワフ島の真珠湾攻撃によって、太平洋における日本とアメリカの戦争は開始された。太平洋戦争である。真珠湾攻撃にも参加し、初戦において圧倒的な強さを誇った日本海軍の零式艦上戦闘機。日本では、太平洋戦争という言葉からゼロ戦を連想する人はとても多いのではないだろうか。私自身もその1人である。

現在でも、「戦闘機」と言えば、まずゼロ戦が頭に浮かび、それから四式戦闘機・疾風、一式戦闘機・隼、局地戦闘機・雷電、三式戦闘機・飛燕、局地戦闘機・紫電改(紫電21型)などの戦闘機を連想し、ついでF4ファントム、F15イーグル、F14トムキャット、といったアメリカのジェット戦闘機、クフィールやドラケン、ミグ21などのアメリカ製以外の戦闘機、さらに第二次世界大戦のメッサーシュミットやハリケーン、スピットファイアー、P51マスタングといった戦闘機がイメージされる。意識の中では、ゼロ戦は戦闘機の代表なのである。

さて、私の頭に思い浮かぶゼロ戦というと空気取り入れ口がエンジン前方上部にあり、緑色に塗装されているものがほとんどである。これは、52型の特徴であり、太平洋戦争の後半に入った1943年の夏から戦線に投入されたタイプである。初戦で大活躍し、真珠湾攻撃に参加したのは21型。空気取り入れ口はエンジン前方下部にあり、ボディーは白っぽいカラーリングになっている。生産台数としては52型がゼロ戦の中では一番多いのだが、エンジンの出力が段違いでスピードや装甲、武装の優れたF4UコルセアやF6Fヘルキャット、P51マスタングといった新鋭機を相手にしての空中戦は、ベテランのパイロットが少なくなった戦争後期においては一層不利になり、やがては菊水1号作戦から始まる神風特攻隊の特攻機となっていく。

特攻機として使用されたのは62型、52型の武装を強化し防弾装備を強化した52丙型に爆弾を設置できるように改造した「爆戦」と呼ばれるタイプである。ゼロ戦には、スピードを増そうと設計されたが航続距離が短くなり、返って前線で使いにくくなった32型や、32型の翼の面積を戻して航続距離を延ばす再改良をした22型、エンジンを変えた53型、54型などもあるが、そうした種類の多さが、本格的な新鋭機ではなく小手先の改造によって対処するしかなかった余裕の無さをも示している。特に、「爆戦」などは特攻機として使われたことも併せて、戦争の悲惨さとむなしさを考えさせられる。

子どもの頃、21型、32型、54型、52丙型のプラモデルを作った記憶がある。当時は、そうしたたくさんの型がある背景を知らぬままゼロ戦のプラモ作りを楽しんでいたが、この多くの型の背景にある歴史的事実を考えると痛ましい。二度と日本が戦争の被害者にも加害者にもなってほしくないと願わずにはいられない。

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2009年10月27日 (火)

道なかば

鳩山首相の所信表明演説も終わり、いよいよ国会の論戦も始まる。8月末の総選挙からおよそ2ヶ月、自民党を中心とした政権がこれ以上続いたら日本は終わる、という思いはあったが、選挙で民主党が勝ったとしてもそれ程変化は無いだろう、というのが正直な気持ちだった。国民生活を徹底的に破壊した小泉「改革」から考えても10年ほどかけて変えてきたもの、そしてそれ以前からずっと自民党を中心として続けてきたものをそんなに簡単に変えられるなら苦労はしない。せいぜい、4年かけて3分の1か4分の1でも変えられればうまくいった方ではないか、と予想していたが、このスタートの2ヶ月を見た限りでは、思いの外よくやっているという感じである。

もちろん、問題は山積しているし、早急に手を打たなければ問題はさらにこじれる、というものも多い。けれども、マスコミの報道を見る限りでは短絡的で底の浅い批判が多いように感じられる。例えば、「子ども手当て」よりも「保育所を増やして待機児童を無くする」方が先ではないか、というように聞こえるような編集をされたニュースがあったが、その双方が必要であって、一方が不要と言うわけではない。前政権では双方共に後回しにされて少子化を招いたのである。その解決が一朝一夕でできるものなのか。マスコミ報道の底の浅さが感じられる例である。

