2007年9月21日 (金)

タキオン粒子

光より速い粒子…そう考えて設定されたのがタキオンである。もちろん、その実在は現時点では確認されていないし、もしかしたら存在しない架空の粒子に過ぎないのかもしれない。けれども、光より速い粒子が存在すればどうなるのか…という点は非常に興味深い思考実験でもある。

タキオン粒子を初めて知ったのは、「宇宙戦艦ヤマト」であった。放射能除去装置を手に入れるために、1年以内に14万8000光年離れた大マゼラン星雲のイスカンダル星へ行って帰って来なければならない。そのためには光の速度以下で移動していては不可能なので超光速飛行による移動が必要となる。それがワープであり、それを可能にするのがタキオン粒子である。…後に、講談社のブルーバックスを読み漁り、こうした考え方が科学的な議論や推論に基づいたものだという事を知る。そして、タキオンを発射する波動砲の描写において粒子が砲口に吸い込まれていくのは理論的に正しいのだと知って感動した覚えもある。

私が生きているうちに人類が他の太陽系惑星の上に立つことはもしかしたら出来るかもしれないが、最も近い恒星であるケンタウルス座α星に達する事は無理だと思われる。けれども、恒星間飛行、さらにはアンドロメダ星雲や他の銀河星雲まで達する可能性を考える事は良い事である。愚かな戦争によって人類が滅亡しないためにも、戦争に使う金を大幅に削減して宇宙の探査や宇宙の平和利用の研究に回せば良いと思うのだが……。

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2007年8月27日 (月)

すばる望遠鏡

宇宙には昔から興味を持っていたが、ここ数十年の技術革新によってそれまで見られなかった宇宙の姿が明らかになってきた。新たな技術がもたらした映像によって「宇宙はこれ程美しかったのか…」という感動を与えてくれたのはハッブル宇宙望遠鏡であった。だが、ハッブルでは捉えられない映像を捉える力を持つ望遠鏡が存在する。その1つが、日本の誇るすばる望遠鏡である。

すばる望遠鏡は、ハワイのマウナケアに設置されている口径8.2mの巨大望遠鏡である。特に日本の技術力を結集して作られた1枚鏡の巨大望遠鏡は、1枚鏡という特性と巨大な口径によって、観測を邪魔する雲や大気のない条件で宇宙の光を捉えるハッブル宇宙望遠鏡でも捉えきれない光を捉えることが可能である。

実際、ハッブル宇宙望遠鏡の天体写真は非常に美しいが、すばる望遠鏡による天体写真もそれに勝るとも劣らないほど美しい。例えば、こと座のリングネビュラの映像でも、中心の白色矮星の周囲を取り巻くガスの微妙な構造までくっきりと映し出している。その映像は、宇宙の美しさと神秘の広がりを、直接心に伝えてくれる。

日々の仕事に追われていると、なかなかゆっくりと星空を眺めることはできない。その心のゆとりがないのである。けれども、星空を眺めていると、日常のトラブルも小さなことのように思えてくることが少なくない。さらに、最新の技術の力によって捉えられた宇宙の姿は、小さなことに悩むことそのものを忘れてしまう魅力を持っている。

夜空の星を眺めていても、何か得をするというわけではない。ましてやすばる望遠鏡が宇宙の姿を明らかにしていっても日常の生活への影響はほとんどない。それでも、すばる望遠鏡とそこに集う人々の業績を日本人として誇りに思う。

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2007年7月28日 (土)

印象的な夢

あまり夢を記憶している方ではないのだが、いくつか、時間がたっても覚えている印象的な夢がある。特に強烈だったのは、たった1人で宇宙空間を漂っている夢である。そこは、宇宙空間だと分かるのだが、もちろん、宇宙服など着ている訳ではない。でも、体内の血液が沸騰する訳でもないし、大気圧の圧迫を失った体表が膨れ上がるわけでもない。それが、夢たる所以である。