同様に、酒井法子報道の加熱ぶりも異常である。薬物汚染は大きな問題だが、たかが1タレントの不法行為で死人が出ているわけでもない。薬物依存から立ち直ることが出来るかどうかは、道なかばというよりも努力が始められたに過ぎないだけのことで、鳩山首相の所信表明演説の解説を削って長時間をとるほどの必要はまったくない事件/裁判である。そうした判断すらまともに出来ないような程度のマスコミの力量で、本当に政治権力のチェックができるのか心配になる。

いずれにしても、道なかば。自民党やみんなの党のように、対案も出せずに揚げ足取り的な批判をまくし立てても、まともなチェックは出来ない。何を、どのような形で、どうステップを積み上げながら変えていくのか。それを丁寧に見ていきたいと思う。

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2009年10月16日 (金)

死刑が厳罰にならない!?

無差別殺人の裁判で死刑が求刑されたり、死刑判決が出たりしているのは今までの社会通念からすれば当然…という感じはするが、事件によっては必ずしも死刑が厳罰にならないのではないか、と感じることがある。自我の未熟さゆえに、自らの行為によって自殺をする勇気や決断力を持ちえず、自分よりも「弱い」と感じられる人々を無差別に殺害することで死刑にしてもらおう…という甘えがあるのではないか、と見える例がけっこうあるからである。

本人は、他者の手による「自殺」…つまり死刑を望んで無差別殺人という行動を選択している以上、死刑こそが本人の希望であり、願いなのだ。それに対する死刑判決は、本人の希望を叶えることになるだけで、本人にとっては望んだ通りの結末を迎えられることにもなる。とすれば、死刑判決は本人にとっては罰にはならないし、同じようなことを考える人に対する抑止効果はなく、同じような犯罪を助長することにもなりかねない。

犠牲者の家族の感情からすれば、憎しみゆえに犯人の死を望んだとしても、その憎しみは死を犯人が望む以上復習とはなりえず、返って犯人の望みを叶える結果になって犯人を喜ばしてしまう場合も出てくる。犯人の「苦しみ」を考えるならば、逆に「死」を与えるよりも苦しい「生」の中に縛り付けられる方が辛いと言えないこともない。その意味でも、死刑は憎しみの感情の方向性をズレさせ、思いを拡散させてしまうことにもなりかねない。

江戸時代の逸話で、死刑に相当する重罪を犯した犯人に対して、とある名君がその罪を理解させるに十分な教育を施して罪を自覚させた後死刑に処した、というものを何かで読んだ記憶がある。自らの犯罪に罪悪感を持たずに死刑を望む犯人に対する死刑判決…ということと比較して、いろいろと考えさせられる話である。

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2009年9月 1日 (火)

君子豹変す…変われなければ君子とは言えない

「君子豹変す」という諺がある。誤用を見かけることが時々あるが、本来は「間違いを改めるに憚ることなかれ」というものと同じような意味であり、自分の言動が間違いだったと分かれば、今までの言動に拘らず、今までとは正反対のことであってもそれをやる、というような意味である。

今回の総選挙における自民党の目を覆うほどの歴史的惨敗も、「豹変」できなかったことが大きいのだろう。前回の郵政選挙の後、圧倒的な多数を得た自公政権は三分の二を占める衆議院での数の暴力によって、議論の中で問題点が見えてきても修正せずに再可決で押し切った。結果として、後で多くの問題点が出てきた例が少なくなかったが、その責任を取ることなく、再可決を多用して政治を歪め、国民生活を破壊してしまった。その怒りが今回の結果につながったのだろう。

国民の生活、というためにはもちろんだが、与党の党利党略という意味でも、自分たちの集団を守るためには、「豹変」すべきだった。けれども、君子ではなかった自公政権のリーダーたちは、「間違いを認める」ことや「変える」ことを過度におそれ、「豹変」できなかった。自らの手で間違いを改めることができず、責任逃れに終始すれば、よほど温厚な人であっても怒り出すのは当然だろう。

さて、選挙の結果、今度は民主党が未曾有の大勝利となり、単独でも300を越えるほどの議席を得た。だが、この多数の議席をどう使うか、が実は試されている。野党となってしまった自公政権の失敗に学ばず、権力のわなに落ちてしまえば民主党も次の選挙では今回の自公政権と同じ目に合うだろう。だが、そのような形で政治が混乱すれば、割を食うのは1人ひとりの国民である。自公政権の失敗を「他山の石」とし、国会の場できちんと議論し、改めるべきところは改めるようになってくれると良いのだが……

それが、「変心」になるのか、君子の「豹変」になるかは、神のみぞ知る。ただ、国民の生活のためには、「豹変」できる政治になってほしい…と祈るのみである。

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2009年8月12日 (水)

依存の背景

押尾学や酒井法子夫婦の事件で、芸能界の薬物依存がクローズ・アップされているが、依存の背景をきちんと分析し、それを生じさせる構造にメスを入れることなく騒ぎ立てるだけでは問題は解決しない。罪を犯した人間を徹底的に排斥するだけでは同じような事件が繰り返されるだけである。

酒井法子らの事件は違法な薬物の所持・使用/あるいは依存が問題となるが、依存は他にもアルコールやセックスなど様々な場合がある。いずれにしも、自我の未熟さや弱さが様々な依存に結びついてしまう例が多い。心の中に広がる虚無感や絶望感をごまかすため、あるいは過大なストレスを処理しきれずにそれに走ってしまう場合、他にも断れずに周りに流されてしまう場合などが考えられる。

では、昔は今日ほど目にしなかったのはどうしてか。日本の社会は「出る杭は打たれる」というような自我の確立を否定するような諺が示すとおり、自我の確立をそれ程重視しなかったが、その分、1人ひとりを支える集団が様々な関係を通して弱い自我を支えていた。けれども、資本主義の進展の中で、集団や社会が解体され、弱い自我を支える関係が弱体化してしまった。

こうした背景に目を向けず、個人に責任を押し付けるだけでは問題は解決しない。「悪」を異化して排除し続けても、社会がそれを再生産する構造になっているのである。マスコミもセンセーショナルに騒ぎ立てるだけでなく、こうした構造の分析やそれを変えていくための手立てを提言するような報道姿勢が必要だろう。

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2009年8月 9日 (日)

酒井法子は重要人物?

酒井法子が薬物法違反で逮捕された。芸能界や大学生の薬物汚染のニュースはこのところ多いし、事実認定が行われ、裁判の後刑が確定すれば、それはそれで憂うべきことではあるが、酒井法子は政治家でも財界の要人でもない。彼女が逮捕されたからといって、国民生活への影響は考えられない。ところが、NHKをはじめとするマスコミの取り上げ方は異常であった。SMAPの草なぎの泥酔全裸事件といい、芸能人の醜聞よりも、もっと重要なことがある。

例えば、同じく薬物違反で問題になった議員がいたが、そのニュースは酒井法子よりもずっと小さかった。同じタレントでも、疑惑の選挙で千葉県知事になり、市民から選挙違反で告発されている森田健作の方が社会的には問題である。けれども、その報道は信じられないほど小さい。芸能界の薬物問題よりも、もっともっと緊急性があり大切なことは山ほどある。

確かに、芸能界の薬物汚染は問題である。ただ、精神的に見れば、常に他者の視線にさらされ「良い人」を演じ続けなければならないストレスは大きい。だから、自我が未成熟な場合は、その精神的な弱さゆえに薬物に手を出してしまう可能性はあり得る。今回の酒井法子の失踪についても、精神的な弱さやもろさ…という可能性を考慮すれば、解離性の逃走である場合もあり得る。幸い、大事には至らなかったが、警察やマスコミの対応を外から見ている限りにおいては、自殺という可能性もあったのではないか。

一方、酒井法子事件の大騒ぎによって、人々の目から逸らされてしまった事件や問題があったのではないだろうか。芸能人は聖人君子ではない以上、間違いも犯すだろう。それは良くないことかもしれないが、大騒ぎして徹底的に糾弾する必要はないのではないか。政治家や大企業、官僚などの言動にこそ、もっともっと注視が必要だろう。

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2009年8月 4日 (火)

裁判員裁判は始まったが…

先日から裁判員裁判が開始され、夕方のニュースでも、毎日、それが取り上げられている。市民感覚を裁判に生かすとの理由がしきりに喧伝されているが、少なくとも報道を見た限りでは、単なるパフォーマンスに過ぎず、やはり廃止か全面的な制度改定を早急にする必要がある、との印象である。