さて、宇宙空間にたった1人で投げ出されてしまったら、どのように感じるだろうか。我々はこの地球上に生を受け、何の疑問もなく地表で暮らしているが、地球や太陽から、そして周囲の人々から様々な恩恵を受けて生きている。だから、本当に宇宙空間にたった1人で投げ出されてしまったら、我々は一瞬のうちに死んでしまうのである。

当然、夢とはいえ、1人で宇宙空間に投げ出されてしまっているのだから、生命が終わってしまう怖さは感じた。それと併せて、重力を感じない心細さ…というのもあった。足の裏に地面があることの安心感・安定感は、普段、まったく感じることはないが、考えてみればこれは大変な奇跡なのではないだろうか。もし、重力によって地表にくっつけられていなければ、我々はいつの間にか大気圏を越え、酸素を失い、オゾン層を越えて強力な紫外線や電磁波の雨を全身に受けて死んでしまうだろう。その意味では、重力は私たちを守ってくれるゆりかごのような存在なのかも知れない。

だが、その一方で、まったく重力に縛られない開放感をも私は味わっていた。あらゆる視界を闇が包み、彼方の星星は見ることはおろか、近づくことも出来ないほどの遠くにある。だがそれは、星の影響をほとんど受けないという事でもある。その意味では、本当に自由なのである。

ただ、自由には、必ず責任が伴う。そのことも、夢の中では当然意識されていた。好き勝手なことをするのは別にかまわないが、その結果他者に酷い損害を与えたり多大の迷惑をかけるようなことになるのなら、それは自由ではなくワガママなのである。

ところで、夢は、無意識からのメッセージでもある。それを上手く解読して、日常生活に役立てることが出来ればよいのだが……。

 

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2007年7月 9日 (月)

さそりとオリオン

最近は曇った日が続いていることもあり、なかなかぼんやりと星を眺めていた記憶がない。望遠鏡など持っていないので、それ程星座には詳しくないが、それでも、ぼんやりと星を眺めているのは割りと好きだ。中でも、一番好きなのはオリオン座である。

中央に並ぶ三ツ星、赤く輝く赤色巨星ベテルギウス、青白く冬空を照らすリゲル。オリオン座の一番明るい星/α星がベテルギウスで2番目に明るい星/β星がリゲルである。非常に見つけやすく、また美しい星座である。また、オリオン座を見つけると、大犬座と子犬座のα星とで形作る冬の大三角形も簡単に見つけられる。夏の大三角形とは異なり、冬の大三角形はほぼ正三角形に近いので見つけるのはいっそう容易である。

だが、オリオン座と言えば、少しギリシャ神話の知識があれば、すぐさそり座も連想するだろう。強かったオリオンもさそりの毒によって命を落とす。だから、天上に上げられた今でも、オリオン座はさそり座を恐れて逃げ回り、絶対に同時に夜空には存在しない。そう、オリオン座が冬を代表する星座のひとつなら、さそり座は夏を代表する星座のひとつと言えるだろう。

今の時期ならば、さそり座はけっこう見つけ易い。南の空にSの字形にならぶ星たちを探せばいいからである。その中でひときわ鮮やかな赤い光を放つ星がある。さそり座のα星アンタレスである。

だが、8月の下旬ともなれば、実はオリオン座を見ることも可能になる。実は、さそり座の沈んだ明け方、オリオン座は東から昇ってくるのである。

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2007年2月16日 (金)

ハッブル宇宙望遠鏡のとらえた宇宙

手元に一冊の本がある。『ハッブル宇宙望遠鏡で見る驚異の宇宙』という子ども向けの本だが、ハッブル宇宙望遠鏡のとらえた宇宙の姿を、付属のメガネを通して立体的に味わうことができる楽しい本である。

ハッブル宇宙望遠鏡は、それ以前の天文写真の常識を超える鮮やかで不思議で興味深い宇宙の表情を私たち人類に見せてくれた。ちょっとしたトラブルでイライラしたり腹を立てたりしたときに、ハッブルの宇宙写真を眺めているといつの間にか心が落ち着き、些細なことに怒ったり悩んだりしなくても…という気にさせてくれたりもする。別に、日常生活に役立つわけではないのだが、宇宙という広大で手の届かない存在を意識することによって視野狭窄に陥りかけていた自分が、心のブラックホールに落ちていくのを防いでくれるのである。

オメガ星雲やエッグ星雲の色鮮やかな色彩、ミイラの顔のようにも見える超新星の残骸LMC-N49、ユニコーンの頭部をイメージさせる三裂星雲、宇宙はようやく人類に対してこれだけの表情を見せてくれるようになったのだ、とつくづく思う。

ハッブル宇宙望遠鏡も核兵器も、日常生活には何の役にも立たないが、核兵器は未来への不安や絶望を広げているのに対し、ハッブル宇宙望遠鏡は未来への夢と希望を育んでくれる。人類に智慧があれば、どちらにこそ金をかけるべきかは自明の理であろう。

ハッブル宇宙望遠鏡は、やがて役割を終えて無へと還っていく。けれども、次の「ハッブル宇宙望遠鏡」が、その後を引き継いでいけるような未来であって欲しいと思う。ミサイルや爆撃機、核兵器などはいらない。科学技術は平和と真理の探究にこそ役立てて欲しいものである。

 

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2006年8月14日 (月)

暗黒物質と空間…きままに時空論4

暗黒物質と空間
 
現代天文学と宇宙物理学を悩ませる難問の一つに宇宙の質量という問題があるらしい。物理学の専門家でも天文学の研究者でもないので詳しいことはよく分からないが、今まで考えられていた理論が実際の観測結果と合わないというのである。そこで、その原因として解明されていない「暗黒物質」の研究が進められているという。
 

最近の研究では、質量がないとされていたニュートリノがその候補の一つだとか、まだ発見されていない未知の素粒子だとか、現在の技術では観測できない天体(例えば光を発しないばかりでなく、近くに恒星や星雲などがないために観測網にかからないもの)だとか、様々な議論が噴出し、今も世界各地で暗黒物質捜しが続けられている。
 

とは言っても、それぞれ、この文章を書いている本人にもよく分からないのだから、詳しい説明などできようはずがない。だが、「知らない」というのは気楽なもので、そこから様々な可能性を勝手に想像することができる。ましてや、こちらは物理学や天文学のド素人、その発想を数式や実験、観測などで裏付ける責任や義務はない。好き勝手に想像して、自由にイメージを描けば、それでオシマイ。空想をこころゆくまで楽しめるのである。 で、その空想の中身はと言うと、三次元時空になりきれていない時空の歪みではないか、というのが現在もっとも気に入っているものである。
 

相対性理論の有名な数式の一つに、E=mc2 (エネルギー=質量と光速の二乗の積)というものがある。これを数学的に考えれば、エネルギーを光速の二乗で割れば質量…つまり物質ができるのだから、高いエネルギーは重い質量に還元し得ることになる。
 

その高いエネルギーの存在については、こう考えるのである。「超ひも理論」によればもともと不安定な十三次元であった宇宙が安定の良い現在の三次元時空になる際のエネルギーの放出がビッグ・バン(宇宙創造)の始まりだったと言う。だが、水面が高速で動くと渦を生じるように、ビッグ・バンの直後にすべて均質な三次元時空が生まれたと考えるのではなく、ところどころに、水面の渦のように三次元にまで安定しきれていない多次元時空が残っていて、その中にはまだ解放されていない膨大なエネルギー(つまり質量)が眠っている。それが、なぞの質量、すなわち暗黒物質ではないかという想像である。
 

これは、現在、第二部の草稿を執筆中の長編SFの背景として考えているものだが、面白そうだと思った人は、ぜひ、知り合いの物理学か天文学のプロ(いたらの話だが)に話してみて欲しい。鼻で笑われるかも知れないが、個人的には、けっこう独創的な発想ではないかとうぬぼれているので…。まあ、専門家の正論を聞くまでのささやかな楽しみにすぎないだろうが。