まず、最初に選ばれた裁判員のうち4名が女性だったが、これは意見や質問が出にくいのではないか、と思われる男女比である。たった1人の男性という立場では、公的な場で意見を言いなれているならともかく、心情的にはプレッシャーは大きいだろうし、女性が多いということも公的な発言の経験はたいていの場合少ないだろうから、やはり意見や質問も出にくいだろう。男女同数にするかどちらが多くてもかまわないから、せめて4人と2人にした方が意見や質問は出やすいだろうし、バランスとしても良いのではないかと思った。

それから、実際に始まってから知ったことだが、控訴審では裁判員裁判は行われないという。とすれば、市民感覚による裁判も、控訴審以降で「専門家」による判断によってひっくり返されてしまう機会が2度もある…ということである。けっきょく、裁判に市民感覚を導入する…というのは口先だけのことだし、イギリスなどでは完全実施されている取調べの完全録画も行われていない事実などからも、批判をかわす為のパフォーマンスに過ぎないということなのだろう。

これも、小泉政権以降の「改革」の中で行われた「実績」の1つである。閣僚の中には、前回のマニフェストに対する評価について「厳しすぎる」との声もあったようだが、裁判員裁判1つを例にとって見ても、平均すると40点台後半という評価は、どうみても甘過ぎる。この評価に「厳しい」との声が出るようでは、現実認識能力がない、と言われても当然だし、それ自体が政権担当能力の欠如の現れである。

だが、政権が変わったとしても、自公政権によって行われた「改悪」はあまりにも多岐にわたっている。裁判員制度をはじめ、多くの見直しが必要だろう。

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2009年5月19日 (火)

開国/不平等条約と自由貿易体制

1853年のペリーの来航によって、江戸幕府の鎖国政策は終わりを告げ、日本は開国の道を選択した。その後、日米修好通商条約を皮切りに、アメリカやヨーロッパの国々と不平等条約を結ぶこととなった。経済的には、関税自主権がなかったことが日本の経済に大きな衝撃を与えることとなった。

開国までの江戸時代の経済体制は、基本的には国内で自給自足ができ、ある程度安定した閉じた経済圏を作っていた。ところが、不平等条約によって外国から多くの物品が輸入されることになり、それが国内の産業構造を破壊して多くの人々を困窮させた。そうした社会情勢が幕府への不審を生み、尊王攘夷運動を拡大させていったのである。

そうした歴史に学ぶと、グローバル資本主義が錦の御旗と掲げる「自由貿易体制」の欠点が見えてくる。「自由貿易体制」は第二次世界大戦を引き起こした経済的要因にブロック経済/各国が自国の利益のみを追求するあまり他国との貿易を著しく制限したこと…があったという理解と反省から、「自由貿易体制」の維持に各国が協力するということでGATTそしてWTOが組織され現在に至ったものである。

確かに、ある程度対等に近い国々の自由貿易は、それぞれの関係国を豊かにし、共生するための条件を整えていくシステムになると考えられる。けれども、経済的に格差の大きい国との「自由貿易」は、経済的に強い国はさらに豊かにするが経済力の弱い国を疲弊させる結果を生む。開国当時の日米貿易や日欧貿易は、欧米にとっては「自由貿易」に近かったが、日本にとっては「不平等」であった。そのため日本の国民生活は疲弊し、関税自主権の回復は明治政府の懸案となったのである。

経済的に格差の大きい国の間での「自由貿易」は、実は「不平等貿易」であることを開国の歴史は教えてくれている。私たちは、このことをあらためて考え直す必要がある。

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2009年5月10日 (日)

零戦の欠点と技術者の苦悩

零式艦上戦闘機…ゼロ戦という名で知られている日本海軍の誇る戦闘機は、実は、開発当初から欠点を抱えていた。それは、欧米に比べて重さの割りに馬力の小さいエンジンを機体設計でカバーする上で必然的に眼をつぶらざるを得なかった部分でもあった。

例えば、零戦の構造図を見てみると、その骨組にけっこうたくさんの穴が開いているのが分かる。強度という点から考えれば、これは明らかにマイナスである。けれども、馬力が十分でないエンジンで高速と運動性能を満足させようとした時、開発した技師たちは機体を1gでも軽くするという結論に達した。その結果がこの穴の存在だったのである。当然、燃料タンクや操縦席の防弾についても、スピードと運動性…つまり格闘(ドッグ・ファイト)性能の向上のために軽視され、付けられなかった。これは、発注した日本海軍の優先順位の結果削られたものだった。

そのため、激しい急降下には耐えられず空中分解を起こすことや、燃料タンクや操縦席への狙い撃ちが弱点になることについては、技術者たちは早い段階から認識していた。だが、その弱点もスピードや運動性に圧倒的に優位を誇っていた段階では目立つことなく、大きな戦果をあげることが出来た。

けれども、太平洋戦線での戦闘が激しさを増し、アメリカ軍がゼロ戦を手に入れて研究し、新たな戦法の導入と新鋭機の投入の本格化により、ゼロ戦の優位は崩れ、その欠点が原因となって苦戦を強いられることになった。当然、そうした状況の中で、現場のパイロットからも防弾の必要性を説く声が多く寄せられる。前線でP38ライトニングに撃墜されて戦死した山本五十六は、現場のパイロットとの会議の中でその必要性を痛感していたが、戦死によってその声は海軍本部にはきちんと伝わらなかった。

その後もゼロ戦は改良を重ねて前線で戦い続けたが、技術陣や現場のパイロットたちの防弾の必要性を説く声は海軍上層部によって軽視され続けた。ゼロ戦は十分な防弾装備を持たぬまま、特攻機として次々と太平洋に散っていったのである。ゼロ戦の後継機である烈風は、防弾に対する開発陣の思いから最初から防弾装備があったが、戦場に姿を見せることなく敗戦の日を迎える。設計上のバランスからすればゼロ戦に防弾装備をつける改良は難しかったかも知れないが、現場の声を聞いて少しでも早くそれに着手していれば、ベテランのパイロットはもっと生き残っていただろうし、特攻作戦とは別の作戦も考えられたのではないかと思われる。

守りを軽視し、現場の声を聞こうとせずに失敗を重ねた海軍上層部。歴史に学べば、同じ失敗を繰り返さないだろうが、日本には現場の声を聞かない「伝統」が今も少なからず残っている。例えば、全国一斉学力テスト。例えば、高齢者医療。社会のさまざまな場において、「現場の声」が無視され、決定がなされていく。ゼロ戦の悲劇は、また繰り返されそうである。

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2009年4月23日 (木)

もっと大事なことがあるのでは?

夕方のニュースを見ていたら民放でもNHKでもSMAPの草彅剛の逮捕が大きく報じられていた。酒に酔って騒いで裸になり警察に逮捕されるなど、確かに褒められた行為ではない。けれども、有名とは言え、たかがTVタレントである。薬物を使用していた訳ではないし、他人にけがをさせた訳でもない。酔いが覚めて本人も罪を認めている。そうした点を総合的に考えれば、家宅捜索やこれほどまでに大きく報道する必要があるのか、と思う。

やったことは悪いが、政治家でも官僚でもないただのタレントだし、薬物違反の疑いがある訳でもない。当然、逃亡の危険性もほとんどない。逮捕や家宅捜索が必要とは思えない。それなのに、この扱いである。警察も、検察も、マスコミも、もっと追及しなければならない重要な問題が他にたくさんあるのではないだろうか。

同じヨッパライならば、重要な国際会議で外国にまで出かけていって朦朧会見をし、結局は辞める羽目になった前大臣の方がよほど悪質である。ところが、その第一報は、これ程までにマスコミで騒がれていただろうか。それと比較しても、この扱いは異常だし、西松建設事件で名前の挙がっている自民党議員への追求はほとんど聞こえてこない。市民から公職選挙法違反と政治資金規正法で告発されている森田健作知事に関しても同様である。国民生活や市民生活にとって、これらの問題に対する追及の方が、TVタレントの酒の上の失敗の何十倍も何百倍も影響が大きく、重要な問題である。

だが、あえて大して重要でもないことを意識的に騒いでいるのであれば、職務怠慢を偽装しているのではないかという疑いや、社会的影響は小さいけれども人々の目を奪いそうなゴシップを大々的に追求することで国民の目を重要な問題から逸らそうとしているのではないかという疑いも出てくる。

あえて繰り返し強調したい。他に、もっと大事なことがある筈である。

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