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2006年8月13日 (日)

存在と生命…きままに時空論3

存在と生命…きままに時空論3
 
小説や物語の構想を練る時間は、創世記を思わせる。創作者の「思い」通りにイメージが形成され、主人公やその他の登場人物が固まり、様々な物質が形作られて作品世界が創造されていく。そしてそれは、原稿用紙やワープロに書かれる過程で、創作者自身の中にイメージが固定され、実在の「作品」として定着するようになる。
 

が、もしこの宇宙に創造主がいるとしたら、その実感の中には私たちが物語を創造する際に感じるものと同質のものが存在し得るのではないだろうか。
 

例えば、創作過程でその作品と深いレベルでシンクロした場合は、作品に登場するキャラクターが、当初は予定していなかったような考えを持ったり行動をしたりすることが少なからずある。そして、そうしたキャラクターの考えや行動は、たいてい当初の構想よりも物語を深くかつおもしろくしてくれる。私の場合だけかも知れないが、キャラクターが独自の意識を持つことによって、物語に生命が宿るのである。
 

こうした実感から、一つの物語が生まれた。十三の次元に渡って拡がっていた創造主の意識が三次元に集中することによってビッグ・バンが起こり宇宙が生まれた。当初、創造主はその宇宙の中に自分の分身を送り込み、その分身の下に十二人の使徒をつけて宇宙を統治しようとした。が、意識の奥に眠っていた様々な負の思いが宇宙の様々な時空で「悪」の存在を生み出し、十二使徒を妨害して宇宙に破壊を広げようと画策する。そのうねりの中、果てしない戦乱が続いていく…というのがその物語である。
 

考えてみれば、一人ひとりの人間の心の中には数多くの「善」と「悪」が存在し、それらが交じり合い、反発し合って一人の人間の思いや行動を形成し、一人ひとりの人生を編み上げて行く。その際、ある瞬間の善悪は、長い目で見るとまったく逆転してしまう場合もあり得るし、善悪の判断自体が意味がなくなってしまうことさえある。
 

それを「宇宙」という規模に当てはめるのは、無茶と言うよりも無謀と言った方が正しいかも知れない。しかし、創造主の中の善の部分が存在や生命の創造に携わり、悪の部分が破壊と殺戮に奔走する。その二つのぶつかり合いのうねりの中で元の創造主の「意識」にはなかったものが生まれ、やがては創造主の作った「宇宙」を支え導いていくという物語を創造するのは非常に楽しい。
 

ただ、そこに大きな問題が存在している。それは、作者自身の知識と表現力がそれに追い付けないことである。こうして今日も私は、その「物語」と格闘を続けている。 

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2006年8月12日 (土)

エネルギーという意思…きままに時空論2

エネルギーという意志…きままに時空論2
 
最近、心理学に関係する本を読んでいて目につく表現に、「…に、エネルギーを使う」というものがある。と言っても、物質が動いたり熱を発したりするのではなく、「憎しみ」や「心の中の葛藤」と言ったものが目的語の部分に入るのだが…。
 

この表現は、物理学的には奇妙なニュアンスがあるが、感情的には納得できる。そうした実感からすると、心に強く思う活動にはエネルギーが必要であり、また、それが現実の関係を動かすエネルギーとなる…という前提を無意識的に感じている事になる。
 

この実感を物質に延長すると、物質の「思い」がエネルギーなのではないかという推論を進めることができる。もちろん、物質に人間と同じ心がある訳ではない。しかし、物質にも、人間とは異なる心があると仮定すれば、その「思い」がエネルギーという形で現れていても不思議はないのである。
 

この推論を荒唐無稽と感じる人は多いだろう。けれども、バラモン経典にはブラフマンというあらゆるところに存在する「宇宙の最高原理」が出てくる。聖書でも「光あれ」という「神の意志」がすべてを創造していく。

時空そのものが高次の絶対的存在の意志によって作られ、維持されているのであれば、その「思い」も時空や物質に応じて現れ方が変化していても不思議はない。たとえ、個々の物質や生命のレベルでは、そうした現れ方の違いを認識できなくても…である。
 

このように考えていくと、日常的な現象ばかりでなく、超常現象も説明できるように思われる。試みに、少し例示してみよう。
 

物質の「思い」が時空を歪めて物質を動かすのに加え、人のさらに強固な「意志」が時空を歪めれば物質の「思い」を越えるサイコキネシスとなり、時空をねじ曲げてつなぎあわせてしまえばテレポーテイションとなる…などといった解釈も成立しそうである。
 

幽霊なども、亡くなった人の強い思いが物質を離れて時空に残ってしまった…などと考えられるだろう。そして、すべての「思い」はブラフマンなり神なりの一部分にすぎないので、「個人」の執着から離脱できれば新しい輪廻転生へと向かうということだろうか。 おっと、少しばかり悪ノリしすぎたようである。
 

イメージ的にはこういう形でまとまりつつあるが、このイメージ世界が論理的・客観的に読者を説得し得るかどうかは大いに問題が残っている。もう少し厳密に細かい部分を整理して、矛盾や飛躍のなくなるような形にまとめていきたいものである。もう一人の自分が「無理、無理!」とシニカルに笑っているのが気になるところだが…。                            

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2006年8月11日 (金)

物質というゆがみ…きままに時空論1

物質というゆがみ…きままに時空論1

小説を書きながら、物質や時空について考えた。

 

全ての物質には重力があり、お互い、どれほどの時空を隔てても、またいかに大きさに差があろうとも引き合っている。そして質量が大きくなるほどその力は強いから、人間は自転している地球の上から離れられない。…これが、ニュートンに始まる物理学の見方であり、さらに現代の物理学研究によれば、物質は存在する事により時空そのものを歪めているという。

 

もちろん、時空や原子を構成する素粒子などは、私たちが直接手にとって眺めたり触ったりできる性質のものではないから、「そうなのか」と、教科書や本を読んで自分自身の頭に思い込ませるしかない。ただ、今まで目にした本の印象からすれば、ほとんどすべてが物質の側から書かれていて、「時空」の側からは書かれていないように思える。

 

たとえば、スポンジの上に鉄の球をのせるとしよう。

 

その重さによって当然スポンジは窪む。もっと重い球を乗せるとスポンジはより深く窪む。では重さの違う二つの球を一緒にスポンジの上に転がせばどうなるか。球が近ければ、重い方の球の窪みに軽い方の球は転げ落ちるだろう。

 

万有引力という視点で二つの物質を見た場合、この重さの違う球が二つの物質である。そして、スポンジが時空という事になるわけだが、これをスポンジの歪みという視点から見たらどうだろう。スポンジの窪みが大きければ大きいほど、球は、次々と窪みに集まってくる。もしかして球と感じているのはスポンジの歪みに過ぎないのではないか。…そんな考え方はできないだろうか。

 

つまり、物質というものは時空の歪みそのものであり、歪みが他の歪みと影響しあって動いて行くという動きそのものがエネルギーと考えても良いのではないか。それは、水面を動く波がお互いに影響し合う事で大きくなったり小さくなったりするイメージで見ていくと物質の大きさの違いも説明できるかも…。

 

そんな他愛のないことを、全宇宙を舞台にしたSF小説に取り組みながら考えていた。けれども、費やした時間の割には、まだ第一部しかできておらず、自分なりのイメージの整理も不十分である。表現活動を通して、自分の考えや認識はある程度整理をしていく事ができるが、今の状態では、ほとんど半年前と変わっていない。小説も、時空イメージの整理も、まだまだ先は長そうである。

p.s.ここで述べているSF小説については《まい・ぺん・らい》というブログをのぞいてみてください。http://maipenrai.noblog.net/

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